[初心歓迎]小牧・長久手の戦い3’[コピペ禁止] [転載禁止]©2ch.net
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秀吉の関ヶ原、天下人(ポスト織田政権)を決した全国戦争について語れ。
このスレの簡単なお約束
・コピペ禁止
・「一般人類」大歓迎
・「特殊」歴史研究家(コピペ議論家、一次史料盲信者、○○厨設定家)は入場禁止。
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過去スレ
小牧・長久手の戦い
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1166728136/
小牧・長久手の戦い2
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1331228728/
【長久手戦闘】 小牧役を語る3 【信雄vs秀吉】(コピペ埋め立て実施中)
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1431749465/ 西軍
豊臣秀吉、池田恒興、森長可、堀秀政、丹羽長秀、滝川一益、前田利家、
上杉景勝、毛利輝元、十河存保、佐竹義重、宇都宮国綱、里見義頼、松浦宗清、蛸地蔵、、
東軍
徳川家康、織田信雄、佐々成政、新発田重家、蘆名盛隆、伊達輝宗、
長宗我部元親、北条氏直、雑賀衆、根来衆、、 しかし、まことはツイテナイ。
筆者が、ホストを抜く術を身につけたのである。
で、資格2chでホストを抜いたのだが、まことしかいない。
むろん、そのときたまたま、まことしかいなかったかもしれない。 蛸地蔵のお話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-468.html
むかしむかし、おおむかし、岸和田にはお地蔵様の奉納されている立派なお寺がありましたが、
洪水で海に沈んでしまいました
天正の時代になると岸和田に立派な城ができ、中村一氏が城主になりました(松浦氏の話もあり)
あるときその城に。雑賀から大軍が攻めてきました。このままではお城が持たない。そのときです
海の方から巨大な蛸に乗った、大法師があらわれ、敵陣の中につっこみ縦横無尽に暴れました。
しかし敵は大群、大法師も取り囲まれ、これまでかと思われました。すると、
地鳴りのようなものが起こったかと思うと、今度は海から、何千何万とも知れない
蛸の大軍が現れました。
蛸の大軍は雑賀の軍隊に向かって次々と墨を吐き、彼らはたまらず退却して行きました。
岸和田城の人たちが喜んでいると、蛸と大法師はいつの間にか、消え去っていました。
その後、岸和田城のお堀で、大きな蛸を見た、と言う者が現れました。そのころお殿様の夢に、
お地蔵様が現れて『この間の戦いで敵を負かしたのは、この地を守る地蔵であるぞ』と
おっしゃいました。
不思議に思った殿様は、城の堀を隅々までさらわせると、そこから泥にまみれた
お地蔵様が出てきました。
殿様はこれをきれいに磨き、立派なお寺を立てそこに安置ししました。
このお地蔵様は「蛸地蔵」と呼ばれ、岸和田の守り神として、
今も人々に深く信仰されておるそうじゃ。
天性寺 (岸和田市)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%80%A7%E5%AF%BA_(%E5%B2%B8%E5%92%8C%E7%94%B0%E5%B8%82)
蛸地蔵が現れなかったら秀吉は負けてた。 九州勢は小牧・長久手の戦いに巻き込まれていないのか? 毛利は秀吉の要請に応じて四国に上陸して長宗我部と交戦
大友は特段巻き込まれておらず、独自に島津と交戦 小牧・長久手の戦い凄いな。
関ヶ原に匹敵する大規模合戦ぽい。 小牧長久手の戦いの知名度はどんなもの?
愛知に縁もゆかりもない人でも日本史に詳しい人なら知ってるかな
家康と秀吉が戦った割に知名度ないよねぇ 小牧だったか、長久手だったか、
車のナンバープレートに書いてあって
驚いた。こちら東北地方なので、そんな遠方の車はめったに見ない。
ひょっとして三河ナンバーだったか。 尾張小牧ナンバーだな。三河小牧って言ったらきっと車ボコられるぞw 戦は家康の勝ちだがその後家康が秀吉の下に臣従したから結果的には秀吉かな? なんで勝ったほうが負けたほうに臣従するんだよ??? >>17
あと勝手に信雄が秀吉と和議をしちゃったから家康は引かざるおえない状態だった 家康が秀吉にビビって清洲で引きこもりしていたから
絶望した信雄が秀吉に降伏した。
家康は味方を見捨てまくる天才。
信雄や紀州一揆や佐々や小笠原や北条など
ことごとく秀吉相手に代理戦争させて
自分は肝心な時に手を引く。 信雄家康は秀吉に圧勝したじゃん。135000の大軍の秀吉に長久手で1万人戦死させた後
その後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
実際は秀吉軍は135000(伊勢→尾張に陣替した100000の他に秀長勢や戸木城攻めに当たってる兵力や岐阜の後詰などがいる)
VS16000〜7000という規格外の兵力差でもって短期決戦挑んだ秀吉は1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北
浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
吉川元春の書状でも秀吉軍はみな討ち取られたとしっかりかいてるし
4/23熊谷信直書状でも羽築方衆合戦候て数多落度の由としっかり書かれてる。
4/12松井康之書状でも池田森堀木下助左、同勘解由、此衆手をわけて一戦にでて
池田森木下兄弟此の衆討死候、堀と秀次が異議なく撤退し、其の他諸卒大方うたれ申し候と書いてる。
別働隊の兵数は4/8丹羽宛書状で24000〜5000で其の中の諸卒が大方打たれたんだから、戦死者は2万人くらいいないとおかしい
長久手合戦後に京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる 。
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね。
何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから 小牧長久手合戦後も家康や信雄が雑魚の秀吉を蹴散らしまくってるよ
4/30日〜5/2頃
二重堀合戦が起こり、信雄1000が秀吉50000を奇襲して楽田から叩きだす(家忠日記)
6/19信雄が秀吉の尾張下市場城攻略(家忠日記)
6/23信雄が秀吉の尾張前田城攻略(家忠日記)
7/3信雄が秀吉の尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10信雄が秀吉の伊勢浜田城攻略(7/14秀吉→津田)
11/10信雄が秀吉の尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
4/12には秀吉が吉村氏吉に敗北(信雄→吉村書状)
秀吉はそれ以外でも5/5に小浜・間宮に伊勢の生津・村松で敗北してる(5/5家康→小浜・間宮)
また、3月から戸木城
4月から松の木城、東駒野城
6月から河波城、
などを攻略していたが
いずれも落ちずに撃退されてる
6月は特に信雄から吉村などへ感状ラッシュで度々秀吉軍を撃退した功績を賞賛されてる >>20
>家康が秀吉にビビって清洲で引きこもり
小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。
徳川方は8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯の小城2箇所くらいしか放棄してない
しかも小牧山周辺の砦には秀吉方の留守居部隊2万以上いて、徳川方が動けば小牧山の陥落は必至で動けなかっただけだし、
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で罠を張ってたから
後詰なんて自殺しにいくようなもんで、そんな所危険すぎていかなかっただけ。
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
>絶望した信雄が秀吉に降伏した。
逆だよ。
秀吉が信雄に全く歯が立たないから顕如に仲介とりなしを土下座依頼して信雄はしょうがねぇなといって応じただけだ。
ソースは下記
http://iup.2ch-library.com/i/i1483316-1439088096.jpg
http://iup.2ch-library.com/i/i1483317-1439088096.jpg >>20
小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。
結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし さしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。 秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。 >>23
ソースとなる書状までupして秀吉信者の願望を一挙に打ち砕いたな。
秀吉ファンは認めたくないだろう。 ふだん一次史料一次史料と気が狂ったよう連呼してるくせに、
いまお前がソースにしてるのは、手紙の内容じゃなくて著者のつけた見出しじゃないか。
こんな馬鹿見たことない。晒し上げておこう >>30
何故こっちのスレに来たの?
コピペはコピペ専用のスレでやってよね!
↓
【長久手戦闘】 小牧役を語る3 【信雄vs秀吉】(コピペ埋め立て実施中)
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1431749465/ >>31
見出しだけじゃなくて内容も>>23に載ってるよ。
見出しは、書状の内容がどんなものかを簡潔にまとめただけだし。 >>17
和睦後に、秀吉は四国、紀伊を平定して国力で家康を圧倒したからだね。
戦略で家康は負けた。 秀吉にガンガン侵食されていくばかりで与える領地もない信雄は、吉村が今尾で放火した功を報告してきたことに対して
3/28に粉骨を褒めて、続く4/6にいまだに秀吉方の森寺忠勝の今尾城を与えると書き
さらに4/25には駒野周辺を守っていた高木貞利にまで今尾城を与えると信雄は家臣の土方雄良に言わせて
二重約束の空手形まで発行する背信までやらざる負えないほど追い詰められてる。
ちなみに8月には筒井勢が駒野を攻撃していたようだが、11/5には高木貞利の居城だった東駒野城も陥落してる。
これにより11/7になると信雄は完全に切羽詰って、吉村まで疑心暗鬼になって疑いだすんだよなw
長久保の福田別心と書いて秀吉の調略に乗って寝返りかましたことに触れて
日原まで平手大炊助を派遣すると書いた後に、お前の妻子は俺が預かってるとか
わざわざ恫喝してどーすんだよw
11/10にはちゃんと吉村が謀反した福田を討ち長久保を落として忠義を示してるのに。
しかし高木貞利の敗北と福田の降伏という流れはこの地域での秀吉の優勢をはっきり示すもので、
年次不明の2月朔の信長書状では今尾城の守備について
当時の今尾城主だった貞利の父の高木貞久に申し付けたとして
諸事相談して協力して守るように吉村・木村・田中・西松ら近在土豪らに宛てた書状があり
ここらの顔役だった高木の降伏は家康・信雄らには完全に決定打だよ。
策の無い清洲で震えていた家康は彼らを支えることに失敗し、
士気が崩壊した信雄軍という状況は秀吉の戦略通りに事態が遂行されていった結果だといえる。
(これは戸木城にも言えることで地域の有力国人である小島民部・田丸具直・榊原(徳川四天王榊原の本家にあたる)
も秀吉に調略され付け城を相次いで造られ外部との連絡がまったくとれず完全包囲された)
まぁどうせお前は>>地元諸将が秀吉の味方についたから楽に蹂躙できただけ
などといつものフレーズを言い出すだけだろうがな・・・
家康の無理くり擁護に 〜だっただけ 〜だったから 〜のおかげ
とかひたすら言い訳しないと成り立たない無理くり秀吉批判が笑えるw
気持ち悪いほど家康贔屓の偏りっぷりだな。朝鮮人の史観って気持ち悪いわ・・・
木曾小笠原真田水野石川の出奔とかこれ全部、家康の明らかな劣勢さからの離反でなく
ある日突然降り掛かった自然災害みたいな表現で繰り返し連呼し続けるお前のチョン脳が理解できんわwww
史料を読む限り秀吉が余裕かましていて、家康が長曾我部や北条の援軍が来ないと何も出来ない
ヒッキーに過ぎないのが判明してるんだけどな。しかも秀吉によって上杉や毛利が北条や長曾我部と開戦してしまい、
完全に追い詰められた家康ってのが事実。秀吉は丹羽を北陸に派遣する兵力的余裕すらあり、
この戦役の主導権を終始握り続けていた。 また秀吉は人質を取っての戦勝和睦が成立したと思ってたら、
家康が騙していただけだったりと切羽詰まっていた家康が誤魔化しまくっていたのが現実。
家康には打開策がまったくなく、ロクに援軍出さないため次々と家康は味方の離反を受け、
ついに信雄まで家康の援軍が期待出来ずに屈服。
屈服後は家康の味方の紀州や越中まで信雄が家康から離反させるなど信雄からも追い詰められる始末。 >>35
ほんとに何故、こっちのスレに来たの? ??
コピペはコピペ専用のスレでやってください。 ↓
【長久手戦闘】 小牧役を語る3 【信雄vs秀吉】(コピペ埋め立て実施中)
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1431749465/ >>秀吉にガンガン侵食されていくばかりで与える領地もない信雄は
木曽川筋の家康が絶対出てこれないデルタ地帯の数城をコソ泥しただけでガンガンとか言われても。
>>8月には筒井勢が駒野を攻撃していたようだが、11/5には高木貞利の居城だった東駒野城も陥落してる。
取り詰めるに陥落するなんて意味はないんだがこれで東駒野城が落ちたとか解釈するとかアホすぎる
>>この地域での秀吉の優勢を示す、
尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で 終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
>策の無い清洲で震えていた家康は彼らを支えることに失敗し、
震えていたなんて史料は存在しない
>>士気が崩壊した信雄軍
元々寝返りばかりで領国なんて困窮状態だがそんな信雄も自力では攻略できず
ヘタレ信雄の降伏に助けられただけなのが秀吉
>>秀吉の戦略通り
秀吉の戦略は一貫して三河方面の攻撃と家康討伐なので戦略でいえば大敗といえる
>>ここらの顔役だった高木の降伏
だからなんで高木が降伏した事になってるんだ?
秀吉は東駒野取り詰め と書いてるけど取り詰めに降伏したなんて意味はないんだけど。
>地域の有力国人である小島民部・田丸具直・榊原(徳川四天王榊原の本家にあたる) も秀吉に調略され
小島・田丸・榊原に加えて信包・八重羽・冨田・津田、それに開戦早々寝返った浅井・岡田らもそうだが元々秀吉家臣だろ。
前年の戦いの後に秀吉に恭順して秀吉が信雄につけただけの連中だから信雄家臣とは言えない そもそも伊勢占領といっても、津川・岡田など信雄三重臣ですら、秀吉方に篭絡されてる有様だったし
関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・ 八重羽・小島などの伊勢の諸勢は秀吉と交戦前ですらあっさり信雄を見捨てて
秀吉についてるもんな。そんな雑魚統制の中、池田や森らが当初の予想に反して秀吉に付いたため家康方が伊勢方面から尾張方面に転進して
伊勢ががらあきになって秀吉方はその隙をついて伊勢をコソ泥できただけだし自力ではほとんど攻め取れてない。
家康方は3/7陣ぶれ3/8岡崎から矢作川3/13津島3/14伊勢の桑名と移動し信雄は桑名に出陣していた水野に3/13になると
その先の戦場として想定される伊勢神戸へ出陣要請している。之に加え、佐久間・中川ら重臣も桑名方面に出陣
特に中川は美濃尾張国境の犬山城主であり、この事は織田・徳川全軍が、桑名近辺に集結したことを意味する。
ところが3/13信雄方が味方と信じていた池田森に一日でがらあきになった犬山を攻略された事に対応して徳川は伊勢戦線から離脱し尾張へ向かう
同日伊勢安野津の織田信包も秀吉方になり、南伊勢は信雄から秀吉へ寝返った神戸・関・田丸ら国人連中らも含めて秀吉方の独壇場となる
あと秀吉が「信雄への寝返りを気にして三河方面への別働隊に組み込んだ」なんて妄想はしらん
秀次や長谷川・堀・木下兄弟など信頼に足るべき連中らとともにきわめて重要な敵地への行動させてる時点で秀吉が池田・森らを信じていないとする根拠なんぞない
特に秀次は秀吉の数少ない一門衆で後継者候補。木下兄弟も秀吉に非常に近く堀や長谷川も本能寺後一貫して行動をともにし、もはや譜代といっていい連中
対して信雄家臣の吉村高木毛利滝川雄利なんてなじみのないもいい所の外様家臣
吉村なんて信雄に付き従ったのがつい去年だしな
そんな信雄の領国状況無視して秀吉が味方の寝返り気にしてどうこうとか完全に妄言もいい所
信雄が家康の離反気にして小牧山から思うように行動できなかったとか
家康が石川の離反気にして思うように命令できなかったとかいってるのと同じ(石川はこの頃から秀吉に通じだしてると三河物語にあるし水野も翌年秀吉に寝返っている)
天正12年3/12秀吉→関一政で信雄方の林与五郎が亀山城へ攻撃してきたが防戦した事を了承
さらに3/13秀吉→丹羽で小島・関は味方になったと書いてる
3/15にも秀吉→関や3/17秀吉→田丸で峰城攻防での奮戦を賞賛されたり松ヶ島攻防での指示を事細かにしてる
そもそも信雄三重臣ですら秀吉に篭絡されてたしそいつらを信雄が粛清した事でボロボロ連鎖的に秀吉方に寝返りが続いてる
岡本良勝も秀吉方だし小島にはその後秀吉は直接木造攻めの指示を事細かに出してる
秀吉与党の津川氏の松ヶ島城を3月初旬に信雄方に奪回され関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・
八重羽・小島など地元諸侯がなだれをうって秀吉方に付いた上に池田・森の北尾張急襲を受けた徳川軍の尾張転進の
隙をついて居留守泥棒的に奪っただけ。
松ヶ島も3月時点では落ちてないし戸木城浜田城桑名城としっかり残っており、秀吉方は地元諸侯がこぞって
味方についた南伊勢を火事場ドロしただけ
秀吉は3月に伊賀にいたなんて史料はないし3/11秀吉→黒田・蜂須賀で本日坂本に到着したのがわかる他、その後3/21に
美濃の池尻に到着(3/20秀吉→池田書状)その後24日に岐阜到着(3/24秀吉→生駒)27日に鵜沼(3/26秀吉→黒田長政)29日に
木曽川を超え尾張国楽田に着陣(3/29秀吉→木曽) と非常に遅い速度で進軍。ちなみに犬山城を落したのは池田・森(3/26秀吉→佐竹)
しかも城主の中川が伊勢方面に出兵してた留守を狙って泥棒しただけ(3/26秀吉→佐竹) 和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる。完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
>>木曾小笠原真田水野石川の出奔とかこれ全部、家康の明らかな劣勢さからの離反でなく
石川については小牧長久手のあった1584年時点で秀吉寄りで内通してたのがが6月の秀吉→石川書状でわかるし
11/15家康→氏直 去13日石川数正が尾張に退散し信州小笠原貞慶の人質を召し連れ上方申合子細ニ付〜
12/14家康→保科正直で石川出奔に同調した小笠原貞慶との戦闘における戦功を賞している
今度小笠原大夫逆意を企てその表相動く処、一戦を遂げられ敵随一の者数多被討捕由〜
実際に小笠原が離反したのは石川の出奔後だろ。12/14家康→保科で「今後小笠原大夫逆意を企て」
などと書いてて、小笠原が出奔してから間もない事だとわかるし
>>秀吉に臣従する以外に生存する道が無くなった
家康は秀吉の威圧行動と対真田の敗戦や上杉景勝の川中島侵攻や天正13年夏の領内大地震や木曽小笠原石川水野真田の離反とそれに伴う領国機密露見
といった、種種の領国崩壊要素があり、秀吉からしてみれば半月で瞬殺できそうな状況で、天正13年秋から天正14年初頭まで上杉木曽真田など諸大名や家臣に当てて
天正14年初頭の三河出兵計画を散々書いて、重臣一柳にもその実行のための行動を命じておきながら
いざとなるとビビリまくって信雄に仲介を必死に頼んで、戦闘を回避した上に
母や妹を差し出して家康に土下座してるんだがw
家康は暢気に岡崎や浜松で北条との同盟強化や諸城普請や人質招集など
領内の防衛体制を構築してただけで、秀吉に従属する構えは全く見せてなかったなんだがw >>35
木曽は秀吉と信雄と家康が直接対決開始した天正12年3月時点で秀吉に離反してるから優勢劣勢と関係ないし
小笠原も真田も離反したのは翌13年であり家康が小牧長久手の戦い(秀吉との戦い)中に恩賞約束なんてしてねぇよクズ
天正10年〜11年にかけて小笠原や真田は家康の支援受けて勢力拡張し天正壬午の頃安曇筑摩の全域支配を任せる予定だったが
天正11年12年と連続で上杉との麻績・青柳の戦いに敗れるなど北信濃方面の拡張が滞り翌年小笠原は石川の人質連れてビビリまくって秀吉の下に参じたのと
天正壬午の恩賞問題やら沼田割譲問題やらで離反しただけで秀吉との戦いにおける恩賞なんて全く関係ない。そもそも秀吉との戦闘の部隊は美濃尾張伊勢が主なのに
なんで関係ない信濃で恩賞だされるんだよアホ
>>実際には家康の空手形でなんとか必死に出鱈目発給で繋ぎとめてたが、その誤魔化しも限界に達したからで、その最終段階でついに岡崎城代石川数正まで離反したんであって
石川は小笠原が人質連れて離反したから離反しただけ(織豊政権と東国、小笠原貞慶考) >>史料を読む限り秀吉が余裕かましていて、
秀吉派佐竹や毛利や上杉相手にデタラメ戦果書きまくって必死に家康の味方にならないよう気遣っているのに どこが余裕なんだ?
