【本能寺の変】明智光秀/惟任日向守を語る10
何でその程度の根拠で信憑性がもたらされたなんてなるんだ?
単に元史料参考に創作していったとも取れるし。 >>348
恒川斎仁について語る必要がありそうですね
そう、乙夜作者の関屋政春に、信長の女房衆から聞いた話を伝えた人物であり加賀藩士です
恒川という一族は尾張津島の有力者で、さらに前田家の荒子七人衆
の一人、山森久次という人物がのちに恒川姓を名乗ります
恒川というのが信長、利家に極めて近い氏族と分かります
で、恒川斎仁なんですが、史料に痕跡が残っています
大日本史料所載の加賀藩歴譜という史料です
この中で、前田利長が本能寺の際、上洛途中で瀬田橋にいた
そこで変の一報を受けて荒子に嫁を避難させるのですが、こんな記述がある
「恒川斎仁筆記云、奥村次右衛門、恒川久次(荒子七人衆の山森久次ですね、中略)急ぎ内所の供をし、荒子へ」
恒川斎仁は、主に恒川氏の顕彰のためかもしれませんが、歴史を調べて筆記を残しているんです(これは憶測ですが、信長女房衆であれば信頼できる人間を置く、つまり取材相手は恒川まわりか津島、荒子出の人間ではないか?)
また、恒川の兄か弟か分かりませんが、斎仁とともに二人、利長の御伽衆だったという記録もあります
これでも信憑性薄いと言えますか?
史実を探求していた人が信長女房衆にそのほぼ最後を聞き、又聞きではあるが関屋政春がその証言を残した
信長の最後に関し、いまのところ情報源を記した唯一の史料といってよいわけですよ
私は朝日新聞のホームページに載った乙夜之書物の写真しか読めていないので断言はできませんが、とても信用できると思うんですよ
信用してよいと思う傍証がほかの史料からも出てきますから
逆に、信用できないといえる部分を教えてほしい(といっても、乙夜の記述の全部が正しいなんて言う気はさらさらありませんが) ふと、尊経閣文庫は前田家の文庫ですね
太田牛一の古態を残す信長公記抜粋を所持していたり
尊経閣文庫の15巻がどんな形態か無知ゆえ知らぬのですが、鉄砲傷というのは加筆の可能性は?
太田牛一よりも詳しい情報を知っていたからとか
ここまでいくと誇大妄想ですが
いずれにせよ、前田家は信長への執着がすごいんです
利家の各種夜話読んでもそうです加賀藩歴譜(本藩御譜)自体は幕末の成立ですが、そこで恒川斎仁の筆記が採用されている
これ、いまに残ってたらすごい史料の可能性ありますよ
なにしろ関屋の乙夜は又聞き(これでも十分すごい!)ですけど、もっと詳細に書かれているかもしれない
また、脚色せずに「女房衆は意味が分からなかったが、信長公は畳で四方を囲った」という情報を関屋に伝えたのは、史実に対して誠実であろうとした姿勢も感じられますし(そのまま記した関屋にもいえます) 元史料から創作した
そもそもこういう意見が出ると思って、成立時期の早いものから順に検証してるんです
もっとも成立が早いのは惟任退治記
次は信長公記でしょう
それぞれ違いがあります
世間に広がった範囲でいえばどっこいどっこいです
乙夜は江戸初期のあと、といった成立で、関屋はおそらく両書を読んでいる
パクって創作するなら、信長公記に記された「是非に及ばず」なんてキャッチーなセリフを使うでしょう?
乙夜の構造として、攻め込む側、攻め込まれた側が、それぞれ知り得る範囲のことが記されている
家中秘伝の軍学書であるから、誠実に聞いたところを記している
そう思えませんか? パクって創作という作為的な行為ばかりでなく
著述にあたって先行する書物を参考にすると言う
しごく当たり前で誠実な態度もあるよね
本を書くなら独自ソースがあっても
先行書物も当たるし独自ソースで足りない部分は
それで(意識的、無意識的どちらにせよ)補うことになる
殊更に乙夜の信用性に疑問を挟む気はないけど
信用できるできないというのは文書単位より
記述単位で考える方が適切ではある
一般論として むしろ何でその程度の人間関係で信用できると思えるんだ?
判断基準が違い過ぎて妄想乙としか思えないが、これは私が疑り深いだけだろうか >>351
>家中秘伝の軍学書であるから、誠実に聞いたところを記している
>そう思えませんか?
