劉備の入蜀 益州争奪戦
龐統が死ななくても諸葛亮を呼ぶ予定だったらしいけど何で? 張飛や趙雲はともかく、諸葛亮はそんなに期待されてたの?劉備に、実際簡単に平定してるけど
魏延や黄忠を連れていったのは無名だから? >>4
数年かけてやっと落としている
被害も大きく、軍師の龐統が戦死するレベル
それに呉への備えもある >>4
それに蜀の桟道を超えて既に益州内に数万の兵を入れていたし
最初にヨウカイとコウハイを騙し討ちで始末した
それでも徹底抗戦された
264年に3か月で魏に滅ぼされたのに比べると国民が国を守ろうとした 演技被害者の会 劉璋
諸葛亮はこの頃は軍事に携わってないよ
劉備が死んだ後からじゃね、関わったの
IFで面白そうなのは方正中心で蜀制圧
でもって荊州に諸葛亮→名士担当と関羽→叩き上げ担当で樊城戦
まあ方正中心てのが現実的では無いけどどうなるか見てみたかったわ >>8
孔明も負けなしで平定て言われてるよ、劉備をよく蜀の民は受け入れたね 長江遡って蜀攻略したのってこれ除いて前後3例あるが
成家は35〜36年に討伐、成漢は1ヶ月、譙蜀は413年に討伐
劉備一味は212〜214年
他と比べて劉備一味だけ時間かかってるのは幕僚にたいした人物がいないのが分かる
この辺が面白いなんて1は三国時代しか知識ないんだろう ではその時に攻略側が率いていた兵力と守っていた側の兵力も書いてみ 光武帝の頃は最後の敵を全力でって状況で重臣が何人も死んでいる
防御に徹すればかなり守れる
魏の蜀滅亡戦も、楽城や黄金居は最後まで落とせなかったし
剣閣に籠る蜀の精鋭も敗れず兵糧問題で撤退を検討
諸葛瞻でないまともな将軍が1万の兵で徹底的の防御に徹すれば勝てはしなくても破れなかった
もちろんトウガイの挑発にのって打って出たら諸葛瞻以外でも敗れただろう
トウガイ軍は敗れたらもう撤退できず全滅するしかないのだから必死で戦うので蜀は勝てない >>11
不明だけど、北伐前に魏が推定していた蜀の総兵力は九万
漢中に三万とかいるとすると
益州だけでは六万ぐらいかと、荊州軍も五万で足りなかったみたいだし >>10
漫画をみても面白い、劉備の快進撃はここからじゃん >>5
そもそも劉備が劉璋から兵借りるのに
孫権への援軍を口実にしているぐらい
劉備と孫権の関係は劉備が益州制圧するまでは
共同軍といってもいいぐらいの蜜月の関係
それが破綻するのは劉備が益州制圧して
孫権からの荊州返還要請を反故にしてから
なので当時は劉備が呉の備えなんてする筈がない 秦が蜀を滅ぼせたのも騙し討ちや裏切り者の利用だったし
光武帝の後漢も他を滅ぼして全力で攻めて幹部が何人もやられているレベルだし
劉備の時も呉への備えの荊州本国から諸葛亮張飛趙雲をってことは
残っていた軍のかなりの割合を追加しなければいけなかったということだし
険しい蜀の内部に既に入り込んでいて軍師の龐統が戦死するレベルで
国力や兵力的には劉備軍より益州軍の方が上だったのだと思う
もし騙し討ちでない正攻法で攻めたら勝てなかった >>15
そこまで信頼していないかと
末期の羅憲の時は守る兵はわずか二千とかだったけど
諸葛亮、関羽、張飛、趙雲とかなりの兵を残しているからなあ
ロシアが条約破って攻めたのを非難する人いるけど条約なんてむしろ守られないのが前提 >>16
呉の備えとかいう割には
荊州を黄蓋や呂岱が闊歩している状態で
劉備と孫権が共同軍という前提でなければ
色々おかしいんだが
そもそも劉備は劉璋に請われて対張魯の前線任されたのであって
諸葛亮や張飛や趙雲は劉備豹変して益州攻略する時に必要なので益州戦線に投入されたのであり
別に当時同陣営の呉の備えとして荊州に残ってた訳ではない
