【西涼】 董卓 【猛将】
董卓(生年不詳 - 初平3年(192年)4月23日)は東漢末期の武将。字は仲穎。董紹の子で、兄に董擢、弟
に董旻がいる。子の名は不明。隴西郡臨洮県の出身。若い頃より武芸に優れ、性は豪胆にして快活。軍人
となり、異民族の戦いなどで功を立て、勢力も拡大。霊帝没後、洛陽に入って献帝を擁立し、朝廷で権勢を
ほしいままにする。長安に移った後も専横を続けたが、養子の呂布に殺された。 董卓は桓帝期最後の年(167)に羽林郎になってる。
羽林郎は若者しかなれなかったと思うけど…。
この若者、というのを仮に20歳前後と規定すると霊帝崩御の年(189)には42歳前後ということになる。
しかしそうなると董卓の母は高齢出産になるし、
15に満たない(ということは少なくとも10以上か?不明)孫がいたというが、
この歳でそんな歳の孫がいるわけがないだろう。
ということは「若者」の規定を改めるべきなのか。 洛陽を破壊した時に公主やら宮女やらを姦略してるわけだが、
はたしてこれに董卓本人が加わっていたのかどうか。
おそらく史料から察するに50は越えていたと思われる董卓がそこまでビンビンでいられるのかという疑問がある。
或はやはり母親の高齢出産で、40代だったのかもしれない。 老いて尚壮健って言葉を忘れずに
ぱっと思いつくだけでも劉邦とか
咸陽入城後、真っ先に女に襲い掛かってるし >>104
董卓は出身がちょっと特殊だし、20代後半ぐらいであった可能性も十分にあるのでは? >>107
羽林郎は「隴西、天水、安定、北地、上、西河の六郡の良家(由緒ある家門ってことね)の若者」がなった。
董卓はこの条件を満たしており、かつ武芸に秀でていたため羽林郎に任命された。
私は浅学なので、董卓の出身がどうして
「20代後半で任命された可能性」を示唆するものになるのかわからない。
俺としても「可能性」を否定するわけではないが、なぜその理由なのか疑問に残る。 三国志や後漢書には董卓は精兵を率いているという記述が多いわけだけど、
実際は、黄巾の乱の平定に際してはかなり負けてるよな?勝ったという記録より負けた記録の方が多い。
なぜ負けた? 1、単に董卓の将としての力量が低かった
2、騎馬民族相手とは勝手が違った
3、黄巾討伐の時に率いていたのは董卓の私兵ではなかった
4、はなからやる気が無く真面目に戦わなかった
理由としてはこんなところか >109
違うと思う
もっと一発キャラだったような >>112
ちょっと漢籍電子文献の三国志董卓の項を読んでみたが、
主簿田景前趨卓尸,布又殺之
ここの主簿の田景がそうじゃね? 董卓は有能な人物を任用してるが、結局のところは漢を滅ぼした後の自己の基盤作りだもんね。
だとすると、やっぱり散々言われてきた通り、「残虐無比」な人間という評価が妥当だな。 吉川英治の三国志は54歳で死んだとしているが、母親が90歳ということを考えると当時としては不自然だな。
プラス5〜10歳ぐらいするいいかも。 >>105
宮女はともかく、公主まで好きにできたんだろうか?
>>118
そういう所はあったんじゃないかな。
実際、考えてみたんだが董卓の場合
混乱する時期に権力を手に入れ、それを維持するには
なかなか難しくて恐怖政治しか、彼には選択がなかったのかもしれん。
甘い所見せれば、漢臣連中から総スカンくらって都落ちしそうだしな。
彼が無欲ならともかく、権力を維持するには
恐怖政治しか方法がなかったというのは、気にせいだろうか。
誰か、考えてみてくれ。
まあ、恐怖政治しかなかったかもな。
それにしても暴虐やりすぎの感はあるw
何処までが真実なのかは不明だが、明らかにやりすぎだったのだろう。
自分の城築いて、金銀・食料を溜め込んでるなど
すでに曹操と器が違いすぎる。
曹操は時代によって高評価されたりしてるが、
この人の評価は、タイムマシンでもって証明でもしないと
永久にダメだろw >>116
父親の董君雅が潁川輪氏の尉の時に潁で生まれた次男だから董卓の字が仲潁なわけじゃん?
