>>905
白村江の戦いで、一豪族の朝廷の倭国と百済の同盟軍は唐と新羅ボロ負けした。倭国の朝廷と百済の王族は親戚だ。天皇は百済だから朝鮮人。彼らの当時の言葉は朝鮮語。
クーデター「乙巳の変」645年で、その後の政治改革が「大化の改新」
伽耶は殆ど日本自治区。新羅に滅ぼされた。
朝廷は百済の王族。
結局この戦争で、百済は滅び、新羅、高句麗も唐に戦争で負けて服従したのだ。羈縻政策を受け入れた。
皇極天皇4年(645年)、新羅、百済、高句麗からの使者が来日した。三国の調の儀式は朝廷で行われ、大臣の入鹿も出席する。
中大兄皇子と鎌足はこれを好機として暗殺の実行を決める。
日本も唐の羈縻政策国家になった。
大衆の愚民化による唐の奴隷国になった。
愚民化統治というのを「律令政治」という。
ここから「天皇」が誕生したんだ。天皇制が誕生した。
日本は属国になったので、唐の武則天が子分となった倭国に「日本」と言う名を与えた。
聖徳太子が担架を切ったと言う話も嘘。確かに倭国が無知だから失礼な事は言ってご機嫌を損ねたが、朝廷はひたすらヘコヘコだ。
そもそも朝廷という名は、朝鮮の廷だよという意味。
平城京ができたのは西暦710年。元明天皇が律令制にもとづいた政治をおこなう中心地として、それまでの都だった藤原京から遷都し、新しい大規模な都をつくりました。平城京のモデルとしたのは、その頃もっとも文化の進んでいた唐(中国)の長安。
だから・・平城京は唐の地方統治部署。
律令の出挙。
出挙は、天皇が春に稲を「強制的に」貸し付け、秋の収穫時に利息とともに徴収する、という税でした。
出挙は重要な財源でした。利息の上限は5割です。
財物の場合、60日ごとに8分の1ずつ利子を取るとされ(年利約75%)。利子の複利計算は法により禁止。債務者が逃げたときは、保証人が弁済することも定めらた。
稲粟の場合、1年を満期として、私出挙であれば年利100%まで、公出挙であれば年利50%まで利子を取ることが認められており、財物と同様、複利計算は禁じられていた。
だから・・天皇は時代劇の悪代官どころじゃねぇ。ベニスの商人。