【御同朋】浄土真宗(真宗)総合サロン110
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浄土真宗(真宗)系の全宗派の話題を包括して取り上げる総合スレの第110弾です。
「どうして浄土真宗では○○をしてはいけないの?」という素朴な疑問から
批判・要望、各宗派を取り巻く諸問題、教義・教説、堂宇・荘厳、
全国各地の真宗寺院・念仏道場・説教所に至るまで、ありとあらゆる話題を取り扱います。
阿弥陀如来から見ればみな罪悪生死の凡夫。楽しく語らいましょう。
浄土真宗各派の情報交換の場としてもご活用ください。
大阪和歌山からdion,bbtecで「効き目ある」と書き込む高野山真言宗信者(通称キチガイ語尾w)は荒らしなので御用心。
真宗大谷派・東本願寺系諸派総合スレッド Part56
matsuri.5ch.net/test/read.cgi/kyoto/1596777323/
前スレ
【御同朋】浄土真宗(真宗)総合サロン107
kizuna.5ch.net/test/read.cgi/kyoto/1641332231/
【御同朋】浄土真宗(真宗)総合サロン108
kizuna.5ch.net/test/read.cgi/kyoto/1648019642/ そもそも阿弥陀仏を信じる事や念仏を称える行為は自力じゃない理論が分からん
絶対他力なら念仏も不要じゃないの? >悟りに向かわない修行が仏教の行なわけ無いだろ。
この辺がポイントなんだろうな
自身の心を慰めるための、悟りに向かわない修行を「雑行、雑修、自力」つまりはためにするわろき心と呼んだんだ、ってことがちゃんと読んでれば分かるはず
結果論だからそれが自己を省察する方向に向かう原因となる方へ向かう縁となれば、無駄では無かったねということになる > でもその仏教的な一行目の話と、浄土真宗的な死んで浄土往生の話ってなんの関係もないやん?
死んで浄土往生?善導流なら前念命終、後念即生だし親鸞なら即得往生、住不退転だろ
なんか全然違う別の宗教の話をイメージで語ってない? >>901
浄土真宗の大好きな七祖と親鸞聖人の生涯には自力心の芽生えなんて微塵もなかったのだろうか。 >>902
浄土真宗は「死んで浄土往生」じゃなかったの? >>900
親鸞聖人は追善供養のための念仏は一度たりとも称えたことはなかったが
もしかしたら自力往生のための念仏は何度も称えたことがあるかもよ? >>901 無駄では無かったねということになる
因果論がそういうことだよね。
果に至った者だけが因を語れる、という話。
果に至ってもない状態で因を修めようとしたり語ろうとしても、迷いの状態にしか過ぎない、ってやつ。
こんな理解でいいのかな? > 因果論がそういうことだよね。
> 果に至った者だけが因を語れる、という話。
> 果に至ってもない状態で因を修めようとしたり語ろうとしても、迷いの状態にしか過ぎない、ってやつ。
> こんな理解でいいのかな?
いや、あのね?
釈尊は縁起説だから
仏、自覚への視点が無ければ迷いの状態にしか過ぎない、ってやつだよ
因果説はバラモン教やヒンズー教でしょ
根本の所であんた勘違いしてるよ お経の下の翻訳までも覚えてる方いますか?
正信念仏偈や讃仏偈などで 浄土真宗の僧侶とか門徒は基本的に阿弥陀仏の救いを信じてるんだよね?
その信じると言う行為は自力じゃないの?
信じてなくても救われる理論ならば絶対他力だと思う 救いを信じてなんか無いよー
自力では信じることも救われることも出来ないことを
懺悔するよー
そんな自分を救うと誓ってくださったのが阿弥陀さまだよー
私はただ南無阿弥陀仏と唱えるだけだよー 阿弥陀仏が救うと誓って下さったのに
その救いを信じてないのですか?