>>家康が長曾我部や北条の援軍が来ないと何も出来ないヒッキーに過ぎないのが判明
わずか8000程度の兵力で10万〜135000の秀吉にまともに対抗できるわけねー。
そもそも指揮能力や采配能力が劣っていようが数でごり押しすれば勝てるのが戦。
秀吉は秀吉の場合は数でごり押ししても雑魚の信雄や輝元に全く勝てなかったり
防衛戦ですら家臣を殺されまくるほどの雑魚。
どれだけ国力や兵力が大きかろうが敵の家臣がどれだけ秀吉方に寝返ろうが
本人の指揮能力や采配能力が糞すぎて雑魚の信雄や家康には到底敵わないため
信雄対策には顕如に必死に土下座して取り成しやってもらって強制的に和睦を結び
家康対策には重臣等を篭絡しまくり母や妹を差し出したり関八州260万石と秀吉外戚の地位を土下座して差し出す事で
慈悲深く、寛容で大儀名分を重んじる家康は、秀吉への牙を収めてやる事にした。
>>完全に追い詰められた家康ってのが事実。
むしろこんな圧倒的有利な兵力差&状況&信雄領国からも寝返りばかりで
今川氏真が指揮取っても勝てそうな状況で長久手で大敗、その後の攻防も終始苦戦して1年かかって
基盤ガタガタな尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
>>秀吉は丹羽を北陸に派遣する兵力的余裕すらあり、
兵力差がめちゃめちゃ違う上に外交でも優位に立ったんだから当たり前だろ
秀吉の国力=機内全域・中国の播磨但馬因幡美作備前備中の一部伯耆淡路讃岐東海地方の尾張の一部美濃伊勢の一部伊賀
北陸の加賀能登越前+同盟者の毛利上杉十河河野木曽
家康・信雄の国力=尾張(一部は秀吉に味方)伊勢(鈴鹿以南は秀吉に味方)三河遠江駿河甲斐信濃(北信4郡は上杉方、木曽は秀吉方)
(このうち甲斐衆、信濃衆、駿河衆は上杉との対戦に備えて領国に残される)
こんなヌルゲー戦で兵力に余裕があるのを自慢するとか馬鹿かよ。
>>また秀吉は人質を取っての戦勝和睦が成立したと思ってたら、家康が騙していただけだったりと
9月時点で信雄・家康の人質出しての懇望を聞かずになぜ11月になって 秀吉が素直に言う事聞くのか不明
もし秀吉の言うとおりならよほど織田徳川に苦戦しまくってた証拠
>>切羽詰まっていた家康が誤魔化しまくっていたのが現実。
史料を出して詳しく解説してくれ
>>ロクに援軍出さないため次々と家康は味方の離反を受け、
楽田に留守居部隊2万も置かれてるのに簡単に動けるわけねーだろアホ
>>ついに信雄まで家康の援軍が期待出来ずに屈服。
信雄は浜田も松ノ木も戸木も長島も落ちてないというか砦築かれただけで攻められてもない状況で
苦戦しまくってた秀吉が諦めて納馬しようとしてたところにヘタレ降伏してきただけで家康の動きとは関係ねーわアホ
>>屈服後は家康の味方の紀州や越中まで信雄が家康から離反させるなど信雄からも追い詰められる始末。
家康の和議を屈服などと歪曲支店じゃねーよアホ
なぜ和議結んだのに単体で8000そこそこしか出せない状況で13万の秀吉に歯向かわなきゃ無能になるんだアホ 養子や側室として取ったのを無理矢理人質を取ったとハッタリ誇大喧伝してるのが秀吉。
秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。
看羊録
家康は兵をもって相模に秀吉を迎え撃った。
秀吉の兵が敗れ、遂に家康と和を結んだ。家康も恨みを解いて服従し、終身臣礼を失わなかった。
家康は江戸中納言(秀忠)を愛し、後継にしようと望んだ。
家康は事のなりゆきを観望していた。
秀吉は自ら往ってこれを攻めたが、かえって敗北を喫してしまい、遂に家康と和を結んだ。
家康もまた腰をかがめてこれに事え、全く臣下の礼をとった。 天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
石川は小牧長久手の頃から秀吉に半分篭絡されつつあったし、小笠原が石川の人質連れて秀吉の元に逃げたから
離反しただけ。翌年も家康は秀吉に従うどころか、諸城普請とか浜松会議とか北条との同盟強化とか対秀吉に備えて動きまくってたし
秀吉も天正13年中頃から天正14年初等まで上杉や真田などに天正14年春の家康討伐計画細かく書いてるが、いざその頃になるとビビリまくって信雄を家康の元に送って仲介させたり、
母と妹人質に出して「ワシに従ってくれ〜」とばかりに土下座してきたから、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。 跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
>>岡崎殿って信長の長女で五徳だよな。信雄は実子の他にも妹も人質に取られてたのかw
実子を人質に取ったというのは秀吉の垂れ流した事実を歪曲した誇大喧伝だな>>125
>>つかこの時点でもまだ岡崎殿という呼称で呼ばれていたほどの待遇だったんだな。
岡崎殿と呼ばれる事がなぜ待遇の良さに繋がるのか不明。元の身分が高い女性なら、親の死後もその威を受けて、
呼称だけそのまま残されただけ。
>>信雄にとっては信康の妻という徳川との絆を決定づける人物だから尊重してたんだろうな。
根拠なし
>>まぁ五徳を秀吉に差し出したから、信雄が改易された時に家康は擁護もせずに見捨てたんだな。
五徳なんて今や徳川にとって何の愛着も恩もない他人みたいなもんだろアホ
>>家康側家臣の書状では養子と書くが、秀吉の書状にははっきり人質と書かれているし、宣教師の記録でも人質って表記されてるし
宣教師の記録は>>122-123を読めばわかるがほとんど秀吉側が垂れ流した偽情報を元に事実化のように記載されてる、あってる記述の方が少ないほどのデッチ上げ史料にすぎないから
全くソースにならない。秀吉が人質と書いてるのも事実を歪曲した秀吉お得意の誇大喧伝で、その証拠に天正13年6月の信雄書状で「秀吉は於義井を人質として扱ってない」と書いてる
>>家康側は家臣への言い訳に「ひ、ひとじちじゃねぇよ・・・養子に差し出しただけなんだからね」って言ってたのか情けねぇ。
そんな事全く言ってない。秀吉が一時的な停戦の条件に家康の息子を養子にするという条件を、勝手に人質を取って勝利した、などと摩り替えただけ。その証拠に天正13年は両者とも冷戦状態が続き
秀吉側も徳川側も戦争への準備をちゃくちゃくと進めている。結局秀吉が国力差10分の1&離反の連鎖&領国機密露見で崩壊状態の家康に、いざ侵攻となったらビビリまくって
信雄を仲介に出して家康との戦い避けたうえに、母と妹を差し出して「ワシに従ってくれ〜」とばかりに土下座してきたから仕方なく応じてやっただけ。
>>秀吉は人質を一切、出してないし、一方的大勝利だったわけか。
秀吉は母と妹を国力差10分の1、木曽小笠原真田水野石川の離反とそれによる軍事機密露見の家康に対してビビリまくって人質として差し出してる 石川→天正12年時点で秀吉に篭絡されかかってて完全な秀吉親派。
三河物語で小牧合戦に勝利後秀吉を襲うぞ!と息巻いてる本多らに対して石川は秀吉に篭絡されてたから
反対してやめさせたという逸話が書いてるが、嘘くさいようだが、下記のように本当に秀吉と連絡をとりあっていたようだ
6/10秀吉→石川
去八日御状今日十日竹鼻で拝見しました。前より散々よい機会がなく、あなたのご家中宿老衆は言うに及ばず
下々の者まで存じる事になるため、音信をなし、馬・鎧1走御意にかけられ、自然家康の耳に入れられ
その方に相届かぬように候へは、如何しき候条、これにより、後の書状は下々の者まで通達は無用だ。
堀秀政より申し知らせる。 恐々謹言
本多→奉行衆の下っ端で、ろくな影響力もない雑魚。雑魚の人質なんてあげたって、家康と秀吉の上下関係の証明には全くならない。
家康が秀吉に養子を出したのって
北条が藤田や大石家に養子を出したり
毛利が吉川や小早川に養子を出したりした
織田が神戸・長野・北畠 などに養子出したのと同じ事でしょ。
屈服させた相手に、関係を強固にしたり、自家との一体化や支配を強固にするために
従属下の大名に養子出しただけ。
佐竹も葦名家に養子を出してるね。
養子は当主が死ねば当然その家の後継者候補になるし
その家を継ぐ大義名分にもなるし家中で大きな権力・威信・名分・軍事力を持つきっかけにもなる
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。
石川→天正12年時点で秀吉に篭絡されかかってて完全な秀吉親派。
三河物語で小牧合戦に勝利後秀吉を襲うぞ!と息巻いてる本多らに対して石川は秀吉に篭絡されてたから
反対してやめさせたという逸話が書いてるが、嘘くさいようだが、下記のように本当に秀吉と連絡をとりあっていたようだ 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) 秀吉が直前まで出兵計画を立ててたがいざ其の時期になると
信雄に土下座して和睦の仲介やってもらった上に母や妹を差し出して土下座してきたから
家康がしょうがねぇなやれやれと思って仕方なく応じてやっただけ。
家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
秀吉は完全に土下座状態だったからね
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
しかも関東八州250万石まで家康にプレゼントするヘタレっぷり。 初心者さんのためにアドバイスすると、
専用ブラウザ使って、NGワードを設定しておくと、
長文コピペ野郎の書き込みを目にして時間を無駄にせずにすむよ。
「アホ」、「バカ」などの罵言は他の荒らし対策にもなるからぜひ。
「織田在日」、「織田チョン」、「織田厨」、「ビビリまくって」、「論破」
など菅沼が良く使う単語を登録しておいて、
それでも長文コピペを目にしたら、他所で使わなそうな固有名詞
(このスレなら松ノ木とか)を追加したら良い。
くだらない書き込みをあぼーんして、みんなで快適にすごそう。 . \ ソース?自分で調べろよ /ナンダコイツ ヒィィィッ
─────\ ∧_∧ ∩ ヴォケ!! / ∧_∧ ∧_∧
織田厨はアホ!\ 〈 `∀´〉ノ______ / (; ´Д`) (´Д`; )
───∨── \ (入 ⌒\つ /|. / ( つ ⊂ ) ( ⊃ ⊃
∧_∧ \ ヾヽ /\⌒)/ |/ 〉 〉 く く //( (
〈 `∀´ 〉彡 \ || ⌒| ̄ ̄ ̄| / (_.)(_) (_) (__)
Σm9っ つ \∧∧∧∧ /織田信長 長篠合戦で大敗し半身不随
人 Y < 菅 > 今川義元病死 武田信玄 上洛して天下統一
し (_) < 沼 > 土下座 天皇のお墨付 焼死 騙まし討ち
< 遼 > それよりも そうじゃないことを証明しろよ
─────────< 予 太 >─────────────────
< 感 の > < 菅沼さーん!家賃払ってくださーい!
__ ナニコレ… < !!! >
||daga Λ_Λ /∨∨∨∨\
||__(Д`; ) /バカ長厨 だ\ ∧_∧
\_ ⊂´ )./じゃあお前も ね\ 〈 `∀´〉 < 織田在日は歴史を語る資格なし!
( ┳/運だけ 転載乞食 え \ _(__つ/ ̄ ̄ ̄/_
/ 氏は信長を ネット廃人カス子 \ \/ / カタカタ
/だが 一次資料を たのは間違いない\ 秀吉は天正12年戦役の結果、
家康から秀康を始め、
石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、
これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww
しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww
在日朝鮮織田チョンくんさー、
三河一向一揆との戦い以来の超古参の
石川数正や酒井忠次や本多重次らVIP首脳陣から、
強制的に人質を徴集した秀吉が家康に屈したとかキチガイ主張してる気分はどう?
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
秀吉に嫡男を人質に出した酒井は徳川四天王筆頭じゃん。
最古参筆頭として石川数正と同格。
他の四天王って言っても本多忠勝と榊原康政は21歳も差があって親子並に離れていたし、
井伊直政に至ってはさらに13歳下。
本多重次も譜代最古参で三河三奉行の1人で民衆に慕われた行政のスペシャリスト。
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
アンチ秀吉の織田チョンは相変わらずバカだねw
西三河の旗頭として対秀吉戦線最前線にいた本多重次が岡崎城代で、
東三河の旗頭の酒井忠次が吉田城代なんだけどwww
もう三河は秀吉が人質を徴収して実質支配を開始してるのも同じwww 酒井、石川、本多からも人質を取って、
家康を従属させた秀吉は、
家康の同盟相手だった雑賀衆、高野山、長宗我部、佐々を討ち従えた。
しかも佐々を討った際に、
秀吉は家康に佐々の本領安堵してやる代わりに、
お前はさらに人質を出せや!と言われる始末。
従属したくせになかなか上洛して挨拶に来ない家康を、
秀吉は表裏と捉え始め、
上洛しないなら、さらなる人質提出を要求。
怖いので上洛したくない家康は家臣を集めた大会議をして家臣らに人質を出すよう説得。
そして秀吉も美濃での緊張を高めて、
家康を圧迫しまくる。
家康は家臣説得に失敗し、
これを契機に徳川を見限った石川が豊臣へ逃亡。
すでに調略を受けた小笠原も秀吉に寝返り、高遠の保科を攻め始める始末。
ついに進退極まった家康は、秀吉の信雄に懇望し、
秀吉と婚姻して縁戚になったら上洛しますと土下座。
しかしやっぱり殺される恐怖から上洛を躊躇する。
秀吉は天皇即位式には義弟家康を出席させようとしていた為に、
天皇のため、自分の母を、義弟家康の上洛中だけ限定の人質に出すことにして朝廷の面目をたてた。
そもそも秀吉の妹が徳川家の正室になることを、
(秀吉の妹が質と書かれている書状は存在しない)
命欲しさの家康が懇望していただけで、 賛成している者は徳川家臣団には無く、
明らかに秀吉に強制的に押し付けられて拒めないようにされてるだけなのに、
秀吉の妹は人質になっていたと連呼して馬鹿じゃないかwww
天正14年5/25の秀吉書状には、 家康事種々縁辺等之儀迄令懇望候条、誓紙・人質以下堅相ト令赦免候
などと書いていて戦を回避する為に家康が懇望していたのが分かるし、
実際、5/28の祝言日にも、 酒井忠次や本多忠勝や榊原康政が、
そっち行ねーからと露骨な反抗姿勢を示した為に、
謀反を恐れた家康は、 いろいろ難しくて事切候ハんかと嘆息して婚姻破綻を申し入れて、
信雄の面目が失われ、秀吉立腹となってる。
ビビった家康は何とか秀吉の怒りを鎮める為に近日中に祝言を強行しようと試み、
6/9にやろうと決めるが家中内和睦をまとめるのに難航し、6/6にやっと本多忠勝が清洲の信雄の元に、
徳川家臣団の女房たちを人質に送り込んだおかげで、 秀吉の妹が三河へ移動できる状態になるものの、
9日には祝言が挙げられずに10日にズレる。 しかし11日にズレる程に徳川内は混乱し、
11日やっと秀吉の妹がやってくるほど、 徳川正室問題は揉めていて、
秀吉にしてみれば徳川家中が混乱した方が良いわけで、 秀吉の思惑通りに妹が徳川家臣団の大反対を押し切り、
徳川正室に入り込むことになり、 7月に家康が真田攻めしようとしても、
妹の旦那に対して秀吉が、真田攻めを止めさせたら従う他無くなってしまうまでに影響力を行使出来るようになった。 家康や家臣らは秀吉に人質を出して属した。
人質を得て家康の服属を以って東国平定がなった秀吉は、
背後を気にする必要もなく、
安心して紀伊和泉の惣国一揆や四国や越中と言った親家康勢力を全て制圧した。
そしてビビり家康からさらなる追加人質を要求した秀吉は、
征伐されたくない家康が言いわけをして人質提出先送り曖昧うやむや化を狙う態度を表裏と捉えた。
実際、家康は家臣団とさらなる人質提出において家臣団の同意意見統一がまとまらず破談していただけである。
それは秀吉による徳川家臣団離間への揺さぶり術でもあり、
石川は意見統一出来ない家康を見限って逃げた。
2月までに秀吉の怒りを解かないと徳川は滅亡確定である。
秀吉は家康取次の信雄を通して人質提出ではなく、家康本人の上洛の要求にハードルが上がり始めた。
意見統一が出来ない家康は2月寸前ギリギリに至り信雄に秀吉への斡旋を懇願し岡崎で降伏条件の最終会談をして、
秀吉との婚姻を条件に、さらにハードルをあげられた自らの上洛するリスクを約束して秀吉政権への完全臣従を申し入れ征伐を免れた。
しかし上洛したら殺されると恐怖する日々が家康を襲うことになる。
秀吉は早く朝鮮出兵したくて仕方がなく、
家康の小心っぷりが際立っていた。
柴田滅亡後、丹羽長秀は123万石の大名になったが、 秀吉が天正11年9月に大坂城をとりあえずの完成になるや、
臣従の証として大坂登城の招きがあった。 丹羽長秀はそれに応じなかったので、
秀吉から上洛延引し在国していることを咎めれた。
そこで村上義明が秀吉へ弁明の使者として派遣され、 秀吉の怒りを解いている。
秀吉は臣従の証として上洛を要求して威圧しており、 天正12年戦役で家康から人質を取り臣従させたとは言え、
臣従の証として家康の上洛を要求していた。 自分可愛さの家康は上洛したら殺されるとビビっており、
何とか誤魔化していたが、それも限界がきて秀吉から表裏と捉えられかねない状況に追い込まれるだけだった。
佐々を攻略した秀吉は、佐々の領国安堵と家康重臣のさらなる人質提出のどちらか選べと最期通牒を突き付け、
家康は家臣を浜松に集め人質提出の相談所をし、 秀吉も東美濃の軍備を強化し圧力をかけた。
それでも重臣が人質提出を拒否し、 家中を纏められない家康に呆れた石川数正もヘタレ家康を見限り11月に秀吉の元に走った。
と言うのも秀吉は見せしめに閏8/13に丹羽長重が越前加賀を召し上げをやって威を示していたからで、
丹羽は若狭12万石に減封にされた姿に、 家康も上洛しなかったら自分も丹羽家のようになると恐怖でいっぱいだっただろう。
続いて小笠原も家康を見限り、 これを受けて秀吉は1/28には出陣準備を始めるが、
家康が再度、言い訳をしたので2/8に出陣を赦免している。
そして2/26に家康は北条に釈明に駿河へ行き、 どうしても死にたくない家康は、
命欲しさに上洛するから、殺されない保証として婚姻して縁戚になり、
上洛している最中だけ秀吉の母を預かる条件で、 上洛することを承諾するという、
命欲しさの家康は武将としては最悪な生き汚さを発揮。
ひたすら家康は死にたくないので、上洛を先延ばしし、
戦を背景に問い詰められると、言い訳をして表裏して誤魔化していた日本一恥ずかしい武将。
信雄もあからさまに家康を見限っていた程のビビり。 本能寺の変後に北条に大敗した滝川に対して
信濃国の小県郡や佐久郡の国人の人質譲渡を条件に美濃国への帰国を支援した木曽。
その木曽から人質ぜんぶ贈られた棚ボタ家康。
おかげで依田氏や真田氏らが家康側に付いて
上野国から信濃国へ侵攻してきた北条の背後が常に戦乱叛乱だらけで北条が根をあげて家康に妥協する。
家康自身はなんにもやってないためまさに棚ボタ。
森らの報復を恐れて木曽は家康に付いただけの話だから
家康は木曽に対して特に働きかけすらしてない。
天正12年戦役で秀吉に大敗した家康。 完全に威信が地に落ちた徳川w
翌年11月にはついに武田の影に怯えて甲信から糞漏らしながら全面撤退命令www
秀吉配下の前田が越中口から、北信濃口と越後口から上杉、飛騨口から金森、木曽郡から木曽軍が怒涛の勢いで南下。
家康が相変わらず援軍を出さないで見捨て始めるとたまらず小笠原氏が秀吉へ内通開始。
三河物語によると武田信玄の息子の龍宝の嫡男が
北信濃の一向宗と合流した師慶と菊姫に随行していた八重森因幡守家昌に守られ犬飼村におり
その武田信道が景勝南下とともに甲斐に帰還する。
このような話を聞いた家康は甲斐は乱国になるとビビりにビビり、
なんと信濃甲斐から浜松へ全軍逃げて来いと命令。
信濃佐久郡から大久保忠世、諏訪郡より芝田康忠、甲州郡から平岩親吉らは
ものすごい勢いで真田軍の目の前から浜松へ逃走w
置き去りにされた地元の菅沼定利が一人で人質集めを始めて南信濃の崩壊を防いでくれた。
また佐久郡から甲斐への道は、まさか武田の影に怯えていたとは気づかなかった
真田昌幸が景勝によくわからんけど全軍浜松へ逃げたから調査するよと返答し
様子見していたので崩壊せずに済んだwww 家康は相変わらずのヘタレである。
家康のビビりっぷりは半端ねぇんだよな。ガチで自分の命が惜しくて仕方が無い。 最強命乞い大名。
上洛する前もそうとう怖くて、 北条相手に上洛したら騙されて殺されるかもと泣きついたらしく、
家康が上洛中に北条は領内大動員をかけて、 北条側は「当方之興亡此時候間」とか、
「万一於京都表裏之扱有之者」とか、 「万一西表有相違之筋目」 などと秀吉相手に大決戦する構えをとってる。
上野も最前線の真田戦線での開戦に向けて、 部隊移動が開始され、
出遅れないように11/10までに利根川端まで15歳から70歳までは無足の者まで残らず動員して打ち出て来いとまで命じてる。
どんだけ北条に対して家康は脅威を訴えたんやwww 北条は家康に万が一のことがあったらと全力動員開始してたのに、
家康から北条へ、11/15付けで俺、東国の惣無事令の取次ぎの職を秀吉から任命してもらったんだー。
だから佐竹や宇都宮や結城や那須を攻めないように誓って秀吉にちゃんと返事しろよ!って
言われた北条は茫然自失して騙されたと感じただろうね。
家康はホント、恐怖で被害妄想を膨らまして大袈裟に誇張する精神的病人。
だけど強いやつがいないと威張る威張る。秀吉死んだら、いままでへいこらしてた態度を豹変。 秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。
石川→天正12年時点で秀吉に篭絡されかかってて完全な秀吉親派。
三河物語で小牧合戦に勝利後秀吉を襲うぞ!と息巻いてる本多らに対して石川は秀吉に篭絡されてたから
反対してやめさせたという逸話が書いてるが、嘘くさいようだが、下記のように本当に秀吉と連絡をとりあっていたようだ
6/10秀吉→石川
去八日御状今日十日竹鼻で拝見しました。前より散々よい機会がなく、あなたのご家中宿老衆は言うに及ばず
下々の者まで存じる事になるため、音信をなし、馬・鎧1走御意にかけられ、自然家康の耳に入れられ
