戸山高校から富山大学という学歴
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戸山高校は日本大学の長男高校。
城北高校は次男坊。
戸山高校からは東条英機というポンクラを
生んでいるが
日本大学学祖の山田顕義中将伯爵閣下は
「兵は凶器なり」と言っていますぜ。
富山大学なんてどうでもいいから
戸山高校は
日大の長男高校としての責任を果たせよ! 愛エメ総長 明治政府が制定した旭日旗は素晴らしい
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history2/1546533148/
旭日旗を制定したのは
日本最初の将軍山田顯義です。
日本最初の将軍は大村益次郎と山田顯義の
二人です。山田顯義は旭日旗のほか
佐官や軍曹などの名称も取り入れています。
軍服も山田顯義が制定しています。
狂騒のパジェント 靖国神社の大村益次郎像についての批判
http://pagent.seesaa.net/article/388231675.html
日大ちゃんねる
http://jbbs.shitaraba.net/school/1381/ 長女 皇典講究所
次女 日本大学
3女 國學院大學
4女 戸山高校
5女 城北高校
6女 日本大付属校
6女 國學院付属校 年表[編集]
1882年 - 神道事務局の後継団体として発足し、神職の教導職兼務が廃止となる。
3府40県に皇典講究所分所が設置される。初代文学部長に矢野玄道が就任。
1885年 - 第1回卒業式を挙行。
1888年 - 補充中学校(現・東京都立戸山高等学校)を設立。
1889年 - 日本法律学校(現・日本大学)を設立。
1890年 - 國學院(現・國學院大學)を設立。補充中学校を共立中学校に改称。
1894年 - 共立中学校を城北中学校と改称し東京府へ移管。 このスレッドが日本列島の隅々に
散らばっていた戸山高校が
都心に戻ってくる切っ掛けになるんでないの。
全国の田舎に散らばっていた
点々虫が地元の東京に戻ってくるかな。
親があって子が生まれる。
城北高校と戸山高校は日大進学を目指すのが正解です。
特にふにゃらの法学部と理工学部に進学して
日本大学に喝!を入れてほしい(⌒∇⌒) 愛エメ総長 (Wikipedia)
皇典講究所の附属の私立学校として創設されたのが同校の由来である。
当初は東京府尋常中學(現・都立日比谷高)の補充的位置にあったが、
その連絡もなくなり私立の共立中學校となった。しかし、
1886年および1891年の中学校令公布により、1府県1中学と定められたことや、
受験生の上京が禁じられたことにより受験生が集まらなくなった私立各校とも
軒並み経営が傾いた。当時官公立校に対してだけ認められていた在学生に対する
徴兵猶予や校地に対する免税、卒業生の判任官任用などの特権を得る便法と
しての有利な条件も働き、数多ある私学のうち、まず共立中學(戸山)が、
次いで共立學校(現・開成中・高)が東京府の管轄下に入りそれぞれ
東京府城北中學、東京府開成中學と名を改めた。
1900年、文部省が私立を公立として待遇することを廃したため、
翌年開成は私立に戻り、戸山は府立第四中学と名称を改め、現在に至る。
同校が府の管轄に留まったのは、当時の私立は江戸時代以来の寺子屋や塾など
雑多であり、あるいは受験予備校的色彩が強く教科目も偏り正統性を
持ち得なかったこと、それに対して官公立諸学校が当時の国家存立の教育手段として
革新的位置づけにあったためである。
また補充中学以来「府立」の名を慕って入学してくる生徒も多かった。1908年、
韓国李完用内閣の学部大臣の依頼により朝鮮ないし韓国貴族(両班)の子弟12名が入学した。 深井鑑一郎校長(在任:1898 - 1938)の40年に及ぶ時代は、一中(日比谷)を追い越すことを
念頭に東京一の中学を目指し、猛勉と規律を強制した。現在の都立の環境からは想像できないが、
始業式当日に式の後に授業があった程で、予習、復習をきっちりやらせ、それを怠った場合や
指されて応答できなかった場合は居残りをさせた。校則も厳しく忘れ物も3回(あるいは5回)に
