現代における葬式や墓のあり方を考える [転載禁止]©2ch.net
墓地永代使用料は
高額な費用を負担しても
個人所有地になりません
永遠に管理料という名目で
民間霊園や寺院に金銭を搾取
される仕組みになっています 日本には限界集落など土地は
余っています
人は必ず死んで行くのに
土地を墓地にするのを避けて
います
だから、民間霊園や寺院が
やりたい放題、挙げ句の果てに
墓じまいブームになるのです
こんな考え方では生死の循環
が詰まり、日本は霊的にも
少子高齢化になり衰退するばかり
霊魂や人々の救いを真剣に
考えると、時として現代の
経済科学至上主義的な価値観は
大きなな足かせとなります 現代の墓は石材業者が自分達
の作業効率、儲けやすい
耐震性に強い、など経済的
物理的な合理性ばかりを追求し
寺院ですら、それに迎合しています
遺骨は骨壷のままで水びたし
まるでゴミのようにカロート
に遺骨をばらまくだけ
普通に考えたら劣悪なお墓
これは墓ではありません
単なる、建立者の趣味と
業社の都合を優先したモニュメント
にしか過ぎません
宗教性や魂や霊的な救いを
一切無視しています
霊魂とは神仏による救済が
必要であり、感謝や心だけ
でどうにもなりません
みなさんは先祖供養とは何なのか
時代の変動期であるが故
選択を迫られています
この、墓じまいの連続
結果論からしたら、みなさん
の考え方が誤りであったと
認めざるおえません 墓相とか宗教以前に
故人の安らぎや救いを
考えていない
適当に感謝だの、封建的な上から下
な意見を述べたら世間は文句を
言わない、世間の常識に逆らう奴
が悪者になるから
よく、亡くなった先祖が可愛い
子孫を祟るわけがない、非科学非常識
だと図々しく大きな意見をムキに
なり述べる人っていますよね
反対にお前は死んだことがあるのか?
死んだ者に生きている者の都合や理屈
が通用するのか?と言いたい
だから中国では死人を鬼、鬼仙とも
呼び、霊魂が鎮まるよう墓の向き
や方角、日当りなどを道教では
重視した 葬式や墓は程々でいいと思う
人に対する接し方や態度は必ず自分に帰ってくるから葬式や墓は程々に必要
但し、墓は程々に墓を建てて供養する 元来の本国インドの遣り方に戻せ
生臭坊主や業者を一切儲けさすな >>360
それでは、おまえさんの遺体は生焼けにして多摩川に流すということで レア焼けの死体が川を流れるなんてやめてくれ
関東大震災や東京大空襲の犠牲者に失礼だ
江戸川には焼死体が川を埋め尽くすように流れていたんだぞ
あと広島の原爆犠牲者もな 浄土宗の福田行誡上人が神仏分離令
に反対運動に奔走した功績は
今日の日本の宗教信仰において
大きな功績です
いくら、日本民族抹殺減少の為に
マスコミの墓じまい、年賀状じまい
報道にどうじてはいけません
こんな時代だからこそ、みなさん
の根である、戦没者や先祖を供養して
みなさん一人一人が勇気を持って
格差グローバル人口減少社会に
立ち向かうべきです
日本人の心を一つにするべきです
我々の将来に為に とは言っても
どうでも良い自己主張はしても
肝心な部分でふぬけ、腰抜け
なのが我々現代人です
口では立派な事を述べるが
肝心な時になると
ファンファンファン🎵
ファーアーン
自分は安全ならリスクを
負いたくないんです
いくら個人主義とは言っても
先祖祀り、供養の軽視など
自分達の運気
や霊力を低下させるような考え方
には賛同ばかりして、他の問題
いや、社会的に汚い部分には
以前として昔ながらの封建主義的
な考え方を適用させてますね
相撲協会、教育、オリピックとか
もそうですよね 信仰だの、先祖供養の話題になると
感謝、感謝と言うけど馬鹿の一つ覚え
みたいで脅迫観念みたいなやね
周囲に善人ぶる、そんな日常の
一コマだけ、さも人格者みたい
に振る舞うよね、嫌いやわ
そういう人の裏表や世渡りが
感謝も大切ですが、問題提起と
解決も大切です
感謝したい人にはさせて
おけばいいけど、感謝という
昨今の庶民の宗教観念が嘘くさいです
自分の体裁や立場を守る事だけ
考えてるんやね、日本人は
だから、般若心経を唱えると
霊が寄ってくるとか、馬鹿げた
発想がでてくるんでしょうね
この意識の低さどうにかならないの 火葬場直送について
昔の葬式というのは怪しい死に方をしてないということの証明、ないし
周囲の人間による確認という意味を持った儀式だった。
みんなが仏の顔に被せた布をとって顔を見るというのも、変な死に方をしていないと
いうことの確認だった。
