【なにやってんだ!?】長宗我部が四国を統一したのは完全に失策 [無断転載禁止]©2ch.net
土佐→阿波→(海を渡って)→摂津→山城
の順で領土を拡大し、最短で上洛すべきだった。
狭い四国に籠ったことで天下統一レースから完全に脱落してしまったのだ。 >>49
確かに土佐時代の家臣の扱いや後世の評価はともかく
徳川方についたら少なくとも寺子屋先生からは脱却して
熊本にいる異母弟も死なず長宗我部直流の血は残るだろうね 信親の死が惜しまれるね。
盛親もそんなに不出来ではないんだろうが、
運を味方に付ける、掴む能力に乏しいというか。
南宮山麓で安国寺や長束と何を語ってたのか興味あるわ。
勿論伝令を介してではあろうけど。
盛親「とりあえず、俺ら居る意味無くね?」
こんな感じか?主体性無しw 藤堂さんと仲いいしね
周知の仲ならますます無理矢理西軍へ引き込むのは難しそうだ 秀吉、明智→明智
柴田、秀吉→柴田
秀吉、家康→家康
石田、家康→石田
豊臣、徳川→豊臣
悉く、裏目に出たンゴ >>58
光秀存命でも三好康長が生きてたらどうしようもない
高屋城の戦いで死んでたらそもそも派閥争いは起きてない そもそもの話長曽我部が四国統一を果たしたと言われている時期に
河野が独自の書簡を出してるから統一できてたすら怪しいとかって話らしいぞ 伊予河野氏、阿波土佐泊城、讃岐虎丸城は降伏してないって愛媛、徳島、香川の研究者が涙目で主張してる 信長も天下統一目前で・・・ってよく言われるけど
中央の権力を奪取した時点で統一というわけで全国あまねく支配するのが統一じゃない
つまりは三好も一度は天下統一したと言っても良いみたいなのを何かで読んだな
そうなると事実上、四国内には単独で長宗我部に対抗できる勢力がいなくなった時点で
三好の残党や河野が息も絶え絶えで残ってたところで
統一はしていない!ってのも無理があるような気がする 言っても実質毛利と長宗我部の抗争でそ
四国が基盤であることに固執する必要も河野と毛利を切り離して考える必要もない ☆ 日本の核武装は早急に必須です。総務省の、『憲法改正国民投票法』、
でググってみてください。現在、衆参の両議員のそれぞれで、改憲議員が
3分の2を超えています。私たち日本人の、日本国憲法を改正しましょう。
憲法改正国民投票法、でググってみてください。お願い致します。☆☆ さっさと秀吉に降伏して土佐+数カ国で関ヶ原に挑んだ方がチャンスはあった 長宗我部は卑しい海賊だと聞いていた
負け方で逃げたのが生き延びて、北海道の士族入植で何とか続いて
その果ての自分が書き込んで見る
自分は今首都圏にいるw ウチは志摩だか宇摩だかに関係あるみたいだけど
例えば「志摩守」だと「しまんのかみ」
「宇摩守」は「うまあのかみ」と読むらしいと
そんな話は普通に聞いて育った
家系図の女の人(奥さん、お嫁さん)は「室」
家で生まれた娘は「女」
特に偉い家から来たお嫁さんには「◯子」という名前があって
何かひどいもんだと思ったり。 ちなみにウチは長宗我部が勝った後に子孫に祟って
狂死させたらしく、某神社の祭神になってるw
世が世なら俺は神www 長曾我部と島津を同じレベルだと思ってる奴がいるがやめて欲しい
九州と四国じゃ人口もレベルも土地の面積も全然違う
島津が一番とは思わないけどただの山猿だと思わないで欲しい
毛利>島津>>>長曾我部 昔は知らんけど
現在九州の人口は1300万人
四国の人口は380万人
てか四国の人口少なすぎないか九州も少ないんだけど
まぁみんなからしたら島津も長曾我部もどんぐりの背比べかねw 全国八地方区分で
九州は北海道、中国、四国、東北より人口密度は濃い
九州は沖縄入れると中部地方と人口密度は変わらない
佐賀市以外の県庁所在地は40万以上(※宮崎が陥落しそう)
戦国時代は人口が多い地域だったと思うよ まあ、どっちにしろ石高からしても動員兵力からしても
実際に人が住める平地面積にしても
四国が過疎地だってのは昔から変わらんだろ 島津が長曾我部と同じような評価受けるのって九州征伐であっさり負けちゃったからだよなー
紹運嫌いだわ
確かに島津が過大評価されてる部分はあるし極端に持ち上げてる奴もどうかとは思うがナメられてて腹立つんだよね
宗麟みたいな変態に忠義とか馬鹿じゃねーの?
