もしも秀吉の朝鮮出兵の目的が朝鮮支配だったら [無断転載禁止]©2ch.net
そうだとしたら、奥地には攻め込まないだろう
最初から海岸線に港と城を確保して持久戦
しかし、結果は変わらないのではないか
モンゴル人(遊牧民)と違って、何年も外国に暮らすのには耐えられない 持久戦になって満州との絡みがでてきたら面白そうではある 長期的な支配自体が目的だったら、もっと朝鮮人民の人身掌握をやってそうなんだよな フロイス『日本史』
・これら武装した異様な集団の中にありながら、(朝鮮の)老幼婦女子たちに対する
(日本側の)安全保障(態勢)には見るべきものがあったと言われる。(朝鮮人)は
なんの恐怖も感じずに、自ら進んで親切に誠意をもって兵士らに食物を配布し、手真似で
何か必要なものはないかと訊ねる有様で、日本人の方が面喰っていた。
・一部の朝鮮人は、生計に窮して、日本人のように月代を剃り、頭髪を結んで日本人を
装い、掠奪を目的として手真似や恐喝でもって同胞を襲った。
『宣祖実録』
・六月二十三日、日本軍に変装した匪賊四十余人が、晋州の陽全里に押し寄せて、
伏兵将李永寿と女児二人を拉致し去った事件があった。
その頃、晋州・固城沿海の漁夫らが土賊どもと結託して、日本軍に変装して横行しながら
掠奪狼藉の限りを尽くしていたので、怯えた百姓らは、それを避けて日本軍占領地区である
咸安郡・鎮海県・漆原県地方の郷里に帰って、小屋を建て農耕に従事する者が増えた。
と、日本側が特に人心掌握の策を取らなくてもこんな感じだったから
積極的な策は打たなかったのかな?
日本側よりも日本人に化けて狼藉を働く同胞のほうが民を恐れさせてそれから逃れるために
日本側支配エリアに来たりしていたらしい だとすると積極的に人身掌握やその他の政策を実施してれば長期支配は可能だったんだろうか 問題は、明がどう動くかだね。
臣下の礼をとっている朝鮮がみすみす日本の手に落ちるのを傍観すれば威信に関わる。
しかし日本軍が人心掌握をうまくやれば朝鮮は明に援軍要請をしないかも知れない。
明の領土が侵されていなければ、積極的に朝鮮まで兵を進めないかも知れない。
明が軍を動かすか否かは、朝鮮が明にとってどれだけ地政学的に重要であるかによると思う。 海岸線の倭城ちかくまで、明の大軍がやってきているんだぜ。
日本の武将が、朝鮮の領地を経営したくても
これじゃ不可能だし、城の外に自由に出歩くわけにもいかない。言葉も通じないしな。 >>9
スレタイの仮定で考える場合、
・日本軍、平壌を越えたあたりでピタリと進軍停止
・堅固な防衛ラインを構築する一方、朝鮮国内で宣撫に努める
・明軍がやってくる、両軍にらみ合い
・ちょっとした小競り合いを繰り返し、一進一退までもっていって厭戦気分を高める
・明と交渉に入る。日本軍は38度線まで後退するが軍事境界線として厳重に防衛。北朝鮮エリアは琉球状態にして日明両方にチャンネルを開かせる、という協定を締結。
...難しいかなぁ。 >>10 そうすることがよかっただろうね。
なぜできなかったかというと、「宣撫に努める」というのが、これは調略や交渉、和議と
いったものも含むが、言葉が通じなくてできなかったからだ。
秀吉は調略や寝返りをさせるのが得意だったという評価があるかもしれないが、朝鮮ではさっぱり
できなかった(しなかった)ことを思うと、それまでは秀吉の手柄ではなく、現地将兵の交渉の
手柄を、ただ秀吉が自分の手柄にしただけだったのだろう。
朝鮮政府?内部の対立候補に肩入れするということが、さっぱりできなかったからな。これを
できたならば、明を占領した騎馬民族みたいに中国全土も制圧できただろう。ちょっと誇大妄想だが。 元や清は朝鮮半島を制圧するにあたって満州から進行してったんで、
宋や明の軍を朝鮮軍と一緒に相手にせずに済んだのはかなり大きいかも
実際、元が済州島の制圧に苦戦した以外はほぼ遊牧民族側のワンサイドゲームだったし >>12
対蒙古戦について
韓国人学者が書いた歴史本の日本語訳を読んだが
高麗軍が蒙古軍に大勝利してることになってる
これホントだから >>13
それはあの国ならありそうなこと
まあどこの国でも多かれ少なかれあるだろうけどさ >>11
その、過去に交渉を成功させた将兵とやらは朝鮮に連れてかなかったの?