もし呉の備えとして本当に必要だったなら劉備が諸葛亮張飛趙雲を益州戦線に投入した時点で
荊州は速攻で孫権のものになってる 蜀が手ごわいから張飛や諸葛亮を呼んだのかもしれないけど軍事面で諸葛亮を信用してないなら
呼ばなきゃいいのに
そうすりゃ関羽の悲劇はなかったのでは? >>19
長期間攻めてた葭萌が落ちた後に諸葛亮呼んでる
むしろ蜀平定の目処がついたから戦後処理したり
その後の内政のために呼んだのがメインの理由じゃないか? 赤壁もそうだけど諸葛亮が来た瞬間に蜀攻めもとんとん拍子に見えるから演義の水増しも
しょいがなく見える >>19
軍事以外の事務処理とかもあるしそれができないと軍隊がまともに機能しない
龐統が死んで様々な不都合が生じたのかと
演技だけだったらごめんだけど龐統が死んだから孔明を呼んだような >>19
諸葛亮は事後処理だと思うよ
軍権を持ってたのは劉備だし諸葛亮はそもそも軍事面を担当してない
演技ではこの頃から既に軍権持ってたけど
関羽の悲劇は諸葛亮がいたら回避できると思う 当時の曹操の勢力より強大な後趙があるため桓温は1ヶ月で蜀制圧
しかしこいつらは曹操のちょっかいもなく2年もかけてちんたら制圧
雑魚勢力同士やから温い攻略ができたんやね
争奪戦(笑) この辺から漢中まで張飛と黄忠がやたら活躍してるイメージだけど趙雲は活躍してないの?
空上の計や全身肝は演義だけだっけ? ・龐統戦死より諸葛亮の荊州出発が先
・龐統戦死より張任処刑が先
この辺りは前後を逆に認識してる人がが多いところ >>26
それ俺も他のスレで指摘したけど演技も正史も読んでない人が横山三国志のイメージでレスしてきて認めないんよね
諸葛亮別動隊が益州入りするのは劉備本体が出発する時点での確定事項っていうのが分かってない
妄想だけで間違い書き込んで指摘されたら拒否るからまともにレスするの無駄だよ >>25
入蜀戦では活躍して昇進してるよ
ただ、そこからしばらくパッタリ
みんな大好き趙雲別伝に漢中戦での全身胆がのってる 龐統は劉備とうまくやってたのかなぁ生きてたら法正以上の活躍はできたろうか >>23
蜀書の諸葛亮伝に益州の郡県を平定したと書かれてるんだから
事後処理ではないだろ
普通に戦力として諸葛亮を援軍に呼んでる いつかは書きたい三国志を読んでいたら
龐統が秦だから孔明を呼んだって書いてあったよ 龐統が死ぬと、劉備の前から、孫権が送った目付け役はいなくなった。蜀攻めは、劉備軍みずからの戦いに変わる。劉備は張り切り、張飛、趙雲、諸葛亮を益州に招いた。
http://3guozhi.net/c/ht2.html グレーかこみのなかに、ぼくの思いつきをメモします
と書いてあるからいいんじゃないの
龐統呉臣説は龐統が周瑜の元配下とか
呉臣の陸績・顧邵・全jらと仲良しとか
劉備が龐統をクビにしようとして魯粛が人事に介入とか
色々根拠があるので話題にされるのはある意味仕方ない
それよりも諸葛亮は蜀随一の親呉派で
魯粛とツーカーの親しい仲なのはあまり語られない不思議 諸葛亮南蛮や北伐を見ると龐統なんかより軍事うまそうだ 劉備(後主)、諸葛亮、張飛、趙雲、劉封
すべての伝で「劉備は葭萌より還って劉璋を攻め、諸葛亮伝を呼んだ」と書かれている
何処にも龐統が死んだ後とは書かれていない
>>32
「なぜ龐統が死んだ後に諸葛亮達を呼んだ」ことを前提で書いてるけど、その根拠は書かれてないな
あと、「グレーかこみのなかに、ぼくの思いつきをメモします。」と明記されている通り、自説を書いてるだけでしょう >>33
諸葛亮や趙雲がイリョウに行かなかったのは親呉派だったから外されたのかな
反対していたからとも言えるけど
フランス外人部隊も出身国への戦争は拒否できるらしい >>33
独立勢力か配下かを問題にして議論している人もいるけど
形式的には末期前は王を名乗らず、公式には漢の官職だから
上司部下や同僚ではあっても王と家臣ではないんだよね >>36
あまり語られないけど諸葛亮は魯粛(217年没)の喪に服していたので
それ以前は蜀科制定などの治績が確認できるのに
217年〜220年辺りの活動は漢中王の上表に名前連ねている等ぐらいで
劉備の漢中制圧(219年)や関羽の荊州失陥(219年)では
特に目立った活動が確認できないという・・・
関羽や張飛が死んだ頃の諸葛亮は喪中もしくは喪から復帰したばかりなので
親呉派でも劉備の東征などの呉との対立を止められるほどの影響力発揮できなかったかも >>37
形式的には漢臣だけど
やはり孫権と劉備との間には主従まではいかないまでも
一種の雇用関係(孫権が劉備を傭兵として飼う)があったのは
劉備が荊州の支配権容認してもらうのに京城の孫権に会いに行ったり
後々まで荊州借用問題が存在するのが蜀側呉側両方から伺わせることなどでわかるが
雇い主孫権(討慮将軍・会稽太守)よりも雇われ側劉備(左将軍・豫州牧・宜城亭侯)
の方が漢臣として格上なのがいつ見ても面白い
まあ主従の関係がねじれなのでいずれ関係破綻するのはある意味仕方ない >>39
三国志の漫画で玄徳はたかが左将軍と言われているけど
前後左右将軍は九卿と同格で左将軍は前将軍の次の序列2番目
実は劉表や劉璋よりも官位が高いんだよね
というか前後左右将軍は大将軍に昇格できるから
劉備って勢力は弱いけど、官職的にはかなり高位 >>27
横山三国志に限らず「ぼくのさんごくし」のイメージでレスする奴多いのは確か
あまり語られないけど例えば劉備が荊州南部四郡を独力で獲得した思ってる奴多いけど
実は劉備が関羽張飛を周瑜の南郡攻防戦に参加させる代わりに
孫権から兵借りて赤壁と同じく連合軍で荊州南部四郡攻略してるからな
あと何故か荊州南部四郡攻略は劉度(零陵)→趙範(桂陽)→金旋(武陵)→韓玄(長沙)
の順と信じている奴多くてビックリするがどうみても江夏からだと兵站崩壊して不可能なのは
地図見れば明らかで実際には周瑜の南郡攻防戦の一環で長江挟んで反対側の武陵の金旋と戦闘して金旋敗死
その後江北との連絡断たれた残り三郡は戦闘せずに降伏というイメージよりもショボい経緯
あと劉備が荊州南部四郡完全支配してたのも怪しくて諸葛亮が長沙零陵桂陽の租税徴収してたが
劉備が政庁を置く公安のすぐ傍の武陵に黄蓋そして船で遠くない陸口に魯粛が居るという監視状態
周瑜や魯粛の奉邑は荊州南部四郡に点在でどうみても孫権が劉備に荊州貸してる状態
やはりイメージというのは事実検証するには害悪でしかない こち亀でもあったけど
このバッジを付けていれば上司でも罰することができるというような
上司を取り締まれる権限があったら事実上最高位みたいになるね >>41
しょぼくはないかと
戦国時代でも韓は野王を秦に取られたら北方の上党は孤立して降伏するしかなくなった
なぜか戦争に無関係の趙に降伏しやがったけど 南部四郡攻略に孫権が兵を貸したなんて記述あったか……?
誰がそんな攻略順序を信じてるのか知らんが先主伝通りに武陵、長沙、桂陽、零陵の順で攻略すれば何もおかしくないと思うぞ?
周瑜の奉邑が四郡に点在というのも言い過ぎで南郡と呉に面した長沙にだけ
黄蓋の太守位は一時的なものに過ぎずすぐ長沙に移る
周瑜の死後は魯粛のそれを引き継いだ程普が劉備との取り決めですぐ南郡から撤退する
単に劉備が孫権と正式に取り込めるまでの混乱では?