信じてないのに「南無阿弥陀仏」と称えるのは何故ですか? 私には称えるもとなどないよー
阿弥陀様が称えさせてくださります 阿弥陀仏の救いを信じていない貴方の思考が何故「阿弥陀様が称えさせてくださります」になるのか謎ですね
貴方は阿弥陀仏を信じているのではありませんか? 親鸞の悪人正機説 医師と病人
親鸞は、悪人こそが阿弥陀仏による救済の対象だと言った。親鸞曰く、善人は自力で極楽往生できるから阿弥陀仏による救済を必要としていない。本来ならば地獄に堕ちてしまう悪人こそが、阿弥陀仏の慈悲に縋らなければならない。病人こそが医師による救済の対象であるように、悪人こそが阿弥陀仏による救済の対象である。と。 なるほどでは阿弥陀仏を信じる善人や念仏を称える善人は自力ですね
阿弥陀仏を否定し念仏さえ称えない悪人は阿弥陀仏により救済されるのですね
要するに浄土真宗を信仰しない人間こそ救われる対象と言う事ですね それはおっしゃるとおり謎で
もう不可称不可説不可思議の
力というほかないよー そうだよ、人間の意識と無関係に音声が出てくるんだよ。 人間の意識と無関係なのに
毎回毎回「なむあみだぶつ」と
決まった音声で出てくると言い張るのか
都合の良い話だよな
そこまでして他力に拘るのって
もはや自力以上の苦行に見えるわ >>919
とりあえず>>913「阿弥陀様が称えさせてくださります」らしいよ。 ウンコは出すモノでは無い
出さしめられるモノ、これぞ他力 つまり「仏様に出会ってないものはウンコが出ない」、と。 >>924
↑
これは称えていないんだけど、書いているからアウトなの?
それとも「阿弥陀様が書かせている」からセーフなの?
音声となって飛び出てきていないんだけど、個人の意識とは無関係に手を動かせているの? 自力で書いたか他力で書いたかは書いた本人にしかわからない やり取り見てると阿弥陀仏のはからいなど一切無く一つ一つの事象を自力と見るか他力と見るかは人間側の勝手な判断によるだけなのでは?
そもそも修行完全否定なら何故門徒に布施行させるのか
すべてが僧侶の意思では無く阿弥陀仏からのはからいならば無料でやれば良い
それはバカらしくて出来ませんか? > 信じると言う行為は自力じゃないの?
> 信じてなくても救われる理論ならば絶対他力だと思う
四諦八正道の四諦や諸行無常、諸法無我なんかの法、仏法を「信じる」という場合のことを考えてみるといい
自分の認識と実際のものは常にズレていくものだけど、その法、仏法を感じるということがあったとすれば、実際、実相からの違和感、フィードバックがあったからであって、実相との相依相待があって初めて気付けるのが実際の方の世界なわけじゃん、自力だけじゃ気付くという機能自体起こらない
諸行無常なら分かる、でも諸法無我なんて信じにくいしなんか神様的なのにいて欲しい、阿弥陀ということは仏縁無量やん、でも信じにくい、っていうのが釈尊の法、仏法と自力というもののだいたいの関係性でしょ
信じてても信じてなくても諸行無常やらは変わらないし、信じてなくても仏縁無量の世界にいることは変わらない、変わるのは実相のものへの視点、姿勢や態度なんだよ
それも各々 >>926
そういう意味じゃなくて、「称える」以外にも「書く」という行為を認めるかどうか、ということ。 >>928
その理論なら信じてなくても念仏称えなくても救われるし往生浄土出来ます、で良くないか? 全てが人間側の意思では無く阿弥陀仏側からアプローチなら
何故阿弥陀仏を信仰する人間と阿弥陀仏を信仰しない人間に分かれるのか説明して下さい
阿弥陀仏に全ての者を救う誓いが有り、全ての事象が阿弥陀仏からのはからいだとするならば
すべての人間が阿弥陀仏を信仰してないとおかしくないですか? 「すべてのものを救う」という誓いは、あくまで「可能性」を説いたものであり、
必ず起こりうる現象を説いたものではないんだろう。 >>928
>阿弥陀ということは仏縁無量やん
さっぱり訳わかりません
仏縁無量の説明お願いします
>信じてなくても仏縁無量の世界にいることは変わらない
信仰とは関係無く諸行無常の方は何となく理解出来る
信仰しなくても仏縁無量の世界にいるの部分は理解不能ですね もうね、「仏縁無量」って言いたいだけだよね。
とりあえず、阿弥陀如来を褒めておけばいいだろ?みたいな。 蓮如さんとかでも念仏は「南無阿弥陀仏の相、すがたを心得る」のが肝要なことだと言ってる
>信仰とは関係無く諸行無常の方は何となく理解出来る
理解があって助かる
仏縁無量、というのが分かりにくいならこれから頂く仏縁の数は無量、無数、那由多である、と言い換えてみればよし
仏縁てのは自分の生きる姿勢や態度、スタンスを新しくさせてくれるご縁ってことですよ 人生における様々なご縁を何故わざわざ「仏縁」と表現するのですか?