全く思わないなー、そんな理屈が通るなら軍記物の大半が信用出来るってことになる。
そもそも誠実に聞いたところで話してくれた人が誠実かどうか記憶が正しいかって問題もあるし。 畳部分はそれなりに検証しても面白いと思った。
畳の記述は惟任退治記信長公記など乙夜之書物が書かれたとされる時期
その当時において知られているような軍記物に記述は無い。
祖父物語の畳を被せたとした記述部分
ttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920348
・祖父物語を乙夜之書物の作者が参考に出来るほど当時知られていたか
当時祖父物語が知られていないなら、
それ以前に出た軍記物にはない記載が全く別系統の記録にそれぞれあるってことになり、
その部分に限定すれば信憑性が出てくる。
・祖父物語だと、光秀が死体が見つからないと慌てた所、
利三が落ち着かせようと森が信長の死骸の上に畳を、なので利三がハッタリかました可能性
これだと話自体が嘘ということになる。
その場合だと、乙夜之書物の作者がどのように畳の記述を思いついたかだが、
利宗(か誰か)が利三の嘘を真に受けていただと、本能寺内の記述は当てにならなくても
それ以外の記述は本当に利宗とはいかなくても明智関係者から聞いた可能性が出てくる。
・あと一応可能性は更にないと思うが、
江戸時代初期辺りの軍記物や社会通念などで籠城や屋敷攻められて死ぬとき
畳を使う例があるようなら、祖父物語乙夜之書物ともに独自に畳の記述を考えたという偶然論もあるか。 足利義輝の畳に押し包まれて討ち取られたも近い時代の史料にはないんだよな 信長公記惟任退治記以外だと
当時有名な軍記物はこの辺りだろうか。
甫庵信長記初めて読んだw
ttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2544605/32
川角太閤記
ttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/899814/12
もっと後の明智軍記は祖父物語を参考にはしていないようだ
ttps://www2.dhii.jp/nijl/kanzo/iiif/200005236/images/200005236_0009_00024.jpg
>>357
そういえば義輝で畳使うってありましたね、
だったら上で挙げた戦死時に畳の記述が使われるからたまたまって可能性も切り捨てては駄目ですね。 いざ探すとなかなかソースとして適当なものが
見つからないのだけど武術の世界では
防御手段として畳を立てると言う話は稀に聞く
畳返しと言ってしまうと途端に怪しくなるが
大真面目にやってた人もいる
http://www.taikyokuken.co.jp/goshin/story8.html >>352
noteの方は私も参考にしています
私より史料を読む力は深いので
もう片方ははなはだ疑問です
太田牛一「信長公記」成立考 でPDF検索してほしいです
とても古い論文ですが、慶長3年が下限という結論です
九州にいるフロイス、なんて関係ないほど時期が離れています
それとは別に、宇野主水日記で太田牛一が顕如に三木合戦あたりの読み聞かせしてた記述があったんですが、何年かは忘れました
ただ、少なくとも天正10年中ではない(こんど確認しますが)
私は、やはり大事件なのでその場にいた人の話がすぐ広がったと考えてます
祖父物語なんかに残滓がある
それとは別に、改めて恒川が老後の女房衆に取材して、関屋に伝わったと思うんです >>353
私もあなたの論に賛成なんですよ
たとえば乙夜に山崎の戦いの描写がありますが、すごく通俗的なんですよ(次男坊が行方不明だからサヨナラって利三が戦線離脱したり)
ただ、私は鳥羽に光秀が控えていたという描写や戦闘の一部始終、信長の最後については信用してもいいかな、と >>356
祖父物語はとくに後半の秀吉がでてくる前後から荒唐無稽(信長がお付き1人で諸国漫遊したり、秀吉に小便かけたり)なんですが、話し手が清須の古老だけあって、流布されていた噂をきっちり収載している雰囲気があるんですよね
これは推測ですが、尾張へ逃げ落ちた女房衆の話が清須で流布していたと思うんです
身の回りの世話をする女房衆は尾張、美濃、広げても近江出身である可能性が高い
玉石混交の噂の中で、上様は最後、なぜだか分からないけど畳で四方を囲んでいた、という証言もあったという読みです
祖父物語は噂集と捉え、前後の一貫性にはあまり注目する必要がないかなあと
ただ、関わりがなさそうな史料同士で類似の点があるので、そこの部分については両書が補完して信憑性考えてもいいかな、と >>359
あくまで女房衆なのですが、乙夜の原文掲げると「信長公いかが思召たるか」とある
女房衆は畳をあげる意味がわかっていなかった
明確な防御の動きではなかったと読みたいところなんです
信長は居間に帰って、ほどなく台所の方から煙がやってきた
それに続く記述が上記です
死を覚悟した信長が遺体を隠すかより焼けるためにした行動と個人的には思うんですが、異論も多いかと思います
女房衆も歴史家である恒川も、軍学者の関屋もはっきりとは目的が分からなかったと思います 何故かPCで書き込めないスマホで書き込むの厳しい
>>362
流布しているなら他の史料に一切話がないのはおかしい
流布しているなら乙夜も噂聞いて創作したという可能性も考えられる >>364
天下にあまねく流布、とは言いません
尾張出身の女房衆が逃げ帰って狭い範囲で流布、という可能性もあるわけです
乙夜は創作する必要がないし(公刊する書物ではなく、関屋なりの軍学の秘伝書)、恒川という人をおいていますがソースが明示されている
恒川という一族は津島、荒子以来の家臣で、その周辺の筆記を残しているのが斎仁
女房衆に話を聞く動機も手段、地縁もいかにもある人物です
秘密の暴露じゃないですが、尾張つながりの乙夜、祖父物語にほぼ同じような記述がある
ここを重視したいんですよ
まあ、場合によっては乙夜、祖父物語のどっちも同じ女房がペラペラ吹聴した可能性もありますが あと、当時の本能寺に関して必見の論文を紹介します
中世本能寺の寺地と立地について−成立から本能寺の変まで−
これで検索すると立命館大学のPDFで読めます
2008年なので発掘成果などは反映されていませんが、立地や位置づけ、信長の政権構想にまで肉迫しています
真ん中付近からの信長絡みだけ読んでも十分 明智光秀が何時に亀山城を出たかいろいろ説があるが、
光秀が亀山城を出た時には信忠はまだ本能寺に滞在していた
(夜が更けたので信忠は暇乞いをして、妙覚寺の宿へ帰った)
明智軍が本能寺を襲撃して、その後二条新御所へ移動したのは
信長殺害が最優先事項だったか、信忠が妙覚寺に帰った情報が
後から入ってきたかではないかと個人的に思う
いずれにせよ、光秀がどうやって情報収集したのか個人的には気になるところ
光秀が京に(幾つか)屋敷を構えていてそこから情報収集したって説もあるけど
外からの情報だけで本能寺を襲撃するリスクを負えたのか甚だ疑問 武功夜話がそうとは言わないが非公開とされていたとしても創作する理由などいくらでもあるだろ 武功夜話みたいにって意味
スマホじゃ無理だまともな文章書けない、もうやめる >>368
理由も動機もあるにはあるでしょう
