三国志・蜀将討議スレッド17
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>>845
イメージしてる公務員てのは官吏の吏のほうでは >>837
ようにんとかあるけど支配下にない地域の太守とかでも嬉しいものなのかね
朝鮮共和国から東京都知事に任命されたら実権なくても嬉しいのだろうか 馬忠・張翼・廖化・ケ芝・李恢・王平・張嶷
地方統治と軍事、中央での官僚、文武に結果を残したこのメンツで、一番能力が高いのは誰? 黄権に比された馬忠だな
張嶷は馬忠の部下に過ぎない 西晋以降、蜀出身者は劣った家柄と見なされた。
それ以降の王朝でも蜀出身者(蜀姓)は、日本における群馬県民並みに劣等地方民とバカにされた。
北魏の薛聰は、孝文帝に「お前は蜀姓か」とからかわれて「劉備に従って蜀に行っただけやん」と弁解している。
薛永は、薛聰の9代前の先祖で、呂布の家臣薛蘭の子。
北魏の時代になっても、蜀出身者への差別が残っていたぐらい。
呉出身者はそうじゃないのに、なぜ蜀出身者は差別されたのだろう? 修正
北魏の薛聰は、孝文帝に「お前は蜀姓か」とからかわれて「劉備に従って蜀に行っただけやん」と弁解している。
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北魏の薛聰は、孝文帝に「お前は蜀姓か」とからかわれて「ご先祖様の薛永は、劉備に従って蜀に行っただけやん」と弁解している。 436年4月、遼西国を揺さぶって、北燕を1万で滅ぼした。439年9月、北涼に親征。442年、後仇池を滅ぼした。
華北に150年ぶりの統一政権を樹立した。 思考停止はダメですね。物事の因果関係をきちんと理解するのは大切ですね。 >>862
そうでもない
春秋時代の呉は中原の覇を狙うぐらい勢いもあり、もともと巴・蜀のように辺境・未開の異民族の国というイメージを中原の国から持たれていなかった
さらに、西晋が八王の乱、続いて異民族による永嘉の乱で乱れ、洛陽では異民族によって大虐殺がおき、西晋は滅亡した
蜀の地には氐族によって成漢が建てられたのに対し、呉の地には呉の豪族たちの協力により、司馬睿が東晋を建て中華の人々の避難先となった
そのため、そのため、呉の豪族たちは東晋の貴族となり、呉のイメージは大幅アップ
一方、蜀出身者は異民族への偏見・憎悪もあって後世に渡って蜀姓差別を受けることになる 黄権が東征から無事帰還でき、李厳が多少は問題を抱えつつも罷免されるようなトラブルは起こさなかった場合、諸葛亮の死後の蜀の指導者は誰になったのだろう?
劉備を皇帝に推挙した時の地位からいけば、李厳(興業将軍)>黄権(光禄勲→鎮北将軍)>蔣琬だ
黄権が蜀にいれば北伐に従軍しただろうから、諸葛亮の死の時点では黄権が李厳を上回っているかもしれない
どちらにせよ、蔣琬よりは上位にある 蔣琬は上位の魏延や楊儀を差し置いて後継者に指名されてるから問題を抱えてたら李厳は指名されないのでは
黄権は北伐でどれだけ諸葛亮に信頼されるかの問題になる
あとは史実のように後継者争いが起こってだれが勝ち抜けるか >>864
楊儀だって、軍官としては驃騎将軍の李厳、車騎将軍の劉琰、征西大将軍の魏延、前将軍の袁綝、左将軍の呉懿、右将軍の高翔、後将軍の呉班より下位
楊儀は綏軍将軍・漢中丞相府の長史で、最高軍事指揮官としての諸葛亮の長史
蔣琬は成都丞相府(留府)の長史で、録尚書事・益州牧の政治家・諸葛亮の長史