劉備がわざわざ孫権を車騎将軍に推薦したり、孫権を上位に置いたのは信憑性あるけど どうでもいいけど正史三国志でさえ
場所や地名が間違いなんじゃないかってのがあるレベルなんだから
邪馬台国の地理なんかが正確だと考える方がおかしい
一説には実は正しいって有力説もあるみたいだけど 朝貢者がヤマトを名乗っててその音を漢字で表したら邪馬台になったわけだから
やっぱりヤマト(大和)国だよな >>38
楊洪伝に劉備と曹操が漢中を争っている時に兵を送れという催促がきて
諸葛亮は楊洪にどうするか聞いたら楊洪はその通りにすべきというエピソードがあるので
普通に考えたら諸葛亮は劉備に援軍を徴兵して送ったのだろう >>44
あの当時の劉備は兵站を持ってないから孫権からの借りだろ
兵の貸し借りでは無くて
兵と食糧の貸し借り >>44
>南部四郡攻略に孫権が兵を貸したなんて記述あったか……?
周瑜伝注の呉録に劉備が張飛と千の兵を貸す代わりに周瑜から二千の兵を借り受ける話あるな
時期的に南郡攻防戦の最中で荊州南部四郡攻略の直前と推定されるので
孫権から直接兵借りてる訳ではないが呉から兵借りたのは根拠ない荒唐無稽な話ではない
>誰がそんな攻略順序を信じてるのか知らんが先主伝通りに武陵、長沙、桂陽、零陵の順で攻略すれば何もおかしくないと思うぞ?
先主伝通りに武陵、長沙、桂陽、零陵の順で正解だと思うが
演義特に横山三国志のイメージでレスしてくる奴は漏れなくそんな攻略順序を信じてるという感
まあリアルでも横山三国志のイメージで赤壁の戦いで東南の風云々考察し出してた奴見た事あるから
そういうレベルの低いニワカ系三国志好きはそこいら探せば一杯居ると思うが
>周瑜の奉邑が四郡に点在というのも言い過ぎで南郡と呉に面した長沙にだけ
確かに四郡に点在というのも言い過ぎだが魯粛は周瑜死後に周瑜の兵4千と奉邑を引き継ぎ
その後南郡から陸口に移って兵を4千から万余人まで増強できているので
劉備に南郡は貸与しているが奉邑はそのままだったともとれる
>黄蓋の太守位は一時的なものに過ぎずすぐ長沙に移る
>周瑜の死後は魯粛のそれを引き継いだ程普が劉備との取り決めですぐ南郡から撤退する
>単に劉備が孫権と正式に取り込めるまでの混乱では?
黄蓋は武陵太守・偏将軍の地位で在官のまま215年頃に死去しているのが昨今の通説
荊州南部四郡治めている筈なのに諸葛亮が租税徴収してるのは零陵、桂陽、長沙の三郡で
武陵に関しては諸葛亮の統治が及んでいないのは諸葛亮伝にもある通りで
零陵太守は郝普、桂陽太守は趙雲、長沙太守は廖立と劉備配下の人物が就いているのは確認できるが
武陵太守のみいくら探しても劉備配下の人物の名前が出てこない
要するに黄蓋死去以前の劉備側の武陵実効支配の痕跡が確認できない状況
劉備側が明らかに武陵実効支配確認できるのは215年に劉備と孫権が荊州の領有争って
湘水を境界線として江夏・長沙・桂陽は孫権側、南郡・武陵・零陵を劉備側として和解して以降
あと蛇足だが黄蓋の長沙への越境反乱鎮圧は黄蓋の最初の君主孫堅が長沙太守の頃の専売特許で
黄蓋が孫堅の真似したとしてもおかしくない 曹操と劉備に共通点が多い。劉備は袁術に、成り代わったのでは? 本当に孫権が上位の雇用関係があったとしたら
劉備が孫権の益州攻めを軍動かして邪魔した時点で破綻してるだろ
そもそもそういう行為さえできなかっただろって思う
正直、孫権が上位の雇用関係があった説は怪しいと言わざるを得ない >劉備が孫権の益州攻めを軍動かして邪魔した時点で破綻してるだろ
210年の時は劉備の反対もあるが益州攻め中止の最大の理由は周瑜の死
主将が孫瑜では実現ほぼ不可能で時節に適っていない
孫呉ばかりでなく春秋時代の呉も楚を攻めようとして時節に適っていない時は
孫武が反対して中止しているので別におかしい事ではない
211年の時は劉璋からの要請で益州に兵を入れれるという奇跡的展開
益州制覇する戦略は孫権劉備共通の認識なので
孫権は劉備の蜀入りを容認して邪魔せず呂岱を別軍として派遣までしている
孫権と劉備の関係は劉備の蜀入りの時点では特に関係破綻していないよ
そもそも関係破綻しているなら呂岱は荊州通過して張魯の近くまで到達できない
明らかに関係破綻したのは劉備の益州制覇後の荊州返還問題 その辺は魯粛の考えに基づいていると思われ、孫権は後年魯粛が劉備を助けたことを批判している。 >>51
たまに三国志時代で部下か独立勢力か考察している人がいるけど
形式的には官職、つまり公務員だから
上司や同僚でしかないんだよなあ
主君と家臣ではない、少なくとも末期まで王は原則名乗らなかった 荊南の地が全部、孫権に領有権があり劉備は借りてるだけとするなら
劉備が荊州牧になるのを許すとは到底思えんな
劉備が孫権に借りたのは一部だけとするのが自然だろう >>55
そうかな?
