【財宝神】 毘沙門天・多聞天 【北】
>>102
馬に乗り剣を持ったクベーラの絵がひとつだけありますね。
毘沙門天につながりそうなのはそれだけだと思います。 毘沙門天ではないですが、、、
シヴァ=マハーカーラ=大黒天で、本当に正しいのですか? ウィキ等ネット上では、シヴァ=マハーカーラ=大黒天というのが一般的のようですが、ではなぜマハーカーラはシヴァを踏みつけてるのですか?
そのへん、ウィキ等、ネット上でも説明不足だと思いますが、そこをハッキリ知るためには、ここでは無理なのでしょうか?
5ちゃんなら、知ってる人いるかと思うのですけど。 そもそも毘沙門天なんていないからなwww
ハイ論破www 毘沙門天だろうと大黒だろうといないもんはいないwww
オオクニヌシノカミが大黒だと?www
しょうもないこじつけすんなwww
そもそもオオクニヌシノカミなんてもんもおらんwwwww
ハイ論破www >>101
上杉謙信。
クベーラは知らなかったと思いますが。 毘沙門天功徳経にはこう書いてある
毘沙門天の福を得ることが出来るが、次の5つの願い事に限る、それは
親孝行のためであること
功徳となる行いであること
国や環境が豊かになるため
全ての民衆のためであること
この上ない悟りのためであること
この5種類の願い事以外の福は得ることが出来ない
自分勝手な欲得、利己的な物事を願っても叶わないってことだね
国家社会のためってのは毘沙門天の性格をよく表現してるように思える >>114
よくわかる話しです。
クベーラに関しても、まったく同じなのでしょうか? クベーラについての教えは出身や妻子が誰とか以外には特に無いようです
財宝管理の神でヴィッテーシュヴァラの異名の音を漢字にあてたのが毘沙門だったので確かにクベーラは毘沙門天の前身でしょう
毘沙門天は中国で性格が武神となって、お腹の出たクベーラとは別人みたいになってます
仏教に絡んで毘沙門天に変異したみたいだけど仏教とはさほど関係無いように思えます
それでも功徳経の内容はこの毘沙門天の性格をよく表している気がします
インドではデーヴァより下位の神で人間に近い存在らしいです 個人的なただの感想ですが、楠木正成、源義経、こういう武将とどこか重なるような気がします
特に楠木正成は毘沙門天そのものに思えてしまいます
だとしたら相当の軍略家、智謀家、軍師です
魂の色合いというか種類がこの人々は同じだと昔読んだ本に書いてありました
その内容は一言でいえばオカルトですが、七光線占星術と分類心理学だったか、その本の中で人間を霊ー魂ーパーソナリティと3つの構成からその組み合わせで説明していました
この神秘主義、神智学の知識を応用発展させた内容を信じるならば
人間の構成は数字で表され、毘沙門天も楠木正成も源義経、真田幸村、は同じ魂の存在でナンバーは、【1-7-?】です
?は1~7まであり、これは異なりますが霊と魂のナンバーは同じです
第1光線の霊で魂は7と呼び、この構成を持つ人は武人であり、軍師の性格で、天下国家に仕えるという意識をどこかに持っているとありました
30年以上昔に読んだものですが当時腑に落ちたのでおそらく間違いないだろうと思っています
他に多くの歴史上の人物から現代の有名人まで、参考としてあげられ、各147タイプの人の共通点を示してあったので、納得しましたね >>116
クベーラを崇める=毘沙門天を崇める、になるのでしょうか?