楊儀の自負はともかく、周囲から見た場合の楊儀と蔣琬の身分差はそれほど大きくはなかったのではないか? 普通に留守首班蒋琬の方が上だと思うけどね
丞相の代理人で北伐中には撫軍将軍(大が付いていないので二品官ではなく3品官?)になっている
しかし仮節はされていない
楊儀は四品官相当と思われる綏軍将軍から昇格してなかったと思うんで諸葛亮死去した時点で階級でいうと1つ下(もしくは2つ下)
他に高位の将軍には魏延、呉懿がいた
魏延は北伐中に二品官相当の征西大将軍に昇進して仮節
呉懿は魏延と同じタイミングで三品官相当の左将軍に昇進するが仮節はなし
諸葛亮と魏延の2人の仮節持ちが亡くなった後に蒋琬は尚書令になって仮節
呉懿は車騎将軍になって仮節
北伐時途中での昇進も含めて改めて楊儀を含めた蜀の人物の立ち位置を相対した魏の人物と並べて考えてみると
丞相諸葛亮と大将軍曹真
留守丞相府首班蒋琬と苑守備にあたった驃騎将軍司馬懿(仮節あり)
前部督から仮節征西大将軍になった魏延と二品官特進のチョウコウ(仮節不明だけどおそらく大国魏の先鋒総大将なんでありと推測)
丞相府長吏四品官相当の楊儀と大将軍長吏で四品官相当の建威将軍郭淮
上位からそれぞれこんな感じの序列だと思う
魏は大国で仮節持ちが蜀より多いので仮節のない蒋琬が司馬懿と五分ではないだろうという話は当たり前として序列として見た場合っていう事で
北伐中に蒋琬に仮節しなかった理由は李厳、李恢が仮節されていて遠征軍丞相府入りした不在の武官達の代理でこの2人が行っていたからだと思う
小国蜀で既に4人の仮節がいるのに更に蒋琬にまでとなると乱発過ぎるので
何となく書いただけで詳細を確認した訳ではないので昇進のタイミングや仮節の時期などに間違いはあるかも知らないのであしからず 諸葛亮から楊儀より信頼されたから留守を任されたのたんだとは思うが制度が違うから品官で比べるのは意味ないと思うわ
完全な形で蒋琬の方が上だったら楊儀が自分の方が官位で先んじてたってのがおかしすぎる
諸葛亮も劉備が漢中王になった時は昇進しなかったけど丞相になって許靖を抜いたし抜擢人事ではあっただろう
仮節は成都で劉禅と一緒にいる蒋琬には必要ないやろ 楊儀は綏軍将軍・漢中丞相府長史
蔣琬は撫軍将軍・成都丞相府長史。
蜀における綏軍将軍の品秩は不明だけど、四征・四鎮将軍や驃騎・車騎・衛将軍と同じ二品の撫軍将軍のほうが一般的には上。
もともと蔣琬が上位者であって、楊儀を追い抜いて抜擢されたわけじゃない。
諸葛亮といる時間が長い楊儀が勝手に「俺が丞相の右腕だ」と自負して勘違いしていただけ。 ん?
自分で書いておいてアレだけど、二品なのは撫軍"大"将軍で、撫軍将軍は三品なんだっけ?
ちなみに、蔣琬の前任の張裔は輔漢将軍・成都丞相府長史。
蜀の輔漢将軍は輔国将軍と同格だから三品。 諸葛亮の死後、政権を掌握したのは尚書令・仮節・行都護・領益州刺史となった蔣琬
丞相長史だった楊儀は中軍師、丞相司馬だった費禕は後軍師となり、これを補佐
軍のとりまとめ役は、右監軍・輔漢将軍の姜維、前領軍の張翼
呉に備えつつ成都と漢中をつないだ李厳の後任が、前軍師・兗州刺史のケ芝
漢中にあって魏に備えた魏延の後任が、車騎将軍・督漢中の呉懿、後典軍・安漢将軍の王平
「上位ごぼう抜きの抜擢」と言うなら、蔣琬ではなく姜維・張翼・王平だな >>873
楊儀の綏軍将軍は李厳弾劾の上表で四方将軍と征南将軍の間に入ってるから二品クラスの可能性あるぞ >>875
三人とも諸葛亮の生前からそれなりの地位だったしそんなに大抜擢か?
