【道元】曹洞宗総合スレッド【只管打坐】5炷
大智禅師発願文
願くは我れ此の父母所生の身を以て、三宝の
願海に回向し、一動一静法式に違せず、今身
より仏身に至るまで、その中間に於いて生々
世々出生入死仏法を離れず、在々処々広く衆
生を渡して疲厭を生ぜず、或は剣樹刀山上、
或は鑊湯炉炭のうち、唯だ是れ正法眼蔵を以
て重坦と為して、随処に主宰とならん、伏し
て願くは、三宝証明、仏祖護念。 しかあればすなはち、即心是仏とは、発心、修行、菩提、涅槃の諸仏なり。いまだ発心、修行、菩提、涅槃せざるは、即心是仏にあらず。たとひ一刹那に発心修証するも即心是仏なり、たとひ一極微中に発心修証するも即心是仏なり、たとひ無量劫に発心修証するも即心是仏なり。たとひ一念中に発心修証するも即心是仏なり、たとひ半拳裏に発心修証するも即心是仏なり。
しかあるを、長劫に修行作仏するは即心是仏にあらずといふは、即心是仏をいまだ見ざるなり、いまだしらざるなり、いまだ学せざるなり。即心是仏を開演する正師を見ざるなり。
いはゆる諸仏とは、釈迦牟尼仏なり。釈迦牟尼仏、これ即心是仏なり。過去現在未来の諸仏、ともにほとけとなるときは、かならず釈迦牟尼仏となるなり。これ即心是仏なり。
(正法眼蔵 即心是仏) 数多くの仏様方の中でこの世に出現ましました仏様は釈迦牟尼世尊である。私共はこの釈迦牟尼世尊を通して三世十方の仏様を仰ぐのである。
その釈迦牟尼世尊は即心是仏の仏である。心はそのまま仏という意味あいであるが、そっくりそのままというのではなくて 行仏のすがたが現じなくてはならない。無限清浄の行を行じて行く身心を行仏という。
釈迦牟尼世尊は、発心、修行、菩提、涅槃の仏様である。三世十方の仏もこの仏である。 仏様は釈迦牟尼世尊に帰一せらる。
私共が戒法をうけ、発菩提心して仏心に住し菩薩道を行じていくとき、私共が即心是仏そのものである。 正法眼蔵 辨道話
諸仏如来、ともに妙法を単伝して、阿耨菩提を証するに、最上無為の妙術あり。
これただほとけ仏にさづけて、よこしまなることなきは、すなはち自受用三昧、その標準なり。
この三昧に遊化するに、端坐参禅を正門とせり。
この法は、人人の分上に、ゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるには、うることなし。
はなてば、てにみてり、一多のきはならむや。かたれば、くちにみつ、縦横きはまりなし。
諸仏のつねに、このなかに住持たる、各各の方面に知覚を残さず、
群生のとこしなへに、このなかに使用する、各各の知覚に方面あらはれず。
いまおしふる功夫辨道(クフウ ベンドウ)は、証上に万法をあらしめ、出路に一如を行ずるなり。
その超関脱落のとき、この節目にかかはらむや。
諸々の仏たちは、皆共に優れた法を人から人へと相伝して、仏の悟りを証明してきましたが、この悟りを得るのに、最も優れた無為の法があります。
この、ただ仏から仏へと授け伝えて、誤ることのない法とは、自受用三昧(今の自分と一つになること)であり、これがその標準の法なのです。
この三昧に遊ぶには、身を正して坐禅することが、その正しい法とされています。
この自受用三昧の法は、すべての人々自身に豊かに具わっているのですが、それは修行しなければ現われず、証明しなければ得られないのです。
この法は、手放せば手に満ちるのです。その分量は多い少ないの域を越えています。語れば言葉は口に満ちて縦横窮まりありません。
諸仏は常に、この三昧の中にあって、見聞覚知の各方面に知覚を残すことはありません。
また人々が永久にこの三昧の中で使用している各々の知覚には、その方面が現れることはありません。
今ここで教える修行精進は、悟りの法の上に一切の存在を在らしめて、解脱のために一如の自己を行ずることです。
その自他を隔てる関を超えて脱落した時には、今までの教理の細目に頼ることはないのです。 曹洞宗の法話会 布教師目指す若手が披露 体験から学んだ教え伝える
http://www.bukkyo-times.co.jp/ 愛語といふは、衆生をみるにまづ慈愛の心をおこし、顧愛(コアイ)の言語(ゴンゴ)をほどこすなり。おほよそ暴悪の言語なきなり。
世俗には安否をとふ礼儀あり、仏道には珍重(チンチョウ)のことばあり、不審(フシン)の孝行あり。
慈念衆生(ジネン シュジョウ)、猶如赤子(ユウニョ シャクシ)のおもひをたくはへて言語するは愛語なり。
徳あるはほむべし、徳なきはあはれむべし。愛語をこのむよりは、ようやく愛語を増長するなり。
しかあれば、ひごろしられずみえざる愛語も現前(ゲンゼン)するなり。現在の身命の存せらんあひだ、このんで愛語すべし、世世生生にも不退転ならん。
怨敵を降伏(ゴウブク)し、君子を和睦ならしむること、愛語を根本とするなり。
むかひて愛語をきくは、おもてをよろこばしめ、こころをたのしくす。 むかはずして愛語をきくは、肝に銘じ、魂に銘ず。
しるべし、愛語は愛心よりおこる、愛心は慈心を種子(シュウジ)とせり。
愛語よく廻天(カイテン)のちからあることを学すべきなり、ただ能(ノウ)を賞するのみにあらず。
正法眼蔵 菩提薩埵四摂法より 「シマを守れ」
K大学に仏教学部があり僧を輩出する以上,
曹洞宗寺院がなければ始まらない。よって北陸 関東甲信越では寺域である
シマを守るために必死である。田舎の住民も寺域の草刈りなど
大変な思いをしています。これからもお手やらわかに願います。
しかし,只管打坐 禅の大学が何故 箱根駅伝で優勝するのでしょうか?
達磨太子が見たら,只管打坐 手足を落とせというのでしょうか?
不思議な宗派ではあります。 釈迦牟尼仏の、いわく、
無上菩提を演説する師にあわんには、
種姓を観ずることなかれ。
容顔をみることなかれ。
非をきらうことなかれ。
行をかんがうることなかれ。
ただ般若を尊重するがゆえに、
日日に百、千両の金を食せしむべし。
天食をおくりて供養すべし。
天華を散じて供養すべし。
日日、三時に礼拝し恭敬して、さらに患悩の心を生ぜしむることなかれ。
かくのごとくすれば、菩提の道、かならず、ところあり。
われ、発心よりこのかた、かくのごとく修行して、今日は阿耨多羅三藐三菩提をえたるなり。
この旨趣、いま、ひごろ、結界と称する古先、老人、しれりや? いなや?
おもうに、なんだち、結の中に遍法界の結せらるること、しるべからざるなり。
しりぬ。
なんじ、声聞の酒にようて、小界を大界とおもうなり。
ねがわくば、ひごろの迷酔、すみやかに、さめて、諸仏の大界の遍界に違越すべからず。
済度、摂受に一切衆生みな、化をこうむらん功徳を礼拝、恭敬すべし。
だれが、これを得、道髄といわざらん?
正法眼蔵 礼拝得髄より部分抜粋 生死の中に佛あれば、生死なし。
またいはく、生死の中に佛なければ、生死にまどはず。
こころは夾山(かっさん)・定山(じょうさん)といはれし、ふたりの禅師のことばなり。
得道の人のことばなれば、さだめてむなしくまうけじ。
生死をはなれんとおもはむ人、まさにこの旨をあきらむべし。
もし人、生死のほかにほとけをもとむれば、ながえをきたにして越にむかひ、おもてをみなみにして北斗をみんとするがごとし。
いよいよ生死の因をあつめて、さらに解脱のみちをうしなヘり。
ただ生死すなわち涅槃とこころえて、生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし。
このときはじめて、生死をはなるる分あり。
生より死にうつるとこころうるは、これあやまりなり。
生はひとときのくらゐにて、すでにさきありのちあり、かるがゆゑに、仏法のなかには、生すなはち不生といふ。
滅もひとときのくらゐにて、またさきありのちあり、これによりて滅すなはち不滅といふ。
生といふときには、生よりほかにものなく滅といふときは、滅のほかにものなし。かるがゆゑに生きたらば、ただこれ生、滅きたらばこれ滅にむかひてつかふべしといふことなかれ、ねがふことなかれ。
この生死は、すなはち佛の御いのちなり、これをいとひすてんとすれば、すなはち佛の御いのちをうしなはんとするなり。
これにとどまりて、生死に著すれば、これも佛のいのちをうしなふなり。
