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【劉封】劉備の息子達【劉禅・劉永】
0003名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/17(金) 00:04:03ID:noYmYyLJ0
趙雲が阿斗を救いだして、って話。
実は劉備は阿斗を捨てたかったんじゃないかな。

劉備の事だから、阿斗がガキの段階で、暗愚な人間って
判ったんだと思う。

趙雲も空気読めない香具師だな・・・





           などと適当に書いてみた。
0005名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/17(金) 00:06:17ID:SrOmvqvq0
オレ、昨日、チラシを捨てたら、
落ちましたよって、親切な人が拾ってくれたんだよ
まさか、捨てたと言えないから、礼を言ったけど

劉備はそんな心境だったのか
0006名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/17(金) 00:06:53ID:Qhi3lh660
まあ、基本的には子供に冷たい父親だからね。
劉封も別の意味で処分されたと聞くし・・・

・・・とレスしてみる。
0007名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/17(金) 00:07:37ID:w7XPfArC0
劉邦も子供を捨てようとしてなかったっけ?
劉備って劉邦を真似るように意識していたのかな?
0009名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/17(金) 00:23:10ID:QztdyMPq0
んじゃ光武帝はどうなるのよ?と
劉備は確実に劉邦を意識してたんだろう
曹操が光武帝を意識してたようにね
0010名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/17(金) 00:35:00ID:Qhi3lh660
曹操は武帝か始皇帝ではないの?
性格的にピッタリな気が・・・

それにしても曹操は妻子に対して気配り上手。
劉備は妻子すら殆ど顧みなかった気が・・・
0013名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/17(金) 23:58:06ID:Qhi3lh660
曹操って太祖・武帝と呼ばれてるから、
どうしてもどこか武帝を意識してしまう。

劉備は昭烈帝と帝号はわかるが。諡号はわからない。
廟号っぽくいえば適当に先主と呼ぶしかない・・・
0014名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/18(土) 00:15:54ID:tKJ8g8jp0
あぁ・・・
三國志を始めて読んでからかなり経つと言うのに
劉備の諡号が不明であることに始めて気が付いた。
ありがとう。
0015名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/18(土) 07:09:15ID:kL4waV6g0
曹操と光武帝は全然イメージ重ならないなw
劉備は、劉邦の真似しようとしていたんだろうなあというのは伝わって来る。
0017名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/18(土) 12:27:30ID:NC46XSUW0
むしろ曹操はどこか始皇帝と武帝を意識してたような・・・

劉備は劉邦以外に意外と商鞅を意識してたかも。遺言でも
劉禅と劉永兄弟に商鞅の兵法書の「商君書を読め!」と言い遺してるし・・・ 
0018名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/18(土) 12:50:12ID:ioPeiVpg0
曹操の袁氏を破った後で、配下が内通していた証拠の文書を読まずに焼却した、
なんていうエピソードは光武帝の真似だよね。
0020名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/18(土) 17:04:21ID:w5llDISJ0
漢中撤退の時も光武帝を引用している
だいたい武帝なんて曹操に限らず、宇文ユウや簫衍だって武帝だろうが
漢武帝は国庫の潤沢な資金を自己満足の為に外征に使い
儒家を重用した人物でこれっぽっちも曹操と被らない
始皇帝は言わずもがなで、何コレと新しいモノを想像した始皇帝に対し
曹操は屯田兵を始め、過去の遺物の使えるものを上手に利用するタイプ
光武帝は豪族のバランスの上に天下を統一した人物だから
後漢末に光武帝を模倣することは豪族層に対しての利権を尊重するぞという意思表示にもなる
それに光武帝と愉快な仲間達は名言・格言が多いので三国志の人物達はよく引用し、手本としてる
0021名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/18(土) 18:38:42ID:MsQo3DRXO
まあ実際は光武帝は豪族の力を力を抑えようとしてるけどね
劉邦みたいな粛清等の強権的な方法は使わなかったから不徹底なイメージがあるけどね
0022名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/18(土) 19:26:21ID:T+Bty32RO
実際に徹底は出来なかったからね

光→昭
武→烈
というわけで劉備は光武帝二号
0023名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/18(土) 19:32:07ID:w5llDISJ0
実際、光武帝・明帝の間は上手くいってたし>後漢
外戚・宦官・自称清流の三連コンボでアボンしたが
0024名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/18(土) 19:50:33ID:MsQo3DRXO
>>22
劉備本人はあまり光武帝を意識してる感じがしないね
諸葛亮は光武帝を凄い尊敬してた節があるけど
0025名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/18(土) 21:38:16ID:Ke92jJfp0
たしか息子は、死んだ時の贈り名だっけ?あれが「廃帝」なんだよな?
0029名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/18(土) 23:27:19ID:NC46XSUW0
劉禅が懐帝・・・思公と併せて2つの諡号があるということか・・・

