信長・秀吉・家康 三英傑について語ろう
三英傑について天下人としての器量、比較、生涯、雑談何でも語り合いましょう >>94
信長が手こずった朝倉相手にわずか5000の兵力で殲滅って
家康そうとう凄いな。 家康は信長よりもずっと厳しい条件下で少ない兵力で敢闘してきたからね
これは名将にしかなせない芸当 戦に弱い秀吉が木綿藤吉郎とか呼ばれて重宝されるのだから、織田家はそうとう弱いな。
戦の強さは、
家康>>>>>>>>>秀吉>>信長 織田家は実力主義とは程遠い尾張系譜代&一門優遇の身内社会だよ
尾張系以外で指揮官クラスや重臣クラスに採用されてるのは荒木と明智だけ。
また信長の嫡男の叔父という地位にあった原田があっさり大坂方面軍総司令官に抜擢されてるし
池田や丹羽や木下も信長の乳母や信長の親戚の家系。
その荒木や明智も本願寺攻めや四国政策・中国政策の家中の方針決め&主将決めの争いでは
あっさり尾張系の佐久間や羽柴を優先するなど、尾張系譜代に甘いのが織田だった。
元亀期に近江の宿将に抜擢された中川重政は信長の親戚
信長親戚の津田信澄や織田信包もそれなりに重きを成してる。 確かに秀吉程兵力と物資と敵の寝返りというチート幸運に恵まれながら部下を殺されまくった武将もそうそういない。
これはヤバいくらい天才だな いくら指揮・采配能力が桁外れに違っても数でごり押しすれば勝てるのが戦。
しかし秀吉はどれだけ国力や兵力が大きかろうが敵の家臣がどれだけ秀吉方に寝返ろうが
本人の指揮能力や采配能力が糞すぎて雑魚の信雄や輝元や家康には到底敵わないため 数でごり押ししても雑魚の信雄や輝元に全く勝てなかったり
防衛戦ですら家臣を殺されまくるほどの雑魚だったが
土下座能力はチートだったので信雄対策には顕如に必死に土下座して取り成しやってもらって強制的に和睦を結び
家康対策には重臣等を篭絡しまくり母や妹を差し出したり関八州260万石と秀吉外戚の地位を土下座して差し出す事で
慈悲深く、寛容で大儀名分を重んじる家康は、秀吉への牙を収めてやる事にした。 つまり秀吉の前では、家康も、顕如も、信雄も、みんな土下座だったってことか。
天下人かつ唯一国外遠征した天才だもんな。凄い。 徳川家康は歴史上最低の人格破綻者、不義・不忠・不仁・不孝といいとこなし
西郷さんはなんで徳川殲滅をしなかったのか大きな謎 秀吉は信雄に顕如に土下座して和睦仲介してもらってやっと和議までこぎつけたし
家康に関東250万石とチート官位と五大老の地位と母や妹まで差し出して土下座したじゃん
秀吉と家康や信雄なんて国力差でいえば15倍程度あるからどんな雑魚が兵を率いても勝てる条件なのに情けなさすぎる
家康なんて水野石川木曽小笠原真田が寝返ってゴミみたいな国力しかないんだから
秀吉がまともな指揮能力があれば1週間程度で平定してる 秀吉は中国でいえば劉邦、司馬炎、煬帝みたいなもんだな
イギリスの ジョン王ともにてなくもない 結局それが原因で家康は大版図と秀吉縁戚の地位を得る事となり
豊臣家を楽に継承したんだろ。秀吉が雑魚の信雄や家康に135000の大軍をもってしても自力で歯が立たなかったから普通に豊臣家は滅ぼされただけ。 >>110
秀吉の国外遠征といっても秀吉は兵も率いてないし
準備も小西・石田・長束ら優秀な奉行衆がやった事で本人はほとんど何もやってないけどな
伏見で茶々と遊んでただけだし。 海外遠征で勝ちまくるほど優秀な幕僚を育てた秀吉は凄いってことか。
最強のリーダーだな。 石田小西大谷らが生まれつき優秀だったおかげで朝鮮攻めがうまくいっただけだろ
秀秋とか鍋島とか島津とか毛利とか長宗我部とか秀吉が育てたわけじゃないけど朝鮮じゃ勝ちまくってるし
朝鮮が弱いだけ 石田や小西が生まれついての奸臣だったために偽講和を仕掛けられて
勝ちまくっていたはずの朝鮮出兵が失敗に終わったんだよな
いくら島津や加藤が獅子奮迅の活躍をしても奸臣の謀略の前にはどうすることもできなかった
秀吉は部下を見る目がなく間違った人間ばかりを官僚に選んでしまったことが豊臣崩壊の原因だろう >>118
その後の歴史を見ると石田や小西が忠臣だったことが明らかになるんだよな。
秀吉の部下を見出す力は、もう天才的としか言いようが無い。 文禄・慶長の役後の小西行長は、疲れ切って惰性で生きているとしか思えない 関ケ原の時の小西は朝鮮で戦った直轄精鋭軍を
本国宇土に置いたままで大坂城兵力を借りて戦いながら
あの健闘ぶりは異常。
ドタバタ編成での指揮でも手足の如くやれるのは名将の証し。
清正は家康の顔色を窺い、警戒され上洛を拒否られ最高の活躍の場を失うなど
到底名将とは言えん。 >>120
奸臣の家康・福島・加藤・池田・藤堂・黒田・細川・田中・小早川・朽木・脇坂を重用して
関ヶ原の戦局を決定できるほどの戦力を与えたんだから秀吉の人を見る能力は無きに等しいと言っていいだろ
