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柴栄
0001名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/13(月) 22:47:44ID:esOkTgJJ0
どうなの?
0004名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/14(火) 12:36:04ID:DNuiG/rj0
宮崎市定いわく、後周の世宗は信長、宋の太祖は秀吉、太宗は家康みたいだな、と。
0006名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/14(火) 18:59:08ID:1kk6Cs2h0
柴栄に関わるエピソードで、信長ばりのモノは多い。
趙匡胤も、人たらしなところは秀吉に似ていなくもない。 戦はさらに上いっているが。
だが、趙匡義は家康と言えにくな… 
ま、個性ではなくて歴史に対する役割としての比定なんだけどね。
0007名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/14(火) 22:26:30ID:YBw/bV9U0
趙匡義はやや陰険なイメージがつきまとうね。
趙匡胤の死への疑惑や、その子、南唐後主らへの仕打ちから。
0009名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/15(水) 14:46:09ID:fsKxhlJu0
ただのピザデブ親父だろ?
おいおい、39歳での死亡だぞ。その親父っぷりは趙匡胤よりひどかないかい?
ってマジでひとりでつぶやいてしまったくらいだ。

本紀では一応、容貌はとくに非凡な美しさ(英=「すぐれている」など)と書かれているのに…
まぁ『五代史記』のマンセー記述だがwww
0010名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/21(火) 12:44:38ID:6vfwS4ri0
39歳での崩御は暴飲暴食が祟ったんだろうか・・・

皇帝になった途端に、酒池肉林に走って一気に寿命を縮める人っているよね。
0011名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/21(火) 16:45:18ID:/s6u8nvX0
いや… ピザデブってそういう意味じゃ…
柴栄も過労死に近い気もするが、病死だな。
5年6ヶ月にやった、彼の改革を考えれば、一体いつ寝てるんだ? と問いたくなるくらい、席の温まる間もない多忙さだった。
0012名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/21(火) 16:54:14ID:o1NSvS6a0
詳しくないのを先に断っておくが

この人は賢君過ぎて
あとをついだ宗訓から趙匡胤に人気が移った可能性は?
0013名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/21(火) 17:21:56ID:/s6u8nvX0
>>12 本質はそれでいいわけだけど、より正確を期するなら、五代十国という時代性をまず知らなければならない。
この時代は一天万乗の皇帝という存在の価値が、著しく暴落した時代で、皇帝の血統を敬うとか、そういう精神が希薄になっています。

地方節度使という言わば大名が、日本でもあったような下克上の様相を呈しており、実力あるものが武力をもって取って代わる図式が、ふつうに成り立つような感じだったわけです。
もろん、皇室や一個人に忠誠を尽くすものも少なくなかったわけですが、政権が乱立し短命なる背景はそこに集約されると言ってもいいでしょう。

つまり、偉大な君主は衆を率いる騎手として、誰もが認めるわけですが、それが年端も行かない、あるいは実績の少ない若造であると、どうしてもベテラン連中が納得せず、納得できる実力者を押したてようと動くわけです。
趙匡胤はそういう状況の中で、自分にその民意が向くよう工作し(すでに実力第一人者だけど)、軍兵によって「しかたなく」擁立されるかたちで禅譲を迫ったわけです。

その点柴栄は、父帝の遺産を引き継いで即位したのですが、即位当初は彼を侮る廷臣が多く、また命令に服さない将軍も多かったのです。
後晋や後漢の二代目と、柴栄が違う部分は、その言うことを聞かないあるいは侮っている連中の目を開かせるのに、実力を示し続けたわけです。
まず即位早々、危険という廷臣の諫止をはねのけ親征し、味方が敵前逃亡する中で最後まで踏みとどまり、自ら槍を振るって士気を鼓舞するあたり、即位前の日陰者なイメージとは断然に違っています。
廷臣を、実力を持って彼個人に心服させたわけですから、趙匡胤の擁立とはやや事情が異なりますね。
0015名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/21(火) 22:03:36ID:b6r/E8hhO
自分も五代はあんまり詳しくないんですけど郭威と柴栄って漢族なんですか?
0016名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/21(火) 22:45:34ID:/s6u8nvX0
一般には漢人皇帝ということになっている。
そこで思うに、それまでは突厥系沙陀族の皇帝が続いたからその系統ではない、というだけで純粋なる漢民族かどうかというのは別問題なのではないか。

