【本能寺の変】明智光秀/惟任日向守を語る10
>>154
ごめんね、もう少しだけ
信忠配下の美濃衆は元は齋藤家の家臣で、信長と戦い後に従う
その後、信長と共に美濃を出て各地で転戦を重ねる
信忠配下後も益々全国各地で転戦する
長年織田家の為に働くが、一方で恩賞である領地は増えていない
家臣の不満を信忠が抑えきれなくなり、仕方がなく信長が佐久間、安藤、林を追放し
それぞれ所有していた尾張・美濃の領地を再分配した可能性もある
各地から国を超えて兵をかき集め、大軍を持って敵を撃つ
信長のやり方は織田軍の強さでもあり、また弱さでもあった
譜代の家臣ではなく、光秀のような有能な家臣を重用する
信長のやり方も織田軍の強さでもあり、また弱さでもあったように >>155
甲州征伐後に信長に「天下の儀も御与奪なさるべき旨」と言われたが、
信忠はのちに断っているという記述もある
信忠には家臣の不満を抑えて、全国各地を転戦する余裕がなかったのでは
恩賞なき戦いでは家臣が付いてこないと >>157
蘭丸のお兄ちゃんとか甲州討伐の後にめちゃくちゃもらってるよ
信忠より年下で若いけど重臣並みだよ 余裕がないってなんだ
むしろ信忠はあちこち転戦しまくりだろ 信忠が黒幕で家康暗殺を目論んだ
明智の先発が本能寺にいるのが家康だと間違えた
間違えたので信長の遺体を焼却した
明智は信忠を討つしかなくなった >>159 >>160
森長可は森可成の子で、蘭丸を含む可成の子供たちは信長に優遇されている
斎藤利三は稲葉一鉄の娘を側室にしているにも関わらず、稲葉家を出て光秀の元へ出仕している
待遇に不満を持っていた説もある
美濃にいても知行が増えず不満を抱えていた家臣が他にもいたのでは 実際はちょっと脅すつもりだったのが大事になってしまったと 上杉謙信は関東へ延べ13回も遠征し、家臣や国衆の不満から乱が続発する
信忠の各地の転戦も美濃衆の中で不満が溜まっていたのでは
林秀貞は24年も過去の信行(信勝)擁立の謀反の罪を問われて追放
安藤守就は野心の疑いのため追放
林のように過去を遡ると、安藤は斉藤龍興を退去させ稲葉山城を占拠した過去がある
美濃衆に対して、信忠に対し少しでも野心があれば過去のことであっても追放処分するぞと、信長からの強いメッセージだったのでは
ちなみに光秀は本能寺の変後、美濃の西尾光教に寝返りの勧告の手紙を送っている 麒麟が来る 正義の人明智光秀
とにかく裏切り・計略・策謀好き
主君を何度も代える。
本当は先頭に立ちたかった皆殺しの比叡山焼き討ち。
義昭と信長を両天秤にかけ、利用価値の無くなった前主君をあっさり捨てる。
重臣佐久間の事を主君に謂れなき讒言をし、その地位を全て奪う。
八上城攻城の指揮をとり、皆殺しとにかく皆殺し。
年金世代となり、丸腰で泊まるノブをぶっ殺して全てをいただくことを思い立ち、とりあえず殺害。しかし、人望がとにかく無いため直属兵さえ離反される可能性があったため、城にあった金銀財宝はとりあえず部下たちに譲る。
自分は隠居するから味方してと細川幽斎に頼むも、前述のような人柄のため全力で断られ、味方が出来ずぼっちの今後を思い悩み数日安土城で寝込む。
気づけば、猿と馬鹿にしていたハゲが高速で戻って連合軍を形成しており、自分もハゲているので当然惨敗。
とりあえず近場の城に立て籠もるも、味方も援軍も無いので、泣きながら逃亡。
足蹴にしていたような農民に致命傷を負わされ、初めて死ぬ可能性に気がつく。
介錯の後、自分の首は知恩院に運ぶように伝えるも、人望がないため面倒くさがられ手近の場所にそのまま置いていかれる。
すぐに発見され京の粟田口に晒され、前述のような性格の持ち主のため、京都の民から罵声を浴びる。 おツマ木って妻木氏の娘なんだろうか?
でも名字に御付けて呼んだりするかな
光秀が大河の主役になって研究が進んだり新発見を期待したけどそんなことも無かったな その記事前も読んだ気がするんだが
道中の糧食の確保で元々援軍が進軍予定だったの無視して
秀吉専用に一から手配したことにしてるやつ いや、しかし酷かったね
最後まで完全無欠のヒーロー
世界一優しくて
まるで人を1人も殺さなかったかのような(笑)
信長だけが悪魔で光秀が天使みたいな(笑)
いや、イエスキリストか?
Σ(・∀・;) >>176
本能寺の変をナレーションにして
その後を詳しくやって欲しかったよ。
山崎の合戦までを >>176
家臣や一族の末路を隠蔽して光秀の謀反はキレイな謀反のまま終わったのはさすがNHKと思ったw 黒幕など誰もいない。朝廷も秀吉も義昭も家康も信忠もバテレンも誰も。
光秀の白幕なのだ。そこに無防備なままの信長と嫡男が揃ってしまったがゆえに
戦国武将らしく下剋上を起こした、ただの一戦だっただけのこと。
日本史学会では、本能寺の変が起きた理由など全く問題視されていないし、
歴史の流れの一場面でしかないと、テレビで言われていた。その通りだと思う。 >>179
せめて普通に死んでればいいのに
部下家族死なせてのうのう生きてるとか、まるで道に落ちてるウンコ >>173
その記事酷いよね
何の検証にもなっていなくて、自分の望む答えの方向に無理やり事実をねじ曲げている
異説を唱える人の典型 >>180
それが百戦錬磨の光秀にしては浅はかだから謎になってるんだ 百戦錬磨と言っても表立っての軍歴も政治歴も
信長とその政権との関係の中で培ったものだからな
その前提条件を崩した張本人になったら通用しなかった
と言う見込み違いはあったんだと思うな 見込み違いがあったにせよ、決行するにはリスクが大きすぎる
計算できるリスクを何故犯したか? 細川、筒井、高山、中川らが明智に付いたとしても微妙
羽柴、徳川らには狙われる
毛利も引き込んでおらず当てにはしていなかっただろう
そんな計算すら出来ん者が戦国切っての名だたる武将にはなれん
戦に調略は秀吉以上 魔が差した説が一番しっくりくる
ほぼ丸腰に近い信長信忠家康がすぐ近くにいたんだから 信長に反旗を翻した武将達
松永久秀、浅井長政、荒木村重、別所長治
荒木の経験から、毛利は絶対に動かない光秀にも力は貸さない
当然毛利に身を寄せる義昭も直ぐには動かない
動かすには時間がかかる
毛利は秀吉が兵を引けばそれで良しとするのは目にみえている
追撃もしないそれが毛利のやり方
秀吉と細川は繋がっていた
感謝状を送っている
細川が光秀に力を貸さなかったことなのか
それとも、貸すと見せかけて土壇場で裏切ったのか
謀反を先に知らせていたのか キーは秀吉と家康
毛利は領土を守れればそれで良しとすることは誰でもしっている
和睦し秀吉が引き返しても追撃はない
京を押さえたところで秀吉家康連合に挟撃される可能性もある 1579あたりならともかく
本能寺の頃の毛利は疲弊して継戦能力怪しかったそうだね 「言経卿記」にある本能寺の変の描写では、「明智が謀反し(本能寺へ)押し寄せたが、即時に
信長は討ち死にした、※△◆☆・・・・是非に及ばず」と記している。
フロイスの記録によると、「明智の兵は本能寺の戸に達して直に中に入った。同所では謀反を
嫌疑せず、抵抗するものもいなかった」と記している。
これらのことから考えると、明智が本能寺へ行くこと、入ることに誰も抵抗していない。
本城惣右衛門覚書では、「秀吉さまの援軍として向かっているとと思っていたが、それとは
逆の方向へ行けと命じられたので、徳川様を討つものだと思っていた。
本能寺の場所も知らなかったが本能寺に着くと門は簡単に開き、門番がいたが直ぐに殺した」とある。
家忠日記によると、信長は光秀とともに、また家康とともに秀吉の援軍として毛利討伐へ向かい
討伐後には、そのまま九州征伐へ向かうつもりであったともとられる記述がある。
そうすると、光秀は最初から信長のもとへ向かう手筈になっていたのではないか?
光秀だけが先に毛利討伐へ向かうとの命令ではなかったのではないかと思う。
太田牛一は所詮、秀吉のお抱え右筆でした。
なので、やはり光秀の下剋上、魔が差した本能寺の変であったと思うな。 羽柴軍3万
明智軍1万5千
これにもし
細川軍5〜6千(急遽なのでそれだけ集めることが出来たか)
高山、中川連合3千6百
筒井8千
互角かやや上回ると見たか
しかし、リスクは大きい
あっけなくやられることはなくとも長引くこと必至
長引けば >>192
それは誰でも知っている
魔が刺しては戦は出来ん 門番も殺したんだろうと言うふうに解釈出来るだけで
簡単だったとしか書いてない 単純に自分の存在の過大評価
織田政権というものの過小評価
義昭と信長を結びつけたキングメーカーの俺様
諸国は信長の武威で服してるだけでいなくなれば
田舎侍に過ぎない織田の武将たちは動けまい
と思ったら信長討った俺はただの謀反人
織田家の武将達はちゃんと部下をまとめて
ばっちり討ちに戻ってきたでござる >>172-173
こっちの意見のほうがうなずける
不思議でも何でもなかった、秀吉の「中国大返し」
https://news.yahoo.co.jp/articles/8031121986b9be4fbd728e468a2aec7b70c2262f
> 現状では、戦国史研究の第一人者のである先生方までもが、こうした点に疑問を呈し、
> 秀吉は光秀が謀叛することをあらかじめ知っていたのではないか、などと大まじめに論じている。
> しかし、秀吉の迅速な判断と行動は、筆者にいわせれば不思議でも何でもない。
> 秀吉が置かれた「現場」の状況を「作戦」という観点から分析すれば、むしろ当然の判断とすらいえる。
> どうも、研究室で史料や論文を読んでいる先生方は、戦場という現場で起きている事件を、
> 「軍事」という観点から理解することが苦手のようだ。 大返しの際の道々の補給は、そもそも信長の援軍を呼んでいたんだから、援軍のための補給体制は準備万端であったろうよ 別に信長軍用の食料でなくても、毛利と和睦しなければ兵糧は後方から運ぶはずだったんだから
大返し中にそれ食えばいいだけだからな
おにぎり何十トンとか言ってる先生は高松城を囲んでる羽柴軍は兵糧を現地調達してたとでも思ってるのか 明智十兵衛ハ室煕子トモニ妻木氏ノ出ナリ
齋藤山城守ノ臣トナリ、明智ト称スルモノナリ >>11
足利で足軽からだよ、足軽の前は朝倉のとこで細々と。
足軽が41歳のころ 43歳で比叡山だよ 55歳ぐらいが本能寺。
ぽっと出てポット散った。完全農民の秀吉とちょっと武士かもの光秀。
ほぼ同じようなオッサン新人起用で競わせた結果。 細川家記は古田織部も細川の家臣にしてるし信頼性はどうなんだろう 別スレで本能寺の真犯人は家康説が出てるけどどうなんだろう、その場合内通者が居る前提となるけどあり得そう。 俺はないと思うよ
信長は家康を殺す気は全くなかった
天正10年時点の話だけどね >>209
その割にその後の武田討伐がえらい手際が良かったからさ。家康が真犯人前提なら信長と一緒にいた有楽や何も動かなかった信包辺りは内通してたんじゃ無いかなと。本能寺は囮として使うならうってつけなんだよね。 天正壬午の乱のことだね
手際良くないよ、北条氏直にいったん押し込まれて
ギリギリの勝負だったと思っているけどな 徳川が強かったというより依田が頑張ったのと
北条が深入り恐れて手を引いた 武田討伐は手際よかったから
普通に時系列間違ったんかと思った 徳川が有楽や信包と結託して本能寺の変か
そりゃすごいな
天正壬午の乱は本もでてるから一度読んでみたらどうかな
イメージ変わるよ >>201
本能寺時点で信長の馬廻りの一団が備中に着いてる
家康饗応を引き継いだ堀秀政 なんでわざわざ遠方にいる堀に饗応役を替えたんだろうな? 堀は安土にいたから遠方ではないだろ
饗応役終えてから備中に 明智光秀とは?
ルイス・フロイス「光秀はとにかく裏切り・計略・策謀好き」(フロイス日本史より)。
主君を何度も代える。
皆殺しの比叡山焼き討ちで張り切り、信長から軍功を認められる。
義昭と信長を両天秤にかけ、利用価値の無くなった前主君をあっさり捨てる。
主君信長に織田家重臣佐久間信盛の謂れなき讒言をし、佐久間のその地位を奪う(寛政重修諸家譜より)。
八上城攻城の指揮をとり、勝敗は決しても城兵は皆殺しとにかく皆殺し。
自身の老齢が近づき、総決算として丸腰で泊まる信長をぶっ殺して全てをいただくことを思い立ち、とりあえず殺害してしまう。
しかし、人望がとにかく無く直属の兵にさえ離反される可能性があったため、安土の城にあった金銀財宝はとりあえず部下たちに譲る。
自分は隠居するから味方して欲しいと細川幽斎に頼むも、前述のような人柄のため全力で断られ、味方が出来ずぼっちの今後を思い悩み数日は安土城で寝込み逗留する。
気づけば、猿と馬鹿にしていた貧相な小男が高速で戻って織田信孝や摂津衆らと連合軍を形成しており、立ち向かうも自身の人望の無さゆえの士気の低さから惨敗。
とりあえず近場の城に立て籠もるも、味方も援軍も無いので、10数名ほどで城兵を見捨ててこっそり逃亡。
逃げる途中、今まで足蹴にしていたような郷士か農民に致命傷を負わされ、初めて死ぬ可能性に気がつく。
介錯の後、自分の首は知恩院に運ぶように伝えるも、人望がないため面倒くさがられ、埋めることすらせず手近な藪にそのまま置いていかれる。
すぐに発見され胴体とつなぎ合わせ京の粟田口に磔にされ、前述のような性格の持ち主のため、京都の民から罵声を浴びる。 堀秀政は信長の側近中の側近だから小身でも適当な扱いはできないよ
秀吉はきっちり準備して迎えたはず 光秀は武田信玄の兄弟だったという説も出てきてるな
武田家の仇を討つため謀反したんだと 何そのトンデモ説
天海説とどっこいだな
考えてみれば光秀ぐらい存在が確実なのに生年不詳、前半生不詳、正体不明の人間も珍しいな 明智は過大評価されてるのが、
なんともな?
どっちというと延暦寺や石山合戦に反対姿勢を
とっていたのは光秀じゃなくて
秀吉や家康だった訳で・・
光秀は織田政権の延暦寺や石山合戦を
支持していたしな!
秀吉家康は部落民やキリシタンに苛烈な所業を
行ったけど、延暦寺や石山合戦には
否定的だった。 麒麟がくるの光秀を、まさかまんま信じている人はいないとは思うけど、
戒和上昔今禄の中の光秀は、実像が見えてくるような口語体で光秀の言葉が書いてある。
みんな知ってると思うから内容は省くけど、これを読むと、光秀って結構なせっかちで
鼻高さんな性格だと解る。 麒麟は主人公だったから黒い部分を書けなかったんだろうね 家康と信長の心情的な関わりが今一つ解らない。
武田征伐後の安土までの帰還途中、家康は信じられないほど信長に尽くしている。
道は広げて石ころが無いよう、土が舞わないよう水を撒き、道端の木が信長一行に
当たらないよう整備し、信長が道中飽きないように町屋を間毎に置き、川を渡る際は兵の背中で川渡し、
岡崎城に立ち寄った信長一行を饗応するのは当然。とにかく上にも下にも置かない接遇なのだ。
その数年前には信康と築山殿を始末している。信長の命令ではないにしろ。
この関係性がなんだったのだろうと不思議。 長篠の時は「武田に寝返るぞ」と脅してみたり
二人の関係はかなり独特の深みがあるよな >>1
明智氏の謎
美濃国、源頼光流土岐氏
古代礪杵道作の領地、柘植、樫
斎藤氏(トキとも読む)
分家が富樫氏
加藤氏
斎藤氏の加藤景包、その子は明智頼方
遠山氏
加藤景廉の子孫、明知城を拠点とした
明智氏
妻木村の領主、定明が弟の定衡に殺害され息子の定政は逃亡
光秀の実父
可児市にある長山城ではなく恵那にある明知城の城主
明智光安(光廉)宗寂は遠山景行宗寂のち三宅長閑斎
その子、三宅弥平次こと明智左馬助
江州御動座在陣衆着到に明智兵庫助と左馬助兄弟が見える
つまり左馬助は弟の称号
光秀の父は光安で弟は秀満
斎藤道三利政が長良川で敗死すると長山城で光安が敗死したことになっているが実際は遠山景行は上村合戦で敗死している
その後、三宅長閑斎と名乗り、光秀、秀満兄弟と行動を共にした 同盟関係と説明させることが多いけど、当時ではノブとヤスは外様の主従関係だな、
江戸風でいえば譜代以下な譜代格かな
でも大領得たけど所詮三河の一豪族だしいつ飛んでもおかしくない緊張感 書札礼では織田一門扱いされてるとか言ってなかったか徳川 徳川嫌いの人は多くて、ずっと主従関係だった、みたいに強調するよね。力関係はあるからそういう側面はあったろうけども。
武田いなくなって東の盾となってた徳川を不要と思ったかどうか。北条がいるからすぐには不要とは思わなかっただろうけどなあ。 今一番日本で権威がある大門先生に逆らうとかありえんて だとすると、本能寺で信長が横死したと知った時、「腹切って上様のもとへ!」
みたいなこと言って本多だかに止められたというのは、あながちウソでもないかもね。美しい主従関係w 【ドラマ】日本史好きの4割が「明智光秀は生き延びたと思う」と回答 大河「麒麟がくる」で”生存説”匂わせ [muffin★]
http://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1613380164/ >>244
敗者に対する同情からの逃亡説とか、こっちのがおもろいのロマン説を否定はしないけど
よりによって、生きていたら荒木並みの胸糞の光秀生存説を信じさせちゃうとか
ファンタジードラマの罪は重い… >>246
光秀がもし生き残ってたら、妻子供一族郎党を犠牲に生き延びた糞野郎でしかないよな。
山崎の合戦で負けて逃げる途中で土民に殺されるより数百倍格好悪いよ。 変後に光秀に宛てたガラシャの手紙があったような記憶がある。
内容は、貴方様が起こしたことで私はこのような身の置き方をしなければならなくなった云々・・
恨みつらみが一杯だったように思うが、あの書状は実在するのかな? >>248
そんなの知らないなぁ( ´・ω・`)
ただ光秀が細川家に味方にならない事への恨み辛み泣き言や空手形を書き連ねた手紙なら残ってるけど。
あんな情けない手紙が後世に残るってのも何だけど、あれを読んで本気で味方につくと思ってたんかね→光秀 明智三羽烏で安田国継以外の古川九兵衛、箕浦大蔵丞の諱を知っている人いる?
どうしてもわからないんだけど >>249
画像としては見たことないから、本当はないのかも。
磯田先生が言ってたけど、その有名な光秀から細川家への書状は2通目で1通目があり、
文章からしてそれはそうだろうけど、1通目を残さずに、細川家が光秀の誘いを拒否して
いることの証として2通目だけを秀吉のために残したとのこと。それで秀吉から信頼を得たんだよね。
そこに本能寺の変の真実はあったのだろうと思うけど、2通目の光秀の言葉からして大した
理由はないんだろうな。 忠興に跡を譲るとかどうも捏造臭くてなあ
細川家の文書の信頼性もあるし 味方が増えないから相手の喜びそうな話を盛って手紙にした節はあるよね
足利に忠誠誓いそうな人には義昭の名前を出し
細川には忠興を取り立てたいと言いながら義昭の名前は出さない
藤田教授の言う通り足利義昭が光秀を使嗾したのなら
もっと大々的に呼びかけて政治的武器にしただろうな この細川宛の書状の花押が不自然だって立花京子が言ってたけど他に賛同してた研究者っていないよな 細川宛書状は明らかやり取りの最初じゃないから
公方への馳走云々の話はもう終わってんでしょ
それしかとして(あるいは批判して)動かないから
これは忠興や息子を取り立てるためにやったことで〜
国もたくさん付けちゃうよ〜ってなってる ところで、この覚書には注目すべき点がある。それは黒幕らしい人物が出てこないことだ
謀略論者の言うように、朝廷や足利将軍が光秀の背後にいたのなら、必ずそれらの名を
出して説得材料にしたはずだ。それがないのは、そうした事実がなかったからだろう 将軍上洛への協力を呼びかけてる例はある
それは事前に義昭に話が通ってたとか
義昭から命じられた、つまり黒幕であった
ということを必ずしも意味しない
自分が天下人だから従えというより
将軍の権威を用いての調略や政権運営を
考えていたとは言える
逆に朝廷や秀吉の名は出てこない訳で
その選択肢はなかったしまして黒幕とは・・・ 誰も黒幕なんて存在しないが、誰が黒幕であっても繋がってしまうような
裏の人間関係が存在するってことでしょう。
誰に殺されても可笑しくないような。 黒幕より気になるのは光秀はどうやって変後に秀吉勝家家康に勝とうとしててんだろ、という点だなあ。
この三人は各個撃破出来るほど甘くないのは光秀自身が一番わかってたはず。
山城の国と琵琶湖を押えてまずは朝廷と勝家へ対策を始めたのはわかるけど、堺に滞在中だった家康は
取り逃がしてるし、摂津衆はじめ大坂以西の勢力への対策を後回しにした結果、秀吉に大敗したし。 信長親子を葬ったら次は出たとこ勝負だったんだろう
何しろそこでさえやって見ないと分からない
山岡に瀬田橋を焼かれたのは痛かったが
あそこで数日遅れなくともどこまで行けたかね
摂津へ直に出向いたところで中川高山は協力しなかったのでは 本当に
秀吉のように大義名分がないので、
どうやって勝つなり、治めるなりをしようとしたのか
細川、筒井、中川、高山を集めても恐怖政治出来るほどの軍事力もない NHKでやってたが、本能寺の変は割とあっさりと終わっている、信長はそれほど戦ってもいないのが現実とのこと。それは理解できるが、あっさりと信長を殺してなぜその首を確保できなかったのかが、最大の謎。それも信忠も含めて。
信長の首をあげていたら、武将たちも光秀に従う者も少なくはなかっただろうね。 >>269
謎はないだろう
死体は見つけただろうがそれが信長だと確信が持てる状態ではなかっただけで
戦場で討つかせめて宴席で仕留めるかしてたら装束だけでも誰かわかる見込みがあるけど
寝巻きを着て焼けてしまっては誰が誰だかわからない
顔が判別できなくても、デブとか巨漢とか六本指とか金玉がでかいとか目立った身体的特徴があればいいけど
信長は身体的には特に目立ったところはないようだし 燭台と蝋燭が常備されているから
簡単に油撒いて放火できたのがポイントかと思ってる 大寧寺の変では義隆は自害したあと首は晒されたんかな
自害した後火を放つって他にあまり例を聞かない気がする 首があったらみんな従ったって
たまにいう人いるけど
そんなことあるか?
>>268
実際そうとしか言いようないと思うよ
直臣にも直前に明かしたくらい
出たとこ勝負に出て見通しが甘くて敗れ去った 歴史読本だかで読んだことあるけど、本能寺は寺であって鉄砲や爆薬庫の役割もあったため、火を付ければ一瞬にして燃えてしまったはずだとのこと。
信長は遺骸どころか、喉ぼとけの一つも残さずに消えてしまったのではないかな。
首級がなければ、後々信長が生きて出て来たときのことを考えるとガクブルでしょ? >>273
それはそう
首が晒せれば天下の人が態度を変えるか? いやいや別に織田家中の面々は信長生きてる!
と思って明智を討った訳じゃないだろ 光秀には信長親子を討つチャンスがあったと言うだけで
荒木や松永の謀反とそう変わりないということやね >>276
信長の首があって、光秀に力があれば従うし
力がないと思えば主君の仇という大義名分があるから打ち取るでしょうね。
ただ、ここの話しは、変後の光秀からの細川氏への誘いの手紙に
細川氏が拒否したことからの流れだから、信長の首もないのに
光秀には降らないのでは?という話しからだと思ったからこうなったのだけどね。 細川も別に信長が生きてると思って
光秀に降らなかった訳ではないのでは?
首があったら降ったという理屈がよくわからん 首があると無いではえらく違うと思うよ。
戦では首実験し、誰の首を取ったのか、それは恩賞にもなる。晒すのもアピールのためでしょ?
首を取って初めて敵を倒したという証になると、歴史で習ったけど違うんかいな? まぁ信長の首でもあったら殺したことの証明にはなるけど、それによって細川が態度を変えるとは思えんよな。
仮に首を晒せたところでその数日後には秀吉の軍勢が迫ってきてたわけだし。
で、結局、本能寺跡で晒されたのは信長でなく光秀の首だったのいうのがなんとも。 この場合、信長親子を梟首できれば山岡・蒲生・筒井・細川・中川・高山らが光秀に従ったかどうかだよね
首を取れば謀反人の光秀でも道義上のビハインドを払拭できるのか
ドラクエの勇者のナントカみたいな機械的なもんじゃないと思うんだが >>284
信長の首を晒していればその辺りの連中がこぞって日和見の中立になった可能性はあるかな
秀吉の主力は疲労困憊で山崎の主力は摂津勢だという話もあるし
明智が秀吉を破れば勝ち馬に乗ろうと後から明智についたかもしれん >>281
摂津衆の旗頭は池田だし近江衆は信長の直臣だぞ
それはあまりにも簡単に考えすぎてるよ 今川義元が首取られて今川領国だった三河遠江で
国衆が信長に通じて織田領になったか
というと家康さえ最初は違ったからなあ
岡部元信の行動見ると名誉のために
非常に大事な問題だったのはわかるが
そこまで絶大な効果が見込めるなら
返しもせんかったろう それは元から敵味方に別れていたから状況が違う気がする
とはいえ鍋島に首受け取り拒否られた龍造寺隆信… いくら戦国時代とは言っても、敵の武将の首ならともかく仮にも自分の主人だった人物を騙し討ちにしただけでなく
首を晒すって、あの松永秀久ですらしないようなドン引きな行為だと思うけど、本気で信長に取って変わろうとする
ならそれくらいする覚悟でないと駄目な気がする。というか、無かったから駄目だった訳だけどさ。 信長の首はどうせ黒焦げなんだから黒焦げの適当な首を選んで、梟首すれば良かったんだよ
首を晒すことは信長が死んだってことの宣伝だから
ただ梟首は罪人って意味合いもあるから、御恩も忘れていませんって意味合いで、
豪華な祭壇に首を綺麗に飾り付けして誤魔化しておけばいい そんな豪華な祭壇造り始める前に秀吉が光秀ぶっ殺しに来るよ( ´・ω・`)
そういや光秀と秀吉の関係ってどんなのだったのかね。秀吉が勝家と反りが会わなかったのは有名だけど。 光秀と秀吉は信長の方針で西国制圧では何かにつけて競わされていた
個人的な心証は分からないけど、立場としてはライバル 秀吉と光秀が実際にどうであったかは知らないが、信長は家臣団の取り立てについての
不平不満や家臣団の心情などなど、意外と思い悩んでいたと読んだことがある。
織田家家臣団は譜代から新参者が入れ混じっていたから、グループ的には秀吉と光秀は
関係性は悪くはなかったのではと思う。 譜代<−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−>新参
佐久間・林・平手・中川 柴田・丹羽・坂井・原田 滝川 羽柴 明智 荒木
結局、新参の荒木・明智が順番に背き、羽柴が主家の地位を奪ったという信長の能力主義が招いた悲劇 >>288
本能寺だって織田家は最初から味方でそれに
明智が敵対したってだけじゃん >>293-294
うーん、ライバルなのはわかってるんけどねー。特に秀吉はお喋りで様々な人物に対して論評したのが伝わってるのに
光秀について語ったのは自分は読んだことないもんで。誰か知らない? >>65
現代でも祝いの席で食べられてる近江の名物をなんで近江の安土城で家康に光秀が出すのがおかしいの? NHK大河で光秀イメージ好転 「裏切り者」の回答減る
https://news.yahoo.co.jp/articles/57ae1e07f43a437332e294fffb3161a2bc70b6a2
>大河効果でイメージ好転の兆し―。
>京都府福知山市は1日、本能寺の変で主君織田信長を討った明智光秀のイメージについてインターネット調査結果を発表。
>NHK大河ドラマ「麒麟がくる」(2月終了)の放送開始前に比べ、「裏切り者」という回答が減り「良君」とする人が増えた。
いや、作り物のドラマを真に受けるなよ… >>300
名君の描写なんか大河ドラマで一年間に一分でもあったかよ。素人はいい加減だな
そもそも福知山なんか番組終わりの紀行で一回くらい出ただけで、ドラマでは一切出てないだろ? もう、明智光秀の生存説を信じる者が出始めてるくらいだからな ほとんどの人はイメージで他人を評価するってことだろ
実際の事績を調べて考察するような面倒なことはしない
管直人だって数十年後に美形俳優主演で、原発事故に献身的に対応した最後の国民目線の政治家みたいなドラマを作られたらそのイメージで固定されるだろう 光秀が大河になったから石田三成も、という人をたまに見かけるがこの2人そんなに共通点あるかな 石田三成は主人裏切って殺すなんて非道な事はしてないから案外大河向きかも。ただキャラ弱いから島左近とセットで。
あ、それだと関ヶ原になってしまうか… 主人生前から君命とまるで違う外交展開しておいて
イエスマン装って政敵の追い落としに走ってるだけで
主人を殺してはいないから? あでも豊臣政権下の権力闘争や
唐入りを丁寧にやるドラマはちょっと見たい
ここで言うことじゃないけどw このスレ、信忠スレのやべーやつに次の移住先として狙われてるな… どちらかと言うと彼は嫌がってるけど
武田内通説とか折檻説とか本能寺の詳細を
連投するからこっち行けって言われてる 本能寺の詳細ならともかく武田内通とか折檻説とかなら仮想戦記スレじゃ? >>313
なに言ってやがる
先入観なくして史料読み込んだ上での仮説提唱だ
現状では折檻は間違いなくあったと思っている
同時代史料ほどそこに触れているのは信忠スレで何度も史料を示してきた
武田内通説(この場合、細川家記の斎藤利宗発言)については、私だって内心は疑問です
ただ、乙夜の再発見前から利宗の重要性に着目していたし、利宗は細川家に預けられていた人物ですよ
乙夜の記述をおおむね信用できるとするなら、細川家記の利宗発言だって再検証してはどうですか?と提案しているんです では、本能寺襲撃に限った史料比較
取り扱うのは同時代史料ないじは準同時代史料で、簡素な現代訳語します
まずはもっとも成立が早い惟任退治記(天正10年10月)、光秀は2万余騎で本能寺を襲撃
将軍(信長)はこのこと(謀反)を夢にも思っていなかった。前夜は宵近くまで信忠と親しく語り合い、愛妾と過ごした(中略)光秀は進軍途中、明智弥平次光遠、同庄兵衛、同次右衛門、同孫十郎、斎藤利三以下、諸卒を四方に分け、御所(本能寺)を夜明け前に取り巻いた。壁を引き壊し木戸、門を破り、一斉に侵入した。信長の運は尽きた、天下静謐なので用心していなかった(中略)たまたまお供していたものも洛中に散らばり遊興していた。身の回りには小姓100人弱しかおらず、信長は夜討ちに際し、森蘭丸を呼んで問うと、蘭丸は惟任の謀反だと言った。
恩を仇で返すのか、生者必滅もこれまた常道、いまさら驚かんと、弓をとって広縁に出て、5,6人を撃ち倒したあと、十文字の鎌(鑓)で何人か倒して門外に追い散らした。
だが、数カ所に傷を負い、蘭丸はじめとしたお側を片時も離れぬ小姓が名乗りを上げて枕を並べて討ち死に。中尾源太郎以下70、80人もいったんは防いだが衆寡敵せず果てた。信長は愛妾をことごとく指し殺し、自らの手で御殿に火をかけて切腹した。 大村由己は秀吉の祐筆で命令で
伝記や新作能をほぼリアルタイムで
書きおろした人物
つまり基本的にその著作は政権の
その時点での公式見解と観ていい 6月1日夜、明智光秀が亀山城を出陣。
「六月一日夜に入り、丹波国亀山にて明智光秀が逆心を企て、明智左馬助(秀満)・明智次右衛門・
藤田伝五・斎藤内蔵佐(利三)らと話し合い、"信長を討ち果し天下の主となろう"と策略を企てた。
(【当代記】では溝尾庄兵衛も加わっている)」
「亀山から中国方面へは三草山越えをするところ引き返し、東向きに馬首を並べ、老の山へ上り
山崎から摂津の地へ向かうと兵に告げ、話し合った者達に先手を命じた。
六月一日夜に入り、老の山へ上り、右へ行く道は山崎の天神馬場、摂津街道である。左へ下れば
京へ出る道である。ここを左へ下り、桂川を越え、しだいに夜が明けてきた。」【信長公記】 (この時の様子を明智軍の兵士が記録している)
「信長様に腹を切らせるとは夢にも思いませんでした。ちょうどその時、太閤様が備中に毛利輝元殿を
討つために攻め入っていました。そこへ、援軍として明智が向かうよう命令がありました。 山崎の方へ行くと
思っていたのに、思いのほか、京都へと命じられました。 私は、ちょうどその時、家康様が上洛されていたので、
家康様とばかり思いました。 本能寺という所も知りませんでした。」【本城惣右衛門覚書】 「左馬助様(明智秀満)先手にて、信長様御宿本能寺へ取り懸けられ、門が開かないので、左馬助様より
仰せられたことは、"城之介様(信忠)が謀反により光秀がお味方に参り申した、早々に門を開かれるように"
と伝えると、御門番の衆は驚き、ひとまず門を開いたので、そのまま押し入り…」
【吉浦郷右衛門覚書 明智一族 三宅家の史料】※明智秀満の子、三宅重利の子孫による覚書(江戸中期成立) >>321
惟任退治記見返すと、女房衆を逃した描写がないんですよね
それどころか(詳しい描写は省いたけど)愛妾と遊びふけって、あまつさえ最後は殺している
これは信長を崇めつつ、暴君という印象をつけようとした秀吉の意向と想像してます
信長公記と乙夜では(愛妾ではないが)女房衆は逃しているし、夜遅くまで囲碁を観戦したなんて記録はありますが、愛妾の部分は信用できないと思います >>324
この史料はしりませんでした
しかし、中国方面に向かう明智勢が予告なく現れ、しかも近くにいて手勢も少ない信忠の謀叛を信じるものかは疑問
光秀はどこで信忠の謀叛を知ったんだ?という疑問も浮かぶでしょうし
乙夜之書物では、「下郎」(中間)が朝、門前の水撒きのために門を開けた
そこに軍勢がいてびっくり
慌てて門を閉めようとしたが付け込まれた、という展開です >>325
>これは信長を崇めつつ、暴君という印象をつけようとした秀吉の意向と想像してます
本能寺後の安土の炎上を秦の阿房宮にたとえているのもそれの一環だろうな、
信長=始皇帝的な。
更に言うなら明智を楚にして秀吉自身はそれを討った存在=劉邦のような印象を読んだ人に抱かせることを考えているかもしれない。
参照ttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920348/175 >>324
「信長が信忠の謀反を疑った」という説
(というか創作)はその辺がネタもとなんかね 三河物語
ttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992777/108 史料比較第二弾、信長公記から
そんなところに思わぬ事態が起きた。6月1日の夜に光秀は亀山で、明智左馬之助、次右衛門、藤田伝五、斎藤利三と談合し、信長を討って天下人になろうと調議した。(中略、桂川を越えるとようやく明け方になった)すぐに本能寺を取り巻き、四方より乱れいった。信長も小姓も下々が喧嘩を始めたと思ったが、そんな様子はなく、鬨の声があがって鉄砲が撃ち込まれた。
信長が「これは謀反か、誰の仕業だ」ろ問うと、森乱は「明智軍と思われます」。これを聞いた信長は「是非に及ばず」。すぐに敵が御殿に侵入し、面御堂の番衆も御殿に集まり一手になった。馬屋からは矢代らが打って出て討ち死に。このほか中間衆24人が討ち死にした。
御殿では森乱ら27人が戦死した。小姓らは斬りかかって死んだ。湯浅、小倉は分宿していたが、敵に混じって寺に駆け込み戦死した。台所口では高橋虎松がしばらく支え、比類ない働きだった。
信長は最初、弓を2、3回射たが、天運が尽きてつるが切れ、その後は鑓で戦った。肘に鑓で傷を負って引きのき、これまでそばにいた女房衆に「女は苦しからず、急いで逃げろ」と声をかけて追い出し、すぐに御殿に火を放った。遺体を敵に見せまいと思ったのか、殿中深くに入り込み、内から納戸の扉を締め、一思いに切腹した 信長公記のほかの記述と違い、きわめて淡々と事実を並べています
だいたい、ほかの合戦では「敵味方火花を散らし」などといった定型の形容があるんですが、本能寺襲撃ではなし
せいぜい高橋虎松の比類なき働きくらい
太田牛一は実地に体験していないと思われますので、伝聞と女房衆への取材成果を脚色なく記したと推察されます
また、女房衆を逃したという記述の初見でしょうか?
乙夜の記載(恒川斎仁が女房衆の生き残りから話を聞いた)を考える上で極めて重要であろうと考えます
ただし、ここらはのちに触れようと思うのですが、恒川が女房衆に話を聞く前に、太田牛一は女房衆(同一人物かも?違うかも)に取材しているのは確実でしょう 「明智は天明前に三千の兵をもって同寺を完全に包囲してしまった。ところでこの事件は市(街)の人々の意表を
ついたことだったので、ほとんどの人には、それはたまたま起こったなんらかの騒動くらいにしか思われず、事実、
当初はそのように言い触らされていた。
我らの教会は、信長の場所からわずか一町を隔てただけのところにあったので、数名のキリシタンはこちらに来て、
折から早朝のミサの仕度をしていた司祭(カリオン)に、御殿の前で騒ぎが起こっているから、しばらく待つようにと言った。
そしてそのような場所であえて争うからには、重大な事件であるかもしれないと報じた。まもなく銃声が響き、
火が我らの修道院から望まれた。」【フロイス日本史】 >>335
ちょうどいま、そこ読み返していたんですが、3000で本能寺を囲んだというのが乙夜の2000余騎に近似しているんですよね
フロイス自体は事件当時は九州にいても、南蛮寺は本能寺至近
あと、あなたがお示しになられた吉浦郷右衛門覚書、原文の一部?を読めるサイトがあったので目を通しました
きわめて興味深い
一部を除いて史実とされるものに整合するし、左馬之助が安土から坂本へ移る描写は、とても乙夜に似ています
また、別のサイトでは、史料中に見える大文字屋が当時あったか検証したものがありました
私も手元の信長公記で確認しましたが、永禄12年に上京の大文字屋が初花を徴発されてます
細かいところはともかく信憑性はありそうですね それなかなかの力作よね
たまに観る
>>332
三河物語からだったのか!ありがと
前読んだ筈だが忘れてる・・・ 今回は乙夜之書物から、前後に分かれている本能寺襲撃シーンをつなげて記します
一つ、明智弥平次、斉藤内蔵助は2000余騎にて本能寺に押し寄せると、早くも夜はほのぼのと明けた。水撒きの下郎(中間)が水桶を担いで外に出ると、敵が押し寄せている陣を見た。寺内に入って門を閉めようとすると「あの門を閉めさせるな」と押し詰め、門を打ち破って乱入した。
当番の衆が「これは何事だ」と慌てて出てくると、すでに敵は門内に押し込んぢた。おのおの鑓を持って縁側の上下で攻め合い、信長公は白い帷子姿で髪を乱して出てきて、弓にて座の敵を射た。弓の弦が切れたようで、弓は投げ捨て、十文字の鑓を持って攻め合った。そんなとこりに傷を負ったようで、白い帷子に血がついていたように見えた。鑓を捨てて奥に入ると、ほどなく奥の方から焼け崩れた。
一つ、番衆も随分働いたが、思いもよらぬことだったのでいずれも素肌でわずかの人数だった。敵は具足兜に弓鑓鉄砲を備え(以下は朝日新聞写真が途切れて不明)
ここまでが前半パート。番衆以下の部分はわかりませんが、その前の部分は明智方(というより斉藤利宗)の見た本能寺襲撃と明確に読めます。水撒きが出てきてから戦が起こり、信長が縁側の上から弓や鑓で戦い、けがを負ったようで白い帷子に地が染まり、奥に入ったら時間をさほど置かずに出火した経緯を明智方から目撃しています。乙夜のすごいのは次の、別部分に記された描写です こちらのパートは本能寺内部から見た描写です
信長公は傷を負ったようで、明け方になって居間へ帰った。台所の方から焼亡したようで、煙がやってきた。信長公はどのように思ったのか、畳をあげて四方に立て掛けた。女房衆が4、5人(近くに)いたが、「いずれも出ろ出ろ」と声を掛けたので逃げでた。女房衆だったからか、敵も構わずに逃げることができた。
右の女房衆のうち、長生きしたものから聞いたと恒川斎仁が語った。
信長の(ほぼ)最後を見た人の証言がソースつきで残っている超重要史料です!恒川斎仁という人物については別スレ(信忠スレ)で詳述したのですが、身元の確かな人物です。こちらでものちに記そうと思いますが。
まず、惟任退治記と比較すると、十文字の鑓が共通(惟任退治記の原文では鎌で、後世の編者が鑓か?と付記)。ただし、付記はあくまで後世なので、乙夜が惟任退治記を参考にした可能性は考えられますが、やはり斎藤利宗からの情報と考えたいところ。信長公記では単純に鑓としており、肘に傷を負ったというのが惟任退治記、乙夜よりも詳しい点。
信長公記と乙夜の共通点は、女房衆に逃げろといっているところです。細かい文言は違いますが。こちらも乙夜が信長公記を参照した可能性はありますが、生き残りから恒川が直接話を聞き、それを乙夜著者の関屋政春に話している部分が目新しい 信長公記の情報元がだれなのかは謎ですが、逃げ落ちた女房衆とも容易に想像できます
少なくとも4、5人落ち延びた誰かから事件から遠くない時期に聞いたのでしょう
恒川は、長生きしたと特記している女房衆から聞いているので、同一人物か別人かは定かでないですが、太田牛一よりかなり遅れて聞いたのは間違いない
しかし、一つ言えるのは両史料ともかなり信憑性が高いといえそうだということです
また、内容も酷似しています
そこも信用がおけそうなポイント(信長公記から丸パクリしたとは思えない記述があるので) とともに、惟任退治記とも大筋は同一である(愛妾と遊びふけって、ついでに殺したという部分以外)
いままでも陰謀論者以外はおおむね、信長が弓、鑓で戦った、けがをして奥に引きのいて火をかけた、という展開は信じられてきたと思います
そこにソースが(名前なし、間接とはいえ)示されたことが乙夜の画期ではないでしょうか
細かい話でいえば、信長が畳をあげて四方を囲ったところ
前後、原文では「信長公いかが思召たるか、たたみあげて四方に立かけたまう」
女房衆はその意味を理解していないんですが、なぜそんなことをしたのか
祖父物語では、森乱が信長の遺骸に畳5、6帖をかぶせたという記載があります
森乱の証言が残るはずもなく、これは畳を四方に囲ったのを見た女房衆の話から類推して逸話が残ったと考えたいのですが、どうでしょうか 槍(やり)と槍疵
薙刀(なぎなた)と弾創
尊経閣本では「その後、御長刀(なぎなた)取らせられ候ところに、御肘に鉄砲あたり、引き退き候」 畳が現在のような寸法になったのは織田信長が敵の鉄砲や槍から身を守る糧として使用する為、
人間の大きさに合わせたと言われている >>343
これは有益な情報
ありがとう
最近は天理本に注目が集まったり、信長公記研究も進んでおり、いろいろ楽しいですね >>343
乙夜から推察するに、退治記も信長公記も信長の戦闘描写は明智方の証言に取材したと考えたい
本能寺で明智方に降った人は弥助くらいしか明示されていない
ただ、中間あたりは降伏して証言した人がいたのかもしれないが、どうだろうか
信長の最後の描写は女房衆証言プラス想像(ソース明記の乙夜は畳をなぜだか理解できなかったが四方に立て掛けたところまで。利宗も火が上がったとしか書いていない)といったところか
乙夜の再発見により、かなり信長の最後は詳らかになってきた
もっと正確に言うと、これまでおおむねそうだと考えられていた記述にかなり、信憑性がもたらされたというべきか
さらにほかの史料も挙げて解明していきたい >>343
あと付言
乙夜証言(斎藤利宗と思われる)では、目撃談に「○○と見えて」とある
私は「のようで」と訳したが、つまり利宗は忙しい戦闘の渦中で一部始終をきちんと見られたわけではない
だが、そういう断言していない叙述姿勢に信頼がわくのです 何でその程度の根拠で信憑性がもたらされたなんてなるんだ?
単に元史料参考に創作していったとも取れるし。 >>348
恒川斎仁について語る必要がありそうですね
そう、乙夜作者の関屋政春に、信長の女房衆から聞いた話を伝えた人物であり加賀藩士です
恒川という一族は尾張津島の有力者で、さらに前田家の荒子七人衆
の一人、山森久次という人物がのちに恒川姓を名乗ります
恒川というのが信長、利家に極めて近い氏族と分かります
で、恒川斎仁なんですが、史料に痕跡が残っています
大日本史料所載の加賀藩歴譜という史料です
この中で、前田利長が本能寺の際、上洛途中で瀬田橋にいた
そこで変の一報を受けて荒子に嫁を避難させるのですが、こんな記述がある
「恒川斎仁筆記云、奥村次右衛門、恒川久次(荒子七人衆の山森久次ですね、中略)急ぎ内所の供をし、荒子へ」
恒川斎仁は、主に恒川氏の顕彰のためかもしれませんが、歴史を調べて筆記を残しているんです(これは憶測ですが、信長女房衆であれば信頼できる人間を置く、つまり取材相手は恒川まわりか津島、荒子出の人間ではないか?)
また、恒川の兄か弟か分かりませんが、斎仁とともに二人、利長の御伽衆だったという記録もあります
これでも信憑性薄いと言えますか?
史実を探求していた人が信長女房衆にそのほぼ最後を聞き、又聞きではあるが関屋政春がその証言を残した
信長の最後に関し、いまのところ情報源を記した唯一の史料といってよいわけですよ
私は朝日新聞のホームページに載った乙夜之書物の写真しか読めていないので断言はできませんが、とても信用できると思うんですよ
信用してよいと思う傍証がほかの史料からも出てきますから
逆に、信用できないといえる部分を教えてほしい(といっても、乙夜の記述の全部が正しいなんて言う気はさらさらありませんが) ふと、尊経閣文庫は前田家の文庫ですね
太田牛一の古態を残す信長公記抜粋を所持していたり
尊経閣文庫の15巻がどんな形態か無知ゆえ知らぬのですが、鉄砲傷というのは加筆の可能性は?
太田牛一よりも詳しい情報を知っていたからとか
ここまでいくと誇大妄想ですが
いずれにせよ、前田家は信長への執着がすごいんです
利家の各種夜話読んでもそうです加賀藩歴譜(本藩御譜)自体は幕末の成立ですが、そこで恒川斎仁の筆記が採用されている
これ、いまに残ってたらすごい史料の可能性ありますよ
なにしろ関屋の乙夜は又聞き(これでも十分すごい!)ですけど、もっと詳細に書かれているかもしれない
また、脚色せずに「女房衆は意味が分からなかったが、信長公は畳で四方を囲った」という情報を関屋に伝えたのは、史実に対して誠実であろうとした姿勢も感じられますし(そのまま記した関屋にもいえます) 元史料から創作した
そもそもこういう意見が出ると思って、成立時期の早いものから順に検証してるんです
もっとも成立が早いのは惟任退治記
次は信長公記でしょう
それぞれ違いがあります
世間に広がった範囲でいえばどっこいどっこいです
乙夜は江戸初期のあと、といった成立で、関屋はおそらく両書を読んでいる
パクって創作するなら、信長公記に記された「是非に及ばず」なんてキャッチーなセリフを使うでしょう?
乙夜の構造として、攻め込む側、攻め込まれた側が、それぞれ知り得る範囲のことが記されている
家中秘伝の軍学書であるから、誠実に聞いたところを記している
そう思えませんか? パクって創作という作為的な行為ばかりでなく
著述にあたって先行する書物を参考にすると言う
しごく当たり前で誠実な態度もあるよね
本を書くなら独自ソースがあっても
先行書物も当たるし独自ソースで足りない部分は
それで(意識的、無意識的どちらにせよ)補うことになる
殊更に乙夜の信用性に疑問を挟む気はないけど
信用できるできないというのは文書単位より
記述単位で考える方が適切ではある
一般論として むしろ何でその程度の人間関係で信用できると思えるんだ?
判断基準が違い過ぎて妄想乙としか思えないが、これは私が疑り深いだけだろうか >>351
>家中秘伝の軍学書であるから、誠実に聞いたところを記している
>そう思えませんか?
全く思わないなー、そんな理屈が通るなら軍記物の大半が信用出来るってことになる。
そもそも誠実に聞いたところで話してくれた人が誠実かどうか記憶が正しいかって問題もあるし。 畳部分はそれなりに検証しても面白いと思った。
畳の記述は惟任退治記信長公記など乙夜之書物が書かれたとされる時期
その当時において知られているような軍記物に記述は無い。
祖父物語の畳を被せたとした記述部分
ttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920348
・祖父物語を乙夜之書物の作者が参考に出来るほど当時知られていたか
当時祖父物語が知られていないなら、
それ以前に出た軍記物にはない記載が全く別系統の記録にそれぞれあるってことになり、
その部分に限定すれば信憑性が出てくる。
・祖父物語だと、光秀が死体が見つからないと慌てた所、
利三が落ち着かせようと森が信長の死骸の上に畳を、なので利三がハッタリかました可能性
これだと話自体が嘘ということになる。
その場合だと、乙夜之書物の作者がどのように畳の記述を思いついたかだが、
利宗(か誰か)が利三の嘘を真に受けていただと、本能寺内の記述は当てにならなくても
それ以外の記述は本当に利宗とはいかなくても明智関係者から聞いた可能性が出てくる。
・あと一応可能性は更にないと思うが、
江戸時代初期辺りの軍記物や社会通念などで籠城や屋敷攻められて死ぬとき
畳を使う例があるようなら、祖父物語乙夜之書物ともに独自に畳の記述を考えたという偶然論もあるか。 足利義輝の畳に押し包まれて討ち取られたも近い時代の史料にはないんだよな 信長公記惟任退治記以外だと
当時有名な軍記物はこの辺りだろうか。
甫庵信長記初めて読んだw
ttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2544605/32
川角太閤記
ttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/899814/12
もっと後の明智軍記は祖父物語を参考にはしていないようだ
ttps://www2.dhii.jp/nijl/kanzo/iiif/200005236/images/200005236_0009_00024.jpg
>>357
そういえば義輝で畳使うってありましたね、
だったら上で挙げた戦死時に畳の記述が使われるからたまたまって可能性も切り捨てては駄目ですね。 いざ探すとなかなかソースとして適当なものが
見つからないのだけど武術の世界では
防御手段として畳を立てると言う話は稀に聞く
畳返しと言ってしまうと途端に怪しくなるが
大真面目にやってた人もいる
http://www.taikyokuken.co.jp/goshin/story8.html >>352
noteの方は私も参考にしています
私より史料を読む力は深いので
もう片方ははなはだ疑問です
太田牛一「信長公記」成立考 でPDF検索してほしいです
とても古い論文ですが、慶長3年が下限という結論です
九州にいるフロイス、なんて関係ないほど時期が離れています
それとは別に、宇野主水日記で太田牛一が顕如に三木合戦あたりの読み聞かせしてた記述があったんですが、何年かは忘れました
ただ、少なくとも天正10年中ではない(こんど確認しますが)
私は、やはり大事件なのでその場にいた人の話がすぐ広がったと考えてます
祖父物語なんかに残滓がある
それとは別に、改めて恒川が老後の女房衆に取材して、関屋に伝わったと思うんです >>353
私もあなたの論に賛成なんですよ
たとえば乙夜に山崎の戦いの描写がありますが、すごく通俗的なんですよ(次男坊が行方不明だからサヨナラって利三が戦線離脱したり)
ただ、私は鳥羽に光秀が控えていたという描写や戦闘の一部始終、信長の最後については信用してもいいかな、と >>356
祖父物語はとくに後半の秀吉がでてくる前後から荒唐無稽(信長がお付き1人で諸国漫遊したり、秀吉に小便かけたり)なんですが、話し手が清須の古老だけあって、流布されていた噂をきっちり収載している雰囲気があるんですよね
これは推測ですが、尾張へ逃げ落ちた女房衆の話が清須で流布していたと思うんです
身の回りの世話をする女房衆は尾張、美濃、広げても近江出身である可能性が高い
玉石混交の噂の中で、上様は最後、なぜだか分からないけど畳で四方を囲んでいた、という証言もあったという読みです
祖父物語は噂集と捉え、前後の一貫性にはあまり注目する必要がないかなあと
ただ、関わりがなさそうな史料同士で類似の点があるので、そこの部分については両書が補完して信憑性考えてもいいかな、と >>359
あくまで女房衆なのですが、乙夜の原文掲げると「信長公いかが思召たるか」とある
女房衆は畳をあげる意味がわかっていなかった
明確な防御の動きではなかったと読みたいところなんです
信長は居間に帰って、ほどなく台所の方から煙がやってきた
それに続く記述が上記です
死を覚悟した信長が遺体を隠すかより焼けるためにした行動と個人的には思うんですが、異論も多いかと思います
女房衆も歴史家である恒川も、軍学者の関屋もはっきりとは目的が分からなかったと思います 何故かPCで書き込めないスマホで書き込むの厳しい
>>362
流布しているなら他の史料に一切話がないのはおかしい
流布しているなら乙夜も噂聞いて創作したという可能性も考えられる >>364
天下にあまねく流布、とは言いません
尾張出身の女房衆が逃げ帰って狭い範囲で流布、という可能性もあるわけです
乙夜は創作する必要がないし(公刊する書物ではなく、関屋なりの軍学の秘伝書)、恒川という人をおいていますがソースが明示されている
恒川という一族は津島、荒子以来の家臣で、その周辺の筆記を残しているのが斎仁
女房衆に話を聞く動機も手段、地縁もいかにもある人物です
秘密の暴露じゃないですが、尾張つながりの乙夜、祖父物語にほぼ同じような記述がある
ここを重視したいんですよ
まあ、場合によっては乙夜、祖父物語のどっちも同じ女房がペラペラ吹聴した可能性もありますが あと、当時の本能寺に関して必見の論文を紹介します
中世本能寺の寺地と立地について−成立から本能寺の変まで−
これで検索すると立命館大学のPDFで読めます
2008年なので発掘成果などは反映されていませんが、立地や位置づけ、信長の政権構想にまで肉迫しています
真ん中付近からの信長絡みだけ読んでも十分 明智光秀が何時に亀山城を出たかいろいろ説があるが、
光秀が亀山城を出た時には信忠はまだ本能寺に滞在していた
(夜が更けたので信忠は暇乞いをして、妙覚寺の宿へ帰った)
明智軍が本能寺を襲撃して、その後二条新御所へ移動したのは
信長殺害が最優先事項だったか、信忠が妙覚寺に帰った情報が
後から入ってきたかではないかと個人的に思う
いずれにせよ、光秀がどうやって情報収集したのか個人的には気になるところ
光秀が京に(幾つか)屋敷を構えていてそこから情報収集したって説もあるけど
外からの情報だけで本能寺を襲撃するリスクを負えたのか甚だ疑問 武功夜話がそうとは言わないが非公開とされていたとしても創作する理由などいくらでもあるだろ 武功夜話みたいにって意味
スマホじゃ無理だまともな文章書けない、もうやめる >>368
理由も動機もあるにはあるでしょう
ただ、それ以上にいろいろつながるわけですよ
一次史料だって事実誤認や誇張、ウソが混じっている
他史料やさまざまな情報を鑑みて史実か否かを探っていくわけですよ
乙夜については、まず公開前提の史料ではない(萩原先生も信憑性を担保する重要な証拠に挙げている)
情報元が明記されている(斎藤利宗、井上清左衛門、恒川、女房衆などなど)
目撃者でなければ知り得ない情報が含まれている
とくに情報元が記されているのは重要ですよ
なぜそこを軽視するのか分からない
掘っていけば納得の人物ですし、加賀藩は公式記録に恒川の筆記を採用している、それも本能寺周りの記述で
情報元が記されている史料では、川角太閤記もそうです
あれも、ソースが明示されている部分はおおむね信用できると思っています
次は川角太閤記を引用します
祖父物語と川角太閤記ってとても似ている史料です
祖父物語は慶長12年頃、川角太閤記は元和の成立
清須の田舎村の祖父物語を参照したとは思えないと先に付記しておきます >>369
また今度
武功夜話は昭和になって悪意をもって捏造されたもので比較にならないかと
三河物語とかでしょう、あれも門外不出
だからといって全部信用はできない
一つひとつ検証するのが大事 >>367
京屋敷があったのは一次史料に残っています
ただ、きちんと情報収集なんてできていたのか
結果的に謀反が成功したことからの合成の誤謬ではないかと
とにかく信長を叩き殺せ!という短慮しか感じられない
変に至る過程を細かくまとめた論文に以下があります
本能寺の変の再検証 : 先行研究の成果と『石谷家文書』から判明した史実の結合
四国説なのが玉に瑕なんですが、とても参考になります
電子データで読めます
近衛を讒訴した宮内卿法印と光秀の確執とか
文武のトップに対立があったようだ
動機をひとつに絞ろうとするからおかしくなるわけで、いろいろ追い詰められていたんでしょう 悪意をもって捏造とか言っちゃうやつが史料語ってんのね
もう書き込まなくて良いよ 1582(天正10)年1月11日、光秀家臣の斎藤利三が石谷光政に、長宗我部元親の軽はずみな行動を諌め
信長の指示に従うようにと伝える。【石谷家文書】
1582年5月7日、信長が信孝に讃岐、三好康長に阿波を与える領地配分を伝える。【寺尾菊子氏所蔵文書】
(信長は信孝と三好康長を養子縁組の画策)
光秀側も長宗我部元親にこれ以上信長に逆らうなって意図が感じられる
四国説は無いかなって個人的に思う >>374
四国説は光秀を悩ませた要因の一つ、くらいに考えたい
新しい史料が見つかって悪ノリしてる勢力がいる そう、光秀の置かれた立場を理解するには重要な情報だろうね
でも光秀にとって一番の重要事項ではない >>373
そう言わずこっちのスレで蟄居させてください 信長は、長宗我部元親に切り取り次第としていた四国の所領の約束を反故にしたが、
土佐一国と阿波南郡半国を所領として認めようとしていた
1581年8月、毛利と同盟を結ぶ。【8月7日付 乃美兵部丞宛 長宗我部元親書状】
光秀側も長宗我部元親にかなり手を焼いてる感じで、四国征伐を阻止するために
本能寺の変を起こす理由付けは無理がある >>377
君らずっとレベルの低い口喧嘩してよく飽きないね
あっちいけ あっちいけなんていう幼稚園児レベルの発言が出るようなスレだもの >>378
概して四国説の論者は史料の取り扱いが雑というか、恣意的なものすらある印象です
石谷文書は信長政権と四国政策に裏付けを与えるもの、くらいに捉えておきたい
そこらはこれまで、長宗我部系の軍記にしか記載がほとんどなかったと記憶してます
元親記だったか、たしかに本能寺に関して元親と光秀の関与をにおわす記述自体はあるんですけどねえ
あれ読んでも四国周りがほぼちんぷんかんぷんなので、意味が取りにくくて困るんです
研究者はさすが 光秀ラインで進んでた対四国政策が
あの時期頓挫しつつあったのは確かだろう
だからといって四国のために光秀が立ち上がる
なんてことが起きたと思えないけど
単純に「秀吉との出世競争で」とか
「織田家での影響力がなくなって」とか
言われてることの具体例と考えていいと思うけどな 土佐には明智の系図があるらしい
坂本龍馬がその子孫だとか、そんな話を見た
普通に山内氏の入国に付いてきた中に明智氏の縁者がいただけと思うが、
こういう戦国から幕末への歴史ロマン的なものも四国説を後押ししてるんだろうか >>384
あれは明治の小説が出元なので
残念ながらまともな研究者の中で信じている人はいないと思います
最近じゃ坂本龍馬の位置づけも下がっていますし
明治と昭和の小説家が生み出した幻影というよりないのではないでしょうか それでは川角太閤記の本能寺描写
まず、信長公記記載の謀反5人衆を挙げて、山崎長門守、林亀之助の雑談(ぞうだん)ではそれはなかったと指摘
以下に抄訳
光秀は6月1日申の刻(午後3時頃)ごろ、家中の物頭に「森乱が上様の意向として、中国出陣の用意ができたならば閲兵したいと飛脚でいってきた。心得てい出陣すべきだ」と亀山をたって東の柴野へ出たときは酉の刻(午後6時)だった。光秀自身が馬に乗って周り、軍勢を三段に備えた。光秀が斎藤利三に軍勢の数を聞くと、1万3000はあると答えた。
光秀はそれより南に馬を出し、軍勢から一町半離れたところで重臣5人と話し合った。5人以外おらず、光秀は床几を降りて敷皮に座り、存念を語った。
「上様が私をここまで取り立ててくださったことは皆もよく存じておろう。3000石だったとき、にわかに25万石を拝領し、家臣が少なかったので大名衆から呼びとった。すると3月3日の節句に岐阜で、大名高家の前で面目を失った。その後、信濃の上諏訪にて折檻され、このたびは家康接待で失態があったとしかられ、西国出陣を命じられた。こうしたことが再三あったので、我が身におおごとが及ぶといろいろと考えたが、右の三か条の恨みがある。世は有為転変だ。老後の思い出に一夜なりとも天下の思い出を得たいとこのほど思い切った。みなが同心しないなら一人で本能寺に乱れいって腹を切る覚悟だ。おのおのいかにいかに」 読み返したらとても長いので大幅に抜粋
一同は賛同。天野源右衛門を先行させて防諜活動、瓜畑の農民20、30人を殺害(これは天野の証言に基づく)。桂川につくと軍装を改め、今日より天下様になるとお触れ。利三が先手を指揮。ここまでは山崎と林から直接聞いた話だ。これから先は信長公記に詳しい。
と記している
桂川で謀反の意思を兵卒に伝えたのは乙夜と一緒
襲撃場面については信長公記に異論がないという
別スレに詳細記したので省くが、山崎と林の素性はたしか
川角太閤記にでている経歴や逸話も他史料で確認できる
天野の防諜活動については(ようするに行軍中に人がいたら殺す)は本城覚書にもある
おおむね、他の史料と整合します 創作だと尚更有名どころの軍記物なんかと整合性取りつつ、微妙に変えたり、独自の逸話を入れたりするもんな >>388
川角太閤記は甫庵信長記よりも成立が前
頼れるものは惟任退治記と信長公記
実際、川角太閤記では信長公記に言及し、かつそこにないところや間違っていると主張しているところを描いてるんです
ソースつきで
それをとくに論証もなく「参考にしただけ」とはね >>390
ほう、史料に詳しそうだ
ぜひ勉強させてもらいたい
例えば具体的にどんな史料が挙げられます?
5つ6つくらいは教えてほしい
参考にしますので 390じゃないが有名どころだと甲陽軍鑑とかか。
石水寺物語他を編集してか、甲陽軍鑑が作られ
北条五代記とか川中島での一騎打ち描写とか軍鑑の影響と言われてる
(一騎打ちは北越軍談にもあるらしいが読んだことない)
韮崎合戦も軍鑑が初出だと思うが、その影響受けて溝口二木の家記にもあるし
武田三代軍記や小平物語も影響受けて韮崎合戦があったことになってる。
ちょっと違うが高白斎記も軍鑑の影響を大きく受けているというかほぼ丸映し部分が混入しちゃってる 武田三代軍記はデジタルにあったから貼っとく。
ttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/881523/58
>>391
自分としては388に賛成で
碌に検証しないで他の史料と整合性があると言われても、そりゃ388みたいな意見しかでないだろと。 上にあった畳の話ぐらいには検証しないと、話の膨らませようがないとしか
概ね史料と一致すると言われてもそりゃそうだろとしか、
そんなこと言ったら歴史小説だってある程度は一致する 史料の検証したいなら
論点がわかりにくい、どの部分を検証したいのか明確にしないとってのもあると思う。 山田風太郎の書いた忍法帖という膨大な史料だが
なんと当時起きた事件の顛末については
他の史料と概ね整合してるんだ 他の軍記物にはない独自の記述が一次史料で裏付け取れるとかだとその部分は信用出来るってなるけど、
他の軍記物と似たような記述があるってアプローチじゃ
既存の軍記物参考にしたのか独自の情報ソースがあったのか簡単には判別付かないからな。
そもそも簡単に判明するようなら学者がとっくに結論出してる。 >>398
甲陽軍鑑の信用できる部分も裏付けがとれる箇所だからな >>9
どこかの総理大臣みたいだな。
でも総理と違って光秀は頭いい。 どうも土岐源氏の由緒ある血筋とかでもないみたいだし、けっこう成り上がり者らしくガツガツした人だったみたいだけど、ルーツがどうあれ有能だったことだけは疑いようのない事実ではあるな 頭が悪くても出世できるんだ。織田家ってちょろいんだな。 頭良くても悲惨な末路を辿る歴史人物は結構いるからな 信雄は勝ったのか負けたのか。大禄を喪失しながら1630年で天寿を全うしたが 信長父子を襲ったのは光秀乱心だと思うね
父子を殺した先の準備をしていないからね >>193
細川は羽柴の援軍明智のさらに与力としね中国攻めの準備はしてたはずだよ >>409
「親子を殺す」どころか「信長をころすことにばかり気を取られてた」としか思えないんだか
本能寺包囲だけならもて余す十分すぎる兵を率いていながら、信忠を囲んだのは本能寺への攻撃を始めてから二刻(約4時間)もあと
いかに信長だけに夢中になって他が迂闊だったか分かる そろそろ落ち着いてきたと思いたいところだが
大河の嘘イメージひっくり返すためには10年単位で時間かかるんだろうなあ
丹波とか恩恵ほとんどないのに嘘だけ押し付けられるとか不憫だわ 陰謀説の人は考え過ぎなのよね
光秀がとち狂ってやっただけの話よ 宿泊しているところを夜襲して支持されるわけないんで孤立して討ち果たされるのは当然よね 大河の影響で興味もって
光秀の家臣に興味あるけど
いうほど情報は少ないね 光秀の自称子孫の人の光秀が信長騙して信長本人に計画練らせた説は嫌いじゃないよ
それ以外の部分はあれだけど 来週5/8の「世界ふしぎ発見」で、「本能寺の変」を扱うそうだけどなにを描くんだろうか 明智光秀が殺されず生きていて別の場所で死んだとかやってたけど
南光坊天海の話は出てこなかった。真偽は別として片手落ち 「世界ふしぎ発見! 〜本能寺の変 解き明かされる新たな真実〜」2021年5月8日(土)
https://s.kakaku.com/tv/channel=6/programID=271/episodeID=1466086/
> 信長の侍女の証言として、信長の最期の言葉も記されている。
信長が侍女を逃がして1人で最後まで抵抗したようだが
あれは信長が侍女を逃がした後に
床下の抜け穴から1人で逃げたものと考える。
だから、死体が見つからなかったのだろう。 信長が家康を討てと言ったとかやってたけど、そもそも光秀は秀吉の援軍にいけと言われてたんで全くのデタラメ
ちゃんちゃらおかしい 先生の話によると乙夜之書物は老人のホラ話として三次史料扱いになったそうで残念でしたね
天王山と混同
圧倒的兵力差がありながら至近で遺体すら見つからなかった信長を見たという信ぴょう性に欠ける記述
確かに話にならんな >>421
乙夜を取り上げたテレビがあったんですか
あなたの言う先生が誰か知りませんが、ちゃんと乙夜の原史料の一部でもあなたは読みましたか?
久しぶりに覗いたらいつものことながら、愚にもつかないことが書き込まれていてw >>423
テレビの演出より自分で読んで確かめた方が早いし正確でしょ
読めない人はテレビみておきましょうね 武田が滅びると自らを神と称し、誕生の日を聖なる日と為した。
そして、帝を自らの膝下に置かんとする所業。
武田攻めの御折檻、徳川様接待不首尾のお怒り、近江坂本・丹波領地を召し上げ、出雲・石見を切り取れとの冷たき御沙汰、
又、丹波で、足の不自由な母を、見殺しにされた仕打ち、など!
語り尽くせぬ怨みあれども! 信長が当時としても異常な人間ということはわかっていて長年仕えたわけでしょう
それを天子様をどうこうを理由に殺そうとするかな 天皇家は幕末になって討幕派が神に仕立てたわけで当時は神社の代表者の地位だったのよ >>421
そりゃ約100年後にまた聞きでってなると信憑性はどうしてもねー 光秀「黒奴は物を知らない動物」
弥助さん
トリリンガル以上
相撲バリ強
鉄砲等も使用可
本能寺が落ちると信忠に参じて戦う忠義の人 【戦国こぼれ話】『乙夜之書物』は本能寺の変の真相を知るうえで、信頼に足りうる史料なのか(渡邊大門)
ttps://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20210511-00237186/ ヒムラーとヒトラー 氷のユートピア
遠くウラルに至る沃野に、ゲルマンの一大帝国を!整然とホロコーストに動きだす!狂気と合理性に彩られた 光秀恨む女の霊 神社に残る戦国悲話/兵庫・丹波市
12/2(日) 11:02配信
岡女の霊がまつられている厳島神社=兵庫県丹波市柏原町柏原で
本殿や拝殿が国指定文化財になっている兵庫県丹波市柏原町柏原の柏原八幡宮。その八幡宮の鳥居をくぐって、すぐ右側に厳島神社がたっている。この厳島神社には、2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公で、戦国武将の明智光秀によって兄たちが殺されたことを恨んだまま息を引き取り、死後、幽霊となって里人たちを恐れさせた女性の霊がまつられている。
織田信長の命を受け、丹波の国を攻めた光秀だが、「丹波の赤鬼」との異名をとった武将、赤井悪右衛門直正らの抵抗に遭い、敗走を余儀なくされるなど、さんざん手を焼いた。
そんなある日の夕暮れ。丹波に構えた戦陣にいた光秀に向かって、流れ矢がうなりを立てて飛んできた。身をかわして難を逃れた光秀は、背後の木の幹に突き刺さった弓矢を引き抜き、険しい目つきで矢尻を凝視した。
そこには「土屋(はんや)」の印が入っていた。その印を見て、光秀の怒りが増した。
土屋三坂と名乗る矢匠をはじめ、その一族が捕らえられ、光秀の前に引き出された。三坂は、柏原八幡宮の近くに居を構えていた。
光秀は、三坂に言い放った。「わしは、土屋の矢が憎いのじゃ。わしを苦しめているこの矢がな。わからぬか」
すでに死を覚悟した三坂は、光秀の剣幕にひるむことはなく、堂々と言い返した。「とんとわからぬ。わしは丹波の矢匠ぞ。頼まれて矢を商うに何の遠慮があろうぞ。赤井方であろうと、明智方であろうと、戦あっての矢匠ぞ」
ふてぶてしい三坂の態度に光秀の怒りは頂点に達し、鬼と化した。「こやつらを、ことごとく火あぶりにいたせ」
まもなく火あぶりの刑が執行され、火焔が夜空を照らした。処刑された者は、三坂をはじめ一族ら9人。見苦しい最期をさらした者は誰一人としていなかったと言われている。
ただ、一族の中に火あぶりから逃れた者がいた。岡女という三坂の妹である。三坂らを捕えるために光秀の家臣たちが押しかけたとき、いち早く裏庭に逃げ出したのだ。
兄の最期を知った岡女は、兄の後を追い、自害しようと思ったが、自分のすべきことは兄たちの霊を慰めることだと思い直し、髪を下ろして仏門に入った。兄をしのび、供養の日々が続いた。
しかし、心に深手を負ったためか、ちょっとした風邪が命取りとなり、光秀を恨んだまま息を引き取った。
柏原の里人たちの間で幽霊の話が交わされるようになったのは、それから間もなくだった。兄の三坂らが火あぶりにされた沼池のほとりに美しい女の幽霊が出るという噂だ。
「昨日は、うめき声がもれていた」
「一昨日は、しくしく泣いていた」
のちに、心ある人たちによって沼池のほとりに小さな祠が建てられた。そのおかげか、幽霊の噂は途絶えた。
霊をまつっていた祠はやがて柏原八幡宮に移され、今は厳島神社となって戦国の悲劇を伝えているが、地元でもこの話を知る人はそう多くない。
(参考文献・榊賢夫氏著『丹波柏原・続篇』) とちゅまで読んでて兵庫厳島神社の縁起になってて混乱したw そう怒るなよ。むかしのドラマのいかした台詞を楽しもうぜ >>432
秀満と光春が別人だったんだっけ?
新史料でこういう説がでるの面白いなあ >>440
新刊の「真相解明 本能寺の変」にその説が載ってるね
著者は菅野俊輔 丹波新聞より
光秀恨む女の霊 神社に残る戦国悲話/兵庫・
丹波市
12/2(日) 11:02配信
岡女の霊がまつられている厳島神社=兵庫県丹波市柏原町柏原で
本殿や拝殿が国指定文化財になっている兵庫県丹波市柏原町柏原の柏原八幡宮。その八幡宮の鳥居をくぐって、すぐ右側に厳島神社がたっている。この厳島神社には、2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公で、戦国武将の明智光秀によって兄たちが殺されたことを恨んだまま息を引き取り、死後、幽霊となって里人たちを恐れさせた女性の霊がまつられている。
織田信長の命を受け、丹波の国を攻めた光秀だが、「丹波の赤鬼」との異名をとった武将、赤井悪右衛門直正らの抵抗に遭い、敗走を余儀なくされるなど、さんざん手を焼いた。
そんなある日の夕暮れ。丹波に構えた戦陣にいた光秀に向かって、流れ矢がうなりを立てて飛んできた。身をかわして難を逃れた光秀は、背後の木の幹に突き刺さった弓矢を引き抜き、険しい目つきで矢尻を凝視した。
そこには「土屋(はんや)」の印が入っていた。その印を見て、光秀の怒りが増した。
土屋三坂と名乗る矢匠をはじめ、その一族が捕らえられ、光秀の前に引き出された。三坂は、柏原八幡宮の近くに居を構えていた。
光秀は、三坂に言い放った。「わしは、土屋の矢が憎いのじゃ。わしを苦しめているこの矢がな。わからぬか」
すでに死を覚悟した三坂は、光秀の剣幕にひるむことはなく、堂々と言い返した。「とんとわからぬ。わしは丹波の矢匠ぞ。頼まれて矢を商うに何の遠慮があろうぞ。赤井方であろうと、明智方であろうと、戦あっての矢匠ぞ」
ふてぶてしい三坂の態度に光秀の怒りは頂点に達し、鬼と化した。「こやつらを、ことごとく火あぶりにいたせ」
まもなく火あぶりの刑が執行され、火焔が夜空を照らした。処刑された者は、三坂をはじめ一族ら9人。見苦しい最期をさらした者は誰一人としていなかったと言われている。
ただ、一族の中に火あぶりから逃れた者がいた。岡女という三坂の妹である。三坂らを捕えるために光秀の家臣たちが押しかけたとき、いち早く裏庭に逃げ出したのだ。
兄の最期を知った岡女は、兄の後を追い、自害しようと思ったが、自分のすべきことは兄たちの霊を慰めることだと思い直し、髪を下ろして仏門に入った。兄をしのび、供養の日々が続いた。
しかし、心に深手を負ったためか、ちょっとした風邪が命取りとなり、光秀を恨んだまま息を引き取った。
柏原の里人たちの間で幽霊の話が交わされるようになったのは、それから間もなくだった。兄の三坂らが火あぶりにされた沼池のほとりに美しい女の幽霊が出るという噂だ。
「昨日は、うめき声がもれていた」
「一昨日は、しくしく泣いていた」
のちに、心ある人たちによって沼池のほとりに小さな祠が建てられた。そのおかげか、幽霊の噂は途絶えた。
霊をまつっていた祠はやがて柏原八幡宮に移され、今は厳島神社となって戦国の悲劇を伝えているが、地元でもこの話を知る人はそう多くない。
(参考文献・榊賢夫氏著『丹波柏原・続篇』) 信長の死後、秀吉が信長の息子達を傍流に追いやって主導権を握るあたり、光秀も秀吉も本音は同じだったか。
「狡兎(こうと)死して走狗烹(に)らる」という、合戦を勝ち抜いた家来から領地が取り上げられて信長の息子達ばかりに与えられる事に対する不満が「本能寺の変」を引き起こしたか。
「やるなら今しかない!」と、公家衆が囁いたか。 「桶狭間の戦い」「本能寺の変」に共通する事は、間者による情報漏れを防ぐために事前の打ち合わせを行わず、いきなりトップが指揮して合戦を起こした。
斥候を使った情報の探り合いという面で、非常に上手く行った例だろう。 ゲームというか90年代流行の
情報戦勝利説そのままかと 敵ゴール前に居たらボールが転がってきたので、迷わずに蹴ったという事だ。 信長、光秀の子孫が延暦寺でシンポ 比叡山焼き討ちから450年
今年の法要では焼き討ちから450年の時を経て、信長の子孫、織田茂和氏と光秀の子孫である
明智憲三郎氏が参加し、比叡山の関係者らと犠牲者を悼む。延暦寺を開いた伝教大師最澄は「怨みを
以て恨みに報ぜば怨み止まず、徳を以て怨みに報ぜば怨みすなわち盡(つ)く」との言葉を残しており、
延暦寺はこうした教えに基づき、公益社団法人「びわこビジターズビューロー」との共催で今回の企画の
実現に漕ぎ着けた。
https://www.sankei.com/article/20210908-K75T7TK2RJN2PAGJSMZDEYYWKE/ 明智光秀(千葉真一)は、足利義昭(蓮司)をライフルで射殺し、また、明智家御庭番の亜利助(黒崎誠輝)に織田信長の行動を探らせ、本能寺で信長(松方)を襲殺しました。
正に戦国の野良犬の所業。 >>1
定政伝記
天正十年(1582)五月、
神君到江州(徳川家康は近江国に到着した)
謁見信長公於安土(安土に於いて信長公に謁見した)
日向守光秀、定政は従父昆弟(従兄弟)
不堕家誉(家の名誉を落とさぬよう)
贈遺(家宝を贈る)
剣・備前兼光、
甲冑・烏絲綴織、
馬轡・佐々木高綱、
鎗・血水銘
而(しかも)通好みの品を贈る
光秀は定政の父親である定明の遺品を持っていた
これは明智本家の長男であったことを示す
明智家臣団の妻木、小里、肥田、遠山はいずれも分家や養子先
光秀の妹御妻木は月経があったことから30代から40代つまり明智定政と年代が近い
光秀の母親御牧は実在しないとされるが、室町幕府の奉公人に御牧景重の名が見える 本能寺の変に関しては、+出雲と石見−丹波と近江志賀郡の件を
信長は、毛利潰してからのつもりだったのに、説明不足だったり、
追放された佐久間信盛の件もあって、光秀が勘違いした?
世界的な銀山のある石見の統治を、任せるつもりだったのだから、
信長が光秀を、冷遇するつもりがあったとは思えん
また信長は、毛利と長曾我部と上杉を潰したら、
九州方面は秀吉、中国方面は秀吉→光秀、四国方面は信孝近畿方面は光秀→?、
北陸方面は柴田→?、関東方面軍は滝川、東北方面軍は柴田に
任せるつもりだったので、事前に慣れてもらう為、毛利攻めに加えただけなのに、
これまた説明不足で、秀吉の傘下になると光秀は勘違いした? 応援するため中国にいくなら羽柴の、北陸にいくなら柴田の指揮下に入ることになる
今までにもあったことなのに何で >>454
明智軍記にしか見えない記述だよ
信じるに値しない 石見・出雲なら喜んで丹波・近江坂本差し出すな、俺は
800万石もある信長の天下統一は時間の問題だったし
石見銀山と出雲の砂鉄と日本海側の豊富な海産資源と戦国随一の月山富田城まで貰える
実質300万石くらいの価値はある
だから国替えの指示は信じるに値しない 秀吉「明智は延暦寺虐殺を
提唱した極悪人ですよ。
石山合戦にも関わっていまーす。
延暦寺や石山合戦反対派の
僕は上記の極悪人明智
を始末しました。
どう考えても正義の行為でしょう」 変起こしたのは放っておいても粛清されそうな予感はあったんじゃないかな。
古今東西上司のおかげで出世出来た者が主君を殺して生涯全う出来たためしはないし。
例え大返しなくてもいずれは誰かに討たれるのは間違いなし。光秀のおかげで滅亡を免れた毛利も上杉も北条も光秀に加勢は絶対にしない。
それをしてしまうと家臣が自分を討っても良いことになってしまう。
秀吉に勝てても柴田が丹羽が家康が出てくる。
変起こした時点で光秀の運命は決まっていた。 落武者狩りってなんで光秀が落武者やとわかったん?
今でも
指名手配犯をすぐそいつやと見てわからんやろ?
仮に落武者やとわかっても、光秀とはわからんはずやで 狩ったあとで身分の分かる身につけていたモノ見つけたか
奉行所なりの織田家に届けてたんじゃないか
ちゃんと埋葬なりしとかないと遺族に恨まれるし そこは創作ちゃんうや?
いやな、落武者狩りにあって本当に光秀かどうか調べるころには遺体は腐ってるやん普通?
歯の治療痕ぐらいのレベルぐらいやろ、光秀とほんまにわかるの 落武者狩りは奨励されてたし、金目の物は剥いで売り払うだろうし
そのブツから辿りつくのもあるかもしれんよ 6月とはいえそんなにすぐに遺体は腐らんだろ
特に処理してない遺体でも火葬するまで数日間のうちに葬式するし
あと落ち武者狩りしたやつと首を届け出たやつは別みたいだ 秀吉「明智光秀? 奴は弱くて
単なる馬鹿だよ!
俺なんか3分でやっつけちまったぜ!
娘も石田三成で始末してやったぜ!
サイコー は?明智光秀を
尊敬してるかって?馬鹿か?
天下の俺があんな愚将尊敬してるわけねーしw」 463ですが気に障ったのでしたらすみません。
ただ光秀が謀叛起こした後、どう考えても光秀の未来が開ける展開が考えられないのです。
やっぱり主殺しを認めることは自分にも降りかかることなので、そのことを他の大名も公然とは許さないと思います。地方勢力ならともかく、天下人では目立ちすぎるので。
もし光秀が天下人になる合理的な戦略があるのでしたら教えて欲しいと思います。 >>470
面白くないし気持ち悪いからやめてくださいね 秀吉「明智光秀は3秒で始末したw!
百姓の俺が3秒だぜ!マジ俺tsueee!だろ!
明智光秀なんかサイコーに弱かったよ。
ついでに明智家の家臣も
俺の配下として従わせることもできて
サイコーって感じ」 秀吉「僕は延暦寺虐殺や石山合戦には反対してたし、
賛成していた悪の光秀とは違う訳で。
山崎の戦いで正義の粛清を俺は
行った!何が悪い」 >>471
個人的には単純に情勢を見誤ったんだと思うよ
成功させるには5年、あるいは10年遅かった
彼の経歴は結構異色で戦国大名家臣と言うより
取り立てられた幕臣という認識だったんじゃないかと
義昭と信長を結び付けて幕府再興を企画し
義昭追放後は旧幕臣を取り込んで
畿内支配を進める仕事をしてたわけだから
その目で見て信長さえ死ねば旧幕府≒反織田勢力
による巻き返しがあると期待したが
もはやそんな勢力もなく
戦国大名信長に安堵されただけの家臣たちも
権力基盤を失って自分を討つ余裕なくすと予測したが
実際には権力基盤を奪った光秀を真っ先に
排除しに動いた
変の後に彼自身が動機らしきものを示したと
される史料としては「息子らを取り立てるため」
と旧幕臣仲間の細川藤孝に宛てた書状の写し
それと将軍上洛への協力を要請する国衆への書状
他の方向性を考える必要をあまり感じないかな 変の前に進んでた織田政権の関東や四国の仕置きや
九州奥州からの帰順は幕府本来の権能を
幕府以上に直接的に実効するものだったし
三色推任は朝廷が諸に幕府の否定するに等しい
その意味では追い込まれてもいたと思う
粛清(殺される)とかでなくても
政権中枢から自分含めた旧幕臣が遠ざけられる
と言う意味の危機感はあったろう
幕府や義昭への忠誠という個人的感情より
自身の権力基盤による政治的立場からの危機感が 今日は19時から「世界の何だコレ!?ミステリーSP」で
明智光秀と裏・本能寺の変をやるで 自称子孫の戦国芸人、明智憲三郎をマスコミから出版界から、追放しよう! 秀吉「俺が明智なんか尊敬してる
わけねーだろ?
百姓に負けた馬鹿って
明智のことw」 秀吉「土屋三坂を殺した明智光秀は
悪人ですよ!僕はこんな悪人を
山崎で殺したんですよ。正義でしょ?」 光秀はどれほど秀吉をパクれば気が済むのか?
光秀は延暦寺の虐殺に
反対していたとか実際は嘘で、
本当に反対してたのは秀吉。
光秀は秀吉と同じく足軽だった?
これも単なる秀吉のパクリ!
昔から明智は摂津源氏の
末裔って言われてるでしょ? 『柳営婦系』に「明智平三(十)郎」とみえる。
斎藤利宗は斎藤平十郎と名乗っていたことは『石谷家文書』で確認できるので、同時代資料で明智名字を名乗った形跡は見られないものの、可能性までは否定できない。三存の明智名字授与は確実
主君と結び付き強いな 何度もいうけど、信忠が近江に逃げたら光秀は西をまずは目指す
となれば秀吉が光秀を討つ可能性が高い
勝手に戻ってきたとかは謀反人を討つことすらできなかった当主に
言う資格はない 異説かも知れんが光秀は山崎の合戦で落ち延び
故郷の岐阜で隠遁生活して関ヶ原で徳川方として参戦するため移動中に洪水の河に落ちて溺死したと云われてるよね。 家康・光秀・政宗らの書状ずらり、井伊直政隊の初陣史料も…彦根城博物館で展示
木俣守勝は三河国岡崎の出身で、岡崎城主だった徳川家康の小姓を務めたこともある。岡崎を離れ、明智光秀のもとで
武功を上げ、家康のもとに召し戻された後、直政の部下になった。「徳川家康自筆書状」(天正11年、1583年)は、
家康が信濃に出兵するにあたり、直政に隊の一部を送るように命じた書状。兵士のまとめ役として清三郎(守勝)か
誰かを遣わすように、と書かれており、直政隊の初陣に関する貴重な史料という。「明智光秀書状」(天正6年、
1578年)には、播磨神吉城攻めの戦功があったとして、光秀が守勝に50石を与える旨が記されている。
https://news.yahoo.co.jp/articles/86d278f0552af2613eb497dd7492301174470050 謎解き 伝説のミステリー3時間SPは新しかった
光秀はもともと武田に内通、穴山が織田に寝返ったことでそれが露見することを恐れ
取り急ぎクーデターを起こしたと >>492
穴山信君を暗殺すれば良かったんじゃない?
家康がやったように
信長を討つって斜め上すぎる とはいえ穴山が寝返ってから3ヶ月ちょっと経ってるしのぉ・・・ >>492
穴山より前に勝長が織田に戻ってるからちと苦しく思えるし内通を穴山しか知りえないというのもなあ…
木曽は国境を接しているから知っていて然りだと思うけどね そもそも内通してないぜ
していたら信康の時に合わせて詮議されたろ 内通とかウケルわな。単なる視聴率稼ぎのでっちあげ
光秀が農民に殺されたなんてのは、どう考えても光秀を貶めるための作り話
真相
↓
農民に殺されたのが本当だったとしてもそれは影武者。
実際は光秀は逆に逃げ、安土城に入った。
秀光が光秀から安土城を死守するよう言われていたのに、速攻城を出て坂本城に向かった理由がこれ。
安土城に来た光秀から、妻子の後事を頼まれたからである。
信長しか見ることのできなかった天守からの光景を眺めつつ光秀は、対岸の坂本城が燃え始めたのを確認、
自らも天守とともに逝った。
光秀のことだろう。信長と一献酌み交わし、誰にも聞かれることのない歌でも一句読み逝ったのだと私は思う。 光秀は元々将軍義昭に仕えてたんだから
義昭と信玄の間の取り次ぎという形で
信玄とのやり取りは多少はあっただろ。
そんなのは内通とは言わない。 【AI】
本能寺の変は明智光秀の部下斎藤利三の暴発
以前に斎藤利三は明智光秀の四国の長宗我部を説得して織田-長宗我部の同盟を成し遂げた、そして長宗我部の家臣との縁戚を結んだ
その後、織田が長宗我部への圧力を掛け始めたため斎藤利三は板挟みになり信長への反感を募らせた
明智光秀は部下の斎藤利三の不満を解消できず、遂に斎藤の暴発を黙認した
その代わり本能寺をせめるのは斎藤利三の手勢のみ、さらに信長を討ち漏らした時は明智光秀は斎藤利三を討つことを伝えた
斎藤は了承して本能寺は向かい、明智光秀は本軍を遠く後方で待機させて結果を待った
本能寺の変は信長と信忠の討ち死となり、明智光秀は斎藤利三を配下へ戻し、天下取りの道を目指した REVELATION
資金源/コング
フロント/天下り/右翼思想
フィクサー/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入
汚職/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入/揉み消し
揉み消し加担 沈んでいた“幻の城跡”姿現す!琵琶湖が渇水「取水制限も」
水中にあった「坂本城」の石垣が姿を現したのです。湖岸に本丸を置く城は織田信長の命を受けた明智光秀が築きました。
https://news.yahoo.co.jp/articles/463c3f07995ae11630562d237aa87aeef65c158c 織田!信長は!これと〜日向守光秀が!てえぇぇぇばぁいいたす! てえぇぇぇばぁしたのは誰のためですか?
ミッツ「共産主義者さんたちのためです」
中◯共産党「褒めてとらす!褒美に犬HKで主役にしたる」 信長は弥助に黄色い猿🐒と言われ本能寺で斬首。森蘭丸も信長に介錯され斬首
光秀〜村重〜信長はベロチュ〜する間柄。家康は刺客に狙われまくり影武者無限に存在
最後はビート秀吉が獅童と光秀首を蹴飛ばして終。 ノブ「デアルカ ブツフデェ!」
ミッツ「そうじゃあぁぁ!貴様のクビじゃあぁ!」
ノブ「ブツフデェ!バシはシナヌド!」 >>492
穴山が武田見捨てる頃もう御家ボロボロだし光秀が加担するとは思えない 光秀の坂本城石垣を保存へ 宅地造成工事中止
71年か 初期に造った城だから規模は小さいのかな? 天海が、犯人だった ってあってるけど
天海は明智光秀じゃない
そして坂本龍馬は、天海の分家と言ったらいいかな、天海元々武将だし
だから、坂本龍馬は織田信長の仇打ちで織田家に殺された >>492
そも話、長年ある意味内通していた人がいるのだから
露見したって大丈夫だろw
甲州征伐の時に落ちる内通相手が立ち寄った寺は尽く
最速で禁制出して保護しまくりとかを露骨にやっても
信長から叱りなかったしw >>80
> 「信長の野望」に伊勢氏の武将って全然出てこない
伊勢盛時「」 伊賀越えは予め準備していなとムリ、そもそも京都には向かっていなかったらしいけど
事前に知っていたのか、あるいは慎重な性格ゆえ万が一命狙われた際の準備を整えていたのかどちらなんだろう
詳しい方よろしく 明智光秀が、その重臣斎藤利三の息子を家康のもとに遣わせ伊賀越を手引した。
もともと光秀と懇意だった家康は、道中この者から光秀の話を聞き更に気に入って
この者を取り立てた。それが後の天海。
だから、春日局と顔を合わせたとき、「お久しぶりです」という挨拶を交わしている。兄妹だからな。 クビだっ!クビだっ!ドブナガのクビじゃあぁぁぁ!
晒すのじゃあぁぁぁ!若きころっ!尊敬致したっ!
新羅三郎義光公に誓った!二度と太刀を抜かぬと!
誓ったが!もーガマンできぬ!