同じように、シヴァ神を崇める=マハーカーラを崇める=大黒天を崇める、になるのでしょうか? >>117
源義経も楠木正成も、毘沙門天を崇めていた上杉謙信も、めちゃくちゃ強い!強すぎる!というイメージです。
しかし、勝者ではないですよね。
やはり、勝者としては徳川家康の他にいないと思います。
徳川家康は大黒天を崇めていたでしょうか? >>119
クベーラを信じた事例が国内に無いようなのでわかりません
大黒天については知りません >>120
勝つ負けるは人間の価値基準にすぎないと思います
天界は調和という目的に向かってみちびいているので、この毘沙門天的な、軍師的な魂達は自分が本当は何に仕えているのか、無意識に知っていたと思われます
勝海舟は、徳川の幕臣でしたが本人は日本国の臣下だと自身を認識していました
彼も同じ種類の魂の人間でしたが天の秩序を地上にもたらすのが彼らの共通の本質的な性格です
レベルによって意識するかしないかは個人差がありますが
ちなみに、上杉謙信は彼らと同じ種類の魂ではありません
しかし、毘沙門天によく仕えたとは言えるかと
それはあたかも義経に仕えた弁慶のように あと武将達の信仰は戦勝祈願や士気を上げる意味があったようです
命懸けの戦に出る前の決意は現代人と感覚が違います
ただ強い武将、有名な武将はもちろん武田信玄のようにあれこれ信じていましたが、彼らの勝つ負けるは神仏の加護とは無関係です
謙信は強かったですが大軍編成をしようとしていた時に死にました
つまり、何を信じる信じないは人生にあまり関係がないとも言えます
勝つ負けるは、運命の力によります
家康を守り導いたのは大黒天ではなく、彼自身の運命です
その力の前では真田の軍略も及ばなかったということです
人間のどのような知恵や努力よりも強力で、自然の力そのものです >>124
まぁまぁそんなに言わなくても。
自分で調べてるんですよ。でも、さらにいろんな情報が必要なんです。さらに調べるためにここを利用させて頂いてます。すみませんね。
わたしのことなら無視していただいて構わないです。でも、もし何か知ってることがございましたら教えていただけたらありがたいです。
大なり小なり、お気にさわる事もあるかと思います。すみませんが、隅にでも置かせてください。 >>123
興味深いお話しありがとうございます。
疑問が疑問を呼び、キリがなくなってきたわたしにとって、頭がスッキリするような情報でした。
確かに上杉謙信は、「我」が強すぎる感はありますね。
意外と西郷隆盛なんかは、義経に近い気がします。あと、土方歳三もですね。
話しが本筋とずれてきました。
いずれにしても、毘沙門天や大黒天、新しい宗派である仏教からするならば、ヒンドゥーの神々を上回る圧倒的な偶像が必要に つづき
ヒンドゥーの神を上回る圧倒的な偶像が必要となり、そこで作られた存在があるのでしょう。それが、毘沙門天なり大黒天なり明王なのでしょう。自分らの崇める存在の方がヒンドゥーの神よりも圧倒的に功徳や力があり、ヒンドゥーの神は信仰に値しないということをアピールするために、例えば、大黒天(マハーカーラ?)に、そのモデルというか前身であるヒンドゥーの「シヴァ神」を踏みつけさせているのでしょうか。
毘沙門天はクベーラが中国に広がっていく過程で、武将姿になったと思います。あそこは戦争ばっかりやってたから、クベーラの「富」「財」「幸福」等が、そのまま、「戦争に勝つ」こととつながった結果、あのような強そうな姿になったと想像してます。
どこかで、クベーラと大黒天(マハーカーラ?)入れ替わってしまったという説もあるようです。 わたしの「理想」としては、やはり、シヴァ神=マハーカーラ=大黒天であり、クベーラ=毘沙門天なんです。
もしそうだったら、例えばですが、シヴァ神のマントラを唱えて、なおかつ大黒天の真言を唱えてもつじつまはあうわけです。これも例えばですが、シヴァ神を崇めながら、シヴァ神に対して、「オン マカキャラヤ ソワカ」と唱えてもおかしなことではないし、マハーカーラに想いをはせながらシヴァ神のガーヤトリーマントラを唱えても違和感はないわけです。
もし、シヴァ神と大黒天(マハーカーラ?)がまったく別の存在だとしたら、そうはいかないんですよね。シヴァ神に対して、大黒天(マハーカーラ?)の真言を唱えたり、大黒天(マハーカーラ?)を信仰しながらシヴァ神のマントラを唱えたりした日には、シヴァ神からするならば「勘弁してくれ」だし、大黒天(マハーカーラ?)からするならば「あんなやつとっくの前に骨抜きにしちまったぜ。あんなの無視しとけ!」なんですよね?