ただの「縁」で良くないですか?
何故阿弥陀仏に結び付けたがるのか謎です >>938
ここは中外関係なくワンワン吠えるのが伝統だからな 領解文を本心から唱えてる坊さん、いるんか?
暗記してただ声に出してるだけだと思うんやけど。
教えてえれぇひと できるだけ早く誤り認めて事態の収拾を図ったほうがいいんじゃないかな?
立教開宗800年にとんでもないミソをつけたもんだ あと勧学寮全員辞任な、君津の寺に逃げた元寮頭は謝罪しろ 「我々は凡夫でした」の一言で終わる問題を先延ばしにするようなら
浄土真宗を名乗る資格無し 凡夫だったと落胆するほど修行に打ち込んできたわけでもなかろう 雑行雑修なんかやったこともない坊主ばかりのくせに、雑行雑修を振り捨てるとか意味不明。
常日頃の説教で頭ごなしに否定してばかりの自力心も、微塵も生じたこともないんだろう。
「仏法は鏡だ」とかいいながら本当に我が身に照らして考えてるのか?
今後は「一心に阿弥陀如来〜」から唱え始めろ。 >>945
心から同意する。
いわゆる「修行」を一度でもいいから経験するべき。
その上で、「我々には困難である」といった表現をするほうが説得力が出る。 >>946
おうおうw
自衛隊、、ですらなくブラック企業かなにかそこらへんの、体験学習を2, 3日学習してきた人たちが、適当にほざいたような内容やんけw
ようも「心から」同意したもんだw > 人生における様々なご縁を何故わざわざ「仏縁」と表現するのですか?
> ただの「縁」で良くないですか?
意味が全く変わるじゃん?
縁に対し自覚的な姿勢があるかどうかを問い示す言葉になるんよ
つーか、仏だって阿弥陀だってただの言葉だよ、ただの意味のある単語だよ
善導さんは帰命無量寿覚と言ってたそうだし 真宗僧侶「雑行雑修をしなかったんじゃないんです!
阿弥陀様のご縁によって最初からする必要がなかったんです!」
とか言いそうw >>948
仏縁の仏がただの言葉なら「縁」で良いだろう
>仏縁てのは自分の生きる姿勢や態度、スタンスを新しくさせてくれるご縁ってこと
何故「仏」と結び付けたがるのか謎
これの説明をして下さい
自分の姿勢や態度やスタンスに影響を与えるご縁が何故「仏縁」と表現するのか
しかも>>928に「信じていなくとも」と書いてあるし
信じてないのに阿弥陀仏を結び付ける所が矛盾しか無い >>950
まぁ、仏教にはそう言う考え方もあると軽く捉えたら良いと思います
(信じてなくても)の部分は私にも理解できませんでしたが
>>948
生きていれば姿勢・態度・スタンスや物の考え方が変わる出来事や出会いはあると思います
それを敢えて仏縁と言ってるのだと思いますが悪い方へ影響する出来事や出会いも多々あると思います
それも仏縁と言いますか? >>940
領解文なんてもう形骸化しているし新旧ともに欠陥が指摘されているから
このまま存在自体がフェードアウトするほうがいいと思うわ。 領解文の話は確かになんか今回反応が鈍いね、東もそれ以上に反応が鈍い組織なんだけんども
> 仏縁の仏がただの言葉なら「縁」で良いだろ
言葉だからせめて大切に使おうやって話だよ
「水泳」の「泳」はただの言葉だから「水」でいい、くらいの乱暴さだよそれは
> 自分の姿勢や態度やスタンスに影響を与えるご縁が何故「仏縁」と表現するのか
>悪い方へ影響する出来事や出会いも多々あると思います
> それも仏縁と言いますか?