近所で人が死ぬと、近所中が集まって普通の死であることの確認をした。
昔は医者もいないか、いてもいい加減だし、捜査科学も進んでいない。
だから通夜や葬式も必要だったんだが、
今は医者がかかわるしね。周囲の人間による確認という意味での式は
必要ないのではないかと思う。
あとは遺族の気持ちしだいだよ。
長く入院した人は分かるだろうが、入院患者の気持ちというのは「家に帰りたい」と
いうただその一心だよ。家にも帰らず火葬場に直送というのは可哀想といえば
可哀想。だが死んだ人に何が分かると言われればそれまで 無条件でやってきた物事について考えたいですね。ただ現世の者なので、あの世の事(ルール?)が分からないですね。
ただ寂しいのは嫌なので、あの世で誰かが寂しい思いをしていれば宗教の人にできるかどうか知らないけれど何か頼みたくはなるなぁ 家だの先祖だのに縛られたくない気持ちは分かるが、結局、縛られるもなにも、そこから完全に脱却している世の中・人類じゃないと、むしろ、縛りは増して世界がまた爆発しそうと思う.. 「クラウド上のおじいちゃん」「お墓はサーバー」お墓参りをITに例えるシリーズが進化し、仏教の概念や用語が次々にハマって非常にわかりやすくなった
https://togetter.com/li/1331489 葬儀が仏式になったのは長い日本の歴史で考えればまだ最近の話 ここでいいのかわかりませんが愚痴らせて下さい。
先日大好きだった祖母(同居)が亡くなりました。
急な事だったので死がわかったのが仕事後帰宅してからでした。
長寿だったし人気物だったので自分は盛大に、とは行かなくても普通の葬式で送ってやりたかった。
世帯主で孫の私が喪主を務める事になるのですが、
親戚の叔母(祖母の娘)の策略で自分の知らない間に家族葬に決まり、
香典も一般はおろか親戚からも一切頂かない自主負担の形になっていました。
私の意見は一切聞かれておりません。
聞こうとしてくれた親戚の方もいましたが自分が話す前に叔母に遮られ、
言い出せる雰囲気ではなかったです。
生前祖母が「誰にも迷惑かけなくから家族葬にしたい」
と言っていたというカードを武器にうまく誘導されてしまいました。
母(祖母の長女)は何が気に入らないのか相談に乗ってもらえない。
周りの親戚たちも余計な出費がかからないシメシメみたいな感じで何も言わない。
孤立無援の葬儀。
明日から通夜だってのに、この謎の進行を止められなかった事、
参りたかったのに止められたと言ってくださった御近所さんに
こっそり事情の説明を詫びを入れてきましたよ。
義父宅に行ってふがいない自分に詫びてきましたよ。
叱られながらもつらいことがあったらいつでも来いよと言われて涙が出そうになりました。
自分の勉強不足が情けないです。
でもそれ以上にここまでコケにされた怒りの方がずっと強い。
今棺を背にして書き込んでいるが、こんな事を祖母は望んでいなかっただろうな。
明日から通夜が始まる、、、。 >>391
昔、祭の席でどうしても許せない事を言われて歯向ったら
生意気いってんじゃねえと親戚総出で自分一人集中攻撃された事が
トラウマになってて、もうあんな騒ぎ起こしたくないんです。 >>392
あんたが弱いから悪いんだよ。にしてもその親戚たち怖いわ。香典一切出さない式なんて聞いたことがないよ まあ見舞金すら持参していないでしょうし
親戚とは縁切りのつもりで精一杯のおつとめを
そう言うのに限って分け分がどうのと騒ぎますが
分けるくらいならこのまま放っといて国へ納める
程度の事は言っても構わないかと (もちろん法律が変わって掛かった分は引き出せます) はっきり言うと、叔母は葬儀屋とズブズブじゃないのか。
「家族葬」なる商品で人件費が浮いて取り分の歩合が上がって一番得をしているのは葬儀屋と花屋だよ。
叔母は小遣いもらっとるかもしれんな。
葬儀屋はどこ? ○ルコ? よくわかんないんだけど、なんで叔母さんが仕切ってんの?叔母さんも同居してるの? 只今葬式終えてきました。なんとかカッコはつく形に収まりました。
事前に近所に詫びてきて同情されたのか、明日以降参りにきて頂けるとの事。
やさしい御近所さんに感謝です。
お棺を車に入れる時も手伝って頂きました。御近所さんに対してお礼の言葉を述べたのですが、
本番同様、それ以上に真剣に述べました。
自分の中ではここが本番のお礼のスピーチです。
母親は私が裏で動いていた事を何にも知りません。
自分的には明日からが本当の葬式です。
恐らく親戚共は自分らが払わずに済んだので明日以降の動きは何も言ってこないと
思い、、、たい。
香典出しもしないのに夕飯が少ないだの(寿司は売り切れましたがオードブルは少々残る程度。
進行の人は上手に采配したねと褒めてくれた)
御泊りさせてくれとか(どうせわけわからん説教攻撃食らうので丁重にお断りさせて頂きました)
何一つ手伝わないくせに何言ってんだよと。誰一人心痛めてる様子なし。
叔母さんは同居じゃないです。婆さんの部屋へしょっちゅう来てました。
多分婆さんにゴマすってお小遣いせびってたんでしょう。
こんな長文の愚痴に付き合って頂きありがとうございました。 >>399
お前、孝弘?うちのルーター使ってる
からID同じじゃないか。帰る前に直接私に聞いて下さい。 ワイ初めて知ったんやけど女って喪服の色でもすーぐマウント取りするのな
店でブラックフォーマルとして売ってるならそれでええやんけ…… 葬式も墓も戒名も要らない
あんなの坊主が儲けるための口実で霊感商法と変わらない
慣習化してるぶん余計にたちが悪い 【灰と金歯】お骨を拾ったあとに残る“残骨灰” 広島市も民間の業者に売却検討 希少金属が含まれるケースが多いことから財政収入に
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1578970484/ >>407
なんだかなぁ…
回収されたケータイから金を取り出すようなものなんだろうけど
利益を得るんだったら卒塔婆代の一部として遺族に還元するとか
火葬料そのものを安くするとか方法はいくらでもあるでしょ
あくまで故人のために使いましょうよ、と 戒 名 ビ ジ ネ ス (笑)
1 名前:名無しさん@京都板じゃないよ 2020/01/26(日) 23:10:19.18 ID:O2LfiyMt0
戒名とは、
仏弟子となった証として故人に送られる名前の総称として用いられています。
本来は生前に授かっておくべきものとされていますが、
実際は、お寺にお金を支払って授けてもらうのが戒名と思われる方も多く、
金額も高ければ高いほど良い戒名を授けられると考えている方もいるようです。
騙されないようにね☆彡 人体は完全分解され遺骨も残らないほうがいい
体の一部を現世にくぎ付けされるなどは呪いと同じ 先祖?ただ、気持ちいいセックスして、ガキ作っただけだろ
それが何代も続いているだけ
先祖の快楽になんで感謝しなきゃいかんのだ
墓?生き物が死ぬのは当たり前だ、カネかけるだけ無駄だ
葬式?死んだあと騒いでどうする。水の江瀧子みたいに生前やれ 【テレ朝】『モーニングショー』の報道に専門家が「デマ」と反論「葬儀業者の勝手な判断で肺炎患者を火葬はできない」[4/7]
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1586254294/ コロナで世間体への考慮がなくなり葬式や法事が消えている 戒 名 が な く て も 問 題 な い
119コメント39KB
1名無しさん@京都板じゃないよ2020/08/07(金) 10:11:06.24ID:8aubpQIT0>>109
戒名とは、
仏弟子となった証として故人に送られる名前の総称として用いられています。
本来は生前に授かっておくべきものとされていますが、
実際は、お寺にお金を支払って授けてもらうのが戒名と思われる方も多く、
金額も高ければ高いほど良い戒名を授けられると考えている方もいるようです。
つまり
坊さんに生前につけるのが本当の姿
戒名がないと墓に入れないとか
詐欺まがいだから騙されないようにね 今日ラジオで祖母が余命わずかで自分の葬儀に懇意にしているお坊さんを頼みたいとの内容のハガキが読まれた。
女性のパーソナリティー「それは、いいですね」とか言ったら、そのあとある住職からクレームが入って「檀家寺を無視して
気に入った坊さんに葬儀を頼むなど言語道断」とのこと。いつまで檀家制度にあぐらかいてるのや。 本当は僧侶が葬式に関わってはいけないと
お釈迦様は言われたとお経に記述されているからなあ
(但し、在家の人が葬式の儀式をすることを止めさせてないから、
葬式の儀式は在家の人の仕事である考えでお釈迦様は葬式そのものは否定しなかったが)
葬式よりも護摩の傾注している真言宗や葬式そのものを行っていない奈良仏教は
お釈迦様の教えを忠実に受け継いでいる
だから現世利益の功徳もそれらの宗派は良い どのお経のどの部分に記述されてるか書いてから言ってくれ >>427
だからその涅槃経のどの部分が経文出して答えてくれないかな?
