もし家康が関東への転封を拒絶していたら?
断ればそれを理由に秀吉が家康を攻めてた、とよく言われるがそんなことはないと思う
家康には別の領地が与えられ、北条領は例えば上杉が賜る
西の毛利、中部の徳川、関東の上杉でちょうどバランスが取れて面白いかもわからんな 拒絶でしょ 秀長も利休も健在の時期
北条と組んだら北条が途中で日和って関東に大大名として残りそう
小牧の時とは周囲の状況が大きく違うので徳川は瞬殺に近そう
毛利、上杉のように4分の1で国替えかな 転封を拒んだのぶおと同じ運命を辿るに決まってるだろ 秀吉としてはむしろ家康が関東移封を拒絶するのを
期待してたかも知れない。
移封拒絶を口実に改易命令出して、家康が怒って
秀吉との戦準備を始めたら、今度こそ徳川を
滅ぼす事が出来るからな。 物凄い加増になる上に北条氏の開拓した土地を引き継げるのに断るの?
江戸を選んだのは家康の意志だしとりあえず小田原に居城を構える安直な選択だってできた 朝鮮出兵を予知してそれを拒否する口実にするため
関東に移封されるのを望んでいたとか
あるいは交換条件だったとか 改易される
実際に転封を拒絶した織田信雄がどうなったかを見りゃ分かるだろ 家康に改易命令出して、信雄と同じように
すんなり聞くとは思えん。 >>11
小牧長久手の時ですら勝てなかったのにその何倍もの支配力になっている秀吉と戦うのは無理がある
大人しく従うしかない 事前に国替えは意見の擦り合せはあったと思うよ
もし正式に秀吉の関東転封が出た上での拒否って話になれば徳川は解体する方向で動くだろうな 家康にとっては幸運だったけど、秀吉としては最大の失敗だったと思うわ
まあ、秀吉は既に日本にあまり興味がなかったから結果論ではあるけど
それに前田や徳川といった連中を当てにしなければならないほど豊臣政権は人がいなかったしな
小一郎、堀Q、氏郷あたりが秀吉より長生きしていれば結果は全く違っていただろう 秀吉としてはいよいよ唐入りが実現できるって段階迄きたのにここで家康と諍い起こす気は微塵も無かったと容易に想像出来るから、正式に通達する前に家康サイドと事前交渉は当然してただろう。
事前交渉で関東移封で纏まらなかったら、別の案でまとめた筈。 関東移封って不可解なくらいの厚遇だしな
単純に大幅な加増というのもあるけど、家康が貰った西関東は歴史的にも極めて重要な地域
頼朝や尊氏が将軍となった策源地であり将軍就任には支配が不可欠とされた土地であって、幕府の中でも半独立に近い自治が許されていた
そこを源氏を名乗る徳川に与えるという事は多くの意味を含む 関東転封が北条を服属させるのに失敗したことの責任を取らせるために
戦地になった関東の復興込みで命じられたという意味があるなら、
転封拒否=豊臣政権下でしかるべき役割を果たすことを拒否するということだから、
大幅減封で小大名化または改易でお伽衆入りだろうな 西の毛利との境目策定や九州への領地替えの時に毛利側は豊臣案に対して難色示しており
それに対して譲歩と恫喝織り交ぜながら交渉行われてるのを見ると
家康の時も拒絶したとしても交渉してたと思う 毛利は秀吉が取り立ててた小早川隆景が本家の代わりに小早川家を犠牲にして全部引き受けたから転封を避けられただけ
徳川に小早川にあたる家はないじゃん そもそも徳川の場合は拒否する理由がない
これを拒否するのは相当な無能だわ 家康を本当に信頼するようになったのは秀次死後じゃね?