いつものことだけど、時系列をごっちゃにすんなし
縁自体は良縁もあれば順縁逆縁もある、縁起そのものは元々無我にあるものでしょ、良い縁であれ悪い縁であれ信じる信じないとかいう知覚以前に現在するものなんだから
その、任運に法爾にこの境遇に落在せるその縁が良いものであろうが悪いものであろうが、自身を自覚に向かわせるものであればそれは目覚めの縁、でしょ?そして自覚、目覚めという意味の単語がBUDDHA、仏なんだからそれを仏縁と呼ぶわけで
これは純粋に国語の問題
質問の建て方自体が間違ってるんだってば
自身の現状を認識できてるかどうか、ということがあって、そういう自覚問題から結果的に常に逃げ回ってるのが凡夫、我らなわけじゃん?これは出家在家関係ない。まあ自分は逃げてない、って人もいるんだろうけど
縁と仏縁ってのはそれだけ意味内容の違う言葉なんよ >>954
いや仏教ではそう考えると言うなら問題無しなのですよ
信仰とは関係無く「信じてなくても」と表現してる所が謎過ぎる
貴方は仏そのものを信じてなくても「仏縁」だと言い張っているんですよ?
>「水泳」の「泳」はただの言葉だから「水」でいい、くらいの乱暴さだよそれは
これは流石に無茶苦茶な返答だと思いますよ >>835
親鸞本人が言ってるじゃん
本師源空現れて浄土真宗ひらきつつって > いや仏教ではそう考えると言うなら問題無しなのですよ
> 信仰とは関係無く「信じてなくても」と表現してる所が謎過ぎる
> 貴方は仏そのものを信じてなくても「仏縁」だと言い張っているんですよ?
いや、この宗教だからこう、という話でなくてね
例えば「縁」という言葉と「縁に対し姿勢をあらためる」という言葉をごっちゃ混ぜこぜにして会話してたらそっちも混乱するっしょ?
そんでまた「仏」という言葉も「目覚める」「自覚する」という意味の単語なんですってば、信じる信じないもないそういう言葉です、宗教関係ない
> >「水泳」の「泳」はただの言葉だから「水」でいい、くらいの乱暴さだよそれは
> これは流石に無茶苦茶な返答だと思いますよ
申し訳ないが、そちらの仰ってることがそれくらい混乱してる無茶苦茶なことなんだって話っすよ
縁って言葉に対し、仏、覚ってのは人がいないと成り立たない言葉ですやん 【仏縁】
・仏との縁
・仏のお導き
何かをキッカケに考え方が改まったり
誰かとの出会いで道が開けたり
ある出来事を境に心を入れ替えたりする事は誰にでもあり得ること
それを一般的には仏縁とは言わない > 【仏縁】
> ・(目を覚まし、自覚すること)との縁
> ・(目を覚まし、自覚すること)へのお導き
>
> 何かをキッカケに考え方が改まったり
> 誰かとの出会いで道が開けたり
> ある出来事を境に心を入れ替えたりする事は誰にでもあり得ること
>
> それを(目を覚まし、自覚すること、について)の縁と(言う?言わない?)
代入してみたっすよ。声に出して読んでみるのデス
仏、という言葉の意味をちゃんと確認しようとせず一般的な解釈に限定して読もう読もうとする理由がようわからんのですが
「悟り(覚り)とは自覚、覚他である」とか聞いたことないっすか?「慚愧」とか
仏を得る、悟りを得る、覚悟するとかいうことの意味内容を抑えとかないと。一般的な解釈で読んだら一般的な解釈しかできないのは当たり前じゃないっすか 仏縁は様々な出会いと関わりから気付きを得てさらに悟りに至り、真の人間の生き方を始めた時に仏縁となるのでは
縁はなんでも誰でも縁とと信じれば縁だけども、縁を活かせる活かせないは人それぞれで活かせた人には仏縁と思える
活かすとは気付きと悟りから高い境地に進むことと考えてるけどどうかな
仏教は詳しくは知らんけど 言葉を一般的な意味で解釈することについて。
例えば「妙」っていう言葉があるっすね
妙有、妙法、妙覚、
阿弥陀経には微妙音ってのがある。かすかな風が織り成す自然法爾の葉擦れ、鳥たちの声の微妙な音は、まるで百、千種類の楽が同時に倶に作されているが如しである、みたいなやつ
妙、てのは人間の想像できない、想像と外れた、という意味
微かなたえなる音、が「微妙音」、仏のたえなる法だから「妙法」、思いを超えて素晴らしい料理が「微妙(みみょう)な料理」
仏智を前提とすると「思いを超えて素晴らしい」という意味になる
人間が前提となると、思いを外れた、想像できない、という言葉の意味合いが変わる
「妙だな…」というのが異変を感じた時の言葉になる
「微妙な料理ですね」と言ったらまあマイナスの意味で想像通りでないものですね、って言ってることになるわね
一般的な言葉の意味だけを頼りにしてると、特に仏智に関わる言葉とかの解釈はわけのわからん中身になってしまう可能性があるんでないですか > 仏縁は様々な出会いと関わりから気付きを得てさらに悟りに至り、真の人間の生き方を始めた時に仏縁となるのでは
> 縁はなんでも誰でも縁とと信じれば縁だけども、縁を活かせる活かせないは人それぞれで活かせた人には仏縁と思える
> 活かすとは気付きと悟りから高い境地に進むことと考えてるけどどうかな
素晴らしいことだと思います、そして高尚にお上品に考える必要は無いと思うっすよ
家族やら周囲の人やモノ、また自身への姿勢に違いが出ればそれが凄い事だと思うんです
縁なんか活かせないのが普通ですから >>959
>一般的な解釈で読んだら一般的な解釈しかできないのは当たり前じゃないっすか
今さら何を言ってるのですか?
「信仰関係無く」とか「信じていなくても」と書いたのは貴方の方でしょう
「信仰関係無く、信じてなくても」=一般的な考えだと思いますが違いますか
だから「仏教でそう考えるなら問題無し」と書いてます > 「信仰関係無く」とか「信じていなくても」と書いたのは貴方の方でしょう
> 「信仰関係無く、信じてなくても」=一般的な考えだと思いますが違いますか
いや、なぜそこで混ぜる
信仰関係ない、言葉としての元々の意味 例「妙(たえ)なる」
と
一般的な該当言語の意味 例「妙(妙)だな…」
が乖離してるね、全く別の意味になってるね、という話をしたつもりなんだけど
なんで混ぜたの?
> だから「仏教でそう考えるなら問題無し」と書いてます
宗派によって意味内容が変わるような話をしてるんじゃねえんだよ? >>927
確かに自力だ他力だと大騒ぎしてるのはいつも人間側で阿弥陀仏にしてみたらどうでも良い些細な事かもしれませんね。
特に>>913みたいな捻じ曲がった他力論を見ると親鸞様も苦笑いしてる気がします。 仏縁の仏という文字に仏教そんなに熱心でなく世間並みな自分には特殊な意味はないなあ
ただ、ご縁で助かったとか出会いが後の人生を決めたとか、そういう前向きなものには感謝の意味を乗せて思い返せば仏縁、要するに不思議な縁くらいの使い方してますね
もしも神仏が全ての出会いを操作するか意図的に介入してるとかが事実なら全ての縁は、仏縁と改めて言わずとも尊く、なんとか活かせねばならないものだなあと
親子の縁とかね、最近のニュースはこれヤバイのが多いように見えるし
縁を活かせた人は強運の人でしょうかね 現実を見ると、浄土真宗関係者でない人間のほうが圧倒的に多くて、
彼らにとって阿弥陀如来の仏縁なんてあるのだろうかと思いますよね。 阿弥陀様は当然ながら、お釈迦様をはじめとする諸仏から善悪凡夫人に至るまで、誰にでも報恩謝徳が出来る真摯なお心の持ち主であれば、仏教各宗派や浄土真宗の東西を問わず、真の浄土門信徒であるのではなかろうか。そして、それは即ち悟りの境地であり、現世でそこに至られたのはお釈迦様ただ1人であるとされている。法然様も親鸞様もそれにお気づき遊ばれ、万人への報恩謝得を体現されるも、現世においては拭いきれない煩悩の吐露をもってして他力信心の教えを推められたわけだ(菩薩が凡夫救済に下階に降りなする様と同じく)。
そこ(誰の教えに重きを置くか)に生じる各仏教宗派のジレンマが宗派や教義の分裂・軋轢に繋がっている。
そう考えると、親鸞様が和を強調する聖徳太子を崇拝されたことは非常に頷ける。 正信偈を初めて学ぶのにおすすめの本はありますかー? >>968
浄土真宗って悟りを得た人間は釈迦のみって立場なん?
お釈迦さまを特別視するのは理解出来るけど
それってある意味お釈迦さまを貶んでないか?
