【墨攻】墨子を語るスレ
映画化決定
公式サイト
http://www.bokkou.jp/
原作 酒見賢一
漫画 森 秀樹
監督 ジェイコブ・C・L・チャン
出演 アンディ・ラウ
アン・ソンギ
ワン・チーウェン
ファン・ビンビン 四
しかしなお、「兼愛」を非難する意見があとを絶たない。彼らはこうも主張する。
「なるほど、友人を選ぶ場合はそのとおりだとしても、君主を選ぶ場合はそうはいかぬのではないか。」
ではもう一度、「兼愛」と「別愛」とを比べてみよう。ここに二人の君主がいる。一方は「別愛」の立場、他方は「兼愛」の立場である。
「別愛」の立場をとる君主の意見はこうである。
「人民を我が身同様に見なせようか。そんな考えは人の情に反する。人生は短いのだ。四頭立ての馬車が塀の隙間をあっというまに過ぎ去
るようなものだ。人民よりは我が身が先だ。」
そして実際、人民が飢えに苦しんでいても穀物を放出しようとせず、寒さにふるえていても着るものを心配しようとしない。人民の間に疫
病がはやっていても対策をたてようとはせず、死者が出たときにも葬ろうともしない。これが「別愛」の立場をとる君主の意見と行動であ
る。一方、「兼愛」の立場をとる君主の意見はこうである。
「名君はまず人民のことを考え、我が身のことを後回しにする。そうでなければ名君といわれる資格はない。」
そして実際、人民が飢えに苦しんでいれば穀物を放出し、寒さに震えていれば着るものを心配する。疫病がはやれば対策をたて、死者が出
たときには手厚く葬る。これが「兼愛」の立場をとる君主の意見と行動である。この二人は意見も行動も正反対である。
では、この二人が出鱈目を言っているのではなく、意見と行動が完全に一致し、言ったことは必ず実行するものとして、具体的な例を考え
てみよう。ある年に疫病がはやり、たくさんの人民が飢えと寒さに苦しみ、行き倒れが続出したとする。こういう事態に直面すれば、人民
はどの君主にしたがうであろうか。いかに愚かな者でも、たとえ「別愛」に反対する者であっても、きっと「兼愛」の立場をとる君主を選
ぶに違いない。つまり、口では「兼愛」に反対しておきながら、いざしたがうとなると、「兼愛」の立場をとる君主にしたがうのである。
かれの言行は矛盾することになるのではないか。それなのに天下の士は「兼愛」というとすぐ非難する。なぜなのだろうか。 五
しかしなお、「兼愛」を非難する意見があとを絶たない。彼らはこうも主張する。
「「兼愛」の立場は親の利益をそこなうものであって、孝養を尽くす妨げになるのではないか。」
息子が親に尽くそうとする気持ちを考えてみよう。いったい、親を大切にする息子は、他人に我が親を大切に扱ってもらいたいと望むだろ
うか。それとも、手荒く扱ってもらいたいのだろうか。かれの気持ちからして、当然前者である。他人からも大切に扱ってもらうためには
どうしたらよいか。他人からも我が親を大切に扱ってもらいたければ、まず私自身が人の親を大切にしたほうがよいか。それとも、手荒く
扱ったほうがよいか。いうまでもなく、前者である。まず自分自身が人の親を大切にして、初めて人からも同様のことが期待できるのであ
る。してみると、親に尽くすためにはどうしてもまず人の親を大切にしなければならないのだ。
親に尽くす場合はそのとおりだが、それは稀な事例であって、万事に当てはめることはできないというかもしれない。それでは、先王の書
に根拠を求めてみよう。「大雅」(『詩経』の篇名)にはこううたわれている。
「言葉には言葉を。徳には徳を。人が桃をくれたなら私は李を与えよう。」
つまり、人を愛すれば必ず人からも愛されるし、人を憎めば必ず人からも憎まれるのだ。それなのに天下の士は「兼愛」というとすぐ非難
する。なぜなのだろうか。
『墨子』「兼愛」より 一
墨子は弟子たちを前にして語った。
「いくら義の実践がうまくいかないからといって、義を棄ててはいけない。大工をみるがいい。木材をまっすぐに削れないからといって、
墨縄を棄てたりするだろうか。」 二
当今の君子は矛盾している。豚一頭を差し出して料理しろとえば、できないときはできないといって辞退する。それなのに、大臣になって
くれといえば、できなくても平気で引き受ける。実に矛盾している。 三
目の見えない人がこう言ったとする。
「ダイヤは白い。炭は黒い。」
目の見える人でも、これには反対しようがない。しかし、白いものを黒いものと並べて選ばせれば、目の見えない人はより分けることがで
きない。つまり、”目の見えない人は色がわからない”というのは、目の見えない人が色の名を知らないということではなく、実際に色を
よりわけられないからである。
これは当今の君子にも当てはまる。もし仁について語らせれば、湯王であっても、その考えには反対しようがないだろう。しかし、仁と不
仁をいっしょにして実際に選ばせたら、当今の君子はよりわけることができない。
私がかれらを指して仁を知らないというのも、仁という言葉を知らないという意味ではなく、実際に仁と不仁とをよりわけることができな
いという意味である。 四
世俗の君子は、義のために奔走する人を粟をかつぐ人よりも低く見ている。ここに粟をかつぐ人がいて、道端に休んでいたが荷が重くて起
き上がれなかったとする。それを見れば、君子はだれでも助け起してやる。なぜか。そうすることが義であるからだ。ところが、義のため
に働く人が先王の道を説いたとする。当世の君子は進んで義を実行しないばかりか、よってたかってこういう人の足をひっぱる。つまり、
義のために働く人を粟をかつぐ人よりも低く見ているのだ。 五
私の主義は実行するだけの価値がある。私の主義を棄てて別の主義を採るのは、取入れをやめて落穂を拾うようなものだ。別の主義で私を
攻撃したところで、それは卵を石にぶつけるようなものだ。天下の卵を全部ぶつけても、石は割れはしない。
『墨子』「貴義」より >>86〜95
いいね!変節や風見鶏が大半な思想界において、これほど頑固に自分を貫いた墨子には、純粋
に敬意を抱けるよ。 >>95
勉強になるよ。そして墨子の石の様に硬く流されない頑固さは、あらゆるものが流され、変節
や掌がえしが当たり前の現代に、真に必要なのかもしれない。 慶応の学生です。
大学の教授が今回の選挙についておかしい部分が多いとツイートしています。
500の束のバーコードを他者に振り替えていると考えられると言っています。
例として幸福実現党は都内に信者がある程度いるはずなのに、3区以外はすべて0票。犬丸氏も同じだったと言います。
また、娘さんが練馬区で三宅氏に投票、他知り合いが3人も入れたのに、0票。 池袋、渋谷で0票もおかしいと書いています。
明らかにム サシの機械での操作があった可能性が高いと書かれています。
実は、非常に奇異な点があるのだ。それは、区によって、「票があるところ」と「まったくゼロな区」があるのだ。
今回の三宅洋平の得票に戻るが0時00分現在で東京都合計で18万8千票である。
区部合計では、13万票 そのうち千代田区では、たったの1千票。
港区では5千500票 新宿区では6千500票、文京区では4千票 台東区では3,500票 墨田区では4千票 品川区では7,569票 目黒区では10,000票
大田区では12,000票 世田谷区では20,000票 渋谷区では8,000票 中野区では8千票 杉並区では1万7千票、北区では4,500票 板橋区では1500票
練馬区では1万2千票 葛飾区では500票、江戸川区では5,000票 八王子市では6,000票、立川市では2500票 武蔵野市では3,500票 三鷹市では4,500票 と続く。
豊島区ではなんとゼロ票 中央区ではゼロ票。江東区ではゼロ票、荒川区ではゼロ票 足立区ではゼロ票 通常、こんなことは考えられない。 墨子は述べた。