佛のありさまをとどむるなり。
いとうことなく、したふことなき、このときはじめて、佛のこころにいる。ただし心をもてはかることなかれ、ことばをもていふことなかれ。
ただわが身をも心をも、はなちわすれて、佛のいへになげいれて、佛のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ佛となる。たれの人か、こころにとどこほるべき。
佛となるにいとやすきみちあり。もろもろの悪をつくらず、生死に著するこころなく、一切衆生のために、あはれみふかくして、かみをうやまひ、しもをあはれみ、よろづをいとふこころなく、ねがふこころなくて、心におもふことなく、うれふることなき、これを佛となづく。
またほかにたづぬることなかれ。
正法眼蔵生死 利行(リギョウ)といふは、貴賤の衆生におきて、利益の善巧(ゼンギョウ)をめぐらすなり。たとへば、遠近(オンゴン)の前途をまぼりて、利他の方便をいとなむ。
窮亀(キュウキ)をあはれみ、病雀(ビョウジョク)をやしなふべし。窮亀をみ、病雀をみしとき、かれが報謝をもとめず、ただひとへに利行にもよほさるるなり。
愚人おもはくは、「利他をさきとせば、自(ミズカラ)が利はぶかれぬべし。」と。しかにはあらざるなり。利行は一法なり、あまねく自他を利するなり。
むかしの人、ひとたび沐浴するに、みたびかみをゆひ、ひとたび飡食(サンジキ)するに、みたびはきいだせしは、ひとへに他を利せしこころなり。ひとのくにの民なれば、をしへざらんとにはあらざりき。
しかあれば、怨親(オンシン)ひとしく利すべし、自他おなじく利するなり。
もしこのこころをうれば、草木風水(ソウモク フウスイ)にも利行のおのれづから不退不転なる道理、まさに利行せらるるなり。ひとへに愚をすくはんといとなむなり。
正法眼蔵 菩提薩埵四摂法より 利行とは、身分の上下に関わらず全ての衆生に利益となるよい手だてをめぐらすことです。たとえば、遠近の行く先を見守って、他を利益する方策に励むのです。
むかし功愉(コウユ)が籠の中の亀を哀れんで放してやったことや、楊宝(ヨウホウ)が傷ついた雀を養い助けたという故事に学びなさい。彼等が、その亀や雀を見て助けた時は、その報いや感謝を求めずに、ただひたすら利行の思いにせきたてられたのです。
愚かな人の思うには、「他の利益を優先すれば、自分の利益が除かれてしまう。」と。そうではありません。利行は仏法の一つであり、広く自他を利益するものなのです。
昔、周公という人は、来客があれば、一度の入浴に三度でも髪を結い直して迎え、一度の食事に三度でも吐き出して応対したといわれるのは、ひたすら他を利益しようという心からでした。来客が他所の国の人であれば何も教えてはやらない、というのではないのです。
ですから、憎い人でも親しい人でも区別せずに、等しく利益しなさい。そうすれば自他同じく利益があるのです。
もしこの平等の心を得れば、草木や風水がごく自然に、人々に無差別平等に利益を与えるといった利行の営みをしっかりと行っていることが理解できます。まさに我々が草木や風水から利行されているのです。利行とは、つまるところ、自分の愚かさを救う自利の営みに他なりません。 宗門の正伝にいはく、
「この単伝正直の仏法は、最上のなかに最上なり。参見知識のはじめより、さらに焼香、礼拝、念仏、修懺、看経をもちゐず、ただし打坐して身心脱落することをえよ。」
もし人、一時なりといふとも、三業(サンゴウ)に仏印(ブッチン)を標し、三昧に端坐するとき、遍法界(ヘンホッカイ)みな仏印となり、尽虚空(ジンコクウ)ことごとくさとりとなる。
ゆゑに、諸仏如来をしては本地(ホンジ)の法楽をまし、覚道(カクドウ)の荘厳(ショウゴン)をあらたにす。
および十方法界、三途(サンズ)六道の群類、みなともに一時に身心明浄(シンジン ミョウジョウ)にして、大解脱地(ダイゲダッチ)を証し、本来面目現ずるとき、諸法みな正覚(ショウガク)を証会(ショウエ)し、万物ともに仏身を使用して、すみやかに証会の辺際(ヘンザイ)を一超して、覚樹王(カクジュオウ)に端坐して、一時に無等等の大法輪を転じ、究竟無為の深般若(ジンハンニャ)を開演す。