人を見る目があれば石田や小西・大谷、宇喜多ら頼りになる忠臣に100万石以上与えて、彼らで豊臣家を守れる戦力を与えてる >>123
関ヶ原で行長が、特筆した戦闘をしたという記述はないよ >>123
奸臣の石田・小西・大谷・宇喜多が謀反を起こして秀頼を監禁した時に
妻子を人質に取られても命がけで奸臣討伐をしたのだから
家康・福島・加藤・池田・藤堂・黒田・細川・田中・小早川・朽木・脇坂は忠臣の鑑だろ
惜しむらくは秀吉が奸臣の謀略に甘すぎたことだ
関白の謀反をでっちあげたり偽講和を結ぶような連中を処罰もせずに野放しにすれば暴走の一途をたどり
いくら家康たちが有能で忠義に厚くても豊臣政権を維持することは不可能だった >>125
もういい加減にしろ!長文コピペ荒らしするぞ?長文コピペ荒らしするぞ? そもそも家康には天下を取る気などなかった
ただ石田ら奸臣たちが他の大老を讒言で操り徳川と潰し合わせようという謀略を阻止し
天下を泰平にしたいだけだったのに
奸臣たちが豊臣を乗っ取ろうと暴走を繰り返し遂には自ら謀反を起こしたため
家康は豊臣政権による天下泰平の構築が不可能になり新政権を立ち上げざるをえなくなった
石田のせいで家康は天下人になるように追い込まれた 自民党、グッジョブですわ。
http://www.soumu.go.jp/senkyo/kokumin_touhyou/index.html
☆ 日本国民の皆様方、2016年7月の『第24回 参議院選挙』で、改憲の参議院議員が
3分の2以上を超えると日本国憲法の改正です。皆様方、必ず投票に自ら足を運んでください。
私たちの日本国憲法を絶対に改正しましょう。☆ 信長がいなければ、秀吉も家康も戦国の世で台頭できなかったのだから、一番偉いのは信長。
信長がいなければ、名ばかりの室町幕府を廃絶しようとする者は皆無なので、
形骸化した足利将軍は時の有力者の傀儡として、無意味に延々と続く政教一致の中世停滞社会は温存され、
その内、西洋列強が進出して、国内分裂を利用されて、植民地化が侵攻し、日本に統一政府は永遠に成立せず。
因って、今日の先進国たる日本は存在せず。 江戸時代末期
形骸化した天皇は時の有力者の傀儡として、無意味に延々と続く政教一致の中世停滞社会は温存され(宗門人別改帳)、
その内、西洋列強が進出して、国内分裂を利用されて、植民地化が侵攻し、日本に統一政府は永遠に成立せず。キリッ! >>119
朝鮮人は日本人よりブランド志向強いからね
織田や豊臣や徳川みたいなどこの馬の骨ともわからん出身の奴が
権力を背景にさもしたり顔で家格をもたせるのが気に入らないんだろ
武田みたいな順当ブランドが好きなんだよ察してやれ 時間の流れの中で人もまた変わる良い例
歴史にはよくあるが、時間軸の変位の中で物事も人も変わる事が理解出来ない人間(学者も含めて)が多くて閉口する時がある それは言えるよな。立場によって考え方なんかは
まったく変わる。
結果的に人生を通してみてしまってるから
画一的な評価になって
それぞれの場面に矛盾がでてくる。
三英傑なんて天国と地獄ぐらいの
環境の変化があるのだから
それぞれの場面での行動や対応に
差があって当然。
そういうのを、矛盾とか破たんしてるとか
そういうほうがおかしいなとは思う。 秀吉は四国、九州、関東、東北を制し、朝鮮人征伐まで行った日本史上屈指の英雄。
三河、関ヶ原レベルの家康なんて、お話にならねーよw 秀吉→信雄に135000の大軍で短期決戦しかけて10000人戦死のボロ負け。
家康に土下座して母や妹や関八州250万石とチート官位の5大老職を土下座献上
その結果家まで滅ぼされる
家康→雑魚の秀吉を8000程度で一蹴する。秀吉を大破して豊臣家を滅ぼす。
よって家康>>>>信雄>>>>>>秀吉 家康より弱い信雄でも10分の1程度の兵力で短期決戦で秀吉を大破して
豊臣家は家康に滅ぼされたんだから家康のが圧倒的に上だろ。 秀吉は三成のような奸臣を雇い入れて引っかき回されたのが痛かった
三成が出世すればするほど豊臣は戦に勝てなくなっていったからな このスレにも織田家、特に秀吉の事がお嫌いなザパニーズ(通名・菅何とか)が沸いてたのか
コイツはここのスレタイを
「●●・秀吉・●● ●●●について叩こう」 だと勘違いしてんの?
>本人の指揮能力や采配能力が糞すぎて雑魚の信雄や輝元や家康には到底敵わないため 数でごり押ししても雑魚の信雄や輝元に全く勝てなかったり
>防衛戦ですら家臣を殺されまくるほどの雑魚
……秀吉にしたって別に軍事的才能「だけ」で天下人になったわけじゃなかろうに。
本能寺後、千載一遇の好機をきっちり生かしたり、敵勢力より多く味方を集めたりって、誰でも出来るとマジで思ってるんだ?
総大将が本当に戦下手なら、家康や堀秀政のような戦上手を配下にして彼らを使いこなせばいい。それも才能。
途中段階で何回負けても、最終的に「勢力として」勝ちゃあいいんだよ
ああ、そういう大将は「棚ぼた」扱いか?