玉砕するに値する名君なら分かるけどさ
宗麟ってなんで一部の家臣からあんな人気あんだ? あんまり基盤が出来てない状態から一代で四国統一した長曾我部と同等ならそれで良いかと思う部分はあるけど 元親と義久だったらどっちのが上だと思う?総合的に見て
俺は元親だと思うわ
それくらい元親自体は評価してるし実際凄いと思う
俺は島津の方が長曾我部より上だと思ってるけどそれはあくまで義久がチートな弟たちに支えられてたからだと思う >>80
島津は兄弟揃っての評価だよな
単体で比べるのはかわいそう
元親の弟達も悪くはないけどねw 忠良貴久が築いた財産の分割引いて評価されてるだけでしょ
国親も大した人物だけど元親が後を継いだときの長宗我部家と義久が後を継いだときの島津家じゃ
後者の方が断然状況はよさそうに見えるし >>82
義弘とか歳久とかは内政もある程度できたし伊集院とかもいたし
もちろん義久は優秀だと思うんだけど
まぁ島津兄弟は全員揃ってこそなんだろうね
家久は戦闘だけだし
単体だとやっぱ元就とか元親のインパクトは凄い 島津は総合的に突出したのはいないけどそれぞれの分野で突出してる奴が揃ってるイメージ
間違ってたらごめん そういや話変わるんだけど四国征伐の時島津って長曾我部を助けることは出来なかったの? ■ハプログループで語るスレに出没し、数年に渡って荒らしまわる危険人物
IP:221.52.219.121 = Y染色体ハプログループO2a2b1a1= キットナンバーN264217 = Chosogabe
https://www.familytreedna.com/public/japan?iframe=yresults
本物の秦氏の子孫、秦の始皇帝の末裔と考えられるY染色体保有者
■バレたスレ
【IPなし】ハプログループで語るスレ 裏スレ3
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/geo/1535447834/276
■荒らしているスレ
【Y-DNA】ハプログループで語るスレ44【mtDNA】
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/geo/1524323706/
【IPなし】ハプログループで語るスレ 裏スレ3
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/geo/1535447834/
■内容
・漢民族(O2)にアイデンティティを持ち、O1bを朝鮮人、D1bを土人として決め付け徹底的に差別。
・天皇家が自分と同じO2であると妄想し、異なる意見を片っ端から罵倒し粘着する。
・人がいない時は延々と根拠無い妄想を垂れ流し、自己満足に浸る(数年継続中)。
・縄文人が気に入らないらしく、下層階級、底辺、エタ、土人とこき下ろす。
・弥生人も気に入らないらしく、チョン一重とこき下ろす。
・ヒートアップすると相手を精神病扱いする癖あり。
・口癖は「一重二重」「んだよ」 ←妄想の押し付け
・立場が悪くなったらコピペ連打のパラノイア。
おい、長宗我部のガチの直系子孫(遺伝子確認済)がトチ狂って2chで荒らしまわってるぞ。
家臣団の子孫が居たら救いにいってやってくれ。 スレタイとはあんまり関係ないが、四国出身者に多い十亀姓って、長宗我部と同根だと思うんだがどうなんだろう?
長宗我部ももともとは「すがめ」姓に当て字して宗我部になって、後から長がついたと何かで読んだが >>89
ほんまかいなと思ったけどネットではたしかに十亀の語源は蘇我氏の部民とあるので同じだな >>86
信長の野望で長曽我部でプレイなら島津と同盟するわ。出来れば毛利とは事を構えず力を近畿方面に集中させたい。 >>9
これのどこに摂津上陸するタイミングがあるというのか
たとえ本能寺時の光秀と密約があったとしても阿波や讃岐の三好勢力を放ってとか無理 >>42
それしてたら春日局との縁で大身旗本取り立てくらいはあったかも
うまくいけば1万石で大名復帰の目もあった >>94
土佐復帰できないならろくに兵を集められないだろう 豊臣の空手形で兵が集まったわけじゃないだろう
もちろん徳川方参戦なら軍資金的に厳しくなろうが >>86
その頃の島津って伊東氏の残党狩りして日向全域をほぼ掌握したばっかりで、さらに阿蘇攻めも始めたとこだからそんな余裕ない >>93
本州上陸は無理でも、淡路島を抑えることは可能だったのではないか? >>100
土佐泊城の森さんは水軍を持っていたんだから、攻めずに懐柔すれば良かったと思うんだが。 そもそも長宗我部に天下統一の意志があるわけない
とりあえず四国を獲ることが目標だったとしか言いようがない 三好を考えると伊予はともかく阿波と讃岐を押さえたら近畿上陸は可能だった?
どちらにせよ織豊がいるから時すでに遅しだわ 三好と戦っていたときは長宗我部の勇戦を賞し、四国は切り取り次第と言ったにも関わらず、土佐、阿波以外はやれぬと言い出した。
元親は、信長の勝手な食言に怯むほどひ弱ではない。無視した。 >>105
阿波まるごとくれるなら言い出した時の長曾我部領を考えると妥当では
領地召し上げというより単なる停船命令
阿波の一部じゃなかったっけ? >>103
まず阿波、讃岐、淡路まで完全制圧できないとスタートラインにさえ立てない 68年までに土佐を統一して信長に接近して、四国は任せろ
という状況だったならなあ
中央で巨大勢力ができた時点で諦めるしかない 秀吉はなんで信長と同じ条件を出したんだ
光秀と通じていたからか 畿内の喉元の四国を全部なんかやれる訳ないじゃん
なんとか交渉して土佐阿波を認めてもらって九州攻めに死力を尽くして別の地方に加増転封してもらうのが最高か 長宗我部を指して「鳥なき森の蝙蝠」って誰が言ったんだ
信長か秀吉か >>111
既に精神崩壊してたのかもしれないが大隅加増を断ってるのだよなあ
あんな飛び地を貰ってどうすんだってのもあるのだろうが 戸次川で主力が壊滅してるのに加増されても治められないだろう 空きが出来次第の隣国での加増も断ってるのだっけ
仙石はともかく十河との扱いの差は単純に当主の生死ゆえか 長宗我部の軍事力は役に立つ
三好宗家の継承権を主張する十河はむしろ邪魔 所詮は雑魚狩り専門だわ
島津相手にはひと支えもできずに全滅する
だめだこりゃ 秀吉から、仙石・十河らと島津征伐に行けと言われたとき、長宗我部はどういう気持ちだったのだろう?
「え!?マジかよ?つい最近まで敵だったんだぞ?なんかばつが悪いんだけど…」みたいな感じか? しかし四国統一に動かなかったらどうしたらいいんだ?
伊予は毛利にやって対織田に全力投球? それとも四国西部には手を出さないで伊予から九州や四国に上陸? 織田や豊臣と戦っても勝ち目ないからさっさと降伏するのがベスト 小牧長久手の時が最大のチャンスだったかな
畿内方面に上陸侵攻していれば、あるいは・・・
まあ、政宗よりは元親の方が天下取りの可能性高かったと思う 都に近かろうが遠かろうが、問題は豊臣政権内でどのように泳ぐかですよ。 三好は阿波から上洛して天下を獲ったけど、結局は足利幕府にかわる新たな権力体制を築けず信長に追い落とされたじゃん
長曾我部も上洛を果たして一瞬京都を占拠できたとしても維持ができないだろ 三好は永禄の変の時義昭を軟禁してないで殺していれば信長が上洛する大義名分も生まれなかったんじゃね? 細川氏綱や足利義輝を傀儡として頑張ったようだけど三好家はもう少し権力体制作りに工夫ができたのではなかろうか。
朝廷を最大限に利用して三好幕府を開こうとかなぜ思わなかったのだろ 四国という土地は大阪湾や瀬戸内海の制海権を握らないとどうにもならん でも冷静に考えると
三好の最盛期>六角の最盛期>長曾我部の最盛期で
四国の8割統一してたとか言ってもショボイというかなんというか・・・ 三好って知名度無い様な気がするんだけど何で?
かくいう俺も知りません。 >>133
大内とか六角とか短期的に京を制圧した連中も知名度ないし同類かと
信長以前の戦国時代なんて戦国好きじゃなければ有名でもない 信長は大内や六角や三好の失敗から物凄く学んだけどね。
結局彼らが権力基盤を盤石にできなかったのは将軍を中途半端に傀儡にしたからだと 信長も義昭を傀儡にして逆に包囲網を作られて苦戦してるじゃん
一体何を学んだの? >>136
包囲網は作られたが結局はそれを跳ね返して毛利領に義昭を追っただろ。 何も学ばすに足利将軍を傀儡にしたけれども
反抗されたので力で跳ね返したということやろ なんだ上洛しても天下取れるわけじゃないやん。上洛やめた。 史実では信長が7万の軍勢(信長自体は3万、その他が4万)で上洛したから三好は一戦もせずに阿波に逃亡したけど
長曾我部はどう頑張ってもそんだけの軍勢は集まらないから最初から詰んでたな 明智光秀なり柴田勝家なりを勝たせて政権内No.2〜3くらいの位置につかないとまず始まらない >>140
7万もいるわけねーじゃん。
尾張、完全制圧してない美濃と北伊勢の一部じゃ2万5000程度が限度。
桶狭間の今川軍4万5000といい当てにならん一次史料だな信長公記。
信長公記は武田と北条が対陣したときも北条軍6万と書いてたり4割近く大げさな数を書く癖がある。 そもそも信長公記に上洛時の兵数なんて書いてないんですが… >>140の言うその他4万がどこから現れた軍勢なのかで話は変わる
織田軍で3万なら不可能な数字じゃないし 援軍の浅井正澄、松平信一らも合わせて3万なら妥当じゃね そもそも信長公記に上洛戦に浅井、徳川が参加してたなんて記述は無い。 4万は眉唾としても畿内の反三好派を勘定したとか
織田軍が2〜3万で上洛したら畿内の反三好派や親将軍家の武家が参じたとか 信長公記みたけど確かに上洛の兵数なんてないな。
wikiとか歴史本に出てくる6万ってどこからきたんだ。
本能寺の後の神流川、天正壬午の乱で180万石ぐらいの北条でさえ5万が限界だったのに
120万石程度でしかも美濃は制圧したばっかで6万はない。
桶狭間では2000しか集められなかったのにどこから沸いてきたんだ。 信長は上洛する際に「天下布武」というスローガンを掲げ
足利義昭が日本中の大名と国人に御教書を出して上洛に供奉せよと命じた。
真向から反対したのは一色氏(斎藤家)、六角氏、北畠氏などだが
多くの国人は新政権にいっちょ噛みしたくて慌てて合流したし
大名も後々因縁つけられて征伐されちゃ敵わないから兵を派遣して義昭の上洛に付き従った。