ただ、それ以上にいろいろつながるわけですよ
一次史料だって事実誤認や誇張、ウソが混じっている
他史料やさまざまな情報を鑑みて史実か否かを探っていくわけですよ
乙夜については、まず公開前提の史料ではない(萩原先生も信憑性を担保する重要な証拠に挙げている)
情報元が明記されている(斎藤利宗、井上清左衛門、恒川、女房衆などなど)
目撃者でなければ知り得ない情報が含まれている
とくに情報元が記されているのは重要ですよ
なぜそこを軽視するのか分からない
掘っていけば納得の人物ですし、加賀藩は公式記録に恒川の筆記を採用している、それも本能寺周りの記述で
情報元が記されている史料では、川角太閤記もそうです
あれも、ソースが明示されている部分はおおむね信用できると思っています
次は川角太閤記を引用します
祖父物語と川角太閤記ってとても似ている史料です
祖父物語は慶長12年頃、川角太閤記は元和の成立
清須の田舎村の祖父物語を参照したとは思えないと先に付記しておきます >>369
また今度
武功夜話は昭和になって悪意をもって捏造されたもので比較にならないかと
三河物語とかでしょう、あれも門外不出
だからといって全部信用はできない
一つひとつ検証するのが大事 >>367
京屋敷があったのは一次史料に残っています
ただ、きちんと情報収集なんてできていたのか
結果的に謀反が成功したことからの合成の誤謬ではないかと
とにかく信長を叩き殺せ!という短慮しか感じられない
変に至る過程を細かくまとめた論文に以下があります
本能寺の変の再検証 : 先行研究の成果と『石谷家文書』から判明した史実の結合
四国説なのが玉に瑕なんですが、とても参考になります
電子データで読めます
近衛を讒訴した宮内卿法印と光秀の確執とか
文武のトップに対立があったようだ
動機をひとつに絞ろうとするからおかしくなるわけで、いろいろ追い詰められていたんでしょう 悪意をもって捏造とか言っちゃうやつが史料語ってんのね
もう書き込まなくて良いよ 1582(天正10)年1月11日、光秀家臣の斎藤利三が石谷光政に、長宗我部元親の軽はずみな行動を諌め
信長の指示に従うようにと伝える。【石谷家文書】
1582年5月7日、信長が信孝に讃岐、三好康長に阿波を与える領地配分を伝える。【寺尾菊子氏所蔵文書】
(信長は信孝と三好康長を養子縁組の画策)
光秀側も長宗我部元親にこれ以上信長に逆らうなって意図が感じられる
四国説は無いかなって個人的に思う >>374
四国説は光秀を悩ませた要因の一つ、くらいに考えたい
新しい史料が見つかって悪ノリしてる勢力がいる そう、光秀の置かれた立場を理解するには重要な情報だろうね
でも光秀にとって一番の重要事項ではない >>373
そう言わずこっちのスレで蟄居させてください 信長は、長宗我部元親に切り取り次第としていた四国の所領の約束を反故にしたが、
土佐一国と阿波南郡半国を所領として認めようとしていた
1581年8月、毛利と同盟を結ぶ。【8月7日付 乃美兵部丞宛 長宗我部元親書状】
光秀側も長宗我部元親にかなり手を焼いてる感じで、四国征伐を阻止するために
本能寺の変を起こす理由付けは無理がある >>377
君らずっとレベルの低い口喧嘩してよく飽きないね
あっちいけ あっちいけなんていう幼稚園児レベルの発言が出るようなスレだもの >>378
概して四国説の論者は史料の取り扱いが雑というか、恣意的なものすらある印象です
石谷文書は信長政権と四国政策に裏付けを与えるもの、くらいに捉えておきたい
そこらはこれまで、長宗我部系の軍記にしか記載がほとんどなかったと記憶してます
元親記だったか、たしかに本能寺に関して元親と光秀の関与をにおわす記述自体はあるんですけどねえ
あれ読んでも四国周りがほぼちんぷんかんぷんなので、意味が取りにくくて困るんです
研究者はさすが 光秀ラインで進んでた対四国政策が
あの時期頓挫しつつあったのは確かだろう
だからといって四国のために光秀が立ち上がる
なんてことが起きたと思えないけど
単純に「秀吉との出世競争で」とか
「織田家での影響力がなくなって」とか
言われてることの具体例と考えていいと思うけどな 土佐には明智の系図があるらしい
坂本龍馬がその子孫だとか、そんな話を見た
普通に山内氏の入国に付いてきた中に明智氏の縁者がいただけと思うが、
こういう戦国から幕末への歴史ロマン的なものも四国説を後押ししてるんだろうか >>384
あれは明治の小説が出元なので
残念ながらまともな研究者の中で信じている人はいないと思います
最近じゃ坂本龍馬の位置づけも下がっていますし
明治と昭和の小説家が生み出した幻影というよりないのではないでしょうか それでは川角太閤記の本能寺描写
まず、信長公記記載の謀反5人衆を挙げて、山崎長門守、林亀之助の雑談(ぞうだん)ではそれはなかったと指摘
以下に抄訳
光秀は6月1日申の刻(午後3時頃)ごろ、家中の物頭に「森乱が上様の意向として、中国出陣の用意ができたならば閲兵したいと飛脚でいってきた。心得てい出陣すべきだ」と亀山をたって東の柴野へ出たときは酉の刻(午後6時)だった。光秀自身が馬に乗って周り、軍勢を三段に備えた。光秀が斎藤利三に軍勢の数を聞くと、1万3000はあると答えた。
光秀はそれより南に馬を出し、軍勢から一町半離れたところで重臣5人と話し合った。5人以外おらず、光秀は床几を降りて敷皮に座り、存念を語った。
「上様が私をここまで取り立ててくださったことは皆もよく存じておろう。3000石だったとき、にわかに25万石を拝領し、家臣が少なかったので大名衆から呼びとった。すると3月3日の節句に岐阜で、大名高家の前で面目を失った。その後、信濃の上諏訪にて折檻され、このたびは家康接待で失態があったとしかられ、西国出陣を命じられた。こうしたことが再三あったので、我が身におおごとが及ぶといろいろと考えたが、右の三か条の恨みがある。世は有為転変だ。老後の思い出に一夜なりとも天下の思い出を得たいとこのほど思い切った。みなが同心しないなら一人で本能寺に乱れいって腹を切る覚悟だ。おのおのいかにいかに」 読み返したらとても長いので大幅に抜粋
一同は賛同。天野源右衛門を先行させて防諜活動、瓜畑の農民20、30人を殺害(これは天野の証言に基づく)。桂川につくと軍装を改め、今日より天下様になるとお触れ。利三が先手を指揮。ここまでは山崎と林から直接聞いた話だ。これから先は信長公記に詳しい。
と記している
桂川で謀反の意思を兵卒に伝えたのは乙夜と一緒
襲撃場面については信長公記に異論がないという
別スレに詳細記したので省くが、山崎と林の素性はたしか
川角太閤記にでている経歴や逸話も他史料で確認できる
天野の防諜活動については(ようするに行軍中に人がいたら殺す)は本城覚書にもある
おおむね、他の史料と整合します 創作だと尚更有名どころの軍記物なんかと整合性取りつつ、微妙に変えたり、独自の逸話を入れたりするもんな >>388
川角太閤記は甫庵信長記よりも成立が前
頼れるものは惟任退治記と信長公記
実際、川角太閤記では信長公記に言及し、かつそこにないところや間違っていると主張しているところを描いてるんです
ソースつきで
それをとくに論証もなく「参考にしただけ」とはね >>390
ほう、史料に詳しそうだ
ぜひ勉強させてもらいたい
例えば具体的にどんな史料が挙げられます?
5つ6つくらいは教えてほしい
参考にしますので 390じゃないが有名どころだと甲陽軍鑑とかか。
石水寺物語他を編集してか、甲陽軍鑑が作られ
北条五代記とか川中島での一騎打ち描写とか軍鑑の影響と言われてる
(一騎打ちは北越軍談にもあるらしいが読んだことない)
韮崎合戦も軍鑑が初出だと思うが、その影響受けて溝口二木の家記にもあるし
武田三代軍記や小平物語も影響受けて韮崎合戦があったことになってる。
ちょっと違うが高白斎記も軍鑑の影響を大きく受けているというかほぼ丸映し部分が混入しちゃってる 武田三代軍記はデジタルにあったから貼っとく。
ttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/881523/58
>>391
自分としては388に賛成で
碌に検証しないで他の史料と整合性があると言われても、そりゃ388みたいな意見しかでないだろと。 上にあった畳の話ぐらいには検証しないと、話の膨らませようがないとしか
概ね史料と一致すると言われてもそりゃそうだろとしか、
そんなこと言ったら歴史小説だってある程度は一致する 史料の検証したいなら
論点がわかりにくい、どの部分を検証したいのか明確にしないとってのもあると思う。 山田風太郎の書いた忍法帖という膨大な史料だが
なんと当時起きた事件の顛末については
他の史料と概ね整合してるんだ 他の軍記物にはない独自の記述が一次史料で裏付け取れるとかだとその部分は信用出来るってなるけど、
他の軍記物と似たような記述があるってアプローチじゃ
既存の軍記物参考にしたのか独自の情報ソースがあったのか簡単には判別付かないからな。
そもそも簡単に判明するようなら学者がとっくに結論出してる。 >>398
甲陽軍鑑の信用できる部分も裏付けがとれる箇所だからな >>9
どこかの総理大臣みたいだな。
でも総理と違って光秀は頭いい。 どうも土岐源氏の由緒ある血筋とかでもないみたいだし、けっこう成り上がり者らしくガツガツした人だったみたいだけど、ルーツがどうあれ有能だったことだけは疑いようのない事実ではあるな 頭が悪くても出世できるんだ。織田家ってちょろいんだな。 頭良くても悲惨な末路を辿る歴史人物は結構いるからな 信雄は勝ったのか負けたのか。大禄を喪失しながら1630年で天寿を全うしたが 信長父子を襲ったのは光秀乱心だと思うね
父子を殺した先の準備をしていないからね >>193
細川は羽柴の援軍明智のさらに与力としね中国攻めの準備はしてたはずだよ >>409
「親子を殺す」どころか「信長をころすことにばかり気を取られてた」としか思えないんだか
本能寺包囲だけならもて余す十分すぎる兵を率いていながら、信忠を囲んだのは本能寺への攻撃を始めてから二刻(約4時間)もあと
いかに信長だけに夢中になって他が迂闊だったか分かる そろそろ落ち着いてきたと思いたいところだが
大河の嘘イメージひっくり返すためには10年単位で時間かかるんだろうなあ
丹波とか恩恵ほとんどないのに嘘だけ押し付けられるとか不憫だわ 陰謀説の人は考え過ぎなのよね
光秀がとち狂ってやっただけの話よ 宿泊しているところを夜襲して支持されるわけないんで孤立して討ち果たされるのは当然よね 大河の影響で興味もって
光秀の家臣に興味あるけど
いうほど情報は少ないね 光秀の自称子孫の人の光秀が信長騙して信長本人に計画練らせた説は嫌いじゃないよ
それ以外の部分はあれだけど 来週5/8の「世界ふしぎ発見」で、「本能寺の変」を扱うそうだけどなにを描くんだろうか 明智光秀が殺されず生きていて別の場所で死んだとかやってたけど
南光坊天海の話は出てこなかった。真偽は別として片手落ち 「世界ふしぎ発見! 〜本能寺の変 解き明かされる新たな真実〜」2021年5月8日(土)
https://s.kakaku.com/tv/channel=6/programID=271/episodeID=1466086/
> 信長の侍女の証言として、信長の最期の言葉も記されている。
信長が侍女を逃がして1人で最後まで抵抗したようだが
あれは信長が侍女を逃がした後に
床下の抜け穴から1人で逃げたものと考える。
だから、死体が見つからなかったのだろう。 信長が家康を討てと言ったとかやってたけど、そもそも光秀は秀吉の援軍にいけと言われてたんで全くのデタラメ
ちゃんちゃらおかしい 先生の話によると乙夜之書物は老人のホラ話として三次史料扱いになったそうで残念でしたね
天王山と混同
圧倒的兵力差がありながら至近で遺体すら見つからなかった信長を見たという信ぴょう性に欠ける記述
確かに話にならんな >>421
乙夜を取り上げたテレビがあったんですか
あなたの言う先生が誰か知りませんが、ちゃんと乙夜の原史料の一部でもあなたは読みましたか?
久しぶりに覗いたらいつものことながら、愚にもつかないことが書き込まれていてw >>423
テレビの演出より自分で読んで確かめた方が早いし正確でしょ
読めない人はテレビみておきましょうね 武田が滅びると自らを神と称し、誕生の日を聖なる日と為した。
そして、帝を自らの膝下に置かんとする所業。
武田攻めの御折檻、徳川様接待不首尾のお怒り、近江坂本・丹波領地を召し上げ、出雲・石見を切り取れとの冷たき御沙汰、
又、丹波で、足の不自由な母を、見殺しにされた仕打ち、など!
語り尽くせぬ怨みあれども! 信長が当時としても異常な人間ということはわかっていて長年仕えたわけでしょう
それを天子様をどうこうを理由に殺そうとするかな 天皇家は幕末になって討幕派が神に仕立てたわけで当時は神社の代表者の地位だったのよ >>421
そりゃ約100年後にまた聞きでってなると信憑性はどうしてもねー 光秀「黒奴は物を知らない動物」
弥助さん
トリリンガル以上
相撲バリ強
鉄砲等も使用可
本能寺が落ちると信忠に参じて戦う忠義の人 【戦国こぼれ話】『乙夜之書物』は本能寺の変の真相を知るうえで、信頼に足りうる史料なのか(渡邊大門)
ttps://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20210511-00237186/ ヒムラーとヒトラー 氷のユートピア
遠くウラルに至る沃野に、ゲルマンの一大帝国を!整然とホロコーストに動きだす!狂気と合理性に彩られた 光秀恨む女の霊 神社に残る戦国悲話/兵庫・丹波市
12/2(日) 11:02配信
岡女の霊がまつられている厳島神社=兵庫県丹波市柏原町柏原で
本殿や拝殿が国指定文化財になっている兵庫県丹波市柏原町柏原の柏原八幡宮。その八幡宮の鳥居をくぐって、すぐ右側に厳島神社がたっている。この厳島神社には、2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公で、戦国武将の明智光秀によって兄たちが殺されたことを恨んだまま息を引き取り、死後、幽霊となって里人たちを恐れさせた女性の霊がまつられている。
織田信長の命を受け、丹波の国を攻めた光秀だが、「丹波の赤鬼」との異名をとった武将、赤井悪右衛門直正らの抵抗に遭い、敗走を余儀なくされるなど、さんざん手を焼いた。
そんなある日の夕暮れ。丹波に構えた戦陣にいた光秀に向かって、流れ矢がうなりを立てて飛んできた。身をかわして難を逃れた光秀は、背後の木の幹に突き刺さった弓矢を引き抜き、険しい目つきで矢尻を凝視した。
そこには「土屋(はんや)」の印が入っていた。その印を見て、光秀の怒りが増した。
土屋三坂と名乗る矢匠をはじめ、その一族が捕らえられ、光秀の前に引き出された。三坂は、柏原八幡宮の近くに居を構えていた。
光秀は、三坂に言い放った。「わしは、土屋の矢が憎いのじゃ。わしを苦しめているこの矢がな。わからぬか」
すでに死を覚悟した三坂は、光秀の剣幕にひるむことはなく、堂々と言い返した。「とんとわからぬ。わしは丹波の矢匠ぞ。頼まれて矢を商うに何の遠慮があろうぞ。赤井方であろうと、明智方であろうと、戦あっての矢匠ぞ」
ふてぶてしい三坂の態度に光秀の怒りは頂点に達し、鬼と化した。「こやつらを、ことごとく火あぶりにいたせ」
まもなく火あぶりの刑が執行され、火焔が夜空を照らした。処刑された者は、三坂をはじめ一族ら9人。見苦しい最期をさらした者は誰一人としていなかったと言われている。
ただ、一族の中に火あぶりから逃れた者がいた。岡女という三坂の妹である。三坂らを捕えるために光秀の家臣たちが押しかけたとき、いち早く裏庭に逃げ出したのだ。
兄の最期を知った岡女は、兄の後を追い、自害しようと思ったが、自分のすべきことは兄たちの霊を慰めることだと思い直し、髪を下ろして仏門に入った。兄をしのび、供養の日々が続いた。
しかし、心に深手を負ったためか、ちょっとした風邪が命取りとなり、光秀を恨んだまま息を引き取った。
柏原の里人たちの間で幽霊の話が交わされるようになったのは、それから間もなくだった。兄の三坂らが火あぶりにされた沼池のほとりに美しい女の幽霊が出るという噂だ。
「昨日は、うめき声がもれていた」
「一昨日は、しくしく泣いていた」
のちに、心ある人たちによって沼池のほとりに小さな祠が建てられた。そのおかげか、幽霊の噂は途絶えた。
霊をまつっていた祠はやがて柏原八幡宮に移され、今は厳島神社となって戦国の悲劇を伝えているが、地元でもこの話を知る人はそう多くない。
(参考文献・榊賢夫氏著『丹波柏原・続篇』) とちゅまで読んでて兵庫厳島神社の縁起になってて混乱したw そう怒るなよ。むかしのドラマのいかした台詞を楽しもうぜ >>432
秀満と光春が別人だったんだっけ?
新史料でこういう説がでるの面白いなあ >>440
新刊の「真相解明 本能寺の変」にその説が載ってるね
著者は菅野俊輔 丹波新聞より
光秀恨む女の霊 神社に残る戦国悲話/兵庫・
丹波市
12/2(日) 11:02配信
岡女の霊がまつられている厳島神社=兵庫県丹波市柏原町柏原で
本殿や拝殿が国指定文化財になっている兵庫県丹波市柏原町柏原の柏原八幡宮。その八幡宮の鳥居をくぐって、すぐ右側に厳島神社がたっている。この厳島神社には、2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公で、戦国武将の明智光秀によって兄たちが殺されたことを恨んだまま息を引き取り、死後、幽霊となって里人たちを恐れさせた女性の霊がまつられている。
織田信長の命を受け、丹波の国を攻めた光秀だが、「丹波の赤鬼」との異名をとった武将、赤井悪右衛門直正らの抵抗に遭い、敗走を余儀なくされるなど、さんざん手を焼いた。
そんなある日の夕暮れ。丹波に構えた戦陣にいた光秀に向かって、流れ矢がうなりを立てて飛んできた。身をかわして難を逃れた光秀は、背後の木の幹に突き刺さった弓矢を引き抜き、険しい目つきで矢尻を凝視した。
そこには「土屋(はんや)」の印が入っていた。その印を見て、光秀の怒りが増した。
土屋三坂と名乗る矢匠をはじめ、その一族が捕らえられ、光秀の前に引き出された。三坂は、柏原八幡宮の近くに居を構えていた。
光秀は、三坂に言い放った。「わしは、土屋の矢が憎いのじゃ。わしを苦しめているこの矢がな。わからぬか」
すでに死を覚悟した三坂は、光秀の剣幕にひるむことはなく、堂々と言い返した。「とんとわからぬ。わしは丹波の矢匠ぞ。頼まれて矢を商うに何の遠慮があろうぞ。赤井方であろうと、明智方であろうと、戦あっての矢匠ぞ」
ふてぶてしい三坂の態度に光秀の怒りは頂点に達し、鬼と化した。「こやつらを、ことごとく火あぶりにいたせ」
まもなく火あぶりの刑が執行され、火焔が夜空を照らした。処刑された者は、三坂をはじめ一族ら9人。見苦しい最期をさらした者は誰一人としていなかったと言われている。
ただ、一族の中に火あぶりから逃れた者がいた。岡女という三坂の妹である。三坂らを捕えるために光秀の家臣たちが押しかけたとき、いち早く裏庭に逃げ出したのだ。
兄の最期を知った岡女は、兄の後を追い、自害しようと思ったが、自分のすべきことは兄たちの霊を慰めることだと思い直し、髪を下ろして仏門に入った。兄をしのび、供養の日々が続いた。
しかし、心に深手を負ったためか、ちょっとした風邪が命取りとなり、光秀を恨んだまま息を引き取った。
柏原の里人たちの間で幽霊の話が交わされるようになったのは、それから間もなくだった。兄の三坂らが火あぶりにされた沼池のほとりに美しい女の幽霊が出るという噂だ。
「昨日は、うめき声がもれていた」
「一昨日は、しくしく泣いていた」
のちに、心ある人たちによって沼池のほとりに小さな祠が建てられた。そのおかげか、幽霊の噂は途絶えた。
霊をまつっていた祠はやがて柏原八幡宮に移され、今は厳島神社となって戦国の悲劇を伝えているが、地元でもこの話を知る人はそう多くない。
(参考文献・榊賢夫氏著『丹波柏原・続篇』) 信長の死後、秀吉が信長の息子達を傍流に追いやって主導権を握るあたり、光秀も秀吉も本音は同じだったか。
「狡兎(こうと)死して走狗烹(に)らる」という、合戦を勝ち抜いた家来から領地が取り上げられて信長の息子達ばかりに与えられる事に対する不満が「本能寺の変」を引き起こしたか。
「やるなら今しかない!」と、公家衆が囁いたか。 「桶狭間の戦い」「本能寺の変」に共通する事は、間者による情報漏れを防ぐために事前の打ち合わせを行わず、いきなりトップが指揮して合戦を起こした。
斥候を使った情報の探り合いという面で、非常に上手く行った例だろう。 ゲームというか90年代流行の
情報戦勝利説そのままかと 敵ゴール前に居たらボールが転がってきたので、迷わずに蹴ったという事だ。 信長、光秀の子孫が延暦寺でシンポ 比叡山焼き討ちから450年
今年の法要では焼き討ちから450年の時を経て、信長の子孫、織田茂和氏と光秀の子孫である
明智憲三郎氏が参加し、比叡山の関係者らと犠牲者を悼む。延暦寺を開いた伝教大師最澄は「怨みを
以て恨みに報ぜば怨み止まず、徳を以て怨みに報ぜば怨みすなわち盡(つ)く」との言葉を残しており、
延暦寺はこうした教えに基づき、公益社団法人「びわこビジターズビューロー」との共催で今回の企画の
実現に漕ぎ着けた。
https://www.sankei.com/article/20210908-K75T7TK2RJN2PAGJSMZDEYYWKE/ 明智光秀(千葉真一)は、足利義昭(蓮司)をライフルで射殺し、また、明智家御庭番の亜利助(黒崎誠輝)に織田信長の行動を探らせ、本能寺で信長(松方)を襲殺しました。
正に戦国の野良犬の所業。 >>1
定政伝記
天正十年(1582)五月、
神君到江州(徳川家康は近江国に到着した)
謁見信長公於安土(安土に於いて信長公に謁見した)
日向守光秀、定政は従父昆弟(従兄弟)
不堕家誉(家の名誉を落とさぬよう)
贈遺(家宝を贈る)
剣・備前兼光、
甲冑・烏絲綴織、
馬轡・佐々木高綱、
鎗・血水銘
而(しかも)通好みの品を贈る
光秀は定政の父親である定明の遺品を持っていた
これは明智本家の長男であったことを示す
明智家臣団の妻木、小里、肥田、遠山はいずれも分家や養子先
光秀の妹御妻木は月経があったことから30代から40代つまり明智定政と年代が近い
光秀の母親御牧は実在しないとされるが、室町幕府の奉公人に御牧景重の名が見える 本能寺の変に関しては、+出雲と石見−丹波と近江志賀郡の件を
信長は、毛利潰してからのつもりだったのに、説明不足だったり、
追放された佐久間信盛の件もあって、光秀が勘違いした?
世界的な銀山のある石見の統治を、任せるつもりだったのだから、
信長が光秀を、冷遇するつもりがあったとは思えん
また信長は、毛利と長曾我部と上杉を潰したら、
九州方面は秀吉、中国方面は秀吉→光秀、四国方面は信孝近畿方面は光秀→?、
北陸方面は柴田→?、関東方面軍は滝川、東北方面軍は柴田に
任せるつもりだったので、事前に慣れてもらう為、毛利攻めに加えただけなのに、
これまた説明不足で、秀吉の傘下になると光秀は勘違いした? 応援するため中国にいくなら羽柴の、北陸にいくなら柴田の指揮下に入ることになる
今までにもあったことなのに何で >>454
明智軍記にしか見えない記述だよ
信じるに値しない 石見・出雲なら喜んで丹波・近江坂本差し出すな、俺は
800万石もある信長の天下統一は時間の問題だったし
石見銀山と出雲の砂鉄と日本海側の豊富な海産資源と戦国随一の月山富田城まで貰える
実質300万石くらいの価値はある
だから国替えの指示は信じるに値しない 秀吉「明智は延暦寺虐殺を
提唱した極悪人ですよ。
石山合戦にも関わっていまーす。
延暦寺や石山合戦反対派の
僕は上記の極悪人明智
を始末しました。
どう考えても正義の行為でしょう」 変起こしたのは放っておいても粛清されそうな予感はあったんじゃないかな。
古今東西上司のおかげで出世出来た者が主君を殺して生涯全う出来たためしはないし。
例え大返しなくてもいずれは誰かに討たれるのは間違いなし。光秀のおかげで滅亡を免れた毛利も上杉も北条も光秀に加勢は絶対にしない。
それをしてしまうと家臣が自分を討っても良いことになってしまう。
秀吉に勝てても柴田が丹羽が家康が出てくる。
変起こした時点で光秀の運命は決まっていた。 落武者狩りってなんで光秀が落武者やとわかったん?
今でも
指名手配犯をすぐそいつやと見てわからんやろ?
仮に落武者やとわかっても、光秀とはわからんはずやで 狩ったあとで身分の分かる身につけていたモノ見つけたか
奉行所なりの織田家に届けてたんじゃないか
ちゃんと埋葬なりしとかないと遺族に恨まれるし そこは創作ちゃんうや?
いやな、落武者狩りにあって本当に光秀かどうか調べるころには遺体は腐ってるやん普通?
歯の治療痕ぐらいのレベルぐらいやろ、光秀とほんまにわかるの 落武者狩りは奨励されてたし、金目の物は剥いで売り払うだろうし
そのブツから辿りつくのもあるかもしれんよ 6月とはいえそんなにすぐに遺体は腐らんだろ
特に処理してない遺体でも火葬するまで数日間のうちに葬式するし
あと落ち武者狩りしたやつと首を届け出たやつは別みたいだ 秀吉「明智光秀? 奴は弱くて
単なる馬鹿だよ!
俺なんか3分でやっつけちまったぜ!
娘も石田三成で始末してやったぜ!
サイコー は?明智光秀を
尊敬してるかって?馬鹿か?
天下の俺があんな愚将尊敬してるわけねーしw」 463ですが気に障ったのでしたらすみません。
ただ光秀が謀叛起こした後、どう考えても光秀の未来が開ける展開が考えられないのです。
やっぱり主殺しを認めることは自分にも降りかかることなので、そのことを他の大名も公然とは許さないと思います。地方勢力ならともかく、天下人では目立ちすぎるので。
もし光秀が天下人になる合理的な戦略があるのでしたら教えて欲しいと思います。 >>470
面白くないし気持ち悪いからやめてくださいね 秀吉「明智光秀は3秒で始末したw!
百姓の俺が3秒だぜ!マジ俺tsueee!だろ!
明智光秀なんかサイコーに弱かったよ。
ついでに明智家の家臣も
俺の配下として従わせることもできて
サイコーって感じ」 秀吉「僕は延暦寺虐殺や石山合戦には反対してたし、
賛成していた悪の光秀とは違う訳で。
山崎の戦いで正義の粛清を俺は
行った!何が悪い」 >>471
個人的には単純に情勢を見誤ったんだと思うよ
成功させるには5年、あるいは10年遅かった
彼の経歴は結構異色で戦国大名家臣と言うより
取り立てられた幕臣という認識だったんじゃないかと
義昭と信長を結び付けて幕府再興を企画し
義昭追放後は旧幕臣を取り込んで
畿内支配を進める仕事をしてたわけだから
その目で見て信長さえ死ねば旧幕府≒反織田勢力
による巻き返しがあると期待したが
もはやそんな勢力もなく
戦国大名信長に安堵されただけの家臣たちも
権力基盤を失って自分を討つ余裕なくすと予測したが
実際には権力基盤を奪った光秀を真っ先に
排除しに動いた
変の後に彼自身が動機らしきものを示したと
される史料としては「息子らを取り立てるため」
と旧幕臣仲間の細川藤孝に宛てた書状の写し
それと将軍上洛への協力を要請する国衆への書状
他の方向性を考える必要をあまり感じないかな 変の前に進んでた織田政権の関東や四国の仕置きや
九州奥州からの帰順は幕府本来の権能を
幕府以上に直接的に実効するものだったし
三色推任は朝廷が諸に幕府の否定するに等しい
その意味では追い込まれてもいたと思う
粛清(殺される)とかでなくても
政権中枢から自分含めた旧幕臣が遠ざけられる
と言う意味の危機感はあったろう
幕府や義昭への忠誠という個人的感情より
自身の権力基盤による政治的立場からの危機感が 今日は19時から「世界の何だコレ!?ミステリーSP」で
明智光秀と裏・本能寺の変をやるで 自称子孫の戦国芸人、明智憲三郎をマスコミから出版界から、追放しよう! 秀吉「俺が明智なんか尊敬してる
わけねーだろ?
百姓に負けた馬鹿って
明智のことw」 秀吉「土屋三坂を殺した明智光秀は
悪人ですよ!僕はこんな悪人を
山崎で殺したんですよ。正義でしょ?」 光秀はどれほど秀吉をパクれば気が済むのか?
光秀は延暦寺の虐殺に
反対していたとか実際は嘘で、
本当に反対してたのは秀吉。
光秀は秀吉と同じく足軽だった?
これも単なる秀吉のパクリ!
昔から明智は摂津源氏の
末裔って言われてるでしょ? 『柳営婦系』に「明智平三(十)郎」とみえる。
斎藤利宗は斎藤平十郎と名乗っていたことは『石谷家文書』で確認できるので、同時代資料で明智名字を名乗った形跡は見られないものの、可能性までは否定できない。三存の明智名字授与は確実
主君と結び付き強いな 何度もいうけど、信忠が近江に逃げたら光秀は西をまずは目指す
となれば秀吉が光秀を討つ可能性が高い
勝手に戻ってきたとかは謀反人を討つことすらできなかった当主に
言う資格はない 異説かも知れんが光秀は山崎の合戦で落ち延び
故郷の岐阜で隠遁生活して関ヶ原で徳川方として参戦するため移動中に洪水の河に落ちて溺死したと云われてるよね。 家康・光秀・政宗らの書状ずらり、井伊直政隊の初陣史料も…彦根城博物館で展示
木俣守勝は三河国岡崎の出身で、岡崎城主だった徳川家康の小姓を務めたこともある。岡崎を離れ、明智光秀のもとで
武功を上げ、家康のもとに召し戻された後、直政の部下になった。「徳川家康自筆書状」(天正11年、1583年)は、
家康が信濃に出兵するにあたり、直政に隊の一部を送るように命じた書状。兵士のまとめ役として清三郎(守勝)か
誰かを遣わすように、と書かれており、直政隊の初陣に関する貴重な史料という。「明智光秀書状」(天正6年、
1578年)には、播磨神吉城攻めの戦功があったとして、光秀が守勝に50石を与える旨が記されている。
https://news.yahoo.co.jp/articles/86d278f0552af2613eb497dd7492301174470050 謎解き 伝説のミステリー3時間SPは新しかった
光秀はもともと武田に内通、穴山が織田に寝返ったことでそれが露見することを恐れ
取り急ぎクーデターを起こしたと >>492
穴山信君を暗殺すれば良かったんじゃない?