唐自体が鮮卑系民族の王朝であり、国内もいろんな出身の人たちが多かったので、この頃となると血統的に純粋な漢民族は、いただろうけど実利でいえば、それがどれほどの意味を持つか疑問視せずにはいられない。
柴栄は基本、漢人だけど厳密には鮮卑系の可能性もあるそうな。
趙匡胤も突厥系という話もある。
0017名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/21(火) 23:50:50ID:b6r/E8hhO
柴栄が鮮卑系の可能性があるっていうのは初耳でした
この頃は血統的に漢族であるかどうかなんて大して重要な事じゃなかったのかもしれませんね
0021名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/22(水) 19:10:13ID:H/jdHPnR0
>>20 ? 問いかけの趣旨がいまひとつわからない。
そういえば五代史、五代史記、十国春秋あたりに、「宇文」「独孤」という姓はみかけないような…

>>18 言いえて妙。 というか、それが本質であるべき。
相手を異民族だ蛮族だと、ただ風習や生活空間が違うだけで下に置く精神は、中国の歴史においてもっとも腐臭のただよう部分と思える。
例えば、後晋の廷臣連中は、辞を低くして臣下の礼をとった先代(石敬瑭)の苦労を無視して、契丹を蛮族と蔑み非礼することはなはだしかった。
その心底には相手をしょせん異民族と貶す腐った性根があり、たとえ契丹が後晋などより勢力範囲が広大で文化水準も高く、また独自の言語を持ち生産力も豊かであったとしても、それを認めず中華文明の二番煎じくらいにしか認識しなかった。
あるいは、そう無根拠に信じて優越していると考えていた。
実際はすでに後晋など問題にもならない強国だったので、そういう無礼者たちは正しい懲罰で酬いられてしまう。
主戦論の最右翼であった景延広は、さんざんイヤミを言われて殺され、皇帝は北の果てに強制連行されるに至った。

根拠を伴わない批判、誹謗の帰結するところかくの如し。
しかも中国はその後、性懲りもなく同じことをしてのけるから頭が下がる。
柴栄は相手の力量を正確に判断していたようだ。
自身が地盤を築くまではまともに戦わず、かといって王朴献策するところの「先南後北」策を遵守はせず、後蜀と南唐に重たい一撃を食らわせると、契丹に政治的揺らぎが見て取れるときに北伐へと乗り出す早業。
景延広などとは違い、契丹全体を敵に回すつもりがあったかどうか、それはわからない。
たぶん、燕雲十六州の奪還のみだったろうと思うけど… 
0022名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/25(土) 17:06:46ID:mMhMxt/X0
柴ってchai2だから、柴栄は「チャイロン」って読めばいいんだけど、なぜかなんとなく
チャイエイって読んでしまうよ。
柴田も柴崎も柴原もチャイって呼びたい。
0024名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/25(土) 23:28:27ID:smhz3OTcO
君主の姓が変わるなんて後周くらいしか例がないよね
0029名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/11/26(日) 11:19:36ID:I4i2PowZ0
待たんか! そういう意味で言ったんじゃないつうの。
まぁ通じなければしょうがない。 しょせんは無機質な文字のみだしな。