叩きやすい軍事以外の要素無視したコイツの屁理屈だと、
信長より強いらしい武田信玄や、秀吉より強らしい織田信雄や、徳川家康より強いらしい北条家は
天下取れて当然なんじゃないの?秀吉程度でも取れるんだから。
あーコイツ、信雄や家康も秀吉叩きに都合がいいから挙げてるだけで、信雄とか毛利とか単体では雑魚呼ばわりしとったわ
Think different? by 2ch.net/bbspink.com 秀吉は防御戦でも醜態さらしてるからね
二重堀合戦では1000そこそこの信雄勢に奇襲食らって楽田陣から見事に敗走させられてるし
熊見川の戦いは上月城の防衛を目的に行われた防御戦だったが見事に失敗して3000人も殺されてるし上月城・神吉城も奪回されて尼子勢をはじめ大量に戦死者出してる
つか山崎合戦とかも光秀方から仕掛けた戦だし陣地も光秀は朝廷を守るため天王山の陣取りを捨てて不利な形で布陣したわけだし防衛戦じゃない。
しずヶ岳だって勝家が攻撃してた中川の拠点守るため出兵しただけだし普通に防御戦だろ。勝家の方から攻めかかってきただけだし秀吉は撤退途中の勝政・盛政を背後から圧倒的大軍で強襲したら
逆襲くらって不破・前田・金森らが兵をひくまで結局均衡くずせない始末だし 秀吉なんて信長が本能寺の変で殺されて光秀が主殺しの汚名を負った隙をついて信長の功積をコソドロしただけじゃん。
そもそも本能寺の変が起きた時点でもう既に誰でも天下統一できるようなヌルゲーしか残ってない。
まあ秀吉は完全に棚ボタだっただけ
毛利軍が秀吉の口から出任せ口述詐欺に見事ひっかかってあれだけの大チャンスに追撃もせず高松を明け渡して退却
普通に考えりゃ熊見川や美作攻防の2の舞で毛利に瞬殺されててもおかしくない状況だったし、秀吉に騙された毛利のアホさ加減と明智軍の兵力分散と
山崎での隘路での迎撃を捨てた恩恵にすぎない
そう考えると秀吉は圧倒的に運がよく、明智は不運だっただけ。何せ摂津の諸侯とか兄弟の契りしてる中川とか
信孝とか丹羽まで秀吉方に参戦して大軍に膨れ上がったのに対して明智は与力格がことごとく不参加、日和見だしな
山崎合戦なんて最初から勝ったようなもんでしょ。池田・高山・中川ら摂津の諸将は
本能寺前時点で秀吉が光秀との政争勝利の結果から秀吉派軍閥だし中川なんて天正8年時点で兄弟の契り結んでるほどで
光秀側は主殺しの汚名背負ったせいで細川・筒井ら与力連中に背かれ信雄・信孝・丹羽ら周辺諸将も基本みんな敵。
ありえないタイミングで信長が光秀に殺されたおかげで棚ボタ的に主殺しの敵打ちの大儀名分手に入れて
それを利用して次々に勝手に味方が増えたし、信長が殺されてから、わずか1日半でその報を知る棚ボタっぷり。
しかも毛利も都合いいタイミングで即座に難航することなく和議に応じてくれたし >>143-144
はいはい、結果論を都合よく曲解しただけの御託はもういいからw
本能寺が起きた時点で誰でも天下統一できるヌルゲー、とか抜かしてる時点で説得力ゼロだっての
誰でも出来るんなら、主筋の信孝や上役の柴田・明智は苦労してねーっつの
本能寺が起きた時点で一番有利だったのは、秀吉じゃなくて明智な >>145
本能寺の変時点でいうと明智は与力がそむいて
直轄領の丹波30万石くらいしか騎下にないから一番ムリゲーな状態
阿辻くらいしか残ってないし
柴田は上杉とにらみ合ってたし
信孝はそもそも兵力8000程度いるかいないかだし 機内の諸侯で明智につきそうな連中なんていないからな
信雄信孝信包信張蒲生池田丹羽羽柴徳川柴田滝川中川蜂谷堀
信長に重用されてた一門や重臣などが、恩人信長を殺した明智につくとか、漫画かよ。
池田は信長の乳母つながりで重用されてたからまずありえんし
高山も秀吉と一緒に中国攻めしてる仲
中川なんて秀吉の舎弟だし 織田家主君を殺した光秀に同心する連中なんて
明智のように信長に殺意と逆心を持ってる輩だけだろ。
しかし同盟者の徳川すら明智に同心しなかったように
織田家に不満はあっても信長を殺そうとか
明智に同心しようなんて人間は皆無だった。
秀吉がいなかろうが柴田がいなかろうが
いずれは織田討伐軍を信雄信孝信包信張蜂谷らが構築して
明智はあっという間に殺されるのは目に見えてる。
明智は主殺しの戦を行ったため、士気が非常に低く、脱走や寝返りが相次いだが
羽柴は主殺しを討つ格好の名分を棚ボタ的に獲得できたため
次々に味方を増やす事ができ、ほとんど自分は何もしなくても明智は自壊した。
フロイスの日本史によると
明智方は高山右近が1000の兵とともに門を開き明智を目指して突撃し
高山と併進してきた羽柴方の二将が到着すると明智は戦意喪失し
背を向けて退却しだしたと書いてる。
その後明智は勝竜寺城に戦う事なく敗走し
その後こっそり夜をしのんで坂本に帰る途中に殺されたと書いていて
山崎合戦自体がなかったとされてる。
最初から明智軍は戦意0で崩壊状態だったようだな。 本能寺の変直後の秀吉が、この馬鹿チョンの言うような棚ボタ頼みの凡将だったなら、
口から出任せ後述詐欺() なんか通用するわけないだろ無能。仮に出来ても短時間じゃ無理。