まったくわからんのですよ。 >>126
イスラエル軍がパレスチナ自治区ガザ南部のラファで行うとする地上作戦について、アメリカのバイデン大統領は避難している市民の安全確保なしに踏み切ることがないよう、改めて呼びかけました。
【中略】
バイデン氏はこの前日にも、イスラエルのネタニヤフ首相と電話会談し、繰り返し自制を求めていますが、ネタニヤフ氏は強硬な姿勢を崩していません。
そのバイデン氏が説得を聞き入れないネタニヤフ氏について、「ろくでなし」などと呼んでいたとアメリカNBCテレビが報じました。私的な会話の中での発言だということですが、強いいら立ちを感じている様子がうかがえます。
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/995210
Biden has called Netanyahu an “asshole,” according to three of the people directly familiar with his comments.
ろくでなし=アスホール チベットのマハーカーラも経典/曼陀羅のマハーカーラも、どちらも怖ろしい姿をしている。
怖ろしい姿のマハーカーラが、どうして福々しい笑顔/太鼓腹の大黒様の姿に変わったのかという最後の謎がまだ残っている。
胎蔵界曼陀羅のマハーカーラ(大黒天) チベット寺院のマハーカーラ 日本の大黒様
土着の財宝神クベーラ
インドには(ヒンズー教でも仏教でもない)土着のクベーラという財富神が居る。
クベーラが大黒様の原型であることは、写真を見比べただけで、理屈抜きに明らかなように思われる。
15年前から正解は分かっていながら、これまでいくら探してもクベーラと大黒天をつなぐ手がかりが見つからず、歯がゆい思いをしていた。
それどころがクベーラは大黒天(福神)ではなく、毘沙門天(武神)の原型であることがよく知られている。
どこかでボタンの穴の掛け違いがあったにちがいないとは思っていた。
>>133
ICJジェノサイド提訴、イスラエルはそもそも棄却を要求したが却下されている
ICJは 自衛権にも触れず
犠牲者きどりがジェノサイド戦犯容疑で審議継続だから 実は効いてる
ネタニヤフが「永遠に恥辱だ」と火病おこしたし 高官にICJについてのコメントも禁じた
ただ旧約聖書で 選民ユダヤにはアマレク人へのジェノサイドが容認されている
現政権はパレスチナ人をアマレク人に例えて正当化
今のイスラエル政治家は「神聖な犠牲者はユダヤ人のみ、パレスチナ人はアマレクの子孫として滅亡させても構わない」というメンタル
ついでに彼らは 広島原爆も正当化してる >>134
聖書の内容は、他の宗教・仏教の存在を、異教の神として、悪魔に仕立て上げたり地獄に落としたりして、それを前提に成り立っているのでしょうか? >>138
毘沙門天と同じだけのロマンを、クベーラにも求めるのです。 初期クベーラのそっくりさんとして、パーンチカという神様がいますが、昔の人々はこのパーンチカ神像を台所に飾っていたそうです。
油汚れや火の熱等で黒く汚れてくるし、それを拭いて綺麗にしようとするものだから、よけいに黒ずんできて、最終的には真っ黒になってしまう。
この、真っ黒になってしまったパーンチカ像が日本に伝わり、福々しい御姿の「大黒様」になったかもしれない、という説があります。
像や絵を画像で確認してみるとすぐわかるのですが、確かに、パーンチカと福々しい御姿の大黒天は似てる部分が多いです。
いずれにしても、恐ろしい御姿の「マハーカーラ」が、日本では福々しい御姿の「大黒天」として解釈され広がったという説には少し無理があり、「福々しい御姿の大黒天」はパーンチカのことであり、恐ろしい御姿の「マハーカーラ」はそのまま恐ろしい御姿の「大黒天」であって、それより後に、姿形や名前を変えて伝わったわけではない、「福々しい御姿の大黒天」はパーンチカであり、「恐ろしい御姿の大黒天」はマハーカーラであり、2つは別の神様なんですよ、というお話しでした。 由来とかじゃなく実際に功徳をもらった体験談が聞きたいよー >>144