涅槃経で釈尊がアーナンダに向けて説いたのは「修行完成者の遺骨の処理や供養に関わるな」「関わらずに修行を完成させなさい」と言う事です
修行完成者(釈尊自身)の葬儀や供養に修行者(アーナンダ)は関わるなと説いてる部分は確かにある
涅槃経には「一般在家者の葬儀や供養に僧侶は関わるな」とは説いてないと思いますよ 「関わらずに修行を完成させなさい」が主題なのだから、
修行完成者だけじゃなく一般在家者まで含まれる
説法の時に問題になったのが修行完成者だっただけで言及しただけ
涅槃経での該当箇所の場面では
そのように解釈するのが自然
比丘の存在目的から考えてそうでないと矛盾する >>425
当時阿羅漢ではなかった阿難に言ってるから修行僧は参列しないで修行に励みなさいという意味だとする解釈も有る
何よりブッダ本人は父親の葬儀を自ら執り行ってるし ブッダの葬儀に阿羅漢達は参列している
僧侶全てに言ったのだとすれば そうはならなかった筈だ
まあ日本の仏教宗派で阿羅漢位は出ていないからその辺りは微妙だけどね >当時阿羅漢ではなかった阿難に言ってるから修行僧は参列しないで修行に励みなさいという意味だとする解釈も有る
かなり強引な解釈
「関わらずに修行を完成させなさい」とだけあるから
阿羅漢も範疇に入るだろ
阿羅漢も修行(瞑想)を続けないと維持できないし
仏陀自身、成道のあとでも瞑想修行してる描写はお経にある
(スンダリカ・バーラドヴァーシャの経の冒頭部分など)
父親の葬儀を自ら執り行ってるし ブッダの葬儀に阿羅漢達は参列しているといっても、
祭儀そのものはバラモンに任せた可能性もある
(一応、浄飯王は王だから社会情勢上、出家僧でも参列するのがマナーだっただけかもしれない)
取り仕切る喪主が必ずしも葬式の祭儀まで担当しないよね
日本の仏式の葬儀でも祭儀は僧侶任せだし >>431
議論は終了
http://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%82%E3%82%89%E3%81%8B%E3%82%93
第4段階。煩悩を滅した聖者。これら4段階は、おのおのそこに至る途中と、至り終えた段階とに分けられ、前者を向、後者を果という。阿羅漢についていえば、前者を阿羅漢向あるいは阿羅漢果向、後者を阿羅漢果という。
原語「arhat」を「応供」「殺賊」「無生」の3つの意味に解釈し、
世間の供養を受けるにふさわしい人
涅槃に向かう者にとっての賊である煩悩を殺害した人
解脱によって輪廻の世界に再び生まれることがない人
をいう。 >>431が正しいな
釈迦も阿羅漢果になっているが瞑想修行を続けている
釈迦のような解脱によって輪廻の世界に再び生まれることがない人であっても
瞑想修行を続けている
これで議論終了
>>432は矛盾して支離滅裂 ダンマパダを読むと
ブッダの言う「バラモン」や阿羅漢になったとしても
気を抜かず修行に励みなさいという趣旨が多いからなあ ダンマパダではバラモンの定義として
覚った人、最後の目的を達した人、林の中にあって瞑想する人
とあるから最後の目的=涅槃(阿羅漢果)に達することだから
達した人でも林の中にあって瞑想するという修行は
ブッダとしても必要だと述べていることになる 五百羅漢が葬儀に参列している事 遅れたマハー・カッサバが到着して師に礼拝する迄幾ら遺骸に火を点けようとしても着かなかった事
で解釈の余地はなく ブッダはマハー・カッサバ率いる500人の弟子=五百羅漢の到着を待っていた つまり阿羅漢の参列は拒否されなかったし 弟子達もそのように理解していたと考えられる
でなければ阿羅漢の参列の是非に付いても議論が有った筈で有り 経典に残っている筈で有る 参列自体はマナーとして許容していただけかも
ブッダの葬儀は基本的に在家信者によって行われたとお経に記述されており
火葬の時の点火は当時はそれが後継者だとする儀式となっていたので、
僧団サンガを維持するためにもそれだけは必要だったとも解釈できる