これらの等正覚、さらにかへりて したしく あひ冥資(ミョウシ)するみちかよふがゆえに、この坐禅人、確爾(カクジ)として身心脱落し、従来雑穢(ジュウライ ゾウエ)の知見思量を截断(セツダン)して、天真の仏法に証会(ショウエ)し、あまねく微塵際(ミジンサイ)そこばくの諸仏如来の道場ごとに仏事を助発(ジョホツ)し、ひろく仏向上(ブッコウジョウ)の機にかうぶらしめて、よく仏向上の法を激揚(ゲキヨウ)す。
このとき、十方法界の土地、草木、牆壁(ショウヘキ)、瓦礫(ガリャク)、みな仏事をなすをもて、そのおこすところの風水の利益にあづかるともがら、みな甚妙不可思議の仏化(ブッケ)に冥資(ミョウシ)せられて、ちかきさとりをあらはす。
この水火を受用するたぐひ、みな本証の仏化を周旋するゆえに、これらの たぐひと共住(グジュウ)して同語するもの、また ことごとく あいたがひに無窮の仏徳そなはり、展転広作(テンデン コウサ)して、無尽、無間断、不可思議、不可称量(フカショウリョウ)の仏法を、遍法界の内外(ナイゲ)に流通(ルヅウ)するものなり。
しかあれども、このもろもろの当人の知覚に昏(コン)ぜざらしむることは、静中(ジョウチュウ)の無造作にして直証(ジキショウ)なるをもてなり。
正法眼蔵 辨道話より 宗門の正伝の教えでは、
「祖師がひとすじに相伝した正直な仏法は、最上の中の最上である。善知識(優れた師)に参じた最初から、さらに焼香、礼拝、念仏、懺悔、読経などを用いず、ただひたすらに坐禅して身心脱落すべきである。」と言っている。
もし人が、ひと時であっても三業(身、口、意の行い)に仏の悟りの法を示して、坐禅三昧にある時には、全法界が皆仏の悟りとなり、あらゆる空間は悉く悟りで満たされるのである。
そのため、諸仏は仏としての法楽を増して、悟りの世界が新たに荘厳されるのである。
そして、三途(地獄 餓鬼 畜生)と六道(地獄 餓鬼 畜生 修羅 人間 天上)のすべての世界の人々は、皆共に同時に身心が浄められて健康になり、大解脱の境地を証明する。本来の面目が現れる時には、あらゆるものが皆 仏の悟りを証明し、万物は共に仏身を働かせ、すみやかに悟りのほとりを飛び越えて釈尊が成道した菩提樹下に坐すのである。それと同時に無上の大法を説いて、究極無為の深い般若の智慧を演説するのである。
この時、あらゆる世界の土地、草木、土塀、瓦礫も、 皆仏法を説き始めるので、それらの起こす風水の利益を受ける人々は、皆、甚だ優れた不思議な仏の化導に密かに助けられて、親しい悟りを現わす。
そして、この水火を受け用いる人々は、皆、本来悟りの中にあるという仏の教化を行き渡らせるため、これらの人々と共に住み共に語る者には、皆互いに無窮の仏徳がそなわって、次々に広くはたらきを及ぼして、尽きることもない、絶えることもない、考えることも計ることもできない仏法を、あらゆる法界の内外に広めて行くのである。
しかし、この悟りが坐禅人の知覚に入ってこないのは、坐禅中の自然な働きであり、それがそのまま悟りだからである。 願は、我と一切衆生とともに今生より乃至生生をつくして正法をきくことあらん。
聞ことあらんとき、正法をぎじゃくせじ、ふしんなるべからず。
まさに正法にあわんとき、世法をすてて仏法受持せん。
遂に大地の有情と共に成道する事を得ん。
願は、我過去の悪業おほくかさなりて、障道の因縁ありとゐへども、仏道によりて得道せり。
諸仏諸祖、われをあはれみて、業累をげだつせしめ、学道さはりなからしめ、そのくどく法門、普くむじん法界に充満弥綸せざらん、あわれみをわれにぶんぷすべし。
仏祖の往昔は我等なり、我等が当来は仏祖ならん。
仏祖をごうくわんすれば一仏祖なり、発心を観想するにも一発心なるべし。
あはれみを七通八達せんに、得べんぎなり、落べんぎなり。
宝治元年丁未孟冬(1247年10月) 比丘道玄 鎌倉におゐて テラクルで曹洞宗の葬儀を頼んだ場合、複数の坊さんがきて楽器演奏するのはありえるんですか?