正確には信頼するしかなかっただけど
北条領丸ごと贈与があり得ない厚遇なのは結果的にそうなっただけで、秀吉からすれば唐入り成功させて豊臣恩顧の大名や西国大名に明や朝鮮の領土を分け与える事で相対的に家康の突出を無くすつもりだっただろうし >>22
尾張、北伊勢の2か国から三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の5か国への加増を拒否して改易された相当な無能もいたらしい 家康は徳川にわざわざ改姓しているくらいだから東関東の重要性が分からない訳がない
秀吉だって補任問題でその辺りの事情は知っている
家康にとってはとんでもない破格の恩賞だし秀吉もそのつもりで与えたとしか考えられない
>>24
また、あの人は本当に無能なので・・・ >>25
家康からすると祖父も父も殺したっぽい三河の連中を先祖代々の土地から切り離して関東で改めて家康から土地を与えてご恩と奉公の関係をリセットできるという最大のメリットがあるからねえ >>26
確かに転封って大名家にとってはそういう利点はあるんだよな
譜代は元から本領を持っているのでお前から知行は受けていないという心理が根本にあって反抗的
外様は外様で元々はお前の家臣じゃないという意識が強いのでやはり反抗的
転封になると一度全ての領地を失って天下人が大名に与えた領地を大名が家臣に配分する事になるので
皆、大名から直接に御恩を受ける形になる
代々支配してきた本領は領民との結び付きが強くて大名家も介入できなかったけど
新たな領地ではその結び付きも全くないので家臣の力が弱まるしね
だから転封後に大規模な人事を行っている大名家は多い せやから宇喜多も思い切って備前以外に国替えさせといたほうが良かったのに、って感じる 気持ちよく自論を語ってるところ悪い
一揆が起きて国が乱れるパターンのほうが多いんだよなぁ そもそも転封って言うほど大名は喜ばないパターンも多い
大名自身が土着してる事も多いし、住み慣れた土地から離れること自体が
嫌だという人もいるからな、現代だって都会よりド田舎の故郷の方がいいって人はいる訳で 転封はともかく豊臣政権のお陰で集権化できた大名も多いんだよな
どこの家も譜代の重臣は独立性が強くて思うように従える事が難しかったけど
豊臣政権下では明確に大名と臣下として区別されてしまったから 結局のところ現在はどっちの説が有力?
①関東転封は家康への信頼の現れ
②家康を警戒しており、転封を拒絶しても統治に失敗しても徳川を潰す理由にするため 家康が東鑑を愛読するほど源頼朝、ひいては坂東の武家に心酔していたことは確かで、従って、平定がすんだばかりの関東奥羽に睨みをきかせるのは家康をおいて他にないと秀吉が見こんだのだと思います。
江戸を本拠にするのもあらかじめの協議で決まったと思います 秀吉が小田原じゃなくて江戸を指定したのは江戸が東国の流通を考えると最適だからなんだよね
家康に東国の抑えを任せるために転封したんじゃないかと思うなあ 関東公方に倣って徳川による東国の分国支配
もくしくは、もしかしたら秀吉は家康の将軍就任の可能性すら考えていたかもしれないね
豊臣はあくまで天皇の下で公武を統率する頂点に君臨する新しいポジションを目指していて
いずれは天皇家も豊臣家も中国やインドに移すつもりでいたから
徳川も将軍として世界支配の一翼を担わせるつもりであったとしても不思議ではない
実際、秀吉は遺言で家康に統治の全権を委ねていて家康は伏見で政治を行っていた訳だから実質的に将軍みたいなものだわ 室町中後期には関東の中心は古河であり関東公方が本拠地としていた
そして関東の内海、河川、池沼を押さえる最大の要所であり東京湾にも繋がる関宿に関東公方の重臣である簗田氏が本拠を置いて
関東公方による東国支配を支えていたんだよな
それに対抗する為に敵対していた扇谷上杉氏が築いたのが江戸城や岩槻城
つまり古河から江戸付近が関東支配の要になっていた
そこに本拠を移させたのは東国の抑えとしての役割を担わせられたと考えて間違いないね 元々取り込むつもりだった織田家の信雄ぶっ潰したんやから普通につぶされておしまいやろ
そうもっていかせなかったから偉大な家康像が残ってるわけで 朝鮮行き家康が総大将とかええやん
案外指揮権の問題無くて上手く行ったかも 家康って信長と同盟結んでから畿内周辺まで援軍で自ら出張ったり、武田相手にもひたすら耐え抜いたり、本能寺の時にも三法師を擁して光秀を討伐しようとしたり、秀吉に圧迫された信長の息子を助けて秀吉と戦ったり、ひたすら律儀に織田家との同盟を守ってたからなあ
そういう男を自分も使いこなしたいと秀吉は思ったのかもな。でも家康にとって織田家は義理を果たすべき相手だったけど豊臣家はそうじゃなかったみたいだけど 家康は戦より政治向きむだからな
どちらかと言うと後方に置いておいて政務を任せた方が有用 資質として家康は政治家で秀吉は現場司令官の軍人かな
秀吉は織田家の軍団長だった頃が最も精彩を放ってたし本来トップになる器じゃなかったと思う いやいや、秀吉は統治や外交の天才だよ
秀吉の戦の強さは単純な戦略戦術ではなく自領の統治能力の高さが生んだ潤沢な軍資金と神憑り的な外交による切り崩しによるもの
更に圧倒的カリスマを持つ秀吉は完全無欠の支配者
豊臣政権の欠点は秀吉本人の能力に依存した政権であった事
秀吉が政権そのものであったから秀吉の死と共に豊臣政権も崩壊した 関東貰えなかったら天下人にはなれなかったな
堀Qが長生きしていたら家康は大大名で終わっていた