そんな逸材なら当然連れてきますよね? >>15 言葉が通じないといってるだろばか。親類縁者もいないんだぞ。 >>16
失礼ながら、貴方の論理構成には無理筋がある。
>>11の第3センテンスにおいて、秀吉が朝鮮で調略や寝返りをさせられなかったのは、秀吉にその能力がないためであるとしている一方、過去の日本国内の戦いで秀吉の調略・交渉の手柄とされているものは実際は現地将兵の手柄によるものだと主張している。
つまり、日本には>>15の言うように調略・交渉に長けた将兵がいたことになる。
しかし貴殿は>>11の第2センテンス及び>>16において、朝鮮において調略・交渉等が出来なかったのは言語の問題と断じている。
そうであるなら、貴方が秀吉の交渉能力を問題にしていることには意味がない。
秀吉が本当に交渉能力に長けていたとしてもそうでなかったとしても、あるいは配下の武将が交渉能力に長けていたとしても、言語の問題で全てがパアになるのだから、そもそも日本側の調略・交渉能力について論じたのが誤り。 >>17 あははは。君は面白いね。そんな論理よりも具体的に言った方がいいんじゃない?。
机上じゃなくてさ。
戦国時代の戦においては、戦場では実際にはそこの土地の者が、先手となって最前線で戦う
という伝統になっている。地形や道もよく知っているし。特に城に立てこもって
いるとなれば、守る城兵に対して、攻める側にもどちらにも親類がいる、という土地の者がいるから
そういうのが仲介の手引きをする。
ともあれ、日本国内においては当たり前であるし、秀吉も現地の将兵も同じような認識でもって
対応している。
問題は、朝鮮半島においてだ。
秀吉は老いていたためもあろうが、朝鮮王朝?内部の反対勢力を味方につけてその後押しをして
乗っ取るというやり方をしていない。現地将兵でも、朝鮮軍が城にたてこもっていて、それを
日本軍が攻めるときは、日本国内ならあるていど攻めたら和議で命を助ける代わりに開城する、
というのをよくやっていたが、朝鮮では間にたつ人がいなくて、徹底抗戦になることが多かった。
日本と朝鮮の両方の血縁の親類となるものが少ないうえに、言葉も通じなかった。だから、秀吉
一人のせいではないし、現地将兵でも同様だった。和議で味方に寝返りさせるという日本の
戦国時代の大きな特徴が発揮できなかったわけ。調略・交渉に長けた将兵がいたが、
血縁や言葉の欠如によって、朝鮮という外国では発揮できなかった。明をサルフの戦いで破った
のは清だが、清の騎兵だけで明をほろぼしたのではなく、清は実際は、明だが寝返った呉三桂の
軍勢のあとをついていっただけだ。
説明するのが、めんどくさくなってきた。おわり。 >>17 >>18
遠征軍の朝鮮人への民心活動の例を朝鮮側の記録から二、三つほど挙げたいが、
黄石山城の戦いで金海出身の朝鮮人たちが遠征軍の内応の誘いをうけて
城外に脱出したことにより場内の朝鮮軍はパニックを起こして、
その隙を遠征軍に突かれて城は陥落してる。
そして道案内だけではなく、各遠征軍の部隊に従い
明軍や朝鮮軍と戦う朝鮮人も多くいた。
また遠征軍は朝鮮の僧侶、両班を活用して各地の朝鮮人の人心掌握を
務めたりして成果を上げてる。
文禄の役では緒戦は多くの朝鮮人が遠征軍に味方して快進撃を続けたが、
次第に離れていきいわゆる義兵という現象が起きたとのイメージが一般に
持たれているようだが、これは誤りであり、
文禄の講和がなるまで、遠征軍に従って各都市町村や朝鮮人は
非常に多く、講和後に李氏朝鮮政府がこれら朝鮮人たちの
処罰をどうしようかと大問題になり、幾度も会議が開かれたほど。
結局、遠征軍に従ってた、莫大なすべての朝鮮人を処刑するのは、
非現実的であるので、その地区の責任者や積極的に従っていたものを
処刑するだけにとどめ不問するにとどめた。
日本で何となくイメージされているより、朝鮮人たちは
日本軍に協力的であるのがわかる。 強いものになびく、という処世術だろ。
どちらが強いか見定めて、勝ち馬に乗る。大国に挟まれると、生き残りの知恵だからしょうがない。
小西行長は朝鮮や明へ、さかんに交渉をもちかけている。
朝鮮の王や使節が秀吉にとった態度は、かなり憤懣ものだ。
清へは朝鮮王が自ら出向いて土下座して礼をしたというのに。
鴨緑江の川岸に倭城を築いて一進一退ならともかく、釜山周辺で一進一退では
朝鮮王の態度の差を見ても
日本軍は大劣勢になっていたといわざるをえない。 秀吉が2回にわたる朝鮮出兵を終えたあと、
今度は、清軍が2回にわたって大軍を出兵して、朝鮮半島を今度は北から蹂躙。
明は滅ぶし、朝鮮も全面降伏したが、これでは当時、半島に財産はもう何も残ってなかったと思われる。 >釜山周辺で一進一退では 朝鮮王の態度の差を見ても
>日本軍は大劣勢になっていたといわざるをえない
ひょっとして文禄、慶長の役の経緯を知らない?
ついでなんでおさらいを文禄・慶長の役の概要を記しておく。
文禄の役は遠征軍が平壌まで進軍後、
統治のために進軍を停止する。
その間に加藤清正軍は朝鮮島北部に進軍、
小西行長軍が統治する平壌には、明軍が攻め込むが撃退する。
そうして明側の沈遊撃が小西行長と和平交渉をして、
50日間の休戦協定が結ばれた。
しかし、明の朝鮮派兵のための時間稼ぎであり、
小西行長を欺くための罠だった。
たびたび交渉を行ったので、実質は50日以上の期間になり、
こうして文禄2年の1月に明軍43500人と朝鮮軍17000が
一万人前後の小西軍を騙し討ちにする。
しかし、明朝鮮軍は小西軍が立て籠もる平壌城を
占領することができず、開城勧告を行いようやく城を奪還する。
明軍の死傷者は3000人 朝鮮軍不明
明軍が得た首級は1285だが、半数は朝鮮人の首で水増しという情けないものだった。
こうして明軍は、遠征軍が統治しているソウルに向かうが、
碧蹄館で遠征軍の猛烈な反撃にあい大敗北を喫する。
朝鮮入り後、わずか3ヶ月足らずで明軍は15000人近くの兵員を失い、
厭戦気分が漂った明側が、日本に和平交渉をおこなう。
交渉の結果、明側が二人の人質を出して、日本に和を乞うという形で
纏まったので遠征軍は、莫大な物資が届けられている釜山周辺に移動したわけ。
これが文禄の役の経緯。 慶長の役の目的は、慶長2年に全羅道と忠清道の討伐と
半島南部で築城及び迫る敵の迎撃。
蔚山攻防では明朝鮮軍は17000人以上の損害をだして敗退。
これはすべて日本側の戦略戦術通りに進んだ。
慶長3年は遠征軍の一部は日本本土に帰還して休養し、
残った一部の部隊は、1月から夏にかけて全羅道と慶尚道で、
10回以上も攻勢にでている。
また明朝鮮軍が12万近くを動員して蔚山、順天、シン川に
攻め込んできたが朝鮮側の記録で【人が溶けた】と表現されるほどの大敗を喫した。
太閤秀吉が亡くなったので、遠征軍は逐次、日本本土へ帰還するが、
明軍、朝鮮政府と遠征軍の間で、攻撃をしない了解がとられていたが、
朝鮮水軍の李舜臣と明水軍が小西行長軍の追撃にでる。
小西軍救出のためにきた島津軍と海戦になり、
大将の李舜臣以下配下武将も10名が戦死し、明軍も副将が戦死した。
慶長4年には、遠征軍は首都ソウルを目指した一大攻勢も予定されており、
余力は充分にあったわけで、勝利の可能性がないなんて嘘もいいところ。 予定だけなら大戦で本土決戦からの大逆転狙ってた人らがいたような? >>24
豊臣軍VS明軍 の対戦表↓
明軍が関わった数万単位の合戦で、明確に明軍の勝利と
言えるのは第三次平壌攻めくらい(おまけに不意打ち)
第二次平壌の戦い(日本勝利)
第三次平壌の戦い(明軍勝利 勧告により小西が城を明け渡す)
碧蹄館の戦い(日本勝利)
稷山の戦い(日本勝利)
南原城の戦い(日本勝利)
第一次蔚山(日本勝利)
第二次蔚山(日本勝利)
泗川 (日本勝利)
順天(日本勝利)
露梁(日本勝利)
露梁について補足。
明軍、朝鮮軍、日本軍の2倍の兵力&待ち伏せの好条件ながらも
小西軍、島津軍を殲滅できずに取り逃がす。
朝鮮軍主将の李舜臣が戦死 明軍副将のケ子竜が戦死。
特に慶長役で明軍が負けた戦いは、いずれも明史、朝鮮王朝実録などで
大敗、大損害、人が溶けたと表現されるくらいの潰走っぷり。
第二次晋州城攻防戦では明軍救援に赴かず(または秀吉軍に撃退されたとも)
南原の戦いでも付近にいた陳愚衷旗下の明軍3000千は動かず、
南原が落ちると、これも付近にいた朝鮮軍1000とともに散り散りになって逃げた。
戦意も低く、日本軍を恐れているのがわかる。 明軍と朝鮮軍が混合になる時はやはり明軍の将が指揮を取っていたんですか? 【同盟国】 ジャップを3S中毒にし、親米ポチに右翼を演じさせ、自衛隊に殺戮をさせよう。 【占領国】
終戦時の米大統領トルーマン
「猿(日本人)を『虚実の自由』という名の檻で、我々が飼うのだ。スポーツ、スクリーン、セックス(3S)を解放すれば、真実から目を背けさせることができる。」
https://twitter.com/toka iama/status/765657758196637696
ヘルマン・ゲーリング
「国民を戦争に参加させるのは、常に簡単な事だ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、
平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしてると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ」
https://twitter.com/neko_aii/status/765532497778139138
◆「得票0に疑義」と提訴 参院選でJAM組合員
http://www.sankei.com/affairs/news/160809/afr1608090021-n1.html
実は、非常に奇異な点があるのだ。それは、区によって、「票があるところ」と「まったくゼロな区」があるのだ。三宅洋平の得票では、
豊島区ではなんとゼロ票
中央区ではゼロ票。
江東区ではゼロ票、
荒川区ではゼロ票
足立区ではゼロ票
通常、こんなことは考えられない。
慶応の学生です。大学の教授が今回の選挙についておかしい部分が多いとツイートしています。
500の束のバーコードを他者に振り替えていると考えられると言っています。
例として幸福実現党は都内に信者がある程度いるはずなのに、3区以外はすべて0票。犬丸氏も同じだったと言います。
また、娘さんが練馬区で三宅氏に投票、他知り合いが3人も入れたのに、0票。 池袋、渋谷で0票もおかしいと書いています。
明らかにム サシの機械での操作があった可能性が高いと書かれています。 技術的、文化的、経済的に戦国時代より遥かに発展した大正昭和ですら
極貧で労働意欲が低い朝鮮にいくら本国から税金を投入しても赤字が減ることがなく頭痛の種となっていたのに
戦国時代に朝鮮を支配するとか到底無理な話だよ
そもそも中国が自国に取り込むこともせず放置し続けた事を考えれば分かるだろう
せいぜい自国に対して悪さをしないように従属下に置いておけばそれで良いというスタンスだった >>29
豊臣時代〜江戸初期には多くの日本人が様々な目的をもって東南アジアに
渡っていたが、活躍していたが、朝鮮遠征が成功もしくは領土割譲等で
南部を日本側が領有することになれば、
多くの日本人が渡ってくることになったであろう。
それと歴史の事実として文禄・慶長の役を通じて遠征軍の統治下だった
釜山、西生浦、金海といった地域の朝鮮人たちは
日本文化に同化・日本式の習俗で生活し、年貢を納めていた。
また李氏朝鮮領内の多くの朝鮮人も商売や移住のために日本側地域に流入し、
日本人と非常に親しくなっている。
日本武将付きの御用商人になる朝鮮商人、腹心になる朝鮮人者たちや、
家族もろとも日本に移住しようとする朝鮮人もいた。
李氏朝鮮は当然、この現象に狼狽し激怒し、通行の取り締まりや処罰を
強化したが、それでも日本側地域への潜入は止められなかった。
これらの記述は慶長の役が起こる前の交渉期間中の朝鮮側の記録。 それは無理だな
在日なんて日本に100年住んでいても同化どころか超反日だし 秦の始皇帝の番組見たけど
秀吉の出兵から1800年も前にすでに動員兵力50万、
堅固な城塞、強力な打撃力の兵器とか、
とてもじゃないがその時点でもすでに勝てる気がしないんだが。
僅か20万の軽装備の兵で有頂天になって
明との戦いとかあまりに無謀過ぎないか?
あまり中国の事情とか知らなかったんだろうけど
彼らが本気で攻めてきたら豊臣一族なんか速攻で捕えられ
車裂きの刑に処せられてたと思う。
内政が不穏とかいろいろ要因あったんだろうが
明と全面戦争にならなかったのは運がよかったとしか言いようがないな。 >>32
明も国として晩年もいいとこだからなぁ
対日戦の戦費でガタガタになって崩壊一直線になったわけで
たまたまだろうけど、大陸侵攻のタイミングとしては絶妙なんだよな 唐入りでは数に勝る中国軍の精鋭部隊が数に劣る日本軍の二軍級部隊に何度も負けてんだし、
もし仮に本格的な全面戦争が実現したら日本軍の優勢は明白
「明史」
「自倭亂朝鮮七載、喪師數十萬、糜餉數百萬、中朝與屬國迄無勝算、至關白死而禍始息」
(豊臣秀吉による朝鮮出兵が開始されて以来7年、(明では)十万の将兵を喪失し、百万の兵糧を労費するも、
中朝(明)と属国(朝鮮)に勝算は無く、ただ関白(豊臣秀吉)が死去するに至り乱禍は終息した。) >>32
支那兵とか略奪と民間人虐殺ぐらいでしか強さを発揮できないから何の驚異でもない
事実、漢族より圧倒的に人口が少なかったモンゴル族や満州族に何百年も支配されている
満州族に至っては1/100程度の人口しかいなかったと推測される
日本においても弘安の役ではモンゴル族・漢族・朝鮮族が15万の大軍で押し寄せて来たが
敢えて助けた2万程度の漢族を除いて鎌倉幕府軍にほぼ皆殺しにされている
常備兵力100万、総動員をかければ更に数百万、火砲も多く戦慣れしていた桃山時代に
万が一(無理だが)日本に上陸したとしたら早々に全滅の憂き目に遭っていただろう 大正時代の本なのにちゃんと出典引用してて凄い
徳富蘇峰「近世日本史 豊臣氏時代 乙編」
http://dl.ndl.go.jp/view/jpegOutput?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F960830&contentNo=214&outputScale=2
五箇条詰問の中にて、奴隷売買の一件は、最も重大であった。しかもコエリョは、ただ言葉を濁して、申し訳したるのみにて、その事実を否定すること能わなかった。
それもその筈だ。これはポルトガル商人が公々然行うところの罪悪であったからだ。
その詳細の顛末はレオン・パゼーがマドリッド府の歴史学士院の文庫を捜索して得たる文書を、その日本耶蘇教史の付録に採録したるもので分明だ。
その一節に曰く、
ポルトガルの商人は勿論、その水夫、厨奴等の賤しき者までも日本人を奴隷として買収し、携え去った。しかしてその奴隷の多くは船中にて死した。
そは彼らを無闇に積み重ね、極めて混濁なるうちに籠居(ろうきょ)せしめ。
しかしてその持ち主らが、一度病に罹るや ――持ち主の中にはポルトガル人に使役せらるる黒奴も少なくなかった―― これらの奴隷には一切頓着なく、口を糊する食糧さえも、与えざる事がしばしばあった為である。
この水夫らは、彼らが買収したる日本の少女と、放蕩の生活をなし、人前にてその醜悪の行いを逞しうして、あえて憚(はばか)るところなく、そのマカオ帰港の船中には、少女らを自個の船室に連れ込む者さえあった。
予は今ここにポルトガル人らが、異教国におけるその小男、小女を増殖――私生児濫造――したる、放恣、狂蕩の行動と、これがために異教徒をして、呆然たらしめたることを説くを、見合わすべし。
と。しかしてムルドックの如きは、この奴隷売買を途絶したるは、秀吉及びその継続者の力にして、耶蘇会宣教師の力にあらざる事を特筆している。[ムルドック日本史]
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960830/214 >>22>>23 日本軍は局地戦には勝っても、包囲され気味で負け戦だな。
勝った勝ったとよろんでいるのはバカ。 >>37
>>22-23を読んで包囲され気味の負け戦と誤解するお前こそが大バカw まず当時の日本は兵站の概念がほとんどなかったから長期遠征は無理
じゃ現地で兵糧補給をするにも朝鮮が貧しすぎてとても大軍を維持できるほどの食料もなかった
よって朝鮮なんていらなかった
問題は満州あたりの異民族はめちゃくちゃ強かった >>39
秀吉は牟田口か何かかよw
名護屋城が大兵站基地になってたの知らんのか? 釜山郊外にまで明の大軍が来ているからな。
明は、船で陸伝いに朝鮮半島にやってきて、兵も兵糧も陸揚げできる。
では、日本の輸送船が米を積んで、陸沿いにソウル、平壌まで運べなかったのかというと、
意外なことに、舟の性能が悪かった。対馬海峡の横断ぐらいはできたが、さらに長駆、
鴨緑江まで兵や兵糧を運べたか?となると、海図の不足や海流の不案内もあるが、
舟のせいもある。
現に、秀吉は宣教師に、大型船の調達を命じている。満足する舟をもってきたら
日本中をキリシタンの国にしてやる、とまで言って、エサで釣っている。
そして実際に宣教師が苦心の末、舟を1隻調達してもってきて、その舟に秀吉本人が
乗り込んで船内をよくよくチェックされている。が、宣教師が持ってきた舟はボロだった