曹操が上奏して劉備を豫州牧にしたり
劉備が上奏して孫権を徐州牧にしたのと同じで
領有権と官位は一致しないのでは?
それに本当に劉備に荊州の領有権があれば
わざわざ京口の孫権の所に赴いて荊州借用を申し出たりしない
孫権はそれに応えて妹を劉備に嫁がせたりしてたので
この当時の孫権の劉備観は極めて好意的 >>56
だから一部の土地を借りるために劉備は孫権の元に赴いたんだろ? 「須得涼州,當以荊州相與。」
劉備の言葉だと借りてるのは荊州全部ともとれる
一つ言える事は孫権は荊州全部(支配外の南陽郡除く)貸してるつもりで
劉備は荊州を返すつもりが無かったという事
その齟齬のおかげで最終的に関羽は死に荊州は結局呉のものとなった 君自ら取るべしの遺言と一緒で何をかを明確には言っていないんだと思う
現代の国際外交でも何々は全ての何とかには含まないとかある意味卑怯なやり方をやる
周辺事態と言いながら理屈次第で全世界が対象になるとかいくらでも解釈を変えられる
政府が発行を禁止している信用状に銀行券は含まれないとする最高裁判所の解釈とか
言い張れば、犬は駄目だと言いながらプードルや柴犬は犬ではないからOKとなる 相與って与えるって漢字が使われているけど意味は「お互い」。
劉備は涼州を手に入れたら荊州はお互いにしましょう、つまり割譲しますよ返答したわけ。 https://cjjc.weblio.jp/content/%E7%9B%B8%E8%88%87
「相與」の言葉はいくつかの意味あるな
主に分けて3つ
1:【動詞】つきあう,交際する.
2:【副詞】相互に,互いに.
3:【名詞】知り合い,なじみ.
>>61氏は2の意味で解釈したようだが
それだと「荊州相與」ではなく「相與荊州」と書かないとしっくりこない
1で解釈して「涼州を手に入れたら荊州を返すので今後も仲良く交際しましょう」
3で解釈して「涼州を手に入れたらなじみの荊州を返します」ともとれる >>62
まさに荊州を以て相与せん
相与してどうするのかの部分が書かれていないだけで文法上おかしいわけではない 漢文って文法がないから(正確にはまともな文法がなく名刺形容詞とか色々おかしく)
要するに一つの文章が複数に解釈できてしまう
だから儒教とかで表現を覚えないとまともに文章の読み書きができない 単純に荊州を以て相與せんとと気を持たせるような言い方でぼかしただけでは
それこそ相與荊州だと言質になっちゃうから 劉備は早い段階から複数の嫁さんいたはずよね?