この馬鹿チョンは、毛利をわざと過小評価する事でごまかしてるけどな
本能寺時点の秀吉の置かれた状況は、
短期(日限:毛利に本能寺バレまで)に毛利と講和出来なきゃ、高松で立ち往生。
織田家軍団長クラスが誰も動けない持間が長いほど、明智は畿内の旧織田系武将を配下に取り込める。
その後、膨れ上がった明智の大軍と毛利の挟み撃ちで滅亡。
織田家中国方面軍軍団長が、本当に凡将以下ならこうなるんだよ <<145
本能寺の変時点でいうと秀吉は直轄領が播磨但馬因幡備前美作備中伯耆近江長浜讃岐淡路と200万石前後あるから一番有利でしょ
おまけに毛利も都合よく和議に応じてくれたし
本能寺の変報がわずか1日半で250キロ離れた京から届く超絶幸運に見舞われてるし
光秀が主君の信長を殺してくれたおかげで、織田家の諸侯も主殺しをうつ名分もった秀吉に対して
逆臣を打つ事に協力してくれたし >>149
結局毛利がヘタレすぎたおかげで助かったんだろ>秀吉
普通の大名だったら秀吉を討ち滅ぼして天下に号令を唱えてるよ。 >>149
毛利は大友と同時に戦ってたから苦しかったんだろうね
信長は大友と島津を和睦させて大友を対毛利戦に動員する外交を展開してたし 毛利がサルをやっつけて明智の天下になっても
家康が結局小牧長久手で明智に勝てば
日本史は同じ流れになったかもしれんなぁ。 毛利がサルを倒したらおそらく柴田と徳川と毛利と織田の4強の争いになるだけだろ
明智は信長を殺した逆臣の汚名背負ってるから柴田や旧織田系の大部分は敵に回す事になるからまず無理
史実通り家康が天下統一じゃね 当時は逆臣ぐらい当たり前だから
一瞬京を抑えた明智が朝廷から庇護を
受けるかもしれない。
でも家康が明智倒せば織徳同盟は
継続で、そしたら秀吉と同じようにして
家康は尾張美濃は手中にできそう。
とするともっと簡単に徳川の世ができてて
首都は名古屋で名古屋五輪も開催されてたろう。 >>156
主君を殺した逆臣は、主君がよほど家臣たちに恨まれていない限り
同じ家に仕えていた者からは逆賊扱いになる。
恩を受けた主君を殺した家臣を、同じ家に仕えて恩を受けていた家臣が許すはずがない
ましてや織田一門の信雄信孝信張信包信澄や娘婿の中川、丹羽 乳母兄弟の池田などは
まっさきに明智を殺しにかかるだろう。
ハッキリいって明智は秀吉がこようとこなかろうと
信長を殺した時点で死ぬ事が確定してる
信長を殺した明智につくという事は
信長に反旗を翻すのと同じ事。
信長によほど恨みを持っていない限りはありえない >>156
イメージでそういう事をよくいう奴がいるが、主君を殺した家臣に、同じ家に仕えていた家臣たちがつくなどという事は
主君がよほど暴君でない限りはまずない
暴君でもまずなかなかつかないだろうがな >>157
真っ先に、というけどそれは感情的理屈であって
実際に誰も行動していない。
明智は実際に朝廷懐柔に行動してるし
口と頭で「許さん」としたって、それは何の意味も
ないよ、ということね。 >>158
別に織田家臣が明智につくなんて誰も言ってないが
朝廷から、京都治安維持、の命でも受けたら
今度はその明智に刃向うのが「逆臣」みたいな構図にはなる。
そうなったら弱小家臣たちはますます兵は離れるかもしれないし
一般の兵からしたら「主君のかたき討ち」というのも
理想論であって「真っ先に」なんてのはそれこそお花畑。
丹羽、信孝や滝川、日和見系たちがどう行動したかを
確認したほうがいいとは思う。 ついでだが、秀吉はともかく
家康が迅速に行動したのは
同盟とか忠義ではなく
安土と明智の莫大な財産目当てだったろう。
所領は嫡男がいるからすぐには接収できないが
財産なら強奪すればなんとでもなる。
実際に秀吉は信長葬儀で異常な寄進をして
これは寺社、朝廷への献金でもあったと思われる。
信長や明智の京での破壊活動に対して
すまんかったね、という感じ。
直後に朝廷に取り入って関白になったというのも
その結果とも言える。
秀吉はそれまで地方転戦で京には何もコネがない。
馬揃えにも出てないし。
だから、明智、秀吉、家康の行動の背景には
名目の「かたき討ち」以上の目的と
明智を討った後のビジョンがあった。
それは史実通りだし、タラレバだが
徳川の世になってたろう、というのは大方の
共通認識でもあるだろね。 >>159
それは彼らが単に機内に割拠的に存在してたからで時間がたてば自然と織田一門の信雄信孝信張信包の元に集まって明智討伐を行うのは目に見えてる
>>160
信孝も丹羽も単に自前の兵力が足りなさ過ぎた
滝川は関東で北条と交戦してて明智討伐に向かえなかったというだけで、時間は経過すれば自然と明智討伐に向かい出すのは目に見えてる
自前の少ない兵力で明智を討ちに向かっても自殺行為だから、彼らは単独では動けなかっただけでしょ
>>161
秀吉は京の長谷川とコネがあったはずだがね。
それと京にコネがないのなら本能寺の変報を変からわずか一日半で得るというのは物理的に秀吉が本能寺の変を仕組んでない限りありえないだろう。 >>159
そもそも恩を受けた主君を殺した家臣に、朝廷が味方するなどという事はありえるのかね?