そういえば、献帝も蜀漢から愍帝の諡号を贈られたと聞く。
0031名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/19(日) 00:34:04ID:BN9QeWfIO
諡について誤解してる人がいるみたいだな

廃帝とか少帝ってのは通称としての呼び名であって正式名称じゃない
諡をもらえなかったから便宜的に呼ばれてるだけ
0034名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/19(日) 00:52:39ID:bJdLV+VY0
>>30
あぁ・・やっと来たね。

スレタイ通りに劉理(奉孝、名が王偏)が劉備の孫な件・・・
そして、劉禅の子の名は・・・

◎璿・瑶・j・瓉・c・璩(琥)・・・多分、王貴人の子
◎ェ・・・張皇后の子?

・・・かな?
0035名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/19(日) 00:56:51ID:BN9QeWfIO
「諱の偏が同じなら兄弟」みたいのはこの時代はあまり固執しない方が…

曹操と曹拠も兄弟?ってなるよ?
0037名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/19(日) 01:06:27ID:bJdLV+VY0
あぁ、そうか。そういうこともあるね。


そのぷらっとさんは結構「諱の偏が同じなら兄弟、または従兄弟」
ということに自分なりに考えを持っている人のようなので・・・
0041名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/19(日) 01:40:10ID:0zhUdeX00
実はな、劉ェについてのスレを立てたいと思ったことあるんだよ
劉備の子や孫で唯一好きなのが、劉ェ

一途というか、やんちゃ坊主って感じでいいじゃん
劉禅とか他の兄弟に「ェ、必死だな(プ」とか言われていそうなのも愛おしい
ゲームで、ェ坊やの能力、エディタ使って高くしたくなっちゃうんだよな

貴重でしょ、劉家でこういう跳ねッかえりの存在は
0044名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/19(日) 05:23:56ID:sFcuo1h8O
劉理か劉永のどちらかの孫の劉玄が、晋の八王の乱の時だかに洛陽あたりから
成都あたりに逃げてきたってのはあるよね?
劉禅の子孫を始め、その他の劉備の子孫は皆殺しになったらしい。
劉玄の子孫はいたのか判らんけど。
もしいればその後、ある程度続いたかも知れないね。
0045名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/19(日) 09:37:47ID:+V857Hec0
諸葛亮の子孫はいるのにな
0046名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/20(月) 06:53:38ID:Xuwy/ECtO
日本にも諸葛さんているけど子孫なん?
0050名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/23(木) 11:37:09ID:BsQDmJy30
才ある故にか。
皇族なのにポンポン戦に出てる所を見ると
あながち弱くないみたいだね。
0051名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/23(木) 15:30:10ID:AJFYcdMu0
亀スレになるが、劉封はどこか信康と似てる気が・・・
軍事能力があるゆえに却って劉備に警戒されたと・・・
0053名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/24(金) 10:09:47ID:wIt6CuLMO
劉禅は家臣次第で名君にも暗君にでもなる素養の持ち主であった。これは陳寿も『白絹の布のような人』と評されている
孔明の独裁政治を許したのも劉禅公の度量の広さであり
孔明もその器の大きさと人徳に先帝の姿を見出し一命を懸けて彼に仕えた


類い希な才能を持ちながら君主の嫉妬によって干されたり消したりされた名臣が居たことを考えると
孔明にとっては自分の才能を十分に発揮出来る、これ以上無い名君に仕えた事となる
0054名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/24(金) 10:50:01ID:Vy6E5V1C0
その対照的が曹丕だね。正真正銘の名君でありながら嫉妬心が強かった。
特に同腹の兄弟にしては苛酷だったと言うね。
0055名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/24(金) 10:58:50ID:Vy6E5V1C0
また、孫権も父・孫堅、兄・孫策の地盤を受け継いで、守成型を保ったのは立派。
但し、意外と積極性に欠け、戦下手で部下を処刑することは結構あった。
特に人口不足による倭方面に人口補強を失敗した部下を処刑した。