またこの場面はその描写から提婆達多派を排除するために後に作られた描写とも解釈できる 遅れて来たマハー・カッサバが500人の弟子を率いて現れたという事は既に教団の主導的な役割はカッサバに附託されていてブッダの周りには修行僧はいなかったとも考えられる
葬儀に関わるなと言われたのはアーナンダーや他の修行僧であって各地に散らばっていた阿羅漢達は含まれていなかったと見た方が合理的
何より阿羅漢達がそう言われていたなら師の意思に背いて迄参列する事は無いだろう マハー・カッサバの集団は釈迦に遅れて出発しただけだし
葬儀に関わるなと言われたときに他の修行僧に阿羅漢果を受けたものもいたかもしれない
葬儀は在家に任している描写はあるし、
マハー・カッサバの点火の描写はその内容からダイバッダ派より優位性を示すために作られただけかもしれない
(ほかの者がやっても点火しなく、マハー・カッサバならば点火したというのは不自然過ぎる) >>439
仏教に「〜かも知れない」は無いから
確認と未確認が有るだけだし 釈迦が阿羅漢も含めて葬儀には参列せずに修行せよと言ったとすれば何故阿羅漢達を修行させずに各地に布教に行かせたのかという疑問が残る
しかしカッサバと500人の仏弟子は七日目とはいえ参列してるのだから「参列しないで修行せよ」と言われたのは阿羅漢未満の修行僧でカッサバや五百羅漢に対して言ったものでは無いと見るのが仏教的には妥当
釈迦と同等の悟りを得たとする阿羅漢達が釈迦の言い付けに逆らうという事がまず有り得ないし そうだとすれば阿羅漢達は悟っていなかった事になり それを認めた釈迦の悟りも怪しくなる
仏教学者ならいざ知らず 仏教徒がそんな推論を受け入れる訳がない 仏教に「「〜かも知れない」は無い」というのは最早信仰の問題になるからこれは
理屈としては受け入れられない
やはり、明確に記述されていない事項は明確に記述されているところから推論せざるを得ない
「各地に布教」といっても比丘は遊行するものだから、それ自体が修行の一つなので
なんら不自然ではない
それにマハー・カッサバは単に後に出発しただけとしかお経からは読み取れない
仏陀は自身の年齢からもしものことを考えて若手と先に言っただけかもしれない
年長だと実際の体の動きなど旅路では懸念材料になる
若手であっても阿羅漢果に達しているものはお経にあるので
仏陀のいる先発グループに阿羅漢がいても不思議ではない
逆に阿羅漢が全くいないというも不自然である
(先述の様に若手でも阿羅漢はいるので)
釈迦と同等の悟りを得たとする阿羅漢達が釈迦の言い付けに逆らうといっても
マハー・カッサバの点火の部分は後世の付加と考れば不自然ではない
これは提婆達多派より優位に立つ必要があったと
後世に僧団に必要だったと考えれば説明がつく
(そもそもマハー・カッサバしか点火できなかったというのは、現実的に不自然過ぎる)
あと、参列も当時のマナーと考えれば不自然ではないし、
葬儀の儀式は在家のバラモンが行ったと考えれば仏陀の教えに逸脱しない
仏陀の遺体やその火葬を見て瞑想する修行を参列時にすればそれも修行になる
そういった瞑想はお経にある仏陀の説法見ても不自然ではない
ただ、誤解を招かない言い方すれば、葬式のような儀式は在家の仕事と考えて
必ずしも儀式そのものは否定は仏陀はしなかったとは間違いないことではある >>441
かも知れないに対する推論は虚妄にしかならないので断る
信仰に関係ない仏教学的見解なら学問板でやるべきで有って信仰者にごり押しするべき事ではない
得られるものがないので 対話は打ち切らせて貰う 書いてないことは限られた資料から推論せざるを得ないのが
それ自体が理屈であり道理である
その推論にまた理屈・道理で適切に導くべきものであり、
理屈・道理から不自然なものであれば疑惑及び否定されても致し方がない
推論においてある事柄について疑惑を持たれたら、「かも知れない」解釈を
理屈・道理から無理无く導き出すのは当然の帰結であり適切である
「かも知れない」推論を否定して、理屈・道理から不自然なもを信じるのは
妄信でしかない
それは到底受け入れられるものではなく、不毛でしかない
ただ、釈迦牟尼は理屈の无い、道理の合わない説・論を信じるべきではない受け入れるべきではないという姿勢であり、
「往生梵天」などの上座部経典において釈迦牟尼は述べていると述べておく 釈迦の説いた道理に合わず学者寄りの道理を言う輩とは議論する価値がない
そういうこじつけは学術板でやればいい
釈迦の説いた道理を悟った阿羅漢達が釈迦の遺言に従わなかったなんて仏教破壊でしかないし その程度のものを二千数百年も人々が信じ続けるかの様な仏教を馬鹿にした態度に仏教徒が付き合う理由は微塵も無い
文字の上は読めても文字の下を読めない人間とは仏教論議は不可能だ
仏教を自分の目線に引き下ろす理解と自らを仏教へ引き上げようとする理解とは水と油の様に混じり合う事は無い
ブッダや阿羅漢達が自分より遥かに高等な存在だと理解出来ないなら此処へ来てはならない
君の不遜な態度は度し難い まず仏陀の文字化されて残っている言説は
ちゃんと理屈があり道理にも合うのので問題ない
ただ、記述されていない事項に関しては記述されている部分から
理屈・道理によって推論せざるを得ないのが当然の帰結
自然で無理のない理屈・道理がそこにあればそれは全くこじつけでもなんでもなく
仏陀の正統な教えの範疇となる
仏教の哲学上の発展はそれがなければ在り得なかった
その否定こそ仏教を冒涜しているとしかいえない
なぜなら、理屈・道理に無理があって不自然なものであれば、
それはこじつけ以前に仏陀の教えとは全く別物となり、仏教の否定につながる
仏陀はその生きていた時代から、サンスクリット語かマガダ語しか知れなかったのだから
仏陀の知らなかったパーリ語の仏典は「釈迦の説いた」ものではないのは
明らかなのでそれを信じるのはいけないという話に行きついてしまう
つまり、仏陀の教えとはサンスクリット語原典もしくはマガダ語原典のあるもののみが
「釈迦の説いた」ものとなることになる
それでもよいというのならそれも最早「信仰」の部類になる
また仏教には「経」だけではなく「論」も重要視される
仏陀の涅槃後の仏教徒の比丘が著した「論」は、伝わっている「経」から
理屈・道理によって推論したものでありそれをも否定することに繋がる
その態度こそ不遜である
比丘にとって「三蔵」と称されることがどれだけの栄誉か理解するべきである 悟った阿羅漢が悟りへ導いた師ゴータマの遺言に背いて葬儀へ参列する事は有り得ない
特にカッサバの様な直接指導を受けた阿羅漢ならなおのこと
そんな事をすれば参列した阿羅漢達は悟っていなかった事になり その悟りを認めた師ゴータマもまた悟っていなかったという事になり教団崩壊は必至になる
そうならなかったのは当時未悟であったアーナンダに対して「お前達は葬儀に関わってはならない」と言われたのが全ての出家比丘に対してではなく阿羅漢果未満の修行僧に対してだけ向けられたものだと解されたからであり
経典にもアーナンダがそのやり取りをカッサバに伝える場面は存在していない つまりこの下りに関する見解はブッダに対する信仰心を持たない者は弟子が師の言い付けを守らなかったという解釈をし 信仰者はそうではないという解釈をするだけの事で見解の一致を見る事のない不毛の議論にしかならない
仏道を歩まない外道が幾ら言っても仏教徒の信仰を変えさせる事は出来ないのは仏教学者がブッダ程に偉大ではなく阿羅漢処か預流にも達していないからである
求められていない贈り物を幾ら与えようとしても受け取られる事はなく 見捨てられるだけである
何故ならその必要が無いからだ 既に指摘されているが、お経に書いている描写からは
・釈迦の最後の遊行に付き従ったものの中に阿羅漢果に至ったものが居る可能性がある
・葬儀自体は主に在家のもの(祭官であるバラモンだと思われる)が行っていたと解釈でき
マハー・カッサバたち阿羅漢は当時のマナーとして参列していただけと解釈できること