歴史上主君を殺して家を乗っ取るみたいな事例もなくはないけど
そういうのは大抵前の主君が家臣たちに相当恨まれてない限りはない
織田家の場合、信長に恨みをもった連中は大抵殺されるか追放されるか、ごくわずかな禄高しか与えられないかで
そんな雑魚が明智についたところでほとんど大勢には影響ないと思うが 明智は主殺しの戦を行ったため、士気が非常に低く、脱走や寝返りが相次いだが
羽柴は主殺しを討つ格好の名分を棚ボタ的に獲得できたため
次々に味方を増やす事ができ、ほとんど自分は何もしなくても明智は自壊した。
フロイスの日本史によると
明智方は高山右近が1000の兵とともに門を開き明智を目指して突撃し
高山と併進してきた羽柴方の二将が到着すると明智は戦意喪失し
背を向けて退却しだしたと書いてる。
その後明智は勝竜寺城に戦う事なく敗走し
その後こっそり夜をしのんで坂本に帰る途中に殺されたと書いていて
山崎合戦自体がなかったとされてる。
最初から明智軍は戦意0で崩壊状態だったようだな。 >>162
もちろん家臣たちは討伐したかったろうが
具体的にどうなったかはタラレバだわね。
「時間がたてば」というが、同じことは明智にも言える。
秀吉の京のコネ、というのはその前の
寺社、朝廷に関するということね。 >>163
朝廷は武家の出来事には介入しない。
仲介等は一種のビジネスで自らの意志で
特定の武将に肩入れはしない。
だから「主君を殺した」というのはほぼ関係ない話。
そんなのは下賤な武士たちの日常のやりとりで
朝廷から見たら、バカにこそすれ「だからなんとか」
という価値観を伴った影響などない。
明智が財力でもって朝廷に連絡を取り、すぐに親王もお返事をしてる。
これが信長と姻戚関係にある誠仁親王というのは重要だろう。
そちらの言うように「主君を殺した」という価値観が朝廷にあるなら
子供を猶子に送ってる親王から見たら明智なぞ直接の敵。
自分も攻撃されたし。
それが数日後には親王のみならず天皇まで連絡を取っている。
朝廷が一刻も早く京騒乱を抑えて、強いものにまかれたがった
何よりの証拠だろう。 >>164
それと大事なことは、戦というのはやってみないとわからない
ということ。
結果を知ってるから「目に見えてる」「誰でもそうする」というが
秀吉だって山崎で勝てるかなんて事前にはわからない。
各家臣もかたき討ちはしたいが、信雄と連絡ついたからといって
下手に「かたき討ち実行」したって「絶対に勝てる」とは限らない。
明智討伐、と簡単に言うが、これは「勝てる」前提での話で
そりゃ、「100%勝てる」のなら君の言うように「時間がたてば」「目に見えてる」
けど、そうじゃないから状況が複雑でタラレバになってるわけさ。
よくこういう話になるけど「ヘタレ明智になんて誰だって勝てるに
決まってるだろ、アホか」というようになると、これはゲームの話であって
タラレバにもならない。
雑魚とかこういうのは歴史の話ではないから
レスのしようもないんだけどね。 ついでだが、「主君の敵」というのをすべての基本で
話の根拠にしてるようだが、この時代の有名人は信玄は
親と子とトラブル、信長は弟殺し、家康も嫁長男殺し
とそんな話ばっかり。
朝廷から見たら汚らしい存在だったろうし
末端の家臣も江戸的感覚の忠義なんてありえない。
まずそのあたりから始めないと話が進まない。
その中で光秀は京、朝廷をまず懐柔しようとし
秀吉もまた似た行動をとった。
その意味を踏まえたタラレバにしないと
面白くないんだよね。
まぁ、家康の天下、という結論は同じみたいだから
違う話にするのもいいかもね。 >>168
おやと子のトラブルというのはよくあるけど
子供が親を殺して、同じ家に仕えていた家臣たちが恩を受けた主君を殺した子供などについたりするというのは
おやが相当家臣に恨まれてないとありえない話だが?
信玄も暴君信虎殺さずに追放したし、信長のそれは親に対するものではない。
家康も子供に対するものでおやを殺したわけではない
お前は忠義を江戸期の感覚などと出鱈目な解釈してるが
主君に忠誠を誓っていなければ、死ぬかもしれない戦で命を懸けて戦うなんてできるわけがないんだよ。 そもそも親と子供の話じゃなくて、恩を受けた主君を殺した家臣と、恩を受けた主君を殺されたその家の別の家臣や子供や一門などとの関係の話だからな
普通に考えて恩を受けて取り立ててくれた主君殺されて、殺した人間につくなどというのはもともと主君に恨みもってないとありえないだろ
でもそんな連中はとっくに殺されてるか追放されてるからな >>168
結局、同じ主張点の繰り返しではどうしようもないよね。
誰も、主君殺された信長家臣が光秀につく、なんて
言ってないでしょ。
光秀の一時天下は朝廷との関連で成立するかも、と
言ってるだけなんだ。
それと秀吉なんて織田にめちゃくちゃ恩があると思うけど
織田家をどうしたかは知ってるよね。
光秀討った後、自分は一生信長嫡男の家臣でいればいいのに
そうしなかった。
これは特例でもあるだろうからすべての根拠にはしないけど
とりあえず「主君に忠誠」というのがどのぐらい戦国においては軽い話か
という根拠にはなる。
江戸的感覚の忠義、とはまた違うという話だから
ここでも読み違えられても困るしね。 話変わるが、天国で15年待った信長は秀吉に
「おみゃ〜なに調子こいとるがや」と言ったろうけど
そっからさらに15年、家康には「よ〜がんばったなも」と
理解を示したかもしれん。
秀吉は信長を前にしては家康に何も言えないけど
後で「厠の裏へ来てちょぉ、クソダヌキ」と言ったろうなぁ。 >>171
秀吉が恩があるのは織田家というより信長だろう。
信長に恩がある秀吉が、信長を殺した明智光秀を倒そうとしたから、
同じく信長に恩のある武将や、信長に娘婿の武将、信長の乳兄弟の武将、信長の一門など(具体的には池田蜂谷中川丹羽高山信孝信雄信包信張蒲生堀など)が
秀吉に味方した。
そして信長を殺した明智という、敵を討ったので、信長から恩を受けたり信長の娘婿や一門の武将は自然と秀吉の軍団の中に組み入れられた。 藤田達生 秀吉神話をくつがえす より P169−172
天正10年9/18と9/20において行われた秀吉と丹羽長秀との会談において秀吉が養子としていた織田信長5男秀勝を施主として
10/15に信長の葬儀を挙行するという決定した
これは長秀が軍勢を率いて近江坂本城から上洛し 堀や長谷川も交えての会談で決定したものである
会談翌日の9/21には秀吉自ら「信長御仏事」のために同寺に向かった。
これは信雄・信孝をないがしろにするものであり
彼らに大きな衝撃を与えた。
秀吉は丹羽長秀の三男仙丸を実弟秀長の養子にして羽柴ー丹羽体制の構築を測った。
秀吉はかねてより入魂だった摂津衆の池田・中川・高山に加えて筒井ら大和衆、三好康長に加え、若江三人衆といわれた池田教正・多羅尾綱知・野間康久らの河内衆から人質を取って陣営内に取り込み、軍事再編を行った。
1582年時点でも秀吉に領分介入されたり、転封命令出されたりしてるのが池田
清州会議では秀信が織田の後継者と決まり秀吉はその後見になってる
さらに池田は秀吉の転封命令も、前年の1583年に聞き入れて摂津を召上げられて土田舎美濃に移動してるし
天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。 >>173
反論とかじゃないけど、秀吉の軍団に組み入れられた
というのには注意が必要だろね。
その時点で信雄、信孝が「サル、大義、以後も
織田家のために尽くすように」としたら逆らうことは
できないだろう。
でも、秀吉が「織田家じゃないがや、信長さまに尽くしただけだがや」
と考えていたからこそ、後の葬儀での嫡男二人をないがしろにしたり
そういう行動をとった。
だからこそ、戦国の忠義なんてそんなに簡単になんでも説明できるものでもない
という話だったのだけど、これは終わった話として
信長に恩を受けたり一門の武将は、その後の秀吉の行動を
どう思ったか、なんだよね。
秀吉は「信長だけ」と思ってても娘婿たちは「織田家に組み込まれていた」
わけでしょう。一門の武将も。
だから、そのあたりが皆秀吉についた、というのもこれまた「信長の
かたき討ちしたから」とそれだけでは説明できないものがある。
実際に柴田は秀吉につかなかったし、どころか殺し合いになってる、こういう
方が逆に織田家視点では説明できる。
このあたりの秀吉と織田一門の関係は、史料にある「タテマエ」だけで
判断することは危険だろう。
今は、推測、では学問的には認められないが、この3年だけはありえない
事が起きるから、そのあたりを考えることは大事ではあるだろね。 >>175
信雄も信孝も2人でいがみあってたというのが大きいだろうね
やはり信長を殺した明智を秀吉が討った事が、清州会議後での秀吉優位を確定的にさせてると思う
丹羽だけではなく蒲生・堀・信張・蜂谷・森・池田や信包とかいつの間にか秀吉軍団に編成されてるし
結局だが、信長に恩をうけた子飼い系や譜代系、あるいは一門衆や娘婿、乳兄弟ら、信長に近しい人間からしたら
主君を殺した明智を討ったという事実から、羽柴の元へ参ずる、人質を出してでも配下に入るという事を選ばせたんだろう。
信長の一門や、娘婿、譜代集、子飼い衆らからすれば、信長を殺した人間を討ったという事は、織田家に仕える身という観点からも、
信長に仕えるという観点からも恩人なわけだし。
それで秀吉は丹羽長秀の三男仙丸を実弟秀長の養子にして羽柴ー丹羽体制の構築を測り
秀吉はかねてより入魂だった摂津衆の池田・中川・高山に加えて筒井ら大和衆、三好康長に加え、
若江三人衆といわれた池田教正・多羅尾綱知・野間康久らの河内衆から人質を取って陣営内に取り込み、軍事再編を行ってる
天正10年9/18と9/20において行われた秀吉と丹羽長秀との会談において秀吉が養子としていた織田信長5男秀勝を施主として
10/15に信長の葬儀を挙行するという決定した
その上蒲生や堀や筒井などもいつの間にか取り込んでて
細川とは血判状交わして臣従関係結んでる
