河北の覇者・袁紹
河北の雄、袁紹、字は本初。
堂々とした威厳のある風貌で、
名門なのにも関わらず身分にこだわらず下手に出たので大勢の人間が彼の下に集まってきた。
官渡で敗れたものの、四州を支配したその実力は本物。
また彼の治世は後世にいたるまで領民に称えられた。
漢と長年敵対していた匈奴や烏丸の異民族を見事に手なずけた外交手腕も持つ。
三国志前半の最大の実力者であり、中華統一への可能性が最も高いであろう英雄。
最近、評価されつつあるとはいえ、その評判は以前、芳しくない。
ここで彼のことを大いに論議し、その価値を高めていこうではないか! 後漢時代に四代に渡って三公を輩出した名門袁家の出身であり、その存在自体が周囲に影響力を持って
いた。
袁術は袁逢の子で、袁紹はその兄(袁成)の子とされるが、『魏書』(王沈撰)や『後漢書』(袁山松撰)によ
れば袁紹は袁術の異母兄弟であるという。
王沈らの説に基づけば袁紹は袁逢の庶子で、伯父の袁成の養子となって後を継いだ。袁逢・袁隗の次の
世代の袁氏宗族の長は袁紹と袁術の何れか(あるいは袁基)であると思われており、都に居た地方の豪族
子弟はこぞって両家に赴いたが、袁紹が袁術よりも名望高く、例えば何伯求や許子遠の如きは袁術の門に
赴かず、袁術はこれが面白くなかったようで、袁紹を嫌っていた。
叔父に袁隗がおり、異母兄には袁基(袁術と同母兄弟)がいる。 袁紹のここがスゴイ!
・何進が十常侍に殺害されたときに宮廷に乗り込んで宦官の粛正を行った決断力。
・董卓が献帝廃立をほのめかした時に毅然と立ち向かった度胸、
・ほぼ無血で冀州を得た謀略。
・戦略に優れ、圧倒的機動力と武力を誇る白馬義従による戦術を得意とした
公孫サンを滅ぼす。
・不落の城、易京城を落とす。
・領地を荒廃させることなく戦力を増大させた。
その結果、大戦に際し大軍と膨大な物資を用意することが出来た。
曹操は血で血を洗う戦を重ね、領地が荒廃し、領民に恨みを買い、準備できた軍事力と物資もすくなかった。
・天子奉戴をした曹操は宮廷内の陰謀に悩まされたが、袁紹にはそのようなことはなかった。
・外交に優れ、曹操陣営を次々切り崩し、包囲網形成。おかげで
曹操は軍の大半を官渡に振り向けられなかった。
・官渡後、領土に起こった反乱を粘り強く鎮圧(その直後病死)。
・後世にいたるまでその政治を領民に称えられる(袁譚の治めていた青州は別)。
・イケメン 四代に渡って三公を輩出した名門袁家ということだけど、
この袁氏の隆盛は、後漢代に入ってからだよね。
それ以前も、地方の豪族として存在していたのかな? 中国の全ての袁氏の遠祖は五帝のひとり、舜に遡るとされる。歴史書に伝えられる伝説によれば、舜
の子孫である胡公満という人物が周の武王によって河南に封建されて成立した陳国の公族、轅濤塗が陽
夏(現在の太康)に領土を与えられ、その子孫が祖にちなんで袁を姓としたのに始まるという。轅濤塗
以来の由来を誇る袁氏は、発祥地の陽夏が陳郡に属したことから普通には陳郡袁氏と呼ばれる。
袁姓の人々が歴史上で数多く活躍し始めるのは前漢の頃からである。前漢の袁盎は名丞相として諸国を
周り、後に起きた呉楚七国の乱の鎮圧に一役買った。漢代には、陳郡の隣の汝南郡を本拠地とし、陳郡袁
氏の同族を称する汝南袁氏が台頭する。汝南袁氏は中央政界の名門として4世代で5人の三公を輩出したが、
後漢末の動乱で一族の高官が次々に非業の死を遂げ、さらに地方で群雄として台頭していた袁紹、袁術が
相次いで没落するに及んで歴史の表舞台から姿を消した(但し、袁術の子孫は孫権に仕えた)。一方の陳
郡袁氏は陽夏、扶楽など複数の家々に分かれて有力な貴族家門として着実に成長し、六朝時代から唐代末
の9世紀頃まで名門貴族として繁栄した。
その後も宋代の記録で約26万人、明代の記録で約53万人と着実に拡大し、現在では台湾まで含めて中国
の各地に広がっている。
>>8
>六朝時代から唐代末の9世紀頃まで名門貴族として繁栄した。
最期は、黄河の濁流に消えたのかな。
袁世凱も清朝において高官や将軍を輩出した、わりと名門の家の出身。
古代の袁氏と関係あるのかは知らないけど。 袁紹と劉表がしっかりと連携を取って、曹操を挟み撃ちにできていれば、
曹操を打ち破り、覇権を打ち立てることができたかな。 敵の背後の勢力と手を結んで、挟み撃ちって、
理屈では分かりやすいけど、
実際に緊密に連携してやるのって結構大変だよ。 せめて携帯電話があれば、なんとかなったんだけどね。 >>16
一番ドラスティックな分岐としては
孫堅を先頭に洛陽に突入した連合軍は献帝を奪還!