「お釈迦さまがお説きになられた教えでは誰一人悟れません」って言ってるのと同義だ >>972
現世における「仏」は釈尊のみでしょう。
釈迦牟尼仏の次に娑婆世界に現れる未来仏として弥勒仏(兜率天で修行中の彌勒菩薩)があります。
阿羅漢など「悟りを得た」に対する捉え方は様々ありますが、浄土教では凡夫がその位に到達することは
非常に困難であると考えます。
また浄土教の篤信者を「妙好人」と称することがありますが、これを「悟りを得た」とするのは違うような。
>>972さんの考えられるところの「悟りを得た」とはどのような人のことでしょうか? 宗派によって弥勒観にもいろいろあってこんなのも参考になるかと
親鸞の弥勒観とその背景
川元 惠史(著)
印度學佛教學研究 61 (2), 620-623, 2013
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/61/2/61_KJ00008610161/_article/-char/ja/ >>973
>>>972さんの考えられるところの「悟りを得た」とはどのような人のことでしょうか?
逆に貴方の「悟りを得た」とは
どのような人の事ですか?
56億7000万年の期間に誰一人悟れないなら
それは100%誰も悟れませんと言っているようなものですね >>976
私にとって「悟りを得た」人とは娑婆世界における釈迦牟尼仏や
西方極楽世界における阿弥陀仏を指します。そういう信仰ですから。
それでは再度問います。
>>976さんにとって「悟りを得た」とはどのような人のことでしょうか? パーリ仏教、大乗仏教のどちらにおいても「仏に会うこと」が、
成仏を志す、つまり菩薩となることの必須条件となる。
釈尊滅後の「無仏の世」において、一世界一仏の大原則がある以上、
パーリ仏教の考え方では弥勒仏の出世まで仏に出会うことが出来ない。
これに対して衆生が菩薩となることを理想とする大乗仏教では、
現在十方世界に諸仏が存在することを説き、
今からでも仏に出会うことができること、そして菩薩となることを説く。
浄土教も「仏に会うこと」を前提とし、菩薩となった上で仏となるする教えなんだなと
以下の論文を読んで、念仏の教えに出会えたことに改めてありがたく思った。
菩薩になる条件と祈願 - 南伝と北伝の比較
勝本 華蓮(著) 日本仏教学会年報 (70), 97-109, 2004
https://nbra.jp/publications/70/ >>977
釈迦と弥陀ですみたいな回答では無く
どう言う状態の人間を「悟りを得た人」と呼ぶか具体的に教えてくれませんか? >>978
>パーリ仏教、大乗仏教のどちらにおいても「仏に会うこと」が、 成仏を志す、つまり菩薩となることの必須条件となる。
その「成仏を志す」とはどの様な状態になる事を志すのですか? 「私は親鸞様に聞いてきた」かのような言い方しているけど、大丈夫なんですか? >>968 親鸞様が和を強調する聖徳太子を崇拝されたことは非常に頷ける。
【衝撃】聖徳太子に隠された謎に迫る│茂木誠
https://www.youtube.com/watch?v=TKYpKFxLzek 瞑想している人の脳波を調べるなど自然科学的アプローチをしている人もいるが、
自分は特にそういうのには興味がないな。
歴史上の人物としての釈迦についての研究もあるけど、そういうのと自らの信仰を
混同することもないな。
信仰で扱われる領域と科学で扱われる領域とは異なり、それらを混同すべきではない
と論じたのはヨハネ・パウロ2世だったか。自分もそう思う。
日本に生きる上では義務教育段階、遅くても十代のうちにそれらに折り合いがつけるべきだ
と思うのだけれど、年寄りになっても厨二病的議論から離れられない人もいるからな。 >>981
自身の信仰している仏教の視点からすると、「悟りを得た」状態とは、あらゆる迷い、煩悩を離れ、
煩悩より生じるあらゆる苦しみから自由となった状態であり、それを「仏」と呼びます。
>>982
「成仏を志す」つまり菩薩となることは「仏となることを目指す状態」を指し、
菩薩となる条件は北伝、南伝双方の仏典に説かれています。
詳しくは>>978のリンク先の勝本氏の論文を参照してください。
ここは学問板ではなく神社仏閣板であるので、あくまでも私は信仰上の視点で話を進めています。
>>978で示した勝本氏の論文にしても私は仏典に説かれていることを知るために援用しています。
それでは今一度問いましょう。
>>981さんにとって、どう言う状態の人間を「悟りを得た人」と呼ぶか具体的に教えてくれませんか? >>987
>あらゆる迷い、煩悩を離れ、 煩悩より生じるあらゆる苦しみから自由となった状態
私が思う「悟りを得た人」も貴方と大体同じですよ
一切の煩悩(ぼんのう)を断ち生死を離れた仏教修行の最高段階またそこに達した人 >>987
論文読みましたが「一世界一仏の大原則があるから釈迦滅後から弥勒仏の出世まで仏がいない」って部分は理解不能でした
一世界一仏の訳分からんルールがあるなら釈迦のみが仏で弥勒は仏じゃないと思います
また釈迦と弥勒の時期がズレてるから弥勒も仏でOKと言うなら56億7000万の間に別の仏が居てもOKとなります
しかも「智度論」には現在十万仏が存在すると言う部分も書いてましたよ
浄土真宗的にはお寺の阿弥陀仏は仏じゃないのですか?ただの木や金属で仏を模した物体ってだけですか? >>988
それならば仏教における一世界一仏という考え方、過去七仏と
未来仏である弥勒に対する信仰があることをご理解出来ると思いますが、
いかがでしょうか?
