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織田家最強武将 織田信雄

永禄元年(1558年)、尾張国丹羽郡小折(現在の愛知県江南市)の生駒屋敷で織田信長
の次男として生まれる。12歳の時に、父・信長の北畠家攻略戦の和睦条件として、北畠
具房の養嗣子となり伊勢に乗り込む。しかし北畠一族は信雄を侮り織田家に叛旗を密かに
翻していた。この状況を憂いた信雄はわずか19歳にして畠一族の粛清を決意、これを決行
した(三瀬の変)。更に北畠一族の手下と成り下がっていた補佐役・津田一安を粛清、
この英断により、北畠信意(信雄)の勇名は織田家家中に轟き、皆震え上がったという。

その後、数々の戦場で勇名を馳せた信雄は、21歳にして魑魅魍魎の跋扈する伊賀国への第1次
伊賀国攻めの総司令官に自ら就任、見事にこの威力偵察を成功させた。これは信孝の四国攻め
総司令官就任より3年も早く、2人の地位の違いがうかがえる。この時、更に、重臣で伊賀国人に
内通し私腹を肥やしていたと思われる柘植保重の暗殺にも成功している。(但し、この第1次伊賀国
攻めは信長による秘密任務であった為、表向きは叱責処分となった。)その後、第2次伊賀国攻めは
当然の如く成功し、大和・伊賀・伊勢の武将は信雄が完全に掌握したため、織田家の諸将は
その武功に震え上がったという。

本能寺の変に際して信雄は近江国甲賀郡土山まで進軍したため、明智光秀は震え上がり、
主力のほとんどを安土城防衛に振り向けたが信雄はこれを粉砕、主力を失った光秀は
劣勢のまま山崎の戦いに臨み、滅びて行った。

清州会議では信雄は織田家筆頭の地位にあったがあえて沈黙し、織田家当主を三法師、
後見役を信孝に譲り、大器であることを証明して見せた。この威光に織田家家臣は
ひれ伏し、本拠地尾張が信雄に献上され、若くして伊勢、伊賀、尾張100万石の
長老格として遇された。

その後、賤ヶ岳の戦いでは織田信孝を誅殺、小牧長久手の戦いでは重臣の津川義冬・岡田
重孝・浅井長時を誅殺するなど、正義の番人として振る舞い、常人なら躊躇するその英断に
織田家の諸将は「三介殿(信雄)のなさる事よ」と心底震え上がったという。その後も、秀吉の
転封命令には、家臣とその家族の為に断固として断り、自ら領地を天下泰平の為返上したという。

その後は関東、四国、奥州を視察し、その深遠なる見聞についに秀吉もひれ伏し、
三顧の礼で秀吉の師として栄えある御伽衆に迎えられた。

その後、関ヶ原の戦い、大阪の陣では、自身の兵団の圧倒的な戦闘力を抑えきった為、
徳川家康に感謝されその子孫は代々織田家筆頭として恐れ敬われたという。

本能寺の変から大阪夏の陣にかけて、信雄の行動が一つでも間違えば、戦国時代が
終わることは無かっただろう。寛永7年4月30日(1630年6月10日)死去。

人物
・伊勢国河合において、杉を無断で切った家臣を許さず、追っ手を差し向けて誅殺したという話がある。
・信雄は家臣の処刑だけでなく能にも秀でていたという。