その方に相届かぬように候へは、如何しき候条、これにより、後の書状は下々の者まで通達は無用だ。
堀秀政より申し知らせる。 恐々謹言
本多→奉行衆の下っ端で、ろくな影響力もない雑魚。雑魚の人質なんてあげたって、家康と秀吉の上下関係の証明には全くならない。 石川は天正12年春の時点ですでに秀吉に篭絡されつつあったのが三河物語や松平記6/10秀吉→石川
でわかるし
小笠原は石川が小笠原の人質を連れて秀吉の元に逃げ込んだから鞍替えしただけ(織豊政権と東国、小笠原貞慶考)
木曽なんか天正12年時点で離反してるし真田も小笠原も天正壬午の時の空手形や北条との領土交渉
など信濃内での領土問題で家康に不満もって離反しただけなのに無理矢理家康の天正13年の行動と結びつけるとか相当馬鹿だな
11/15家康→氏直 去13日石川数正が尾張に退散し信州小笠原貞慶の人質を召し連れ上方申合子細ニ付〜
12/14家康→保科正直で石川出奔に同調した小笠原貞慶との戦闘における戦功を賞している
今度小笠原大夫逆意を企てその表相動く処、一戦を遂げられ敵随一の者数多被討捕由〜
実際に小笠原が離反したのは石川の出奔後だろ。12/14家康→保科で「今後小笠原大夫逆意を企て」
などと書いてて、小笠原が出奔してから間もない事だとわかるし
家康は秀吉の威圧行動と対真田の敗戦や上杉景勝の川中島侵攻や天正13年夏の領内大地震や木曽小笠原石川水野真田の離反とそれに伴う領国機密露見
といった、種種の領国崩壊要素があり、秀吉からしてみれば半月で瞬殺できそうな状況で、天正13年秋から天正14年初頭まで上杉木曽真田など諸大名や家臣に当てて
天正14年初頭の三河出兵計画を散々書いて、重臣一柳にもその実行のための行動を命じておきながら
いざとなるとビビリまくって信雄に仲介を必死に頼んで、戦闘を回避した上に
母や妹を差し出して家康に土下座してるんだがw
家康は暢気に岡崎や浜松で北条との同盟強化や諸城普請や人質招集など
領内の防衛体制を構築してただけで、秀吉に従属する構えは全く見せてなかったなんだがw 正しい年表は以下の通りね。
秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉 下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
>>年が明けるとすぐ信雄にあって秀吉への取次ぎを頼んだ。
はあ?取り成し頼んだのは秀吉であって家康じゃねーよクズ。
なんで豊臣に従ってもいない家康が、豊臣の配下になってた信雄に取り次を頼める立場にあるんだよアホ。
信雄はその時期もう完全に秀吉の配下であって、秀吉の意で動いてたんだから、秀吉が必死に戦いを避けるために
家康への仲介を依頼しただけだろどうみても。 下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
>>年が明けるとすぐ信雄にあって秀吉への取次ぎを頼んだ。
はあ?取り成し頼んだのは秀吉であって家康じゃねーよクズ。
なんで豊臣に従ってもいない家康が、豊臣の配下になってた信雄に取り次を頼める立場にあるんだよアホ。
信雄はその時期もう完全に秀吉の配下であって、秀吉の意で動いてたんだから、秀吉が必死に戦いを避けるために
家康への仲介を依頼しただけだろどうみても。 看羊録
家康は兵をもって相模に秀吉を迎え撃った。
秀吉の兵が敗れ、遂に家康と和を結んだ。家康も恨みを解いて服従し、終身臣礼を失わなかった。
家康は江戸中納言(秀忠)を愛し、後継にしようと望んだ。
家康は事のなりゆきを観望していた。
秀吉は自ら往ってこれを攻めたが、かえって敗北を喫してしまい、遂に家康と和を結んだ。
家康もまた腰をかがめてこれに事え、全く臣下の礼をとった。
翌年も家康は全く秀吉に屈服どころか、お互いにらみ合って秀吉は会戦準備まで進めてたし
家康は家康で北条との関係強化やら、諸城普請など戦争の準備やってるのに、上下関係、臣従関係は全く生じてないんだから
人質なわけねーだろクズ、
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
>>家康は信雄に秀吉との和睦をすがった
全くすがっていない。家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな >>秀吉から表裏と捉えられかねない状況に追い込
表裏も糞も、最初から単に停戦和睦して養子を出しただけなのを、秀吉が勝手に人質だの臣従だの勘違いして家康にいちゃもんつけてただけじゃん。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>自分可愛さの家康は上洛したら殺されるとビビっており何とか誤魔化していたが
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
>>背後を気にする必要もなく、
>>安心して紀伊和泉の惣国一揆や四国や越中と言った親家康勢力を全て制圧
家康に土下座して和睦した隙をついて、孤立無援の、雑魚国力の勢力をこれ見よがしに棚ボタ的に火事場ドロしただけじゃん。
豊臣の国力からいえば各地に散在する勢力なんて蟻みたいな雑魚でしかないんだし家康に土下座して和議を結んで、孤立無援にさせた上で、その隙にドロボウしただけ。
>>征伐されたくない家康
どこにそんな事が書いてあるんだよアホ。
対真田の敗戦や、天正大地震や、天正初頭からの領内の天災の連続(家忠日記に毎年のように洪水や堤防の決壊などが起こってるのがわかり
家康の徳政免除の文書はこれに対応するためと久保田氏が書いてる)や木曽小笠原石川水野真田と立て続けに離反し続け
徳川領国は軍事機密も露見し丸はだかになった後ですら、種種の領国崩壊要素があり、秀吉からしてみれば半月で瞬殺できそうな状況で、
天正13年秋から天正14年初頭まで上杉木曽真田など諸大名や家臣に当てて
天正14年初頭の三河出兵計画を散々書いて、重臣一柳にもその実行のための行動を命じておきながら
いざとなるとビビリまくって信雄に仲介を必死に頼んで、戦闘を回避した上に
母や妹を差し出して家康に土下座してるんだがw
家康は暢気に岡崎や浜松で北条との同盟強化や諸城普請や人質招集など
領内の防衛体制を構築してただけで、秀吉に従属する構えは全く見せてなかったなんだがw >>言い訳をして人質提出先送り曖昧うやむや化を狙う態度を表裏と捉えた。
言い訳ってなんだそれ(笑)いつものお前の妄想か?
最初から家康は人質なんて出してねーよクズ
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
>>秀吉は臣従の証として上洛を要求して威圧しており天正12年戦役で家康から人質を取り臣従させた
家康は臣従なんてしてねーよボケ。
停戦しただけなのを家康が土下座したとか曲解したり
養子を人質とかデッチ上げたり秀吉厨の脳内は相当腐ってるな。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ 秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
>>臣従の証として家康の上洛を要求
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
翌年も家康は全く秀吉に屈服どころか、お互いにらみ合って秀吉は会戦準備まで進めてたし
家康は家康で北条との関係強化やら、諸城普請など戦争の準備やってるのに、上下関係、臣従関係は全く生じてないんだから
人質なわけねーだろクズ、
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。 >>佐々の領国安堵と家康重臣のさらなる人質提出のどちらか選べと最期通牒を突き付
そんな事全くやってない。
>>家中を纏められない家康に呆れた石川数正もヘタレ家康を見限り11月に秀吉の元に走
石川は天正12年の長久手合戦の頃から秀吉に篭絡されかかってたし、別に家中をまとめられないから逃げたとか関係ない。
秀吉のお得意のヘタレ土下座が功を奏して、大した相手でもないのに石川は過大評価してただけ。
>>秀吉は見せしめに閏8/13に丹羽長重が越前加賀を召し上げをやって威を示していたから
>>丹羽は若狭12万石に減封にされた姿に家康も上洛しなかったら自分も丹羽家のようになると恐怖
丹羽みたいな雑魚と、家康や信雄は全く違うからその比較は根拠にならない。
史実で秀吉は家康はおろかザコの信雄に負けまくったから会戦になったり100%負けるのは秀吉だろ。
何せ小牧長久手合戦時は北条の変身の風聞や上杉の川中島侵攻で家康はわずか8000程度しかつれてこれなかったにもかかわらずあの圧勝ppるいだったからね。
秀吉方のは135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄相手に短期決戦挑んで1万人殺された後
二重掘合戦でわずか1000程度の雑魚の信雄の奇襲にビビッて楽田から敗走した後、
戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城で敗戦(4月〜11月の間で戦闘が確認できるが信雄や家康からの奮戦に対する感状や勝利の報告ばかり
で結局落城せず)6月に前田・下市場、7月に浜田城、蟹江城、11月に長久保城など、いずれも秀吉から眼前にある城を
秀吉より遥かに少ない軍勢で攻め込まれて奪回されるアホっぷり。
結局、全く戦闘に勝てず手詰まりになった秀吉が11/4に顕如に土下座して取り成しを要請して
しかたねぇなと思った信雄が温情で講和に応じてくれたおかげでなんとか引き分けで終わっただけ
>>信雄は秀吉は佐々も潰すけど、お前どうすんの?って家康へ最後通牒を叩き
そんな事全くやってない。信雄は家康に秀吉は秀康を全く人質としては扱ってないよ。
だから秀吉にもっと人質出して臣従してしたら?と、家康にビビリまくった秀吉の必死の土下座要請に応じて、取り成しをやってただけ。
秀吉の家康討伐の際(天正14年初頭)にも秀吉は信雄に取り成しやってもらって母や妹まで送って必死に戦い避けてるし。
>>さらなる人質を出して秀吉の騎下に服しない場合は、討伐する
そんな事信雄の文書に書いてねーよクズ。
>>家康はビビッた
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな >>あまりにも見事かつ完璧に秀吉に敗北した事を意味した。
家康に土下座和睦して後ろの心配をなくした上に上杉や毛利や宇喜多や木曽らの力に頼りまくって
雑魚イジメした事の何が敗北なんだよアホ
>>紀伊惣国一揆を従属させた秀吉は彼らの船を総動員してすぐさま四国に攻め寄せ圧倒
これも信雄や家康が怖くてビビリまくって、和睦した隙に、少しでも敵領土を削って味方を強大にするために雑魚イジメしてただけじゃん。
>>秀吉が天才と呼ばれる所以は高野山を速攻で制圧
当時の秀吉の領土は畿内一円に、毛利・上杉・宇喜多・木曽・信雄。
高野山なんて10万石いくかいかないかわからん雑魚なんていじめて何が凄いんだよタコ
>>第二陣として出陣してきた信雄と秀康らの軍が雑賀に着陣してきた時にはすでに平定してしまっていた程の巧者
はぁ?秀吉軍畿内総結集すれば15万くらいいくだろ。
5000もいくか怪しい高野山なんて、馬鹿でも叩き潰せるわwこんな指揮采配能力と全く関係ない雑魚イジメで
将の資質や戦のうまさなんてとわれねーよクズ。
そもそも豊臣政権自体が単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる) 家康は臣従なんてしてねーよボケ。
停戦しただけなのを家康が土下座したとか曲解したり
養子を人質とかデッチ上げたり秀吉厨の脳内は相当腐ってるな。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条) >>石川数正や小笠原らが家康を見限り、秀吉陣営に鞍替え
石川は天正12年春の時点ですでに秀吉に篭絡されつつあったのが三河物語や松平記などでわかるし
小笠原は石川が小笠原の人質を連れて秀吉の元に逃げ込んだから鞍替えしただけ(織豊政権と東国、小笠原貞慶考)
木曽なんか天正12年時点で離反してるし真田も小笠原も天正壬午の時の空手形や北条との領土交渉
など信濃内での領土問題で家康に不満もって離反しただけなのに無理矢理家康の天正13年の行動と結びつけるとか相当馬鹿だな
ウザイからさっさと出てけよクズ野郎
>>和睦を成したあと、秀吉に上洛して来いと言われた
そんな事秀吉は言ってない。秀吉は直前まで出兵計画立ててたが
いざとなるとビビリまくって、信雄送って仲介やってもらった上に母や妹まで差し出して必死に土下座して戦いを避けただけ。
>>殺される恐怖から上洛だけは嫌がるヘタレ家康。
殺される恐怖ではなく、秀吉をナメくさって暢気に過ごしてただけだろ。前年には北条との同盟強化や浜松会談など、
秀吉の三河出兵計画や、木曽小笠原石川水野真田の離反や逸れに伴う軍事機密露見や天正13年夏の大地震、対真田の敗戦など
種種の領国崩壊要素があったにもかかわらず、秀吉の討伐計画に対して、全く危機感0で暢気に無視していただけなのが家康。
>>天皇の譲位と新帝即位の晴れの舞台を演出したい秀吉は自分の母を三河に遣わし
妄想乙。家康が怖くて母や妹を差し出したのを、晴れの舞台を演出するためとか曲解乙。
家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。 自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな
ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
>>秀吉が好意で家康からの人質を養子とした
いやそもそも家康は人質として息子を秀吉に指し出していない。人質として出してたというなら
翌年の両軍の冷戦状態なんてありえないし両陣営とも戦争の準備進めまくってたが秀康は切られず
佐々攻めの際の織田信雄の書状でも秀吉は秀康を人質としては扱ってないと書いてる。 自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな
ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
>>秀吉が好意で家康からの人質を養子とした
いやそもそも家康は人質として息子を秀吉に指し出していない。人質として出してたというなら
翌年の両軍の冷戦状態なんてありえないし両陣営とも戦争の準備進めまくってたが秀康は切られず
佐々攻めの際の織田信雄の書状でも秀吉は秀康を人質としては扱ってないと書いてる。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。 >>臣従の証として家康の上洛を要求
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
さしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
翌年も家康は全く秀吉に屈服どころか、お互いにらみ合って秀吉は会戦準備まで進めてたし
家康は家康で北条との関係強化やら、諸城普請など戦争の準備やってるのに、上下関係、臣従関係は全く生じてないんだから
人質なわけねーだろクズ、
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
>>天正12年戦役は秀吉が圧倒し押しきった
秀吉はさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。 >>自分可愛さの家康は上洛したら殺されるとビビっており何とか誤魔化していたが
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
>>秀吉から表裏と捉えられかねない状況に追い込
表裏も糞も、最初から単に停戦和睦して養子を出しただけなのを、秀吉が勝手に人質だの臣従だの勘違いして家康にいちゃもんつけてただけじゃん。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>佐々の領国安堵と家康重臣のさらなる人質提出のどちらか選べと最期通牒を突き付
そんな事全くやってない。
>>家中を纏められない家康に呆れた石川数正もヘタレ家康を見限り11月に秀吉の元に走
石川は天正12年の長久手合戦の頃から秀吉に篭絡されかかってたし、別に家中をまとめられないから逃げたとか関係ない。
秀吉のお得意のヘタレ土下座が功を奏して、大した相手でもないのに石川は過大評価してただけ。
>>秀吉は見せしめに閏8/13に丹羽長重が越前加賀を召し上げをやって威を示していたから
>>丹羽は若狭12万石に減封にされた姿に家康も上洛しなかったら自分も丹羽家のようになると恐怖
丹羽みたいな雑魚と、家康や信雄は全く違うからその比較は根拠にならない。
史実で秀吉は家康はおろかザコの信雄に負けまくったから会戦になったり100%負けるのは秀吉だろ。
何せ小牧長久手合戦時は北条の変身の風聞や上杉の川中島侵攻で家康はわずか8000程度しかつれてこれなかったにもかかわらずあの圧勝ppるいだったからね。
秀吉方のは135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄相手に短期決戦挑んで1万人殺された後
二重掘合戦でわずか1000程度の雑魚の信雄の奇襲にビビッて楽田から敗走した後、
戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城で敗戦(4月〜11月の間で戦闘が確認できるが信雄や家康からの奮戦に対する感状や勝利の報告ばかり
で結局落城せず)6月に前田・下市場、7月に浜田城、蟹江城、11月に長久保城など、いずれも秀吉から眼前にある城を
秀吉より遥かに少ない軍勢で攻め込まれて奪回されるアホっぷり。
結局、全く戦闘に勝てず手詰まりになった秀吉が11/4に顕如に土下座して取り成しを要請して
しかたねぇなと思った信雄が温情で講和に応じてくれたおかげでなんとか引き分けで終わっただけ >>信雄は秀吉は佐々も潰すけど、お前どうすんの?って家康へ最後通牒を叩き
そんな事全くやってない。信雄は家康に秀吉は秀康を全く人質としては扱ってないよ。
だから秀吉にもっと人質出して臣従してしたら?と、家康にビビリまくった秀吉の必死の土下座要請に応じて、取り成しをやってただけ。
秀吉の家康討伐の際(天正14年初頭)にも秀吉は信雄に取り成しやってもらって母や妹まで送って必死に戦い避けてるし。
>>さらなる人質を出して秀吉の騎下に服しない場合は、討伐する
そんな事信雄の文書に書いてねーよクズ。
>>家康はビビッた
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
>>年が明けるとすぐ信雄にあって秀吉への取次ぎを頼んだ。
はあ?取り成し頼んだのは秀吉であって家康じゃねーよクズ。
なんで豊臣に従ってもいない家康が、豊臣の配下になってた信雄に取り次を頼める立場にあるんだよアホ。
信雄はその時期もう完全に秀吉の配下であって、秀吉の意で動いてたんだから、秀吉が必死に戦いを避けるために
家康への仲介を依頼しただけだろどうみても。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる >>秀吉に臣従する以外に生存する道が無くなった
家康は秀吉の威圧行動と対真田の敗戦や上杉景勝の川中島侵攻や天正13年夏の領内大地震や木曽小笠原石川水野真田の離反とそれに伴う領国機密露見
といった、種種の領国崩壊要素があり、秀吉からしてみれば半月で瞬殺できそうな状況で、天正13年秋から天正14年初頭まで上杉木曽真田など諸大名や家臣に当てて
天正14年初頭の三河出兵計画を散々書いて、重臣一柳にもその実行のための行動を命じておきながら
いざとなるとビビリまくって信雄に仲介を必死に頼んで、戦闘を回避した上に
母や妹を差し出して家康に土下座してるんだがw
家康は暢気に岡崎や浜松で北条との同盟強化や諸城普請や人質招集など
領内の防衛体制を構築してただけで、秀吉に従属する構えは全く見せてなかったなんだがw
>>家康が沼田問題で指導力発揮出来ない無能なことが露呈した会談
何それ指導力って(笑)北条が真田の領土問題で援軍をよこさなかったため
北条からの加勢を得る事や北条との結束を強化する意味で浜松会談や真田との戦いに挑んだだけじゃん
家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
天正13は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉 >>背後を気にする必要もなく、
>>安心して紀伊和泉の惣国一揆や四国や越中と言った親家康勢力を全て制圧
家康に土下座して和睦した隙をついて、孤立無援の、雑魚国力の勢力をこれ見よがしに棚ボタ的に火事場ドロしただけじゃん。
豊臣の国力からいえば各地に散在する勢力なんて蟻みたいな雑魚でしかないんだし家康に土下座して和議を結んで、孤立無援にさせた上で、その隙にドロボウしただけ。
>>征伐されたくない家康
どこにそんな事が書いてあるんだよアホ。
対真田の敗戦や、天正大地震や、天正初頭からの領内の天災の連続(家忠日記に毎年のように洪水や堤防の決壊などが起こってるのがわかり
家康の徳政免除の文書はこれに対応するためと久保田氏が書いてる)や木曽小笠原石川水野真田と立て続けに離反し続け
徳川領国は軍事機密も露見し丸はだかになった後ですら、種種の領国崩壊要素があり、秀吉からしてみれば半月で瞬殺できそうな状況で、
天正13年秋から天正14年初頭まで上杉木曽真田など諸大名や家臣に当てて
天正14年初頭の三河出兵計画を散々書いて、重臣一柳にもその実行のための行動を命じておきながら
いざとなるとビビリまくって信雄に仲介を必死に頼んで、戦闘を回避した上に
母や妹を差し出して家康に土下座してるんだがw
家康は暢気に岡崎や浜松で北条との同盟強化や諸城普請や人質招集など
領内の防衛体制を構築してただけで、秀吉に従属する構えは全く見せてなかったなんだがw
>>言い訳をして人質提出先送り曖昧うやむや化を狙う態度を表裏と捉えた。
言い訳ってなんだそれ(笑)いつものお前の妄想か?
最初から家康は人質なんて出してねーよクズ
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。 >>家康は家臣団とさらなる人質提出において家臣団の同意意見統一がまとまらず破談
ハイハイ、ソースなし。
石川なんて天正12年春時点で篭絡されつつあたのが三河物語でわかるし木曽も前年春にあっさり裏切ってる。
真田に関しては対北条の同盟要請の結果、天正壬午の際の空手形の恩賞が不履行に終わって徳川から上杉に離反しただけ。
小笠原は石川が小笠原が石川の人質連れて逃げたのと、徳川の対真田の連敗や、上杉景勝の川中島侵攻による圧力で北部への拡張が滞って
寝返っただけ。
>>秀吉による徳川家臣団離間への揺さぶり術
どこにそんな事書いてるんだよアホ
>>石川は意見統一出来ない家康を見限って逃げた
意見なら既に統一しているが石川がただ1人秀吉に篭絡されてて小笠原らの人質連れて逃げただけ。
>>2月までに秀吉の怒りを解かないと徳川は滅亡確定である。
会戦になったら100%徳川が勝つから、滅亡確定なのは秀吉の方だな。
何せ史実でさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。
結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
>>秀吉は家康取次の信雄を通して人質提出ではなく、家康本人の上洛の要求にハードルが上が
ハードルが上がるも糞も、人質を提出する=秀吉への臣従なので、全く要求は変わっていない。
>>意見統一が出来ない家康
ハイハイソースなし。
>>2月寸前ギリギリに至り信雄に秀吉への斡旋を懇願し
そんな事やってない。秀吉の方が信雄にたのんで仲介やってもらって、母や妹を差し出してまで戦いを避けてる。
>>岡崎で降伏条件の最終会談をして、
そんな事やってない。
>>秀吉との婚姻を条件
秀吉が「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに家康に必死に土下座して母や妹を差し出しただけ。
>>さらにはードルをあげられた自らの上洛するリスクを約束して秀吉政権への完全臣従を申し入れ征伐を免れた。
なんだそれ(笑)またいつものお前の妄想か?
>>上洛したら殺されると恐怖する日々が家康を襲うことになる。
恐怖する日々ってなんだそれ(笑)お前の妄想か?
>>秀吉は早く朝鮮出兵したくて仕方がなく、
この時点で秀吉が早く朝鮮出兵したかったというソースをくれ。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな >>1/24〜29 三河家康御成敗に付き家康が信雄に秀吉へ属する為の斡旋を懇願し岡崎で条件をつめる会談をする
そんな事家康はやってない。
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
>>家康は信雄に秀吉との和睦をすがった
全くすがっていない。家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな >>年が明けるとすぐ信雄にあって秀吉への取次ぎを頼んだ。
はあ?取り成し頼んだのは秀吉であって家康じゃねーよクズ。
なんで豊臣に従ってもいない家康が、豊臣の配下になってた信雄に取り次を頼める立場にあるんだよアホ。
信雄はその時期もう完全に秀吉の配下であって、秀吉の意で動いてたんだから、秀吉が必死に戦いを避けるために
家康への仲介を依頼しただけだろどうみても。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
>>もうビビッて有楽斎に、信雄との冷え切った関係の修復の斡旋
そんな事全くやってないし、全くビビってない。下記をよめばわかるが秀吉のが圧倒的にビビってる。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
>>正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく
だからなんで正親町親王の譲位問題に半分敵対勢力の徳川が絡むんだよアホ。
家康が朝廷に帰服しようがしまいが関係ねーよクズw
>>秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
そりゃ秀吉自身家康にビビリまくってるからな。だからこそ自国の15分の1程度の国力しかなく
しかも譜代の離反で軍事機密が露見し領国崩壊状態の徳川に対して顕如や信雄に土下座して必死に和睦仲介やってもらったり
侵攻計画を散々講じておきながら、直前になるとビビリまくって母や妹を人質に差し出して家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに土下座して
なんとか家康がこれに応じただけだし >>後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉
家康にビビリまくって土下座して臣従させたのを無理矢理正親町親王の譲位問題に摩り替えるアホ乙
>>秀吉への恩から織田秀信も織田信雄も関が原で西軍
はぁ?
秀吉に対して信雄や秀信が恩があるわけねーだろクズw
信雄→主家簒奪に一時的に当主に祀り上げられながら、その後たいした理由もなく攻め込まれるなど
散々利用され、結果的に屈服を余儀なくされ、その後も無理矢理いちゃもんつけて改易
秀信→当時幼少だったにもかかわらず、秀吉の簒奪のために名目上の織田家当主として祀り上げられ
その後は秀信はほとんど無視の傀儡と化すほど、秀吉の勝手きままな専横によって織田政権は事実上崩壊。
主家を簒奪し滅ぼした張本人の秀吉に対して利用されただけの信雄や秀信が恩があるわけねーだろw
>>彼らを関が原後に改易したのは家康
その後皆大名に復帰してるわアホ
織田長益、織田信包、織田信高、織田信貞を
取り立てた家康が織田に復讐www
信雄の息子に至っては徳川家の庇護をあてにして生活していたのに
流石武田正嫡の武田信道が日本本土から隔離されて
宇喜多秀家と同レベルの冷遇をされただけはあるなw
家康は羽柴も織田も後北条も再興や存続を許しているけど
唯一存続を許さなかったのが武田だもんな。
挙句の果てには自分の息子に武田氏始祖の武田信義の名前をもじって名付け
まるで己の息子が武田始祖であるかのような振る舞いをしている有様
しまいには信玄直系を大久保事件にかこつけて無一文で伊豆大島に配流し
結局武田信道は伊豆大島で生涯を終えてしまうんだよね。
後北条や織田、羽柴ですら石高を貰って徳川幕府の体制下にいたことを考えると
家康の武田に対する扱いは極めて冷酷と言わざるを得ない >>石川数正や小笠原らが家康を見限り、秀吉陣営に鞍替え
石川は天正12年春の時点ですでに秀吉に篭絡されつつあったのが三河物語や松平記などでわかるし
小笠原は石川が小笠原の人質を連れて秀吉の元に逃げ込んだから鞍替えしただけ(織豊政権と東国、小笠原貞慶考)
木曽なんか天正12年時点で離反してるし真田も小笠原も天正壬午の時の空手形や北条との領土交渉
など信濃内での領土問題で家康に不満もって離反しただけなのに無理矢理家康の天正13年の行動と結びつけるとか相当馬鹿だな
ウザイからさっさと出てけよクズ野郎
>>和睦を成したあと、秀吉に上洛して来いと言われた
そんな事秀吉は言ってない。秀吉は直前まで出兵計画立ててたが
いざとなるとビビリまくって、信雄送って仲介やってもらった上に母や妹まで差し出して必死に土下座して戦いを避けただけ。
>>殺される恐怖から上洛だけは嫌がるヘタレ家康。
殺される恐怖ではなく、秀吉をナメくさって暢気に過ごしてただけだろ。前年には北条との同盟強化や浜松会談など、
秀吉の三河出兵計画や、木曽小笠原石川水野真田の離反や逸れに伴う軍事機密露見や天正13年夏の大地震、対真田の敗戦など
種種の領国崩壊要素があったにもかかわらず、秀吉の討伐計画に対して、全く危機感0で暢気に無視していただけなのが家康。
>>天皇の譲位と新帝即位の晴れの舞台を演出したい秀吉は自分の母を三河に遣わし
妄想乙。家康が怖くて母や妹を差し出したのを、晴れの舞台を演出するためとか曲解乙。
家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
>>秀吉の妹が徳川家の正室になることを命欲しさの家康が懇望
ハイハイ、根拠なし。妄想乙。
>>賛成している者は徳川家臣団には
ソースは?
>>明らかに秀吉に強制的に押し付けられて拒めないようにされ
ソースなし。
しかも>>そもそも秀吉の妹が徳川家の正室になることを命欲しさの家康が懇望
これと見事なまでに矛盾したアホ乙
>>天正14年5/25の秀吉書状には家康事種々縁辺等之儀迄令懇望候条、誓紙・人質以下堅相ト令赦免候
秀吉は天正12年の時の和睦停戦の時にも信雄が人質を差し出して種種懇望して来たが許さなかったとか
信雄が人質を差し出して種種懇望してきたから許してやったとか
嘘ばかりデッチあげてるし(9月時点で許さなかった和睦条件を、11月に許してやる理由が全くない。)
>>戦を回避する為に家康が懇望
ソースなし。妄想乙。秀吉が直前まで出兵計画を立ててたがいざ其の時期になると
信雄に土下座して和睦の仲介やってもらった上に母や妹を差し出して土下座してきたから
家康がしょうがねぇなやれやれと思って仕方なく応じてやっただけ。
家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。 自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな
ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
>>秀吉が好意で家康からの人質を養子とした
いやそもそも家康は人質として息子を秀吉に指し出していない。人質として出してたというなら
翌年の両軍の冷戦状態なんてありえないし両陣営とも戦争の準備進めまくってたが秀康は切られず
佐々攻めの際の織田信雄の書状でも秀吉は秀康を人質としては扱ってないと書いてる。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。 家康は信長や秀吉に比べると明らかに寛容だからな
前田や浅野は家康の温情で領土減らされなかっただけ(無論家康の地盤がその時点で全く固まっていなかったのも大きいが)
島津に関しては黒田や加藤らが関ヶ原合戦で大敗後領国がからっぽの島津領に向けて突進していくのを止めて
島津を助けてやったし
上杉も毛利も佐竹も減封はしたものの改易されてないし
殺されてるのはほんの一部にすぎないしね
看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。 当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。
看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別
主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww
つか同じ宣教師の日本史だと秀吉は自分の親族だと名乗りでた人間(偽者ではなく本物)を問答無用に殺してるわけだがw
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス
佐々・信孝・秀次etc...
関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。
その後妹も同じように殺されてる。
秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね 家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
石川は小牧長久手の頃から秀吉に半分篭絡されつつあったし、小笠原が石川の人質連れて秀吉の元に逃げたから
離反しただけ。翌年も家康は秀吉に従うどころか、諸城普請とか浜松会議とか北条との同盟強化とか対秀吉に備えて動きまくってたし
秀吉も天正13年中頃から天正14年初等まで上杉や真田などに天正14年春の家康討伐計画細かく書いてるが、いざその頃になるとビビリまくって信雄を家康の元に送って仲介させたり、
母と妹人質に出して「ワシに従ってくれ〜」とばかりに土下座してきたから、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条) >>天正12年戦役の結果、圧倒的な秀吉からの征伐から逃れる為家康や家臣らは秀吉に人質を出して属した。
家康は人質なんて出してない。下記が正しい年表ね。
秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉 >>人質を得て家康の服属を以って東国平定がなった秀吉
家康は人質なんて出してないし、全く服属してねーよカス
家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
天正13は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
>>背後を気にする必要もなく、
>>安心して紀伊和泉の惣国一揆や四国や越中と言った親家康勢力を全て制圧
家康に土下座して和睦した隙をついて、孤立無援の、雑魚国力の勢力をこれ見よがしに棚ボタ的に火事場ドロしただけじゃん。
豊臣の国力からいえば各地に散在する勢力なんて蟻みたいな雑魚でしかないんだし家康に土下座して和議を結んで、孤立無援にさせた上で、その隙にドロボウしただけ。
>>征伐されたくない家康
どこにそんな事が書いてあるんだよアホ。
対真田の敗戦や、天正大地震や、天正初頭からの領内の天災の連続(家忠日記に毎年のように洪水や堤防の決壊などが起こってるのがわかり
家康の徳政免除の文書はこれに対応するためと久保田氏が書いてる)や木曽小笠原石川水野真田と立て続けに離反し続け
徳川領国は軍事機密も露見し丸はだかになった後ですら、種種の領国崩壊要素があり、秀吉からしてみれば半月で瞬殺できそうな状況で、
天正13年秋から天正14年初頭まで上杉木曽真田など諸大名や家臣に当てて
天正14年初頭の三河出兵計画を散々書いて、重臣一柳にもその実行のための行動を命じておきながら
いざとなるとビビリまくって信雄に仲介を必死に頼んで、戦闘を回避した上に
母や妹を差し出して家康に土下座してるんだがw
家康は暢気に岡崎や浜松で北条との同盟強化や諸城普請や人質招集など
領内の防衛体制を構築してただけで、秀吉に従属する構えは全く見せてなかったなんだがw >>言い訳をして人質提出先送り曖昧うやむや化を狙う態度を表裏と捉えた。
言い訳ってなんだそれ(笑)いつものお前の妄想か?
最初から家康は人質なんて出してねーよクズ
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
>>家康は家臣団とさらなる人質提出において家臣団の同意意見統一がまとまらず破談
ハイハイ、ソースなし。
石川なんて天正12年春時点で篭絡されつつあたのが三河物語でわかるし木曽も前年春にあっさり裏切ってる。
真田に関しては対北条の同盟要請の結果、天正壬午の際の空手形の恩賞が不履行に終わって徳川から上杉に離反しただけ。
小笠原は石川が小笠原が石川の人質連れて逃げたのと、徳川の対真田の連敗や、上杉景勝の川中島侵攻による圧力で北部への拡張が滞って
寝返っただけ。
>>秀吉による徳川家臣団離間への揺さぶり術
どこにそんな事書いてるんだよアホ
>>石川は意見統一出来ない家康を見限って逃げた
意見なら既に統一しているが石川がただ1人秀吉に篭絡されてて小笠原らの人質連れて逃げただけ。
>>2月までに秀吉の怒りを解かないと徳川は滅亡確定である。
会戦になったら100%徳川が勝つから、滅亡確定なのは秀吉の方だな。
何せ史実でさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。
246 :人間七七四年:2014/02/20(木) 22:48:47.73 ID:C3V2yBer >>信雄と家康が土下座した
信雄や家康は土下座なんてしてねーよボケhttp://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1299835153/717
>>22日は東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任
はぁ?なんで東国なんてノータッチの場所が平定されてる事になるんだよ。
ひょっとして秀吉の「東国は氏政、北国は景勝まで秀吉の存分に候」とかデタラメをデッチあげている誇大喧伝を真に受けてるのか?。
>>12/12には家康が早速、義伊(秀康)を秀吉への人質
アホかお前。天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
>>正親町天皇が譲位の思召を伝えるとすぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してる
そりゃ秀吉は短期決戦で135000の規格外の大軍持ちながらわずか16000程度の雑魚信雄相手に1万人ぶち殺され、しかもその後の攻防でも
蟹江・前田・下市場・二重掘・浜田・長久保・東駒野・松ノ木・戸木と負け続けて会戦早々から寝返りが連発してて崩壊状態だった信雄領国を1年一杯かけても
尾張半国すら切り取れない程アホみたいに蹴散らされてたからな。
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい 豊臣家が滅ぼされたのは単に秀吉が馬鹿だったからというだけ。
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻
秀次とその縁者殺し、キリシタン迫害、朝鮮出兵、家康への母妹献上、徳川の焼け太り版図&官位&五大老筆頭の地位
あっさり崩壊させられる外様優遇の雑魚政権体制、三成ら信用に足る奉行衆の石高と実威力の軽視、
家康に篭絡されるアホ武功派の優遇政策。
こんな体制じゃあっさり崩壊して当然
なんで負けたかって言えば、そもそも秀吉から政務を委託された正当な大老であり、豊臣家を蔑ろにしていたわけでもない
家康を討つことには大義名分が少なく、家康が会津討伐に向かうため畿内を離れたというチャンスに機械的に
反応してしまい、自陣営の体制を構築する前に挙兵してしまったこと。
実態としては、明智光秀の本能寺の挙兵に近いものがあった。
会津征伐に飛びつかず、もっとじっくりと待つ必要があったと思うよ。勿論その場合は家康も着々と体制がためをしてくるが、
そこは政治力の勝負だ。 むしろ政治力の勝負を諦めたために関ヶ原がおこったとも言える。
そもそも合議の結果何かを決定するのは家康の役割だし、前田は豊臣家にすら無断帰国したのだから謀反を疑われて当然だし
上杉も穏便に処理しようとした家康の提案を蹴って、武装して割拠状態になったのでこれも謀反とされて当然
島津や毛利や宇喜多の家中の争いを喜んだ?そんな証拠は一切ない。というか介入すら最低限だ。
北政所にいたっては自分から西の丸を家康に譲ってるし大名への加増は三成ら奉行衆もそれこそ「合意」してる
ついさっきまで秀吉という専制独裁者が君臨していた政権において合議を破った専制独裁者という非難そのものが馴染まないんだよ
秀吉自身は一度も合議による政権運営なんてしたことがないから
普通の大名からすれば誰も見たことがない体験したことがないものを破ったと言われてもピンとこない
それに三成の家康批判は一歩間違えれば秀吉批判にも取られかねない危険な主張だ
三成が家康に名前を変えて秀吉の専制独裁を批判していると受け取れば豊臣のため三成を討伐することに何も問題はない
そもそも徳川が体制ぶち壊したとかいうけどぶち壊されるような体制とか諸将の配置にしなきゃよかっただけじゃん
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり自分から家康が天下取りやすい状態作っといて
ぶち壊したも糞もねーじゃん
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻を進めている。自分の死後を見据え、最有力大名徳川家との融合を企図したものだ。
秀頼・千姫の間に出来た世継ぎが、徳川家の傀儡になる事は、秀吉が認識していて当然。
実は反徳川的な行動を起こし、豊臣家を滅亡に導いた輩こそ、秀吉の意思に背いた不忠といえる。秀頼・千姫の間の子は世継ぎになるわけで。
徳川の血が、豊臣宗家に組み込まれるわけだけど。実際融合されなかったのは、邪魔をした者がいたから。そしてそのせいで、豊臣滅亡。不忠でしょ。
千姫は正室なので、当然千姫との間の子が世継ぎでしょ。そうなれば、政権における徳川家の影響力が増す 自分しかいないスレにするのが目的なんかな
それで何が楽しいんだろう スレを征服してやったぜ!とか自己満足にふけってるんじゃない?