確かに。
実際、そうだとしても全然問題無い可能性は十分です。
わたしの「個人的」には、古ければ古いほど、純粋になっていくし、あくまでも、「ルーツ」に執着したいです。
クベーラを知れば知るほど、毘沙門天の強さと優しさがに寄り添えるのです。
「温故知新」です。古くても、まだまだ使えるツールはあります! のうまく さんまんだぼだなん べいしらまんだや そわか
おん べいしら まんだや そわか
おーん べいしゅら まんなや そわーかー
おーん ばいすら まなや そわーはー
おん ばいすら ばなや そわーかー
オーン バイスラバナーイェ スワーーハーー
オーン ヤクシャラージャーヤ ヴィドゥマへー ヴァイシュラヴァナーヤ ディーマヒー タンノ クベーラ プラチョーダ ヤーートゥーー
南無毘沙門天
南無毘沙門天
南無毘沙門天
南無毘沙門天
南無毘沙門天
南無毘沙門天
南無毘沙門天
南無毘沙門天 オーン ヤクシャラージャーヤ ヴィドゥマへー べいしらまんだや ディーマヒー タンノ クベーラ プラチョーダ ヤーートゥーー
おん べいしら まんだや そわか
おん べいしら まんだや そわか
おん べいしら まんだや そわか ルーツを知って価値があるのは阿弥陀仏くらい
どんな外国の人や仮に宇宙人が日本に転生しても日本的意識の枠からは出られないし、宇宙人でさえ一般の日本人として生きるのさ
クベーラが過去にどんな人であっても日本では毘沙門天という武神、守護神、戦略の神になるのさ
それほど環境の力は大きい オーン ヴァイシュラヴァナイェー スワーーハーー
おーん べいしらまんだやー そわーーかーー オーン シュリーン
オーン フリーン
シュリーン フリーン
クリーン シュリーン クリーン
ヴィッテーシュワラーヤ ナマハ >>155
しかし上杉謙信は、あまり毘沙門天の加護をうけれてない気がします。
本人と越後の足軽が強すぎただけでしょ。
ところで「戦略の神」というのはあまり聞いたことないですね。 >>161
上杉謙信の軍勢一人ひとりが自身を毘沙門天軍の一員と認識していたならその誇りによって力を発揮していたであろうとは思います。
謙信の強さはよく言われてるけども、そもそも相手が弱かったのと謙信自身が武侠者で戦に違和感を持ってなかったとは思えます。
なので毘沙門天が何か力を貸していたとは言い切れなず、ただ謙信の運命がそうだったとしか言えません。
その時代に生まれた理由でしょう。
毘沙門天は一説では楠木正成に転生したことがあると言われ、正成は軍略の天才だったのでそう考えたまで。
物事を精密に組み立てる軍師の才能が毘沙門天にあると思ってます。 よく人里離れたほとんど人が来ないようなお堂に毘沙門天が祀られているのを見ます。
これが毘沙門天の性格をよく表している気がします。
この方は天道を世に布くことを天命としていると思えて、世の中が我利我利の小さな人間が出しゃばってる時代には関心がなく、真田幸村が九度山に隠遁した時の心情に似て、おそらく今の世に嫌気がさしてるとも思えますね。
しかし、世のため人のためと志を持つ人には多分関心を示されるかと。
彼は軍師てあり、策士ではないでしょう。策士は自身を戦略の中に入れない、軍師は自分の命も作戦の中に入れるので。
なので、毘沙門天は策士ではなく、軍師、自分の命を戦にかける者でしょう。
そんな気質が謙信と共鳴していたと考えると、男らしさや情熱、時代にかけるロマンを彼らに感じる訳です。
そんな感じで毘沙門天を見つめてます。 >>163
ヴァイシュラヴァナには、どのような印象を受けますか?
毘沙門天とはビミョーは違いますよね? >>167
すみません。許して下さい。お願いします。 オーン ヴァイシュラヴァナイェー スワーハー
おん ばいすら ばないえ そわか >>166
ヴァイシュラヴァナは毘沙門天のもとの音、クベーラは宮昆羅大将のもとの音
つまり、ヴァイシュラヴァナとクベーラ、宮昆羅大将と昆沙門天は同一の存在
それぞれが別ルートで伝わったということで宮昆羅大将は、大物主と習合した金刀比羅となった
毘沙門天の武神的な性格は唐の時代に仕上がったもので財宝の神が同時に武力も備えていたということ
人でも前世というのを考えると、様々な役割を果たして現在生きてるとすれば、毘沙門天の前世には様々な国に生き、姿があったのだと思うね
ヴァイシュラヴァナは過去の一つの姿に過ぎないので、それにこだわる気持ちは無いね
何かの存在のある一面だけを見て、それがあたかも全てであるかのように伝えてしまうのは、人間の世界がそういう次元の世界だからで
現在、毘沙門天がどこでどうしていているのか知らないけど、財宝の神とか武神とか七福神とか見たらいいと思います 聖徳太子や鞍馬寺と毘沙門天に関わる話は残ってる
毘沙門天といえば上杉謙信という人もいる
謙信が幼少時に預けられた春日山の麓の林泉寺には刀八毘沙門天というまさに明王的な姿の像がある
戦国時代ならではの武神を強調した姿になってる
それぞれの時代の人々の願いを形にしたので完全に嘘偽りではないにしても、誇張したのは事実
ちなみに林泉寺に伝わる版木は、戦時中お守りにして召集された兵士に持たせたところ全員無事に帰還したとか
この版木の原板は寺にあり、謙信が戦に出る時に時の住職が持たせたとか
これと同じ話が調べるとあちこちにあり、このご利益話に毘沙門天の性格が見て取れる
国に命を捧げなければならなかった時代、やはり守護したのかと思ったりして、唐代からも国というのが一つのキーワードなのだなと思います そう考えると毘沙門天信仰は個人の幸せを云々するものではないようで、家内平和、安全とか祈願してるような一般向きのものではないね
ちょっと不思議な話、ただの見た夢なんだけども
ある高台、大きな街を遥かに見下ろす場所にある境内からひとりの若い僧が全身全霊の真言を唱えていた
その真言はオンベイシラマンダヤソワカ
すぐに毘沙門天の真言とわかった
その場所を見た景色からネットで探しまくり、それが鞍馬寺の本殿前ということがわかった
いつの時代なのか、誰なのかは解らないけども、一唱一礼の五体投地を繰り返していた
命をかけるような気迫が伝わってきて、ああ、これが毘沙門天への請願かと思っていたところ目が覚めた
なので、欲得を超越しているので現代人が好む縁結び祈願、仕事お金、なんたらかんたらとは無縁かと
そういうことと理解してます >>174
ありがとうございます。
確かに毘沙門天はおっしゃる通りのイメージはありますね。しかし、毘沙門天とクベーラが同一の存在とするならば、そのイメージも少し変わってくるのは私だけでしょうか。
クベーラに関しては、もともとは、はやい話し「こそ泥」だったのが、シヴァを家に盗みに入ったところをシヴァに見つかったのですが、シヴァに気に入られ(命乞いでもしたのか?)、シヴァのもとで住み込みで厳しい修業に耐え(その代わりに命だけは助けてもらったのか?修業しながら、シヴァの金庫番してた。なぜ、シヴァは泥棒に金庫番を任せたのか?あえてそうさせたのか?盗みたい金が目の前にあるのにそれを盗めないのは、クベーラにとっては苦痛だったと思う。盗んでトンズラしても、絶対シヴァから逃げられるはずはない。その苦痛に耐えることも修業のうちだった?)、最終的には、世界の財宝を管理する富の神にまで上り詰めました。
毘沙門天=クベーラとするならば、毘沙門天も過去にいろいろあって「今」があるのだなぁ、と思うのです。 もし、お金や出世等の現世利益ならば、はじめからクベーラを信仰しながら、クベーラのマントラ唱えてたほうがいいと思います。
ただ、毘沙門天真言は、下腹部あたりがすわって来るんですよ。 クベーラは過去の姿であってもういないと考えてるけどね
ちょうど阿弥陀佛の過去世が法蔵菩薩だったみたいな感じ 天部はその姿も性格も固定しないのが多くて摩利支天はその最たるものかと