だろうね
献帝を無事に救出し、董卓を討ったとなると、
やっぱり袁紹の功績が一番ということになるのかな。 袁紹だけもてはやされても、戦いに参加した他の武将たちが納得しない。
曹操だって、おとなしく袁紹に従うような男じゃないし。
結局、ごたごたは続く。 >>19
反董卓連合の前後からして大人しく袁紹のパシリをしていたんだが。>曹操
運命とでも言うべき怒涛の連戦に勝ち抜き、天下を狙える位置に来たからこそ
袁紹と戦う決意をしたんだろう。 袁術も劉虞(或いは他の誰か)擁立路線だったなら、というIFは駄目なんだろうか。
袁氏によるもう一人の劉性の皇帝を東に立てて、董卓with献帝に対抗する。
まあ曹操とかにきっぱり拒否の手紙を送られたり、劉虞自身に拒否されてたいるけど。 もう一人皇帝を立てて、東漢と西漢に分裂したりなんかしたら、
面白いことになったかもね。
袁紹は劉虞に即位させてそうしようとしてたが失敗した もし劉虞が即位したら袁術、公孫サン、陶謙あたりは董卓に着きそうだな。 いいんじゃね?
袁紹の栄枯盛衰を語る上で家臣団というか従った人間たちの内訌は外す事が出来ないし 田豊:時代を見据えた名宰相
沮授:執政の神
法逢:主君を立てる名士
審配:世が世なら周瑜に匹敵する軍師
顔良:闇討ちで死んだ当代最強武将の一人
文醜:顔良と同じく当代最強武将の一人
張合β:兵を率いれば敵なしの名武将
淳于瓊:酒を愛するムードメーカー
サルという字が「猿」とか「猴」とかあるけど
名門袁家がいたから遠慮して「猿」の字は使いにくかったんだろうな
麹義の演義での扱いは酷いな
正史では袁紹軍で随一の武将なのに 田豊にせよ沮授にせよ当時第一級の智謀の持ち主だから先は見えていたはずだ。
なのにさっさと袁紹を見限った荀ケや郭嘉と違い袁家に殉じたのはなぜだろう?
郷土愛ゆえか、あるいは袁紹個人にそれだけの魅力があったのか? 荀ケの袁紹軍の人材をけなした文にも入ってないしね
けちの付け所がなかったということにしておこう 確か遣隋使だか遣唐使の時代に日本に帰化した袁姓の人も居るね。 そう言われると咄嗟に反論できないのが痛いところだw
しかも、両者を比較すると、
義元には「その後」はなかったが、
袁紹はチャンスがあったのに倉亭でも負けてるからなあ。
俺はよく知らんのだが、史実の倉亭の戦いってどんな感じだったのかな? >>35
先が見えていたから袁紹に付いたんだよ。
荀ケは妻が宦官の娘だか何だかで立場的に袁紹は登用し辛いし、
郭嘉は素行が悪いから人材豊富な袁紹陣営で冷や飯食わせられるのがオチ。
結果、最後の最後で曹操が勝ったとは言え、最後の最後になるまでは負け必至だったから
(田豊らが)見る目がないなんてとても言えんよ。 >>44
荀ケの妻が宦官なのは初耳だけど、言われてみればその通りだな。
自分は袁紹も家臣団も好きなんだけど、袁紹の評価は一般的には
高いとはいえないから、こういう書き方をしてしまった。
申し訳ない。
たぶん、当時の下馬評も圧倒的に袁紹のほうに傾いていただろうしな。
また、その視点で見ると、袁家の内紛が理解しやすくなるかもな、て思う。
外敵そっちのけで内輪揉めなんて客観的に見たら愚行でしかないが、
「自分たちは圧倒的強者の家に仕えている」
という意識が強ければ、その中でいかに権勢を高めるかが
最重要課題となり、結果的に外敵を軽んじてしまうのかもしれないな。
ちょっと違うかも知れんが蒋介石の内憂外患論みたいなもんか。
ただ、田豊、沮授に関しては決してその種の視野狭窄に陥るような人物ではなかった
ろう。審配は個人的に好きだが「独断的で計画性がない」という荀ケの
指摘どおりの欠点を持っていた。王修はなんとか内紛を収めようとしたけど
どうにもならかった。
古今東西どこにでもよくある話だと言ってしまえばそれまでだが、
袁家には名門の光と影が端的に表れているな。 袁紹の圧倒的物量を生かした厚みのある官渡の城攻めは
負けはしたが美しくすらある。
名門とはいえたいした地盤をもっていなかったのを
地道に時をかけて大勢力を練り上げた袁紹の
人格をあらわしているような気がするな。
それに対する曹操の大逆転も、阿瞞と呼ばれた曹操らしい
戦いぶりで興味深い。
袁紹は袁紹らしく、曹操は曹操らしく戦った上での決着だから、まああれでいいんではないかな。
ただ、袁紹陣営が烏巣急襲に際して正攻法的な対処をとらなかったのが惜しい。
せっかく真っ当な正攻法に徹して後一歩というところまで曹操を追い詰めていたのに。 官渡の戦い、許攸の進言したキ許都急襲を採用していれば
どうなっていたかな? 黄河の北岸から許昌までは結構、距離あるぞ。
どれほどの防備があったか記録からはわからんのだが、
然るべき拠点も無しに無茶はしないだろう。
で、然るべき拠点となると南では汝南で、
つまり劉備を派遣してるから、強襲ではないが
同様のことをやって失敗したと見て良いと思うのだが。 まぁ成功するかどうかは置いといて、許攸が離反する可能性は低くなるよな。
となれば烏巣襲撃も無くなるから曹操は戦争継続が不可能になるだろう。
結果論だが許攸さえ寝返らせなければ袁紹の勝利は確実だったと思う。
歴史ってのは英雄が一人でどうにかできるほど安っぽくもなければ
凡人の行動で大きく流転したりするものだな……。 献帝奉戴に関しては、結果的には曹操の先見の明すげー
てことになるんだろうけど、あの時点での袁紹陣営での判断としては、
決して間違ってはいなかったと思うがどうだろう?
それに劉グ擁立という策も帝位の価値を相対化することのできるなかなかの
良策だったと思うが。劉グは評判もよく、人格的にも高潔なため、
この策がうまくいっていたら献帝は誰からも見向きもされなくなっていたかも
しれないな
袁紹ってもし皇帝になるとしたら、国号は何にしたんだろうか? 袁氏の本拠って鄴だろ?
だったら曹操と同じ魏なんじゃないの 袁紹ってそれなりに魅力あったのかな?
張コウだの沮授だの中々有力な部下が多くて意外に思ってたんだけど・・
>>56
何か袁紹で魏ってのも面白いなw 次男の袁熙が後を継ぎ、皇帝に・・・甄氏を皇后に・・・もう最高!! 袁熙…物凄い勝手な個人的見解だが、とっても気の良さそうな人に感じる。
何故だ。 >>60
同意。
あと、
首斬られる時の言動が格好良い。袁熙の首が曹操の元へ贈られた時の甄氏の心中はいかに・・・OTL >>57
もともと清流派士大夫からの支持も強く
(中常寺連中に恐れられるほど)、
つい先だってまで西園八校尉や司隷校尉の職にあって
中央軍を指揮する立場にあり、
大将軍の幕僚として中央政界の世論をリードし、
一方の状況を作り上げていた
というのが、その頃までの袁紹の評価。
董卓は首都圏を制圧したものの、自身が任命した地方官の多くが
後に反董卓の側に附いたように、士大夫連中からの支持は
あまり得られなかったと思われる。
この状況で袁紹に期待する人は少ないということはないと思います。
が、なんだかんだ言って、その後、勢力を確立するまで苦労をしてる
というのもまた事実ですが。 >>62
なるほど。袁紹に決断力と行動力があったら曹操にも負けてなかったかなぁ。
まぁあれだ、公孫賛打ち破ってくれたからいいべw 袁煕さん。譚や尚のようにへたな自己アピールはせず、それでも本初さんの危機にはいち早く駆け付ける… 慎みの深い仁者だったのかな?それとも単に次男キャラ?
袁氏の本領を引き継いだのは袁術なんだよね。
袁紹は董卓と敵対して、僻地の渤海に左遷されるも
そこから自力で領土拡大
最大勢力に躍り出た。 界橋の戦いって赤壁や官渡並みの大勝利ですよね
当時の公孫瓚は幽州、冀州、青州、徐州を傘下に収める大勢力。
袁紹は韓馥からなんとか領地を奪ったばかりで地盤が磐石でなく
さらに董卓からの妨害を受けまくっていた >>61
おお、どんな事を言ってたのですか?よければ教えてください。 >>66
うんうん。
騎馬の利を殺す辺り当時の人間としては中々妙策ですな。
白馬大好きっ子な公孫瓚ざまぁっすw 公孫康へ訪れた熙・尚は凍った地面に連座させられ、
袁尚が蓆(むしろ)を求めた時、袁熙は尚をたしなめて、
袁熙「わが首がまさに万里の旅に出ようという時に、何をいまさら蓆などいるものか」
と言い・・・OTL 袁紹って演義だと結構酷い扱いだよな
良い所が全部省かれてる 曹操や孫堅は攻めの人、袁紹は孫権や劉表のように守りの人だったのだと思う。
国力は曹操よりはるかにあったし領地もしっかり治めてた、異民族とも良好だったしね。
でも戦に限って見てみると配下の活躍は目覚ましいが本人が指揮した戦は少ない、ましてや官渡では今までにない大軍を繰り出した訳だしね。
官渡や倉亭での戦いに負けたとしても領土は失わなっかたし反乱した豪族の討伐とか往年の決断力を取り戻して素早く動いた。
袁紹は鄴と黎陽、そして遊軍の三角関係の防衛線を引いたと言われてる(もっともこれは黎陽の袁譚がおとりにはまり戦わずして落城、これが原因で袁紹の病に止めをさしたとも。)
袁紹が負けた最大の理由はすべてが予定通りに進んできたからではないだろうか?一度でも完敗していればもっと用心深くなっていたと思う。
>>56
鄴なら司馬氏と同じ晋では? この人って
過小評価されてるだろ!って言われて過大評価される人物だよね >>75
それだけファンの多い、魅力溢れる人物ともいえる。
>>70
で、そのあと曹操軍に引き渡されたと…あれ、意外と剛の人だな。 南北朝期の高歓が袁紹、宇文泰が曹操に例えられることがある。
この場合、比較の理由は国力や軍事力が
袁紹・高歓>曹操・宇文泰 ってことなんだけど。
もう一個、似てると思ったのが、曹(夏侯)氏と宇文氏は有能な人が多く、
彼ら皇族・皇族縁者が軍事を担ってる部分が大きいんだな。
一方、袁紹軍閥と高歓軍閥(その後の北斉朝)は
重臣達の押さえが利かない傾向がある。
これは曹家と宇文家のDNAの話じゃなくて、皇族が前線に立たざるを得ない
皇族以外の有力者が少ない状況が両者に長く続いたことによると思うんだな。
ただし、曹操や宇文泰が独断で手広くいろいろと行動できた。
一方、袁紹と高歓は有力者である仲間・同志を引き連れて行動してたから、
彼らを含めた政府機構というものが早くに確立してしまった。
袁家や高家の人間だけでは国家運営を独占できないことになった。
袁紹の優柔不断(曹操と比べて)の原因はこういうことじゃないかと思ったりして。
曹家と宇文家、袁家と高家の滅亡の理由もなんか似てるしな。 >>76
そうなんですよ。袁熙の首が・・・甄氏は本当に強い御方ですね。
曹丕の野郎、簡単に甄氏に死を賜るとは許せんな・・・OTL
格好良さは断然、
袁熙>>超えられない壁>>曹丕の野郎
なんだか。 袁一門は袁紹と袁術との間でバラバラになってる(むしろ袁術が一門を抱え込んでる)からな。
身一つで渤海へ飛ばされた為に名士らの力無しでは勢力を築く事ができず、
結果彼らの発言力を強化させてしまった。
こんな例を出すとまた三戦板へ帰れとか言われるが、
有力豪族からなる合議制により無用な戦ばかり強いられた武田家と似たようなもんだね。 袁術が大人しく袁紹に従っていれば・・・
って無理な話しか。。 >>81
でももし二人が協力できていたら、曹操やら孫権やら劉備の出る幕は皆無だったろうね。 光栄によって出れば負け軍師などと不名誉な言われ方をする郭図。
(表に出ている)採用された策がことごとくはずれたから、と言われているが
実は却下されたとはいえ曹操と同じ頃かむしろ早い時期に献帝奉戴を進言していたらしい。
ところが袁紹はこれを退けた。
珍しく、郭図の意見が採用されなかったが為に結果損をした事柄である。
ちなみに郭図って穎川の出で、荀ケと同郷。なにか妄想のネタになりそうです。 >>83
献帝推戴を進言したのは田豊じゃなかったっけ? >>83
>>85
資料によって異なるが、
確か沮授は一貫して献帝奉戴を主張している。
一方郭図は資料によって奉戴に賛成したり、淳ウケイとともに反対したり。
真相はどちらなんだろうね。 袁紹も名門意識さえなければ油断せずに天下取れたのかもしれないのにね。
張郃を重用しなかったことが悔やまれるな、顔良と文醜の上にまとめ役として置いておけば良かったのだが。
張癰を顔良・文醜の上に置いたら、
内部分裂で崩壊しそう。 張郃もその頃は若かったんじゃ?二人と肩を並べるには経験が足りない気がする。 >>93
たしかに強いが顔良の件を言っているなら分らんぞ?
一刀のもとに切り倒したってのは演義の話だからな。
事実は不意打ちの可能性もあるからな、劉備が味方にいるのだから関羽を見かけたら勘違いもするだろうさ。 >>劉備が味方にいるのだから関羽を見かけたら勘違いもするだろうさ
前々から思ってたんだけど、関羽と顔良って面識あるんだろうか?
衣装や馬に「関羽」とか書いてあるわけないだろうし。
高級指揮官の一人だとはわかるかもしれないけど、
誰かまでは、ちょっと「?」な感じ。
ヒゲは生やすのが当然の時代だしなあ 不意打ちだからとかそういう問題じゃないでしょ。強い弱いったって、鉄の体をもつワケじゃあるまいし
そんなのはどうでもいいというか。ようするに胆力が凄いって話で >>95
不意打ちの話には続きがあって劉備は袁紹軍の武将たちに関羽の情報があったら自分に伝えてほしいって言って回ったらしい。
そのとき何らかの特徴を教えたんじゃないか?それに昔の武将は他とは違う鎧や服装をしてて戦う前に名乗りあいそれから正々堂々勝負するってのがあったからな武将たちの間だけで。 馬鹿でかい青龍円月刀持ってたんじゃないの?
正史だと青龍円月等も無し?? >>98
正史だと、ってか当時そんな武器を製造する技術がないはず。 確か宋代の武器だっけか。
槍は三国時代だっけ?最初に作ったのは例の人という説もあるが。