ただ嫌われて誰も相手にしなくなっただけなのにw 24時間監視していて不都合なテンプレが貼られると
皆の目に触れられないうちに素早く
大量無差別爆撃コピペを貼りまくる
アンチ秀吉の織田在日。 フロイス日本史
羽柴が参加したかの(小牧の)戦における敵軍(家康・信雄の軍勢の一部)は、
ほとんど難攻不落と思われた一城(竹ケ鼻城)に籠もったが、
秀吉は敵軍を水攻めにして溺死させることを決意した。
そのために土塀に似た方法で、きわめて深く広く、
周囲が二里近くもあると言われる鞏固な堤をもって
彼らを包囲し、さらに堤の中に水量の多い大河の水を引き込んだ。
この川は、その自然の流れから人工的に取り入れたものであった。
河水は周囲の地をことごとく水浸しにして行き、
もはや城内も浸水し始めたと言われた。
こうした恐怖を前にして、包囲された人たちは、
相手に多くの有利な条件を示して助命を乞うたが、
羽柴はそれに耳を傾けようとはしなかった。
だが結局、羽柴は有利な条件で和を講じ、
信長の息子なる御本所(信雄)が有していた三カ国のうち
一国半を召し上げ、人質としては御本所の一人の娘、
および三河国主(家康)の息子を手に入れた。
(略)
羽柴筑前殿は、戦争においても平和の際にも、その為すことはことごとく成就し、
日本人の談によれば、その偉大さ、ならびに領土の広大さは、前任者(信長)を凌駕した。
(略)
羽柴(秀吉)が尾張での戦争から戻ると、
坂東地方の幾人かの武将は、彼の成功を見、
友好関係を結ぶを得策と考えて投降した。
そこで秀吉は1584年(天正12年)12月の末に都に行き、
そこで人々から絶大な喝采ならびに歓喜に接した。 >>93
フロイスの小牧長久手の記事のデタラメ&捏造っぷり。
フロイスの捏造
>> 根来衆は秀吉に対して幾つか無礼を働き、ある陰謀をたくらんでいた
明らかに秀吉サイドの目線で、根来衆からいえば明らかに秀吉が自分らを迫害
>>秀吉は伊勢に入ると敵の諸城を包囲し始め、幾ばくかの苦労をしたが、武力をもってそれらを次々と陥落せしめ
実際は秀吉与党の津川氏の松ヶ島城を3月初旬に信雄方に奪回され関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・
八重羽・小島など地元諸侯がなだれをうって秀吉方に付いた上に池田・森の北尾張急襲を受けた徳川軍の尾張転進の
隙をついて居留守泥棒的に奪っただけ。
>>敵方は長島と称する一城を残し国を挙げて彼に引き渡してしまった
松ヶ島も3月時点では落ちてないし戸木城浜田城桑名城としっかり残っており、秀吉方は地元諸侯がこぞって
味方についた南伊勢を火事場ドロしただけ
>>秀吉の軍勢は同所(伊賀)から異常な迅速さをもって尾張に進撃し、犬山城はたちまち降伏
秀吉は3月に伊賀にいたなんて史料はないし3/11秀吉→黒田・蜂須賀で本日坂本に到着したのがわかる他、その後3/21に
美濃の池尻に到着(3/20秀吉→池田書状)その後24日に岐阜到着(3/24秀吉→生駒)27日に鵜沼(3/26秀吉→黒田長政)29日に
木曽川を超え尾張国楽田に着陣(3/29秀吉→木曽) と非常に遅い速度で進軍。ちなみに犬山城を落したのは池田・森(3/26秀吉→佐竹)
しかも城主の中川が伊勢方面に出兵してた留守を狙って泥棒しただけ(3/26秀吉→佐竹)
>>全軍はそこ(犬山城)を占拠すると、美濃尾張両国を分つある非常に流れの早い大河(木曽川)を渡った。
犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w
>>御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。
信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも
尾張の国境地帯の陣地ではない。
>>羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、
佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想
>>そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると
そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡も全くない
>>(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、
>>その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。
そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない
>>そして事態はそのように展開した。
全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない
>>すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。
そんなこと全くやってない
>> 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。
秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う
>>これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。
縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる >>全軍はそこ(犬山城)を占拠すると、美濃尾張両国を分つある非常に流れの早い大河(木曽川)を渡った。
犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w
>>御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。
信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも
尾張の国境地帯の陣地ではない。
>>羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、
佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想
>>そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると
そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡も全くない
>>(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、
>>その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。
そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない
>>そして事態はそのように展開した。
全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない
>>すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。
そんなこと全くやってない
>> 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。
秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う
>>これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。
縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる
>>三河の国主は夜に入ってからその新しい小牧城を出、天明を待って羽柴の甥の陣地を襲撃した。
明け方に行われたのは秀吉方先遣隊と池田勢との間で行われた岩崎城の戦いであって、家康が秀次の陣地を襲撃し合戦になったのはそれより大分後の
巳〜午の刻。
>> 三河の国主はこの勝利を博すると小牧城に戻った。すると羽柴(秀吉)はただちに2万の兵をもって同城を包囲するように命じた
そんな事全くやっておらず、小牧方面から目をそらして、大河に挟まれた進退の自由の利かない木曽川筋のデルタ地帯に家康・信雄を誘いだして
殲滅しようと岐阜城の秀勝につけた田中・伊藤・谷・石川・藤県に対し、岐阜から木曽川筋を長島に向かい12キロほど南下した所にある大浦城
への加勢を命じている(4/11秀吉→伊藤・田中・谷・石川)また、木造攻撃中の小島・榊原・田丸らに加勢する目的で津田・富田・八重羽らを派遣して
(4/12秀吉→津田・富田・八重羽)明らかに小牧方面への進出を諦め、伊勢や尾張北西部に戦局を転換しようとしている
>>こうした戦闘がすでに終わった頃になって、越前加賀能登から三万近い軍勢が羽柴を助けるために到着したが、秀吉はもはやそれだけの
>>大援軍は必要なしと認め、ただちに引き返させた。
>>羽柴がこのたびの戦いのために大阪を出発した後、根来及び雑賀と称する仏僧らは、彼の不在に乗じ、約1万五千名が一団となって出撃し羽柴が大阪に築いた新しい都市を
>>すべて焼き滅ぼしてしまおうと決意した。大阪を占拠した上はかつて信長が五年も六年も攻囲したかの石山本願寺の僧(顕如)を再びそこに
>>おらしめる事にした。敵(僧兵)は徐徐に前進し途中幾つかの場所を破壊したり焼いて行ったので、四日ないし五日かかった。 小牧長久手の戦いで徳川方に情報流してた農民は
執拗な詮索を受け殺されたらしいね 絶望的な家康らは宣伝戦略を行って、秀吉に敵対する勢力を増やそうと苦心していた。
そのため甲斐にいる平岩らにさえ、池田、森、堀、長谷川、その他に大将分(秀次)
ことごとく一万討ち捕らえたと、 戦果を過大に言い触らし回っている。
無論、1万討ち捕らえた根拠として挙げられた秀次、堀、長谷川ら秀吉直轄人員は無事に生還しており、
自立勢力であった池田と娘婿森らだけが討ち死にしただけである。
5/2に秀吉は犬山を加藤光泰、羽黒を山内一豊、楽田から春日井郡の戦線を掘秀政に、尾口西南を稲葉に委任して
2万を置いて納馬し帰っていったのに、それでも手が出せないほど劣勢なのが家康・信雄。
秀吉が帰る理由も5/2の隆景書状には小牧山要害に家康らが籠もって出てこないから無為に過ごすのも無駄なので
2万置いて帰り、秋に再度手立てに及ぶと書いてあり、秀吉が秋からの軍事行動で決着をつけるスケジュールなのがわかる。
しかも信雄・家康軍は香曽我部に15000討ち取ったと捏造戦果を書いて長宗我部の畿内出陣を願ってるほど追い詰められてる。
酒井忠次に至っては2万討ち取りなどと吹聴している始末で、超誇張戦果吹聴で騙して味方を増やそうと必死な情報操作w
5/5には加賀野井城が攻められ、松ノ木城では外構えを放棄して本城籠城するように命じるなど
信雄・家康勢は圧されっぱなしで、5/6に加賀野井城を落とされ(池田の弔い合戦と秀吉は言ってる)
続いて竹鼻城が包囲されてるが信雄・家康は援軍の口だけ約束でヘタレぶりを晒してるだけ。
隆景は自称尾張犬山から来たという高尾又兵衛尉という者からの伝聞として
「世情の風聞だと一万討たれた」と言う噂を書いているだけ。
顕如は1万余り討死の報は間違いで、のちに3000討死とわかったと訂正を入れてる。
(兼見卿日記4/13に尾州表から注進があり9日に秀吉敗戦したとのこと。
しかし追って注進があり秀吉在所も問題ないとのことで京都での騒動も終わったと書いてある)
(つか関が原の戦いで両軍併せて17万〜20万が投入された際の戦死者ですら6000〜8000なのに非現実的すぎるわwww)
4/13付けでも細川配下の松井も池田らの戦死ごときでは「此表御よわみにもならない」と書いてるし、
稲葉も「討たれたものの、はたもとのささわりには少しもならない」と楽観してる。
それどころか同時期には秀長や筒井勢によって伊勢の松か島城が降伏して伊勢でさらに劣勢になってるのが家康と信雄。
秀次敗戦でもまったく秀吉陣営の圧倒的優勢ぶりに変化はない。
このキチガイ在日織田チョンのコピペ爆撃まじうぜぇ。
他人のレスを盗用改竄の上で武田厨のフリをして自演して気持ち悪いし。
鴨川達夫先生も小牧長久手での秀吉軍の被害は3000であり、
1万というのは家康側の誇張吹聴だと断じてますね。
これ2011年5月に鴨川氏が発表したあと、
誰も反論する人がいないよね。なんで、ほぼ決着したね。
そうだね。鴨川の発表に反論した学者は誰もいないよね。
そりゃ今までのは徳川幕府史観のただの家康贔屓だから反論できるわけがない。
キチガイ在日コピペ爆撃アンチ秀吉の織田チョンは
藤田達生編纂「小牧・長久手の戦いの構造 上下巻)
っていう最初から家康勝利ありきを大前提にして我田引水してる
2006年の大昔の糞本を持ち出して必死なだけのアホだから
相手すんな。白峰旬や谷口などと、さも分けて書いているが
すべてこの本に書いている古いもんばっかで 誰もいまさら見向きもしない。
鴨川氏は秀次の迅速な侵攻は見事で、まんまと家康を出し抜いて
岩崎城を落してしまってそれを知って焦った家康がなんとか巻き返しただけと書いていますね。
鴨川氏が指摘するように長久手は主戦場ではなく、一次史料などを見ても岩崎の戦いと書いていて
後世に4/9に勃発した戦を長久手の戦いと呼んでいるのも徳川史観による捏造歪曲なのでしょうね。
一年に渡る小牧対陣をあたかも長久手での家康の勝ち戦だけをクローズアップさせて
天正12年戦役全体を家康の勝利にミスジャッジさせてきた徳川史観が鴨川によって論破された。 またアンチ秀吉のキチガイ織田チョンが暴れているのかよ。
ガチうぜぇ。だいたい秀吉は天正12年戦役の結果、
家康から秀康を始め、
石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、
これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww
しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww
在日朝鮮織田チョンくんさー、
三河一向一揆との戦い以来の超古参の
石川数正や酒井忠次や本多重次らから、
強制的に人質を徴集した秀吉が家康に屈したとかキチガイ主張してる気分はどう?
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
秀吉に嫡男を人質に出した酒井は徳川四天王筆頭じゃん。
最古参筆頭として石川数正と同格。
他の四天王って言っても本多忠勝と榊原康政は21歳も差があって親子並に離れていたし、
井伊直政に至ってはさらに13歳下。
本多重次も譜代最古参で三河三奉行の1人で民衆に慕われた行政のスペシャリスト。
つか出世より家康へのイラつく直言で有名で、
その命を惜しまぬ直言ぶりで三河武士の見本と呼ばれ鬼作左と言う名前の方が有名。
おかげで北条征伐後間もなく蟄居になってるからあまり有名になってないだけで、
一筆啓上、火の用心〜の日本一短い手紙でも有名で、
現存天守が残る福井県の作左の嫡男が封じらた丸岡城の宣伝文句にも採用されてる。
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
アンチ秀吉の織田チョンは相変わらずバカだねw
天正15年正月時点で、
本多重次は岡崎城代で、
酒井忠次が吉田城代なんだけどwww
天正17年6/22時点ではまだ重次は岡崎城代を続けているのがわかる。 小牧長久手の戦いで戦った徳川織田主力が篭った加賀野井城を
秀吉は池田の弔合戦と称して攻め落とす。
加賀野井から必死に逃げて竹ヶ鼻城に籠った為、
逃げてばかりでキリがないことを悟った秀吉は水攻めで皆殺しにすることを決意。
家康引きこもって彼らを援軍出す出す詐欺を繰り返し見殺しにする。
しまいには北条軍や長曾我部軍がやってると白昼夢を語りだして離反を防ごうとする白痴となる。 >>絶望的な家康らは宣伝戦略を行って、秀吉に敵対する勢力を増やそうと苦心していた。
>>そのため甲斐にいる平岩らにさえ、池田、森、堀、長谷川、その他に大将分(秀次)
>>ことごとく一万討ち捕らえたと、 戦果を過大に言い触らし回っている。
家康の書状の内容は明らかに喧伝じゃなくて事実
根拠は下記
4/23熊谷信直書状でも羽築方衆合戦候て数多落度の由としっかり書かれてる。
4/12松井康之書状でも池田森堀木下助左、同勘解由、此衆手をわけて一戦にでて
池田森木下兄弟此の衆討死候、堀と秀次が異議なく撤退し、其の他諸卒大方うたれ申し候と書いてる。
別働隊の兵数は4/8丹羽宛書状で24000〜5000で其の中の諸卒が大方打たれたんだから、戦死者は2万人くらいいないとおかしい
長久手合戦後に京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる 。
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね。
松井康之書状
家康こまき山を夜籠二出、右の衆へ切懸、一戦に而池紀父子・森小蔵・木下助左・木下勘解由、此衆打死候、其他諸卒大方うたれ申候
大方=大部分という意味だから
諸卒は大部分が家康と信雄に殺された事がわかる。
別働隊の隊長は池田親子森木下兄弟堀長谷川でそのうち半分が戦死してる。
また別働隊の兵力は24000。つまり戦死率から考えても普通に別働隊の半数は戦死してないとおかしい。
つか顕如日記は明らかに秀吉の捏造歪曲フィルターによって捻じ曲げられた事実ばかり書かれてるし、その顕如日記でも
その後の沙汰(噂)にてと真横に加筆されて書かれてる。明らかにこれは敗戦の事実を隠蔽したい秀吉の工作であって、
家康の誇大喧伝なんて存在しない。つか、秀吉によって捻じ曲げられた捏造情報ばかり書かれてるイエズス会年報やフロイスの日本史ですら
一万人戦死と書かれてるし看羊録でも秀吉は家康に大敗して和議を結んだと書かれてる
一万人打ち捕らえた根拠が堀秀次長谷川というのが意味不明。
敵の首が一万以上あっただけ。それで家康が、堀や長谷川や秀次の影武者の首を本人の物と錯誤して彼らが戦死したと報告しただけ。
敗戦直後の4/9には堀長谷川秀次が戦死したと家康が錯誤してたため、誤った戦果が平岩らに伝わってるが
その後には4/21家康→皆川や5/3信雄→香宗我部5/7織田信純→香芸でも堀長谷川秀次らが戦死したというのは書かれておらず
4/9や4/10時点での堀長谷川秀次戦死というのは、誇大喧伝目的ではなく、戦闘直後で首実験が十分にされていない事による
家康や信雄の錯誤による物とわかるし、それが修正された後でも壱万人とか壱万五千人という数字はちゃんと変わらず書かれており
(むしろ信雄書状などでは8000→15000などと首実験の結果数がちゃんと正確に把握され、戦闘直後には計上されていなかった首まで計上されてより正確な数になってる)
1万人戦死の根拠は秀次堀長谷川の戦死ではなく、むしろ壱万人討ち取ったからこそ、秀次堀長谷川も死んだと推測して書状に書いていたから、1万人かそれ以上戦死というのは
正確な数字か実際より少ない数なのがわかる。
吉川元春の書状でも秀吉軍はみな討ち取られたとしっかりかいてるし
4/23熊谷信直書状でも羽築方衆合戦候て数多落度の由としっかり書かれてる。
4/12松井康之書状でも池田森堀木下助左、同勘解由、此衆手をわけて一戦にでて
池田森木下兄弟此の衆討死候、堀と秀次が異議なく撤退し、其の他諸卒大方うたれ申し候と書いてる。
別働隊の兵数は4/8丹羽宛書状で24000〜5000で其の中の諸卒が大方打たれたんだから、戦死者は2万人くらいいないとおかしい。
其の証拠に秀吉は規格外の兵力差と、会戦当初から寝返り続出で崩壊状態の雑魚信雄相手に手も足もでなくなって
ビビリまくって楽田からヘタレ敗走して家康らが絶対でてこれない木曽川を超えた先にあるデルタ地帯の小城数城をマンマと火事場泥棒するのがやっとだった >>5/2に秀吉は犬山を加藤光泰、羽黒を山内一豊、楽田から春日井郡の戦線を掘秀政に、尾口西南を稲葉に委任して
>>2万を置いて納馬し帰っていったのに、それでも手が出せないほど劣勢なのが家康・信雄。
は?楽田から敗走して加賀野井・竹鼻攻撃に移ってるのに何が納馬なんだ?馬鹿か?