戦国武将に人気があって、陽炎のように実体はなく、太陽を背にしてるので眩しくて見えないとか戦場ではうってつけの尊格
マリーチーがマリシと呼ばれてもともとは女だけど日本では男として表現されて様々
たぶん、神仏は人間の考えて作った想念に合わせてるとも思える
不動明王の姿はもう固定してるけど、人間世界ではそれでいいみたいなところがあるのだと思う
聖母マリアも伝来したが、日本的気質に合わず、広まらなかった
やはり男性的で荒々しいスサノオ的というか、日本の意識に触れると変容してしまう様子
もしも今、自分が戦場に送られる羽目になったら迷わず林泉寺のお守りを持って行くのは確かw
あとついでに摩利支天のお守りも帽子の中に入れとく >>178
クベーラ=「過去の姿」ととらえるのも、正しい見方かもしれませんね。勉強になります。
わたし的には、クベーラ、ヴァイシュラヴァナ、毘沙門天は、1つに同じ存在なんだけれども、国によって、伝わり方、とらえ方が違うだけだと思うのですよ。
ただ、伝わった時代が、現代に近ければ近いほど、人々の勝手な解釈、都合のいい解釈などが多く加わっているのかな〜?昔であればあるほど、人々の解釈が加わっていない、より真実に近い純粋な存在なのかな〜?と考えてます。
ただ、だからといって、ヒンドゥーの神々が、人々を幸せに出来ていなかったから(今も出来てない?)、仏教が「人間を救えるのは人間の力」と言い新たな教えを広めたのであれば、例えば、毘沙門天の真言を唱えて、下腹部あたりをすわらせ、胆の座った人間になることで、仕事や商売、日々の暮らしや、戦い、戦(いくさ)等に少しでも 少しでも有利に事を進められるわけで。
そういう意味では、毘沙門天信仰は、クベーラ信仰よりも現実的かもしれません。 クベーラ自体も解釈されたものではないのかと
全ての存在は時代という大きな流れの中で変化してゆくと思いますよ
川の上流では尖った岩も下流では丸い小石になる
何ものも自然の流れ、運命には逆らえない
その流れの中で姿を変え、時代の要請に応えた結果、最も近い時代の姿が毘沙門天の形態だと
現在はどうなのかは解らない
天部は人に近い存在で、自然界の神々ではないから不変ではないでしょう
七福神、四天王、多聞天、真言となんでも良いのだろうけど、その精神はとても高いもの、天下国家を守るという志があってこその彼だと、まあ信じてます
別に会った訳では無いし、実在するかどうかも根拠は無く、本当に漫画のヒーローとして、かっこよくいるのかも知れない
上杉謙信は毘沙門天だけを信じていたわけではなく、飯綱権現や倶利伽羅不動、阿弥陀佛に春日神、弥彦神社と信仰してた
神社の神を信じるのと、仏尊への信仰はどう違うのか、どう使い分けてるのかってとこかなと
春日明神、武御雷命には畏れ多くてなれないけど、毘沙門天くらいならなれる気がするって人は案外多いように思う
我こそ毘沙門天なり!と平気で言ってしまってる動画を見かけるけどもw
それほど意識的には神より人間に近いのかもしれないね >>183
勉強になります。
いろいろありがとうございました🙇 真言を唱えると毘沙門天がスタンドで自分と重なって現れると信じてるならそれもいいかも
お守り持ってるのも同じ感覚でしょね
人間の心はすぐに環境の力に影響されてのまれるので、自信とか勇気を持つ方法が解らないのが現代なのだろうと思うね
不動明王だろとなんだろうと、真言を唱えて自信をつけようと思ってるうちは、たぶん自信はつかないだろうね >>185
真言を唱えれば自信がつく、ではないと思いますよ。
真言を唱えると、真言をつくっている、ひとつひとつの言葉が、人体の各部、各器官、細胞レベル、毛細血管レベルで何かしらの影響をあたえると思うのですよ。
基本、真言なりマントラなり唱えてる最中は、頭の中はカラッポになりやすいですよね。余計な事を考えたり、意味のない1人事をぶつぶついう事も減ってきます。
頭の中カラッポになれば、自分の身体に意識も行きにくくなり、疲れなども(精神的なものも含めて)忘れやすくなる。
結果、、、、、、、、何かが違ってくる可能性もゼロではなく、「唱えないより唱えた方がちょっとはましかも」くらいにはなる。
この、「ちょっとはましかも」の積み重ねで人生決まってくる「かも」しれません。 昔、日蓮が結構好きで、南無妙法蓮華経を唱えて日蓮のような精神力を備えられると思ってた時代があります