楊儀の自負は直前に魏延の反乱を鎮圧したというのもあっただろう >>876
名前の感じからすると、鎮軍将軍とか撫軍将軍と同レベルだったのかね 蜀漢の本紀とも言える劉禅伝に、魏皇帝崩御の記事が一切ないことが気になります。対して孫呉に関しては、孫権の薨去、孫亮の退位の両方がちゃんとある。 222年、孫権の王位は曹丕に剥奪されてしまい、以降の呉王は孫権の自称だったと思われます。
それでもその後も引き続き王国の体裁があっただろうことは、225年に顧雍が丞相に任じられていること、孫登が引き続き王太子であったことから分かります。 徐州東海の麋氏って魏晋時代に学者・行政官・上級軍人を輩出したそれなりにすごい豪族だったのに、麋竺は商人、糜芳は裏切り者として軽く扱われがち
麋竺+糜芳で魯粛のような立ち位置の人たちなんだけどなあ さらに分析を進めると、血液中に抗麻疹抗体があっても、病気からの回復や再感染の予防には必要ないことがわかった。 麻疹ワクチンの歴史
麻疹ウイルスはRNAウイルスに典型的な突然変異の多いウイルスである。ウイルスの複製過程はあまり正確ではなく、エラーを修正するメカニズムもない。つまり、ウイルスが複製するとき、それ自身の正確なコピーを作るのではなく、多様なウイルスファミリーのように、わずかに異なる多くのバージョンを生成するのである。このため、ワクチンの効果を低下させるような変化が急速に起こる可能性がある。 1985年のLancet誌の研究では、注射された麻疹抗体と予期せぬ長期にわたる免疫障害との間に有意な相関関係があることが示された。 ある子供たちは麻疹を予防するために、麻疹ウイルスに感染した後に麻疹抗体を注射された。その結果、麻疹感染の典型的な徴候である発疹が見られなかった。しかし、麻疹で発疹が出ないことは、長期にわたる免疫障害により、成人になってから免疫系障害につながる可能性がある。
(ブログ主 コロナ注射ととても似ていますね〜。コロナ注射は免疫を下げちゃいますから、病気にかかっていても、目立った反応は出ずに進みます。過去記事でご紹介しましたように、3ヶ月に一回コロナワクチンを打って免疫を下げ続け、症状が表面化しないようにしてますが、泉市の統計では7回目で人間の身体がもたなくなるようです。) この研究では、麻疹ウイルス感染時に抗体を注射すると、身体の自然免疫、特にT細胞がウイルスを殺す能力を妨害する可能性があると述べている。その結果、ウイルスは生き残りやすくなり、体内に潜伏したままになる可能性がある。著者は、麻疹にかかった後に免疫グロブリンを使用しないよう注意を促している。 関連する可能性のある免疫疾患には、関節炎、エリテマトーデス、多発性硬化症、心膜炎、甲状腺炎、結合組織病、クローン病、脂漏性皮膚疾患、骨変性疾患、特定の腫瘍などがある。 >>877
姜維は新参・外様ってことで、実際には諸葛亮の下で活躍しているし、高い職位はもらっているけど、李厳弾劾の上表の順番に見られるように表向きの席次は低め
王平も関羽・張飛・魏延がたどってきた道と同じく、知識階級から軽く見られていた
建前と実際の職位が一致して、名実ともに蜀の政権&軍部となったの蔣琬死後からだよ 間違えた
名実ともに蜀の政権&軍部となったの蔣琬死後からだよ
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名実ともに蜀の政権&軍部となったの諸葛亮死後からだよ 姜維は楊儀、費禕と並んで諸葛亮死後の命令を受けてその役割は魏延に次ぐ殿で
魏延が命令に従わない可能性を指摘していたことを思えば相当重要だった
実際に諸葛亮伝の漢晋春秋では姜維が楊儀に命令して司馬懿を退けている
李厳弾劾の上表でも許允、丁咸はよく分からないが、抜いたと言えるのは劉敏くらいでは?