さらには>>972にある
>それってある意味お釈迦さまを貶んでないか?
>「お釈迦さまがお説きになられた教えでは誰一人悟れません」って言ってるのと同義だ
という問いかけに対する>>973以下の回答についてもご理解いただけると思うのですが、
いかがでしょうか? >>989
娑婆世界における弥勒仏の誕生までの「無仏の世」という考え方のみを説くパーリ仏教に対して、
大乗仏教には現世における十方世界多仏出世という考え方があります。
十方世界多仏出世を説く大乗仏教でにおいても、娑婆世界では未来仏である弥勒仏誕生までは
「無仏の世」になります。
だからこそ浄土教においては「無仏の世」である末法を踏まえた上での往生浄土を説きます。
仏教の入門書でもそれくらいまで突っ込んだ内容を論じているものもあると思いますが、
仏教関係の入門書を読まれたことはありますか? 本を読んだだけの頭でっかちな人達の仏論より座ってる人にでも聞いた方がマシだと思うがね >>990
「悟りを得た人」の定義は>>988の回答で問題ありませんでしたか?
一切の煩悩(ぼんのう)を断ち生死を離れた仏教修行の最高段階またそこに達した人
この回答は一般的な阿羅漢の説明文ですよ >>993
釈尊を表す言葉の一つに“arahant,arhat”があります。
また初期仏教経典中でも古層に属する韻文経典に、仏弟子のことを
「ブッダ(釈尊)に従って覚った者(buddhaanubuddha)」と見出すことも出来ます。
しかしながら教団の組織化に従い、「仏(buddha)」は基本的に「釈尊」を限定した呼称となり、
舎利弗や目連といった高弟でさえも「ブッダ(buddha)」と呼ばれることはなくなります。
私が「悟りを得た人」という意味で用いている「仏」は、釈尊と大乗仏教における十方世界多仏を
指します。
>>993さんは釈尊などを意味する「仏」と弟子などにも用いられる「阿羅漢(arahant,arahat)」とを
区別して論じておられますか? 同じものとして論じておられますか? 一国一釈迦とか、真宗のお坊さんはそんな事考えながら仏教やっったの、へーすごいねー。
今度近所の真宗僧侶に聞いてみよう。 失礼、「一国一釈迦」じゃなかった、>>995のレスは無しで。 親鸞と同じ時代を生きた法相宗の貞慶や華厳宗の高弁も弥勒信仰を持っていたし、
空海の御遺告の一節に
「吾れ閉眼の後、兜率天に往生し弥勒慈尊の御前に侍すべし。
56億余の後、必ず慈尊と御共に下生し、吾が先跡を問うべ」
とあるように、念仏往生を説く専修念仏の教え以外にも「無仏の世」を意識した信仰が
日本において広まっていたことは明らか。そんなに難しいことかな。 >>994
貴方が定義した「あらゆる迷い、煩悩を離れ、
煩悩より生じるあらゆる苦しみから自由となった状態」が仏ならば
仏=阿羅漢でしょうね 「悟りを得た人」=「あらゆる迷い、煩悩を離れ、
煩悩より生じるあらゆる苦しみから自由となった状態」=「一切の煩悩を断ち生死を離れた仏教修行の最高段階またそこに達した人 」=「阿羅漢」=「仏」となりますね
私はこの様に思いますし
貴方自身も「あらゆる迷い、煩悩を離れ、 煩悩より生じるあらゆる苦しみから自由となった状態」が「悟りを得た状態」だと定義してますね >>997
きみ、いつもググってはコピペばかりしてるね。 レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。