及ぶと成績評価がワンランク下げられたりし、中退者も1割に達するなど当時の一部の世情は
「死中」と呼ぶほどであった。こうして、毎年第一高等学校合格者数で一中に肉迫するようになり、
1935年以降は、ほぼ毎年旧制高等学校現役合格率で首位にいた。さらに深井の“スパルタ教育”の
影響も色濃く「市ヶ谷台」という土地柄、陸軍幼年学校や陸軍士官学校、海軍兵学校等の軍学校に多数が入学した 1950-60年代には、日比谷、西、新宿、小石川等と共に東京大学へ多数の進学者を輩出していた。
1967年に導入された学校群制度等の影響下、同校や西高においては、日比谷等多くの都立校の
進学実績面における急落に比べると緩やかな退潮に留まっていた。
平成に入ってからの数年間も東大合格者は20-30人前後、その後も二桁の合格者を維持していた。
近年は若干名にとどまっていたが、進学指導重点校としての取り組み等により徐々に進学実績は
回復してきており、2012年度、2013年度、2015年度は2桁の東大合格者を輩出している。
2017年度は理科三類に1名合格者を輩出している。 (Wikipedia)
皇典講究所略歴[編集]
明治10年(1877年)頃、文明開化時勢の最中に大教宣布の不振、これに続く祭神論争によって、
政府内から国学の研究を主旨とした学校設立を求める提案がされるようになった。
明治15年(1882年)8月23日、明治天皇はその聖旨により、最も信頼を寄せていた
有栖川宮幟仁親王を総裁に任命し、有栖川宮から令旨が奉じられた山田顕義ら内務省高官と、
松野勇雄ら数名の国文学者が専ら国典を講究するためとして、11月4日、皇典講究所を飯田町に設立した。
設立後も事業の一環として、明治22年(1889年)2月より皇典講究所講演を発刊した。
明治23年(1890年)には古事類苑の編纂事業が行われた。また、延喜式でも編纂事業は行われ、
昭和6年(1931年)には延喜式撰上1,000年を記念して校訂延喜式が刊行された。
内務省の委託を受けて神官・神職の養成を行ったほか、皇典講究所・國學院大學出版部は、
神官資格試験の参考書を多く刊行した。
大東亜戦争(太平洋戦争)後の昭和21年(1946年)1月25日に、GHQの圧迫により
皇典講究所を解散し、財団法人國學院大學を設立。
なお、日本法律学校は、開校当初この皇典講究所の教室を夜間借りて
講義を行なっていた。日本大学は、皇典講究所との深い関係性から
大正13年(1924年)に神道教師の再教育を目的として神道講座が開講され、
神道教派聯合会(後の教派神道連合会)によって神道奨学会が組織された。 気が付いたら、富山大学
気が付いたら、卒業
こんな感じかな。 日比谷の比の古字が最悪なんだって。
テレビ東京の番組で見た。 失礼
5年じゃなくて6年ですね(北陸新幹線開業は2015年3月14日)
早いものだ >>16
富山・金沢は古くは北前船の文化で京都に通じると言われていましたが、新幹線開通以来東京圏になったようですね。今はいませんが、外国人も多いようですし…
富山大学に行くなら、薬学部。
それ以外は、金沢まで行っちゃうんじゃないの?
まぁ金沢大学も山の中に移動しちゃったみたいですけどね。 富山高校からなら普通金沢大学とかじゃないの?富山大学はバカが行くとこやろ 皇典講究所の附属の私立学校として創設されたのが同校の由来である。
当初は東京府尋常中學(現・都立日比谷高)の補充的位置にあったが、
その連絡もなくなり私立の共立中學校となった。しかし、
1886年および1891年の中学校令公布により、1府県1中学と定められたことや、
受験生の上京が禁じられたことにより受験生が集まらなくなった私立各校とも
軒並み経営が傾いた。当時官公立校に対してだけ認められていた在学生に対する
徴兵猶予や校地に対する免税、卒業生の判任官任用などの特権を得る便法と
しての有利な条件も働き、数多ある私学のうち、まず共立中學(戸山)が、
次いで共立學校(現・開成中・高)が東京府の管轄下に入りそれぞれ
東京府城北中學、東京府開成中學と名を改めた。 戸山→成蹊くん
いろいろ
旧帝東京六大へのコンプレックス丸出し ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています