【本能寺の変】明智光秀/惟任日向守を語る10
>>106
これも甫庵なのですか、本当に後世の人々を惑わせる最悪な人物
読まず嫌いはやめようと思っているのですが、どうにも甫庵信長記だけは触れたくないです
秀吉麾下の兵力は疲弊しきっていて、摂津勢が主力になったと記憶しているので、秀吉書状よりフロイス記録の方が信じられそうですね
これはなんの史料だったか忘れましたが、大返し中に秀吉自身、何度か疲れから落馬したとか読みました
いずれにせよ天王山の争奪戦は一次史料、一級史料にないとなれば、乙夜もかなり甫庵あたりの影響を受けている可能性はありそうですね
もともと乙夜は加賀藩政の史料としては重宝されていたようですが、その前段はいろんな人が読んでいたはずなのに顧みられなかった
それは(全文読めてないので不確かですが)後世の怪しい史料からふんだんに材を取っている描写があるからとも推量できるかもしれません
ただ、そのすべてを棄却するのには慎重になりたいです
萩原先生が論文を書くそうですから、それを待ちたいかなあと
まあ、ほぼ独自史料だけの織田通史って、それこそ信長公記くらいしかないですし、そこから派生した甫庵を参照してるものも多い
家譜や覚書にすらその形跡がたくさんありますから
だからといってすべて無価値とは思えないところもあります
老人雑話とか、甫庵からではありませんが明らかにおかしいところも多いのですけど、清洲に伝わった逸話として読むと面白いですし
また脱線して申し訳ない 乙夜の記述では、秀吉の接近を知った光秀は安土にさまのすけを残し、勝竜寺に入ります
しかしさまのすけは山崎表を心配し、おそらく独断で安土を離れます
すでに近江は佐和山、長浜は接収済み
その他記録だと信雄は蒲生と連絡して土山まで出張ったが、伊賀方面の一揆もあって身動きがとれぬ状態
そもそも信孝に兵力の一部を割いており、脆弱だった
よく分からないのは信澄領ですが、常識で考えれば光秀方に与したのでしょうか
だからさまのすけ主力は安土を離れられたと考えられます
私は光秀の突発的な謀反と考えてますが、細川と筒井がしたがっていれば山城、近江、丹波、丹後、大和、伊賀の広い範囲を勢力圏にできる公算が高い
紀伊なんかもなびくでしょうし、丹羽がいない若狭も危ない
越前も前科、恨みあり
美濃ですら極めて小規模ながら反乱が発生している
信長の油断、傲慢はかなりのレベルといえますね >>105
明智軍の松田隊1,000名が山の上から弓・鉄砲攻撃を行うため天王山に登る。
秀吉軍からは堀尾吉晴が200名で山頂へ登り交戦、松田隊に勝利する。
山の麓では堀秀政が松田隊を攻撃し、勝利する。これにより松田隊は壊滅する。
【甫庵太閤記】
明智軍の先手、伊勢貞興・諏訪盛直・御牧景重が東西に開き、南北に押し返し合い、
高山勢と戦っているところ、中川清秀が左翼から、池田恒興が右翼から突進したため、
下級兵士たちが動揺する。
伊勢貞興・諏訪盛直は勇敢に戦い討死、御牧景重は光秀へ退却するよう使者を送り、
自身は突撃して討死する。【甫庵太閤記】
「その十三日の晩に、山崎に陣取りしました。高山右近・中川清秀・堀秀政の軍勢に、
明智は段々に分けて軍勢を揃えて切りかかるところを、道筋は高山右近・中川清秀・堀秀政が
切り崩しました。南の手は池田恒興、我ら者の加藤光泰、木村重茲、中村一氏が切り崩しました。
山の手は羽柴秀長、黒田官兵衛、神子田正治、前野長泰、木下勘解由、その外の軍勢をもって切り崩し、
そして勝龍寺城を取り巻きました。
明智は夜に逃げ落ちたところを、あるいは川へ追い入れたことは、我らの覚悟によってできたことです。
それにつき、明智は山科の籔の中に逃げ込み、百姓に首を拾われました。」【秀吉書状 金井文書】 金井文書の4日前に発給された10月14日付秀吉書状写(松花堂式部卿昭乗留書)
14日(原文ママ)池田恒興を同道して山崎表に向かい敵の様子を見ていると、明智も山崎表に向かい勝龍寺城より次々に陣取しているところに、
高山右近と中川清秀が先陣争いをしており、私(秀吉)は先手の事なので、高山の申し分もやむを得ない事だし、ここは中川と相談して陣取合戦をするのがよいと二人に言った。