・マハー・カッサバのみ点火できたという現実には不自然な描写は後代に僧団として
提婆達多派より優位を示すために必要だったので付加したとも解釈でき
そうでなくとも点火のみなので葬儀を全体的に行っていたとまで描写されていないので
基本的に葬儀は在家のものが全体的に行っていたと解釈できること
ということなので釈迦の遺言が「葬儀は在家のものに任せて、出家比丘(阿羅漢も含めて)は修行に専念せよ」であっても
マハー・カッサバ達の葬儀の参列の行為自体は釈迦の遺言に抵触せず違反にならない
葬儀の参列時に釈迦の遺体の火葬の様子をみて瞑想して修行することもあり得るからである それなら葬儀も修行の一環として参列せよと言えば済む話
やはりその様な解釈は釈迦や阿羅漢の厳格さを理解していないと言わざるを得ない
お互い時間の無駄だから そういう議論は学術板で外形的な専門家とやるべきだ
仏教徒の信仰とは何の関係も無い 「葬儀も修行の一環として参列せよ」では、葬儀を重要で必須な修行としていたはずで
専門の経が残っていた筈
そうでないのは葬儀は修行の必須なもではなく、むしろ葬儀の参列はマナーという扱いと
仏陀は考えていたのならばそれは不自然ではない
つまり、「葬儀の参列より修行を優先しろ」というのは、葬儀に関わらないというマナー違反の方が非難されるレベルが低いからと解釈が自然である
何より仏陀に同行した仏弟子に阿羅漢果のものが居なかったというのはお経より断定的ない
若い者でも阿羅漢果はいるから、、「葬儀の参列より修行を優先しろ」というのも阿羅漢果に達したものにも言っていると解釈できる
マハー・カッサバ達の参列は当時のマナーだったとすれば理解できるし、
参列したとしても仏陀の意向に抵触しないのは先述の通り 師の遺言よりもマナーを優先する筈はない
マナーで有るなら参列したのはカッサバと500人の弟子だけとはならず 1200人余りの仏弟子全てが参列した筈であり その様に記述されている筈だが阿羅漢果未満の仏弟子達が参列した記述はなく やはり修行未完成のものだけが参列しなかったと見るのが妥当
従ってカッサバ以下500人の阿羅漢達が師に禁じられていたにも関わらず禁を破って葬儀に参列した等と言うのは経典に根拠の無い憶測に基づいた出鱈目で有り 信仰心の無い外道の解釈でしかない
幾ら言い掛かりを着けようと経典に記述の無い部分を憶測やこじつけで決め付けるのは仏教徒以外がブッダや阿羅漢達を汚そうとする振る舞いで有り それを仏教徒が受け入れる事は有り得ない
清浄な者が聖者の言葉を裏切る事等 仏教に於いては有り得ない 仏陀の遺言に抵触してないのなら、
マナーを優先しても問題ない
マナーを優先したのはカッサバと500人の弟子で、他は修行を優先したのならば、
むしろ仏陀が「葬儀は修行の必須なもではなく、むしろ葬儀の参列はマナーという扱い」と遺言で考えていたと
考えるのが至極自然であり、その証左と言える
「1200人余りの仏弟子全てが参列した」ならば「葬儀は修行の必須なもではなく、むしろ葬儀の参列はマナーという扱い」が遺言の姿勢というのは不自然過ぎる
したがって、マナーを優先して葬儀に参列したとしても禁を破ったことにならず、
また修行を優先したとしても禁を破ったことにならないのはお経の記述から自然な解釈であり
それを否定するのは理屈・道理のない強引な解釈で、理屈・道理のないことは仏陀がもっとも忌避していたことであり、
仏教徒として失格である
仏教徒ならばこそ理屈・道理をもってお経を理解するものであり、それら清浄なる姿勢である
清浄な者が聖者の言葉を裏切る事はすなわち理屈・道理のない強引な解釈することである 土地や金ら資産残してくれたのなら墓必要
逆に何も残せない先祖なんて敬う必要ない
違うか?
墓参りで時間奪うな
暇じゃねーんだよ
金にもならねーしな >>451
聞くに値しない妄想に過ぎない
テーラワーダ協会にでも聞いて来ればいい
幾ら屁理屈を捏ねようと間違いは間違いだ