らしく、数日後、キリスト教は禁令となった。秀吉おこったらしい。
結局、長距離を航海できる舟は、日本は充分入手できなかった。 あと、大事なこととして、朝鮮半島の冬の寒さは、あまりにもきつすぎる。
そこへ九州や四国の兵を送り込んだのでは、
寒くて寒くて、とても持ちこたえられないだろう。
朝鮮半島の南端付近だけなら、まあ、越冬もできるだろうけど。北京あたりの冬はもっと寒い
のに(遊牧民はさらに寒いところにいる。)そんな奴らが冬でも朝鮮半島を南下してくる
のだからな。朝鮮に渡った日本の兵は、じつに3人に1人は死んでしまったが、
ほとんどは病気と飢えと寒さだ。ロシア遠征なみ。 >>42
勝ってるけど泥沼化したシベリア出兵みたいな感じか
そら三成も早めに切り上げたくなるわな ソウルの冬は、マイナス10度以下まで下がる。風でも吹こうなら体感温度は
マイナス20度にも達する。
碧蹄館の戦いで勝っても、真冬なんだぜ。文禄2年1月26日(1593年2月27日)。
追撃なんかしたら、夜にはこごえ死んでしまうよ。
蔚山の戦いでも、1598年1月29日から2月9日で真冬だ。そんな酷寒の野外で露営しつつ
活動している明軍と朝鮮軍。ケモノみたいだ。 >>43 シベリア出兵のときの占領地?
http://heiwa.yomitan.jp/DAT/LIB/WEB/4/p0880.jpg
1919年1月(真冬!)からパルチザンによるゲリラ戦に苦戦。零下42℃にも達した。 >>44
蔚山城の戦闘で明・朝鮮軍は酷寒で大損害出してるぞ
李朝実録よんだらいっぱい書いてある
歴史研究者が偏向してて日本軍苦戦イメージを作ろうとするから
クローズアップされるのは日本側が酷寒で苦しんだことだけだがな 明・朝鮮軍の死者は、日本軍の死者の数を上回るよ。
そして、朝鮮の住民の死者数は、明・朝鮮軍の死者数よりもさらに上回る。
これのソースは宣教師の記録からね。 宣教師ルイス・フロイス
「この遠征で、幾人の日本人が日本から朝鮮に渡り、そのうちどれだけの人が死亡したかを
知りたく思うのは当然である。それを確認しようとあらゆる手を尽くしてみたが、最も信頼
でき、かつ正確と思われる情報によれば、兵士と輸送員を含めて十五万人が朝鮮に渡ったと
いわれている。そのうち三分の一に当たる五万人が死亡した。しかも敵によって殺された者
は僅かであり、大部分の者は、まったく、労苦、飢餓、寒気、および疾病によって死亡した
のである。」
日本の兵は草履を履いていたため、冬の寒さで足の指が凍傷になってもげる者が続出。
死者1人いれば、死なないまでも負傷者や病人が他に1人以上は出ているので、損害は大。 >日本の兵は草履を履いていたため、冬の寒さで足の指が凍傷になってもげる者が続出。
確かにありそうだけどこれはどういった史料から確認できたんだろうか?
引用しているフロイスの文章にはないけど 軍役人数−帰還人数=死者数と勘違いしてる人も結構いそう
だいたい軍役の7、8割の動員数だっけか 凍傷 という言葉でググれば、
http://www4.plala.or.jp/kawa-k/kyoukasyo/3-7.htm
の中で「凍傷」と検索すると、
「毛皮の靴も持たず草鞋だけの日本兵の多くは凍傷にかかり」とあるね。 >>51のつづき そのサイトの下の方にこんな記述があった。
第1次侵略戦争の末期に朝鮮南部に終結した日本軍を軍目付けが調べた数字によると、
朝鮮に侵入した1〜7軍の総数13万7300人あまりの軍兵は、実数で7万3214人にまで
激減していた。死者総数は6万4086人。生き残った者の割合は53%。実に47%、
約半数の軍兵が死んだのである。最も奥地に進んで激戦を演じた第1軍小西軍の被害は
甚大で軍兵の実に60%が死んでいる。第2軍の加藤清正軍は被害が37%、
鍋島軍も36%であった。3軍の黒田軍は被害が54%、4軍島津軍は60%。5軍も40%、
6軍は44%。最もしんがりを務めた7軍の毛利軍で43%であった。
壊滅的損害だね それだけ被害出てたら豊臣政権への恨みは相当なものありそうだな
武将が死んでないから兵の損害も全体的にはそう多くないと思ってたよ >>52
文禄2年に数えられた人数のことをいってるんだろうが
この人数を当初の軍役人数から引いた数値を死者とするのは短絡的すぎる。
たとえば動員数には水夫も含まれるが秀吉は水夫に帰国命令を出している
この水夫人数の減数を無視してるし、他にも負傷や病気で帰国した可能性もあるが
そういった人数を全く考慮していない。 >>48
>日本の兵は草履を履いていたため、冬の寒さで足の指が凍傷になってもげる者が続出。
日本側だけが苦しんでいたような偏向の一例だな。
朝鮮の兵士の履物も藁草履という事実を知るべき。
そして日清戦争当時も兵士の履物は藁草履だがもっと北方の遼東でも戦って勝利し
ているという事実も知るべき。 400年後の八甲田山ですらまともなバカやらかしたんだから
当時の日本兵じゃ厳寒地の戦いなんて無理でしょ
しかも兵站もクソだし
日本の兵站軽視なんて太平洋戦争でも改善してなかったw
日本は狭いから戦争するのに数ヶ月移動するとかなかったから兵站の重要性が根付かなかった 一隊が上陸しても、水兵や荷物運びの人員がかなり大勢いるし、
3万人とかが朝鮮半島の地を踏んでも、倭城へ兵糧を運び終えたら
人夫とか水兵は帰路につくだろうよ。
第一、満載で渡海した舟が帰りは空船で帰るわけにもいかないだろうな。
朝鮮人捕虜を積んで帰るんじゃね。 >>56
上陸した総人数のうち、そのあと朝鮮の
奥地へと向かっていった戦闘部隊が
最前線から撤退してきて、集結したときの人数を、
軍目付がとりあえず数えたんだろうね。
居なくなった人数が全て死んだと判断するのは確かにおかしい。 >>51
史料を要求されてるのにそんなのしか出てこないってことは
実はろくに根拠もなかったのかな? ageで書く人は、どうしたわけか基本的に信用ならない人間のクズが多い。 >>56 >>60
同感。
その時期の李氏朝鮮の記録で半島南部にいた朝鮮の密偵の報告で、
傷病兵を乗せた複数の日本船が日本へ向かっているというのがあるから、
軍勢の減少=死亡ではない。 文禄の1592年に始まり、1598年に秀吉が死ぬまでの6年間にて、
朝鮮に渡った大軍が1、2割の損耗で済んで無事に帰国できたとは
とても思えないけどね。 >>65
でも、あれだけ名だたる武将を送り込んで討ち死にした有名武将が来島通総ぐらいしかいないって時点で驚異的だから
(病死は結構多いが)
損失1割止まりも充分ありえる 政宗が朝鮮から送った書状
「ここでは水が合わないためか多くの日本人が死んでいます。
私はどうやら内臓が丈夫なためらしく、これまで病気をしていません」
現地の朝鮮人はどうかというと、濁った水でも構わないどころか、
小便や大便の汁が混じって居っても、さらに頓着せずにこれを飲む。 >>66 明軍で戦死した将兵は多いから、勝負では日本軍は勝っている。
よって病死による損耗率でみるべきだろうね。大名クラスの死亡者
豊臣秀勝 享年23 扱いとしては宇喜多秀家と同格ぐらいか
加藤光泰 甲斐24万石
島津久保 島津家の事実上の跡継ぎ 21歳で病没
長谷川秀一 越前東郷15万石
戸田勝隆 大洲7万石
五島純玄 五島列島の領主
大名クラスなら食糧や水も良いものを得られただろうが、大勢の大名の出陣のうち
この死亡数なら、損失1割止まりも充分ありえる 朝鮮出兵はやっぱりよくわからないな。
戦国時代の本はたくさんあるが、朝鮮出兵の詳細となると、ほとんど載ってないからだ。 >>67
流石は食道楽の政宗、胃腸がタフだわ
あと、仕事や旅行等で海外に行くと文字通り水が合わない日本人が結構多いのは今も昔も変わらないんだな
幕末でも清国に視察に行った長州藩士の残した、現地の不衛生さに困ったって主旨の手記もあるっていうし >>71 日清戦争のときは、戦死よりも病死の方が多かったし。
ともあれ、秀吉の朝鮮出兵によって、強度の反日態度を生み出してしまったわけだが、
日清戦争では反省したのか、見違えるように戦争の仕方が改善されている。
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid718.html
「日本が何年も前からこのような動きを計画していたことは疑問の余地が
ない。朝鮮の正確な地図をつくり、飼料や食糧についての報告書を作成し、
河川の幅や浅瀬の深さを測り、三カ月分の米を朝鮮で備蓄していたのであ
るから。そしてその一方で、変装した日本人将校がチベットとの国境にま
でも足を運んで清国の強みと弱みを調べあげ、公称兵力と正味兵力、ダミ
ーの銃器、旧式で鋳〈い〉ぞこないの多いカロネード砲について報告して
いたのであるから。彼らは清国各地方からどれだけの兵士を戦場に動員で
きるか、いかにして彼らを教練し武装させるかを清国人以上に知っていた。
また、腐敗と不正がはびこり、そこに愛国心の欠落が結びついて、兵站部
など書類上でしか存在しないも同然の状態になりはてている清国が、戦闘
を維持するのはおろか、まともな軍隊を戦場に送りこむことすらとうてい
不可能であることも知っていたのである。」
占領後の日本兵による態度や治安も、英国人から見れば大変好評である。 フロイス『日本人はもともと他国民と戦争することでは訓練されていない。
中国へ順路も、航海も、征服しようとする敵方の言語や地理も、彼等には
まったく知られていない。この企ては、海路、軍団を派遣することになる
が、内陸の(隔たった地に住む領主や武将たちは、船舶も水夫も、航海に
際して必要とする他の手段も持ち合わせていなかった。たとえ財力によっ
て船舶その他、装備に必要な武器、食料、弾薬を購入することを望んだと
しても、彼等にたいして定められた期日はあまりに短く限られていた。』 >>41
おいおい、文禄、とくに慶長の役では明軍は水軍を除けば、
陸から朝鮮入りだぞ。
あと兵糧も朝鮮側が供給する約束だったし、
明軍が数か月間に自前で(ほとんど陸路輸送)
ため込んだ兵糧も、豊臣軍に敗退しつづけて(特に3路攻勢の大敗)で、
ぜんぶ吹っ飛んで、兵糧不足に悩まされることになった。
この前後に秀吉が亡くなったので、豊臣軍は日本へ帰還していった。
最後に付け加えておくと、明軍が半島南部まで来られたのは、
豊臣軍が慶長2年に全羅、忠清の掃討を終えて、
城塞群を築き、派遣軍の半数が慶長4年の大攻勢のための
休養として日本へ帰還していたから。
そして明軍は4度の大敗を喫し、多くの兵員、兵器、兵糧を失い
窮地に陥った。 江南軍なら船で来たかもしれないが、率いた将軍の任地を見ると
遼東半島あたりだからな。 明の皇帝は、舟300隻を動員したが
中国の沿岸地域から徴発した舟。この大量の舟を何に使うのかといえば
海戦用というよりは人員や食糧の輸送だろう。 政宗が朝鮮から送った手紙
「桑折政長が釜山で病死した。私めは気が抜け、これまでの彼の奉公を思い出すと
言葉も出てこない。返すがえす政長の死は悲しいがどうしようもない。朝鮮では
腫気を患ったものはほとんど死んでしまっている。原田左馬助も病気を患ってしまった」
桑折政長も原田左馬助も政宗の有力家臣。家老クラスでさえ病死するくらいだから
一般の兵の死亡率は相当高いと推定できる。 原田左馬助もその後、29歳で病死した。剛直な性格にして勇武の士だった。
桑折政長は伊達氏重臣。32歳で亡くなる。政宗の親族でもある。 秀吉は、フィリピン遠征も計画していた。なぜ中止したのか理由は知らないが、遠過ぎるからか。
朝鮮半島南部の占有は、明の大軍がやってきたので頓挫したが、
台湾を占領なら、結果的には一番良かった。のちに明の遺臣も台湾に逃げ込んで日本の協力を
打診しているし。
樺太はコメが採れない。フィリピンは遠過ぎるし、台湾が無難。後知恵だが。 近世以前の戦争は領土よりも労働力、すなわち人の取り合いにあったから
原住民が僅かにいた程度の未開の台湾を侵略したとてあまり意味がなかっただろう 首都漢城まで食糧を輸送できればよかったが、
実際はできなかった。海戦に勝っても、博多から釜山までの、線としての制圧ができただけ。 わざわざ朝鮮を支配するためだけに大規模な軍団を派遣するはずないわな
あくまでも明攻略のための通り道 明を支配して天皇をシナの都に遷都して
中華皇帝にするのが本当の目的だったから 朝鮮は地政学的には大陸の玄関口であり、近代ではシナやロシアから
日本を守るための要所でもあった ただそれだけ、朝鮮なんか支配しなくても
朝鮮人が朝貢している大国を屈服させれば付帯属領として付いてくる
自動車を取ると付いてくる原付免許と同じようなもの 明まで案内すると見せかけて絶対退路塞ぐだろあいつらw 勝ってるうちは従うだろうけど、旗色悪くなったら光速で裏切る事は間違いないな 400年後に
明を、東アジアを、いや世界を救ったニダになるよ でも日本としては外征するならどうしても朝鮮は避けられないんだよな
明治の時だって別に朝鮮を植民地として欲しかったのではなく、というかむしろ余りの貧しさに足を引っ張られるを恐れて政府としては併合に反対だった訳だが
軍事面から戦略的にみると大陸側に橋頭堡を築くに当たって最も近い朝鮮が望ましく
結局陸軍が強行して併合の流れに引きずり込んでしまった
まして桃山時代じゃ直接中国へ渡る選択肢はなかったよな
だからモンゴルやロシアがやったように殲滅するか強制移住させるのが良かったんだよ 日露戦争から日韓併合の流れも、ロシアに半島を対日橋頭堡として利用されるよりは、
赤字経営覚悟で日本が管理した方がマシって計算しての結果だったもんね >>90
いらんよなあ朝鮮半島
つか大陸としてみるならただの辺境だし
日本から攻めるにあたり単なる入り口なだけで特に重要でもない
やるなら徹底的にやらないとな 武士の次男坊以下を移住させて現地の女と引っ付けて同化させてくしか無いな 武士の方が圧倒的に人数少ないし武士の方が吸収されるやん
ミイラ取りがミイラになる >>91
半島がロシア領になってたら、中国権益を巡る米ソの戦争が1930年代に起きてたんじゃないかな
で、ソビエトに拡大されたくない日本はアメリカに味方すると 朝鮮がロシアに併呑されたからって、それだけで日本が危うくなる訳ではないのに
恐露病をこじらせすぎてロシアより厄介なものを引き入れてしまったという皮肉 朝鮮など支配せずとも朝鮮が朝貢している大国を倒せば
オマケとしてもらえる ただし国が弱くなると裏切られるから
注意が必要ですな いや本当に。朝鮮があんなに下らない民衆と土地だと知っていたら、歴史と違って武力征伐しておけば良かったよな。
日本はお人好しで、相手にも常識が通じると思っていたから、交渉などせずに殲滅戦をやっとけば良かった。
対応が遅れたけど、秀吉が後半は持久戦にして大正解だったよ。 つか半島はあくまで中国大陸へと至る回廊だからね
峠道と同じで、地政学的に重要な道であっても直接的な経済的利益を見込めない厄介な地域 峠の山道は、そのあたりの価値は確かにあまり無いよな。高いカネだして立派な道路を
ど田舎に作るのは、その道の先に見返りがあるだけの都市や港湾などがある場合だし。 朝鮮人って昔からカプセル怪獣並に使えなかったんだねw >>103
なに言ってんだよ、むしろ足を引っ張る負担だろ。