それにしても、柴栄少年が郭威と柴氏のもとに養子になったとき、郭栄となったのかどうかコレといった記述はないようなのだ。
郭威と柴氏では、柴氏のほうが格が上なんで、案外尻にしかれていたのだろうか… とか妄想してしまうな。
憐れな郭雀児よ…
…世宗実録あたりになんか載ってるかな?
0031名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/12/02(土) 16:56:48ID:CdgR+hDi0
あの時代は、有能で人望のある奴が皇帝をやればいいって感じだったし、
息子もいない以上、まあいいやって感じじゃったんじゃないの。
0032名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/12/02(土) 18:23:49ID:Ccg1727j0
>>31 柴栄スキーとしては、そんなドライな関係は否定したい。
郭威の息子らは殺されて、成人できなかったけど、たとえば後妻・楊氏の弟・楊延璋(美髯・男前)も結構有能な将だったけど、やはり柴栄のほうが重視された。
柴栄は子供の頃、郭家の財政を助けるため(郭威は結構大酒のみで、家計を圧迫していたとかいう話があるw)、行商人とともに淮南方面に出稼ぎしたりして実の子なみの奉公ぶりだった。
(もっとも、その経歴で、『飛龍伝』では妖しい行商人の苦労人とされてるけど…)
0033名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/12/11(月) 23:07:44ID:XL7bbA22O
ほしゅ
0035名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/12/29(金) 23:51:32ID:eyhqux1B0
「知られざる素顔の中国皇帝」と言う本に、
「柴栄を名将と呼ぶにためらいがあるのは、補給の軽視によるところが大きい」
と書かれていた。
0036名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/12/30(土) 01:05:59ID:hSFyONwl0
それ以上に民政統治に意を注いでいるし、それが致命傷になったことがない上、かならず挽回しているから大丈夫。
だいたい趙匡胤だって2度も失敗している例をとられても、もうひとつ納得できかねる。
そういう一面だけですべてを語ったように見せるその本は、あまりお勧めできない。
そのあとに続く、趙匡胤マンセーをみればあきらかだろうしね。

この時代はどうして戦乱が絶えなかったのか、どうして地方が好き勝手やっていたのか、ってところまで突き詰めないと、何も見えてこない。
他の時代と違って、節度使に密着した地域住民が中央の統制を受けないような状態だったからこそ、兵乱が絶えなかったわけ。
柴栄がやろうとしたのは、中央集権の回復と、地方の弱化。
民衆の徴発も、あるいはそれに即した流れだったのかもしれない。
しかし一方では、生産性の向上、農地の確保、農業の奨励、わずかな期間でありながら、いろいろ改革をやって軌道にのせているのは、実のところものすごい功績なんだ。
しかも、柴栄が崩御するころになると、武力討伐がなされていないだけで、華南勢力は後蜀以外はほとんど傘下に入っていたし。
0037名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/01/09(火) 05:02:30ID:amtQUo4O0
五代の皇帝って大体が暴君か暗君だけど郭威って柴栄のせいで影薄いね
実際どんな人物だったのか
0038名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/01/09(火) 08:55:30ID:rRzX53kI0
>>柴栄のせいで影薄いね

そんなことはない。 ただ知らないだけ。
どんな人物?
そうだな、わかりやすくいうと…
プロトタイプ趙匡胤
だと見ている。
0039名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/02/09(金) 11:57:50ID:Wo6NbtdZ0
柴栄って、皇帝直属の軍隊を整備して相対的に節度使の力を弱め、
各地を攻めて領土を広げて・・・・・・
と改革や出征などで統一の基盤を整えたかなりの名君なわけだけど、

在位期間たったの5年なのね。

いろんなことしているから、もっと長いこと在位していたような印象がある。
0040名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/02/09(金) 13:25:58ID:+SLjfsD/0
凝縮された5年6ヶ月。
その忙しい政務と親征で、まともに寝てないのではないかと思われる。
寿州包囲時、餅が薄いとキレて趙弘殷(匡胤のオヤジ)になだめられるという、余裕のなさが垣間見れる。
ゆえにその苛烈さも手伝って、あまり親しみをもたれていない英雄。
ちょっと前の織田信長的イメージのとらえ方だと思える。
0041名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/03/02(金) 23:23:44ID:eNXqlyvr0
雍正帝並みに忙しい皇帝稼業をしていたのだろうか
0043名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/03/14(水) 23:14:33ID:AfLa1Gt70
雍正帝は、過労死らしいからな。