普通、人の官位を言う時、細かく経歴を言う場合でもないと最終官位で呼ぶわけだけど
董君雅の場合、何見ても尉までしか見られないんだよね
栄達してやっと出来た子という可能性もなきにしもあらず
その場合、父親も母親も結構年齢がいってても不自然じゃない し! _ -── ‐- 、 , -─-、 -‐─_ノ
イ 酒 // ̄> ´  ̄  ̄ `ヽ Y , ´ ) 董 え
ケ 地 L_ / / ヽ 卓 |
メ 肉 / ' ' i !? マ
ン 林 / / く ジ
だ が l ,ィ/! / /l/!,l /厶,
け 許 i ,.lrH‐|'| /‐!-Lハ_ l /-!'|/l /`'メ、_iヽ
だ さ l | |_|_|_|/| / /__!__ |/!トi i/-- 、 レ!/ / ,-- レ、⌒Y⌒ヽ
よ れ _ゝ|/'/⌒ヽ ヽト、|/ '/ ̄`ヾ 、ヽト、N'/⌒ヾ ,イ ̄`ヾ,ノ!
ね る 「 l ′ 「1 /てヽ′| | | 「L! ' i'ひ} リ
l . の ヽ | ヽ__U, 、ヽ シノ ノ! ! |ヽ_、ソ, ヾシ _ノ _ノ
-┐ は ,√ !  ̄ リ l !  ̄  ̄ 7/
レ'⌒ヽ/ ! | 〈 _人__人ノ_ i く //!
人_,、ノL_,iノ! /! ヽ r─‐- 、 「 L_ヽ r─‐- 、 u ノ/
/ / lト、 \ ヽ, -‐┤ ノ キ 了\ ヽ, -‐┤ //
ハ キ { / ヽ,ト、ヽ/!`hノ ) モ |/! 「ヽ, `ー /) _ ‐'
ハ ャ ヽ/ r-、‐' // / |-‐ く | > / / `'//-‐、 /
ハ ハ > /\\// / /ヽ_ ! イ ( / / // / `ァ-‐ '
ハ ハ / /! ヽ レ'/ ノ > ' ∠ -‐  ̄ノヽ /
{ i l ! / フ / -‐ / ̄/〉 〈 \ /! 董卓:織田信長
董旻:織田信忠
李儒:森蘭丸
王允:明智光秀
李カク:豊臣秀吉
牛輔:柴田勝家 裴松之注董承曰く 「郭は数百の兵で、数万の李カク軍に勝ちますた」 董卓:織田信長
李儒:森蘭丸
王允:明智光秀
董旻:織田信忠
李カク:豊臣秀吉
郭:柴田勝家
樊稠:佐々成政
万歳塢:安土城
未央宮:本能寺
徳川がいねーな r ‐、
| ○ | r‐‐、
_,;ト - イ、 ∧l☆│∧ 良い子の諸君!
(⌒` ⌒ヽ /,、,,ト.-イ/,、 l
|ヽ ~~⌒γ⌒) r'⌒ `!´ `⌒) 裏があるから「おもてなし」だ!
│ ヽー―'^ー-' ( ⌒γ⌒~~ /
│ 〉 |│ |`ー^ー― r' | 気をつけよう!
│ /───| | |/ | l ト、 |
| irー-、 ー ,} | / i
| / `X´ ヽ / 入 | 子飼いの軍人達を顕職につけず、広く人材を登用したのは評価できる
でも引き上げてやったそいつらに裏切られてまくってバグったんだろ 237 :愛蔵版名無しさん :2008/05/29(木) 15:18:53 ID:???
蒼天じゃ董卓は子飼いの将校を
顕職に付けなかった事を評価されてるけど
実際は一族で独占してる 董卓が滅茶苦茶になったのは、当時の漢王朝の「儒教思想」があったからだと
思うが?なぜなら儒教思想では、「家柄」「外見」「忠孝」の3つが重んじられていたからだ。
さしずめ董卓などは漢朝の官僚らから見れば、「どこの馬の骨とも分からない奴」
「見た目が醜いから、中身も醜いだろう」等、言われて舐めた目で見られていたからであろう。
その事に対して、董卓は激怒し、滅茶苦茶な行いをするようになったのだと思われる。 >どこの馬の骨とも分からない奴
父の董君雅は潁川輪氏の尉で立派な役人
どこの馬の骨とも判らないってわけじゃあないよ
しかも董卓を中央政界に引き込んだのは袁隗
他ならぬ清流派の中心人物の一人 すんません。私の知識が浅はかでした。でも、少なくとも清流派の中には
董卓の事を、たかが辺境の一将軍とみて、軽んじてる輩もいたのでは? それなりに信用してたであろう袁紹に逃げられてからおかしくなったような気がする その通りだと思う。初めは真面目に国を立て直そうとしていたが、袁紹や曹操
など信頼して人達にいずれも裏切られたため、国を立て直すのが馬鹿馬鹿しくなり
己の権益・欲望に走ったものだと思われる。 >>146は違うんじゃないか?
国家という概念自体今と大分違うからその辺は明言できないと思う 国を立て直そうとしたというより、
恩義ある袁隗を立てたんじゃないかな。
そうやって、袁家に力いっぱい配慮していたのに、
袁紹に逃げられて逆ギレしたんだと思う。 恩に報いるかどうかは董卓ならぬ自分らには判らんことだから別の見方も出来る
上手い具合に洛陽の実権を把握した後、今度は自分が清流派の大将になったつもりかもしれん 荊州刺史に任じた劉表が孫堅を殺した後に洛陽奪還してさらに東で略奪までやってたり
壷寿を冀州牧に任じて黒山賊を使って袁紹を苦しめたりと
遷都後も対外戦略は結構上手くいってたイメージがある 実際董卓が殺された本当の理由は「呂布が身の危険を感じ、そこを王允等につけ込まれた
」からだと思われる。正史にも「董卓は呂布に戟を投げつけた」とか、「呂布は董卓の侍女と
密通し、それが発覚するのを恐れていた」とも書かれてある。その事を王允に相談すると、
王允は、士孫瑞らとともに董卓暗殺計画を練っていたので、その呂布の話を利用し、
呂布に董卓暗殺をそそのかし、味方に引き入れ、董卓を殺したものと思われる。
>>152
味方に引き入れっていうが元々王允と呂布は同じヘイ州出身で味方同士だぞ >>153
それを味方というのはどうよ
三人が特に関係のない朝臣同士だったならともかく、
呂布は董卓の億の間に出入り出来るほどの「侍臣」だぞ
しかし「本当の理由は」と言うが、>>152以外に何か
一般に普及している董卓の誅殺の事情があったっけ? 貨幣改鋳してハイパーインフレを起こした
虐殺を頻繁に行う
子飼いの連中を厚遇するようになって清流派名士を蔑ろに
それ以外にも過去の少帝廃位とそれに伴う強引な改元とかやってる独裁者を除こうとするやつは沢山いるだろ
実際失敗した荀ユウ達の董卓暗殺計画とかあるんだし >>155
それは呂布に付けこんだ王允側の動機と同じだろ?
>152がことさらに「本当の理由は」と言った理由がよくわからん。
>>157
それは>>152よりも人口に膾炙していない。
一般の三国志好きの多くはそこまで気にしてないだろう。 >>156
王允の理由は別でしょ
>>155みたいな理由で董卓を殺そうとしてる連中は投獄された荀攸達以外にも多くいたみたいだから
董卓をどうにかしないと、もしも董卓が殺された場合はずっと董卓政権の中枢にいた自分も責任取らされるって王允は考えたはず
そんなときに同郷で董卓軍閥の呂布が董卓を恨んでるってのを知って、呂布を引き込んで董卓暗殺に踏み切ったんだと思う
董卓の悪政を正そうって考えがあるなら蔡邕みたいに諌言してるはず >>159
それは一理も二理もあるな。
>>152とは噛み合ってないようだが…まあいいや 要は王允は後世の史家達に董卓の重鎮・片腕の様に書かれるのが嫌だったのだろう。
もちろん漢朝を救うという意味もあったのだと思うが。
>>161
ちゃんと調べろよ
王允がどんだけ奸物だったか調べりゃ分かるよ >>162
ジュンイクとどっこいどっこいのクワセモノだよな その割には二人とも殉死ということになってるけどな。 卓卓卓!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! >>162
とりあえず董卓死後の事後処理とかみてると
忠臣なんかなじゃなくて
既得権益侵されたくないand董卓と共倒れは勘弁って理由で
謀叛起こしたのはわかるが他に奸物エピソードあるの? 涼州出身で固められた董卓の部曲を赦すか赦さないかなど、
他の情勢と比べて為される政治的判断に過ぎないよ。
官位では最高で牛輔の中郎将でしかない。
董卓を誅した以上、その部曲をも排除するという選択肢は普通にありえる。
呂布らはその武力を警戒して敵に回すなと言った。
王允は完全排除を目論み、失敗した。
それだけだ。 >>171
そこじゃない
自分が董卓に阿った王允が政権奪取後は
自分以外の董卓に阿った奴の大半を鏖にしたりしてるのが悪辣 はて…初耳だな
王允がやった粛清というと、
・皇甫嵩を遣わし董旻他一族を皆殺しにした
・董卓の部曲を赦免しなかった
・董卓が任命した将校には涼州人が多くいたため、それらを罷免した
・過去董卓の辟召を受けており、故にか董卓の死を歎じた蔡ヨウを殺した
くらいしか見当たらないなあ
逆に王允と共謀したのは董卓に任命された名士高官なんだよ。
太僕・魯謙 光祿大夫・士孫瑞 司隷校尉・黄エン 騎都尉・呂布、李肅 議郎・鄭泰
相国長史・何?(別件で獄死)司空・荀爽(病死) 衛尉・張温(露見して誅殺)
近衛軍兵、禁中、董卓の相国府まで及ぶ一代包囲網を造ろうとしていたとわかる。
この顔ぶれと荀爽・荀攸の関係を考えれば、荀攸が投獄された一件と王允の企てには
粗密は解らないが連携があったと見るべきだろうね。
その後、徐栄(幽州人)や胡軫(これに至っては涼州人だ)など、
董卓の下で山東軍と戦った人間を用いて牛輔・李カクと戦っている。
董卓に阿って皆殺しにされた奴とは一体誰のことだろう?
王允の野心を否定はしないがね。
董卓から王允にかけて、朝廷は機能を維持していた。頭が代わっただけだ。
董王の交代は後漢で永く行われてきた権力闘争の延長線上にある。
董卓の代で任命された多くの三公もその後の朝廷に仕え続けた。
前の独裁者が任命した廷臣を根こそぎにする必要なんて無いんだよ。
長安士庶鹹相慶賀,諸阿附卓者皆下獄死
董卓に阿った奴は皆獄死したそうだが? どこに書いてあるのかとびっくりした。
三国志董卓伝かあ。
その一文の実態はどれほどのものだったのかね? 多少邪悪な董卓は滅んだ感を出すためにオーバーかもしれんが
王允が自分を棚上げして董卓に阿って長安にいた奴をぶっ殺しまくったのはほぼ事実だろ だから、誰が殺されたことを以って事実とか言ってるの?
後漢書の漢臣達の記録からはそんな気配を読み取ることは出来ないなあ。
董卓に諂った記録のある涼州人の皇甫嵩や、胡軫さえ生き残ってるのに。
董卓の周囲が無傷だったというのもありえないだろうが、
せいぜい相国の属官や特別の股肱くらいだろうね。 この時期の高官で死者が多く出たのは、李カクに長安を落とされた時と、
東帰して追撃を受けたり困窮したときだね。
董卓の時期に三公九卿として任じられていた人物もこの時にバタバタと死んでる。
>>177
殺されたから立伝されてないんだろ
董卓の取り巻きで片付けられちゃってるよ
その中でも特に優秀な蔡ヨウはちょっと名前残っただろ 董卓の取り巻きは殺された
董卓時代の三公九卿らの大臣は取り巻き扱いされていないから殺されなかった
それだけのことじゃん その通り。つまり董卓の時代において、朝廷は機能を維持しており、
董卓はそのナンバー1、王允はナンバー2、三位以下にもそうそうたる顔ぶれが並んでいた。
のちに董卓を殺して王允が一番になり、機能をそのまま受け継いだ、という前例通りの権力闘争なんだよ。
王允が他の例に比べて別段悪辣なことをしたわけではないと、解っていただけたようだね。 董卓の時の王允って司徒と尚書令を兼任してるんだよな 王允にしたら董卓を殺す、3つの目的があったんだろう。
@後世の史家達に董卓の片腕ごときに書かれたくない。
A自分がトップに立ち、権力を握りたかった。
B漢朝を董卓の専横から救い、民衆を助けたかった。
多分@とAの可能性が高いが、それは各々の判断にまかせる。 >>183
そうだな。陳蕃と同じくらいの奸物だな。こいつはひでえや _,,:-ー''" ̄ ̄ ̄ `ヽ、
,r'" '、"/ `ヽ.
/" く 7 ヽ
/ `´ |
/ ::__ _,,. -ーi、 |
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| ヽ"::::''  ̄´.::;i, i ``` ´" ̄r';' } | 久々に遷都
.,!;;; l ::. ....:;イ;:' l 、 ,l,フ ノ | 都とは雄渾なる地であるべき
'";;;;;;|_i"ヽ;:...:::/ ゙'''=-='''´`ヽ. i l" < なんだよな 今の都はか細くひ弱で汚わいを
.i';;;;;;.i| ::゙ ::´~===' '===''` ".|;;;;;;;,、 | 覆い隠してとり澄ましておるから困る
;;;;;;;;;i{ :: 、 :: `::=====::" , |;;;;;;;;;;ヽ \________
;;;;;;;,'/ト、 ::. ゙l;: ,i' ,l' ノト、;;;;;;;;;;;i
;;;/ .| \ゝ、゙l;: /``,ー,,/;;,ノ;r'" :| \ ;;;;!
'" | `''-、`'ー--─'";;-'''" ,| \_ (・∀・д・) 天に確たる意思などなく、地に確たる歴史などない。 http://chinesegarden.jp/china/totaku.html#TK10
>戦闘のプロフェッショナルである孫堅軍以外での戦闘では董卓軍が連戦連勝。
>雅な生活から地方の反乱は討伐部隊に任せっきりであった袁紹以下旧後漢勢力が
>勝てる相手ではなかったとは史書が記すとおり
これってマジ?どっからの引用だろうか。
これの前の文章に
>董卓はなんども涼州の精鋭相手に戦闘を起こしているが、
>董卓軍と涼州軍、両者の間では本気の殺しあいが行われることがほとんどなかった
>(中略)董卓出撃とあわせて涼州軍が上手い具合に撤退するという一見すると八百長試合を繰り返していたのである。
とあるが、これが本当だとすれば八百長試合になれきった董卓軍が
反董卓連合軍と比べて戦慣れしていたとはとうてい考えられないのだけど・・・・・
董卓軍は反董卓連合軍に圧勝していたのか?
董卓軍は何度も涼州と八百長していたのか?
その根拠は何処に?
徐栄が曹操・孫権を破り、
李カクが朱儁を破ってたはず。 >>197
徐栄が破ったのは曹操だけでは?
>徐栄が曹操・孫権を破り
その出典はどこだろうか。
"董卓の部将徐栄と遭遇し、これと戦闘になって敗北"
(http://www.project-imagine.org/search2.cgi?text=wei1-1;lang=Jp;option=HrHc)
と正史の魏志1巻曹操伝にあるが、ここに記されてるのはあくまで曹操だけであって
孫堅を打ち破ったとは書いてないんだよね。
ちなみに孫堅伝だと孫堅軍は一度董卓の総攻撃の前に敗れた後、陽人での戦で
華雄を討ち取るなど大勝。これから董卓は孫堅を恐れて長安に遷都・・・・・
これでいくと
徐栄が孫堅をやっつけたことがあったにしろ無かったにしろ
董卓のとっつぁんは一敗にビビッテ遷都したチキンということになってしまうのかな
>>199
ビビってというか董卓視点では連合軍は一枚岩に見えなくもないから
大事を取って遷都したってことだろう
また、一枚岩をこの遷都でバラす意図もあったと見ていい >>199
後漢書董卓伝より。
190年。
各地で略奪を働いていた徐栄を討つために、
孫堅が予州兵を率いて出陣する。
梁県で遭遇戦となり、徐栄は孫堅軍を撃破した。
同じ時期に董卓軍の胡軫・呂布・葉雄が孫堅に敗北している。
場所も同じ梁県。どっちが先かは不明。
曹操に関しては貴方の言ったとおり。 徐栄が孫堅を破ったのは190年。遷都自体はこの年。
洛陽周辺で焦土作戦を取るが、董卓自身は洛陽に留まる。
翌191年、体勢を立て直した孫堅は胡軫と呂布を破って洛陽に迫り、
董卓と会戦、撃破して洛陽に入城する。董卓は黽池まで退き、後に長安へ撤収する。
二つの董卓伝と孫堅伝を総合する限りでは、こんな感じ。
遷都は防御の縦深を取るためだろう。まして焦土にされたあとでは、
仮に討伐軍全軍が本気出して洛陽まで進出したとしても、兵站に負担がかかりすぎて
長安まで攻めることは難しくなる。現に孫堅も洛陽を保持できなかった。
記録に残る限り、董卓軍にまともに勝てたのは確かに孫堅だけだね。
>>196のリンクの書き方は、まあwikipediaなどなら即修正ものだが
個人のサイトなら構わんのじゃないかな。