朝鮮出兵の時に味方した朝鮮人は使えないし、国を挙げて味方された明の負担は国を傾けた。 ☆ 日本の核武装は早急に必須です。総務省の、『憲法改正国民投票法』、
でググってみてください。現在、衆参の両議員のそれぞれで、改憲議員が
3分の2を超えています。私たち日本人の、日本国憲法を改正しましょう。
憲法改正国民投票法、でググってみてください。お願い致します。☆☆ アホやなこの低学歴パヨクw
駅前じゃなくて5chで毎日効果ないアベガー、ネトウヨガーしてるパヨクはこいつみたいな低学歴キチガイ池沼しかいないから普通の日本人から支持されず選挙でずっと安倍自民党に負け続けるんだよw
http://hissi.org/read.php/livebs/20200122/THJ2SVNrcksw.htmlいや俺が秀吉が元々武士じゃないかと考えるのは姻戚といわれる加藤清正ともどもなんだが
(身分はそんなに高くなくていい。守護や守護代なんて武士じゃ最上位なんで。守護代のすぐ下でも曖昧模糊になる)
百姓は中国では「多くの姓」転じて「多くの人」という意味だが日本では戦国時代のころは主に農家を指す語になっていたらしい 豊臣軍VS明軍 の対戦表↓
明軍が関わった数万単位の合戦で、明確に明軍の勝利と
言えるのは第三次平壌攻めくらい(おまけに不意打ち)
第二次平壌の戦い(日本勝利)
第三次平壌の戦い(明軍勝利 勧告により小西が城を明け渡す)
碧蹄館の戦い(日本勝利)
稷山の戦い(日本勝利)
南原城の戦い(日本勝利)
第一次蔚山(日本勝利)
第二次蔚山(日本勝利)
泗川 (日本勝利)
順天(日本勝利)
露梁(日本勝利)
露梁について補足。
明軍、朝鮮軍、日本軍の2倍の兵力&待ち伏せの好条件ながらも
小西軍、島津軍を殲滅できずに取り逃がす。
朝鮮軍主将の李舜臣が戦死 明軍副将の鄧子竜が戦死。
特に慶長役で明軍が負けた戦いは、いずれも明史、朝鮮王朝実録などで
大敗、大損害、人が溶けたと表現されるくらいの潰走っぷり。
第二次晋州城攻防戦では明軍救援に赴かず(または秀吉軍に撃退されたとも)
南原の戦いでも付近にいた陳愚衷旗下の明軍3000千は動かず、
南原が落ちると、これも付近にいた朝鮮軍1000とともに散り散りになって逃げた。
戦意も低く、日本軍を恐れているのがわかる。 1593年に明軍は朝鮮の平壌戦を奪回したが
とってかなり恥ずかしい内容。
平壌戦の経緯。
平壌城攻防は、小西行長が
アホみたいに律儀にも明との和平交渉を信じ込んでて、
これまた停戦期間が過ぎても、進撃もしなかった
斥候を出すようなこともしていなかった。
そんな中、李如松率いる53000以上の明と朝鮮連合軍に
小西行長軍15000は奇襲攻撃されたんだよ。
1・和平と偽って騙し討ちで奇襲
2・奇襲かつ4倍近い兵力で挑んだものの大苦戦で、小西軍を殲滅できなかった
3・日本兵一人を討ち取るのに明軍5-6人を失うと記される小西軍の勇戦。
4・結果、明軍は3000の死傷者を出し、4人の武将も負傷している
5・明軍が得た1285の首級の半数は朝鮮人の首(偽の戦果報告のため) 完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇II」より、ルイス・フロイスらが「百方手を尽くして」情報収集した結果、「もっとも信頼でき、かつ正確」だと判断した数字。死因については「敵によって殺された者はわずかであり、大部分の者は、まったく、労苦、飢餓、寒気、および疾病によって死亡したのである
死者と捕虜を含め、その数は日本人のそれとは比較にならぬほど膨大であった。なぜならば、都その他の地方に連れて行かれた者を除き、この下(しも)にいる捕虜の数は、数えきれぬほど多いからである。完訳フロイス日本史5 第44章 【朝鮮出兵にて戦死した武将】
「日本(一万石以上)」
来島通総(1万4千石)の1名のみ
※中川秀政は鷹狩中に敵に遭遇し戦死
「朝鮮(三品以上)」
鄭撥、尹興信、宋象賢、洪允寛、李宗張、申石吉、元豪、元喜、柳崇仁、徐礼元、鄭湛、高敬命、趙憲、鄭運、金時敏、沈岱、金千鎰、崔慶会、黄進、元均、李億祺、李福男、任鉉、崔湖、呉応鼎、黄世得、郭越、李舜臣、李英男、金澥、李薦、裵蘿立、李渾、金貴栄、李瑛、黃赫等、李範、李錘、文夢軒
「明(遊撃以上)」
載朝弁、史儒、廬継忠、李新芳、蒋表、毛承先、楊万金、李寧(副総兵) 、李寧(参将)、廬徳功、鄧子龍 宣教師ルイス・フロイス
「この遠征で、幾人の日本人が日本から朝鮮に渡り、そのうちどれだけの人が死亡したかを
知りたく思うのは当然である。それを確認しようとあらゆる手を尽くしてみたが、最も信頼
でき、かつ正確と思われる情報によれば、兵士と輸送員を含めて十五万人が朝鮮に渡ったと
いわれている。そのうち三分の一に当たる五万人が死亡した。しかも敵によって殺された者
は僅かであり、大部分の者は、まったく、労苦、飢餓、寒気、および疾病によって死亡した
のである。」 もう書いてありそうだが朝鮮だけくれって言ったら明からNG喰らった
緩衝地帯だったんだろうな
ウクライナみたいなもんだ