王平は抜擢といえるのは第一次北伐後の昇進だろう
第四次では無当監として精鋭を指揮して魏延を破るのにも功績があった
上役が消えたからには誰か上げなきゃいけないし袁綝呉懿高翔呉班らも昇進しているんだから急な抜擢とはいえない 王平は帰参して10年以上経っていて北伐でも堅実な仕事ぶりで北伐開始時点の他の人と比較しても特別な出世ではないな
魏延死亡、蒋琬と呉懿昇格で漢中にも地縁のある王平が北伐を前提とする蜀の武官の中で他の将軍より少し大事にされたかなと思うけど
帰参してすぐに偏将軍の肩書きを与えられたのは北伐前提だったからだろうしね
姜維も天水出身の官人出身でその方面のコネクションを見込まれてたから帰参してすぐに倉曹掾・奉義将軍で年齢や帰属年数を考えたら破格の扱い
調略担当をする前提で言うとそれなりの肩書きがある人がやらないと相手も取り合ってくれないのもあるだろうからね >>882
麋竺は宮中の席次で諸葛亮より上位だった時期があったのでは? 孔子は『書経』の中で、「薬瞑眩せざれば即ち病癒えず」と著している いずれにせよ、これから私たちが直面することになる変化は、どんなかたちであれ、人間の存在の仕方まで変えてしまう「種の進化」に近いような変化になることはまちがいない。 この進化の引き金はすでにひかれている。まだまだ大峠はつづく。「種」としての再生と破局のドラマは永続革命のようにつづくのだ。 過去と同じく、未来にはふたつの世界が共時的に存在することになる。 だが、進化から振るい落とされた人間は、大三災、小三災によって廃墟となった都市空間をドブネズミのように彷徨いあるき、無限地獄のような闘争を繰り返すことになる。 >>895
軽く扱われているってのは後世での話やろ 以下の将官たちを、劉備が皇帝即位直前の関羽生存時点での順位で並べ替えよ
関羽
馬超
張飛
黄忠
黄権
魏延
趙雲
李厳
輔匡
費観
劉封
孟達
関平
趙累
趙融
馮習
張南
呉懿
呉班
陳到
陳式
高翔
向寵 関羽、黄忠死亡
黄権は既に魏に降っていない
この程度の事を知らない人って 一方で短気かつ精神的にかなり未熟な面があり、自分の思い通りに事が進まずストレスが溜まると辺りに怒鳴り散らすように怒り狂う事が多々ある。 >>903
「関羽生存時点での順位」って書いてあるぞ?
まだ関羽は生きているし、黄権は蜀にいる 関羽の最終官職は前将軍
リョウカの最終官職は右車騎将軍 森永卓郎氏「新NISAは絶対にやってはダメ!特に中高年以降の人がやるのは危険。若い人でもけっこう危ない」 がんで闘病中の経済アナリスト・森永卓郎氏(66)が14日までに更新されたYouTube「NewsPicks/ニューズピックス」にゲスト出演し、新NISAは「絶対にやってはダメ!」と、強く主張する場面があった。
息子で経済アナリスト・森永康平氏と新NISAについて意見をぶつけ合う企画。そこで卓郎氏は「絶対にやってはダメ! 特に中高年以降の人がやるのは危険。若い人でもけっこう危ない」と持論を展開した。
「今はオルカン(全世界株)かS&P500に投資するのが大部分なんです。このアメリカの株価っていうのは、人類史上最大のバブルになっていて。これがもうすぐはじけると思います」とし「ドットコムバブルで、アマゾンとかアップルとかマイクロソフトだとか、本来の実力を超えて異常な高値を付けている」と指摘した…
続きはソース元で 一応スポニチの記事では3月4日で言ってたな
森永卓郎氏 株価初の4万円超えに「世界規模のババ抜き。今から乗るとババを引く」と警鐘
3/4(月) 17:20配信 50代とかもうあと20年無い人はそもそも駄目だろ
なんかどこかの銀行が20年以上続けられるなら最低限損はしないみたいな指標出してたぞ アホやん
NISAなんて無税枠でしかないんだからNISAじゃなくて今sp500買うなだろ 501:名無しさん@涙目です。(埼玉県) [GB] 2024/03/14(木) 20:42:39.51 ID:Iz0I1s890
>>11
アメリカの富豪は先週くらいに一斉売りかけてるんだが 魏の司馬太傅懿は公孫淵を平らげると、淵父子を斬った。
これより以前のこと、淵の家で朱色の幘・絳衣をつけた犬がいるのが見つかった。
襄平城北の市には、目があって手足はなくゆらゆらと動く生ける肉があり、占者は「形ありて成らず体ありて声なくば、その国は滅亡するであろう」と言っていた。 袁術の羊が神と化す話
漢の時代のこと、斉の人に梁文なる人があって道術を好んだ。
その家には三・四間の神祠があって、しつらえられた坐上には帳が巡らしてあった。
そうして十数年したある日のこと祭祀のおりに帳の中から突然人の声がして、自らを高山君と名乗った。
この神は飲食をよくしたが、病を治してほしいと請えば験があった。
文はこれに対して丁重に仕え、数年もすると帳の中へ進み入ることを許されるようになった。
あるとき神が酔っているところへ文がどうかお顔を見せていただきたしと乞うたところ、神は「ならば手を差し入れてみよ」と応じた。
文が手を伸ばしたところその頤のあたりに触れるを得たが、その鬚はたいそう長いものだった。
文がこれを手に巻きつけて力任せに引き出そうとすると、中からは羊が絞め殺されるかのような声が上がった。
席にあった者たちは驚きながらも文に力を貸して何とか引き出したが、それはいなくなって七・八年になるという袁公路の家の羊だった。
これを殺すと、高山君と名乗る神は絶えたのだった。 レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。 臨県に廖氏という者があって代々長寿の家柄だったが、のちに転居したところ子孫らは長寿ではなくなった。
もと住んでいた家には別の者が入居したが、不思議なことに今度はその家が代々長寿となった。
そこで長寿の理由がその家にあるのだとわかったが、家の何によってもたらされているのかは不明だった。
井戸の水が赤っぽいので疑って周囲を掘り返したところ、古人が埋めたとおぼしき丹砂數十斛があるのがわかった。
丹汁が井戸水に染み込み、この水を飲んだことで長寿に恵まれたのである。 あるとき劉貴は一羽の白鷹を手に入れると、神武及び尉景・蔡儁・司馬子如・賈顕智らと沃野において猟を行った。
一羽の赤い兎を見つけて鷹を放ったものの捕えられず、沢地へとやって来た。
兎が茅屋へと逃げ込もうとしたところ、中から飛び出してきた犬が鷹も兎も噛み殺してしまった。
神武が怒って鳴鏑で射ると、犬は倒れ死んだ。
すると茅屋の中から二人のものが出てきて、神武の着物の襟を強く掴んだ。
その母は両目とも盲いていたが、杖をつきつつ二人の子を「何故大家に触れているのか。」と叱りつけた。
それから甕の中の酒を出すと、羊を煮て客をもてなした。
自ら言うには暗相をよくするとのことだったが、それぞれに触れては皆貴位に至り神武の指揮を受けることになろうと言った。
また、「子如は顕位を歴任するが、顕智は終わりをよくしないでしょう。」とも言った。
食事を終えて茅屋を出て数里行ってから戻ってまた訪れたところ人の住まいなどなく、あれは人に非ざるものだったのだとわかった。
これ以降、人々はますます神武を常人ならずと敬重するようになった。 遼東公孫氏の公孫康の子に生まれ、父が没した時は兄の公孫晃とともにまだ幼少だった為、叔父の公孫恭が遼東太守を継いだ。
立派なジャイアンに成長した公孫淵は、兄が都に出仕している間に、叔父・公孫恭を*お察し下さい*な理由から太守の座を無理矢理に譲らせ、魏皇帝・曹叡より揚烈将軍・遼東太守に任命され、その後は車騎将軍に任命された。 ちなみに兄の公孫晃は弟の性格が分かっていたようで、公孫淵は必ず背くから自分を将軍にして征伐の軍を出してくれとたびたび上奏していた。中国史のパターンではこの場合は助かるのだが、公孫晃に限っては連座してしまい、やはり一族もろとも粛清されてしまう、本人もそのことが分かっていて息子ともども泣いたそうで、高柔や裴松之からも同情されている。この兄が当主であれば潰れることもなかっただろうに。 三国志演義での公孫淵
基本的には同じジャイアンなキャラで登場する。
燕王を自称して司馬懿に討伐されるのも同じで、その際に、最初は和議を結ばんと相国の王建と御史大夫の柳甫を使者を送ったが、
貴様らは楚と鄭の故事を知らんのか?