高山と中川は共に山崎に陣取をし、その他の者は天神馬場まで移動して陣取した。
大坂へ使者を遣わしたところ、早速のお手柄で津田信澄殿は既に討ち果たされていた。
秀吉は池田恒興と一緒に移動し、明智への先手は高山と中川が務め、明智へ切り掛かったところ、
明智は信長公の重恩を忘れ逆心を抱いたので天罰が下ったのだろう。敗軍した上に百姓の手に掛かり相果てた。 弥平次と左馬助の表記が混在してるようだし…
同時代人からの聞き書きの元ネタはあったけど
軍記物で肉付けしてしまったって感じか >>112
混在ではなく、弥平次は一万五千石「光秀をいなり」、さまのすけは五千石「是は光秀御もつ立なり」と明確に区別してるんですよ
もつ立は、おそらく家臣にして間もないか、光秀が取り立てた人という意味
だからより謎なんですよね >>110>>111
通説13日に起きたとされる山崎の合戦だが
秀吉書状では自身の着陣13日晩で
活動始めたのは14日なんだな
フロイスの秀吉が間に合わなかったという
記述が正しくその点を書状では誤魔化してるのか
それとも秀吉の書状の日付が間違いあるいは
通説の日付が間違いなのか
当時の日記類なんかではどうなんだろうか? >>114
ぱっと読める多聞院日記だと、12日条に秀吉が猛勢にて上がるとある
光秀方は八幡山崎にあり、淀まで引きのくのではないかと記している
15日条には明智方が12日に1000人損じた、坂本へわずか30人あまりで帰ったとある
続いて「昨日より筑前大津まて打越了」と記している
その日の遅くに伝わったのか、光秀討ち死にを最後に書いている
誰と交戦したという直接の記述はないが、秀吉に討たれたという認識で間違いはなさそうです
ちなみに多聞院日記では、17日条でも12日に光秀は勝竜寺で敗れ、山階で一揆に討たれたとしている 「敵の士気をもっとも挫いたのは、三七殿(織田信孝)と羽柴殿が同所から1里足らずの所にあって2
2万を超える兵を率いていることを彼らが知ったからであった。
だが、彼らは疲労していたためジュスト(高山右近)のもとへ到着することができなかった。」
【1582年度日本年報】
「十三日、雨降。申の刻、山崎方面に至り鉄砲の音が数刻鳴り止まない。一戦に及んだか、
果たして五条口より落武者が大勢現れ敗北したようだ。」【兼見卿記(正本)】
秀吉は前線に間に合わず戦に参加してないようだし、日付は13日で合ってると思う。 付け足すと、多聞院で山崎を12日としてるのは単なる伝達情報の間違いだと思います
それと、秀吉軍が間に合わなかったというのは疑問です
秀吉はこの年中に、信雄と信孝に宛てて、秀吉が粉骨砕身して光秀を倒したのにお二方はお忘れか、というような、いまでいうマウントをとる書状を送りつけてます
信雄はともかく信孝は現地総大将であり、秀吉がなにもしてなかったらさすがにそんなものは送らないでしょう >>119
秀吉本隊は南西にある天神馬場(高槻にある上宮天満宮への参道)に到着し、
秀吉は信孝を待つため富田で一晩過ごす。【秀吉書状 金井文書】
6月13日昼、秀吉が大坂から淀川を越えた織田信孝を出迎える。
「次の十三日の昼頃、川を越えられたので、私もお迎えに馳せ向かい、お目にかかると、
お涙を落とし、私も大声で泣きました。」【秀吉書状 金井文書】
秀吉本隊は間に合わなかったのではなく、信孝と合流するのを待っていたし、
ただ前線にはいなかっただけで、後方から指揮したのでは 変から近い日付の文書でも13日になってるし13日でほぼ間違いないでしょ
・6月14日付賀茂惣中宛丹羽長秀書状(賀茂別雷神社文書)
急ぎ申し上げる。昨日13日に勝龍寺にて一戦に及び、明智を討ち果たした。
近々上洛できると思うので、その時面会しよう。
・6月26日付滝川一益宛秀吉書状(大阪城天守閣所蔵)
去る13日山崎表に出陣したところ、明智も勝龍寺から出陣してきたので、
一戦に及び切り崩し、3000余りの首を討ち取った。
その他にも淀・桂川で溺死する者数知れず。討ち取った首の中に明智の首が見当たらなかったので、村々で捜索させたところ、
(明智は)山科の藪の中で屈んで隠れていたところを、百姓が明智の首を斬って溝に捨てられていたのを見つけた。
このような死に様は上様の罰が当たったもので、目の前でその様子を見ることができて満足している。 合戦自体はやはり13日に起こったのよね
鉄砲の音が京まで響いたというのは何かで記憶してたが
兼見卿記だったか
教えてくれた方々ありがとう
>>119
摂津衆が大方決着を付けてしまい秀吉とその主軍が
実戦に間に合ってないという可能性は
結構高いのではないかと思う
合戦が13日に起こったことはほぼ確実として
秀吉自体がマウント取る書状内でも到着は晩として
その後13日の合戦の様子を書いている訳よね
マウント取る相手である信孝がさらに後方にいて
何なら頻繁に連絡してた筈だから到着時間まで
改竄してまでの武功アピールはできない
でも後方にいたから詳細はこちらの方が知っている
という状況からそのような記述になってるのでは
具体名を出してる秀吉配下の武将達は
秀吉より先に着到して合戦に間に合ったけど
高山は摂津衆の功を誇りたくて伴天連への
報告では省いたのか
あるいは秀吉より先にいたけど高山の主観では
間に合ったと言えない状況だったか すまん「信孝がさらに後方」は多分勘違いだね
合流して同じ13日の晩に到着してるのか
当然ながら13日の戦闘に自分が間に合ってた
という嘘は付けない
それでも功績はアピールしたい
といのが金井文書の秀吉13日晩到着
その後に夕刻の戦闘での配下諸将の活躍
という時系列おかしい文章になってるんだと思う 前田利昌は明智光秀の生まれ変わり(織田殺しと言う意味で) ホモ集団がボランティア団体と称して
武将コスプレしてる
岐阜城盛り上げ隊www
斎藤道三、明智光秀
明智光秀の哲丸なんて
肉便器てつまるというゲイDVDにも出て
G-TETUという売り専もやってるw
https://twitter.com/nmbb_taichi/status/1354089037112422406?s=20
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 〈信忠の周辺の有力大名〉
武田信玄の嫡男、義信 → 謀反の疑いで殺害
徳川家康の嫡男、信康 → 謀反の疑いで殺害
上杉謙信死去後 → 御館の乱でお家騒動勃発
〈本能寺の変の前に信長との不協和音〉
月岡城の戦いで信忠は援軍の総大将を任せられるが、作戦を巡って信長と口論
信長に能で激怒され道具を取り上げられ謹慎させられるも、反省せずのちに信雄・信孝と演じる
甲州征伐(武田討伐)で信長の「深入りせず到着を待て」の命令を無視、さらに進軍する
信忠は名目上家督を譲られるも実権なく、信長の命令・許可なく動けない
信長死去後の織田家相続も安泰とは言えない
そこで、明智光秀を唆かし本能寺の変を起こさせることを考える 〈本能寺の変直前の信忠の行動〉
信長の上洛予定を聞き、堺行きの予定を変更し京にとどまる
同じ日に信忠と光秀が愛宕神社に参拝する
本能寺に夜遅くまで信長と過ごすが、宿泊せずに妙覚寺に帰る
光秀は家臣の那波直治(元稲葉家臣)のことで稲葉一鉄(又は稲葉貞通)と揉めていた
信長の裁定で稲葉家へ帰参させるように命令が下される
光秀は美濃を支配下に置いていた信忠に相談したのでは?
そこから信忠と光秀の繋がりが本能寺の変へと繋がったのでは? さては中将の別心か、とか口走ったとなんかに書かれてなかったっけ。聞いたやつも死んでるだろうから信憑性は??だが。 古文書に頻出するのものだと養性、小性、由断、入情(精を入れる)
あと官位の○○大夫も○○太夫になってたり太閤もほぼ大閤になってる
読みさえあってればいいんだからかなり適当だよ 光秀にとって本能寺襲撃は絶対に失敗出来ない
襲撃したが信長が居なかったなんてことは許されない
外から信長が滞在してるかなんて確認して、怪しまれてしまえばそこで終わり
本能寺襲撃時に確実に信長がいる情報は絶対必要不可欠な情報
その情報提供を信忠が担っていたはず
本能寺襲撃の前、本能寺を出た後で信忠から光秀に密偵が行ったはず
だから光秀は自信を持って大軍を率いて本能寺を囲えた 信忠は本能寺襲撃の報が入っても直ぐに逃げる気配がない
妙覚寺、二条新御所と逃げるチャンスはあったはずにも関わらず
光秀が信長だけではなく自分も討つのだと信忠が気付いたからでは?
だから、光秀は自分を逃さないだろうと考えた
光秀の能力を買い被っていたのではなく、光秀の狡猾さに諦めたのでは? というか黒幕なら討たれる可能性とか以前に
騒乱に巻き込まれないように逃れるだろう
光秀の末端の兵までも全部真相知ってるわけじゃなし 佐久間信盛が追放された時に、林秀貞と安藤守就も追放した
林は信長から24年も過去の信行(信勝)擁立の謀反の罪を問われて追放された
安藤は信長に野心ありとの嫌疑をかけられ追放された
林と安藤は未だに明確の理由がわかっていない
安藤の野心は、信忠を担ぎ信長に対しての謀反の計画が漏れたのでは?
ただ水面下では引き続き、信忠を担いで信長に対して下克上を狙っていたのでは?
それが光秀と組んで本能寺の変に繋がったのでは? >>142
もちろん推測でしかないけど、信忠は何処かで光秀を討つ計画だったのでは
信長を討った謀反人の光秀を討つことが、信忠の今後の織田政権の相続を盤石に出来ると思ったはず
信長が万が一本能寺から逃げることに成功すれば、計画が全て水の泡になる
そのときは直ぐに光秀を討つ必要がある
いろいろなケースを考えて、信忠は近くで情報収集する必要があったのでは >>141
信忠は光秀に信長暗殺を頼んでいた
ところが自分も標的になっていると悟って諦めた >>144
意味がわからん
信忠が黒幕で明智に信長を討たせて
それを信忠が討つ計画に明智が協力して
明智を討つはずの信忠が兵と合流しようともせず
騒乱の巷になるのが確実の洛中なら止まってた
どゆこと?支離滅裂すぎだろ
>>143も変てこ過ぎる
安藤処罰の理由が信忠を担いでの謀反計画の露見で
信忠自身信長を殺そうとしてたというなら
その時点で信忠失脚か親子による内乱状態だよ >>146
安藤の野心が何を意味するかはわからないけど、追放処分はかなりの処罰
それなりの野心であったという意味から、信忠擁立を推測しただけ
ただ信忠は一切関係せず、安藤が勝手に担いだってなれば、信忠は処分なし
信長だって信忠には既に家督を譲ってるから荒事を立てたくない
信忠は光秀と本能寺襲撃後、何処かで待ち合う約束をし
そのときに光秀やその側近を密かに討つ計画だったのかなって
実際、二条新御所では何度か明智の軍を撃退してるし、
抵抗できる兵力はあったと思う、もちろん推測の域だけど
光秀にはその計画はとっくにお見通しで、その上で信忠を討った
光秀の方が信忠よりも何枚も上手だった 信忠は光秀が大軍を率いて本能寺を襲撃するとは思っていなかった
大軍は本能寺到着前に周りに計画がばれるだろうし、包囲するのも不向きだと思った
なぜ警護が少ない本能寺に大軍を率いたのか?
もちろん、確実に信長を討つ目的もあったけど、その後の信忠を討つためにも大軍が必要だった
信忠の誤算だったし、光秀が一枚上手だった 新説では光秀自身は本能寺に出陣しなかったんじゃなかった? 信長は物凄く合理的な考えを持った人物
佐久間信盛の追放に当たって、これでもかってぐらい処分理由を述べてる
一方、安藤守就の処分理由は不明瞭
信忠を擁立して謀反の動きがあったって言える訳が無い
織田家内で動揺が走るし、織田対外の大名たちにも衝撃が走るだろう
信長は今後を考え隠密に処分したかったはず
林秀貞も加担したかもしれないし、昔の信行擁立の謀反を思い出し
今のうちの芽を摘んどいたのかもしれない 水面下で信忠を擁立して信長を廃したい家臣たちは
家督を相続している信忠に仕えてるのに、何もおいしい思いが出来てなく
信長がいつ死ぬか待てない、不満が溜まった家臣や先の短い高齢の家臣がいたのでは
信忠も信長に不満はあったけど、その動きに乗ることは出来なかった
ただ、信忠自身で成し遂げた武田討伐をきっかけに自信が付いたのでは
光秀だって高齢で佐久間信盛追放をみれば、将来が不安だったはず
光秀の家臣の那波直治の問題で繋がった2人が本能寺の変に結びついたのでは 信忠は家督を継いだのに家臣団は信長の命令を聞く体制になっている
信長の行為は織田家に対する謀叛のようなもの
信忠は明智に信長を包囲(捕らえ)させて信長を幽閉させるつもりだった
明智もそうするつもりだった
ところが先発隊が家康暗殺と勘違いして襲撃
信長を殺してしまった
明智は信忠に間違いと訴えたが
信忠は明智の謀叛と認定してきた
こうなっては明智も信忠もヤルしかなくなった 信忠陰謀説の人は自説発表は地元ミニコミ誌とかでやって 典型的な黒幕説の展開だね
根拠はないけど動機はこうと考える
→だから真相はこうだ
という
動機が牽強付会
直前に命令無視したのに
「天下の儀も御与奪なさるべき旨」
とますます絶賛された状況
黒幕との謎の信頼関係
互いに漏れれば身の破滅の計画を
無条件に相手を信頼して
一切記録に残さず詰めてる
あたりも押さえててポイント高い >>154
ごめんね、もう少しだけ
信忠配下の美濃衆は元は齋藤家の家臣で、信長と戦い後に従う
その後、信長と共に美濃を出て各地で転戦を重ねる
信忠配下後も益々全国各地で転戦する
長年織田家の為に働くが、一方で恩賞である領地は増えていない
家臣の不満を信忠が抑えきれなくなり、仕方がなく信長が佐久間、安藤、林を追放し
それぞれ所有していた尾張・美濃の領地を再分配した可能性もある
各地から国を超えて兵をかき集め、大軍を持って敵を撃つ
信長のやり方は織田軍の強さでもあり、また弱さでもあった
譜代の家臣ではなく、光秀のような有能な家臣を重用する
信長のやり方も織田軍の強さでもあり、また弱さでもあったように >>155
甲州征伐後に信長に「天下の儀も御与奪なさるべき旨」と言われたが、
信忠はのちに断っているという記述もある
信忠には家臣の不満を抑えて、全国各地を転戦する余裕がなかったのでは
恩賞なき戦いでは家臣が付いてこないと >>157
蘭丸のお兄ちゃんとか甲州討伐の後にめちゃくちゃもらってるよ
信忠より年下で若いけど重臣並みだよ 余裕がないってなんだ
むしろ信忠はあちこち転戦しまくりだろ 信忠が黒幕で家康暗殺を目論んだ
明智の先発が本能寺にいるのが家康だと間違えた
間違えたので信長の遺体を焼却した
明智は信忠を討つしかなくなった >>159 >>160
森長可は森可成の子で、蘭丸を含む可成の子供たちは信長に優遇されている
斎藤利三は稲葉一鉄の娘を側室にしているにも関わらず、稲葉家を出て光秀の元へ出仕している
待遇に不満を持っていた説もある
美濃にいても知行が増えず不満を抱えていた家臣が他にもいたのでは 実際はちょっと脅すつもりだったのが大事になってしまったと 上杉謙信は関東へ延べ13回も遠征し、家臣や国衆の不満から乱が続発する
信忠の各地の転戦も美濃衆の中で不満が溜まっていたのでは
林秀貞は24年も過去の信行(信勝)擁立の謀反の罪を問われて追放
安藤守就は野心の疑いのため追放
林のように過去を遡ると、安藤は斉藤龍興を退去させ稲葉山城を占拠した過去がある
美濃衆に対して、信忠に対し少しでも野心があれば過去のことであっても追放処分するぞと、信長からの強いメッセージだったのでは
ちなみに光秀は本能寺の変後、美濃の西尾光教に寝返りの勧告の手紙を送っている 麒麟が来る 正義の人明智光秀
とにかく裏切り・計略・策謀好き
主君を何度も代える。
本当は先頭に立ちたかった皆殺しの比叡山焼き討ち。
義昭と信長を両天秤にかけ、利用価値の無くなった前主君をあっさり捨てる。
重臣佐久間の事を主君に謂れなき讒言をし、その地位を全て奪う。
八上城攻城の指揮をとり、皆殺しとにかく皆殺し。
年金世代となり、丸腰で泊まるノブをぶっ殺して全てをいただくことを思い立ち、とりあえず殺害。しかし、人望がとにかく無いため直属兵さえ離反される可能性があったため、城にあった金銀財宝はとりあえず部下たちに譲る。
自分は隠居するから味方してと細川幽斎に頼むも、前述のような人柄のため全力で断られ、味方が出来ずぼっちの今後を思い悩み数日安土城で寝込む。
気づけば、猿と馬鹿にしていたハゲが高速で戻って連合軍を形成しており、自分もハゲているので当然惨敗。
とりあえず近場の城に立て籠もるも、味方も援軍も無いので、泣きながら逃亡。
足蹴にしていたような農民に致命傷を負わされ、初めて死ぬ可能性に気がつく。
介錯の後、自分の首は知恩院に運ぶように伝えるも、人望がないため面倒くさがられ手近の場所にそのまま置いていかれる。
すぐに発見され京の粟田口に晒され、前述のような性格の持ち主のため、京都の民から罵声を浴びる。 おツマ木って妻木氏の娘なんだろうか?
でも名字に御付けて呼んだりするかな
光秀が大河の主役になって研究が進んだり新発見を期待したけどそんなことも無かったな その記事前も読んだ気がするんだが
道中の糧食の確保で元々援軍が進軍予定だったの無視して
秀吉専用に一から手配したことにしてるやつ いや、しかし酷かったね
最後まで完全無欠のヒーロー
世界一優しくて
まるで人を1人も殺さなかったかのような(笑)
信長だけが悪魔で光秀が天使みたいな(笑)
いや、イエスキリストか?
Σ(・∀・;) >>176
本能寺の変をナレーションにして
その後を詳しくやって欲しかったよ。
山崎の合戦までを >>176
家臣や一族の末路を隠蔽して光秀の謀反はキレイな謀反のまま終わったのはさすがNHKと思ったw 黒幕など誰もいない。朝廷も秀吉も義昭も家康も信忠もバテレンも誰も。
光秀の白幕なのだ。そこに無防備なままの信長と嫡男が揃ってしまったがゆえに
戦国武将らしく下剋上を起こした、ただの一戦だっただけのこと。
日本史学会では、本能寺の変が起きた理由など全く問題視されていないし、
歴史の流れの一場面でしかないと、テレビで言われていた。その通りだと思う。 >>179
せめて普通に死んでればいいのに
部下家族死なせてのうのう生きてるとか、まるで道に落ちてるウンコ >>173
その記事酷いよね
何の検証にもなっていなくて、自分の望む答えの方向に無理やり事実をねじ曲げている
異説を唱える人の典型 >>180
それが百戦錬磨の光秀にしては浅はかだから謎になってるんだ 百戦錬磨と言っても表立っての軍歴も政治歴も
信長とその政権との関係の中で培ったものだからな
その前提条件を崩した張本人になったら通用しなかった
と言う見込み違いはあったんだと思うな 見込み違いがあったにせよ、決行するにはリスクが大きすぎる
計算できるリスクを何故犯したか? 細川、筒井、高山、中川らが明智に付いたとしても微妙
羽柴、徳川らには狙われる
毛利も引き込んでおらず当てにはしていなかっただろう
そんな計算すら出来ん者が戦国切っての名だたる武将にはなれん
戦に調略は秀吉以上 魔が差した説が一番しっくりくる
ほぼ丸腰に近い信長信忠家康がすぐ近くにいたんだから 信長に反旗を翻した武将達
松永久秀、浅井長政、荒木村重、別所長治
荒木の経験から、毛利は絶対に動かない光秀にも力は貸さない
当然毛利に身を寄せる義昭も直ぐには動かない
動かすには時間がかかる
毛利は秀吉が兵を引けばそれで良しとするのは目にみえている
追撃もしないそれが毛利のやり方
秀吉と細川は繋がっていた
感謝状を送っている
細川が光秀に力を貸さなかったことなのか
それとも、貸すと見せかけて土壇場で裏切ったのか
謀反を先に知らせていたのか キーは秀吉と家康
毛利は領土を守れればそれで良しとすることは誰でもしっている
和睦し秀吉が引き返しても追撃はない
京を押さえたところで秀吉家康連合に挟撃される可能性もある 1579あたりならともかく
本能寺の頃の毛利は疲弊して継戦能力怪しかったそうだね 「言経卿記」にある本能寺の変の描写では、「明智が謀反し(本能寺へ)押し寄せたが、即時に
信長は討ち死にした、※△◆☆・・・・是非に及ばず」と記している。
フロイスの記録によると、「明智の兵は本能寺の戸に達して直に中に入った。同所では謀反を
嫌疑せず、抵抗するものもいなかった」と記している。
これらのことから考えると、明智が本能寺へ行くこと、入ることに誰も抵抗していない。
本城惣右衛門覚書では、「秀吉さまの援軍として向かっているとと思っていたが、それとは
逆の方向へ行けと命じられたので、徳川様を討つものだと思っていた。
本能寺の場所も知らなかったが本能寺に着くと門は簡単に開き、門番がいたが直ぐに殺した」とある。
家忠日記によると、信長は光秀とともに、また家康とともに秀吉の援軍として毛利討伐へ向かい
討伐後には、そのまま九州征伐へ向かうつもりであったともとられる記述がある。
そうすると、光秀は最初から信長のもとへ向かう手筈になっていたのではないか?
光秀だけが先に毛利討伐へ向かうとの命令ではなかったのではないかと思う。
太田牛一は所詮、秀吉のお抱え右筆でした。
なので、やはり光秀の下剋上、魔が差した本能寺の変であったと思うな。 羽柴軍3万
明智軍1万5千
これにもし
細川軍5〜6千(急遽なのでそれだけ集めることが出来たか)
高山、中川連合3千6百
筒井8千
互角かやや上回ると見たか
しかし、リスクは大きい
あっけなくやられることはなくとも長引くこと必至
長引けば >>192
それは誰でも知っている
魔が刺しては戦は出来ん 門番も殺したんだろうと言うふうに解釈出来るだけで
簡単だったとしか書いてない 単純に自分の存在の過大評価
織田政権というものの過小評価
義昭と信長を結びつけたキングメーカーの俺様
諸国は信長の武威で服してるだけでいなくなれば
田舎侍に過ぎない織田の武将たちは動けまい
と思ったら信長討った俺はただの謀反人
織田家の武将達はちゃんと部下をまとめて
ばっちり討ちに戻ってきたでござる >>172-173
こっちの意見のほうがうなずける
不思議でも何でもなかった、秀吉の「中国大返し」
https://news.yahoo.co.jp/articles/8031121986b9be4fbd728e468a2aec7b70c2262f
> 現状では、戦国史研究の第一人者のである先生方までもが、こうした点に疑問を呈し、
> 秀吉は光秀が謀叛することをあらかじめ知っていたのではないか、などと大まじめに論じている。
> しかし、秀吉の迅速な判断と行動は、筆者にいわせれば不思議でも何でもない。
> 秀吉が置かれた「現場」の状況を「作戦」という観点から分析すれば、むしろ当然の判断とすらいえる。
> どうも、研究室で史料や論文を読んでいる先生方は、戦場という現場で起きている事件を、
> 「軍事」という観点から理解することが苦手のようだ。 大返しの際の道々の補給は、そもそも信長の援軍を呼んでいたんだから、援軍のための補給体制は準備万端であったろうよ 別に信長軍用の食料でなくても、毛利と和睦しなければ兵糧は後方から運ぶはずだったんだから
大返し中にそれ食えばいいだけだからな
おにぎり何十トンとか言ってる先生は高松城を囲んでる羽柴軍は兵糧を現地調達してたとでも思ってるのか 明智十兵衛ハ室煕子トモニ妻木氏ノ出ナリ
齋藤山城守ノ臣トナリ、明智ト称スルモノナリ >>11
足利で足軽からだよ、足軽の前は朝倉のとこで細々と。
足軽が41歳のころ 43歳で比叡山だよ 55歳ぐらいが本能寺。
ぽっと出てポット散った。完全農民の秀吉とちょっと武士かもの光秀。
ほぼ同じようなオッサン新人起用で競わせた結果。 細川家記は古田織部も細川の家臣にしてるし信頼性はどうなんだろう 別スレで本能寺の真犯人は家康説が出てるけどどうなんだろう、その場合内通者が居る前提となるけどあり得そう。