子供できなかったんだっけ? 曹操に下邳を攻められて逃げ出したとき、妻子置いたまま逃げたと書かれてるよ
他にいたとしても流浪の途中で死んだんだろうね 劉禅と諸葛瞻はどちらも父親が46歳の時に生まれた長男なんですよね >>65
ぼかしもなにも
劉備は劉ショウが攻められたら荊州を放棄するって宣言してる 劉備の家系は不明な点だらけなんだっけ
劉邦の系譜にしても劉秀の系譜にしても子孫多過ぎて皇族なんて星の数ほどいるらしいし >>73
現代日本でもひいおじいちゃんの名前が分からないとかあるし
10代前なんてもう分からん
たまに子孫を詐称する人いるけど違うと証明するのもできない
誰々の子孫だけど分家の落ちこぼれとされるとほぼ庶民でもあるそうな気がするし 武伯追獲夏莫且。寧羲騅斬之以徇。ゥ族喜躍響應。傳謂兪于入之誅。 ここで気付く事がある。蒋琬の時代に入り、それまで兼任する事のなかった掾属の兼任が、それも司馬と監軍を兼任する例が現れるようになった。
何故であろうか? >>73
あの北の果てにいる段階で
犯罪者か地元にいられなくなって落ちのびたからしい
まあ、物凄い変わり者という可能性もあるけど 劉封が実子なんて話聞いたことないけど関平と間違えてない? 長男劉封
次男劉邦
三男劉禅っていうパラレルワールドなんやろ 孫夫人が劉禅お持ち帰りしてくれてれば
蜀漢の未来も明るかったろうにな うーん、仮説に仮説を重ねてストーリー作った感じ
諸葛亮の陰謀というなら、諸葛亮に批判的といわれている陳寿が書かない理由ないし
なにより資料としたろくでなし三国志とか、とんでも説メインの娯楽本だろう >>86
陳寿が生まれる前に近いから知らなかったのでは何でも知ってるわけじゃないし
正史も間違いはかなり多いから
それに張邈や反乱を考えるとみんな諸葛亮を支持していたわけではないと思う
人事権も完全に握った独裁者だから言わなかったか言って罰せられたか ほぼ同時代の陳寿が生まれる前なので知らないことをなんで1000年後の人が知ってるのか
裴注でもそんなん言われてないし >>85
である、とか可能性が高いとかしか書いてないんだがw
こんなのを根拠とするなんて酷いもんだな
というか、あまり見ないサイトだし自分で書いたのをここで紹介してるのかな? 劉備の妻子が徐州で曹操にとっ捕まえたって正史に書いてあるからなあ >>92
今の三国志通気取りの人はこのレベルが普通やで
ゲームの真三国無双のヒット以来漫画や創作もの読んでればマシ
奇書を拠り所に荒唐無稽な異説唱えてたら識者気取り
楚漢戦争の人物論も1200年後の資治通鑑で装飾されたものを真に受けているアホばっかりやし >>8
劉璋はむしろ演義が劉焉劉璋時代の細かい情勢を書いてないおかげで劉備が来るまで益州は平和だったなんて錯覚抱いてる馬鹿が結構いるからむしろ演義のおかげで得してるだろ
ましてや演義は宴席で不意打ちなんてセコい真似を拒否しただけの正史劉備を同族だから益州攻めを躊躇するという謎改変
その描写にミスリードされた結果、何故か正史劉備が同族に対して侵略した!なんて本来この時代的にはだから何?としか言いようがない理不尽な批判されてるというね だから何とはならんでしょ
だって援軍の振りをして、それも無理な量の兵や物資を要求して
相手がその量の半分は出しているのにそれを理由に侵略だから
戦国時代でも非難されるようなことやっいぇいる 詐欺強奪の非難出なかったからセーフってそんなんあるかって話ですしね
まさにリアル893の所業 劉備は、呉の兵が三万しかいないことを聞いてショックを受けたらしいけど
逆に言えば、三万しかいなかったから一万の劉備と同盟してくれたのであって
劉備が納得・満足するような兵力、例えば十万とかいたら同盟してくれない
だから、劉備が満足するような相手と同盟なんて根本的に有り得ないこと
完全に臣従するなら配下の一部将あたりにはしてくれるかもしれないけど それはつまり自分より少し上ならしぶしぶ同盟するが大きな相手は簒奪の対象になるということ? >>99
呉に十万、二十万の兵がいるのならば、劉備の一万なんかいらない
あるいは配下の武将の一人として臣従するならってことかと
劉備に呉以上の兵力があるのならば、その兵力で荊州のどこかにこもって曹操と戦うかと
仮に劉表が生きているか、次が降伏しなければずっと敵対していた呉楚の同盟はあるかもしれない
劉璋に家臣が言ったように、低く扱えば劉備は不満を持ち、高く扱って住まうと
1国に2人の主君、というか確実に劉備が上になって乗っ取られてしまう