また、非常に酒好きで老公・張昭と衝突を繰り返したり、
自分の意向に逆らう虞翻を何度も処刑未遂するも、
部下の劉尚(劉繇の子)の諫言の繰り返しで、中断された。

孫権は非常に酒癖の悪い君主だったとか・・・
0057名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/24(金) 13:03:59ID:+NV8XkVH0
3国の皇帝にもそれぞれ長所短所があるってことだね
確かに度量の広さは親父譲りだし、疑わないってのはいいよね
まあ某司馬の人とか乗っ取る奴もいるけどな
0058名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/24(金) 16:09:52ID:Vy6E5V1C0
三国の歴代皇帝


先代 (曹魏)曹操 (孫呉)孫堅・孫策 (蜀漢)劉備

次代 (曹魏)曹丕・曹叡 (孫呉)孫権 (蜀漢)劉禅
0059名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/24(金) 20:08:12ID:6tZD/S4J0
>51
家康の息子たちは、曹操の息子たちと比較してみたら面白INジャマイカ?

信康ー曹昂
秀忠ー曹丕
秀康ー曹彰
忠吉ー曹植
0060名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/24(金) 22:13:07ID:gBUjz7K60
劉封って何年生まれ?
0061名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/24(金) 22:21:56ID:Vy6E5V1C0
う〜ん、俺なら・・・

(徳川家)
信康+秀康≒劉封
秀忠≒劉禅
忠吉+忠輝≒劉永
義直+頼宜+頼房≒劉理
家光≒劉璿+劉ェ

(織田家)
信正≒曹昂+曹鑠
信忠≒曹丕
信孝≒曹彰
信雄≒曹植
勝長+秀勝≒曹熊
津田信澄≒曹休
蒲生氏郷≒曹真 

(毛利家)
毛利弘元≒孫鍾
毛利元就≒孫堅
毛利隆元≒孫策
小早川隆景≒孫静
毛利輝元≒孫権

・・・かな?
0063名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/25(土) 03:14:27ID:mdViCXj60
>>61
こういうのは不毛だが、そのメンツなら

秀忠=曹丕
(秀忠は自分が政権を握った後、鬼のように改易をしまくってる独裁者)
信康=曹彰
(粗野で考えたらず)
忠輝=曹植
(狂騒児。ただし父親に愛されたか、愛されてないかの違いがある)
保科=曹真
(二代目から信頼を受け、実直であった)
家光=曹爽
(宮廷権力抗争には長けるが、基本的に無能。補佐ありき)
信忠=劉封
(信忠は武将として優れた功績を挙げている)
勝長=曹沖
(将来を期待された逸材)
信澄=曹仁
(親族一の名将)
吉川・小早川=孫策・周瑜
(基盤を築いた名将)
隆元=孫登
(人柄穏やかで、縁の下の力持ち)
0064名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/25(土) 03:37:14ID:8ghpFeYk0
>>63
秀忠は曹丕と劉禅がミックスしてるね。
(理由;秀忠は戦が下手、泰平の世では能力を発揮)

信康は曹彰と劉封がミックスしてる感じ。
(理由;粗暴な所もあるが、戦はまあまあ、どちらも父に警戒され非業の末路に)

信忠は劉封と曹丕がミックスしてるような・・・
(理由;嫡男として父に期待され、文武両道に優れていた)


・・・こんな感じだと思われ。
0065名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/25(土) 03:43:21ID:mdViCXj60
ミックスというよか、曹彰と劉封が単に同系統なだけ
信忠はそれ程政治で優れてた実績は無いので曹丕を混ぜるのは躊躇われる
それこそ混ぜるなら劉禅を混ぜろ

っていうか、コレは戦国系の板で三国志に当てはめるヤツにも言うんだが
何故に古代と中近世の人物を当てはめようとするんだろうねぇ
戦国期の人物なら元末明初、三国志なら古墳飛鳥時代の人物に当てはめろよと言いたいが
0066名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/25(土) 03:52:05ID:8ghpFeYk0
まあね。時代の状況が違うし。

三国なら同じ中国の元末の状況と比較という見方もある。

朱元璋―劉備

張士誠―袁紹

陳友諒―曹操

というパターンもある。
0068名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/28(火) 09:54:09ID:7s6xctnv0
>>62
意外と若いなw
0069名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/28(火) 10:13:47ID:+2A7jxos0
劉禅は豊臣秀頼
諸葛亮が石田光成
0073名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/12/01(金) 09:34:30ID:xwLxbRj00
それおかしいw
0074名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/12/01(金) 11:08:05ID:9Gmc/2GZ0
確かに袁術は秀吉と違い名門だけど、大げさ見栄を張り
威張り腐ったの所は意外と秀吉に似てると思うけど・・・