私も魏帝から列侯に封ぜられた身、王建ごときに囲みを解け軍を退けと指図されるいわれはない。
王建は耄碌して主命を伝え損なったのだろう。次は若く頭の良い者をよこせ
と、王建と柳甫が司馬懿により斬殺されると、今度は、侍中の衛演を使者として人質を送って恭順する旨を伝えたが
降伏も出来ない奴は死ね。
人質など無用
として衛演も切り捨てられ、兵糧に困窮して城を捨てて逃亡しようとしたところを発見されて捕られられた公孫淵は、一族郎党及び廷臣らと共に斬首され、都に出仕していた兄・公孫晃の一族も全員斬首となり、叔父の公孫恭以外の一族が全滅して、公孫恭の死と共に遼東公孫氏は完全に滅亡した。
死ぬタイミングを計れなかった武将と一族の末路が悲惨なのは洋の東西・国を問わず皆同じと言うことであった。
そしてジャイアンとしてふんぞりかえっていた際に倭から魏への贈り物を横取りしていたらしく、遼東公孫氏滅亡後から倭と魏の関係が復活した。 >>902
関羽〜魏延まではそのままでいい
劉封は孟達より上だけど、劉封自体の位置が不明だよね
関平も謎
関羽の襄陽攻撃軍に趙著と関平しか武将がいないのは、本当に人がいなかったのか、それとも関平がその時点で偏将軍・稗将軍クラスになっていたのか 荊州の人が多かったんだろうな
劉備に仕えて日が浅いしそこで終わったから名前も残らない 毒親に囲まれたイッチの人生が悲惨すぎる
恵まれた環境で育った人間に「親を恨むとかあり得ない」とか言われるから、環境格差は拡がる一方やんけ ほとんど戦の功績は史実に残ってないからね
どうしても戦に於いて最前線での軍師としての評価は低くなりやすい >>そんな彼らでも軍事の天才とは呼ばれてないから、三国時代には軍事の天才はいないだろ。
まあそう言われたら返す言葉もないが
人によってどこからが天才と評価するかが違うからな
「人類の歴史上トップクラスでなければ天才といえない」という考えの人であれば、
確かに三国時代に天才はいないことになる
俺も「諸葛亮は人類史上最強の軍人だ!」なんて言うつもりはないよ
ただ、上にも書かれている通り諸葛亮は同時代の人からの評価がとても高いので、
少なくともこの時代においてトップクラスであった事は間違いないと思う 天才っていうのは、天賦の才、努力ではたどり着けない才能を持つ人物の事。
諸葛亮は宰相として間違いなく天才だが、
軍事に限ると、特に目立つような行動も功績もなく、軍事の天才とはとても言えない。 実績は少ないだけだからな。無駄に多ければ一流の証明と言えるわけでもない。 去年1年間に大麻に関わる犯罪で警察に検挙された人は、全国で6482人に上り、これまでで最も多くなりました。10代と20代が全体の70%以上を占め、特に若い世代での大麻のまん延が深刻になっています。
警察庁によりますと、去年、大麻を所持したり栽培したりしたなどとして警察に検挙された人は、全国で6482人と、統計が残る昭和33年以降で、これまで最も多かった令和3年を1000人上回り、過去最多を更新しました。
年代別では、▽20代が3545人と最も多く、次いで、▽10代が1222人と、20代までの若者が全体の74%を占めています。
続きはNHK 2024年3月21日 11:11 レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。 宗教政党が政権に入り込んで以来日本のぶっ壊れ方が凄まじいなおい 酒に比べ健康に全く悪くない
楽しさは酒と、そこまで変わらない
大麻に流れてくのは自然な事 親が氷河期とかいう史上最悪のカス世代だから子供もカスになるのはしょうがない レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。