結果、秀吉(秀長も京以西から河内まで)が大版図を獲得し領国を形成
(大和一円も貰った筒井も秀吉に入魂になっているなど多数派工作を進めていた)
信雄と信孝が名代を争っていたから、結局、三法師後見役も決めていない。 >>176
話題を限定して、信雄と信孝の名代争いというのは
どうなんだろうねぇ。
二人が最初から不和で、織田家安定のために
その孫にした、というのは気配りのようでさらなる不和を
煽ったという面もあるだろう。
葬儀を相談せず、三法師後見も決めず、忠義の家臣としては
「何もしない」ということは実は「不忠」でもある。
秀吉史観では、息子二人の不和で危機になった織田家を
秀吉が後見、ということなんだが、これがそのまま史実として
採用されているようなのは不思議なぐらい。
信孝に切腹命令を出したのは信雄なんだが、秀吉の力をすれば
止めることだってできた。
結局信雄をずっと面倒見るわけだが、最後の処罰を見ると
これが秀吉の本性であるのは明確だとは思うんだが。
信長の死の直後は秀吉配下に入るのが戦国のベストの選択ではあったろうが、
それと織田家への恩とはまた違う話だろう。
信孝切腹、柴田との戦闘、こういうのを一門集はどう思って見ていたか。
そういや、柴田が秀吉との戦闘回避のために出した書状というのが
数年前に見つかってたね。回避とまでいうとなんだが
柴田はまず秀吉との一戦ありきではなかった雰囲気もある。
このあたりは解釈次第でどっちにも取れてはしまうのだけどね。 信長=董卓=スッラ
秀吉=曹操=カエサル
家康=司馬懿=アウグストゥス 秀吉についてお聞きしたいのですが、
藤原姓を名乗っていたのは1586〜1587年で
合っていますか? 1585,7,11に近衛の猶子になって
1586,9,9に豊臣下賜されてるから
1年ずれてね? >>180
あ、本当だ
ご指摘&レスありがとうございました >>181
ちょと細かいが、太政大臣になった1586,12,19
という説もあるんだが、まぁ年は一緒だわね。
それと藤原氏ではなくなったんだが
藤氏長者の権限は掌握したままだった。
これは覚えておくと参考になるよ。 >>178
信長はグラックス
秀吉はジョン王、司馬炎、煬帝
じゃね >>182
藤氏長者って源氏長者とどっちが上なん? >>184
別にどっちが、上、という問題でもないけど
「上」の定義によるわいな。
位階、ということだと、その時点での各長者による
という答えになるわいね。
それと江戸期の将軍=源氏長者はちょっとまた違う意味合いだしなあ。 >>185
江戸の源氏長者はどういう意味があるの? 将軍の世襲制になって、氏の長者としての意味が
薄れたというか。 >>187
なるほど、戦国期は長者の権威はあったけど、江戸時代に長者の権威は薄くなったんですね。
所で、源氏や藤原以外に長者はいるの?
平家の長者とかは、戦国期はどの大名がやってたの? >>188
い、いや平安以降の伝統としての
長者の意味あいということね。
徳川が例外的では或るんだが
こっちが強力だから逆に考えると
本来の意味合いが理解できなくなる、というか。
もちろん橘や平にもいたよ。
で、戦国期、とかそういう分け方自体が
現代の歴史区分であって、ある存在の本質は
それでは分割して語れない。
平は基本的には北条家が氏になってる。
また、大名だから、じゃなくて
位階の最高位、だからそのあたりも
説明がいるとこなのだけどね。 >>189
なるほど、所で今川は源氏なの?室町時代の御三家なのに。
じゃあ、もし北条の官位が太政大臣まで行って、幕府開いたら平氏幕府になるの?
徳川って元は松平ですよね?松平は元は源氏じゃないの? >>190
今川家は源氏。室町の御三家とはどういう意味?
太政大臣は官位じゃなくて官職ね。
別に幕府開く要件が太政大臣ということもないけど
征夷大将軍になって武家政権を確立したら
平氏政権ということになるね。
三河の地元豪族の松平の源氏は私称。
家康が徳川改姓を朝廷にお願いしたときに
「源氏はダメ、藤原家で」ということになってる。
でも、どっちみち徳川が「源氏」というのも
自称だから、その時期は複雑だし公式に
将軍宣下は「源氏で」もらってるけど
まぁ、後からのこじつけだわね。 >>191
すいません、御三家じゃなくて、足利の養子に出せる家の順で、吉良→今川ってのを見たので、御三家みたいと思ってしまいました。 色々教えていただきありがとうございますm(__)m
所で物凄く疑問なのですが、何故に徳川は、自らの姓を源氏に変えたんでしょうか?やっぱり 平氏や藤原だと朝廷が幕府を認めてくれないのでしょうかね?
源氏は 鎌倉から室町とか源氏だったので、徳川も源氏に姓を改変する事で幕府を開きやすくしたんでしょうかね >>192
幕府は朝廷が征夷大将軍に任命すれば
鎌倉以降の慣例として成立するということでしょうから
平氏は十分にあったでしょうね。
というか信長は将軍推認受けてるからほぼ現実化してる
とは言える。まぁ信長が平氏か、というのは別の話だけど。
藤原幕府、とは考えたことなかったけど
もしそういう強いのが現れてたら
公武一体国家として成立してたかもね。
ただ、藤原家というのは歴史的に「武力」を自ら持たない
方向だったから、現実化はどうだったかな。
近衛前久は少し可能性あったかな・・
家康が源氏を欲しがったのは、あの時点では武家の棟梁が
源氏だったから、でしょうね。
大事なのは家康がトップになって、徳川の祖を
新田にもってきたこと。
これは鎌倉室町ー武家の棟梁の祖が八幡太郎義家、
その孫の義康が足利の祖でさらにその「お兄さん」の
義重ー新田の祖、に徳川を結びつけた。
つまり、足利より上じゃ、ということね。
もちろん足利の方が新田よりはるかに存在感はあるけど
いつの世でも「お兄さん」は弟よりもいばってる、と、単に
先に生まれただけでもね、そういうこと。
あと、どうして「武家政権を目指したか」「源氏を欲しがったか」だけど
これは秀吉政権が関白政権だから、それとの差別化というのが
一番わかりやすいかもしれない。 >>193
なるほど、良く分かりましたけど、家康さんが源氏名乗る理由はわかったけど、正当な源氏直径である、武田や佐竹は面白く無いんじゃないですかね?
