引きこもりって言われる方々って
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引きこもりって言われる方々ってネットに強いイメージがある。
カッコいいよね。
会ってみたい。 引きこもりとのリアルエンカウント率はメタキン並みに低いのだ ネットは情報が多すぎてひきこもりみたいなバカには辛いよ ありがとうございました
いらっしゃいませいらっしゃいませー 俺が死んだら、社会保障費が減少するよ。
国に貢献できるから、「ヒキの恩返し」だね。 もしも作業所に通うならば、引きこもりはパソコン作業よりも、お菓子を作ったりする単純作業が案外、適しているように思う 栗饅頭のやわらかさ
どら焼きはつぶあん派ですか?こしあん派ですか?
カステラは、カラメルが大事 いかなる理由があろうと、行動した人は相応の評価をされますし、行動しない人は一切評価されません。無論、引きこもっていれば、どれほど年齢を重ねようと、社会的な意味での成長はほとんど見込めないでしょう。その現実は誰に対しても平等であって、特別扱いは存在しません。
いかに工夫に工夫を重ねて自分の過去に言い訳をしてみても、そんなものは「意味がない」のです。
一方で、引きこもっていてもそれなりに学んできた人々や、心機一転して行動を開始した人々は、乱高下を繰り返しながらも、じわじわ成長して行きます。じっくりと腰を据えて、これまでの遅れを地道に取り返す。彼らの頭には「言い訳の効かない現実」が既に頑として存在しており、それに突き動かされるようにして、社会へと向かって行きます。
そこには「一発逆転」も「ショートカット」も「楽な方法」も何も無く、有史以来連綿と続く、揺らぐことのない「現実」に正面から挑む好ましい志があるだけです。
「どうせいつかは正面から挑まなくてはならないのなら、極力早い方が良い」
そう考え始めたとき、彼らの「引きこもり」は一つの終焉を迎えます。 それでも尚、自己の内なる欲求に従い続けるのならば、そこから先は完全に「自己責任」の領域です。いつの時代でも、誰か一人位は「そんなことをしていると、いつかとんでもない目に遭うよ」と、過ちを指摘してくれる人がいるものです。
しかし、言われて姿勢を改める者もいれば、同じことを言われても全く変えようとしない者もいます。無論、どちらがどうなるのかは火を見るよりも明らかです。
その「意味の無さ」に気付けるか否かは純粋に「能力」の問題であり、同時に当人の「姿勢」の問題です。
一つの提言を軌道修正のチャンスと捉える者と、新たな批判の好機と捉える者。両者の違いを何年間も見続けた者からすれば、最後に言えるのはただ一つ。
「因果応報」
この一言に尽きる気がします。
安っぽい批判でいつまでも自己を誤魔化すより、思いっきって野球でもやって、相手チームと正面衝突の喧嘩をする位の方が、人間としてよっぽど建設的だと思っているのは、きっと私だけではないでしょう。 他人の評価なんて一切気にしてない。
ただ自由に生きたいだけ。
人を監視するような、人の道を外れた奴らに一石投じたいだけ、ただそれだけ。
忘れられようと努力してんだよこっちは。何年も同じこといわせるなよ。 本当はもう相手にしたくない。いらん争いも、暴言もはきたくねえ。
もう関わってくんな。ほっといてくれ q:やり直しは可能なんでしょ?
a:勿論、手遅れでなければ大丈夫。学びは人を変えるしね。20代なら余裕。30代が限界。でも、遅過ぎるのはどうしようもない。
q:もう手遅れの人はどうなる?
a:仕方ないね。「今という時代の人柱になりました」といったところかな。色々と言い分はあるだろうけど、過剰な長期化は自己責任としか言えない。
Q:社会情勢が引きこもりを生んでいる気もしますが?
A:社会情勢が動かない時代などあるのでしょうか? 常時動くから、動いたなりの対策を考えなくてはいけない、というのが普通の発想ではないでしょうか。社会情勢の変化など、誰にとっても同じなのですから、社会情勢のせいにするのは「自分は社会の流れについていけなかった落ちこぼれ」と主張しているのと同じことです。
Q:やるだけのことをやり尽くして諦めるってことでしょうか?
A:いえ、それよりは、
「決定力の無い、いい加減な甘い対応」→「気付いた時には手遅れ」→「面倒になって諦めムード」ということの方が多いです。そうなったら、後は坂道を転げ落ちるだけです。 「詰む」という表現には強引な要素がありますが、状況が悪化するまで無関心に放置し、何も出来なくなってから彼らの存在自体を無視するよりは、やや極端でも、早いうちに警告をかける方が、幾分誠実かと思います。ただ、この警告に対する判断は、個々人の当事者に任せることになりますので、無責任と言えば無責任ですが。
次に、具体的な「詰んだ」状況についてですが、これは「自分の力で生存することが事実上不可能」という状態を基準に話をしています。一言で言えば、「社会の中で生きられればOK。生きられなければ『詰み』」です。無論、親も年金生活に入っており、経済的バックアップはほとんど無い状態です。
もう少し具体的に言えば、以下のいずれかに該当する場合が適切かと考えています。
1:家族にも経済的余裕が無いのに、全く部屋から出られない
2:外には出られるが、仕事に就けるだけの社会性がない
3:仮に仕事に就けても、十分な所得を得るだけの継続が出来ない
特に多い(目立つ)のが2・3で、職場に行けない、面接が出来ない、或いは、引きこもりは抜けられても、仕事を継続出来ないケースです。 諦めムードだから
ヒキ板でコピペで自己紹介する毎日かい? 現実問題として、引きこもりから抜けるのは案外容易です。しかし、生きるだけの資金をコンスタントに手にし、社会の中に無理なく溶け込むには、多大な労力を要します。ここのハードルが極めて大きく、本人がどれほど頑張っても、そのハードル越えの途中で資金がショートしたら目も当てられません。
上記のような場合、現実的な「死」が、近接した未来のどこかで確実に発生するでしょう。公的扶助による生活保護という手もあるでしょうが、今の余裕の無い日本で「10年以上何もしてこなかった引きこもりにも生活保護を!」等と訴えれば、袋叩きにあってもおかしくないはずです。
実際、引きこもりの生活保護受給に反対する意見を相当数見かけました。普通に社会生活を営み、納税している方々からすれば、「何故、何もしてこなかった連中を援助せにゃならんのだ?」と考えても、全く不自然ではありません。国の方向性としても、生活保護は漸次縮小する見込みですから、この選択肢は最初から期待しない方が良いかと思われます。
対応が遅過ぎたせいで自力でもカバーし切れず、かと言って、公的機関のサポートも薄いとなれば、「生きられるだけの最低限のお金」さえ手にすることが出来なくなるでしょう。これは、事実上「生存不可能」=「詰む」と言って間違いないのではないでしょうか。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています