223年、劉備が亡くなり劉禅が跡を継ぐと、諸葛亮は蜀の政治の全権を握る。そして、呉との関係を改善した上で、魏に
対する北伐を計画した。
 227年、準備を終えた諸葛亮はいよいよ北伐を決行する。北伐に当たって上奏した『出師表』は名文として有名である。
 1度目の北伐で、諸葛亮はかつて蜀から魏へと降った孟達の調略を企図したが、司馬懿に察知され、孟達は討たれた。
 最初に躓いたものの、諸葛亮の作戦は続行され、翌228年に漢中より北へ進攻した。
 諸葛亮は、趙雲を囮に使って魏の曹真の裏をかくことに成功、南安・天水・安定の3郡を奪った。魏はこれに対して張郃
を派遣、諸葛亮は再度趙雲を囮に使い、要衝街亭に鍾愛していた馬謖を配する。ところが、馬謖は諸葛亮の指示を無視
して山上に布陣したために、張郃率いる魏軍に大敗を喫してしまう。
 街亭での敗戦で、蜀軍は全軍を撤退させ、諸葛亮は馬謖を敗戦の罪で誅殺し、自らも降格として丞相から右将軍となっ
た。これが「泣いて馬謖を斬る」の故事である。もっとも、諸葛亮が右将軍となっても、他に蜀を運営できる人物がおらず、
実質上は丞相であった。
 その年の冬、諸葛亮は2度目の北伐を決行する。しかし、曹真に作戦を先読みされたために、戦局は優位に進まず、食
糧の不足もあって撤退した。
 更に翌229年には3度目の北伐が決行され、陳式に武都・陰平の両郡を平定させた。この功績によって、諸葛亮は再び
丞相の地位に復帰する。
 その次の年230年に4度目の北伐が行われるが、食糧不足で撤退に追い込まれる。この時に、魏の張郃を討ち取った。
 そして234年、諸葛亮は5度目にして最後の北伐を決行する。この戦いで諸葛亮は屯田を行い、持久戦の構えを持って
五丈原で、司馬懿率いる魏軍と長期に渡って対峙する。だが、諸葛亮には健康問題が生じていた上、頼りにしていた呉も、
荊州と合肥の戦いで魏に大敗を喫し、司馬懿は防衛戦に徹した。
 234年8月23日、諸葛亮は陣中で病没し、蜀軍は全軍が撤退した。その際、魏延と楊儀との間に争いが生じ、魏延が殺
される事件が発生している。