【反骨の】 魏延 【相】
アンチだの信者だの言い出すと大概くだらない流れになるが
オタ、信者への反動だったら何を言っても許されるなんてことはないし、
>>361>>365みたいな挑発するだけのレスは明らかに不要。擁護する余地なんかない。
>>367>>369>>371はお疲れさん。よぅ我慢したわえらい >>371
潼関を取らなければ長安の維持は不可能とこっちは見ているから、その点で相容れないものがあるのかな。
個人的には、長安での防衛は、無理をして潼関を奪いにいくより運を恃む策のように思える。
長安は防衛面で激弱だし、取ったばかりで飛び地状態の長安で、本軍が来るまで守り通せるかというと、
夏侯楙が逃げるのと同程度、あるいはそれ以上の幸運が必要だと思うんだ。
長期的視野に立った場合、長安を得られる可能性は諸葛亮案の方が高い、と見る。
贔屓目を抜きにしても、魏延案と同程度だろう。なら、ケアができる諸葛亮案の方が順当と見る。
無論、魏延案が成功すれば、短期的に、劇的な形で魏に精神的打撃を与える事が出来る(それは後々の戦略に大いにプラスになる)が
諸葛亮案でも十分だし、なにより天秤にかけた時のリスクを考えれば、魏延案は採用されうるものとは思えない。
魏延案が、周辺の不満を持つ武装勢力の蜂起、協力を前提にしたものなら、
「魏を倒す方法」として、優れたものだ、というそちらの意見に諸手を挙げて賛同するんだが。
そうすれば夏侯楙が逃げなかった場合のケアもまだ利くし、成功時の潼関閉鎖もスムーズにいく。
ただ、これは空想の域を出ないか。
>>373
多分、俺と>>361 >>365を同一人物扱いしているのかな。
少なくとも、俺は>>368 >>370だから、彼らとは関係が無い。
別に信者への反動だから許す、ではなく、曹操の時の騒動を覚えてるから、それを連想しただけだよ。
俺は魏延案に否定的、悲観的な見方をしているから、>>364に乗っかった。
魏延が諸葛亮の北伐で大きな功績があったとは思うけど、だからって案そのものを受け入れる事は出来ない。
誤解を招かない為に含むところはないと前置きしておくが、反動が出るのは、盲信的な信者が暴れた負債、という面もある。
普通に魏延が好きな人には迷惑な話だけど、まあ良くも悪くも北伐関連はいろいろと入り乱れるから、そこら辺は割り切るしかない。 自分の気に入らないレスをアンチ認定、信者認定することが
くだらないと思ったから>>365を書いただけだ
そしたら次はそのレスが同一人物認定されたわけだ
アンチ認定の次は同一人物認定か
ははは・・・・笑い話だね 慎重、堅実、有能の極北であろう諸葛亮が不運のせいで成果を出せなかった以上
大胆、投機的な魏延に一定の支持が集まるのは仕方ないことだね。
だが魏延が司令官として無能なのか有能なのか、
或いは幸運なのか不運なのかが永遠に分からんし結論など出ない 英雄など現代人のエゴで作り出してかまわないんだよ
軍神魏延!非命の忠臣魏延!ロマンだけが真実だ!! >>377
そうだね
実際それでいいと思うよ
だから魏延は英雄!悲運の忠臣!
でも史実の考察してる時にそんなロマンとか後世の創作とか
持ち出さないでね
ちゃんと区別するべし 子午谷は全長約420kmと言われている
これを十日で越えるのは厳しいものがあるが
子午谷を巨視的に計測すると150km程しかない
この違いは何かと考えると傾斜に秘密がある
傾斜がある分距離が伸びるのだがそれでも数qも足せば充分だろう
260〜270kmも差があるのは子午谷が道路だからだろう
則ち牛馬や車も通れるように出来ているということ
牛馬や車を通す為には傾斜が緩くなければならない
最近の大きな建造物には大抵車椅子用のスロープが付いている
車椅子やカートがある高さを登るには、歩行者の十倍近い距離が必要
階段だとほんの四、五段なのにスロープだと8〜10mくらい行かねばならない
これを山に置き換えると人間なら傾斜を数m登るだけなのに
牛馬や車なら数十mを要するという事になるだろう
逆の方がいいかな
牛馬や車が傾斜を登るのに数十mを要するところを
徒歩ならば数mで行けるという事になるだろう
魏延は荷を人が背負って行くと言った
牛馬や車の為の子午道を使わず、徒歩で進行可能な最短距離を行くはずだ
これで日数の問題は片付くだろう
魏延の長安急襲案
精鋭5千と兵糧を背負った輜重兵5千で褒中へ進み、
秦嶺山脈に沿って東へ行き、子午道に当たって北上し、
十日とかからず長安へ至る。
長安を治める夏侯楙は必ず船に乗って逃げ出す。
諸葛亮は斜谷(褒斜道)から来て長安の東の潼関で魏延と合流する。
上手く行った可能性は結構ある。
先鋒を1万とする総勢6万の諸葛亮率いる蜀軍が褒斜道へ向けて進軍を開始する。
その報は密偵により長安に届く。長安の雍州軍は褒斜道の出口へ向かい蜀軍の到来を待つ。
先鋒1万を率いる魏延は褒斜道の入り口まで来ると、輜重車を捨てて兵糧を背負い
褒斜道へは入らず、密かに山脈に沿って東へ走る。子午道の途中に行き当たり、
そこから子午道を行く。諸葛亮の本隊5万はそのまま褒斜道を進む。
褒斜道出口の魏軍は数万の蜀軍がやって来るのを見る。
褒斜道出口で魏軍と蜀軍は対峙する。
魏軍は蜀軍の先鋒が消えたことに気付かない。
魏延は子午道をひた走り、長安の南50qにある子午道出口から出る。
子午道を出た魏延は行軍中に兵糧を消費して身軽になった輜重兵2千ほどを方々に放って
火を掛けて回らせ、自分は精鋭5千と輜重の3千を率いて一気に長安を目指す。
長安の夏侯楙は南方の空が焼け幾つもの煙が立ち上っているのを見て蜀軍の到来を予感する。
そこへ蜀軍が南に突如現れたという報が飛び込んでくる。
南の方々から煙が上がっている状況なので総合的に判断して相当な大軍である模様。
異変が起きて二日と経っておらず長安は事態を正確に把握することが出来ない。
そこへ8千ほどの蜀軍がすぐそこまでやって来ているとの報が入る。
長安の軍は褒斜道へ向かってもういない。
その魏軍が一体どうなったのか、長安はわからない。
蜀の大軍が長安に迫ったということは、既に敗けたのか、どうなのか、わからない。
知りたくても今すぐ確かめるのは不可能。
はっきりしているのは今こうして蜀の大軍が現れ、すぐそこまで迫っているという事。
そして長安にはそれを防げるだけの兵が残っていないという事。
余程肚が座ってないと逃げるだろう。
こうして長安は陥落する。
一方、褒斜道出口の魏軍。
120q離れている東の空が焼けているのは見えるのか、分からないが、
ずっと平野であるし昔の夜は暗いので見えるかも知れない。
褒斜道出口にいる魏軍の兵士の多くは長安周辺に家がある。家族もいるはずだ。
長安の空が焼けていたら激しく動揺するだろう。
空が焼けているのが見えるとしても見えないとしても
数日の内に長安が落ちた知らせが届く。
諸葛亮軍が魏軍の動揺を突いて攻めかかる。魏軍をあっさり破ることが出来るだろう。
長安が既に落ちていることもあって、これで数万の捕虜・降伏者を得ることが出来る。
騎兵で2つの部隊を作り魏延の後を追わせる。
無論諸葛亮も東へ急ぐ。
漢中に使いを出し、漢中に残っている兵の半分で関山道を進ませ
武都・隴右を平定して行かせる。
長安を落とした魏延は千人で西の城門を守り、軍を4千5百人ずつの二隊に分け
潼関・武関を抑えに向かう。(魏略では潼関しか書かれてないが気にしない)
内地なので敵兵は殆どいない。
潼関・武関を落とした頃、騎兵が追いつき、兵力はそれぞれ7〜8千にはなっている。
これで魏軍が押し寄せても、守りに徹すれば本格的な援軍(蜀軍)が来るまでもつだろう。
関に2万も置いて守りに徹すれば敵が6万でも多分落ちない。
東西南北四方に城壁をもつ普通の城を二万の兵で守るとする。
それを六万の敵が囲む。城壁一辺あたり 防衛側5千人、攻撃側1万5千人。
関所の城壁は一辺(単純計算上で)。
一辺を2万の兵が守る。この数字は普通の城の8万人に相当する。
攻撃側の数字も一辺に集中するので、普通の城攻めの24万人に相当する。
がしかし6万人が一斉に関所に攻めかかることは出来ないだろうから
戦闘参加可能員数の上限に引っかかり、過剰分は実効戦力外として数字の上では切り捨てられる。
仮に城壁の長さを1qとすると、
攻撃側が10mあたり100人で攻めると1万人。
防衛側が1mあたり6人で守ると6千人。
城攻めの比率としては城を落とすのが無理な数字。
実際は潼関・武関の横を川が流れているので
この通りには行かないが、基調とはなる。
洛陽から潼関へ、とは来ず
北から迂回して攻めて来られるとどう防ぐか
三輔と河東郡は黄河で隔てられている。
河幅はかなり広く、渡河するには船が必要。
兵1万が黄河を渡るには、20人乗りの船だと500艘
30人乗りの船だと340艘必要。
黄河上流でそれだけの船を調達するのは難しいのではないか。
それに一万程度では戦にならない。
河岸で待ち受け逐次撃滅すればいい。
潼関・武関に2万ずつで4万
黄河に4万
控えに3万
計11万だが、涼・雍併せれば何とかならない数字ではない。
これは潼関に6万、武関に6万、黄河に7万
魏軍総勢19万が一斉に攻めてきた場合の数字で、
いくら魏でも「急襲」による長安陥落という突然起きた事態に
ここまで大規模に即応できるとは思えない。特に黄河方面。
よって蜀には魏が大規模な攻勢を掛けてくるまでに
涼・雍を懐柔できるだけの時間はあると考える。
長安を取ることは可能。
整理
魏延がフェイント、魏が引っかかる
諸葛亮が褒斜道で陽動して魏の雍州軍団を引き付ける
魏延が子午道を速攻で駆け上がり夏侯楙を威圧して逃亡させ、がら空きの長安を占領
諸葛亮と対峙してる雍州軍団は後背地の失陥に動揺してあっさり崩壊。
漢中から部隊を派遣して隴・涼制圧。
魏延は4〜5千づつの2部隊で潼関、武関を押さえる。
諸葛亮の援軍の騎兵と合わせて7〜8千で奮戦し、本隊からの更なる援軍を待つ。
北側を迂回されたるケースもあるだろうが、船を調達出来ないだろうし、水際で撃滅する。
潼関、武関に2万ずつ、黄河に4万、予備に3万を配備できる態勢にすればひとまず磐石。
魏は大規模な動員を掛ける前に蜀に関中以西を掌握される。
魏延は北伐の度に求めたというから
タイミング毎に考える。
第一次は>>137の言う通り。
魏の対応は早かった。
魏延が潼関まで間に合ったか微妙。間に合ったとしても、
兵を休めたり、防戦の準備をする時間はないかもしれない。
少しの遅れも許されない綱渡りのような際どい作戦となっていた。
第二次・第三次
張郃は南陽郡の葉(方城)に屯していた。
他にも荊州には呉攻めの為数万の軍が集結していた。
蜀が潼関・武関を押さえられるか微妙。
それにこのとき関右に魏兵があまり居ないので
長安を落としても兵をあまり吸収できない。
のちのち長安を維持できるかどうか。
第四次
長雨で桟道が断絶している。
第五次
司馬懿の動きが遅い。子午道を警戒して慎重に行動した可能性がある。
もしそうなら失敗する。
だが、どのタイミングでも所詮ダメだったかといえば、そうは思わない。
227年 諸葛亮らは軍を率いて漢中に移り、沔陽に屯した。
3月に劉禅が詔を下しているのでその前後と思われる。
沔陽に屯するまでは南鄭に居た。(多分)
魏延の提案は南鄭でなされたことなので、
長安奇襲が提案されたのは227年3月頃のことだと考えられる。
この頃司馬懿はまだ宛には居らず、孟達もまだ生きている。
魏略には「劉備の死後、蜀に人はなく備えをしていなかった」と書かれてあるが
同じ魏略の、長安に行幸した曹叡が第一次北伐終結後に出した布告文に
高定の名が出ており、曹叡が蜀の辺鄙な所の異民族の酋長の名まで知っていたことが
明らかになっている。
諸葛亮が出陣して沔陽に屯していることを魏が知らなかったとは考えられない。
敵国が軍を出し、攻め込まんと駐屯しているのに備えをしないわけはない。
第一次での魏の対応の早さはこれに由ると思われる。
第二次での魏の対応はと言えば、諸葛亮が陳倉を囲んで20余日たっても
中央軍はまだ来ていない。
囲んだ場所を長安に移して考えれば、約180q洛陽に近づく事になるので
洛陽からの中央軍が長安に到達するのは[20余日+α]−[180kmの行軍日数]日となる。
これが長安陥落から中央軍がやって来るまでの日数となる。
20日という魏延の予想は妥当と言える。
長安−潼関 間が150kmあるので魏延と魏軍が同じ速度で移動したとすると
長安−潼関を4日で移動すると魏延が潼関を落としてから魏軍が来るまで12日。
5日で移動するなら10日。もし3日で移動するなら14日。となる。
荊州方面は武関まで行かなくても途中の丹鳳関でいいかも知れない。
更に孟達を寝返らせれば魏興・荊州を牽制できる。
この通りに進めば、三輔・涼州を策源と出来るし、益州からの輸送も余裕を持って行えるので
兵站の心配は消える。
ただし、これが上手く行きそうなのは沔陽に屯して時間を費やす前まで。
それに諸葛亮の言うようにリスクが高い。
もし子午道出口に敵が居て塞がれていればそれで終わり。
魏延軍一万は食糧不足により全滅しかねない。
それに褒斜道の諸葛亮軍はほぼ無策で出征していることになる。
従って魏延が失敗すれば諸葛亮軍も撤退しなければならない。
撤退時に敵の追撃を受けて大被害を出す危険性もある。
おいそれと秦嶺越えての遠征は出来るもんじゃない。
それに諸葛亮は駐屯地の沔陽で充分な軍事訓練を施して北伐に向かっただろうから
この選択なら史実のような蜀軍の練度の高さは無いことになる。
諸葛亮が却下した一番の理由はおそらく『正義』ではないかと思う。
蜀は蜀国でもなければ蜀漢国でもなく、“漢”国。
蜀の勢力が帝国となって、初めての魏との戦争。
漢にとって魏は「賊」で、蜀は「正義の国」ということになる。
正当な帝国の正義の軍が、奇襲でいきなり快進撃っていうのは格好悪すぎる。
奇襲というのは弱くて卑怯な者のすることだ。
強い者は堂々と正面から当たる。強い者は強いのだからそれで勝てる。
奇襲で長安取るのと、正攻法で堂々と長安取るの
成功したらどっちの方が格好いいか、
どちらの方が他国の漢臣の評価を得られるか、
後者だろう。もしかしたらその後彼らの支持を得られるかもしれない。
正攻法で勝つ自信が有るなら正攻法で行ったが上策。
>>381の辺りからの文章は、前にどこかのスレで見たな。
結構な反論(まあ取るに足らないものもあったが)が飛び交ってたように思うけど、
コピペするほどのものかね。 >>381以降の文章もかなり魏延に御都合的ではあるな そうか?全然思わないぞ。ご都合主義とは偶然を味方にさせる事だが
>>381以降に書かれている事に偶然はなく、戦理と蓋然のみがある。作戦とはそういうもの。 魏延厨を何が何でも叩くスレになってるな
魏延を盲目的にマンセーするより気持ちわるい >>381
これコピペなのか?なんだこれ
この考えだと距離が縮んだ分傾斜も急になって辛くなり
しかも牛が背負う分人が担ぐわけだからそれだけ兵にかかる負担も多くなるのに
牛馬に運ばせると辛くて人が担いで行くと楽
なんてわけないじゃん
それと、日数だけじゃなく兵士の疲労も考えるべきだろう
これじゃ使いものにならんぞ 今の軍隊や特殊部隊とかでは、20〜30kgの装備を背負って荒地を行軍する
ぐらいの訓練はやってるんだろうけど、当時はどうだったのか。
それぐらい出来て当然だったのか、ほんの一握りの精鋭だったのか。
前者ならば話はわかるが、後者ならば、そんな精鋭を五千だ一万だと
簡単に育てられるものなのか。
あと長安の設備とか人数とか全然書かれてないんだけど、
指揮官はボンクラ、兵士達は軟弱者、城壁はボロボロ、
武器防具は竹槍に普段着のみ、だったりするのか? >>400
>牛馬に運ばせると辛くて人が担いで行くと楽
誰もそんな事言ってないって
傾斜が付いても距離が縮んだ方が楽
荷を背負うのは輜重兵と書いてあるよね
>それと、日数だけじゃなく兵士の疲労も考えるべきだろう
>これじゃ使いものにならんぞ
その距離で使い物になる・ならないは、ひ弱な現代人の感覚では量れない >>401
昔の人は現代人と違って乗り物に乗らないから健脚ぶりは相当だろう
江戸時代、町民は普通に一日に10q歩いたらしいし
旅人は40〜80km歩き
飛脚は160〜200km走り
大名行列は32〜45km進んだ
マサイの男は狩りの為に日に100km歩くという
こんな健脚が標準の時代の中で体力に優れた精鋭と物を運び慣れた輜重兵だから無理でないでないの >>397
魏略に書かれてある事は概略
概略だけで物事が運ぶわけないだろ >>402
輜重兵が数人分の食糧を背負って足場の悪い急な坂道を走っていくの?
先に輜重兵が死なないかそれ >>374
しばらく来ていなかったので,返事が送れたことをお詫びします。
潼関を確保しなければ長安防御は難しいというあなたの意見は正しいとしても,
その長安で勝負できないのならもっと難しいと言わざるを得ないだろう。
(さすがに長安城より平地の方が守りやすいということはないだろうし,
諸葛亮案では祁山から東進して郿や長安を攻略する必要すらある。
魏軍が諸葛亮の都合に合わせて平地決戦に応じてくれればまだしも,
持久戦に持ち込まれたら史実と同じ結果にしかならないだろう。)
また,魏延は「而公從斜谷來,必足以達。」と言っているのだから,
諸葛亮を待った上で,長安で決戦するつもりだったとみていいだろう。
だから魏延だけで長安を守ること自体作戦としては想定していない。
(魏延のことだから魏軍が先に来たら戦ってしまうだろうけど。)
あと>周辺の不満を持つ武装勢力の蜂起、協力を前提にしたものなら
これは魏延本人はあまり考えていなかったと思うけど,
仮に魏延案が成功して長安以西を確保することができたとしても,
関中や関東で同調者が出ない限り魏を打倒することは無理だったと思う。 魏延スレにしては珍しく立派な議論してたらしいけど、放置されて5ヶ月以上経ってるのか。
その間に、魏延オタクは性懲りもなく論拠のない魏延マンセー、孔明や楊儀への誹謗中傷を繰り返してるようだが。
やっぱり魏延オタクにはまともに議論をする知性はないようだな。もっともここでの議論が立派っていうより、
魏延オタクの妄言があまりに低レベルで、それと比較して立派に見えるってだけなのかもしれないけど。
魏延ファンにもまともなのはいるのはわかったけど、それでもほとんどはキチガイだし、腐乱死体が一万円札握ってても
取りに行きたくないって感じだよな。極々少数のまともな魏延ファンもそうだが、キチガイ共にマンセーされ続け、
結果印象が悪くなってる魏延本人も何か気の毒になってくるよ。 >>409
戦略的にはそのとおりだな。
成功するとすれば劉備本人か,せいぜい諸葛亮までだろう。
(魏延に一武将以上の立場を求めることが間違いだ。) 魏延の様な実力があれば
ああいう人生もありだわ。
所詮うちらは雑兵レベル。 魏延のような人生って言われてもねえ。
手柄を立てて出世したはいいが、偉いくせにトラブル起こしてそれを他人に尻拭いさせ、
ろくな大義名分も下準備もなく反乱起こして、誰にも相手にされず兵士にも
「魏延様は間違ってる」と逃げられ、関わりのないはずの三族まで死に追いやる。
自分を褒めてくれるのは、約1800年後の魏延の都合のいいようにしか考えられない馬鹿ばかり。
とてもじゃないが、ありとは思えないねw 雑談板に立つ三国志スレって正史ガー演義ガーとうるさい奴が必ず湧くのに魏延絡みだと有能描写は正史準拠、イジメられ描写は演義準拠で話が進むから笑える 有能描写も演義準拠に話してると思う
正史だと功績の記述が少なくわりと地味だけど演義は大活躍してるし
あと魏延オタは忠臣忠臣うるさいけど忠臣描写も演義にしかない(劉備を救ってその後諸葛亮に理不尽に殺されそうになり劉備に止められる、など)
他の武将文官に対しては正史ー正史ーってうるさいのに魏延だけ何故か演義準拠で話して
悲劇の名将だのなんだのと持ち上げてる ネットの魏延絡みはネット層特有の自己投影的な変な空気を感じる(これは劉禅絡みにも言える)
劉備の漢中太守抜擢とそれに対する抱負一つで魏延は劉備に対しては忠義という物語が出来るんだからすげーわ
俺はあのエピソードにこの二人の強い結びつきみたいな心情的な浪花節はあんまり感じなかったけどね 正史とか演義とか以前に、魏延に都合のいいこと基準だろw このスレ建てられて7年近く経つけど、
擁護というかマンセーの理屈が妄想やダブスタや責任転嫁ばっかりで、何にも進歩がなくて草生える。
ネットである程度の知識が簡単に手に入る現代で、こんなんじゃ1000年経っても魏延の評価なんて上がらない。 魏延てそんなに嫌われるイメージあるかな?
オレも横山三国志と吉川三国志ぐらいしか読んでないけど、最後の最後で仲間割れしたぐらいで
別に蜀を乗っ取って劉禅から帝位を奪うつもりでもなかったろうし、要は楊儀と派閥争いに不運に
も敗れてしまったぐらいの感じかな。
蜀(劉備勢力)を裏切った武将は他にもいるけど、魏延はその中では一番蜀のために活躍したシーン
も多く描かれてるし、それまでのプラスの貯金で最後のマイナス差し引いても、まだ充分プラスのイメージがあるな。
むしろ楊儀のほうが陰険な小物っぽいイメージがある。 嫌われてないけど「○○のせいで汚名をかぶり嫌われた悲劇の名将」
ということにしておいたほうが○○を叩くのに都合がいいからそうしてるだけ
魏延オタが暴れて諸葛亮をはじめいろんなもの叩きまくったせいで反感買ってそのせいで嫌う奴もいるっちゃいるが
横山と吉川は演義準拠の話なので魏延は正史に比べると良く描かれてるから
悪い印象持たないのは普通だと思う
正史は反乱のところはそのままで、諸葛亮のイジメも無くむしろ優遇され魏延が劉エンと問題を起した時も諸葛亮にかばわれ、
活躍も諸葛亮の下で動いていた時しか記述が無い。演義の魏延が王双を討ったという記述も無い。
ただ、劉備や諸葛亮からの評価はとても高いので、将として有能であることは間違いないと思う。 魏延は孔明が生きてるときは、不満をいいつつも、ちゃんと職務を遂行してた。
魏延はなんだかんだいって、自分より偉い人のいうことはきくタイプだと思う。
孔明死後は、偉い人がいなくなったから、ギクシャクしてしまった。
まあ、蜀の国力、人材不足が原因だね。 >>418
>横山と吉川は演義準拠の話なので魏延は正史に比べると良く描かれてるから
そうかなあ?劉備が総大将で孔明がいない益州攻めでも命令違反して、黄忠やホウ統に
「魏延は命令違反したから処刑したほうがいい」と言われてるし、北伐で陳式とグルになって
孔明を馬鹿にしながら命令違反したら、魏軍にフルボッコされて陳式と責任のなすり付けあいしたり、
孔明死後反乱起こして橋を焼く嫌がらせをしても姜維に看破されたら「魏に降っちゃおうか」とヘタレるし、
とても良く描かれてるとは思えないな。まあ孔明の魏延に対する扱いも問題はあるけど
せいぜいどっちもどっちで、悲劇だの忠臣だのといった歯の浮くような言葉で飾られる男じゃないよなw 少なくとも劉備が最前線である漢中を任せた時点で,
劉備が信頼していたことを疑う理由はないだろう。
そして諸葛亮にとっても,その魏延に漢中を任せたまま南征を行ったのだから,
それなりに信用していたと言って良い。
両者が対立するようになったのは,あくまでも北伐開始以後の話。 両者が対立していたというのはあなたの脳内だけの話なのではないでしょうか >>422
魏延と諸葛亮は,少なくとも北伐の方針で対立しています。
もっとも,魏延は文句を言うだけで,諸葛亮の決定には逆らいませんでした。
これが諸葛亮の死後に魏延が孤立し敗死するほどの対立だったかまではわかりませんが。 孔明と魏延は対立していない、というか誰も魏延を支持してないから対立ですらないと言うか…。
魏延が孔明を臆病者呼ばわりしたところも、魏延の小物っぽさが滲み出てるしなw
魏延の末路も>>412に書かれたような自業自得の域を出ないし、相変わらず孔明がどうのと、
魏延の無能を棚に上げて責任転嫁する下品な理屈はいつまで経っても変わらないなw 自分の考えた企画を上司に却下されて飲み屋で愚痴ってるサラリーマンみたいなのを対立って言うなら対立なんでしょうね(棒) 魏延が無能とは思えんけどな
進んで一手を率いる一軍の将としてなら蜀でも指折りの指揮官ではあるけど、
仮に諸葛亮の様に三軍を統帥して大局を見据えて戦局を左右できるまでの
能力があるかと考えれば未知数だろうし、魏延の性格等も踏まえてしまうと
良い想像はほぼ浮かんでこないって感じ
結局のところ人格に問題や欠陥があるからああいう末路も妥当かもなって思うし 今に始まった事でもここに限ったことでもないが、魏延擁護の理屈で魏延が有能と思わせる言い分がないんだよな。
実際に立てた魏延の功績で話が盛り上がってるの見たことない。いつまで経っても長安奇襲作戦大成功の妄想しかない。
孔明死後に撤退命令に反対し、自分の考えを諸将に告知したのに誰も取り合わなかったんだから、
ナンバー2がどうのと言っても周りをまとめれない器量なしの無能と思われても仕方がないだろう。 魏延擁護論者って
諸葛亮をはじめ楊儀、費イなど魏延と関わった奴ら叩いてるだけだからな
魏延の反乱を擁護するため「周囲の奴らが全部悪い」とか言い出すし
でも何故か劉エンは叩いてないよな
なんでかな?諸葛亮叩けなくなって都合が悪いからとか? >>428
少なくとも,227年に諸葛亮が出張ってくるまで,
大過なく漢中を治めていたのだから,それなりに評価すべきであろう。
(向こうがほとんど動こなかったのも一因だが。) >>430
>>428は、要するに「魏延信者がバカな魏延マンセーしてるから魏延もバカに思われてる」
って言ってるだけで、魏延がバカって決め付けてるわけではないだろ。
まあ実際に立てた魏延の功績で、それなりに評価が出来るんなら別にいいと思うけど、
いつまで経ってもバカな魏延マンセーばっかりだし、難しいっつうか無理だろうな。 >>431
魏延が漢中を統治できていたにもかかわらず,
それを理解できないのであったらその程度の認識力でしかないですが。
諸葛亮マンセーを無視して魏延マンセーを気にされるようなオツムでは仕方ないのでしょうが。 >>432
そもそも,劉備がなぜ張飛を差し置いてまで魏延を抜擢したのか,
その理由を見つけなければ何も分からないでしょうねぇ。
諸葛亮が正しいことを疑う能力すらないおバカさんたちには。
(こういうのが研究者の中にもいるから問題なのだが。) >>421>>423といい>>432>>433といい
見えない敵と戦い出す奴が何故多いのかと思ったら
よく読んだら同じ奴か >>434
三国演義の世界だけを見ていて見えないのならそりゃあ当然だが,
三国時代史で見えていないのだったらちょっとヤバいのだが。 >>421>>423はまだわかる
N+qho2T80みたいな諸葛亮持ち上げは演義云々喚いて魏延のやった事を過大評価して三国時代史ガーとか言っちゃう典型的なのと一緒にするのはかわいそう >>436
諸葛亮期初期における各地の状況を理解できていないなら,
そもそも史実を理解する以前に問題だろう。
(幸いに,そのような高度なち理解力の無い輩がのさばっているようで,
それが悪いがと言いませんが」)
こうやって,日本人の東洋史理解は衰えていく・ 今さらな話で申し訳ないんだが、
誰も賛成しない独り善がりの駄駄を捏ねて橋をブッ壊した魏延の墓が、
国民のインフラ整備として橋だか道路だかを作る為にブッ壊されたってのは、
皮肉というか滑稽な話だよなw 諸葛亮に代わって、魏延・王平・張翼といった武将たちを指揮できる
戦略家としては
ホウ統
法正
黄権
という逸材がいたのだが、北伐の時期には二人はこの世を去り、
最後の一人は魏に降ってしまい、蜀に諸葛亮しかいなかったのが痛い
これが魏延の運命を決めてしまった
慎重かつ臨機応変さにかける諸葛亮と魏延は相性が悪すぎた
どちらが悪いというのではなく、不幸な出会いと言うほかない 史書に載ってる魏延の功績のほぼ全ては劉禅・孔明時代のものだし、それに見合った出世もさせてもらって、
イザゴザも黙認・尻拭いしてもらって、これで相性だの不幸だのとは厚かましいと言うほかない。
魏延age孔明sageしたけりゃなんJ辺りにでも行ったらどうだ。あそこは未だに反骨の相で魏延擁護できるぞw 魏延が虐げられてたのは蜀には名前で差別する風潮があったから!なんて珍説をネタとか抜きに言ってる奴らがいて頭が痛くなって来た… 中国史で見ると呉姓はわりと居る気がする。呉起とか
蜀姓は思い当たらんな なんJでたまに見る古臭い手口の魏延上げは
単にスレ伸ばしたくてやってる感もないではない
あと魏を延ばすっていう名前で差別されたとかいうのも見掛けるけど
漢文の語順からしてあり得んし 2chの魏延ageは演義の扱いを叩けば通ぶれるみたいな浅ましい魂胆だけじゃなく、
なんか自分自身のコミュ障っぷりとそこから来る周りの当然な態度に対して変な親近感を感じて自己投影してるような輩が多いと感じる(雑談板だと特に)
普段通ぶり根性発揮したがるなんカスみたいな連中が魏延絡みだけは頑なに演義の扱いに執着するのはそういう事だろう いつも「ギエンはエンギのギセイシャー」って演義叩きするわりには
魏延持ち上げも魏延がらみの孔明叩きも全部演義の話で叩いてるんだよな
まあ正史の魏延じゃ擁護のしようがないからしょうがないが >>449
間違えた
「魏延持ち上げも魏延がらみの孔明叩きも全部演義の話でしてるんだよな」
に訂正 まあその手の奴はいきなり反骨がどうの言いだす奴が大半だから
自分に都合よく演義で云々言ってるのは頷けるといえば頷ける 理由は後付けで
とにかく魏延上げ他下げしたいだけだから
理由は適当にデッチあげてるだけ >>429
最近見たのでは、坂口和澄ってのがひどかったなw ちょうあんきしゅうだいさくせんを、戦争には博打も必要と
頭の悪いパチンカスみたいな理由でマンセー、命令違反、撤退の邪魔、兵士に見捨てられることは
書いてはいるが完全スルー、陳寿が反乱じゃないって言ってるから反乱じゃない、説得しない費イが悪い、
私情で魏延を殺したのは楊儀、王平伝より魏延伝のほうが正しい(根拠はない)から魏延は悪くないと、
ネットではびこってる魏延マンセー他叩きそのまんまだったw
まあ知識はあるんだろうが、曲解やえこひいきが酷くてバカ学者って感じしかなかったなw 反乱じゃないカラーって単なる言葉遊びだな
だったら権力争いによる私闘とか小競り合いでもいいんだぜ 魏延は幼稚園児じゃない、いい歳した大人なんだよ、息子も戦場に出てるような歳だよ
周囲は保護者じゃないんだから、いい加減本人の行動の責任を他人に押し付けるのはやめるべき
ちゃんとした大人なんだから本人の行動は本人の責任だろ 魏延信者は魏延の事を無双まんまな人物だと思ってんじゃねーの 魏延は蜀の朱桓、ミニ関羽といったところだな
めぐり合わせに恵まれなかった
人物なんて長所短所持ち合わせていてそれがどう転ぶかはわからんものなのに
事績をもとになんというか人物の絶対評価を決めつけようとするのはネットにありがちな狭い考え >>442みたけど
イザコザ見逃してもらったケースなんて腐るほどあるだろ なるほど、魏延信者の魏延持ち上げは事績をもとにしてないもんな >>462
???
一般論の話だがね後半部分
そのすぐ信者がどうのとか言い出すのは頭が悪く見えるからやめた方がいいよ 魏延はあれだね
「間道からの侵攻を許可されなかったケ艾」だね
悲しいかな劉備の死後はすぐれた上司にめぐりあえなかった まあな。ギエンは不利すぎた。
まず主君はギエンだけ寵愛する康熙帝ならよかった。
内政はせめて管仲がやるべき。
更にギエンの部下には韓信、李靖、岳飛らがいなかった。
ギエンはこれくらい不幸だったのだ。 >>461
よくある話であろうがなかろうが、魏延を気遣ってた人間がいたのは事実だろう。
本心が組織の和を保つ為とかで、魏延個人のためではなかったにせよ。
それなのにめぐり合わせに恵まれないってのはさすがに失礼。
そもそも、魏延がそのめぐり合わせを大事にする性格と思わせる事跡はないが。 張飛だって兵士に寝首書かれるのがもっと早けりゃただのバカ扱いだろ
孫堅だって戦でしょっちゅう危ない目にあって
董卓討伐の前にくたばってたらここまでの知名度にならなかった
めぐり合わせってのはそういうものさ 頭の中にある魏延の名将っぷりと史書の記述にギャップがあるから
それを埋めるために孔明のせい、周囲のせいってことにしてるんだよな
活躍増しで孔明に虐げられる名将に改変されてる演義だけ読んどけよ
お前の理想は創作にしかないよ >>468
名将なんて一言も書いてないんだが
子供はすぐ興奮する >>468
張飛差し置いて漢中を委ねられた時点で,
委ねられるだけの何かがあったのは確かだろう。
(それがS氏に都合が悪かったのかどうかは知らないがもみ消されたわけで。) >>455
それ、魏延ファンが擁護の理屈でよく言ってるけど、所詮は陳寿の憶測に過ぎないんだよな。
仮にその通りだったとしても、廊下を走り回ってガラスや花瓶を割った小学生レベルで、
いい歳した大人を擁護する理屈として胸を張って主張できるものではないと思うんだが…。 「本当は名将たる功績があった。史書に記述は無いがそれは誰かにもみ消されたからだ」
でいいなら全武将を名将にできるだろ
魏延オタはほんと史書否定が好きだな 魏延好きだが、魏延が名将でなくても構わんから気にしない。ちょっと頭が足らん、ぱーこらりんでもいいじゃないか。人形劇三国志の張飛みたいで可愛い