あれこれある宗教団体とは無関係で、個人的に好きで唱えてた
車の中でも唱えてると、ボーッとしてきて何か心が周りの車に対して無反応になってくる
煽られても全く動じず気にもならないほどボーッとしてくる
これがなにか胆力なのか、自信なのかと錯覚してました
今は全く興味がないけども、精神集中をして他の影響を遮断した結果なのだろうと考えてます
ただ、このボーッとした感覚はちょっと嫌で、薬飲んだり風邪をひいてボーッとしてるみたいなエゴか肥大しただけみたいな、つまり本当の自分の精神力じゃないなと思ったので止めましたね
この南無妙法蓮華経の信者ってのはたぶん、自分の様々な真実の姿に気付かず、弱点を変えるとかをせず、ただそれを唱えて押し通すみたいな印象を受けます
ただのエゴの塊と化してるように見えます
真言は南無妙法蓮華経のような唯一絶対の聖語性はないだろうから、呪文を唱えて、全てどうにかなるという全く根拠のないことを信じるという、そこまでの弊害は無いかもだけど
ただ、未知なる不思議な力を求めるのは同じ
不安や恐怖心を打ち消したいから
マントラの効果について、調査されたことがあって、普通の会話してるのと大差ない結果だった
神仏と会話するような気持ちで、真言の後に独り言でも話せば、すっきりすると思う
戦国武将もやはり、不安や恐怖心はあったろうから、とにかく加護を求める気持ちはわかります
兜に仏像や神の名前を立てて、神に弓引くか!とね、考えると面白い などなど、だらだらと書いてきましたが、様々な神社仏閣を訪れてはオフダやお守りをいただき、ご利益旅をしてたこともありました
お守りをバッグに詰め込んで歩いてたこともw
今はそんなことはやらないけど、理屈抜きでどうしても手放せないお守りが2つあって、それが毘沙門天なのか、【毘】と書いてあるやつ
もう一つはお不動様
山歩きを時々やるんだけど、山って怖い雰囲気の場所があって、心霊スポット的なトンネルとか、薄暗い藪とか通ることもあり、どうしても不動明王の真言は自分には必須でして
何か唱えるものが無いとやっぱりだめですね
慈救咒、火界呪ともに唱えて通ることもあります >>189
是非、あなたの考えを教えてください。お願いします🙇 >>188
「唱えないより唱えた方が、ちょっとはマシかもしれない」という効果がある「かも」しれないわけですね! >>191
やはり見えない敵、例えばウィルスのような存在、霊的な存在、他者の思念というものに対抗する手段は自身の心、そして運命なので
見えないと言えば明日すら見えないわけだから、今まで生きてきたから明日もあるなんてないし、生きる運命を信じて今日を生きてるので
また、人生の方向を决める心の動きは感情の波に呑まれて負に傾くことが往々にあり、正しい道へ導くよう感情を収め、さらに神仏の加護を願うのは当然と思いますよ >>193
はい。
お手数おかけしますが、よろしくお願いします。
ありがとうございました。 5ちゃんねるといったら、広大なネット掲示板ですが、「毘沙門天」「ヴァイシュラバナ」「クベーラ」「真言」「マントラ」等については、ほんの少ししかスレがありませんね。
もっとたくさん議論したいのですが。
おん しゅりん おん ふりん
しゅりん ふりん
くりん しゅりん くりん
びってえ しゅばらや なまは
おん しゅり おん ふり
しゅり ふり
くり しゅり くり
べいしゅら そわか >>195
山には動物の糞や死体などの他には、秋に落葉樹が落とす大量の落ち葉が、一部の生物の生命を支えています。
落ち葉は落ち葉を好んで食べるダンゴムシやヤスデやミミズやカビなどにより分解され、更に微生物により完全に分解されて土にかえります。
こうして落ち葉は土壌に栄養を与えて、植物が育つ良い土壌環境になります。
皆さん、たった1グラムの土の中に、どれだけの微生物がいるかご存知でしょうか?なんと数億もの微生物が活動しているんです。
自然界には余分な有機物はありません。大きな生物から食べられて、最終的には肉眼では見えない微生物が有機物を食べて自然に返します。 >>196
はい。よくわかる話しです。
もっとお聞きしたいのですが。 >>197
春のことです思い出してごらん、あんな野糞こんな野糞あったでしょう