新田義貞系統の源氏というても端の方なんでしよ?足利さんて、まだ南部さんやら、佐竹さんやら、武田さんやら
木曽さんやらが、おかしくね?って言えば良かったのに
藤原氏は武力持たないですか、秀郷さんカワイソス あと、頼朝って征夷大将軍に任官されたのに、九郎義経には朝廷から官職は貰うなって言うてたとあったりしますが、そもそも武家政権で官職やら官位とか決めてたら朝廷を全否定してる事になると思うんですが >>194
それは単に力関係でしょう。
家康に文句言える人なんていない状態。
武田は宗家が滅んでるし佐竹南部はちょっと
大差。
秀郷は鎮守府将軍になってますね。がんばった。
>>195
武家官位というと、秀吉から始まるのだけどそのことを言ってますか?
一応朝廷に奏上して位階をもらう、と秀吉は朝廷の権威を利用してる。
これは自らの権力の正当性と朝廷の価値を最大に利用してますね。
徳川は、武家の官位は徳川の推挙による、と決めたし
朝廷の定員外で武家を任命する、とか決めたけど
これはちょと細かくて例外的な話になってくる。
基本は位階も官職も朝廷から贈られるもので
勝手に決めてた、ということはないよ。
「なんとかの守」とかは全くの言葉だけで何の意味もないし
武家官位制とは違う話だしね。 お前らつまんねえ話してんじゃねえよ。
そんなことより三英傑の能力比較しようぜ。 >>199
ああ、書き方が悪かったか。
「受領した」じゃなくて「してもらった」だね。
ところで、「これは三職ではなく将軍推任であろう」
と金子が言ってるけどどうだろうね。
晴豊が「将軍〜」で親王は「いかよう」だからね。
不明というよりは「三職なんでもどうぞ」だとは
思うけど。 信秀が尾張一国の主と朝廷も六角も斎藤も今川も認識していたのは、
外交文書をみれば歴然としているのに、
デタラメ吐くなよwww
むしろ尾張の他の誰も外交文書なんて全く出してないしなw
清洲側なんて全く書状すら出してないから存在自体が疑われているレベル。
信長が相続したのは、80万石以上。
尾張国一国+美濃岩村+美濃大垣+三河水野領
信秀が残した外交的遺産は、六角との同盟+道三の後見+今川との同盟+朝廷の絶対的信頼
ここまで御膳立てしてもらいながら、
道三が織田家臣へ愚主信長を見限らないように心配する書状を出していたり、
信長が今川を奇襲して同盟をぶち壊していたり、
織田外交を一手に引き受けていた信長後見役の平手が絶望して自殺。
数々の悪行で尾張国内の結束を自ら破壊して自壊に導き、
今川を恫喝していた後見役の道三が死去するや、英傑な義龍に尾張半国を奪われるほどの馬鹿アスペが信長。
織田軍の残虐行為の証拠隠滅行為から逃れるために
当時の人々が瓦の裏に後世の人々へ、その犯罪行為を告発しているほど
「後世の方はどうか語り伝えて下さい。
5月24日に一揆が起こり、 前田利家が千人を生け捕りにした。
磔、釜茹で、その有様を書き留めておきます。」
またフロイスも日本史において
荒木の謀反の時は、荒木の妻、二人の娘、兄弟、彼女の兄弟姉妹、すべての従兄弟たち、甥、近親ら36人を
市中引き回しの上、斬首(市中引き回しは名誉を重んじるので死ぬことよりも甚だしい恥辱と不面目を信長は与えた)
荒木の城から取っていた貴婦人120名は磔(赤子も母の胸に縛りつけて串刺しにして母親を一層苦しめるやり方をした)
これを見た群集は殺された者が赤の他人であっても肝を潰し幾日も放心状態になる人たちばかりだったほどで、
このまったく罪なき人々に対して前代未聞の過酷さと残虐に京の群集が恐怖したのもつかの間、
今度はさらに残酷で非人道的かつ恐怖を比較にならぬほど煽ったのが、
4つの平屋を作り、そこへ514名が入れられ(380名が女性)外から火をつけられ全員を生きたまま焚殺した。
彼らが発する悲鳴や叫喚の声は、彼らが受けている残忍極まりない苦しみが、京都を恐怖で覆った。
このように荒木のみが受けるべき罰を、多数の無実の人々が受けた。
苦悩の涙と尽きることがない慟哭だけがずっと聞こえてきた。
これが信長のやり方で、異常な暴君以外のなにものでもなかった。
信長は日本史上、唯一の恐怖と虐殺を礎に王朝を築き上げようとした
大陸中国人的専制独裁君主なんだよな。
だから猜疑心が異常に強く、
行き着いた終着駅はカルト宗教の神になって崇拝を強要し権力だけでなく新たな権威を備えようとした挙句に自滅。&#160;
朝廷も異常なまでに恐怖し、家格も前例も段階も踏まずに一気に位階官職を引き上げようとしてるくらい媚びへつらい朝廷存立の危機感を持ってたが、
それすらも拒絶して朝廷秩序の枠外に出てしまった日本史上、唯一の暴君。