中国史における酷刑・拷問
余りにも有名な呂后の人豚から
20世紀の清末まで行われていた凌遅刑など
中国史における「これは残酷な…」と思われる刑罰等について
正史野史などから引用して語り合うスレです。 >>208>>209
中国史上屈指の人格者張献忠の輝かしい業績は
「蜀碧」という書に記されている。 1620年、明朝の泰昌帝は、半世紀近くの長期に渡って在位した父親万暦帝の跡を継いで即位した
が、わずか1ヶ月余りで、不審な急死を遂げてしまう。
急死した泰昌帝の跡を受けて、急遽即位したのが長子の天啓帝である。
ところが、この天啓帝は、木工細工が趣味という変わり者で、家具を作ることに熱中して政治には
全く関心がなかった。そこである宦官に政治を全て任せてしまった。その宦官こそ、史上悪名高い魏
忠賢である。
魏忠賢は明朝の秘密警察である東廠を掌握して政治を壟断、ただ政権を握るだけでは飽き足らず、
側近に「魏忠賢の功績は多大で、孔子と並んで称えられるべきだ」と進言させ、全国に自らを祭る祠
を建てさせるなど、思うがままに振る舞い、反対する者は容赦なく弾圧していった。
この事態に、魏忠賢の暴政を座視していては国が滅ぶと危ぶんだ左副都御史の楊漣は、24の罪
状を挙げて魏忠賢を弾劾した。
弾劾されたことを恨んだ魏忠賢は、賄賂を受け取っていたという罪をでっち上げて楊漣を逮捕し、投
獄した。 獄中で、魏忠賢の一派は、賄賂を受け取ったという自白を強要しようと、なりふり構わずに楊漣に拷
問を加えた。
拷問に屈することなく罪を認めようとしない楊漣は、床に突き倒され、足や胴体の部分に土嚢を次か
ら次へと積み上げられた。
身動きできなくなった楊漣の耳には、長く巨大な釘が差し込まれた。槌でその釘の頭を叩き続ける
と、耳を貫いて逆の方向から釘の先が飛び出て、床に突き刺さった。
楊漣は目を見開いて、耳から血を流して絶命した。その間にも土嚢は積み重ねられ、楊漣の胸は潰
れ、腹からは腸が飛び出した。
清廉潔白な楊漣は民衆からも慕われていて、多くの人々が楊漣が逮捕されたことを悲しみ、祭壇
を作って無事に釈放されるように祈願していた。
賄賂を受け取ったという罪で楊漣を逮捕し、虐殺した後、魏忠賢の一派は楊漣の家を捜索したが、
朝廷の大臣であったにも拘わらず財産らしいものは何も残されておらず、清廉潔白であった楊漣の生
き様が証明された形となった。
2年後の1627年、天啓帝が死に、弟の崇禎帝が即位すると、魏忠賢は失脚し、追放された。
だが、魏忠賢の暴政によって、明朝は滅亡へ向かって後戻りできないところまで進んでいた。
1644年、李自成の反乱軍は国都北京を占領、崇禎帝は自害し、明朝は滅亡した。
天生萬物與人、人無一物與天、殺殺殺殺殺殺殺
>>213
張献忠のこの「七殺碑」の最後の部分が清代に書き加えられたもんらしいんだ。
巴蜀での虐殺などの残虐行為は、むしろ清軍(旧明軍)によるものだという説もあるので。 えぐいですね〜。
俺が処刑されるんだったらと思ったらぞっとしますわ。
どの辺りまで生きているのかな〜?
動物は恐怖が極限まで来ると痛みを感じないといいますが、人間は
どうでしょうか?? >>218
まあ、人間も苦痛が極限まで来ると、脳内麻薬物質が出て
気持ちが良くなるとはいうけど、そこまでの段階に行くまでがなあw
ほとんどの人間は、そこまで行かないから、拷問というものが有効なわけでw そうですな〜
こわ〜!