「世俗の君子は貧乏なのに金持ちだと言われれば怒る。そのくせ、義など持ち合わせていない
のに義を大切にしていると言われれば喜ぶ。実に矛盾した話ではないか。」
『墨子』耕柱より 墨子が魯陽(楚の地名)の文君に説いた。
「大国が小国を攻めるのは、子供が馬遊びに夢中になるのと同じです。夢中になっているう
ちに、子供の足はヘトヘトに疲れてしまいます。もし大国が小国を攻めれば、守る国では農
夫は畑仕事ができず婦人は機織り仕事ができず、ただ防戦に追われるのは勿論ですが、攻め
る側でも、やはり農夫は仕事ができず婦人は機織り仕事ができません。攻めることで手一杯
です。大国が小国を攻めるのは、馬遊びに夢中になるのと変わりありません。いかに大国で
あろうと、結局自分もヘトヘトに疲れてしまいます。」
『墨子』耕柱より。
現代の戦争好きな為政者は、墨子のこの発言を声を出して数十回は読むべき。 でも現実に戦国時代を終わらせたのは大国秦による天下統一だからなぁ。 墨家はキリスト教に似てるというけど
キリスト教は国教化で栄えたんだよね。対する墨家は滅んだ。
兼愛なんて支配者にすりゃ都合がよくないだろうし
上に従え敬え絶対だの忠孝の儒家が採用されるのは分かる。
でもキリスト教も博愛だのローマ皇帝を神として礼拝しないだの都合は凄く悪い。
結局数の力とすると墨家も天下取れる可能性はあったね 墨家が連座制で家族を処罰したという話を聞いた
それが事実なら墨子の意思を受け継いだとは思えない
家族を否定するならそれによる利益も損害も受けるのはおかしい 責任を取るために集団自決した話は聞いてるけど、家族を処罰したとは聞かない。
というかそもそも墨者の家族は墨家教団と何の関係もないので処罰などできるはずがない。
逆に息子に学問させて栄達することを期待してたのに墨家の理想のために死んでしまった
責任を親から問われたりしてる。 内通した者を家族含めて処刑したって話を聞いた時に
それが事実ならこいつらは墨子の遺志を継いでいないと感じた
博愛を否定したのならあくまで家族制度は否定すべきだ 否定したのは偏愛であって博愛では無い。
家族制度を否定したわけでも無い。
家族と同じように他人も愛せと言っただけ。 墨子の教えは私の人生の指針だ。就職活動において31連続不採用になった時、‘’非命‘’の教え
を胸に「宿命論なんかくそ食らえ」と努力したら、最終的に正社員になれた。職場においても
‘’尚賢‘’の教えで同僚の能力を正当に評価し、‘’兼愛‘’の教えで他人と接していたら、周りや
部下、そして社長に信頼されるようになった。
墨子の教えは、本当に素晴らしい! 今度電車で旅行するけど、長時間かかるので『墨子』を読むことにするよ。 現在九州各地を電車で旅をしながら、『墨子』読書中・・。
殺人鬼・池田大作死ね
殺人鬼のキチガイカルト創価学会
殺人鬼の集まりが政治活動・公明党
キチガイカルト創価学会・公明党 旅行終了。九州各地にいる親戚に墨子の思想を紹介したけど、結構好評だった。 墨子は原始人にも理解可能な稚拙でアルカイックなイデオロギーですの。
だから適当に近代っぽくアレンジするとつまみ食い好きの左巻きに受けた。 介護の世界において、墨子の思想は本当に使える。長年介護業をしているが、墨子の"兼愛"の
思想で利用者に接していると、
「あなたは他の人とは違う。」
と、慕われる。また、社長や専務や主任に、
「君は凄いね。」
と、誉めてもらえる。さらに、職場において困った時に、同僚に、
「あなたはいい人だから。」
と助けてもらえる。
介護の世界において、墨子の"兼愛"の思想は本当に使える。 >>119
「墨攻」の事なら面白くない。漫画版は多分面白い。俺は小説が一番好きだが。
小説は最後にすごくあっさりと殺されちゃうところがとても好き。 >>120
ありがとうございます
漫画は読んだんですが結構グロかったですね >>121
そうですか。実は俺は漫画は途中までしか読んでません。だから多分と書きました。
映画版はある意味普通に面白いかもしれません。ただし小説版のいいところが全くないので
見る価値があるかどうか。 中国映画は兵数がすごい多い印象がある
ばったばったやられていく キングダムからの墨攻
キングダムからの塚本史
はい俺です。 毎日寝る前に『墨子』を読んで勉強をしている。本当に良いことが述べられている。 『墨子』を読んでその教えを職場で実行したら、社長や専務に評価され、ワンランク昇級し
給料も上がった!『墨子』、ありがとう! 『墨子』の教えを職場で実行したら、評価されて、前回に比べてボーナスが上がった!
『墨子』、ありがとう! 【米国:ポリコレ】子供たちが「親友」を作ることを排他的だとして、学校が禁止を検討
https://www.newshonyaku.com/usa/llife/20180113
>USニューズ&ワールド・レポート誌の記事によると、
>アメリカとヨーロッパの一部の学校で「子供たちが親友を作るという
>発想自体を禁止することを真剣に検討している」そうだ。
>なぜなら、親友を作ることはその他の子供に対する差別であり、子供たちを傷つけるからだ。
>「親友を選ぶという考えは私たちの文化に深く根差しています」と、
>児童・家族心理学者のバーバラ・グリーンバーグ博士は
>『学校は子供たちが親友を作ることを禁止するべきか?』と題した論文で述べる。
墨子「親友を作るという発想は差別的な愛であり、全ての人を平等に愛する兼愛思想こそ正しいのです」 そんなことを学校が禁止できると思ってることが恐ろしいな。それはそれとして平等に愛するのは博愛だろう。
墨子の主張は兼愛だ。兼愛とは全ての人を我身同様に愛することであり、自分自身が基準である。
博愛と兼愛がどう違うのかは難しくて俺も掴みきれてないけど。 兼愛とは自己と他者とを区別せずに兼ね愛させることである。そこで兼ねる当事者の一方は、
常に自己でなければならない。
したがって、自己が他者Aと他者Bとの間に区別を設けず愛するとの関係は、元々墨子の主張か
ら外れている。よく墨子の兼愛を無差別平等愛とする解説を見かけるが、これは誤解を招きや
すい表現である。この場合、無差別平等愛なる表現が、自己と他者との間に差別を設けず自他
を平等に愛するとの意味で使用されているのであれば問題はない。だがもしそれが、自己から
見て他者であるもの同士を差別せず両者を平等に愛するとの意味であれば、墨子の意図を逸脱
した理解となる。
もっとも、自己と他者Aを同等に愛し、かつ一方で自己と他者Bを同等に愛せば、結果的には
自己が他者Aと他者Bとを差別せずに同等に愛したことになる。ただしこれは、あくまで最終的
な現象としてはそうなるというに留まり、他者Aと他者Bとの間に直接橋は架けられていないか
ら、それ自体が兼愛の本旨にはならない。
孟子は兼愛論を、自分の父と他人の父、または、自国と他国、を同等に愛せと要求してくる
危険思想だと批判する。しかし孟子の批判は兼愛論の真意からすると外れており、孟子の敵意
による誇張を含んでいる。 つまり、自分≠他人ではあるけど、他人A=他人B=他人C…… になっていれば博愛ではあるが兼愛ではない。
自分=他人Aかつ自分=他人Bかつ自分=他人C(以下略)というのが兼愛の本質で、
結果として(自分=)他人A=他人B=他人C(以下略)にもなるから博愛にも該当する、ということで良いのか 墨子の主張する、"兼愛"、"非攻"、"貴義"、"非命"は、私の人生の指針だ。 >>131
そうですね。博愛は博く愛するけどその程度については基準がない。広く浅くということもあり得る。
兼愛は我が身を愛するようにが基準だからはっきりしている。 今日も『墨子』を読む。困難に直面した時、なにかヒントを得るために何十回も読みなおせるのが古典の良い所だ。 >>136
墨家の指導者を鉅子といい、墨子の後を継いだ禽滑釐、三代目 孟勝と受け継がれたのを知らないの?
特に禽滑釐は墨子の弟子として墨子のテキストにしばしば出てくるので知らないということは読んでないことになる。 「墨子」、
講談社学術文庫
ちくま学芸文庫
どっちが初心者向け? >>140
俺は講談社の方しか読んでないけど良かったと書いておく。 >>141
分かりました。
まず講談社を注文してみます。
小口研磨されていたら嫌だなぁ。。。 城を守れなくて集団自決した話とか
墨子の意思を受け継いだとは思えない 城を守る約束を守れなかったのに責任を取らないと噂される事を恐れて自決すると指導者が決めて
他の者はそれに追従したのであって、誰も強要した訳ではないのよ? もうちょっと補足。墨家は侵略戦争に反対して防衛側に協力するわけだけど所詮は他所者なので
いざとなったら逃げるんじゃないのという疑惑の目にさらされている。命をかけているという信頼を失ったら
やって行けない。それを証明するためには実際に死ぬしかない訳だ。 裏切りか何かで家族も処刑ってのを見た時
儒教の博愛を否定したくせにと思った
どんなに支持されようともぼっかじゃない 憶えが無いというのは墨家を貶めるつもりで誰かが書いた文章じゃないのという事だ。
それと儒教は博愛じゃなくて偏愛。身内しか近しい人しか愛さないから。 連座制がおかしいってね
自分が作ったのでもない奴の犯した罪で何で罰せられなきゃならないのか >>137
そいつらのやっていることから受け継いでいないと感じる どうせキョシは何をしても罰せられないし
太平天国でも下には禁欲させても自分達は酒池肉林 ロベスピエールやポルポトみたいに清貧でも
結局は別の欲望である名誉欲みたいなものだし >>157
日本は度々死刑で批判されるがそれには目を潰れるダブスタ似非ヒューマニストw
墨子が見れば唾を吐くだろうw 職場で墨子の教えを説く。皆、素晴らしい思想だと感心する。また、その墨子の教えを指針にしている自分は、職場で社長に誉められまくる。
墨子は最高だ! 「女を容姿と年齢で差別するな!」と主張した30代女性に投げかけられた、友人たちの反応とは
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190305-00010001-telling-life&p=1
墨子『そもそも誰かを選んで結婚するというのが差別。全ての人を自分自身と同様に愛しなさい』 呉起に影響を与えた考え方じゃないの?
墨家の目指してたのの完成形じゃん
あの頃の秦の戦力考えたら異常ですが・・・ たまに有給休暇をとり、九州各地を旅行してその土地その土地の温泉と料理を楽しみ、夜は旅館に泊まって畳と布団の感触に浸りながら、『墨子』を熟読する。
私にとって最高のストレス解消法である。 私は一度も日本国外に行ったことがないけど、翻訳だか、古今東西の哲学や思想を可能な限り目を通した。その中で、一番墨子が偉大だと思う。
東洋人は、東洋で一番誇れる思想家として、そして西洋の思想家よりも優れた存在として、墨子を西洋人対して誇るべきだと思う。 >>165
>翻訳だか
>西洋人対して誇るべき
お前日本人じゃないだろ 家族を愛するのが差別なら
裏切り者の家族を処刑するのもおかしい
鬼神とか報われるわけないだろ 仕事や生活において困難に直面すると、ヒントを求めて『墨子』を読み直すことにしている。 >>169
そういう読み方ができるのが古典の良い所。 鬼神を重視しているのがな
努力しても才能があっても報われない現実の裏返しな気がする 皆、心配ないと言ったけれども、なぜ彼に試させなかったのか 墨家が内通すると家族も処刑ってのが事実なら、博愛の思想から外れている
¥平等に扱うべきだ (仮に)今一人の人がいて、他人の果樹園や畑に入って、その桃や李すももを盗んだとする。
人々は聞くとそれを非難し、人々の上で政治を行う者は、捕らえてその盗人を罰するだろう。これはどうしてか。
他人に損害を与えて自分の利益としたからである。 (迷いこんできた)他人の犬や豚や鶏や子豚を盗む者に至っては、その不義は他人の果樹園や畑に入って桃や李を盗むよりもひどい。これはなぜだろうか。
他人に損害を与えることがさらに多いからである。仮にも人に損害を与えることがさらに多ければ、その不仁はますますひどく、罪はますます重い。 他人の畜舎に入って、他人の馬や牛を盗む者に至っては、その不義は(迷いこんできた)犬・豚・鶏・子豚を盗むよりもひどい。これはなぜだろうか。
他人に損害を与えることがさらに多いからである。仮にも人に損害を与えることが多ければ、その不仁はますますひどく、罪はますます重い。
無実の人を殺し、その衣服を奪い、戈ほこや剣を奪う者に至っては、その不義は他人の畜舎に入って、他人の馬や牛を盗むよりもひどい。これはなぜだろうか。
他人に損害を与えることがさらに多いからである。仮にも他人に損害を与えることがさらに多ければ、その不仁はますますひどく、罪はますます重い。
このようなことは世の中の君子は、皆知っていてこれらを非難し、これらを不義と言っている。 (しかし、)今、大いに不義をはたらいて他国を攻めるに至っては、非難することを知らず、これを誉めて、これを義と言っている。
これでは義と不義との区別を知っていると言えるだろうか。(いや、言えない。)
人を一人殺したら、これを不義と言い、必ず一つの死罪となる。
もしこの考え方を進めて行けば、十人を殺したら、不義は十倍となり、必ず十倍の死罪となる。
百人を殺したら、不義は百倍となり、必ず百倍の死罪となる。
このようなことは世の中の君子は、皆知っていてこれを非難し、不義と言っている。
今、大いに不義をはたらいて他国を攻めるに至っては、非難することを知らず、これを誉めて、これを義と言っている。 本当にそれが不義であることを知らないのである。だからそのこと(=他国を攻めたこと)を書物に記して後世に遺す。
もしもそれが不義であることを知ったならば、そもそもどんな考えがあってその不義を書物に記して後世に遺すだろうか。(いや、書物にして遺したりはしないだろう。) >>175
>墨家が内通すると家族も処刑ってのが事実なら
そんな話は聞いたことも読んだこともない。少なくとも「墨子」の本文にはない。 >>181
裏切り者がいたかはともかく墨家の厳しい法の例として書かれていて 墨家は依頼を受ける条件はあるのだろうか
それだけ凄ければあちこちが欲しがるだろうが
攻められる城が全部依頼しても対応できないだろうに 墨家の集団自決を美談のように語ろうとも
部下の命を無駄にして侵略以上に数百の死刑の罪に当たるのでは ・ナポレオンがクーデターによってフランス政権を握ったのが1799年で、皇帝となったのが1804年
・ヒトラー率いるナチス党が議会に登場したのが1928年で、首相となったのが1933年 ・ナポレオンがロシアを侵攻したのが1812年
・ヒトラーが旧ソ連を侵攻したのが1941年