>>秀吉が帰る理由も5/2の隆景書状には小牧山要害に家康らが籠もって出てこないから無為に過ごすのも無駄なので
>>2万置いて帰り、秋に再度手立てに及ぶと書いてあり、秀吉が秋からの軍事行動で決着をつけるスケジュールなのがわかる。
例のごとく信雄に大敗した話はひた隠しで都合いい情報しか書かれてないのが秀吉書状
正確には家康を攻めたら1万も損害だして圧倒的大軍があるけど自分じゃ戦闘がゴミカスレベルに弱すぎて攻められませんってのが正解。
家康は城から出てこないどころか蟹江合戦でも長久手合戦でもちゃんと動いている
>>しかも信雄・家康軍は香曽我部に15000討ち取ったと捏造戦果を書いて長宗我部の畿内出陣を願ってるほど追い詰められてる。
捏造戦果を書くことが追い込まれてる証拠なら秀吉は家康の百倍追い込まれてる証拠なのが佐竹その他宛書状でわかる
>>4/13付けでも細川配下の松井も池田らの戦死ごときでは「此表御よわみにもならない」と書いてるし、
そんなもん弱気な言葉書く馬鹿がいるかアホw士気にかかわるだろうが
>>稲葉も「討たれたものの、はたもとのささわりには少しもならない」と楽観してる。
そら13万もいればそのうち1万死んでもまだ圧倒的優勢な兵力に変わりないってだけだろ
秀吉は9/23羽柴秀吉訓戒書で木下兄弟戦死残りの連中の討ち死にが大変迷惑だと書いている
外聞迷惑、於秀吉非可失面目儀候間、手討に可致候と秀次に怒りをぶつけており
自分の失態を秀次になすりつけているが(滝川の蟹江合戦も同じ)それだけ敗戦の精神的実質的損害は大きかったという事 >>秋に再度手立てに及ぶと書いてあり、秀吉が秋からの軍事行動で決着をつけるスケジュールなのがわかる。
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である
9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
と書いていて秀吉の家康への敵意と討伐意思と行動がよみとれる >>2万置いて帰り、秋に再度手立てに及ぶと書いてあり、秀吉が秋からの軍事行動で決着をつけるスケジュールなのがわかる。
はい大嘘
3/13秀吉の丹羽長秀宛書状
此表十四五日之内ニハ、世上之物狂も酒酔の醒たることく二、筑前以覚悟しつめ可申候間、
4/8秀吉→丹羽書状
去6日に池勝入・森武・孫七郎・左衛門督人数二万四五千にて至小幡表差遣、小幡城二ノ丸迄攻入首百余討取、則龍泉寺山を根城二拵、柏井・大草
何も取積丈夫之普請申付候、今名中に首尾候間、然者小幡・森山其他不残令放火、至参州表令手遣可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼国へ差遣候事
家康さへ討果候へは彼等儀者不入儀候間、助首城を可請取由申遣候間、彼表人数二万余も五三日中に可令着陣候、併泉州表為番勢備前衆一万計相越候条、
岸和田・大阪に達、最前遣申候人数五六千候間、至当地令着陣候事
家康を取巻、即時可討果候間、少しも御気遣有間敷候事
5/9秀吉→毛利輝元書状
必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす
長岡越中宛5月11日書状
小牧表人数討入刻、家康於相慕者、遂一戦可討果処
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)
3月22日渡辺清忠書状
家康尾州境陣取候之条、可被討果之由候て、筑州御人数十万余にて至濃州御陣替候、一両日中二家康城清0州申へ
被成御取寄候、天下之御弓御一大事之儀候間
3/23桂広繁→棚守書状
徳川事三介殿後見被仕候付而、可被討果之由候て尾州表へ陣替候
佐竹義重宛書状
清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから 一戦におよび討ち果たす
29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
4/10 秀吉→亀井書状
家康小牧山二居陣候間、拾四五町二押詰陣取候、急度可討果候間可心易候
3/24秀吉→生駒書状
此表儀越川清州可押詰ため今日岐阜へ相移候
3/29秀吉→木曽書状
家康小牧山上居陣、其節為先手森武岩渓山・窪、稲葉伊予青塚、其外諸勢十町・十五町に陣持せ申候、我等儀ハ
楽田城着申事候、大略今明内に可為敗軍候哉、於相踏者悉可討果事案内候
4/1 秀吉→羽柴秀勝書状
敵小牧山取上候条、十五町計に責詰、荒手を上堀構を申付候間、急度可討果候、可御心安候
4/8秀吉→毛利輝元
我等者楽田と申所に致居陣候、小牧山十四五町におし寄、
不罷退様に陣取候条、急度可討果事案之内候事
5/9秀吉→毛利輝元
加賀野井城二屈強之者相籠候間、彼等を於取巻者、
必家康後巻可仕儀にて候間、此口へ引出及一戦可討果と存 >>信雄・家康勢は圧されっぱなしで、5/6に加賀野井城を落とされ(池田の弔い合戦と秀吉は言ってる)
>>続いて竹鼻城が包囲されてるが信雄・家康は援軍の口だけ約束でヘタレぶりを晒してるだけ。
加賀野井城には城兵300人しかいなかったらしい。
根拠は秀吉→おおちさま(養徳院)宛5月7日書状
おほせのごとくかかのいのしろ、れきれき十人はかり、その他300はうちはたし申し候
勝入の御とふらいかつせんをいたしお候
ちなみに秀吉は佐竹宛書状でも大将分10人討取ったなどと出鱈目をデッチあげてるがそのうち小坂雄吉はしっかり加賀野井城攻め後の書状に登場し
峰与八郎と楠十郎も織田信雄分限帳でしっかり登場するんだよなw
それどころか家忠日記 5月6日条にも加賀野井城攻防戦で戦死したのは2人だけだと書いてる始末
尾張の端っこの城を一つ攻め取っただけでなんでこんなに自慢してるんだよwww
これこそハッタリ誇大喧伝だろw
それどころか浜田城・蟹江城・前田城・長久保城・下市場城と次々に城を奪回されて
東駒野城や戸木城など他の諸城も攻略失敗してるのにwww 秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして
圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ
加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々
これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが
>>いかに家康らが不利な状況だったか必死な政略的宣伝工作かがわかる。
なら佐竹その他書状でデタラメハッタリ誇大喧伝まで書き入れまくってる秀吉はめちゃめちゃ不利な状況だったってことだな
顕如日記の数はただ秀吉が敗北をひたかくしにしたから
異常に少なく見積もられてるだけだろ
実際諸大名あてに大した事はないだのなんだのいいつくろってたしな
長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ
織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた
だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした
つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから 家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと
顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし
つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから
徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと 顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし
他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる
>>実際、一万討死なんて非現実的過ぎるアホな数字いかに家康らが不利な状況だったかがわかる必死な政略的宣伝工作かがわかる。
>>同盟諸将に繰り返し書き送って決起を呼びかけ秀吉の背後を襲うように言ってるからな。
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと >>絶望的な家康らは宣伝戦略を行って、秀吉に敵対する勢力を増やそうと苦心していた。
お前は本当に頭が悪いな。家康は10000人戦死の報を書いた相手って部下以外だと長宗我部と皆川あたりだけど、
秀吉に敵対するも糞も元々秀吉の敵じゃねぇかw
秀吉の敵対者にそんな事書いても敵対する勢力が増える事にならねーよ馬鹿。
書くなら毛利・宇喜多・上杉に書いとるわバーカ。
>>そのため甲斐にいる平岩らにさえ、池田、森、堀、長谷川、その他に大将分(秀次) ことごとく一万討ち捕らえたと、 戦果を過大に言い触らし回っている。
平岩にそれを書く事がなぜ味方を増やす事につながるんだよバーカ。本当に頭悪いなお前。
イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉のデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉の下記のようなデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな 秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。
看羊録
家康は兵をもって相模に秀吉を迎え撃った。
秀吉の兵が敗れ、遂に家康と和を結んだ。家康も恨みを解いて服従し、終身臣礼を失わなかった。
家康は江戸中納言(秀忠)を愛し、後継にしようと望んだ。
家康は事のなりゆきを観望していた。
秀吉は自ら往ってこれを攻めたが、かえって敗北を喫してしまい、遂に家康と和を結んだ。
家康もまた腰をかがめてこれに事え、全く臣下の礼をとった。 >>98
秀吉は小牧長久手後も雑魚の信雄に負けまくってる
小牧長久手合戦後の出来事
4/30日〜5/2頃
二重堀合戦が起こり、信雄1000が秀吉50000を奇襲して楽田から叩きだす(家忠日記)
6/19信雄が秀吉の尾張下市場城攻略(家忠日記)
6/23信雄が秀吉の尾張前田城攻略(家忠日記)
7/3信雄が秀吉の尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10信雄が秀吉の伊勢浜田城攻略(7/14秀吉→津田)
11/10信雄が秀吉の尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
4/12には秀吉が吉村氏吉に敗北(信雄→吉村書状)
秀吉はそれ以外でも5/5に小浜・間宮に伊勢の生津・村松で敗北してる(5/5家康→小浜・間宮)
また、3月から戸木城
4月から松の木城、東駒野城
6月から河波城、
などを攻略していたが
いずれも落ちずに撃退されてる
6月は特に信雄から吉村などへ感状ラッシュで度々秀吉軍を撃退した功績を賞賛されてる 秀吉は家康と信雄に10000人部下を殺されたあげく
伊勢浜田城・長久保城・蟹江城・前田城・下市場城を次々と奪回されたし
松ノ木城・東駒野城・戸木城・河波城などでも敗戦をして
家康と信雄に母や妹を差し出したので家康や信雄の圧勝
結局秀吉は8倍の兵力をもって家康と信雄を蹴散らされたために
豊臣家は徳川家に250万石の大領土と母や妹を取られ大老職も与える羽目になり
これが原因で豊臣家は滅ぼされる。
結局弱い者は、戦に負けて家を滅ぼされるという当たり前の事が起きただけだよ。 秀吉が短期戦構想で決戦を挑んでいるのは
3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や
3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」
佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。
白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より
P43 時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀雄氏は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので
三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。
その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。
長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した
P49 秀吉は当初短期決戦を目指して家康の本国である三河攻撃を企図したが主力部隊が長久手の敗戦で壊滅したため
五月上旬には岐阜まで退却し
来秋(太陰暦なので7〜8月)に軍事行動を行う予定であった。
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな またコピペ爆撃で自分に都合悪いレスが他人の目に触れないように工作かw
このアンチ豊臣政権のキチガイ在日ほんとゴミだな。
でも絶対に織田厨はこいつを非難しないんだからお里が知れる。 >>112
お前のバカな妄想が>>101-111で全部論破されとるやん >>112
お前って100回論破されても全部無視して時間経つと同じコピペ貼るだけだよな
マジで学習能力0だろ 家康はこの時北条と同盟していたのにどうして1万5千くらいしか兵を出せなかったのですか? 家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)
北条氏政は 企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』) 自分で質問して自分ででっち上げ回答するアンチ豊臣のキチガイ織田在日。 菅沼遼太って奴か。ほんと所構わず荒らすんだな。
こういう居座り係の荒らしが一番たちが悪い。 火病発症ブザマな自己正当化の
連レス祭りはいつ終わるん?
いきなり200レスも増えてて火病ハンパなくてワロタw
大嘘で塗り固めて、どんだけ口数増えていくんだよw必死すぎ笑 まあ秀吉ファンからしたら認めたくないだろうけど秀吉が信雄と和睦するために顕如に土下座したのは下記の史料に書いてあるからな
http://iup.2ch-library.com/i/i1528474-1445235289.jpg この本には、秀吉が顕如に和睦の仲介を頼んだ手紙は載ってるが、
秀吉が顕如に土下座したとは書いてない。
史料を証拠に、史料に書いてない事を主張する奴には
歴史を語る資格は無い。 菅沼遼太って、どうしてすぐ消えるアップローダーにアップするんだろう?
本当に史料がアップされてたかどうかすら怪しいよ。
こうやっていつも、自分の主張に史料の裏づけがあるように見せかけて、嘘ばかり並べてるんだね。 すぐ消えないアップローダーってあるの?
あったら紹介してほしいんだけど >>124>>128
画質が悪すぎて読みにくいが、
秀吉が下間頼廉と下間仲孝に戦況を伝える手紙だな。
で、どこに「秀吉が信雄と和睦するために土下座した」って書いてあるんだ? なんだ、結局秀吉が信雄と和睦するために顕如に土下座したってことじゃん 信雄が家康に断りなく秀吉に懐柔されるというのが信雄の馬鹿殿ぶりを実によく顕している
信長のDNAは誰にも受け継がれ無かったのか >>130
『十一月四日 羽柴秀吉、本願寺顕如に、織田信雄・徳川家康への取り成しを依頼する』
それは、史料じゃなくて、その本の編者がつけたサブタイトルだろ。
何が史料に書いてあるだ。バカバカしい。 菅沼遼太の挙げた史料の、どこにも秀吉が土下座したと書いてないから、
ただの嘘。 >>135
何が間違いないのか、さっぱり分からんな。
お前の抜き出したその文章を読む限り、
その手紙は、下間らが持ちかけた和睦の取り成しを、秀吉が認めた、という体裁を取っている。
もしかして、菅沼遼太くん、手紙の文章読めないの? >>138
はぁ?
研究者が『十一月四日 羽柴秀吉、本願寺顕如に、織田信雄・徳川家康への取り成しを依頼する』 って書いてるんだから
尾・遠・河ノ御音信有之旨被相心得候て執成尤候、後答可申述候 は
秀吉が顕如に信雄と家康への執り成しを頼んでるってことだろ
歴史家の解釈を無視して勝手に珍解釈するなよ。 >>140
お前の挙げた文章を普通に読んだだけで珍解釈呼ばわりとか、菅沼遼太クンは何がしたいの?
編者のつけてるのは見出しもしくは補足で、内容の要約じゃないだろ?そんな基本的なことも分からない?
その手紙だけ読むと、和睦斡旋に対して前むきな意向を示す、秀吉の返事に見える。宛名も顕如本人じゃなくて下間だ。
秀吉が内々に和睦斡旋を依頼してた事は十分ありえるし、それは否定してない。人の意見をお前の都合で捻じ曲げるな。
菅沼遼太クン本人の主張、秀吉が顕如に土下座したって言うのを否定してるだけだ。
そもそも、お前は>>124で「秀吉が信雄と和睦するために顕如に土下座した」証拠にその文章を出したわけだけど、
どこに秀吉が顕如に土下座したって書いてある? >>141
見出しってのはどんな書状か内容を簡潔にまとめた物だろ。
歴史家がその書状を秀吉が本願寺顕如に、織田信雄・徳川家康への取り成しを依頼する』 って書いてるんだから
尾・遠・河ノ御音信有之旨被相心得候て執成尤候、後答可申述候 は
秀吉が顕如に信雄と家康への執り成しを頼んでるってことだろ >>142
史料に何と書いてあるか、それとその資料はなんという意味かが問題だから、
話は早いな
http://iup.2ch-library.com/i/i1529951-1445436903.jpg
http://iup.2ch-library.com/i/i1529952-1445436903.jpg
『十一月四日 羽柴秀吉、本願寺顕如に、織田信雄・徳川家康への取り成しを依頼する』
尾・遠・河ノ御音信有之旨被相心得候て執成尤候、後答可申述候 は
秀吉が顕如に信雄と家康への執り成しを頼んでるってこと
結局お前の嘘妄想は暴かれたわけだ。 >>123-124
菅沼遼太クンは発狂してくると必ず、同じ内容をIDを変えて2回か3回連続で書くね。
支離滅裂な内容を2回も書いて、恥の上塗りだね。
菅沼遼太クンは古文書はおろか、印刷された候文すら読めなくて、
一次史料にこだわってる癖に、自分の挙げた文章も読めないって事が白日の下に晒されたわけだ。
論点をすり替えて逃げようとしてるから何度でも聞くけど、
お前は>>124で「秀吉が信雄と和睦するために顕如に土下座した」証拠にその文章を出したわけだけど、
どこに秀吉が顕如に土下座したって書いてある? アンカーミスした。浮かれすぎたか。
>>145は
>>143-144に向けてだ、申し訳ない。 >>145
ようはさ、織田信雄・徳川家康への取り成しを依頼するってことはさ、
信雄や家康と和睦したいけどできないから顕如様お願いします〜って手紙ってことだろ。
そんなん土下座と似たようなもんじゃん
細かい事を相変わらず君はねちねちと突っ込むね。 >>145
日本語でへりくだって頼むって言うべき所を、
菅沼語では土下座するって言うんだよ。たぶん。
こんな頭悪い上に人間性も最悪な菅沼遼太なんぞを構ってやるのは
時間の無駄で人生の浪費だよ。ソシャゲに課金するより浪費。 >>148
依頼するのもへりくだって頼むのも似たようなもんでしょ。
君はつまらないあげ足を取るのが相変わらず好きだね。 岡崎城奇襲の大失敗や家康に小幡城から逃げられる大失態で、家康を軍事力で屈服させられたいと悟った秀吉。
家康相手にこれ以上戦争が長期化し泥沼化すれば、離反が相次ぎ、秀吉の泥縄のにわか天下も瓦解だ。
早急に戦争を終結させる必要性に迫られ、戦争の原因たる信雄と講和して、家康の信雄支援の大義名分を消滅させる姑息。
小田原城が陥落した時点で、家康は秀吉に絶対に逆らえない程に実力差が開いてたのだから、
後顧の憂いを払拭する為にも、秀吉はどんな無理筋な口実をでっち上げても家康を葬り去ったおくべきだった。
なのに、家康に旧北条領の巨封を与え、日本最大の大名にしてしまう愚かさは度し難い。
秀長の助言を得られない秀吉の知性は、所詮この程度。 >>147
お前には「執成尤候、後答可申述候」がものを頼む文章に見えるんだな。かわいそうに。
人に物を頼むのに、本人じゃなく家臣宛てに手紙書く奴がいるか?
これがお前の言うような依頼の手紙だったら、秀吉は顕如にそんな非礼をしても許されるほど偉いって事だよな。
もっと常識でものを考えろよ。
結論として、「秀吉が信雄と和睦するために顕如に土下座した」って言うのは史料に書いてなくて
菅沼遼太が勝手にそう思っただけ。
>細かい事を相変わらず君はねちねちと突っ込むね。
もともとお前が釣ってきたくせに、手に負えないと分かったら逃げようとする。情けない奴だな菅沼遼太は。 愛知県史の編者ははっきり言って他より劣っていると思う。
あまり信用しないでちゃんと原文読んだ方がいい。 菅沼遼太くんはずいぶんと愛知県史に詳しいんだねぇ……?
なんでだろうねぇw >>151
執成尤候ってのは
文字通り直訳すると取り成しをする事が尤(=道理にかなっている)ってことだろ
後答可申述候ってのは後に答え申し述べるべきであるだから
要は秀吉が顕如に取り成しをするのが尤な事だ。
後に答えを申し述べよ、あるいは後に信雄が答えが申し述べるだろうってことでしょ
文字通り直訳すれば秀吉が顕如に信雄との仲介を頼んでいるだけだし
愛知県史資料編の史料研究者もそう解釈してる
>人に物を頼むのに、本人じゃなく家臣宛てに手紙書く奴がいるか
顕如がえらいから直接手紙かけないだけじゃないかね
他大名だって秀吉に直接手紙書かずに蜂須賀とか部下によく手紙かいてるし。
部下に手紙書くことどうこうは立場の証明にはならんわな。 >>154
菅沼遼太くん、一晩寝たんだから頭冷えてるかと思ったら、支離滅裂度が増してるな。
ご希望なら、またねちねちと突っ込んであげるよ。
でも、これ以上論争したかったら、まず発端の話題の決着をつけよう。
菅沼遼太くんの「秀吉が信雄と和睦するために顕如に土下座した」と言う主張は
ただの妄想だったって事で良いな。
返事せずに関連する話題の自分の意見を述べたり、コピペ荒らしを始めたら負けを認めたって事にするよ。 155続き。
百歩譲って、菅沼遼太が「土下座した」というのは「懇願した」とかそういう意味であるとしても、
(そういう嫌らしい言葉の使い方は認めたくないが)
菅沼遼太くんの和訳では、秀吉は超上から目線で頼んでおり、とても懇願したとは言えない。
と言うことで、
菅沼遼太くんの「秀吉が信雄と和睦するために顕如に土下座した」と言う主張は
ただの妄想であると断定した。 >>156
じゃあ取り成しをするのが尤もな事だ
ってのが秀吉の命令に近いという事?
取り成しをしろよと言っても
取り成しをしてくださいお願いしますといっても結局必死に依頼してる事には変わりないから土下座と似たような物だと思うがね。 あらら、あんまりいじめるから「似たようなもの」にトーンダウンしちゃったよ。もうじき泣くな菅沼遼太くん。 >>158
いやいや明らかにお前が論破されとるやん
秀吉が土下座して顕如に必死に懇願したのを一々屁理屈こねて捻じ曲げようとしてるけど >>158
どんなにお前が屁理屈ならべようが
愛知県史資料編の研究者が『十一月四日 羽柴秀吉、本願寺顕如に、織田信雄・徳川家康への取り成しを依頼する』 って書いちゃってるからなぁ
お前の負けは最初から確定してるんだよ
http://iup.2ch-library.com/i/i1530873-1445578210.jpg 菅沼僚太氏の言う小牧長久手の秀吉公って、
散々ジャイアンにボコられながらもしつこく食い下がって
ついにはジャイアンに負けを認めさせたドラえもん最終回ののび太君、
みたいなイメージ? >>159-160
論争に負けたときの、いつもの菅沼遼太くんの反応乙。
論破したと思い込むだけで、議論の結果はどうあれ論破したことになるって、幸せな頭だね。
ごまかして逃げるから何度も言うけど、お前の挙げてるそれは見出しに「取り成しを依頼した」って書いてるだけで、
「秀吉が顕如に土下座した」とはどこにも書いてない。
もともとお前が>>124で持ち出した話なんだから、妄想じゃないと言うなら
「秀吉が顕如に土下座した」と書いてあるページを出せば良いだけのこと。 >>162
織田信雄・徳川家康への取り成しを依頼するってことはさ、
信雄や家康と和睦したいけどできないから顕如様お願いします〜って手紙ってことだろ。
そんなん土下座と似たようなもんじゃん >>157
手紙の文章の話はひとまず置いておくとして、(ご希望なら後で蒸し返すから)
史料の編者の解釈は「羽柴秀吉、本願寺顕如に、織田信雄・徳川家康への取り成しを依頼する」であって
必死に依頼したって言うのは、お前の勝手な想像に過ぎない。
菅沼遼太クンは、史料に書いてあることと、自分の想像で考えたことの区別もつかないって
改めて証明されたね。
>>163
人に頼むことと、土下座することが似たようなもの
とか言う常識のない奴は書き込みしないでほしいね。そんな奴、世界中で菅沼遼太くんただ1人だろうけど。
まあ良いけど。頼む事を土下座って言うのなら、
武田信玄は、北条家、今川家に土下座して同盟組んでもらい、
織田信長に土下座して勝頼の嫁をもらって同盟してもらったって事だね。 >>159
興奮しすぎてID見るのも忘れてるだろ菅沼遼太くんw
きみの相手はわたしじゃないよおバカさんw
もう誰が見てもキミの負けなんだよ。 >>164
そもそも信雄と家康が秀吉に土下座したなどと史料にない妄想を書いてるバカに対する反論なんだがね
信雄と家康はそもそも秀吉に必死に依頼すらしてないけど、それをもって土下座とするなら
秀吉は顕如に依頼してるから土下座したことになるわな。 >>165
勝った、負けたとか、お前は小学生かい? >>168
涙ふけよ。画面がぼやけて見えないだろ菅沼遼太くんw
悔しかったら土下座の土の字でも見つけて持ってこいよwサディストの兄ちゃんが舌なめずりしながら待ってんじゃんw >>169
まあいくらお前が妄想勝利宣言しようと
研究者によって秀吉が信雄と和睦するために顕如に必死に依頼してる書状があげられてしまってるわけで。
http://iup.2ch-library.com/i/i1530873-1445578210.jpg >>169
お前っていつも議論で負けると自演を始めて妄想で勝利宣言するよな …ひょっとすると菅沼遼太くんって、誰かに何か頼まれたら
「コイツ俺様に土下座してるぅ」てなっちゃうの?
で、誰かに何か頼むと
「俺様が土下座してるッ屈辱ッ!」てなるわけか。
菅沼くん、キミの親戚に快楽殺人犯とかいない? 依頼ってのはつまるところ「お願いします、〜してください〜」ってことだから土下座と似たようなもんでしょ >>166
ふ〜ん。妄想に対する反論なのに、妄想を根拠にしてるのか。
しかも、このスレのレス探しても「信雄と家康が秀吉に土下座した」って言ってる奴はいない。
脳内の敵に対する反論は、脳内に留めておいてくれないか?
菅沼遼太くんの馬鹿さ加減を、自らアピールしてくれてありがとう。
ほんとに菅沼遼太クンって面白いね。
>>173
本気でそう思うなら、家族や友人に聞いて確認してきたら?
家族も友人もいないなら、質問サイトでも良いよ.。
yahoo知恵袋 http://chiebukuro.yahoo.co.jp/
結果お待ちしてます。 >>175
ヤフー知恵袋なんて誰でも答えられるしデタラメし放題な物持ち出して一体貴方は何がいいたいの? >>176
おや、お気に召さない?