こんな状態になったら自分で息を止めて死ぬるわ。
ううってね! >>214-215
明代は時代からして暗黒な雰囲気だよな。 217です
この写真で見る限りは、リョウチも清代末期には簡略化されていたのだろうと思う。
英文なので読みづらいけど、どうも「削ぐ」というよりは、刃物で肉をえぐる感じだし
胸、二回、うで、二回、脚、二回をえぐった後は、うでと脚を切り落としてしまっているように見える。
昔の話にある、三千回とかはやっぱり白髪三千帖の類なのかなと思ってしまう。
それにしたって地獄の苦しみだろうけど。
俺もこれを見たときは胸がむかむかしました・・・。 まあ、切り刻む役の方もいい加減嫌になるだろうしね。 日本のマスコミはくさっとる!報道しろ!
http://news21.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1170644751/l50
【アフリカ】「メード・イン・チャイナ」と書かれたTシャツを引き裂く…なぜ今アフリカで反中感情が…?[02/05]
中国人監督官が労働者に発砲、46人が死亡した。
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百度で「酷刑」を検索したら、検索不能になった。
以前は大丈夫だったのに。
新たにネット検閲で、規制をかけたのか。 14世紀、明朝を開いた朱元璋は、廷杖という制度を導入した。
廷杖とは、皇帝が制裁を必要と感じた場合、公的な手続きを経ることなく、その場の判断で、官僚に
対して杖責めをすることができる制度であった。
たとえ大臣のような高官であっても、廷杖を免れることはできず、皇帝の胸先三寸でどうにでもできる
ものであったから、廷臣たちが皇帝の発言に異を唱えることに制約を加え、朱元璋が確立を目指す皇
帝の独裁権力の基盤をより強化するものであった。
永嘉侯朱亮祖は、明朝建国の功臣の一人であったが、広東の守備に赴いた際、言質での不法行為
を働いたことが告発された。
朱亮祖は息子の朱暹と共に、皇帝の命を受けた役人によって宮廷の庭へと連行され、左右から役人
たちに俯せに押さえつけられて、露にされた大腿部を杖によって執拗に打たれ続け、結局絶命した。
杖責めとは名ばかりで、事実上の杖殺であった。
朱元璋の治世においては、多くの功臣や官僚がこの廷杖によって殺された。
明代、廷杖は永楽年間に一度は廃止されたが、正統年間に復活し、以後この酷刑は、朝廷で多用
されるようになった。 明代を通じて廷杖は次第に形を変え、処刑の制度として定着し、次のような手順を踏んで行われるよ
うになっていった。
罪状が記された名簿を携えた官吏が朝廷から派遣され、名簿を処刑の執行人に渡した。
そして、処刑を執行される者が本人に間違いないかを確認し、そこで罪について検討をして、減刑の
可能性を見い出すことができないか再度点検してみる。
それでも朝廷に上申するに値しないことが確認されれば、処刑の執行が前日の深夜になって数人
の者に言い渡される。
処刑執行の宣告を待っている間、囚人たちは気もそぞろでうろたえているが、自分が指名されると、
恐怖にのた打ち回って暴れ、手がつけられなくなる者もいる。
執行人たちは、指名を受けた者たちに神妙にするように言ってはみるが、そのような言葉が当人の
耳に入るはずもなかった。
翌朝、官吏は執行人に、囚人を牢獄から引き出す合図である3発の号砲を発砲させる。
そこで再び囚人が本人か否か、及び罪状について確認する。それが間違いないことが分かると、官
吏は再び処刑場に囚人を出発させるための合図である3発の号砲を発砲させる。
囚人は後ろ手に縛られて、罪状が記された立て札を首の後ろに突き立てられ、木製の格子がつい
た長方形の箱に座らされる。
それは御輿のように担がれて、沿道に観衆が詰めかける中を行進した。大半の人々は、演劇を楽し
むかのような野次馬気分で駆けつけて来ているわけであるが、中には囚人に恨みでもあるのか、罵倒
する者や、腐った野菜や果物を投げつける者もいる。 いよいよ処刑場に到着すると、官吏は一名ずつ引き出せとの合図である3発の号砲を発砲させる。
この期に及んでも、処刑前に官吏は減刑の余地がないかどうか最後の検討に入る。何度も繰り返さ
れるこの儀式は形式的なものではあったが、土壇場で処刑の中止が宣告され、牢獄に戻された例も存
在している。
両手を縛られた囚人は、灰が円形状に敷き詰められた上に引き出され、執行人たちがその傍らに立
つ。その場で、多くの食べ物や飲み物が囚人に与えられるが、ほとんどの者がそのような飲食物を受け
つけない。
いよいよ処刑の執行を開始させる合図として銅鑼が打ち鳴らされる。
観衆たちの間から大気を揺るがすような喚声が沸き上がる中、2人の執行人は後ろ手に縛られた囚人
を俯せに寝かせて、両足を伸ばさせる。
それぞれが囚人の両脇に並ぶと、人の胸ほどの高さまである、いくつにも節が連なった竹を振り上げ
て、膝の後ろの部分目がけて振り下ろした。 最初の打撃で皮膚が破けて血が流れ出て、囚人は激痛に比類と共にのた打ち回る。逃げようとして
もたちまち押さえつけられる。2度目の打撃を食らうと、もう立って歩けなくなるという。
それを何度も繰り返しているうちに、皮膚が破け、血が流れ、肉がはみ出し、骨や筋肉を支えている
腱が飛び出してくる。更に続けると骨が砕けていく。
囚人は頭が割れんばかりの叫び声を出し、ついには声さえかすれて出なくなる。
記録によると、膝ばかりを叩いたわけでもないようだ。胴体も叩くから、50回ほど叩くと、皮膚と筋肉
や腹膜が破れて、内臓が飛び出してくることがある。
威力が足りないと見られる時は、水をたたえた瓶に笞を浸して、粘り気を与える。
叩く度に飛び散る返り血で、執行人の服は真っ赤に染まっていった。囚人が虫の息となり、息絶える
頃には、処刑場は血の海になっている。丹念に叩かれた囚人の身体は、軟体動物のように崩れていた。 囚人たちは、杖刑がこのような過酷な処刑であることを知っていたので、この刑が自分たちに執行され
ることを知ると、自殺する者が相次いだ。
自殺の大部分は短い縄を手に入れて、牢獄の壁に打ち込んである棒に結びつけ、それで首を吊って
死ぬのである。
ただ、頼りの棒が自分たちの身長よりはるかに低い位置にあるので、首を吊ろうするには、横になった
まま倒れ込むと同時に、身体を硬直させて、伸びたままの姿勢を保たなければならなかった。
処刑執行前に勝手に自殺した者は、その死体を便所に3日間投げ捨てられるという侮辱を与えられる。
身分が高い官僚や貴族にとって、自分が汚物に塗れるところを想像すると、このようなことは耐え難い
辱めであっただろうが、なぶり殺しから逃れようとする心理に対して、どれだけの抑止効果があったかは
疑問である。
便所における放置期間が過ぎると、その死体は足に縄をつけて荒れ地へ引きずられて行き、そこで検
屍官がいる前で、鉄の棒で力いっぱい身体を3回殴られる。
それでも生きている兆候が発見されなければ死亡したものと認められ、その死体はごみ捨て場に捨て
られる。
死んだ振りをして脱獄しようとすれば、この時に発覚する。
明代、こうして自殺する者の数は年間2000人に達したという。 >>230-234
柳内伸作の「中国拷問・処刑残酷史」からの抜粋だな。 >>236
抜粋だけど、丸写しだと気が引けるので、
ちょっと表現を変え、ちょっと調べて加筆した。
まあ、ほとんど写しだけどね。 一応wikiにも記事があるね「凌遅刑」
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%8C%E9%81%85%E5%88%91
凌遅刑とは、清の時代まで中国で行われた処刑の方法のひとつ。生身の人間の肉を少しずつ切り落と
し、長時間苦痛を与えたうえで死に至らす刑。歴代中国王朝が科した刑罰の中でも最も重い刑とされ、
反乱の首謀者などに科された。また「水滸伝」にも凌遅刑の記述が記載されている。また、この刑に処さ
れた人間の人肉が漢方薬として売られることになっていたとされている。なお、この刑罰は中国の影響を
色濃く受けた朝鮮王朝でも実施されていた。
概要
凌遅刑の原型は戦国時代に遡れる。孔子の弟子子路が体を切り刻まれ、塩漬けにされる刑罰を受けた
と記述がある。また漢代には呂后によって韓信や英布が同様の刑罰(但し、この2名は殺害された後にこ
の刑に処された)を受けている。
法制化されたのは五代十国時代で宋代には斬首、絞首とならぶ死刑の手段とされた。
明代、清代には謀反人に対する処刑方法とされた。
この刑は「残虐である」として何度か廃止が建議されてきた。清末には西洋のジャーナリストによってこ
の刑罰の凄惨な様子が写真などで伝わり、「中国の野蛮な刑罰」と非難された。
完全に廃止されたのは光緒31年(1905年)である。 誰か塩付けの刑について
詳しく教えて下さらんか・・・ >>241
処刑された罪人の肉(主に首)を塩漬けにして保存して晒しものにするか
部下に分配して見せしめにする刑。 俺が思うに、鞭打ちは50とか打つ前に死ぬ(ショックなど)と考えますが、皆さんどうでしょう。 中国の「鞭」って棍棒のことらしいな…
コエンシャクの双鉄鞭がいまいちしっくりこなかったが解決した 「軟鞭」という武器もあるけど、
いくつかの鉄の棒を繋いだような形状をしている。 >>243
まあ賄賂送って手加減してもらうことも可能だったんだな。
ガチでやって有力宦官の縁戚を打ち殺した曹操の例もあるしw なるほど。
黄蓋の鞭打ちはフィクションでしたよね。
あと拷問というと、熱湯に入れる、を聞きましたが… >>244
日本でイメージされる鞭は、「笞」と書く場合が多いような。 >>242
トンクス
今まで、文字通り塩ばかりの部屋かなにかに
監禁して水分を吸い取らせる刑だと思ってた
(甲賀忍法帖みたく)
なんとか還元水を飲んでた?大臣も
伯方の塩で〆てやるべきだなぁ・・・ 唐代の拷問に鼻の穴に酢を注ぐというのがあるが
これなら現代の一般家庭でも出来そうな方法だ。 なんつーか、こうしたことをやりまくって生き残ったのが
今日の中国人だと考えると、全てが理解できる気がする >>252
わりと島国の日本が穏健なのかもねえ。
ユーラシア大陸見回したら、残酷な刑罰とか拷問っていっぱいあるし。 引っ越し連呼ババアやゴミ屋敷に囲まれた家庭と
海に囲まれたリゾート地に暮らす家庭
どちらが荒むかは言うまでもない 朝鮮半島は結構残酷な刑罰は多かったのかな?
朝鮮の歴史上の刑罰ってあまりよく知らないんだけど。 30人ほど入った部屋に30tくらいの溶鉄を一気に流し込む刑 >>259
大がかりすぎて、費用対効果という点で疑問を覚えるのに加え、
それだと一瞬で焼け死ぬから、受刑者はほとんど苦しみを覚えない。
酷刑・拷問という観点からは、あまりよろしくないだろう。
チンギスハーンは、溶かした銀を目と耳に流し込む方法で処刑を行っているよ。 >>259
あれ、死んだ人より、重傷負った人の方が悲惨だろうな。 >>262
西域に遠征した時にサマルカンドの王様にやったんだっけ? 日本だと江戸時代に、溶かした鉛を口から流し込むなんて拷問があったそうだが。 >>265
>溶かした鉛を口から流し込むなんて拷問
それは処刑です 拷問というものは、自白しない容疑者に対して自白するように仕向けるものであって、容疑者が自白できなくなってしまうようにしてしまうものではないからね。 忠臣蔵に、義士をかくまった町人が「背中を裂かれて溶かした鉛を流す」などという
拷問される場面がなかったか? >>264
チンギスハーンが派遣した隊商を殺したオトラルの太守イナルチュク。
詳細は「イナルチュク」でぐぐってみて。
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| | / -‐- |/レ┼t-| |.iっ |
И /| ,. ‐、 , ‐ 、 ル|~, i !.|
V| | !(.,) (.,),! レヽ | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|!.{/// 、 ////ノ | | ねえ、おにいちゃん
!, \ (⌒⌒) /i! ,i,l.| .< いつまでこすってればいいの…って
o O 。。 ~^^ `г― i´ ^^~ | やだっ、何これ〜っ!?
。O o 。 -/ \ _/ ヽ―,- _ \________________
ドピュッ /| | \/|o|ヽ/ | | i ~ヽ
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./⌒ヽ⌒ヽ___ | ∴ヽ 3 ) < 現役小学生の手コキこそ至福ーっ!
/ _ ゝ___)(9 (` ´) ) \_______________
/ 丿ヽ___,.───|彡ヽ ―◎-◎-| ハァハァ…
) ( Y ̄ ̄ ̄ ̄)
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唐の高宗の皇后だった武則天は、夫の死後に皇太后として実権を握っていたが、690年、ついには
皇帝の座を簒奪して中国史上空前絶後の女帝となり、国号を周に定めて一時的とは言え唐を滅ぼし
てしまった。
その際、唐の皇族や、唐に忠誠を持つ高官、貴族たちの勢力を根絶するため、犯罪者上がりの酷吏
を用いて、密告を奨励、容赦のない弾圧を行った。 酷吏として大いに手腕を振るった胡人出身の索元礼は、「鳳凰晒翅(鳳凰羽を広げる)」と自身が命名
した拷問の方法を得意技とした。拷問を受ける囚人の両手と両足を束ねて、木の枷で締めつけながら
笞などの責め具でいたぶる方法である。
「仙人献果(仙人果実を献上する)」は、手枷を嵌めた両手を高く掲げさせておいて、その上に煉瓦を積
み重ねるものであった。
他にも索元礼は自ら考案した拷問方法に、「玉女登梯」「方梁圧髁」などと名前をつけて、悦に入って
いた。
囚人を縛って逆さ吊りにしておき、髪の毛に大きな石を縛りつける。それを揺すると、痛みに加えて髪
の毛が軋み、今にも抜け落ちそうな恐怖を与えたと言われる方法も実施した。
囚人の顔にぴったり合う鉄製の籠をかぶせておいて、そのほとんどない隙間に木の楔(くさび)を金槌で
打ち込むという方法も採用している。
この楔を打ち込まれると、皮膚が破れて脂肪がぬらつき、それでも叩き込み続けると血で顔が真っ赤に
染まった。血しぶきを上げながら泣き叫ぶその囚人の姿は、地獄絵図そのものであった。
この拷問はただ痛いだけでは済まず、楔を打ち込む場所に、鼻や目の近くを選んでやると、その悲惨さ
は倍増する。脳にまで響き、少し責められただけでも吐き気を催すのだ。それでも囚人が我慢を続けてい
ると、頭蓋骨にびびが入り、ついには陥没し、頭の形が崩れ始める。 索元礼はこれらの方法を駆使して、自分が欲しいだけの自白を数千人の囚人から引き出して手柄を立
て、唐朝の残党の討滅を望む女帝の意に迎合した。
世間の怒りが索元礼に集中すると、武則天はこの酷吏を用済みと見なし、逮捕して投獄した。
かつての部下に逮捕された索元礼は、今まで自らが考案し実施してきた拷問を受けることとなった。取
り調べ自体が捏造に満ちていい加減なことは知り抜いていたから、あれこれ言い逃れをしようとした。
すると、取り調べを担当していた役人は、
「索元礼がよく用いていたあの籠を持って来い」
これを聞いた途端に索元礼は恐れおののき、自ら自白を始めて罪を認めた。試してみるまでもなく、索
元礼自身がこの拷問具の効果が抜群であることを熟知していたのだ。
索元礼は処刑こそ免れたものの、獄死した。 索元礼と同じように武則天に用いられた酷吏に、来俊臣や周興らがおり、告発があった者を捕らえると、
残虐な拷問を加えて、自白を強要させた。
この手法によって、それぞれ数千人を冤罪で陥れ、死に追いやった。
二人も索元礼と同様に、拷問の方法にも趣向を凝らし、より残虐で効果的な拷問の方法を次々と考え
出し、実行に 移していた。 ある時、周興が謀反を企てているという告発が、ある者によってなされた。武則天は、来俊臣に命 じ
て周興を尋問させた。
来俊臣は、周興を尋問するに当たって、特別に趣向を凝らした。
来俊臣は、正式に逮捕して尋問するのではなく、一席を設けて、周興を食事に誘った。
その席上で、わざと周興に教えを請うた。
「周の兄上、なかなか罪を認めようとしない者がいて困っている。どうすればよいか?」
周興は笑いながら、即座に、
「簡単なことさ。大きな甕(かめ)を用意し、炭で真っ赤になるまで焼く。そしてその中に、囚人を投げ
込めばいい。嫌でも自白するはずさ」
と得意げに語った。
それを聞いた来俊臣は、感心した様子で、
「よい方法だ」
と言い、早速部下に大きな甕を持って来させて、炭で赤くなるまで焼いた。そして、周興に、武則
天の命令書を示して言った。
「周の兄上が告発された。どうか甕に入ってもらいたい」
周興は真っ青になり、土下座して、甕に入ることなく罪を認めた。
周興は死罪を免除されて流罪とされたが、配流先へ行く途上、恨みを抱く者に殺された。 この故事により、自分の案出した方法で、自分自身が懲らしめられることを、「請君入甕」と言うよ
うになった。
ちなみに悪行の限りを尽くした来俊臣は、ある時告発を受け、武則天によってあっさりと処刑され
た。
酷吏を用いて恐怖政治を敷いた女帝は、本来自分に向けられるべき世の人々の恨みを全て来俊
臣に背負わせた上で、その来俊臣を処刑することで世間の支持を集めたのである。 >>280
抜粋ではあるが、一応加筆や表現の一部変更ぐらいはしている。
ほとんど丸写しじゃねーかよ、と言われれば反論はできないが。 武則天と来俊臣ら酷吏については原百代の『武則天』を推奨。 >>283
原百代の武則天はまだ読んでいないけど、
酷吏の描写が詳しいの? >>284
唐書酷吏伝の記述+女史の創作・推測が加味されているので
物語的に面白くなっている。
特に来俊臣に関する場面では神がかっている。
他の酷吏連中も相応に経歴や活躍が書かれている。 >>287
武則天死後に主役が玄宗に移行してからつまらなくなったな。
自分的には唐朝王族を粛清する辺りが面白い。 武則天に嗜虐趣味は無かったと書いているけど
公開処刑が民衆の最高の娯楽と言っているね。 武則天は、恐怖政治の有効性というものを知っていたんだと思う。
だから、趣味ではなく、政治上の必要性からやったんだと思う。 >>289
西洋でも公開処刑は窮屈な生活をしていた民衆にとって最高の娯楽だったからね 恨みのある人間の肉を食らうという習慣って中国だけかな? 親に自分の肉を食わせることが最高の孝行という国ならある 中国の地方政府での銃殺刑はかなり残虐。臓器売買のからんだものだと、死亡させると臓器が傷むので動けないが死なない程度に銃弾を打ち込まれる。
当然、内臓には損傷しないように(腎臓)
瀕死だが、意識もあり動けない状態でいきたまま腹部にメスがいれられる。
囚人はのた打ち回って逃れようとするが、瀕死であり押さえつけられていて動けない。
容赦なく、麻酔なしで腎臓や眼球を取り出され最後に虫の息のところを皮をはがされる。 >>296
凌遅三千刀滅九族の本場じゃそんなの子供だましですよw 臓器とるなら普通に頭に一撃でいいだろ
そんな面倒なことする理由が思いつかん >>204のやつで質問なんだけどなんで身長4尺以上の人
殺したの?4尺って言ったら約120cmだからほとんどの人が
ひっかかってしまうだろうに まあ、張献忠の記録についてはちょっと誇張されている部分があるからね。
それと昔の人は今より背が低かったしね。4尺未満の人も何人かいたのかも知れない。
実際、ほとんどの人がひっかかって殺されたわけだし。 で、ちょっと度量衡の変遷を調べたら、1尺の長さは、
明代で31.1センチ、清代で32.0センチだから、
明代末期清代初期の当時は、4尺は128センチぐらいあったかも知れない。 で、縄の張り方次第なら、身長が130センチぐらいの人でも、
何とかひっかからずに済んだ人がいるかも。 >>298 麻酔する金がもったいない
>>299 頭部に被弾し死んだ瞬間から循環が停止し臓器の鮮度が下がる 臨床経験のない素人はこれだから・・・
殺さず動けない程度に銃殺ってどこのゴルゴ13?
意識あって抵抗する患者の臓器取り出すのってどこのブラックジャック?
麻酔代けちってどこにコストかけてるんだか。
そんな手間かけるくらいなら殺してすぐ取り出したほうがずっと痛まんわ。
そもそも電波なら電波らしくせめて大紀元ソースくらい貼ってくれw 麻酔薬はけっこう安く流れてる。
下手したら銃弾のほうが高い。 腎摘は深いぞ〜
しかも損傷無しでで採るんだろ?
ちょっと体動かされただけでも、無理なんじゃないか?
刑執行前に手術して取る物とって、それから・・・ 武侠小説を読んでいてもかなり残酷な描写があったりするな。