劉備が天下統一できなかった最大の原因その5
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夏(惇)前 → 張(遼)前 → 満(寵)前
于(禁)左 → 張(コウ)左 → 郭(淮)左
楽(進)右 → 徐(晃)右
朱(霊)後 → 文(ペイ)後 → 曹(洪)後 前後左右将軍も前とかで呼ぶのかね
序列は前、左、右、後だと言われるけど
前将軍の董卓を左将軍の皇甫嵩が監督したりで
左の方が上なのか?
袁術も最終官位は後将軍を、懐柔のために左将軍だし
関羽が馬超にやたらこだわったのも
前将軍が筆頭と言われるけど左将軍を馬超に取られたからかな
>>904
蜀にショウカイが出した文書でも姓氏を書かず
鎮西、征西と〇〇将軍の〇〇の部分だけで書いている
古代だけど春秋時代で王の左卿士の鄭の荘公のことを
左卿と呼んでいて、どうも3文字は長いから省略って感覚なのかな? >>904
その官職が変わるんですよ
出世とか左遷とかで 董卓も清盛も、
自分が操りやすい幼帝を立てた。清盛は、自分の孫・安徳天皇を立てた。董卓は、董太后の孫・献帝を立てた。
それから、敵対勢力を根絶やしにせず、地方に遠ざけるに留まった。旧敵への制裁が、徹底しなかったのだ。平清盛は源頼朝を許し、伊豆に流しただけで満足した。源義経を見落とした。董卓は、袁紹が渤海に逃亡したのを、追認してしまった。
(源頼朝も袁紹も、反対勢力の旗頭として、東方で挙兵した)
また、董卓は名士に遠慮したし、清盛は寺社勢力に遠慮したようだ。
董卓も清盛も、
東方がやばくなると、本拠地に近い西方に遷都した。清盛は福原に、董卓は長安に移動した。 梁冀の敵は、上疏など、文化的な手段で梁冀と戦った。最後は桓帝が宦官をつかい、梁冀から印綬を奪った。これは、王朝の命令系統を前提とし、秩序の内側で戦うやり方だ。
だが、
董卓に敵対した袁紹たちは、腕づくに訴えた。野蛮である。 遷都せざるを得ない。洛陽よりも、長安が守りやすいのは、自明のことだ。 関羽じゃなくて張飛を荊州都督にしてれば天下統一できた
惜しかったな 都督は関羽でいい
副将・参謀・留守役といった周辺の人物に誰を置くかの問題じゃないか 甘寧が劉表机下にいたまま劉備の幕下に入っていたら、制蜀や北伐に大活躍したかしら >>913
もともと蜀の反逆者だから、劉備がまだ劉璋と有効状態での入蜀時には同行させられない
劉璋手切れ後に合流するか、第二陣の諸葛亮に従って蜀の制圧には活躍しただろう
甘寧の死は215年、関羽と魯粛の単刀赴会の後の冬と言われているので、北伐どころか関羽よりも先に死んでいる >>911
むしろ裏切られやすいかと
劉備も建前はともかく曹豹の件の後に張飛に任せなくなったし 馬謖の初陣がアレだったのは、こういう頃から経験を積ませてれば防げたんじゃないか?
つまり、関羽副将として苑攻めか、留守意訳として対呂蒙陸遜 >>916
そもそも劉備麾下に収まったのが20そこそこで何の仕事もしてなかったと思われるから付けてやれる職が相当限られてると思うけどな
劉備漢中王就任前後に南蛮地域と近い後方の太守にしてもらっても治安悪化したら自分1人逃げ帰ってきている有様
兄馬良は劉備の蜀取りの時は荊州で事務方をやっていたようでその後劉備が漢中王になると成都に招集されて事務方を担当していたようだけど
夷陵の戦いの時は荊州南部の異民族の誘降工作で成果を挙げたものの敗死
兄の馬良ですらこれからというぐらいの年齢とキャリアで馬謖が荊州いても地方の事務方以外何も任せられないと思うぞ 馬謖の再評価する人とかも
そりゃ机上で考えて良いと思って失敗したんだから
馬謖は間違えていなかったとなるのもあるけど
水がないと4日でを考えると
陸軍の無駄口を優秀と言うのと変わらないと思う
計算上は良かったんだろうけど 諸葛亮 東大卒(就職浪人で農業バイト)
馬良 東大卒
馬謖 東大卒
ホウ統 早稲田卒
法正 京大卒
李厳 東北大卒
黄権 慶応卒
劉備 高校中退
張飛 中卒
馬兄弟の抜擢は学閥コネみたいなもの ホウトウも李厳も諸葛亮と同じ学閥だぞ
と自分で言って気づいたが、李厳も魏延と同じく、荊州陥落時に他国に身を寄せて仕えてるんだな
そしたら諸葛亮は李厳にも魏延と同じく「自分の都合で主君を変えてる」批判せにゃならんのじゃないかねえ >>919
夷陵での将軍、司馬クラスの戦死率
劉備は晩年に自ら全力で蜀を潰しに掛かった悪魔
荊州陥落の時より酷い人材大量喪失
荊州陥落で蜀の趨勢が決まったんじゃなくて夷陵の敗戦で経験値の高い有能な人材がいなくなったから大事な街亭でほぼ経験値ゼロの馬謖起用になった >>921
蒋琬とかもな
諸葛亮と共に劉禅を支えた大官のほとんどは何だかんだで入蜀前に劉備に帰参した人材 諸葛亮が馬謖に箔を付けさせようとしたからちゃうの? 夷陵に張飛が参戦できてれば呉併呑して天下取れたのにな
惜しい人材を惜しいタイミングで亡くした >>925
張飛がいたらあの戦いはどうなっていたのか
勝ったのか、負けたのか
負けたけど盛り返すことができたのか
興味は尽きない 張飛・・・
ククク、奴は関馬張黄四天王の中で最弱(知力が) 張飛にないのは部下への情け
曹洪(曹休)には戦略負けしたけど、部下の裏切り以外じゃ負けなしだからな
夷陵に張飛がいたら黄権と二枚看板で長江両岸から侵攻できる
これで持久戦に持ち込まれずにすむかどうか 張飛は軍師に近い智将なんだけどな
なぜか脳筋の猛将扱いされてて可哀相 >>939
県の下っ端役人にはなれるかも
読み書き算盤はどんな時代も官吏や市井のまとめ役には必要 こんな俺でも曹操軍で治粟都尉できるぐらいの学があるってことだな >>936
コーエー三国志14における魏呉蜀主要武将の知力
78張遼
79程普
76甘寧
76趙雲
75関羽
75夏侯尚
74徐晃
72于禁
69張コウ
68曹真
68黄蓋
63黄忠
62曹休
60夏侯惇
59韓当
58曹仁
58凌統
55夏侯淵
53楽進
53ショウ欽
48周泰
44曹洪
44馬超
43陳武
33張飛 歴史は常に勝者によって改竄されている。例えば、日本では明治時代より、天皇の神格化と国民教育のため、
当初は天皇を守り立てていたため天下統一目前まで迫ったが、その後朝廷をないがしろにしたゆえ部下に撃たれた
「織田信長」という武将や、勤勉に働き天皇を敬って天下人に至った「木下藤吉郎」という農民を作り上げた。
こうした実在しない人物の多くは今でも、堂々と教科書に載り続けている。 程昱・郭嘉・劉曄の評価を見ても、張飛はただの脳筋じゃなくて武将として抜群の人物
魏の名将張コウを策をもって破るなど、武将としての知謀・戦術能力は決して低くない
身を滅ぼしたのは、性格・人格に問題はあっただけだ
粗暴で残忍でたびたび人を殺したり痛めつけたのは、甘寧だって同じだ
それなのに三国志平話・三国志演義が、張飛をおバカちゃんに描写し、それを後世の
小説家やゲームメーカーが取り入れて、「バカ張飛」のイメージを再生産していく
その結果が、知力33の張飛と76の甘寧になった 平話は張飛が主人公だし、張郃を破った件は演義の創作じゃなかった? 張飛は統治者としても有能で中国でも知将として再評価の動きが高まっている
張飛が荊州を治めていれば蜀が天下統一できたという説が最有力になっている >>947
漢中の山道において、各個撃破戦術により張コウを大敗させたのは史実 >>944
人の心に創出された時点でその人物は存在するからな
後はそれを入れる入れ物を作ればいい
そうすれば架空の人物は実在することになる
三国演義の周倉や貂蝉らも同じだな
実在って言葉の意味を理解できない連中は大抵歴オタ 転生したら周倉だった。足の裏の3本の毛で超加速、赤兎馬と同じ速度で疾駆し関羽様にどこまでもついていく。黄巾軍に戻ってくれと言われてももう遅い。 >>946
>性格・人格に問題はあっただけだ
嫌過ぎるわ >>953
真田十勇士と同じで、モデルはいるんだろうね
忠実な家臣はいただろうし、盗賊出身ということであれば
名前がカッコいいことで有名な(?)孫狼を始めとして
多くの盗賊が関羽の襄陽攻撃に呼応して魏国内で暴れている 雷電とか雷牙とか雷撃とかいたらカッコイイのにいないしな
公孫樹(いちょう)とか 劉備が漢中太守を張飛でなく魏延を抜擢したのが答えだろ。
張飛太守の荊州領民になるくらいなら猟奇皇帝オンパレードの北周領民の方がまだマシだ。 張飛は漢中太守にこそならなかっただけで、巴西太守になってんだけど?
ちなみにその前は宜都太守、南郡太守も歴任していますが >>949
蜀志視点では張飛の大勝扱いだけど
張郃は巴西巴東を荒らし廻って住民ごっそり漢中に持ち帰って
更に兵力倍以上の張飛相手に50日以上対峙して住民移動の時間稼いで
最後には山越みたいに軍勢蜘蛛の子のように散らして追っ手に捕まらないように逃げて
無事に漢中撤退しているので正直張飛は張郃にいいようにやられているようにしか思えない
戦略的には住民ごっそり攫った張郃の勝ちなのは戦後張郃が偏将軍から盪寇将軍に出世している事から明らか
劉備も死ぬまで夏侯淵よりも張郃の方を畏れていたのは
張飛が勝った扱いとはいえ張郃からのダメージが甚大だった証拠といえよう >>962
張郃は住民確保から益州攻略に任務変わってるしそれを防がれてボコボコに
されてるんだから負けだろ
江陵戦後の曹仁みたく敗北後の昇進もあるし、住民奪ったら勝ち扱いなら
第一次の諸葛亮も勝ち扱いになってします >>963
>張郃は住民確保から益州攻略に任務変わってるし
益州攻略に任務変わってるなら張郃5千程度では厳しく
夏侯淵の本隊が出てこないと話にならないのだが後詰の気配は無いので
益州攻略に任務変わってるとは思えないのだが
あと負け戦と戦略的撤退は扱いが違って当然で
戦略的撤退だと戦後出世はあり得るが負け戦では出世はあり得ない
第一次北伐は住民攫うのが目的ではないので負け戦なのは
戦後自ら3階級降格した諸葛亮が自ら示している
まあ陣営によって勝ち負けの視点が違ってても別におかしくないよ
例えば日本でいえば文禄慶長の役の露梁海戦とか
シナチョン的には大勝扱いだけど内容みると日本は撤退戦の殿状態なのに
明水軍副将ケ子龍や朝鮮水軍主将李舜臣をはじめ
李英男、方徳龍、高得蒋、李彦良ら将官クラス死にまくり(日本の将官クラス被害0)で
包囲されて脱出不可能状態の小西行長にも逃げられたりと
どうみてもシナチョン大勝の内容ではなかったりする >>964
張郃は民を漢中に送った後、さらに進軍して張飛に阻まれてる
これが張郃の独断による敗北なら能力に疑問符を付けざるを得ない
圍天水、拔冀城、虜姜維、驅略士女數千人還蜀。人皆賀亮みたいに蜀では勝ち戦扱いだぞ >>962
蜀志も魏志も張?が張飛に負けたことを認めているのに
「いいようにやられているようにしか思えない」って
勝手な推測でひっくり返すの無理があり過ぎじゃない? そもそも「住民の強制移住が」とか言っているけど、
魏は漢中・巴西・巴東を領有できたの?
漢中・巴西・巴東の全住民を移住させることができたの?
漢中争奪戦に限っては、戦術的にも戦略的に蜀の勝利でしょ >>964
張郃が張飛と対峙した宕渠をグーグルマップで検索すると
渠江沿いなので進軍して張飛に阻まれたというよりは
倍以上の軍勢の張飛を阻んで住民移動の時間稼ぎするのが目的と考えればわからんでもない
攫った多くの住民を大巴山脈越えさせて漢中に送るのにどれだけの時間と労力かかると思うと
蜀では張飛も第一次北伐も勝ち戦扱いでも別にいいんじゃないの?
ただし史官がそう記しててお前がそう思ってても
当時の最高責任者の劉備や諸葛亮などはそうは認識してないようだが >>968
いや史書に張郃が進軍して阻まれてるって書いてあるのに何言ってんだ
劉備や碑文見ても張飛本人が大勝したと認識してるんだが >>967
魏は赤壁の戦い前後辺りから
領有よりも住民確保の方に重きを置いているのが顕著になっているような
鄴に一族移住させて破虜将軍に昇進した李典とかのエピソードもあるな
魏は漢中・巴西・巴東を領有するよりも住民を中原へ移動させる事の方が大事で
漢中は捨てるのには惜しいが秦嶺山脈越えてまで維持するにはコスパ悪い
「鶏肋」という諺が出来るような土地なので
漢中争奪戦に限っては戦術的にも戦略的にも蜀の勝利かと思うと
魏にもそれまでの間に張魯勢力を中原に移住させられたり
漢中撤退後たまに北伐してくる蜀軍を叩く程度に軍務軽減させられて少なからずメリットあるので
一概には言えない >>960
荊州って書いたのはなぜ?
それが答えだよ コーエー脳多いな
実際の張飛は知力も政治もトップクラス
劉備じゃなく張飛が君主なら三国統一も容易かった 漢中に限らず魏は領土を維持する力がなくなってきてる
西域・朔方放棄・河西分離=雍州と涼州の完全分離とひたすら弱気
軍国主義体制のまま、負担のみを強いる
そのくせ守勢一方で、たまに攻勢に出ると負ける
司馬氏に求心力集まるのも妥当 司馬一族の話は北伐後やろうけどな
夏侯淵、張コウ、郭淮、ケ艾と西方騎馬民族との戦闘、懐柔中華取り込み政策は関係の変化もありながら結局蜀の北伐時も魏が少し上回って長安に蜀軍が進めないままに終わった
話題の元に戻ると街亭での馬謖の敗戦がせめて長期防衛戦となり張コウが物資不足でを引き上げさせる事が出来なかったというのが大きい この時代物資の管理なんて、孔明とか早々とかある程度キレる人以外では、あんまり考えてなかない?
飯は現地にある、なんなら現地の女も好きにしろとかワグネル的な発想法 んなアホなw
大抵遠征軍の総指揮官や先鋒大将務めるような武官は20代後半から30代前半で司馬を経験してそこで物資の管理業務経験してるよ
その後護軍、中護軍の幕僚経由して遠征軍幹部に昇格
そういう経験もなしに万の単位の兵を思い付きで動かして水がないみたいなことになった馬謖みたいなのは極一分 >>978
戸籍人口1/10に激減の時代と考えると
ミニマリスト的縮小守成もある意味間違いではない
おかげで数十年後統一の下地の力を蓄えられたので
しかし魏がヘイト溜めて司馬氏に求心力集まっても
漢復興の動きは既にほぼ無いのな
新の時とは大違い 涼州放棄論は、後漢の朝廷におけるホットな話題の一つ
漢陽太守の傅燮は、反涼州放棄論の論陣を張って放棄派を牽制した人だったが、韓遂に殺された
蜀が涼州を獲っても、反乱が相次いで維持するどころか、お荷物になって放棄を考えざるを得なかっただろう
蜀が魏から涼州を奪ってその支配者になるよりは、涼州の群雄・異民族に反乱を起こさせ、
対魏の「同盟軍」として扱うのがベター
でも、諸葛亮のような王道・正道主義者には、そういうダイナミックな絵を描くのは無理だろうな
「兵は詭道なり」で、手を汚すことができる法正とかホウ統なら、それができたかもしれない
諸葛亮は「清潔」すぎた >>982
西晋になると張昌丘沈、劉芒蕩、王富、劉淵と漢の末裔を称した人間が出てくるな
曹氏がクソで司馬氏に期待したがこれもクソだったからやっぱり漢だなってなったんだろう >>981
三国時代以降は白1rつとるのさえ大変になっているから
長年の戦乱で防御を学んだのかな
基本責めた方が負けるし >>987
その辺りの漢の末裔を称した人間は
劉淵以外は失敗してるな
劉淵も死後後裔が漢捨てて趙名乗ってるのをみると
曹氏も司馬氏もクソだが漢はもっとクソだなってなったんだろう 「結局どれもクソ」が延々続いた挙句の辛亥革命だったのではないかな?
袁世凱は袁紹にゆかりあるのだろうか 袁世凱は河南省の官僚や軍人を多く輩出した地元でも指折りの名族出身
とは言え袁氏は中国で37番目に多い姓だから、血筋がどうなのかは知らん >>989
その後も漢の末裔を名乗る王朝はいくつも出てくるし曹氏司馬氏のクソよりはマシと思われていたんだろう 袁紹は大尉になっていれば五世六公だったのにな
大将軍だから公じゃない、、、 それ近代陸海軍の階級でしかも大して偉くないやつ・・・ >>994
二王三恪の扱いだと
曹氏や司馬氏は王だが漢の末裔は公が限度
そして断絶しても後裔探さずそのまま放置
曹氏は劉宋まで司馬氏は蕭斉まで二王三恪で王の格で扱われたのに
漢の末裔は西晋末の混乱で馬の骨扱いだからな…
誰も漢の末裔の扱いに意を唱えてないところわみると
曹氏司馬氏のクソよりもクソ扱いだったんだろな >>992
汝南袁氏(袁紹、袁術ら)よりも
陳郡袁氏の方が格上 レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。