呂四娘に暗殺されたって伝説もあるけどw
0044名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/04/15(日) 23:20:32ID:m6ZS4eDy0
この人は中国ではそんなに人気はないのかな?
0045名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/05/04(金) 00:24:05ID:Ew5bbp8r0
直後に、親しみが持てる人柄な上に、飛龍傳といった物語もある、
趙匡胤が控えているからな。
ちょっと影が薄くなりがちかも。
0047名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/05/07(月) 16:27:06ID:tTjqlcsV0
趙匡胤は即位後から晩年まで見ても秀吉の晩年みたいにちょっとおかしくなった?というようなこともないしなぁ。
0049名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/05/20(日) 20:36:19ID:LXxzI9QX0
柴栄の肖像画がぐっとイケメンだったらなw
0050名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/05/20(日) 21:22:32ID:eYjXH1Ep0
39歳で死んだのに、あの疲れきった晩年サラリーマンでは…(トランプではピザデブorz)
書いた人の悪意を感じるw
0051名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/06/10(日) 05:34:02ID:CfPLqFgF0
柴栄の肖像画っていつ描かれたのかな?
ああいうのって当人の生前に、当人の前で描くものなの?
それとも後継者(趙某)が描かしたものなの?
0052名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/07/09(月) 07:44:25ID:9Euc/kpT0
若いうちに死んだから、生前に描く暇はなかったのかもね。
皇帝時代はものすごく忙しそうだし。
0053名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/07/09(月) 19:43:07ID:n3Aqmahs0
柴栄のもとには、趙匡胤の趙普とでもいうべき、グランドデザイナー王朴がいたのだけど、
この人、柴栄が北伐に向かう前に早死にしたんだよな。

北宋が天下経略に用いた「先南後北」策は、王朴が柴栄に提案した国家戦略だった。
ただし、王朴はとにかくまず南唐に一撃を与えた上で、華南勢力の掃討に向かうという案だったのに対し
柴栄はそれを踏まえたうえで、まず後蜀相手に隴西奪還作戦を発動させ、それを陽動として征淮南に挑んだ。
揚子江の線さえ突破した柴栄は、後年南唐征伐にでるかと思いきや、北伐に転じた。
王朴の戦略では、南唐征伐が主眼だったろうけど、柴栄はあえてそれに反し、北に転じた。

惜しいことに、その北伐行の前に王朴が死去してしまったし、その北伐行でも柴栄自身が病に倒れた。
両人とも長生きさえすれば、結構理想のコンビだったろうと思われる。
0054名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/07/18(水) 23:54:01ID:9wRJp70K0
最近、ちょくちょく他のスレでも柴栄の名を目にすることがある。
ま、多少は知名度も上がってきたかな、と。
名将百選スレでも推したけど、柴栄の軍事能力についてメスをいれてみようと思う。

一言でいってこの人の用兵は「イケイケ」。
もうちょっと言葉を選ぶと「果断速攻」。
即位してから、たかだか5年6ヶ月の間の治世でしかないから、それですべてというわけではないが
その間に起こった事象をもとに、彼の軍歴を洗ってみる。

・高平親征
・太原攻撃
・秦鳳奪還戦
・第一次淮南戦役/第一次寿州攻撃
・第二次寿州攻撃
・第二次淮南戦役(三度目の征淮南)
・燕雲十六州奪還戦(北伐)

ざっとこんなもん。
国力に関しては、先帝郭威の農業奨励などとあいまって、国内が落ち着いてきていたのが幸いしている。
とはいえ、柴栄が晋王として開封府尹をやっていた頃には、不平分子だった王殷などを追放し
かつてのような節度使や重臣の、面従腹背はとりあえず水面下に沈んだ(なくなったわけではない)。
荒廃して南唐などに逃げていた中原の民は、徐々に戻りつつあり、いい状態となっていた。
しかし郭威の死により、新帝即位となり、朝廷に軽く不安が奔る。

後漢の皇弟だった劉崇の北漢が、この時期を狙って契丹の助力を得て侵入。その数4万。
対北漢の最前線たる潞州軍は、敵に対し寡兵であるしまた伏兵にしてやられ、突破されてしまった。
敵軍潞州通過により、柴栄は親征を決定。
三軍になる防衛軍を編成し、第三軍とともに開封を出発。
8日で澤州東北に着陣(黄河の渡河もあり、異様な行軍速度)

さて、三方面から北漢軍に対した防衛軍配備をしているが、柴栄の本隊が早すぎたため
他の部隊が間に合わない。第三軍だけでは陣容が薄いが、北漢にとっては大いなるチャンスだった。
澤州高平で両軍の戦闘が開始されたが、後周軍の右軍が敵前逃亡し、北漢優勢。
魏仁浦の進言により、柴栄は陣頭指揮にでる。
皇帝が前線に出たことにより、後周軍の士気が高まり、「一人で百人に匹敵する」と言われる勢いを得た(イケイケ)。

このとき用兵の妙を見せたのは趙匡胤。彼は戦いつつ2千ほどの集団を作り、敵陣に密集突撃し
敵陣崩壊の糸口を作っている。
形勢が逆転した頃、後周軍の後発軍が到着し、兵力の上から優勢になったので、時を移さず追撃に出た。
追撃を受けた北漢軍は、皇帝劉崇が農民に身をやつして逃げねばならないほどだったが、
柴栄はあらかじめ、北漢軍の退路となるであろう地に伏兵を配していた(遠謀)。
しかしその伏兵部隊は、高平の戦いでの後周軍右軍壊滅の報を得た時点で退去していた。残念。

劉崇を捕捉できないまま、潞州に入城した柴栄は、敵前逃亡した右軍将兵70余人を皆殺しにする。
(敵前逃亡したのに、またわざわざ復命にもどってきたのだった)


これは長くなるな。
シリーズで書いていくか。
0055名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/07/18(水) 23:58:17ID:9wRJp70K0
続き。太原攻めまで。

柴栄はすぐさま論考行賞して、性急に太原攻めを敢行。目的は劉崇を意気消沈させること。
5日で遠征軍が編成され、民の徴発もあわせて10万ほどの人数で北漢に向かった(民を使役すること大)。
21日目にして遠征軍は北漢領土の大半を抜く(戦功は柴栄の手柄とはならないが、そうさせる下準備はあった)。
柴栄、ここにきて潞州から太原城下の遠征軍本隊に移動し、本営を置き、陣頭指揮する。
そして、戦略目標も「北漢への打撃」から「北漢征伐」に切り替えた(気が逸ったか?準備不足、下策である)。
結果、契丹の加勢と食料欠乏により、徐々に不利に。
食料においては、現地略奪が横行し民は姿を晦まし非協力的に。
契丹軍の来援で、驍将の史彦超が戦死し、宿将の李筠もようやく逃げるという有様の状態で、
各地の軍隊も契丹軍により大敗を喫する。
最後の総攻撃は雨中で行われた。
韓通は土竜戦法で城壁に肉薄し、趙匡胤は城門を焼いて突撃したとき矢にあたるという激しさだったが
柴栄自ら指揮した攻城戦はかんばしくなく、ついに撤退を決意。

退却戦では薬元福のしんがりにより、来るとき以上の速度で逃げ帰った。
そのとき、軍としての規律、また兵数そのものをも著しく損ねた。
ただし、この戦いのあと北漢の劉崇は覇気を失い、ほどなく死去する。
原因が一時とはいえ、ほぼ全領土を占領されたことであろうことは想像できる。


とりあえずここまで。
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