【対決!】明代英雄伝【後期倭寇】
明代の対後期倭寇戦の英雄に関するスレ。
世宗の御世(1521-66)、朱紈、胡宗憲、兪大猷、戚継光らが
戦った逸話を語りましょう。
ついでに後期倭寇の王直、徐海らについても語りましょう。 よーし、バカが「明史 朱紈伝」のはじめのほうを引用しちゃうぞ。
ちなみに、この手のを読みたい人は、中華書局でとりよせるといいかも。
朱紈、字子純、長洲人。正徳十六年進士。除景州知州、調開州。
朱紈、字は子純、長洲の人なり。正徳十六年の進士。景州知州に除せらる、開州に調ぜらる。 朱紈伝のはじめに、後期倭寇の頭目として李光頭、許棟というのがでてくるね。
当時の海禁政策に反対する明の勢家が護持し、これらと婚姻するものまであったとの事だけど。 まあ、朱紈は対後期倭寇戦の第一線で活躍しつつ、後期倭寇根絶の為に海防や監視を厳しくしたのに、
密貿易の利益をえていた卿紳・豪商により弾劾をうけて降格。最後に服毒自殺する事になるからな。 朱紈のせいで、李光頭や許棟の部酉だった王直が、後期倭寇の一首領になるわけだが……。 ここで、鄭若曽の『籌海図編』の「寇踪分合始末図譜」にのった、後期倭寇の頭目掲載。
一)金子老、李光頭 二)許棟 三)王直 四)陳思盻、鄭文俊、林碧川、沈南山
五)蕭顕 六)鄭宗興、何亜八、徐銓、方武 七)徐海 八)陳東 九)葉明
十)洪沢珍 十一)厳山老 十二)許西池 十三)蕭雪峰、張l 十四)謝老 なら自分は当時の記録である都督万表の『海寇議』より、王直の勢力を示すものを掲載しとく。
五峰(王直の号)は、部する所の船多きを以て、乃ち毛海峰(王直の養子)・徐碧渓・徐元亮らをして
これを分領せしめ、因って往来の海上に四散劫掠し、蕃船の出入には関(舟山列島の定海関)も盤阻する無く、
而して興販の徒は蘇州・杭州に紛錯して公然として忌む無し。
沿海の人民は、或いは時鮮のものを餽り、或いは酒米を餽り、或いは子女を献じ、絡繹して絶たず。
辺衛の官より紅袍・玉帯を献ずる者あり。把総張四維の如きは、柴徳美との交り厚きによって五峰と往来し、
もとより熟近なれば、則ち拝伏即頭して、甘んじて臣僕となり、その送貨をなせり。 王直の五峰という号は、本拠を日本の松浦五島においていた事にちなんで名づけられたそうだね。
そして王直は自らを微王と号して、三十六島の倭人を指揮し、その勢力をおおいに海上にふるったらしい。 海寇に話がいきすぎなので、王直を捕らえた胡宗憲のほうに話をふろう。
甘い言葉で投降をすすめて、やってきたら逮捕・投獄という酷い事をしたわけだが。 その胡宗憲も権力者の厳嵩にとりいって栄進をきわめた後に弾劾・罷免され、獄死するわけだが そして後期倭寇の残党は、福建・広東の沿海地に鉾先を転じると。 その頃の頭目というと、許老(許朝光、許西池)・謝老(謝策)・洪迪珍(洪沢珍)・厳山老・張l・蕭雪峰・林国顕・呉平・林道乾・曽一本・林鳳などだね
洪迪珍はかつて王直の余党であり、王直の死後に残党と共にそちらへ行ったみたいだけど そして、その時歴史が動いた!
1563〜64年に名将兪大猷、戚継光らが、海寇を福建の平海衛に撃破!!
以後、海寇の勢いは衰える事になる。 しかし、中国人の密貿易は依然として続けられ、また海禁政策に対する批判もたかまった。
そうして、1567年。海禁政策は廃止されたのである……。
- 完 - 倭寇との戦闘の記録を読んでもどれが真倭でどれが偽倭なのかよく分からない。 月空和尚、倭寇を撃退す
西暦1551年(明嘉靖30年)、月空和尚を首領とする少林僧兵100余人は、中国南方沿岸部に出没しては猛威を振るってい
た倭寇を撃退するために出撃し、数度の戦闘で倭寇に壊滅的な打撃を与えた。しかし度重なる激戦で、月空をはじめとする僧兵
らも最後には全員戦死、寺に帰ることはなかった。少林寺の西にある搭林(歴代高僧の墓碑)には、月空和尚のための搭が今で
も残っている。 陳舜臣の「戦国海商伝」という小説が、このあたりに詳しい。 倭寇の主力は、沿岸部とか、舟山群島あたりの漁民だったはず。 袁崇煥は、勿体無かったな。
あれが居座っている限り女真族は、関を抜けなかっただろう。
袁崇煥、北方で頑張ったけど、実は南方広東の出身なんだよね。 戚継光は倭寇対峙以外にも、モンゴル方面でも活躍したりして、
器用な武将だな。 明代の英雄
建国前後の創業期の英雄
靖難の変前後から永楽年間の英雄
中葉期の英雄
末期から滅亡後にかけての抗清戦に身を投じた英雄 津本陽の「天翔ける倭寇」なんかもお薦めだ。
雑賀の若武者が倭寇で活躍するというとんでも話だが、面白いお やや設定に無理というか、ご都合主義的なところがあったけど、面白いね、天翔ける倭寇。
>>20
沿岸部の漁民で、明朝から迫害を受けていた賤民が、
倭寇に協力するというストーリーになっていたね。 日本人で、中国人風の名前を名乗った者もいただろうね。 >>28
後期倭寇の10の内3人が日本人である。これは非常に少ない。
という趣旨の記述が明史日本伝にも認められるから
少なくとも前期倭寇構成員の半数以上は日本人だったんじゃないかな? 少なくとも最初に発生した倭寇の主力は日本人だったんだろうね。
松浦党あたりが中核だったのかな? 倭寇とは「日本の海賊」というように呼ばれているが、倭寇の構成は、日本人よりも現地人の方が多かった。
朝鮮王朝実録の『世宗実録』二十八(1446年)十月壬戌条によれば、「然其間倭人不過一二而本国民仮著
倭服成党作乱」とあり、真倭は一割、二割にすぎず、残りは我が国の民であるとする記述があり、前期倭寇も
後には高麗末期の高麗人による反乱が、多数、倭寇として加わっていたと記されている。
同様に『明史』でも、日本人の倭寇は10人の内3人であった(「大抵真倭十之三」)と記されている。
『高麗史』では「倭寇」を真似るものとして禾尺・才人、すなわち穢多の存在を伝えているが、実際には新羅
後期に跳梁した張宝高(弓福)や、女真界に根をはり謀反で高麗王朝を倒した李成桂一家のような私豪族も、
同様の海賊行為を行っていただろうといわれる。
峻厳な身分社会の閉塞感の中、たんなる抑圧の発散だけでなく、自作の混乱に乗じて立身出世を謀るもの
も多かったろう。 そんなに大きな船じゃないけど、明の沿岸へはわりと自由に行き来していたんだろう。
船は大きいから航海能力が優れているとは限らない。 倭寇鎮圧のために投入された苗族やチワン族は倭寇以上にとんでもない代物
だったらしいな 33 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん :2007/02/27(火) 16:34:34 ID:wC/s1QVm
明の時代に活躍した武将に戚継光という人物がいました。
戚継光は指揮官として非常に優秀で、各地で戦い、大きな功績を上げていましたが、大の恐妻家で、
家では妻に頭が上がりませんでした。
ある時、戚継光は部下の兵士たちを集めて、こう言いました。
「世の中で女房ほど恐ろしい者はいない。女房を恐れない男こそ真の勇者である」
そして、こう指示しました。
「女房が怖い者は私の側へ来い」
すると、兵士たちは次から次へと戚継光の方へ走り寄っていきました。
そんな中、1人だけその場に立ったまま、動こうとしない兵士がいました。
その兵士に向かって、戚継光は本当に感心した面持ちで言いました。
「お前こそは、真の勇者だ。女房が怖くないとは全く見上げたものだ」
すると、その兵士はもごもごとした口調で答えました。
「すみません、将軍のお話がよく聞こえなかったんです。話が聞こえない時は、その場でじっとして動くな、
と女房に言われているものでして」 戚継光は夫婦喧嘩のために軍隊が出動する騒ぎになったとか何かで読んだが
誰か詳しい人がいたら教えてください。 夫婦喧嘩で軍隊出動の件は知らないけど、
戚継光夫人の王氏は、
自ら軍勢を率いて倭寇と戦ったこともある、
相当な女傑だったらしいね。