袁≒猿・・・なーんちゃってね。
0075名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/12/01(金) 13:44:00ID:7P78s+mkO
>>74 うむうむ術殿も実力が備わっていれば良かったが

彼と秀吉公との決定的な違いは人心を掴むこと。関白になって威張り腐るようになっても相手を持ち上げる事は相変わらず上手かった
0076名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/12/02(土) 14:52:28ID:gLvvHU8Q0
そこで、陰険な狡猾狸福耳野郎の家康≒劉備に足元をすくわれるわけですよ。

川尻肥前守秀隆≒車冑の二の舞のように・・・
0077名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/12/03(日) 02:22:15ID:z9VrDCxy0
関が原の戦いは下手すれば夷陵の戦いのパターン・・・の場合もある。

感情に勝った家康然り、感情に負けた劉備然り・・・
0079名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/12/03(日) 23:41:17ID:z9VrDCxy0
ふーん・・・

こっちも劉備=秀吉、司馬懿=家康のネタにはもう飽きたけどね・・・
俺から見てもどっちも全然似てないと思うし。

それ以外ならなんでもいいよ。
0080名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/12/08(金) 14:05:33ID:VNtD4jwa0
劉備って狡猾ね
0084名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/12/20(水) 14:00:40ID:BeCR7ECj0
強いて話題を吹っかけるなら・・・

劉封がケ禹の末裔の可能性が大であること。
そもそも羅侯の寇氏ってのは、実はケ氏(寇とは同音)の誤筆。

後漢の安帝によって、餓死したケ隲(ケ禹)とケ鳳父子の
子孫が高密侯から南陽の羅侯に降格されたのが史実。

ソースは後漢書。

・・・まあ、劉封はケ芝の親戚でいいと思う。
0085名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/01/03(水) 16:09:29ID:N5AfSxer0
>>80
狡猾なわりに失敗も多いようなw
0091名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/01/16(火) 09:41:31ID:gFLUSAdt0
カコウトンの長男って誰?
0092名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/01/16(火) 10:57:58ID:eqnoPpCV0
>>85
だからこそ面白い。
狡猾だけど、謀の点に関しては曹操などに劣るわけで。
0094名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/01/29(月) 03:23:34ID:s55Hi/Ew0
>>75
待てやコラ
袁術皇帝陛下は人心掌握に長けておられたし実力も多大なものであったのだ

問題は曹操がそれを圧倒的に上回って優れていたというだけの事よ…
0095名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/01/29(月) 09:23:32ID:3uhg6g920
草々は織田信長より狡猾で頭もよい
0096名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/01/29(月) 10:02:31ID:WNbuwy590
劉備は息子の誰でも良いからケイシュウに残すべきだった。
最も信頼してる関羽にケイシュウ防備を任せたわけだが、関羽を諌められる武将がケイシュウに
一人も居なかったのが悔やまれる(馬良やビホウでは関羽を諌められない)
北伐をする際にも公子が居るとなれば、より慎重にケイシュウの防備を高めて
呉に対する警戒もMAXに達しただろうし、場合によっては魏侵攻よりも
公子とケイシュウを守る事が第一義だと考えて無謀な北伐に参加せず
見事にケイシュウを守りきったかもしれない。
0097名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/01/29(月) 10:17:26ID:WNbuwy590
劉備の息子って言っても劉邦と劉禅ぐらいしかおらんだろ
劉邦と関羽は仲悪いし劉禅はまだ幼いし
0099名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/01/29(月) 15:56:23ID:WNbuwy590
公子じゃなかったら親族でもいいよ。嫁でもいい。
関羽を自重させる者、もしくは関羽が一目置かざる得ないものを一つは
ケイシュウに置いとくべきだったと思う。
それは価値が高ければ高いものほど良い。
または政略結婚を蜀主導で進めてケイシュウ防衛軍と南三群及び呉、上庸の間で
お互いが裏切れないように縁戚関係を結び出来得れば嫁とか養子の名義で
呉の重要人物をケイシュウか蜀に引き取れれば良かった。
呉から関羽へ政略結婚の申し出があったのが事実かどうか知らないが
呉から、そういう話がなくとも蜀主導で進めても良いくらいの話だった。
0100名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/01/29(月) 15:59:57ID:RVkqj4Z40
ID:WNbuwy590は大変な妄想家の上歴史も知らない。
自分の世界だけで物事を語っているように思える。
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