家康がやったように
信長を討つって斜め上すぎる とはいえ穴山が寝返ってから3ヶ月ちょっと経ってるしのぉ・・・ >>492
穴山より前に勝長が織田に戻ってるからちと苦しく思えるし内通を穴山しか知りえないというのもなあ…
木曽は国境を接しているから知っていて然りだと思うけどね そもそも内通してないぜ
していたら信康の時に合わせて詮議されたろ 内通とかウケルわな。単なる視聴率稼ぎのでっちあげ
光秀が農民に殺されたなんてのは、どう考えても光秀を貶めるための作り話
真相
↓
農民に殺されたのが本当だったとしてもそれは影武者。
実際は光秀は逆に逃げ、安土城に入った。
秀光が光秀から安土城を死守するよう言われていたのに、速攻城を出て坂本城に向かった理由がこれ。
安土城に来た光秀から、妻子の後事を頼まれたからである。
信長しか見ることのできなかった天守からの光景を眺めつつ光秀は、対岸の坂本城が燃え始めたのを確認、
自らも天守とともに逝った。
光秀のことだろう。信長と一献酌み交わし、誰にも聞かれることのない歌でも一句読み逝ったのだと私は思う。 光秀は元々将軍義昭に仕えてたんだから
義昭と信玄の間の取り次ぎという形で
信玄とのやり取りは多少はあっただろ。
そんなのは内通とは言わない。 【AI】
本能寺の変は明智光秀の部下斎藤利三の暴発
以前に斎藤利三は明智光秀の四国の長宗我部を説得して織田-長宗我部の同盟を成し遂げた、そして長宗我部の家臣との縁戚を結んだ
その後、織田が長宗我部への圧力を掛け始めたため斎藤利三は板挟みになり信長への反感を募らせた
明智光秀は部下の斎藤利三の不満を解消できず、遂に斎藤の暴発を黙認した
その代わり本能寺をせめるのは斎藤利三の手勢のみ、さらに信長を討ち漏らした時は明智光秀は斎藤利三を討つことを伝えた
斎藤は了承して本能寺は向かい、明智光秀は本軍を遠く後方で待機させて結果を待った
本能寺の変は信長と信忠の討ち死となり、明智光秀は斎藤利三を配下へ戻し、天下取りの道を目指した REVELATION
資金源/コング
フロント/天下り/右翼思想
フィクサー/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入
汚職/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入/揉み消し
揉み消し加担 沈んでいた“幻の城跡”姿現す!琵琶湖が渇水「取水制限も」
水中にあった「坂本城」の石垣が姿を現したのです。湖岸に本丸を置く城は織田信長の命を受けた明智光秀が築きました。
https://news.yahoo.co.jp/articles/463c3f07995ae11630562d237aa87aeef65c158c 織田!信長は!これと〜日向守光秀が!てえぇぇぇばぁいいたす! てえぇぇぇばぁしたのは誰のためですか?
ミッツ「共産主義者さんたちのためです」
中◯共産党「褒めてとらす!褒美に犬HKで主役にしたる」 信長は弥助に黄色い猿🐒と言われ本能寺で斬首。森蘭丸も信長に介錯され斬首
光秀〜村重〜信長はベロチュ〜する間柄。家康は刺客に狙われまくり影武者無限に存在
最後はビート秀吉が獅童と光秀首を蹴飛ばして終。 ノブ「デアルカ ブツフデェ!」
ミッツ「そうじゃあぁぁ!貴様のクビじゃあぁ!」
ノブ「ブツフデェ!バシはシナヌド!」 >>492
穴山が武田見捨てる頃もう御家ボロボロだし光秀が加担するとは思えない 光秀の坂本城石垣を保存へ 宅地造成工事中止
71年か 初期に造った城だから規模は小さいのかな? 天海が、犯人だった ってあってるけど
天海は明智光秀じゃない
そして坂本龍馬は、天海の分家と言ったらいいかな、天海元々武将だし
だから、坂本龍馬は織田信長の仇打ちで織田家に殺された >>492
そも話、長年ある意味内通していた人がいるのだから
露見したって大丈夫だろw
甲州征伐の時に落ちる内通相手が立ち寄った寺は尽く
最速で禁制出して保護しまくりとかを露骨にやっても
信長から叱りなかったしw >>80
> 「信長の野望」に伊勢氏の武将って全然出てこない
伊勢盛時「」 伊賀越えは予め準備していなとムリ、そもそも京都には向かっていなかったらしいけど
事前に知っていたのか、あるいは慎重な性格ゆえ万が一命狙われた際の準備を整えていたのかどちらなんだろう
詳しい方よろしく 明智光秀が、その重臣斎藤利三の息子を家康のもとに遣わせ伊賀越を手引した。
もともと光秀と懇意だった家康は、道中この者から光秀の話を聞き更に気に入って
この者を取り立てた。それが後の天海。
だから、春日局と顔を合わせたとき、「お久しぶりです」という挨拶を交わしている。兄妹だからな。 クビだっ!クビだっ!ドブナガのクビじゃあぁぁぁ!
晒すのじゃあぁぁぁ!若きころっ!尊敬致したっ!
新羅三郎義光公に誓った!二度と太刀を抜かぬと!
誓ったが!もーガマンできぬ!