菅沼遼太くん以外でここ見てる全員分かると思うけど、はっきり言わないと分からないのかな。
自演大好き、暴言大好き、妄想の質問に妄想で答える菅沼遼太くんに
ぴったりのサイトをオススメしただけだよ。 >>177
何がわかるのかい?
俺は秀吉が信雄や家康と和睦するために必死に顕如に頼んでるのははっきりわかるけど。 >>179
やっぱり、菅沼遼太くんには分からないんだね。
キミってほんとに面白いねえ。 もう、持論を壊れたテープのように書き込むくらいしか菅沼遼太クンに出来ることは無いんだろうね
そろそろ自演とかコピペ爆撃で埋めに来る頃かな。お疲れ様でした。 >>181
なんで君って論破されるといつも妄想勝利宣言始めるしかできないのかい? ところで菅沼遼太くん
今日はこの2ちゃんでもオープンでも、特定のIDを長く使っているようだけどこれは
「頻繁にIDを切り換える端末は別のところの荒らし活動に使っている」という認識でいいのかな? >>182=183
勝利宣言って、菅沼遼太じゃ無いんだから、そんな下品な事するはずないだろう?
菅沼遼太くんが自爆しただけで、俺が勝った訳じゃないし。
そんなに続けたいなら、土下座についての議論を続けよう。
それで、誰かに「依頼することは土下座することと似たようなもの」って言うのが正しいかちゃんと確認した?
するべき事もしないで、ただ呼び戻してみただけ、なんて事は無いよね? この前、うるさい客から小さなミスの修正を依頼されたけど、
あいつ俺に土下座してたのか。気付かなかったぜw 秀吉の下間頼廉と下間仲孝への書状
尾・遠・河ノ御音信有之旨被相心得候て執成尤候、後答可申述候(原文)
↓
羽柴秀吉、本願寺顕如に、織田信雄・徳川家康への取り成しを依頼する(愛知県史による超意訳)
↓
秀吉が信雄と和睦するために土下座した(菅沼の珍訳)
菅沼はどんだけ戦国板住人を笑わせるつもりだよw死人が出るぞw 「愛知県史土下座事件」
でいいのかな?
それとも
「依頼は土下座衛門事件」かなw 菅沼珍訳「執成尤候(とりなしもっともそうろう)=土下座依頼」事件だな。 >>188
執成尤候ってのは
文字通り直訳すると取り成しをする事が尤(=道理にかなっている)ってことだろ
後答可申述候ってのは後に答え申し述べるべきであるだから
要は秀吉が顕如に取り成しをするのが尤な事だ。
後に答えを申し述べよ、あるいは後に信雄が答えが申し述べるだろうってことでしょ
文字通り直訳すれば秀吉が顕如に信雄との仲介を頼んでいるだけだし
愛知県史資料編の史料研究者もそう解釈してる >>187
日本語的にミスの修正を依頼するなんて言わないだろ。
お前は俺に「土下座事件」とやらのミスの修正を依頼するのか? >>188
愛知県史のは研究者が行ったものだから意訳とは言わん。
直訳すれば取り成しをする事が尤(=道理にかなっている)だから
取りなしを頼んでるだけで。 >>187
たとえて言うなら弁護士に〜してください〜って頼みこむのと依頼と土下座は似たような物ってことだろ。
顕如の力にすがっただけの事。 そろそろだが氏は敗北を悟って、恒例の涙目長文コピペ連投するはずw >>195
いやぁそれはないでしょう。
議論に負けたのはだが氏に論破されてる相手の方だし、わざわざそんなことする必要はない 弁護士の立ち位置、意訳の意味、直訳の意味、、
突っ込みどころが多すぎて困るな。
話せば話すほど無知&馬鹿が露呈している。菅沼はとりあえず国語辞典を買え。 菅沼遼太には、自分の間違いに気付ける程度の知能すら無いんだから
仕方ない。 >>196
恥を何層コートする気だね菅沼遼太くん。 >>191
ほら、>>181で言ったように、菅沼遼太くんは>>154ですでに述べた持論を、そのまま繰り返したよ。
同じことの繰り返ししかできない菅沼遼太クンは、学習能力が皆無なんだね。
手紙の内容について蒸し返したいみたいだから、付き合おうか。
菅沼遼太くんの解釈が誤りとは限らないけど、それが直訳だと言うのは完全に間違い。
「執成尤候」を直訳すれば、「とりなしもっともです」
「後答可申述候」を直訳すれば、「後で答えを申し上げます」
そして、自分の解釈が編者と同じ解釈だと言うのは勝手な思い込みで、実際は本人に確認してみないと分からない。
要するに、菅沼遼太クンは文語を読めないけど、勘で訳したらたまたま意味が通るっていうだけ。
>>193
研究者が行っても素人が行っても、意訳は意訳。意訳って意味知らずに使ってる?
>>192>>194>>196
筋の通らないムチャクチャを書き込んで、スレを混乱させようとしても無駄だよ。
菅沼遼太クンの頭の悪さがさらにクローズアップされるだけ。楽しいね。 菅沼くんの脳内だと
外交上の譲渡や取り成しは全て土下座になるんだから
頭でっかち過ぎる >>200
いやいや頭の悪い人は一回言っただけでは理解できないから何度も繰り返し書く必要があるんだよ
普通は一回>>154でいえば済む話なんだがネチネチ屁理屈ばかり付けて君は本当に頭が悪いね
執成尤候の直訳は、取り成し尤(=道理にかなっている)です
だから取り成しす事が道理にかなっている、と言っていて
「後答可申述候」を直訳すれば、「後で答えを申し上げます」とは限らず
後で答えを申しあげてくださいと言っているかもしれないよ
まあどちらにしても似たようなもんだけど。 >>200
研究者の方が現代一般人よりも古文に精通しているんだから
一般人の訳より研究者の訳の方が正しいに決まってるじゃん
自分の「直訳」とやらを持ち出してもそれは素人の見解にすぎんよ。 >>194
ん?
菅沼遼太くんは弁護士に土下座して頼んだことがあるってことかい?
なにやらかしたの?
威力業務妨害とか? >>197
君は何回論破されて泣き喚けば気が済むの? 「とりなす」ことと「土下座する」ことがイコールであることをいい加減証明してくれないかなぁ菅沼くん。 >>204
頭大丈夫かい?
>>194のどこを読んだらそんなことが書いてあるんだ? >>202
相手が自分の主張を理解して無いと思ったなら、どうしたら伝わるのか考え、
言葉を変えて理解させようとするのが普通なんだけどね。俺もキミが理解しないから言葉を変えて説明してるだろ?
同じ言葉を何度繰り返しても、何の意味も無い。
菅沼遼太くんって、小学生でも知ってる会話の基本も知らないんだ。呆れた人だね。
要するに菅沼遼太クンは、自分の主張が理解されなくてもいいと言う態度を取ってるわけで、
議論してるつもりかもしれないけど議論を自ら放棄しているわけだ。
論破とか言ってる癖に、議論すら出来ない本物のコミュ障が菅沼遼太くん。
>>202-203(訳について)
菅沼遼太クンは直訳と意訳の意味を理解してないから、おかしな主張を繰り返すんだね。
言葉どおりに訳したのが直訳で、解釈を加えて訳したのが意訳。直訳に見解なんて無いんだよ。中学生でも知ってるよね?
この手紙を直訳で解釈してるのがおかしい、と言うのなら分かるが、自分の見解の直訳とか言われても、鼻で笑うしか出来ないよ。
執成尤候を「取り成しす事が道理にかなっている」と訳すのは、菅沼遼太くんの意訳
後答可申述候を「後で答えを申しあげてください」と訳すのも、菅沼遼太くんの意訳。
これを直訳だと言ってるから、違うよって言ってるだけ。分かった? >>207
わりと率直に読んだつもりだったんだけど…こんな言い返しとは…マジでなにかやらかして弁護士に泣きついたことがあったんだね菅沼遼太くん。 >>209
>>194のどこを読んだらそんなことが読み取れるのかい?
君は頭がどうかしてるのかね。 >>210
あ〜…弁護士に泣きついたのはキミじゃなくてお父さんだったね。菅沼遼太くん。
キミのために。 >>208
尤を辞書通りに訳すると道理にかなっている、だから
執成尤候の直訳は、取り成し尤(=道理にかなっている)です
だから取り成す事が道理にかなっているで何も間違ってないでしょ
辞書で引いて訳しただけなのに勝手に意訳とかデッチ上げられても困る >>208
直訳ってのはそのまま訳した物の事だろ
尤の訳は辞書を引けば、道理にかなっている、あるいはいかにも、なるほど、あるいは非常に、たいそう、全く、決してと言う意味だが
この場合道理にかなっている、かいかにも
くらいしか文章の意味が通じないから
執成尤候は
取り成しが道理にかなっているか、取り成しいかにもであるのどちらかの意味ってことだろ。 >>212-213
おっ。お勉強して、菅沼遼太くんの訳が意訳だって事、直訳すれば俺の訳になる事を理解したみたいだね。
これで、やっと議論に入るための土台が菅沼遼太くんにも少し備わったわけだけど、
苦労して説明しても菅沼くんが賢くなっていくだけで、俺には何のメリットも無いからやめておくよ。 >>214
毎回思うのだが君は人の話を聞かないし理解しようとしないよね
>>212-213を読めば尤の訳は辞書を引けば、道理にかなっている、あるいはいかにも、なるほど、あるいは非常に、たいそう、全く、決してと言う意味だが
この場合道理にかなっている、かいかにも
くらいしか文章の意味が通じないから
執成尤候は 取り成しが道理にかなっているか、取り成しいかにもであるのどちらかの意味になるんだが >>215
キミが納得いくような反応が返ってこないからって、話を聞かないとか理解しないとか妄想で決め付けて
ほんとにコミュ障だね菅沼遼太クンは。
キミが直訳について正しく理解できたのかと思ったけど、違うみたいだね。
菅沼遼太くんが>>212で言ったように、執成尤候は「取り成しが道理にかなっています」が正解の直訳。
お互い正解の直訳を共有できたのに、何がまだ不満なんだ?
いつもキミが自演してるような罵り合いじゃなく本当に議論がしたいなら、自分の主張を簡潔にまとめてくれ
手紙文からでは直訳以上の事が分からないのに、これを取り成しを依頼してると解釈するのは無理があるって言う事。
この手紙文自体は、秀吉が顕如にとりなしを依頼した手紙じゃない。と言うのが>>129>>138>>141辺りからの俺の主張だ。 >>216
取りなしが道理にかなっていると書いているならどう考えても秀吉が顕如に取り成しを依頼している物とみていいでしょう。
顕如が単独でそんなことをしても何も得がないし。
道理って人の行いや物事の道筋が正しい事、物事のそうあるべきすじみちやことわり、人の行うべき正しい道といった意味だからね
つまり執成尤候=「取り成しが道理にかなっています」=取り成しが物事の正しいみちすじ、人の行うべき正しい道、おこないです
って意味でしょ。つまり取り成ししてくれって言ってるんだよ。 何じゃそりゃ。
土下座はどうなった?粘着君はそこ突っ込まないのか?
バカバカしい。 >>217
土下座どころか依頼すら憶測になってきたな。
君は1勝の気分かもしれんが、他人から見たら君は2敗している状態だぞ。
それから国語辞典は「意味」を調べるものであって、「訳」を調べるものじゃない。
国語辞典で調べて当てはめたら、直訳じゃなくて意訳じゃね?
直訳するなら古語辞典使わないと。
学研全訳古語辞典
もとも 【尤も・最も】
副詞
「もっとも」に同じ。 >>220
何が憶測なんだ?
愛知県史資料編の研究者も羽柴秀吉、本願寺顕如に、織田信雄・徳川家康への取り成しを依頼する
と書いてるし
執成尤候を訳すると
「取り成しが道理にかなっています」
道理を訳すると人の行いや物事の道筋が正しい事、物事のそうあるべきすじみちやことわり、人の行うべき正しい道
つまり取り成しが物事の正しいみちすじ、人の行うべき正しい道、おこないです
国語辞典による辞書的定義にどうこう言われても妄想乙としかいえないでしょう。
訳というのは、ある言語表現を別の言葉でいいかえる事だから、
国語辞典を引いたら、訳をしていないなどという君のルールは意味をなさないでしょ。
英語の意味がわからないから英語辞典を引いて直訳するのと一緒で
国語の意味がわからないから国語辞典を引いて訳するのは至極当然なんだよ。
古語も国語の一種だからね
古語に国語辞典を使っちゃいけないなどというのは大嘘 英語の意味がわからないから英語辞典を引いて直訳するって、
どんな奴だよw
意味が分からないw >>221
だいたい国語辞典は現代日本語の意味しか乗ってないから。
「古語も国語の一種!俺は古語に国語辞典を使う!」なんて、変態すぎるだろ。 >>221
>取りなしが道理にかなっていると書いているならどう考えても秀吉が顕如に取り成しを依頼している物とみていいでしょう。
これ、憶測って自分で気付かないのか?
ボケ>>217にツッコミ入れると、3倍ボケ返す>>221とか、もう付き合いきれんわ。 >>217
菅沼遼太くんが前から主張していた、
「秀吉が信雄と和睦するために顕如に土下座した」という主張も、
「執成尤候、後答可申述候を直訳すると、秀吉が顕如に信雄との仲介を頼んでいるとなる」と言う主張も、
書いてないって事は、誤りを認めて取り下げたって事で間違いないね。
俺に論破された部分を取り除いて、新しく自分の主張を組み立てたんだね。
どんどん自分の主張が修正させられてるだけなのに、議論に勝ってるつもりとは、幸せな頭してるね菅沼遼太くん。
>取りなしが道理にかなっていると書いているならどう考えても秀吉が顕如に取り成しを依頼している物とみていいでしょう。
そんな珍妙な解釈するより、
下間頼廉、仲孝がすでに和睦案を秀吉に送っていて、この手紙でそれを承諾する内意を送ったと言うほうが、すっきり通るだろ?
俺が>>138で下間らが持ちかけた和睦の取り成しを、秀吉が認めた、という体裁を取っている。って書いたのは、そういう事だ。
形勢が悪くなったらコロコロ意見を変える菅沼遼太くんと違って、俺はずっと意見を変えてないよ。 一次史料大好きアスペルガーだが=菅沼遼太が、古語辞典持ってないとは驚きだ。 >>226
お前いっつもちょっとお馬鹿な脱線するよな。 >>224
頭がわるいな
取り成しが道理にかなっています
道理=物事のそうあるべきすじみちやことわり、人の行うべき正しい道
つまり取り成しがそうあるべきすじみち、人の行うべき正しい道です。
だから取り成しをするのが人の行う正しい道ですと言ってるってことだから依頼してるってことだろ
いくら頭が悪いからってグダグダケチつけて曲解すんなよ >>223
国語辞典って昔の日本語に使われる言葉も載ってるんだが
書状にでてくる文書とか古語辞典で引いても全然出てこなくても国語辞典だと出てくるんだぞ >>223
それと古語辞典で尤もをひくとその通りだ、当然だという意味があるから
取り成しが当然だ、つまり取り成しして当然だと書いてるってことだから秀吉が依頼してるってことでしょ
お前は上で尤もを副詞のもっともなどという馬鹿な訳をしているが
それでは意味が通じないよ >>225
「執成尤候、後答可申述候を直訳すると、秀吉が顕如に信雄との仲介を頼んでいるとなる」
これは明らかに事実
執成尤候→取り成しが尤も(当然である、その通りである、人の行うべき正しい道すじである)である
後答可申述候→候と可の意味がたくさんあるので直訳は無理 申すという言葉が使われているのでおそらく下間に答えを言ってくださいという文章か?
どのみち愛知県史資料編の研究者が取り成しを依頼してる文章と書いてるので間違いない >>225
>下間頼廉、仲孝がすでに和睦案を秀吉に送っていて、この手紙でそれを承諾する内意を送った
上にも書いたが下間らがそんな事を自分から自発的に行っても得はないし
書状も残っていない以上妄想の域としか言えないでしょう。
それと、俺の直訳がおかしいというならそっちの解釈だって文章上はおかしいただの意訳になるよ >>231
愚にもつかない土下座論を掲げて、自爆した菅沼遼太くん、
よく平気な顔で関連する話題に移れるよね。面の皮の厚さに感服するよ。
相変わらず、直訳と意訳の違いが分かってないね。
これまでの議論を無視して>>154の主張に戻ったか。
菅沼遼太くんは、ドヤ顔で間違った事を延々と書き込んでればいいよ。
>後答可申述候→候と可の意味がたくさんあるので直訳は無理 申すという言葉が使われているのでおそらく下間に答えを言ってくださいという文章か?
このように、直訳だと意味が通らなくなるので、文脈や時代背景などから書き手の意図を推測して訳す作業を意訳と言う。
要するに、菅沼遼太くん自身が「執成尤候、後答可申述候」を「秀吉が顕如に信雄との仲介を頼んでいる」と意訳してるのに、
>「執成尤候、後答可申述候を直訳すると、秀吉が顕如に信雄との仲介を頼んでいるとなる」
>これは明らかに事実
などと支離滅裂な主張をしているので、菅沼遼太くんはとても史料を使った議論に参加できるレベルの知識を持ってない。
議論したかったらもっと勉強しろ、と言うのが俺の結論。
>>232
>それと、俺の直訳がおかしいというならそっちの解釈だって文章上はおかしいただの意訳になるよ
菅沼遼太くんは、2つの議題を混同してるね。
「執成尤候、後答可申述候を直訳すると、秀吉が顕如に信雄との仲介を頼んでいるとなる」と言う主張に対し、
それは直訳じゃなくて意訳だ。と俺が菅沼遼太くんの間違いを正している話と
俺の「下間頼廉、仲孝がすでに和睦案を秀吉に送っていて、この手紙でそれを承諾する内意を送った」と言う解釈と
菅沼遼太くんの「秀吉が顕如に信雄との仲介を頼んでいる」と言う解釈と、
どちらがふさわしいか、と言う話。
問題の切り分けすら出来ない菅沼遼太クンには、議論とか難しすぎるんじゃないかなあ。
>書状も残っていない以上妄想の域としか言えないでしょう。
結局、これ。
この手紙を、手紙文のどこにも書いてない「秀吉が顕如に信雄との仲介を頼んでいる」と解釈するのも
妄想の域を出ない、と言う事。 >>233
執成尤候を直訳すれば
取り成しが尤も(当然である、その通りである、人の行うべき正しい道すじである)である になるんだから
それを直訳だけで秀吉が顕如に信雄との仲介を頼んでいるという意味になるだろ
行うべき正しい道すじってことはようはそれをしてくださいってことなんだから
>俺の「下間頼廉、仲孝がすでに和睦案を秀吉に送っていて、この手紙でそれを承諾する内意を送った」と言う解釈
それって書状からは全く読み取れない意訳でもなんでもないただのとんでも主張じゃん
その手紙をどんな読み方しても、あるいは他の書状を読んでもそんなことは読み取れないよ
書状に書いてもいないような事実を勝手にデッチあげて偉そうに主張されても困るわな
もちろん俺にも知らないような知識は多くあるだろうけど
君は勉強不足どうこうを超えて書いてもいないような事実を勝手にデッチあげるから性質が悪すぎる >>233-234
菅沼文太と良太は小牧・長久手スレを汚すのやめろ!
土下座も依頼も和睦案の送付も書状に書いていない!
お互い認めて終わりにしろ! 結論は土下座なんて誇大解釈した菅沼遼太くんが恥さらしただけ そろそろコピペ爆撃がくる頃か?
だがが発狂して恥を晒しまくるのは、痛快だったな。 >>234
直訳の意味すら分からない菅沼遼太くんが、何を言っても無駄だね。
>執成尤候を直訳すれば
>取り成しが尤も(当然である、その通りである、人の行うべき正しい道すじである)である になるんだから
>それを直訳だけで秀吉が顕如に信雄との仲介を頼んでいるという意味になるだろ
もう支離滅裂。そんな押し付けがましい態度でものを頼んで聞き入れられるほど、当時の秀吉って偉かったの?
土下座なんて言ってた癖に、主張がだいぶ変わったね。
>それって書状からは全く読み取れない意訳でもなんでもないただのとんでも主張じゃん
主張の根拠も聞かずに妄想扱いする菅沼遼太くんは、とても議論する態度じゃないね。
議論する気が無いなら、書き込むなよ。
>>235
スレタイに沿った議論をスレ汚してるとか、2ちゃんねるの存在そのものを否定してるねキミは。
どう見ても議論に参加してた菅沼遼太クン本人だけど。
まあ、菅沼遼太クンはまともに議論出来ないし、俺の2勝1分けで終わろうか。 >>240
お前ももう滅茶苦茶なんだよ!
50レス以上前くらいからループしてる事がわからないのか?
オウム返しにオウム返しするのやめろ! 負けを認めたくないからって議論そのものを止めさせようとするのは姑息すぎるよ菅沼遼太くん。
自分が正しいと思うんなら最後まで投げずに闘ってくれよ。男の子でしょ。
わたしは菅沼くんのその醜態を横から見てゲラゲラ笑わせていただくから。 >>242
菅沼文太よ、そのキャラは痛すぎるぞ。。。 >>242
お前っていつも議論で論破されると妄想勝利宣言するよね
菅沼に論破されたのがそんなに悔しいの?w >>242
いやいやどう見ても論破されてるのお前じゃん >>235
いやいやどう見ても書いてるでしょ
執成尤候=取り成しが尤も(当然である、その通りである、人の行うべき正しい道すじである)である
愛知県史資料編より
『十一月四日 羽柴秀吉、本願寺顕如に、織田信雄・徳川家康への取り成しを依頼する』
研究者の解釈にグダグダ素人がケチをつけてもお前の勝手な曲解にしかならないでしょ >>235
そもそも話はシンプルなんだけどね
愛知県史に十一月四日 羽柴秀吉、本願寺顕如に、織田信雄・徳川家康への取り成しを依頼するとして解釈されている書状を
お前が勝手に独自解釈してネチネチ曲解してるというだけで。
最初からお前が間違いを認めたくないばかりに学者にケチをつけてグダグダやってるだけだし >>240
お前の言う「主張の根拠」って何?
根拠になってないと思うけど >>242
こういう単発が出てきたら織田厨が論破されてるとみていいな
大体いっつも議論に負けて追いつめられるとこうやってお茶を濁すから >>249
文字が読めませんか?
このスレの簡単なお約束 >>1
・「特殊」歴史研究家(コピペ議論家、一次史料盲信者、○○厨設定家)は入場禁止。 おっ。菅沼遼太くんの恒例の自演連投始まってたか。
急にレスが増えて不自然すぎると思わないの..かな?
>>243-250
菅沼遼太くんは自演荒らしで議論から逃亡したから、この辺で終わりにするよ。
>>248
議論を再開したいなら、菅沼遼太くんが自演で連投してスレを荒らしてる事を謝罪してからだ。
荒らしながら議論を続けようとか、虫が良すぎるよキミ。 これにて「菅沼土下座事件」も落着か。終わるとなると寂しいけど、菅沼遼太くんが議論を放棄しちゃったから仕方ないね。
>>251氏、おつかれさん。 嘘ばかりつきまくる菅沼遼太なんぞ、もっとボロクソに叩けばいいのに。
どうせ反省なんてしないし、荒らし続けるだけだろ。 >>253
最初から織田厨が負けた話なんだけどね
愛知県史に十一月四日 羽柴秀吉、本願寺顕如に、織田信雄・徳川家康への取り成しを依頼するとして解釈されている書状を
お前が勝手に独自解釈してネチネチ曲解してるというだけで。 >>250
いやいや愛知県史資料編の研究者が十一月四日 羽柴秀吉、本願寺顕如に、織田信雄・徳川家康への取り成しを依頼するとして解釈しているから
特殊歴史研究家じゃなくて一般的な解釈でしょ
このスレのバカは特殊解釈して書状を歪曲してるけど >>253
結局お前が>>138で大嘘ついて菅沼に論破されたね >>251
まあ最初から研究者の解釈をお前がケチつけて曲解してるだけの流れだからな 高校球児ばりの諦めない心はみあげたものだと思う。次の人生ではもう少しましなことに使うといい。 >>259
確かに織田厨っていっつも論破されても諦めずに自演と勝利宣言でスレにしがみつくからな
ゴキブリみたいなもんだろ。 >>254-260
菅沼遼太くん、議論で負けたから荒らすって、幼稚園児レベルだねキミは。
いくら負けたからって、わざわざ追加で馬鹿を晒してくれなくていいんだよ?
おかげで気分よく毎日を過ごせるし、メシが旨いよ。ありがとう。 >>261
どっからどう見てもお前が論破されとるやん >>261
まあ結局>>256だからな
最初から決着はついてる話なのにお前はグダグダいって認めたくないだけだし。 遼大よいい加減パナソニックのガラケ買い換えたらどうだ >>262-263
菅沼遼太くんは、土下座と直訳で2回も自爆しながら主張を変えていって、
ようやく、議論になりそうなレベルの主張にたどり着いただけの癖に、論破とか、
ちゃんちゃらおかしくてへそで茶を沸かしそうだよ。
まあ、議論から逃亡して荒らしてる、菅沼遼太くんが何を言っても無駄だけどね。 >>265
いやいやそもそもお前が研究者の訳にいちゃもんつけてグダグダやってるだけやん >>265
執成尤候=取り成しが尤も(当然である、その通りである、人の行うべき正しい道すじである)である
愛知県史資料編より
『十一月四日 羽柴秀吉、本願寺顕如に、織田信雄・徳川家康への取り成しを依頼する』
グダグダ同じ主張書こうがこれは変わらんよ 俺の予言通り、菅沼遼太くんは自分の主張を繰り返してばかりだね。
ほんと面白いねキミは。
でも、どれだけ主張を並べようが、自演連投で荒らしてる菅沼遼太くんの意見を今さら聞く奴は、
この板には1人も居ないよ。 >>270
類義語でも何でもない。
君、もう日本語やめたらどうかな?
向いてないよ。
ど‐げざ【土下座】
[名](スル)
1 昔、貴人の通行の際に、ひざまずいて額を低く地面にすりつけて礼をしたこと。
2 申し訳ないという気持ちを表すために、地面や床にひざまずいて謝ること。「―して許しを請う」
い‐らい【依頼】
[名](スル)
1 人に用件を頼むこと。「―を引き受ける」「執筆を―する」
2 他人を当てにすること。頼み。「―心が強い」 辞書的定義ならそうだろうけど
たとえて言うなら困った状況になった時に誰かの権力に縋り付いて
「〜してください〜」って依頼するのと、土下座するのと似たようなもんってことでしょ。
そもそもこの場合の「土下座」って本当に土下座するわけじゃなくて、物のたとえというか、比喩的に表現してるだけだし
そんなところに一々突っ込みを真面目に入れるとか、ユーモアのセンスがないよ。 他人を貶めるだけで、幸せな気分にしようとは絶対にしない菅沼遼太が
ユーモアを語るな。 >>272
つまり、直接的には書かれていないけれど、
「比喩的な表現として理解してください」という菅沼氏の皆への依頼だね。
よし!そこまでするのなら、許した!この件、これにて一件落着! >>274
つまり菅沼遼太くんがこのスレのみんなに依頼というなの土下座をしたってことでいいのかな? 本当に菅沼くんが土下座したわけじゃなくて、
精神的というか誠意的な感じの土下座という解釈でいいかと。 もともと比喩的表現だって菅沼遼太クンは主張してたし、俺は納得いかないんだけど、
菅沼遼太くんが、スレのみんなに菅沼的土下座をしたって事なら、それで矛を収めるよ。
みんなありがとう。菅沼遼太クンに釣られてスレを騒がせて申し訳ない。 >>274
まともな小説でも読んでたら物のたとえで、例えば「人生はドラマだ」のように
本当にそうじゃないものを隠喩的(メタファー)で表現する事なんて至極普通に行われるものだが。
君は小説の一つも読まないのかい? 今回の土下座事件における菅沼遼太氏の言動の要約
秀吉は本願寺に土下座した!
→土下座したのも同じだろ!
→依頼とは土下座のようなものだ!
→土下座と言ったのはレトリックだ! メタファーだ! 理解力の足らないお前らが悪い!
ここまでのわたしの感想
どんなに大きくてもファールでは得点にならないんだなぁ… 大体小説でも読んでたら「彼は鬼だ」のように隠喩法・メタファーを使った表現などいくらでも出てくるんのだが
そんなところに突っ込むとか学識が足らない証拠である。 後付けでメタファーだったとか言っちゃって、菅沼遼太の奴さらに恥を上塗りしてるな。
今頃そんな事言い出しても、超後の祭りだろ。
相手の誤りを指摘せずにわざわざ放置して、ボロクソに論破された、ただのバカ。 >>280
菅沼遼太先生にお願いです。
あなた以外の住人は学識が全然たりないようですので、今度からはご高説にはかっこして(レトリック)とか(メタファー)とか表記してくださいませ。
それ無しに突然メタファられると愚かなわたしたちは
「ああ、またファールだねw」
と誤読してしまうおそれがあります。
お手数ですが上記の件、今後よろしくお願いいたします。 >>282
小説だろうがテレビだろうが普通の人間が比喩を使っても一々比喩だという注釈なんぞつけないよ
直喩法だの隠喩法だの小学6年くらいで習う話なんだが、君は障害者の通う学校にでも行っていたのかい? >>281
始めから比喩的表現もわからずにグダグダ言ってるお前の負けだろ。
後ろ付けもクソも、比喩的表現を始めに「これは比喩です」なんて注釈いれる本もテレビもないよ。
君はコミュ障だね >>281
最初から織田厨が論破された話なんだけどね
愛知県史に十一月四日 羽柴秀吉、本願寺顕如に、織田信雄・徳川家康への取り成しを依頼するとして解釈されている書状を
お前が勝手に独自解釈してネチネチ曲解してるというだけで。 >>281
お前っていつも議論で論破されると妄想勝利宣言するよね
菅沼に論破されたのがそんなに悔しいの?w
そもそもお前が研究者の訳にいちゃもんつけてグダグダやってるだけやん
最初から負けてるお前が論破とか言っても説得力がないよ まだ引っ張るん?
それがふたりを見ているスレ住人の感想 >>283-286
相変わらず、同じ意見をほぼ同時に投稿する、誰が見てもバレバレの自演してるな菅沼遼太。
議論に勝った奴がこんな荒らしする必要ないから、
これだけで、お前が負けたって分かるだろ。 >>283
申し訳ありません菅沼遼太先生。そのレスにはいかなるメタファが組み込まれておられるのでしょうか?
我々のような低俗な輩に合わせるつもりはないでしょうが、今後の菅沼先生が文筆業、例えば小説家などの道に進まれますさいに読者が置いてきぼりになりはしないかと心配するしだいでございます。 >>288
いやいや議論の勝ち負けと自演をすることとは論理的なつながりは何もないし
そもそも>>283->>286を自演とするなら
>>281-282や>>251-254などお前も自演しまくりやん
相手の単発別IDは自演で
自分の単発別IDは自演じゃなくて複数人の主張とかどんだけ都合いい頭してるんだよお前 >>288
つまり自演=議論の負けと言う事か。
つまり>>251-254や>>273-277のように自演しまくりのお前は負け確定と言う事だな。
決着がついて良かった。 >>290-291
本当に議論に勝ったのなら、そんな言い訳も必要ないのに、何発狂してんの?
菅沼遼太が自演してるって事は否定しないんだな。
何を根拠に自演呼ばわりするのか知らんが、今日の俺の書き込みはこのIDだけだ。嘘だと思うなら、IPでも抜いてみたらいい。
俺が自演と思う根拠は書いてあるのに、
無視して勝手に俺の意見を捏造して、反論したつもりのバカw
脳内論破おめでとう! >292
は?
それならなんでお前は相手の複数IDを自演呼ばわりしてるんだ?
自分の複数IDは自演じゃなくて
相手の複数IDは自演とか馬鹿も大概にしとけよ >>292
つまりお前が負けたからこそ>>292や>>288みたいな書き込みが必要ってことか。
お疲れさん。
ついでにお前のいう「自演と思う根拠」って全く根拠になってないわな。 >>293-294
レスは1つにまとめろよこの荒らしが。
俺を論破した奴と間違えてるのか。ほんとバカだな。
悔しかったら、論破した奴を土下座して呼び戻せよw >>295
議論で勝てないからってこうやってグダグダ自演して逃げ回るのはみっともないな >>296
議論に勝てず逃げ回るのは、いつもお前がやってる事だろ。
ブーメラン乙w
>>297
単発IDでそんな書き込み、不自然すぎるだろ。頭悪すぎ。 >>298
そもそも愛知県史資料編より
『十一月四日 羽柴秀吉、本願寺顕如に、織田信雄・徳川家康への取り成しを依頼する』
って書いてあるんだから
お前の負けだろ。
単発IDなんてお前の得意技だし。 >>299
それのどこが俺の負けになるんだよw
お前にしか分からん脳内の菅沼理論を押し付けられても、知らん。
単発IDは、IP切り替えツール使ってる菅沼遼太ほど得意じゃねえよ。 >>300
ID:o15Qh69/はいい加減、メタファー菅沼の勝利を認めろ。
菅沼ほどの土下座の達人ならば、
「土下座なんてただの依頼と終わらない!困ったら土下座!これ我の依頼なり」
という常人とは根本から違う感覚があるのだよ。
土下座に関する話題になった時点で俺たちは負けてた。 議論以前に「土下座した」の問題で終わってしまったからな >>300
愛知県史資料編に 『十一月四日 羽柴秀吉、本願寺顕如に、織田信雄・徳川家康への取り成しを依頼する』
って書いてあるんだから お前の負けだろ。
お前は研究者の解釈に難癖つけてグダグダやってるだけだし。 そうか。
基地外度勝負や面の皮の厚さ勝負で、菅沼遼太に勝てるわけないわな。 >>302
まあそんなものは隠喩法だから全く議論の大筋に関係ないわな
むしろ織田厨が隠喩法すら知らん無知であると証明されただけで。
例えば小説家が「人生はドラマだ」と書いたからって小説家の負けにはならないのと同じ事だよ。 >>303
説明を省きすぎだろ。それで理解できるのはお前だけ。
お前が菅沼遼太で、俺が菅沼遼太じゃないから俺の負けだって言うのなら、
もうそれでいい。
だがは菅沼遼太で、すべての者に勝利するという設定なんだろう。 皆が愛知県史資料編による「サブタイトル」のレベルが低いという議論をしているのに、
菅沼だけが、
「研究者様の直訳だ!」(サブタイトルは直訳じゃない)
「研究者様の解釈は絶対正義!」(幼稚園児の主張)
「依頼=土下座は隠喩」(狂人の主張)
という皆より3段以上次元が低い主張を繰り返している。
もう勝者という事でいいから、しばらく議論から抜けてくれないかな? >>306
いやいやお前が研究者の主張を歪曲して曲解しようとしてるだけだから
その説明だけで事足りるでしょ。 >>308
そりゃ普通に考えて素人の歪曲解釈よりも研究者や学者の訳や解釈の方が正しいでしょ >>305
この板にはきみのお母さんはいないんだよ菅沼遼太くん。他人の好意的解釈に100%甘えられる前提で、そんな偉そうな態度をとられては困る。
レトリックだのメタファだの言うなら、最初に「土下座なんかしていないじゃないか」と言われた時に「比喩的表現だ」と言えばよかったんじゃないか?
菅沼くんが「土下座したようなもの」にニュアンスを変えたのは1日たってからだったね。つまり菅沼くんはこの最初の時点ではレトやメタなんて考えてもいなかったんだよ。
「秀吉が本願寺に仲介を依頼した」これが菅沼くんには「秀吉が本願寺に土下座した」に見える。
それは仕方ないかもしれないけど他人にはわからないんだよ。
だからせめて指摘があった時ぐらいは自分の解釈をちゃんと説明してくださいよ。
それが出来ないんなら「菅沼遼太」というコテを付けてください。そうすれば「ああ、この人の発言はかなりの好意的解釈をもって補完してあげなければいけないんだな」という共通認識の元に話ができるかもしれない。
はっきり言うと菅沼遼太くんの文章は誰にも通用しない独り言のようなものになっているよ。
(長いので要約)
「菅沼くん、また一次選考で落ちて荒れてるの?」 >>311
そんなに一生懸命長文書いて君は何と戦っているのか知らないけど
上にもある通り隠喩的表現に一々注釈や説明をつけるような野暮な小説家もテレビ演出家もいないよ
君はバラエティーもドラマも小説も見ないのかい? 311は、まだ、まともな指摘が通じる相手だと思っている奴が居るのか。
菅沼遼太って連呼してる奴、ちょっと頭が固いというか悪いな。 訂正
311は、まだ、305の事を「まともな指摘が通じる相手」だと思っているのか。 >>314
からかっているように見えなかったらわたしが悪いな。 >>315
笑う場所がどこにも無いな。
あえて言うなら、
むしろお母さんとか独り言とか一次選考とか、
変なニート臭がするくらい。
これが自虐ならユーモア感じるけど、他虐だから普通な感じだぞ。 >>316
そうか。菅沼くんがきみの言葉を読むことがあったら泣いて喜ぶだろうな。 >>317
普通の奴じゃないから、そんな普通の行動はしないんだよ。 >>318
信じてあげようよ。きっといつかレトったりメタファったりせずに自説を語れるようになるよ菅沼遼太くんも。わたしは信じているよ。 >>318
俺も含めて、菅沼遼太の言動がさっぱり理解出来ない奴が多い中、
お前はずいぶん菅沼遼太に詳しいな。
これからは主にお前が相手してくれよ(菅沼的土下座)
>>319
そうだな。菅沼遼太に、反省するだけの知能があれば、
いつかは分かってくれるんじゃねえか? 秀吉と家康が一対一で戦えば小柄な秀吉よりもちゃんと武芸を習っている家康の方が強そうだね 在日だったら、議論拒否して自説をゴリ押ししても仕方ないのか?
んなわけないだろ。 小牧長久手って名前は有名だけど、
家康が秀吉に勝って池田父子と森長可が討ち死にしたぐらいしか知らない。 >>322
その論理に従えば、五体満足の東条英機は車椅子身障者のルーズベルトに楽勝だ。
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「ラスベガス費巣パニッ苦ドナルド(チャイニーズタイ)ヒ素・水車自動車芸能ショナイ業務ニュース 信雄が秀吉に降って大義名分がなくなったから引き揚げたってのも
よくわからん話だな。
大義名分なんてきっかけに過ぎず戦いが始まればもうどうでもいいことだろう。 徳川の兵だけじゃ少なすぎるし信雄領にはもういられないのに何がよく分からんのだ ☆ 日本の核武装は早急に必須です。総務省の、『憲法改正国民投票法』、
でググってみてください。現在、衆参の両議員のそれぞれで、改憲議員が
3分の2を超えています。私たち日本人の、日本国憲法を改正しましょう。
憲法改正国民投票法、でググってみてください。お願い致します。☆☆ 取りなしを依頼しただけで土下座になるならみんな土下座しまくってることになるな そもそも秀吉の小隊の一部を追い払っただけで勝ったとか本当、、、
弱い犬ほどよく吠える典型
あのまま秀吉側が本気で壊滅させようと躍起になったら丸ごと消滅させられるのは馬鹿でも分かる
戦闘力が違い過ぎる
兵力に差がありすぎて楽観視してたところへ少し抵抗して、勝ったとか何故そんなに浅はかでレベルの低い解釈しかできんのだ
弱い奴が強い奴に一言言い返しただけでまるで勝ったかのように振る舞う小者そのもの まぁ秀吉は戦強いからねぇ
長久手は色んな事情があった
そもそも信が優勢なら秀に和睦しない
和睦する方は負けてる側
捏造やめようね
家じゃ秀に勝てる訳がない(笑)戦績みても実力差がありすぎる これだけ兵力差があって秀吉が勝てなかった理由がわからない。
長久手の時に本多忠勝を討って家康を追撃しなかったのは何故だ。
尾張から三河岡崎くらいまでは取れただろ 秀吉が朝日を嫁によこしたり大政所を人質によこしたりと
見苦しいまでになりふり構わずで上洛してほしいと泣きついてくるので
家康もついには根負けして臣下に降った、
みたいなニュアンスでたいていの書物には書かれてるけどは
納得できんな。こんな感じ。
http://twtukuru.com/wp-content/uploads/2015/12/7c8784ab074f3b6f6b9aa740ac2d3696.jpg 結局、まことの悲劇は、「我慢出来ない」自己管理を欠如からである 秀吉のプロパガンダ『天正記』は小牧・長久手の戦いに触れていない 信雄って喰わせものなの?うつけなの?深慮遠謀の策士なの?
倒されなかったし歴史をかき乱してくれたし面白いよね >>344
家康にとっては食わせ者、秀吉にとってはうつけだろうね。信長もうつけと思ってたようだ。
行き当たりばったりの行動が多いので、深謀遠慮の士とは真逆だろう。
歴史を引っ掻き回しても、全く自分のプラスにはなってないから、何がやりたかったのか分からない人。 回りが偉大だと凡人はこうなる、と言う見本だぬ。
長生きしたのでそれで満足だろう。 小牧長久手の戦いといえば
史上最大のDQN対決があった
DQN四天王筆頭の森長可vs水野勝成の戦いがあり
森長可の戦死と水野勝成の奉公構えがあった でも徳川の天下取りは頼山陽が指摘してるように小牧長久手が原点だからな
短期的な戦の勝ち負けでは最終的な勝敗は判断できないという典型の合戦だな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています