『近年の研究で、秀頼の家臣たちの知行地が西国各地に細かく分布していたことがわかっている。あきらかに一般大名を超越した存在だったということだ。大坂城の備蓄金や、すでに大商業都市であった大坂を支配することによる経済力も、他の大名を圧していた。』
『豊臣家が豊臣家が豊臣系大名たちと並列の関係になったわけではなかった。将軍は大名たちにとって、豊臣家への忠誠と矛盾しない観念だった。』
『「秀頼と豊臣家を頂点とする従来の豊臣公儀体制は存続したままに、家康はそれと別個に新たな政治体制を設けたということ」であって、豊臣系大名たちは「豊臣家と秀頼に対する忠誠は保持したうえで家康の征夷大将軍としての軍事指揮権に従っている」ということだった(笠谷和比古「関ヶ原合戦と大坂の陣」)』
https://president.jp/articles/-/75952?page=3

関ヶ原後も家康は豊臣家の権威を重視
慎重に自分の立場を高めていく必要が有った