【信盛・正勝】佐久間一族を語る2【盛政・盛重】
織田信長の有力家臣として活躍しながらも、
折檻状(偽書の可能性もあり)を突きつけられて追放・客死した「信盛」や、
柴田勝家の右腕・鬼玄蕃として名をなすも、
賤ヶ岳の合戦では敗れ処刑された「盛政」などを中心に、
江戸期には大名や旗本で生き残った佐久間氏一族の興亡を語りましょう。
※今までのまとめは>>2-5の辺り。
武家家伝_佐久間氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sakuma_k.html
佐久間氏 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E6%B0%8F
■過去スレ
織田家家臣団の筆頭格・佐久間信盛
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1157214776/ 佐久間信盛の業績。
・信行謀反時に大多数の譜代が信行についた中、信長に味方した。
・無難に堺接収。
・三方が原に援軍として出向き、損耗を最小限に抑えて、退却。
・長篠の戦いでは武田家に偽りの謀反を打診。勝頼おびき出しに功有り。
・石山包囲戦では指揮官として損害の大きい我攻めを避け、被害を最小限に抑える。
・次第に電波化してきた信長に絶望し、故意に職務怠慢することで、
織田家放逐。諸将に警鐘を鳴らし、光秀謀反を引き出す。 ※信長の折檻状の内容
一、佐久間信盛・信栄親子ともども天王寺に五年間在城しながら何ら功績もあげていない。
世間では不審に思っており、自分にも思い当たることがあり口惜しい思いをしている。
一、何ら功績もあげていない信盛らの気持ちを推し量るに石山本願寺を大敵と考え、
戦もせず、調略もせず、ただ城の守りを堅めておれば、
幾年かもすればゆくゆく信長の威光によって引き下がるであろうという見通しだったのか。
武者道というものはそういうものではない。
勝敗の機を見極め一戦を遂げれば、信長にとっても佐久間親子にとっても本意なことであのに、
一方的な思慮で持久戦に固辞し続けたことは分別もなく浅はかなことである。
一、明智光秀の働きはめざましく天下に面目をほどこし、羽柴秀吉の功労も比類なし。
池田恒興は少禄の身であるが摂津花隈を時間も掛けず攻略し天下に名誉を施した。
これを以て奮起を発し一廉の働きをすべきであろう。
一、柴田勝家もこらの働きを聞いて、越前一国を領有しながら手柄がなくては評判も悪かろうと気遣いし、この春加賀へ侵攻し平定した。
一、武力に不甲斐ない者は謀略などをこらし、相足らぬ所を報告し意見を聞きに来るのに、五年間それすらない。 一、信盛の与力・保田知宗の書状では本願寺に籠もる一揆衆を倒せば他の小城の一揆衆もおおかた退散するであろうろあり、信盛親子も連判している。
今まで一度もそうした報告もないのにこうした書状を送ってくるというのは、自分のくるしい立場をかわすためあれこれ理由を付け言い訳しているのではないか。
一、信盛は家中に於いては特別な待遇を受けている。
三河・尾張・近江・大和・河内・和泉に、根来衆を加えれば紀伊にもと七ヶ国から与力をあたえられている。
これに自身の配下を加えれば、どんな一戦を遂げようともこれほど落ち度を取ることはない。
一、水野信元死後の刈谷を与えておいたので家臣も増えたかと思えばそうではない。
水野の旧臣を追放しておきながら、跡目を新たに設けるでもなく。
結局、追放した水野の旧臣の知行を信盛の直轄としてしまうのは言語道断。
一、山崎の地も同様で信長の声かかりの者まで追放してしまう有様。 これも先の刈谷と同じである。
一、譜代の家臣に知行を加増してやったり与力を与えたり、新規に召し抱えたりしているなら未だいいがそれも無い。
ただ自身の蓄えを肥やすのみであり、天下の面目を失ってしまった。 これは唐・高麗・南蛮の国まで隠れもないことである。
一、先年、朝倉をうち破ったとき、戦機の見通しが悪いとしかったところものともせず、結局自身の正当性を吹聴し、
あまつさえその場を立ち破るに至って信長も面目を失った。
その口程もなくここに在陣し続けていまの働きの程は前代未聞である。 一、甚九郎(信栄)の罪状を書き並べればきりがない。
一、大まかに言えば、第一に欲深く、気むずかしく、良い人を抱えようともしない。
その上、いい加減な働きをすれば、行き着くところ親子共々武者の道を心得ていないからこのような事になる。
一、与力を専ら使役し、他への取り次ぎや戦事にはこの与力で軍役を済まし自身の家臣を使わない。
領地をただ遊ばせ無駄にしている。
一、信盛の与力や家臣たちまで信栄に遠慮している。
自身の思慮を自慢し穏やかなふりをしても綿の中に針を隠し立てたような怖い扱いをするのでこの様になった。
一、信長の代になり30年間奉公し信盛の活躍は比類なしと言われるような働きは一度もない。
一、信長の生涯の内、勝利を失ったのは先年三方が原へ援軍を使わした時で、勝ち負けの習いはあるのは仕方ない。
しかし、家康のこともあり、おくれをとったとしても兄弟・身内やしかるべき譜代衆が討死でもしていれば、
その甲斐あって運良く戦死を免れたと人々も不審には思わなかっただろうに、一人も死者をだしていない。
あまつさえ、もう一人の援軍の将・平手汎秀を見殺しにして平然とした顔をしていることを以てしても、その思慮無きこと紛れもない。
一、こうなればどこかの敵をたいらげ、汚名を濯いだ上帰参するか、どこかで討死するしかない。
一、親子共々頭をまるめ、高野山にでも隠遁し連々と赦しを乞うのが当然であろう。 寛政重修諸家譜の信栄(正勝)の項には
後明智光秀が讒により父信盛とともに高野山にのがる。
信盛死するののち、右府其咎なきことを知て後悔し、
正勝をゆるして城介信忠に附属せしむ。
とある。 >>4
何をもって「正しい」というの?
寛政譜では正勝になってるので、少なくとも子孫からは正勝と
認識されていたことは確認できるよ 『寛政重修諸家譜』では正勝、『佐久間軍記』では信勝らしいが、
「信」の字は追放された時に憚り、外して「正勝」にしたのかな?
代々の通字って程は定着してなかったし。 谷口克広著「織田信長家臣人名事典」より
一般にいう「正勝」に関しては、文書の裏付けがない。
>>10の論理でゆくならば、真田幸村も正しいことになるけど? >>12
信盛の「信」は、信秀か信長からもらったんじゃないかと思う
>>13
だ〜から〜。「正しい」というのは、何を意味するの、って話でしょ
ひとりの人の名乗りが、何か現在の戸籍か住民票のような「正式な」
登録みたいなのがあって、ひとつだけが「正しい」という世界だったの、当時?
違うでしょ?
「今のところ、正勝とする同時代の史料が見つかってない」というだけで「正しくない」
というのは東大史観的な古い定説主義くさい
そもそも書状などでは通称(仮名)を書く場合が多かったので、名乗りが書かれた
史料が出てこないからといって「そう呼ばれていなかった」と結論づけることは
そう簡単にはできない 信長の重臣、林秀貞を「通勝」としてる江戸時代の系図なんて
信用できない。
谷口氏だって「信栄」という署名文書があるからそれを
採ってるんだと思うが。
だいたい父が信盛なのに子が「正勝」っておかしいよ。
たいていは父の一字を貰うものだ。 >>14
信盛から信が付いてるからそうだろうね。
後に許されて帰参してるから、その時に信勝か信栄にしたのかも?
>>15
林通勝は松永家の家臣と混同されたんだっけ?
でも、尾張や美濃の林は伊予の河野氏由来の林という説もあって、
河野の通字が「通」だから、完全には否定出来ないって2chで見た気が。 通字というのは必ずしも絶対的なものではないので、それを根拠に
名前が「正しい」とか「正しくない」というのは無理がある
源氏の嫡流は「義○」だけど、義朝の嫡子は頼朝、その嫡子は頼家
というように、常に同じとは限らない
「正しい」とか「正しくない」ではなくて、史料によっていくつか異なる
名乗りが伝わっているが、なぜかは詳しいことはわからない、ってこと
無理に「どれかひとつの名乗りだけが正しく、残りは正しくない」と
断定しなければならない理由もないし、断定できるほどの根拠もない
「わからない」という保留状態で理解する、ということができない人には
歴史の話は向いてないと思う そもそも何で3つも4つも名前があったりするんだ?
スレチだが >>19
諱を語る
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1174058450/
大して重要なことでもなかったからな>下の名=諱は。
出世魚や源氏名みたいにコロコロ変える。
あと現在でもファーストネームは親しい人だけで、
普段は「名字」や「ニックネーム」や「役職名」で呼ぶでしょうに。 鬼玄蕃佐久間盛政もうちょっと評価されてもいいところ
前田利家が逃走したことで負けたけどそれまではいい活躍だった
それが敗因にされるとはアワレ 秀吉も自分の配下にしようと口説いたんだよね、盛政は 勝家の配下で一番最初に国持になった、しかも二十代でだから、評価が高かったことは間違いない
少なくとも利家や成政よりは高く評価されていたのは疑いない そう。柴田勝家の家臣と書いてあるのは間違い。身分的には信長の直臣 盛政の父の盛次が若いうちに亡くなったので、母方の叔父(伯父)だった
柴田勝家が父親替わりみたいになってくれてたらしいね あれ? 前田利家と佐々成政とあと現地の武将ひとりが信長の目付、監察官で、
佐久間盛政は柴田勝家の部下じゃなかった? >>24>>25
蜂須賀や竹中を秀吉の家臣といってるのと同じ間違いだな。 >>14
ちょっと違うね。
正勝となっているのが、後世のましてや二次史料だけならば、
「わからない」とは言わない。
参考程度に過ぎない。
そもそも学問というものを理解していない文章だよ。 はいはい
チラシの裏にでも「ボクの考えた正しい諱」でも書いとけw 歴史を少しでもかじった人間なら、「今まで見つかっていない」と「存在しない」は同じでは
ないことは当たり前のことだと知っているはず
これまでにも「今まで見つかっていなかった」ものが新たに発見された事例がいくらでもあるわけで
太安万侶にしても武蔵坊弁慶にしても山本勘助にしても前田慶次郎にしても同時代史料がないから
実在しないという人もいたがすべて後に史料が新発見されて実在が確認された
つまり、今まで見つかっていなくても今後未来永劫見つからないと決まってはいないので「わからない」
と保留するのが妥当 道がそれてるし話が細けえ事になってんな
資料や信憑性や歴史を語るにあたって(笑)なんて基本的な事までご丁寧に論議しねえといけねえのか、くだらねえ
ガキや知ったかぶりやニワカはおいといて、その先の話で楽しもうぜ 左京亮信辰という信盛の弟もあまり取り上げられないよね
そこそこ活躍していたみたいだし、子の信重の家系は旗本で続いてるんだけどね >>35
どんなコネで旗本に召し抱えられたんだろ?
血縁関係か、三方原の一件でで徳川と懇意にでもなったのかな? >>33
それは突拍子も無い考えだね。
たとえば上杉謙信は女性である。
という話は「わからない」とするのか?
女性でないという証拠はないけど…。
あと弁慶が実在するって、どこで証明されたのか? 佐久間甚九郎正勝と天海の関係 夜須町と日本の古代
http://9009.teacup.com/cojimagu/bbs/397
>>35-37
正勝が信雄の家来だったから、その時か。
> たとえば上杉謙信は女性である。
> という話は「わからない」とするのか?
寛政譜にそう書いてあるのならな。
まったく話の前提を理解しとらんな。 飯山藩の無嗣はあの当時では仕方ないけど。もっと後の時代なら末期養子もできたのにね。
長沼藩のは大失敗だよなぁ。養子が養家を潰すとかね。せっかく分知して分家してたのも全部無駄になるし。 坂の上の雲に出てくる秋山兄弟の下宿先の元旗本佐久間家はどの系統だろう? 屋敷が麹町だったらしいが、信盛系の家に該当する家はなさそうだな。まあ、寛政期から屋敷が移転してたら別だが >>40
江戸時代にそう認識されていたってだけの話だろ。
同時代の文書にどうあるかが問題。
信長の家老、林秀貞を「通勝」としているような系図類だぞ。
その論理でいくならば「真田幸村」も正しいことにならないか? マイナーだけど奥山盛昭・正之親子も佐久間一族
というか桶狭間で戦死する佐久間大学の子孫
関ケ原で丹羽家の旧臣軍団の一員として西軍について改易されちゃったが、
残っていれば長沼藩なきあとも佐久間系の大名だったのに…
しかしなんでわざわざ改名したのかね?苗字変えなきゃならないほど佐久間盛政とも近くないし
>>46
盛政の妻が大学の娘。つまり盛昭とは義理の兄弟。 米五郎左 木綿藤吉 かかれ柴田にのき佐久間
この唄が流行ったと書いてある書物は何時頃書かれた物ですか? 「柴田勝家です」
「佐久間盛政です」
「森長可です」
「三人合わせて!」
「【鬼】トリオで〜す♪」 信栄は茶会とかにぶらりと現れたりしてて結構、悠々自適に暮らして人生楽しんでそう。 なにしろ佐久間一族で一番子孫が繁栄したのは信盛・信栄の子孫だしな 佐久間は本願寺相手に苦労したが破綻もせずに優秀だよマジで よく思うんだけどさ
たしかに信盛に注目して、キッチリ冷静に公平で平等に評価すれば、信盛の評価は上がると思うよ
でもそういう風に他の武将も丁寧に見ていけば、相対的にまた評価低くなると思うんだよね
おらが村の英雄の地方豪族とかで、その地元だけでクローズアップされてるドマイナーな武将って、みんなその理屈だと思う 佐久間信盛の場合は、信長による機内佐久間軍団の解体、光秀への委任が、
そのまま本能寺につながるからな。 有名な作家が有名な作品で取り上げただけで評価が跳ね上がるから
世間的な評価なんてあんまりあてにならないと思うけどね
よくしらんけど信長公は父の急死をうけて御屋形になったから、その直後はかなりやばかったんじゃね?
そのころ佐久間信盛は相当活躍したと思う よく知らんけど
信長公の叔父とかとの抗争もけっこう激しかったし >>59
「信長代になり、三十年奉公を遂ぐるの内に、佐久間右衛門比類無き働きと申し鳴らし候儀、一度もこれあるまじき事」 >>60
熟年離婚する奥さんが旦那に対して吐きそうな暴言だな・・・。 パワハラ上司から居丈高に
「お前は会社の為に充分に貢献してると思ってるのか!」と言われ、
しかも「充分に貢献してる」と言えない空気の屈辱感は異常。 言われるなりの事をしてるってこった
保身や遊泳術を身につけず、調子に乗るから
上司や他人のせいにしちゃダメ 実際もっとたくさんいたと思うよ
太田牛一も知らないことを書いてるだけだからどこまで事実かもわからん 「おれはムチャな命令をするが、それをうまくこなせないのはお前が無能なので
悪いのはおれじゃなくてお前だ」
中小ブラック企業の社長なんかが言いそうなことだな 本願寺攻め責任者はキツいよな
塙は戦死し光秀も敗走してるし…
摂津責任者の荒木も結局は謀反することになるし
完全に損な役回りだわ。
でも織田の大軍勢を統御できるだけの地位にいたのは佐久間くらいしかいないわな。 光秀は砦作ってて其処に立て篭もっただけで敗走はしてない >>69
つうか元をただせば信長の差配が悪い気がしてならんのだが まぁ本願寺包囲はノイローゼになる可能性ある仕事だよな。
雑賀孫一って100日で505人のソ連兵を射殺したフィンランドのシモ・ヘイヘに匹敵するの? 現代でいえば福島第一原発の担当者にされたようなもんだな
で、1年くらいで鬱になっちゃったら、社長からクビを宣告される、という 本願寺が東と西に分裂したのは佐久間信盛の工作だと信じてる 信長に対して対等同盟顔をしてた水野を信長が潰した際も
佐久間の讒言であり、水野の領地を佐久間が手に入れたみたいだが
明らかに信長が水野が邪魔だったとしか思えないし家康とも暗黙に合意を得てたっぽいし
信盛って信長のために汚名をかぶって忠勤してたように思えるよな。 当時は松平・徳川家より水野家のほうが強かった時代もあったんだよな
で、潰れていったん落ちぶれた水野家だけど家康が神君家康公となるとその母を
輩出した家ということで急に徳川家普代の家臣となった 家臣じゃないのに >>77
秀吉の時代にはすでに徳川の与力大名だぞ?>水野 >>58
司馬は一代記が多いから佐久間は書きにくいだろうな つか信長はあそごまで言うなら途中更迭させれば良かったのに
全てが終わってから駄目出し追放しても仕方ないだろ >>81
だから追放の理由は結局言いがかりだっつーの。
信長公記などの当時の史料を見ても、信盛父子追放については
理解できない、納得できない、という反応が多かったことがわかるよ
それと、信長自身が後に信栄(正勝)を赦して帰参させていることから
しても、追放の正当性には疑問の余地がかなりある
本能寺の黒幕はだれか?というのは人気があるテーマだけど、
信盛追放の真相は?というのも同じくらい謎の多いミステリーだと
思うんだけどなー やっぱ信長公のキレやすさが原因じゃねーかなあー ただ単にキレたんだろ
こういう強引なワンマン社長は日本の社会だとなかなかトップになれない
家康が天下人になったのは運だけじゃあるまい ルールを重んじる日本的なやり方が
独裁者信長より高い支持をえたんだろう それ以前に今まで何も言わなかった癖に全てが終わってから難癖つけて追放とかおかしいだろ
信盛が無能ならそんなのにずっと最強の敵である本願寺を任せたままだった信長も無能だよ 「武篇道ふがひなきにおいては、属託を以って調略をも仕り、相たらはぬ所をば我等にきかせ、
相済ますの処、五ヵ年一度も申越さざるの儀、由断曲事の事」 わざわざageてそんな意見かw
もうすこし考えたら?
むしろ本願寺を抑えつけていただけで評価されてもいいレベル
宗教絡んでるのに調略しろとか無理ゲー過ぎ >>84
信長もう死んでるし、秀吉は信長無視だし
支持とか関係なくね >>86
だから?
ここでの問題は結局最後まで信長が信盛に対して何もしなかった事だろ
ぼさっと信盛から相談されるのを待ってたの信長は? 力を持ち過ぎたことによって追放されたんだよ
このまま行ったら織田家自体を凌駕して
ゆくゆくは関白佐久間家が誕生していたからな 佐久間は織田家内最大軍閥だったからな。
信長直臣の前田や佐々らが目付けとして第二軍閥の柴田は監視されていたが
佐久間を監視してた信長直臣って誰だろ?
明らかにそいつらに讒言されただろ。 徳川の旗本になった佐久間氏の子孫は、信盛の改易は明智光秀の讒言のためだと断定している。 信盛の子孫は旗本として幕末まで続いてるし、盛政の弟たち(安政、勝之)も
小田原まで行ってとことん秀吉に抵抗したのに許されて蒲生のもとで城を
もらってるし、関ヶ原や大坂の役に参戦したとはいえ、家康からは大名に
取り立ててもらってる
今と違って当時佐久間家の武名はかなり評価されていたと考えていいと
思うんだよね まあ明智讒言説については証拠がないから何とも言えんけど
江戸時代にはそういうことをやりかねないキャラクターと
見られていたんだろうなー、ということはわかるよね 江戸時代はまだ織豊系大名の子孫がリアルに生きている時代だから
一番当たり障りがない明智のせいにするのが一番無難だろ。
謀反して死んだ光秀を知った上での後出しジャンケンに近い >>93
そりゃ「信盛がダメダメだから追放されました」とは言えんだろう。
誰かのせいにするのが一番いい。
たとえば本能寺の変のとき脱走した織田有楽の家譜には脱走した
ことは書いてない。都合の悪いことは無視。 つか普通に信長が馬鹿だからじゃ駄目だったのかな?
実際信盛がダメダメだったとしても途中で更迭するなりなんなりと言った事をやらず全てが終わってから難癖つけるってアレ過ぎるしな
しかも対織田勢力では最強といっていい石山本願寺担当だぜ >>97
いや、だから、同時代史料には「なんで信盛追放?えっ?」っていう
反応しかないんだよ
「あー、信盛ねー、あいつは仕方ないな」という反応はない
だから「信盛がダメダメだから」ということを既定の前提にするのはおかしい
当時の人も、後の人もそうは思ってなかった(少なくとも納得はしてなかった)
ことは間違いない リストラは大物のほうが首にしたとき浮くものが多いからなあ〜
だが現代でも大きな恨みを買うリストラだから当時はずいぶんひどいことをすると
思われたろう・・・ 大した内容でもないのにアゲてるのは何なんだ
目立ちたがり? 信盛の隠居じゃなくて、一族追放ってのが荒っぽいな。
>>101
議論が活発な時は上げた方が良い。 そもそも譜代の家臣を主君が一方的に追放するっていう事例じたい
あまり多くないんじゃない?
他にあったっけ、って考えてみてもこれといってすぐ思いつかない
原因については、もしかしたら本願寺が落ちないのは信盛が
裏で内通しているからだ、という讒言があって、しかし証拠が
なかったからそれを理由にできなくてああいう形になった、
ということは考えられないか? >103
当主が強権を発動した例は結構あるぞ
失敗したか混乱して弱体化した例の方が多かったけど 信長の人心掌握術示す墨書、城郭石材に…最古
読売新聞 6月9日(木)9時24分配信
愛知県小牧市教委は8日、織田信長が1563年に築城した同市の小牧山城で、城郭の石に書かれた墨書として日本最古の石材が見つかったと発表した。
本丸北西側の斜面で、堆積岩の一種(縦60センチ、横35センチ、高さ20センチ、重さ93・5キロ)の石材に、縦書きで「佐久間」と書かれていた。
城郭の墨書は、信長が1576年に築城を始めた安土城のものが最古とされていた。
市教委によると、「佐久間」は信長が家督を継ぐ以前からの重臣、佐久間信盛(1527〜81年)を指しているとみられる。
小牧山城は信長が手掛けた最初の城で、奈良大学の千田嘉博教授(城郭考古学)は、
「最も目立つ工区に重臣の佐久間信盛を割り当てて仕事をさせた。信長の巧みな人心掌握術をうかがわせ、興味深い」と話す。
10〜22日、小牧市歴史館(0568・72・0712)で公開される。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110609-00000190-yom-soci >>105
それほど信頼してたのに、なんで信盛を追放したんだろう
ますます謎が深まる >>99
信長としての追放理由は「折檻状」にちゃんと示されてるよ。
周りがどう思ったかは別にして。
「信長公記」には載っているが、これは江戸時代には公刊されて
いなかったから、甫庵の「信長記」に載っているかどうかは知らないけど。 >>107
でもその「折檻状」は原本がなくて写本でしか伝わってないんでしょ?
信憑性はどうなんだろ? 信長自身は佐久間を高く評価していたのは間違いあるまい
本願寺家を一番恐れていたのは信長自身なれば、
その要所で宿敵本願寺と対等に渡り合い、引けを取らなかった佐久間の能力には正直脱帽したに違いない
しかし、その有能さが仇となる
佐久間の能力に恐怖すら覚えた信長は、その傲慢な性格ゆえに佐久間に不信感を覚える
さらに、戦略に関し一切の下知を仰がなかったのも裏目にでる
信長はその傲慢な性格ゆえにこれを良しとせず、かわい気のない不忠心者と罵ったに相違ない
他家臣からの突き上げも多少はあったであろうが
信長の折檻状は佐久間を恐れた信長の謀略とするのが、一番筋が通るではないか 家臣団が信長の仕打ちを怒る時のなだめ役のナンバー2佐久間が人心掌握するようになり
それに信長が謀反の芽と捉えたからだろう。
特に本願寺戦線は最大兵力で佐久間の解任すらできない本願寺戦線家中サロンを形成。
佐久間も本願寺を破ってしまうと逆に走狗煮られるのがわかっていたからこそ
素直に高野山への道を選んだ。 結局「お前いらね」って事を、こねくり回してさも大層にご高説されてますな >>107
アスペの人?
人間は必ずしも考えたことや思ったことをそのまま相手に言葉で
伝えるとは限らないってことは大人ならわかると思うんだが・・・
そう書いてあるからそれが理由、って簡単に言えると思ってると
したら、社会経験まったくない人か、アスペくらいしか
考えられないんだけど >113
>107じゃないけど
信長が信盛にまた前線で頑張るか隠居しろって折檻状で言ったら
信盛がじゃあ隠居するわって話になってそれを信長が激怒して追放って流れだったはずw >>114
いや、そういう話じゃなくて
追放について「ああ、そりゃ仕方ないわ」っていう反応じゃなくて
「ええ?追放?マジ?」っていうのが当時の反応だったわけで
信長の理由の説明が当時の人にあまり説得力なかったってことが
わかるでしょっていう話
信長の言うとおり、と思った人がほとんどいないんだよ それと、たとえば毎日徹夜して家にも帰らずに不眠不休で働いている人に
「今よりもっと頑張るか、辞めるかどっちかにしろ」って言ったら、そりゃ
辞めるほう選ぶだろう、っていうこともわかるよね
つまり、高野山行きを選んだということは逆にそれまで必死に頑張ってた
ということを示しているんだと思うよ >116
今の時代でも
>それと、たとえば毎日徹夜して家にも帰らずに不眠不休で働いている人に
>「今よりもっと頑張るか、辞めるかどっちかにしろ」って言ったら、そりゃ
>辞めるほう選ぶだろう、っていうこともわかるよね
こんなこと責任ある立場の人間なら普通に選択しないぞ
がんばる←殺される
隠居←激怒追放
どっちにしろ排除確定だろ。
信長は家臣を遠方へ転封もしくは改易し
畿内直轄領を大幅に拡大しようとしてた。 そのくせ本拠地たる近江には柴田、明智、丹羽、羽柴等重臣の所領がそのまま残されている。
信長のやることは全てそうだが、非常に中途半端だ。 >>119
みんな前線がさらに進めば
畿内の領地を奪われるだろうな。
おそらく九州の領地を切り取り自由とか言われる。
だから筑前守とか日向守とか九州名家の名とか与えられた。
柴田は林と同じ罪でいつでも改易できるし
目付けの前田や佐々に柴田を讒言させれば簡単に潰せる。 そんなゲームみたいに簡単に行くかよ。
仮に信長がその程度の考えしかできないのなら尾張統一も無理だわ 岐阜の地名など中国古典に精通してるから
中国型中央集権国家を目指して
殺戮と厳しい軍役を課し
各国で国人たちの反抗を根絶やしにし
一国平均をやって回ったわけだろ。
当然、敵が滅べば走狗煮られると言われる中国的な虐殺さえ厭わない信長の冷酷さがあるだろ。
>>122
岐阜は信長以前からあのへんで使われていた地名。
信長が考えたというのはつくり話。 岐阜市案内では「一説には、古来、岐府、岐陽、岐山、岐下と書き、明応永正の頃より
旧記に岐阜と見えたれば、信長の命名にあらず」と記載している
(ただし、一説および旧記の出典は掲載がなく不明)
「岐阜市史」によると『仁岫録』(成立年代不明)や『梅花無尽蔵』(1709年)
などに岐阜、岐阜陽、岐陽という語句が書かれている。
政秀寺の僧侶であった沢彦宗恩が織田信長の命によりといった説がありこの二説が通説とされている。
>>117が何を言いたいのか何度も読み返してみたけどやっぱりわからない まあ何度も言うが本当に佐久間が無能だったという理由なら
本願寺攻め担当を途中交代させるなりなんなりすべきだったのに全てが終わってから追放ってのは結局理不尽な難癖以外の何物でもないって事さ 無能ならとっくに辞めさせてるわな。
有能だから使い続けて
邪魔になったから切っただけ 大身だから近場で四方に敵抱えてる時に処罰しようとして下手な動きされると薮蛇だから
制圧後の一段落した時期まで待っただけって線もあるな >>124
やはり岐阜は信長が名付けたっぽいな。
井ノ口の稲葉山の方が好きだけどな 佐久間信盛はまずまずの策略家だったような気もする そして織田家に忠実だった
よく他家に探りをいれて怪しいところがあったらどんどん信長公に密告してた
ちょっと小物臭のする策士 でも信盛が健在だったら明智光秀のクーデーターも
未然に防げたかもしれない・・・ 佐久間信盛スーパー最強武将
実は信長も恐れてたんだぜ
簡単に言うとこうなんだろw > でも信盛が健在だったら明智光秀のクーデーターも
> 未然に防げたかも
というか信盛が織田軍団の中で健在だと本能寺の変の大前提である、明智光秀による
畿内軍団の掌握がなくなるわけで、光秀がどんなに信長を殺したくても本能寺の変は不可能。 イメージ的には、中小企業のワンマン社長が、ヘンな啓発本に
感化されて突然「これからは実力主義だ!」とか言い出して
「おまえは何の仕事もしていないのに高い給料もらってる」と
言って創業の功労者だった専務をクビにする、みたいな感じ >>132
あ、だから明智讒言説っていうのが出てきたのかもな 結局信長は信盛を使いこなせなかったんだよな
過ぎた家臣だったということだ 実際、佐久間の方が上でしょ。
統括してた兵力や商業利権ある大津エリアを任されてる点から考えて。 考えてみたら信長家臣団の中で江戸時代まで大身の大名として
残ってるのって数少ないんだな。
柴田も佐久間も明智も羽柴も丹羽も佐々も全部潰れてしまった。
前田、細川、山内、藤堂あたりが残ってるけど、みんな小物だよね。 小物だから残れたんだろ
繰り上がりで大物になったら平和になっただけで つか大物同士が信長の死の前後から潰しあってんだから当たり前だ
小物を一方の大物が味方に引き込んで大物になるわけで
佐久間だって改易されなくても本能寺後どうなるかはともかく無事ではないはず 結果論だけど、早いうちに家康についておくのが一番よかったってことだな。
そういう意味では同じ佐久間でも安政・勝之兄弟は秀吉が憎い一心で
家康を頼ったのが幸いした。 >>142
佐久間の追放がなかったらおそらく本能寺の変もない。
明智が畿内掌握できないから。 >>139
一国一職支配の前田や細川が小物だなんて…
織田家中では十指に入る大身じゃないか >>149
柴田、佐久間、羽柴と比べたら明らかにランク違うじゃん >>151
たしかに佐久間・羽柴・柴田・明智には及ばないけど、こいつらは筆頭家老クラスだからね
序列的にはそれに次ぐ宿老・年寄クラスには名を連ねられるよ >>152
だからそれをランク違うって言うんだろ
自分でも「序列的にはそれに次ぐ」って言ってるのに
バカか?w >>153
横から口を挟むが「序列的にはそれに次ぐ」と「小物ではない」の間に何の矛盾も無いだろ。 前田が国持になったのは、柴田が佐久間盛政や前田や佐々のような
国持を何人も従えるくらいまでになったから、つまり織田家全体が
膨張したからであって、相対的に見れば織田家中では依然として小物
会社が大きくなって年収が2倍になっても課長は課長、っていうこと
柴田、佐久間、羽柴といった役員クラスが「大物」、それ以下は小物 >>139-140
丹羽は準国主だろ。
佐久間は旗本止まりだったが。 流れ的に、双方の小物の定義が噛み合ってないようにしか見えんのだが 下克上の戦国の世を生き抜いた武将を「小物」呼ばわりする奴の現代の立場を知りたいわ。
相対的な話だろ
トップダウンじゃなくダウントップにしてみろ
下克上の戦国の世を生き抜いたってだけで旗本程度の武将を「大物」呼ばわりしたら天下人や将軍は「神」にでもなんのか 神ってのがGODなのかSPIRITなのかわからないけど、権現様とかは普通に神でしょ 10万石以上の所領持ってたら、立派な大物だろ。江戸時代なら凖国主級だぞ。
数か国持ってるぐらいじゃないと大物と認めないって、どういう高い基準だよ。
100万石級の大大名の下で家政を独裁してたり、全軍を指揮したりする重臣でも、10万石もらってる奴なんてほとんどおらんわ。 んー、やっぱり相対と絶対の違いがわかってないんだ
「○万石なんだから大物」というのが絶対基準
たとえば「90点取ったんだからいい成績」というのと同じね
「上にもっと大物がいっぱいいるんだから小物」というのが相対基準
たとえば「クラスの半数が100点取ってるんだから90点はいい成績
とは言えない」というのと同じね
ここまで噛み砕いてもわかんないんだったら以後スルーするけど ああ、で、おれは、相対的にいえば信長時代の前田や細川は
「小物」でしょという立場だ
俺は相対的な話してるんだけど。
ビジネスマンの中じゃ、大企業の役員は大物だろ。
大企業の役員はだいたい20人から15人。
そして、織田家における前田や細川も上位十五人には入る。
トヨタやソニーの役員が小物って言うなら、言うことないわ。 つか、相対的に見ても、一国の兵を指揮するぐらいの人間が小物なら、
戦国の大物って三傑・伊達・北条・上杉・武田・今川・三好・宇喜多・毛利・大内・大友・龍造寺・島津などの大大名や、
信忠・柴田・明智などの織田の軍団長ぐらいしかいないんじゃなかろうか?
ID:wGGbluj3の「相対的」は、「上場企業の経営者や大企業の役員なんて小物。巨大企業の経営者じゃないと大物とは認めん!」で、
俺の「相対的」は、「上場企業経営してたり、大企業で役員やってたりしたら世間じゃ大物って言うんだよ」だから、
噛み合うわけないわ。概念が違いすぎる。 >>168
前田らを小物というつもりはないが、菅屋とかの奉行衆の存在も考えれば、15人に入るかどうかはちょっと微妙じゃね
つーかこの流れの「小物」は何をもって小物と差してんの?
石高?役職?それ以外? >>170
A:数カ国の軍の統率、もしくは取次を担当する最有力者
織田信忠・柴田勝家・羽柴秀吉・明智光秀・滝川一益・織田信孝
B:一国、もしくはそれに準ずる規模の軍を統率する大身
織田信雄
池田恒興
河尻秀隆・森長可(織田信忠組下)
前田利家・佐久間盛政・佐々成政(柴田勝家組下)
羽柴秀長・宇喜多秀家(羽柴秀吉組下)
細川藤孝・筒井順慶(明智光秀組下)
丹羽長秀・蜂屋頼隆・三好康長(織田信孝組下)
C:信長側近の中で特に強大な権限を持つ人物
村井貞勝・菅屋長頼・堀秀政・津田信澄
この24人が、本能寺直前の織田家の最高幹部と思われる。
企業にすると、Aグループが副社長・専務・常務、Bグループが取締役事業部長、
Cグループが本社部長の中で特に有力な人物。 前田利家、佐々成政、河尻秀隆、森兄弟、堀久太郎といった信長親衛隊の連中って、
やっぱ特別な存在だったのかな 手柄の割には大封をもらってる気がする
途中から織田家に従うようになった外様大名とかは信長公にさんざんコキ使われたうえ、
些細なことで所領を没収されて放り出されて、その所領は信長親衛隊あがりの武将の
ものになっちゃってる気がするアワレ 母衣衆は基本的に連絡将校から目付けに発展してるからね。
織田の家老の柴田なんかも前田や佐々ら信長直参に監視されてた。
信長は家老も改易していったから上杉が滅亡したら柴田も林や佐久間みたいに改易されてただろうね。
筑前の秀吉や日向の光秀らはみんな九州へ飛ばされるだけ だって、織田家にいた頃の盛政って、武名のわりに地味だもの。 金沢の人に、金沢では郷土の歴史として、加賀百万石の始祖、金沢城主の
初代は前田利家、と教えていると聞いたことがある
これはどうも江戸期の教育がそのまま引き継がれたかららしい
あえて意図的に佐久間盛政を金沢の歴史から排除してきたんだよね
ちなみに広島では広島城は毛利輝元が建てた(江戸時代は浅野家であるにも
関わらず)、とちゃんと正しく教えている
それは単に広島の売り出し方針が毛利>>>浅野だからというだけな気がするな 最近は佐久間盛政の武闘派ぶりも評価されてきてますよね
とくに賤ヶ岳でA級戦犯されてるのはおかしい、という人が増えた気がします
あの説は江戸時代に前田藩おかかえの小説家がひろめた説なんですよね 戦国時代ずっと活躍した毛利と
ごく限られた時間しか金沢にいなかった盛政じゃな。 佐久間一族が信長に高野山に追放されてなければねぇ。
盛政は勝家つながりで残ったもんやし。
>>181
だからって初代城主を捏造していいという話にはならんと思う 正直観光としては前田利家の方がわかりやすいし宣伝しやすいからな
地元にしてみればそっちの方がよっぽど大事 そのとおりだね。会津若松城も今、歴代藩公展とかやってるけど、宣伝する時は松平ばっかりで
蒲生氏郷ですら空気。天地人効果で上杉景勝にも多少は光が当たるようになったけど加藤氏
(嘉明、明成)なんてマジで誰も知らん。 広島とか江戸時代はずーっと浅野家だけど毛利支持者が多いし、熊本はいうまでもない
やっぱ佐久間鬼玄蕃盛政は当時の住民にも大きな支持を得られなかったのだろうか
よく考えてみれば一向宗をやっつけて占領した人だもんなあ〜
利家ですらまだ恨まれてるのに盛政になるともう恨みしかないのかもしれん・・・ いや、浅野の前に福島正則がちょっとだけいたけどな
でも、学校じゃちゃんと福島も触れるよー >>178
金沢の人間だけど自分は初代城主は前田利家って
教えられなかったなあ。今は知らんが。
ただ、100万石まつりとかあるから皆普通に初代城主は前田だと
刷り込まれてるんだよね。
自分は柴田関連のことを知って利家は好きじゃなくなったんだけど 歴史的大事件の関ヶ原でさえ家康対三成が一般なんだ
普通はどうでもよくて「主に」や「つまり」なんだよ
細かいことをちまちま言ってるのはマニアだけだ
特に盛政なんざ見直されたからって歴史が変わるわけでもないんだから
>>172
滝川と河尻や森にそこまでの違いがあるのかな? >>191
菅屋・堀と、長谷川・矢部・福富・野々村を分けたのは、
菅屋は北陸の仕置き、堀は伊賀攻めの大将や秀吉の軍監など、
他の側近トップグループより頭ひとつ抜けた働きがあるから。
>>192
滝川は軍権では河尻や森と同格だが、関東や奥羽の大名との取次を担当して、
関東諸将は滝川の統率下だったから、権限の大きさはAグループに匹敵するとみなした。 だんだんスレの本筋から話がズレてきてる観があるのだが
まあ、面白いけどね とりあえず柴田勝家を軍団長とする北陸方面軍において鬼玄蕃こと佐久間盛政は
狂犬前田利家、アルピニスト佐々成政を押さえて最強軍団を率いていたエース武将と
認識してるんですけどあってますか? 違ってたら修正してくだされ 加賀=盛政、能登=前田、越中=佐々なわけだけど
この3つの中で一番石高(実高)が高かったのはたぶん加賀
まあ、勝家の甥だけに身内びいきがなかったというと嘘になる
かも知れないが、配下に特に表立った不満が見られないところを
見ると、実力相応の評価と見られていた可能性は高いね >>196
一般人や金沢市民に対しては×
マニアやヲタの間でなら○ アルペン佐々は北陸方面軍先鋒というよりも織田軍の先鋒ってイメージが強い
勝家信盛の後の第二世代主力戦闘ロボ
盛政は磔になった際の逸話聞いても当時の女子には大人気者だったんじゃないか?
若いエリートだし相当な知名度があったのは間違いないよ
同じ世代の武将を見ると盛政だけが実績実力共に群を抜いてるし 地位、容姿、立場等々そういった「俺スゲー」の慢心が賤ヶ岳の敗因だろ 20代で国持ちってすごくね?森長可と同じぐらい出世早い。
親の代からの宿老である森家と違って、柴田の縁続きだってだけの一族なのに。 >>202
敗因は利家の寝返りであって盛政は関係ない
今更言うまでもないだろうけど
>>203
>柴田の縁続きだってだけの一族なのに。
おいww何言ってんだ そんなに好かれて盛政もさぞ喜んでいるだろうよ
そっかー利家の裏切りが敗因かあー
利家は悪いやつだねーwww >>205
歴史なんて所詮昔話 悪いとか良いって話じゃない
利家だって苦渋の決断だったろう←たぶんね
ただ勝敗が決した戦いには必ず勝因敗因があるのよ >>203
> 20代で国持ちってすごくね?
そのへんのニュアンスがドラマなんかではほとんど表現されない
それまでの活躍や評価がいっさい描かれず、賤ヶ岳の現場で
突如現れて、先制攻撃を主張して自爆するだけの道化役にされる
前田家の教育の浸透ぶりはすごいよね 300年16代だったっけ?実質支配していれば覚えていなくて当然。 >>203
御器所の佐久間家は室町中期ごろからすでに記録に出てくる
盛重や信盛、信辰らは桶狭間以前から信長に仕えているし 盛重:戦傷の後遺症で鼻が曲がってしまったのを自ら脇差で切って付け直したという
剛の者。桶狭間直前の丸根砦で松平元康と戦って戦死
信盛:信長創業の功臣で初期の戦では常に信盛か柴田勝家のどちらかが先鋒を務める
ほどの信長の片腕。本願寺包囲戦を担当していたが突如父子で追放された
信辰:信盛の弟で桶狭間のときは善照寺砦の守備を担当。本能寺の後、信雄配下で蟹江城を
守ったが前田与十郎の裏切りにより城を羽柴勢に明け渡した。後に江戸幕府に出仕し
館林城留守居役となる
盛政:叔父柴田勝家に従って北陸戦線に従軍し、一向一揆や上杉軍を相手に数多くの戦功を
挙げて「鬼玄蕃」の異名を取った戦上手。20代で金沢城主となり加賀一国を任されたが、
賤ヶ岳の後捕らえられて斬首
安政・勝之:盛政の次弟と四弟。それぞれ保田氏・佐々氏の養子になっていたが賤ヶ岳の後
秀吉に屈するを潔しとせず家康を頼り、小田原北条氏に仕えた。小田原落城後は潜伏
していたが秀吉に召し出されて蒲生氏郷配下となり置賜郡に城を賜る。関ヶ原と大坂の役で
徳川方として戦い、安政は信濃飯山三万石、勝之は信濃長沼一万八千石の大名となる ちなみに安政の長男勝宗(史料によっては勝長とも)の正室は真田信之の娘
その縁で子孫の佐久間象山の家が松代藩に仕えたらしいという話がある 息子と一緒に茶の湯三昧で遊んでいたらさすがの信長も他の家臣たちに示しがつかないと思う
俺たちは頑張っているのに何で遊んでいるあいつが高禄なんだ・・・・って感じで そんな信長の言いがかりをストレートに信じてるお前が怖いわ >>213
天王寺屋会記でもそこそこ出てくる回数多いしな… >>213
細かい事を一々垂れ込む光秀だけは許せないな そういえば、よく天海=光秀説っていうのが言われるけど、もしそれが本当なら
信栄とか信辰が知らないはずはないし、あまりよく思ってないだろうから
何かしら反応があるはずだよな、と思わないでもない >>218
まあつくり話だし。妄想妄言のたぐいだわ。 天海=光秀説はものすごく面白いし、研究がすすんで欲しいけど、
すでにお互いの直筆の書状の筆跡鑑定で別人という結果が出てると聞いたことがある
とても残念だ
でも冷静になれば当時のお坊さんは東大とか京大の教授といった感じの学者、
光秀は急速に成長する企業のビジネスマンって感じだから、住む世界は完全に違う
やはり無理がある説か・・・ 今TBS系列「世紀のワイドショー!ザ・今夜はヒストリー」で桶狭間やってるよ お、柴田勝家は出てきた
やっぱなー、佐久間は不当にマイナーだなー 何言ってんだよ
徳川家でいえば四天王の一角にあたるクラスなのに
ドラマでもバラエティでも全然触れられないなんて
不当以外の何者でもないわ 一般人にしてみたら、いてもいなくても歴史上重要じゃない人物なんかどんなクラスだろうがマイナーだろう 信長公が主人公のドラマなら絶対に佐久間信盛は出てくるじゃん 捨てたもんじゃないよ
利家とまつでは鬼玄蕃盛政も出てた 慶次郎におちょくられてたけど
いやいや、佐久間家も捨てたもんじゃないよ まあまあだよ 重要な地位にいるということは、イコール歴史上重要なんだけどなぁ
自分が知らないから重要じゃない、とか、子供は思ってそうだけど 歴ヲタならではのひとりよがりだね
佐久間一族が歴史の教科書に出てくるような事をしたとでも?
好きな武将を盲目的に贔屓するのもいいけど冷静に俯瞰できる目も持たないとね 盛政の生き様は教科書に載せるべきだな
歴史研究会の会に行った時にダメ元で偉い人に直訴してみるかなw 一般のメジャーマイナーなんて教科書、時代劇や小説、漫画さ
「扱い酷いけど実はこの武将はね(キリッ」なんてやったら大概の人は引くよ
実際、光秀や勝家と違って一般教養の歴史的事件のキーマンでもないし
大した記録が残って無くったって前田慶次がメジャーなのはそういうことだ
教科書基準で笑うなら自分で小説や漫画書いて売れれば大好きな佐久間一族がメジャーになるぜw 「これだけのレベルの人物なのにマイナーなのって不当な扱いだね」
に対して
「一般では教科書や漫画・小説でメジャーマイナーが決まる」
って、答えとして噛みあってないんだよね
「そうだよ、だからそういう一般の扱いが不当だってことなんだけど」
になるだけで
たとえばこんなのと同じ、ズレた会話になってる
「この投手、22勝もしたのにMVPに選ばれないなんておかしいよね」
「プロ野球のMVPってのはファンの人気で決まるんだよ」
「…いや、だから、それがおかしいって言ってるんだけど」 >>236
ズレてないだろ。22勝したって人気が無ければ選ばれないって話だろ。 歴史の教科書なら下手すりゃ信長秀吉家康に関ヶ原の石田辺りくらいで終わりだろうがなw >>237
アスペの人?
会話のキャッチボール(受け答え)がわからないんだな、かわいそう もう少しわかりやすくいうと
A「この投手、22勝もしたのに(本来なら成績で選ばれるべき)MVPに(人気がないからといって)
選ばれないなんて(制度のあり方が)おかしいよね」
B「プロ野球のMVPってのはファンの人気で決まるんだよ」
A「…いや、だから、(そんなことは言われなくても知ってるけど)それがおかしいって言ってるんだけど」
Bの人は、Aの人が「人気で決まる」ということを知らないから「おかしい」と言ってると
解釈しているが、それが間違いで、Aの人はそんなことは百も承知で「そういうのは
おかしいじゃないか(正しいあり方じゃないじゃないか)」と言ってるわけだから、
この会話はぜんぜん噛みあってない
まさかこんなレベルまで噛み砕いて説明しないと理解できない人がいるとは
思いもしなかったけど
それとも理解できないんじゃなくて「すみません、誤解してました」の一言が
言えなくて意地張ってるだけなのか? >>214
>>213が全部事実とは思わないけど、本願寺を何年もただ包囲するだけで、
戦らしいことをほとんどしなかったのは確かだと思うが。 司馬遼太郎の小説で、主人公が江藤新平とか川路利良とか河井継之助の
作品があるけど、この人たち一般にはあまり知られてないよね。
売れた小説や漫画に取り上げられたらメジャーになるか、っていうと
そういうわけでもない気がする。 >>241
広がりすぎた戦線の維持のため信長自身に本願寺との決戦能力がない中、
それでも十万とも言われる勢力を持つ本願寺を抑えきったってことが
どれだけ凄いことかわかってないだろ?
だいたい本願寺包囲陣も信長の都合で部隊の引き抜きが恒常的にあった。
本願寺との決戦どころか、戦線維持さえ危うい状況だった。
それでも戦線を崩壊させずほぼ大過なく維持しきったのは、もはや奇跡に近い。 >>242
司馬遼太郎で言うなら坂本龍馬は竜馬がゆく以前は、志士たちのメッセンジャー程度の認識で、
非常に地味であまり人気もない人物だった。高知県でも幕末の志士といえば「武市半平太」が
まず出てくる人物だった。 >>244
薩長同盟の裏書をしていたことは知られていたけど、そこから後に
研究で「薩長同盟の実現を企図し、そのために奔走した」ということが
わかってから評価が変わったよね。
そういう研究が進んだのは司馬氏によって注目を集めたおかげだと思う。 >>245
> 研究で「薩長同盟の実現を企図し、そのために奔走した」ということが
> わかってから評価が変わったよね。
そしてそう言った過去の評価は現在、間違いだったことも解っている。
実はそれ以前の「メッセンジャー程度の役割」のほうが正しかった。
現代の竜馬がゆくに準拠した竜馬像は、完全なファンタジー。 >>240
説明されなくても俺はそんなの知っている、と思ってるお前がアスペだ!!
一方的な思い込みで話すから通じないんだ。
>>246
只のメッセンジャーが裏書きしても何の保証にもならんだろ。 そういえば龍馬でなく、竜馬にしたのは司馬先生があまりに想像で書いたところが多すぎるので、
ちょっとフィクション小説っぽさを出そうとして一般的な龍を避けたと聞いたことがある なんでアンチ佐久間っぽい珍種が湧いてるんだ?
光秀ファンか? >>247
> 只のメッセンジャーが裏書きしても何の保証にもならんだろ。
あの当時の龍馬は土佐藩の後藤象二郎や板垣退助といった親薩長派の京都代理人。
龍馬の裏書とは、「土佐藩の親薩長派はこの同盟を確認しました」という意味。
というか、それ以外ではあらゆる意味で龍馬個人の裏書なんて意味が無い。 つか司馬以前でも龍馬主役の小説がヒットしたし、それなりに著名だったと思うけどな >>250
代理人とメッセンジャーでは重みが全然違う。 >>252
全体を通してはメッセンジャー的役割
薩長同盟の時期に限れば土佐藩新薩長派代理人
これで満足か小僧? 純粋な質問なんだが、なんで佐久間にしか注目しないの?
他にも同じように不遇の武将はいるでしょ?
それとも他の似たような不遇の武将にも同じくらい執着して愛を注いでいるのかな
そうでないから贔屓武将補正の話にしかならないんだよな >>254
都合のいいも何も代理人っていっても決定権のある存在でもなんでもないんだぞ?
代理人というものに何のファンタジーを持っているのかしらんが。
もっとはっきり言えば「見届け人」だ。後藤や板垣に顎で使われている存在にすぎん。
あまつさえ回天の中心に居た人物なんて評価は、噴飯物だわ。 >>257
それじゃやっぱり何の保証にもならんだろ。 >>258
交渉権のない名代。
表立って薩長同盟に関与することが出来ない土佐のダミー。
黒幕の後藤らに代わって、名前貸しただけ。
実力はないけど、やたら顔だけは広くて有名だったから。 >>255
スレタイみればここがなんのスレか分かるだろアホかw
>>258
知名度が保証になるんだから最高の保証だろw 信盛の腹心って言えば誰だろ?
勝家や光秀や秀吉の腹心は名前が残ってるけど、
信盛のは名前聞かない。 >>132>>144
Wikipediaにも似たような記述があるけど、本能寺の変で光秀が率いた軍勢は丹波衆ばかりだし
数も13000くらいだろ?
畿内の軍勢は関係ないというか、むしろ変後協力断られてばかりやん 「腹心」といえるかどうかはわからんが、配下としては
畠山昭高とか保田知宗とかの名前は知ってるかな 歴史小説を書いてみました 2011年06月25日17:03
今日はあまりにも暇だったので、歴史小説まがいなものを書いてみました(笑)
題材は信長公記巻13の宇治橋御見物の事の原文を参考にしました。
讃美歌流の信長像を書いてみましたが、賛否はあるかと思います
興味のある方は読んでいって下さい
********************************************************************
天正8年8月、織田信長は、親鸞以来、本願寺教団の本山として法灯をかかげてきた石山の地を11年という長き闘争の末、この地を手に入れることに成功した。
石山本願寺の明け渡しが終わると、8月12日に信長は京都を出て宇治橋からの景色を楽しんだあと、船で大阪に下り、天満の陣所へ入った。
『もう、あやつはいらぬだわ』信長はそうつぶやくと、近侍に楮紙を用意させた。
普段、信長は自筆で書状を認めることは滅多にない。
祐筆に書かせるのが常である。
そこで彼はまず『覚』と書き入れた。
彼の脳裏には先ほど見た石山本願寺の無残な焼け跡が蘇った。
『5年もかかって、こんな結末かや。』
信長の繊細な口辺が微かに歪む。。。
そして一気に筆を走らせた。
【一、父子五ケ年在城の内に、善悪の働きこれなきの段、世間の不審余儀なく、我々も思ひあたり、言葉にも述べがたき事】。。。
世に言う佐久間信盛折檻状である。
【一、此の心持の推量、大坂大敵と存じ、武篇にも構へず、調儀・調略の道にも立ち入らず、たゞ、居城の取出を丈夫にかまへ、幾年も送り侯へば、彼の相手、長袖の事に侯間・・・・・】
書いているうちに、昨年まで織田家のために粉骨砕身して、敵城をことごとく攻略した部将達の顔が脳裡に浮かぶ。
風のない陣所の中で、灯心の炎が妖しく揺らめくのを信長は凝視しながら、額が広くやや神経質な顔立ちをした惟任(明智)光秀を脳裏に描く。
『同じ5年ながら、あやつが器量と功績は織田家随一だで』。。。
【丹波国日向守働き天下の面目をほどこし侯】と書き入れた。
『いや、平定した国の広さならば、あやつの方がもっと上かや・・・』顔中皺だらけで矮小な体をした猿面の羽柴秀吉を思い描く。
【次に、羽柴藤吉郎、数ケ国比類なし】
次に浮かんだのは、自分と乳兄弟ながら、あまりその能力を認めてやらなかった男だった。
朋輩である前田利家や佐々成政などは若年の頃より母衣衆に取り立てられ、信長の軍事の中心として活躍し今や国持ち大名となっている。
ところが、彼はごく最近、この大坂の近くで素晴らしい武功をたてた。
池田恒興である。
『身上の小さきやつでも、一生懸命だわ』
【池田勝三郎小身といひしも、程なく花熊申し付け、是れ叉、天下の覚えを取る】
今度は逆に大身の部将の顔が浮かんだ。
荒々しい如何にも武者らしい髭をたくわえた、もう初老にさしかかった柴田勝家の顔。
『欲ではない。武家としての誉れだわ。あやつも誉れのために、キンカンや猿に遅れをとるまいと頑張っておるのだわ』
【柴田修理亮、右の働き聞及び、一国を存知しながら、天下の取沙汰迷惑に付きて、此の春、賀州に至りて、一国平均に申し付けし事。】
『それにひきかえ、信盛めには柴田以上の待遇を与えていたではないかや』
信長の相貌が憤怒にかわり、こめかみには癇筋が走る。
【信長家中にては、進退各別に侯か。
三川にも与力、尾張にも与力、近江にも与力、大和にも与力、河内に与力、和泉に与力、根来寺衆申し付け候へば、紀州に与力少分の者ども候へども、七ケ国の与力】
『7カ国もの与力に自分の家臣を合わせて戦えば、よもや負けることがあらずか!』
信長は書いているうちに更に苛立ちが増してきた。
信盛に対する日常の不首尾、心がけの至らなさ、思い浮かぶことを激情に任せて次々と書き連ねた。
信盛が、昔は数々の手柄を立てた織田の古参の宿老であることも、その時は忘れていた。
【信長代になり、三十年奉公を遂げたるの内に、佐久間右衛門、比類なき働きと申し鳴らし侯儀、一度もこれあるまじき事。】 佐久間信盛の手柄のことなど、この時は頭から離れているのに、7年前に悔しい想いをしたことが脳裏に蘇る。
それは朝倉軍退却を見逃した配下である部将達を、信長が叱咤した時だった。
信長は甲高い声で、部将達を罵った。
『おぬしどもは、儂が数度の下知を何と聞いたでや。
敵の様子を見合わせ仕掛けざりしは臆したるか!』
すると信盛だけがこう抗弁した。
『さように仰せられまするが、我らほどの家来は、なかなかに持たれまじきと存じまする』
信長はこの時の信盛の言葉を、脳裡に焼き付けて忘れず、追放する時の罪状の一つとしたのである。
そして次の言葉で、19条に渡る折檻状を締め括った。
【天下を申しつくる信長に口答申す輩、前代に始り侯条、爰を以て、当末致すべき二ヶ条、請けなきにおいては、二度天下の赦免これあるまじきものなり。】
そして当末致すべき二ヶ条とは、一つ目が、どこかの敵を征服して帰参するか、討ち死にする。
二つ目は、親子共々、頭を丸めて高野山に蟄居し許しを請うこと、であった。
信長は思案する。
『佐久間めが、一つ目を選択するならば、今後も使うてやらあず。
しかし二つ目を選択したるみぎりには、ここまでの男と見切りをつけて追放するしかあるまいの。。。』
やがて楠木正虎・松井友閑・中野重吉の3名が呼ばれ、この折檻状が佐久間に届けられた。
これを被見した佐久間親子は大いに驚き、取るものも取り合えあえず高野山へ向かった。
それを聞いた信長は
『口ほどにもないやつ。。。』
二つ目を選択した信盛に対し信長は落胆した。
そしてその落胆は再び怒りに変わり、
『儂は信盛めにチャンスを与えたのだわ。
残る敵を討ち平らげ攻略するか、討ち死にするかという、武士てしての誉れを与えてやったのだわ。
それを簡単に捨て去り高野へ逃げざりしか。
もはや信盛には儂が家来の値打ちはなし!』
そう思った信長は、信盛を高野山への退去することも禁じ、さらに奥熊野へ向かわせたのである。
共をする者僅かに小姓3名を許されただけである。
その一年後の天正9年7月24日、佐久間信盛は十津川で死去。
その後は織田家内部の新体制への改革が強化されていく。
信長は新たな前進を始めるときには、まず自分の周囲、自軍を調律し、不協和な者は容赦なく切り捨てる。
常に緊張させ活性化させることで組織の劣化を防ぐためである。
組織を成長させ、より天下布武に近づくために、信長は感情的になることを自ら戒めているのである。
完
******************************************************************** イイネ!(10)
Tama
まみたん☆
♪choco7373♪
あきちゃん
NANA
Sachi
福丸
◆MICHIKAZU◆
さば坊
かなこ*゚ るび2011年06月25日 17:28
短氣、癇癪もち等々いわれていますが…
信長公ほど我慢強い武将はいないかなと。
土曜日の夕方、楽しませて下さり、ありがとうございます
ゆみんこ2011年06月25日 18:15
お〜本格的ですね
私も信長・濃姫・光秀でひとつ書いたことがありますがライトノベル形式なのでここまで事細かじゃないです(^_^;)
尚子2011年06月25日 20:37
すごーい!もう、mixiの中だけじゃなくて、本だしちゃってください!
いっしん2011年06月25日 22:10
おぉ!凄い!信長の表情が浮かびます(`・ω・´)
書く人によって全然違うそれぞれの武将像を楽しめるので歴史小説は大好きです(*゚∀゚*)
讃美歌さん、またお時間ありましたら是非とも続きを!
アイラ(´A`)2011年06月26日 00:56
す…すごい…本当に歴史に詳しくなければここまで書けないと思います
私もいつか書いてみたい〜!
今はまだ色々歴史小説読んで研究中です
福丸2011年06月26日 08:08
昨夜コメントしたんですが・・
酔っぱらって書いていて
何だかあやしかったので削除しました
信長のお国ことばのつぶやきが、いいですね
讃美歌13番さんが信長に心酔しているのがよく伝わってきました
信長みたいな上司だったら、私は真っ先にクビになりそう
さくら2011年06月26日 10:33
ゆっくりじっくり読んだのでコメント遅くなりました
讃美歌さんいつも綺麗な文章書かれますよね
実は本出されてたりして…とか思ってます
ふぁみちゃん2011年06月26日 11:53
さらさらっと 書けちゃうなんて凄いですね
やっぱり 才能なんだなぁ…(*^^*) サカ2011年06月26日 12:20
信長役に、竹内力が、キャスティングされたら、インパクトありそうですよね
讃美歌13番2011年06月27日 12:43
るびさん
コメントありがとうございます
私も全く同感です。
蘇峰はこの佐久間折檻状で、極めて冷酷と評していますが、私はそうは思いません。
書いたようにチャンスを彼に与えたのだと思っています
ご拝読ありがとうございました\(^o^)/
讃美歌13番2011年06月27日 12:48
ゆみんこさん
コメントありがとうございます
信長のセリフはあくまで私の想像です(笑)
信長公記の原文を引用して信長の心理を讃美歌なりに表現してみました
ご拝読ありがとうございました\(^o^)/
讃美歌13番2011年06月27日 12:52
尚子さん
コメントありがとうございます
もっと人生経験を積んで10年後には歴史作家を目指しますか(笑)
なんて…まだまだ出版出来るほどの技量はないです
ご拝読ありがとうございました\(^o^)/
讃美歌13番2011年06月27日 13:00
いっしんさん
コメントありがとうございます
仰る通りですね
私が今回、佐久間折檻状を小説風にしたのは、信長の人事考課のあり方についてや、人材リソースや組織構築の戦略について、どう捉えていたかを表現してみました
また機会があれば書いてみます
ご拝読ありがとうございました\(^o^)/ 折檻状を見ると与力ばかり酷使させて自分は遊んでたんだろ?
これどう考えてもやってはいけないことでしょう 讃美歌13番2011年06月27日 13:05
アイラさん
コメントありがとうございます
一次資料は文章が分かりづらいので、訳文のあるものがオススメです。
そこから登場人物のキャラクターを設定して心理描写を行いセリフを想像すると良いと思います
アイラさんの小説、出来ましたら是非拝見したいです
ご拝読ありがとうございました\(^o^)/
讃美歌13番2011年06月27日 13:15
福丸さん
コメントありがとうございます
確かに私は信長に心酔しております
さすがですね
お国言葉はかなりいい加減なので心配です(笑)
名古屋の方に校正をお願いしたいです
信長はホウレンソウが大事だと言っています。
きっちり、報告、連絡、相談をすれば大丈夫です。
ちなみに秀吉は宇喜多との同盟を信長に相談もなしに決めてしまい、信長の逆鱗にふれました
佐久間への折檻状にも、ホウレンソウがなかった事を大変怒っています
事後報告は禁物ですよ
ご拝読ありがとうございました\(^o^)/
讃美歌13番2011年06月27日 13:20
さくらさん
コメントありがとうございます
お褒め頂き光栄です。
文章で伝える事ってなかなか難しいですね^_^;まだまだ未熟です本は出してませんが、作家には憧れますね
まー無理ですけど(笑)
ご拝読ありがとうございました\(^o^)/
讃美歌13番2011年06月27日 13:23
ふぁみさん
コメントありがとうございます
さらさら書くだなんて、とんでもないですよ(笑)
4時間かかりました
まさに生みの苦しみですかね
ご拝読ありがとうございました\(^o^)/ 讃美歌13番2011年06月27日 13:26
サカさん
コメントありがとうございます
信長のキャスティングまでして頂きありがとうございます(笑)
任侠的な信長も斬新ですね
ご拝読ありがとうございました\(^o^)/ >>265
> 高野へ逃げざりしか
これ意味逆になってるよ
「逃げなかったのか」という意味になってしまってる
「逃げてしまったのか」という意味にしたいなら「逃げたるか」 >>269
だからな、書いてあることが全部本当にその通りかどうかわからんだろ?
だれがどういう意図で何の目的で書いたのかを含めて考えないと
史料批判っていうのも元々はそういうことだよ でもよく謀反起こさなかったな 1万ぐらいの軍勢なら思い通りに使えたんじゃね? >>274
信長に1万程度の軍勢で謀反しても勝算ないだろ…。
信忠が尾張・美濃の軍に、手が空いてる畿内の軍を加えて攻めて来たら勝ち目がない。
武田の脅威はないから、信忠軍はフリーハンドだし。 挽回の機会を放棄して高野山に逃げた信盛に謀反を起こすモチベーションなんてそもそもなかったでしょ 謀反起こすくらいの気概があれば糾弾状もらわねえだろ そもそも信長は折檻状を出す時は、慎重に信盛をその軍団から引き離した上でやっておる。
直前までその素振りも見せず、ほとんど騙し討ちの状態で折檻状→追放。 >>279
家康の堺行きもある意味危なかったんだな・・。
明智も国替えとなると近江衆、丹波衆とは別れることになるし・・。 軍団つーてもいろんなところからかき集めた与力じゃなかったっけ?
本願寺戦が終わった時点で彼らを信盛の側に置いておく必然性なんかないと思うけど
つーか信長に告げ口したのって与力の連中じゃないの?
保田の書状がどうのこうのとか折檻状にあったし そもそも大坂の佐久間の元に折檻状を送りつけたのだから、軍団から引き離したとか何のこと? >>282
兵馬の権ってやつかな
なんかNHKの歴史番組で、佐久間の軍団って当時織田家最大兵力で、
その軍団を解体して再編成したいがためにああなったとかなんとか聞いた気がする 折檻状にあるように与力にばかり負担させて自分は蓄財&茶の湯三昧だったとしたら恨むことはあってもかばうことはないだろうね >>286
逆に与力に気を遣って温存したりしても、それはそれで信長に
叱責されると思うけどな
「わしがわざわざ与力をつけてやったのにまったく使わず
自分だけが手柄を独り占めしようとしている」とか言われるでしょ 織田家はブラック企業の体質があって、信長公は密告を奨励してたらしい
柴田勝家の北陸方面軍もほかの部隊から毎日朝から酒を飲んでいるとかチクられてたらしい らしいらしい
ブラック企業じゃない大名を教えて欲しいものだ 畿内の土豪なんて一癖も二癖もある連中でしょ
やはり反りが合わなかったんかね
鎌倉公方挙兵以来の大乱戦続きで
やたら地域の山間部を占めて割拠するようになった越後や甲斐は
恣意的に主家の当主をすげ替えたりと国人社員自体がブラック過ぎる。 >>288
さすがの信長も頑張っている奴には滅茶苦茶なこと言わないでしょ 信長直参出身の目付や軍監を接待し関心を買うのが織田家での出世と保身の術 柴田勝家も前田利家や佐々成政、不破光治の接待をやりまくってるな。 税金とか裁判とかが公平だったのは家康公というイメージ
あの人はオキテみたいなものを明文化してみんなが納得してから施行ってかんじ
信長公はまさに自分がオキテ どんな罪にどんなバツが与えられるか、
信長公に聞いてみないとわからない 有罪と思ったやつが無罪になったり、
無罪と思ってたのが全員死刑になったりする 平等とは言えないだろうな それは自分でもいってる通り「イメージ」
無罪と思っていたのが死刑って?
一族と家臣は分けて考えると平等ではないが公平でしょ
一族の裁きは厳しい >>304
じゃあイメージではない実例を出してくださいな 朝倉攻めの裁きと甲斐攻めの裁きを比べてみて
荒木と松永と浅井が裏切ってから最終的に兵を繰り出すまでの対応を比べてみて >>295
いや、ある程度の地位のある人間は、下の者に手柄を譲って自分は
前にしゃしゃり出ない、というのが美徳だったからね
信盛ほどの重心が全部自分でやろうとしたらどこの家中でも確実に
非難されるよ まぁ信長から特別扱いされたDQNだから
秀吉もウザかっただろうね。 長可に社会性があり
主が代わったら、時勢を読みそれに合わせて
横暴さを改めら秀吉を支える柔軟性ある人間性があるかどうかだな。 実際のところ、森長可ってどんな人だったんだろう
ほんとにタダのチンピラだったのかな ただのチンピラで20代で20万石の大名にまでなれるわけがない。
織田軍の中でも精強だった森軍団が長可の討ち死に後一気に弱兵化したのは、
色々理由があるにせよ長可の指導力を認めていいと思う。
相当武張った凶暴な人間だったのは確かだが、ひとかどの器量の持ち主でも
あったのだろう。 同情多数、助けてやりたいが信長がもうイッちゃい始めた頃なので怖くて誰も言えず仕方なく追放に
ってのがこのスレの模範解答
応用効かすなら
「光秀の讒言による」って記録にあるから光秀はざまぁと思ったかも
って答えるのがベスト 単純に門番を斬るなと言う規則が無かったから長可を罰せられなかったのだろう
しかし信長から見ても非常識な行いだったので逸話として残る
森に限った話ではないがガチ勝負で敗戦を経験すると有能な家臣の補充育成が
追いつかない例が多い 盛政の突撃食らった大名もしかり
なので森家の場合弱体化を当主の力量とするのは可哀相 強さとは人(家臣)
一方北国の織田最強譜代軍団では
貞勝:北の庄では朝から酒ですぞ
勝家:犬は寺の税を横領してるら
利家:それは佐々殿も
成政:ギクッ
盛政:ポカーン
信長:オノレ・・・
↑このような話が残っていても誰一人処罰した形跡が無い
普通一度目の過ちは許されていたと考えると信盛は・・・ 全部光秀が悪い 信長が信盛の屋敷に長期滞在するぐらい、覚えもめでたかったんだよな
忠節・功労・寵愛が比類ない老臣の追放劇に前兆はあったんだろうか? >>316
> ただのチンピラで20代で20万石の大名にまでなれるわけがない。
こういう、結果からものを見る見方ってけっこう危うい
テレビでやってたからとか有名人が言ってるからとかで騙されてしまうタイプ
>>317
同時代の史料はみんな「なんで?どういうこと?意味不明」という反応 >>321
では、結果以外の視点から物を見る見方で、森長可のめざましい出世の背景を説明してくれ 「きみの不幸の原因が前世の因縁だからツボを買えって、それは騙されてるよ」
「では、前世の因縁以外で、おれの不幸の背景を説明してくれ」
佐久間の次は柴田に対して、家督相続のときはよくも弟をかついで俺に
敵対してくれたなと追放してたかな。 一罰百戒的な考えで佐久間を叩いて家臣団全体を引き締めたのか、
大封の高齢家臣を順番に全員リストラしてお気に入りの若手将校に
領地を与えたかったのか・・・・ 前者なら次のターゲットは柴田勝家だろうな・・・ >>325
後者でも、な気が
滝川あたりも意外と失敗しやがれと思って関東に派遣されてたりしてな >>324
佐久間は弟の側だったのに、わざわざ信長に味方したんだったかな 弟の話するとまた「信行という名は正しくない」とかいう人が出てきそうな
気がしてちょっとイヤだな 佐久間は本当は名将!っていうスレのやつが何言ってやがる
同じ事だろうがw 謙信が死んで上杉内乱が起きていた隙に
加賀を奪うのに成功したから
柴田は首の皮一枚ギリギリでつながっただけだからな。
謙信が死ぬまでは重鎮柴田を越前に配置せざる負えないが
謙信死後にモタモタしてたら柴田も更迭されていただろう。
どっちにしろ越後攻略に成功したら柴田用済みだろうね。
柴田も陸奥守とかにされそうだしw 畿内や要所は子飼いの馬廻りや腹心で固めるつもりだったんでしょ
実際、本能寺が起きていなければ、秀吉は長浜を取り上げられることになってたし >>333
よくそういう妄想を平然と事実のように話せるなお前w 長浜は久太郎に与えられることになってたんだと思うよ
寛政重修諸家譜では天正九年九月八日に長浜城主になってる
堀家譜でもそのときに二万五千石(近江坂田のことかもしれんが)を貰ったと記してる
もちろん実際には秀吉は退去してないけどね
ただ、同年春の信長の利家宛朱印状に、能登はくれてやるから越前府中は来年以降は菅谷に譲れとある
長浜でも同じ朱印状が発給されたんじゃないかって言われてる 信長公は秀吉や光秀など流れ者でも仕事ができれば大封をあたえるけど、
やっぱり好みというのがあって、子供のころから崇拝させている信長親衛隊あがりの
利家や久太郎、森兄弟などをえこ贔屓してるように見えるな 寛政重修諸家譜は信用できんが
前田に関しては長頼に家臣の邸宅も含めてすべて引き渡し
妻子・家臣ぜんぶ連れて能登へ移れと命じられていて
年貢に関しては本年分を受領し、来年分は長頼に引き渡すように言われている。
その一方で府中は利長が封ぜられたとも言われている。
その理由は信長の娘と利長が婚姻したことだといわれている。
そして本能寺の直前に利長夫妻は信長に呼ばれて本能寺を目指していたが
これは信長が新たに能登を与えたことから利家から利長を人質にするためのものだったとも言われている。 >>336
信長が取り立てて大名にした奴は、ほとんど母衣衆や近習あがりだし。 なんか「信長の野望」で武将の再配置するときみたいな話だな 親族・子飼いで固めるのは家康もやっているから一概に信長が間違っていたとは言いきれないと思う
特に信長の場合だと途中参加の外様の連中が反逆するケースが頻発したわけだし
松永、三好、富田、波多野、荒木・・・・数え上げればきりがない 家康はまったく逆だろ
外様ほど大封を与えたんだよ
ただし、地理的には僻地でね
で、役職には就けさせなかった
譜代や一門親族は要地に小藩を置いて、そのかわり重役を任せた 佐久間も、数万石から十万石程度の所領で、織田家筆頭老臣という家中の地位だけに依存して采配を振るい、
独自の勢力を持たなければ追放はなかったのかな? 信長の場合は家臣に与えたのでなく
目付けに監視させた上で領地を預け置いただけだから
佐久間のように気分ひとつでいつでも没収できる。 信長は、自分以外の人間は自分と違う普通の人、凡人なんだ、って
ことが理解できてなかったっぽいような印象を受けるね
こういう人、今でもよくいると思う >>346
信盛の人間像を想像するにはその話が一番インパクトあるね 逆に信長がどんだけキチガイな怒り方をしていたんだと思うと怖いわ。
しかも信長が根に持つ性格なのがよくわかるわ そうかな?多少なりとも笑っていたんだと俺は想像してる
この発言と追放は全然関係ないと思うよ >>344
でも実際というか、建前上は少し違ってたんじゃないかな。
そうでなければ、だれも信長についてゆかない。 実際信長死んだら葬儀もやらずに
すぐ家臣たちが織田領を分配するのに熱中して他家と違って節操がまるでないって嘆息されたほど
上記のように多聞院日記に皮肉を書かれたほどの常識を逸した手の平返しをしてるじゃん。
そもそもの武士の発生過程というのは、自分たちの開墾地を自衛する
ために武装した人々がいて、しかし個々は弱いので団結する必要が
あって、それを束ねる人たちが出てきて、兵役を負担する見返りに
開墾地を守ってもらうという、武力の保険制度のような「御恩と奉公」が
成立した、というのが発端。
だから中世の武士の倫理観としてはこの契約が破綻したら関係は
終わり。お互いに義務を負い合う双務的な契約だから。
それが「主君第一が家臣のつとめ」になったのは、江戸幕府が朱子学を
基準にしたため、そのように変質していったというのが事実。
こういう武士の倫理観は僧侶や公家には理解できなかっただろう。 >>355
> そもそもの武士の発生過程というのは、自分たちの開墾地を自衛する
> ために武装した人々がいて、しかし個々は弱いので団結する必要が
> あって、それを束ねる人たちが出てきて、兵役を負担する見返りに
> 開墾地を守ってもらうという、武力の保険制度のような「御恩と奉公」が
> 成立した、というのが発端。
それ俗説。完全な間違い。
今は武士の発生は、中央の武人貴族が平安期に地方に下り、その地域の国衙軍を
統率、それが固定化し主従化、世襲化した物、というのがほぼ定説になっている。
開墾農民武装化説はほぼ否定されている。というか今の市民が武装化しても軍隊にはならないのと同じで
農民が武装してもそれは武士にはならんよ。 揚げ足取りぽくてすまんが人の意見に異論を挟むなら言葉はしっかりしないとな
完全な間違い と ほぼ否定されている じゃあ意味が違うぜ
>>357
わるかった。「ほぼ間違いと現在認識されている」で。 >>356
旧郡司層と土着した国司の子孫がルーツだと思ってたけど違うの? >>359
土着と武士化は全然別だろ。
武士に成る必然性がない。 >>360
いや、あの、そういう人らがルーツの在庁官人が武士化したんじゃないかと言いたかったんだが… 武士の起源論は簡単には結論出ないからここで論じても仕方あんめー。
それは措いといて、武士の倫理観の変化という話の部分は正しい
指摘だと思うよ。
見返りを求めない無限の忠誠を要求されたのは江戸時代からで、
それ以前は役に立たない主は捨ててもよかったでしょ。 江戸時代でもバカ殿は押し込めてもいいんだよ。
そもそも米で藩から給料もらっているようなもんだし
所属する組織に忠誠するのは当たり前の話。
中国が異民族に侵略された時に漢民族が考え出した朱子学が日本に流入して
日本向けにアレンジされ天皇の再認識がなされ南北朝時代を呼んだわけで
江戸時代に突然変異で変化したわけじゃない。 そういや、通字は「盛」で合ってる? 信の字は、織田家当主からの偏諱で。 >367
盛重の系統の通字が盛で信盛の系統が信だったと思う >>367
別に通字ってひとつの家系で永遠不変なわけではないよ
佐久間家の「盛」は、和田義盛-常盛-朝盛-佐久間家盛の流れに由来
信盛系は「信」と「盛」と両方ある(盛進などもいる)
他に安政系は「安」だし勝之系は「勝」だし えっ 佐久間家って由緒正しい家なの?
信長公(自称藤原、平、ほかなんでも)とか前田利家(自称菅原道真の子孫)みたいに
自称じゃないの自称 何をもって「由緒正しい」とするか謎だけど
和田朝盛の子の佐久間家盛が御器所を与えられていたことは確認できてるよ
御器所のほうでは室町中期ごろにはもう佐久間の名前は確認できてるし ふうむ そうするとれっきとした平家ですな 御先祖様はまさしく天皇家のお方
家柄いいんじゃ!という自負はあったでしょうな 秀吉の家はどうも「ハシバ」が隠し姓だったフシがある。
それが元々「羽柴」だったのか、それとも「橋場」「端場」などの地名苗字に
雅字を当てたのかはわからないが。 >>373
そうでしょうね。当時の佐久間は尾張でも屈指の名家だから。 >>375
やはり、秀吉自身が橋端と羽柴をかけて創った姓と言われている
橋のたもとに捨てられていた話との 井沢元彦氏などは端柴売りの稗吉という説をとってますね
端柴売りというのはハンパなタキギを売る最下層の木こりかなんかのようです
非常に自虐的な名前ですな 葛飾北斎の別名、画狂人、画狂老人、月痴老人などを
思い出しました なくはないけど、ここまで卑屈にされると逆に怖いですね
奴隷だけが王を殺せる、みたいな凄みを感じます そういう貧農説とは逆に、秀吉の実家はある程度規模の大きな百姓で、農業だけでなく
河川流通業も手がけていて、そのため船出し場のある「橋場」あるいは「橋端」の
藤吉さんと呼ばれていた、って話も聞いたことがあるな。 河川流通業が一番ありそうだよなー
商売人だから算学に明るく奉行職ができ、
美濃の流通業者と顔が利くから蜂須賀らを動かしたり調略もできたとする論拠は織田家でいきなり登場するや奉行スタートですぐ軍勢を率いる立場になると言う大抜擢の裏付けとして一定の説得力がある。 >>369
和田義盛の盛に由来するってのは凄いね。
結城家の朝が頼朝に由来するってぐらいビックリ。
あと安や勝は別家として独立した証左なんでしょうね。 そういえば信長嫡男の信忠(信重)は、明らかに平忠盛(平重盛)からだな。 >>380
おそらく商人人脈としての採用だよな、秀吉は。
かなり早くから津島とか川並衆とかとの統括みたいな位置に居たみたいだし。
ソースがネットのどこかなんで、この情報が間違ってる可能性あるけど。 >>382
そうなんよね
勝之は何とかして盛政の家を復興しようと尽力したらしい
中川家に嫁いだ盛政の娘虎姫の息子内記に家を継がせて
自分の娘を嫁がせた
内記が後嗣なく没した後はその自分の娘を中川資重に
嫁がせて資重に家を継がせた
おそらく自分の家は分家で、本家は盛政家、という意識が
あったんだろうと思う ざっと鎌倉からの流れを追っていくと
三浦氏の出身の和田義盛が侍所別当として幕府の一角を成し、和田家は一大勢力に
孫の朝盛は三代将軍実朝の覚えめでたい寵臣だった
しかし和田氏は北条氏の陰謀により罠に陥れられ、武力衝突に発展、和田合戦となる
朝盛は実朝に弓を引きたくない思いから、出家しようと京に向かうが、祖父義盛からの
追手に追いつかれ説得されて参戦する
結果は和田一族の敗戦となり一族はほぼ滅亡、朝盛はなんとか逃げ延びた
その後の承久の変では後鳥羽上皇方についた記録がある
朝盛は同じ三浦一族の佐久間家村の養子になっており、朝盛の子家盛はこの家村の
元に逃れた
家盛は承久の変では幕府方で戦い、恩賞として尾張の御器所を賜った
ここに家盛とその子孫が定着し、室町期から戦国期にかけての尾張佐久間氏となる
だいたいこんな感じ 和田の嫡流って、凄い名家じゃないか
三管領や四職なんかよりずっと家格高いぞ そんなことはあるまい しょせんは自称が多い坂東平氏
軍事的に貢献して頼朝公の側近になっただけのはなし
三管領は足利一門だから超源氏 田舎の自称平氏あがりとは格が違うと思われる >>390
和田氏は坂東平氏の名門中の名門で、八幡太郎義家に従って武勲を立てた三浦一族で武勇の誉れ高い和田義盛の末裔だろ?
鎌倉時代に足利本家から分かれ、室町時代になってようやく家名を高めた細川・斯波・畠山よりずっと由緒正しい家。 >>392
だから?先祖が有名なら何でも由緒正しいのかお前の脳内は。 「由緒正しい」とか、基準が曖昧なことで言い争うなよ いまだに由緒に価値を見いだしてしまうのね
由緒なんて人の評価に何の意味もないのに >>397
何を勘違いしてるの?
ここは戦国時代の佐久間氏を語るスレであり、
今現在の価値観を論ずる場所ではない。 道が逸れまくりで肝心の佐久間も論じてなさそうだが?w 佐久間盛政と前田慶次郎はタイマン勝負したらどっちが強いの? 盛政は別に個人的に武芸の達人というわけではないからなぁ
千単位の兵を率いての合戦なら盛政のほうが有利じゃないかな >>402
そうかな?
部隊指揮官としての盛政も優秀だったが、槍働きもそこそこ伝えられてるでしょ
例えば
盛政が18歳の時、金森の戦いで前田利家の家臣村井長頼とともに一番首を同時に取ったが
盛政は親父殿(勝家)へ真っ先に報告したかったため
信長に近侍していた前田利家を通じ村井に先を越され信長よりの一番首の名誉を逃した話とか
20歳の時の槙島の戦いでも先陣を切っているし
天正九年に一向門徒の支援受けた上杉軍が佐々が留守している越中の鳥越、二曲城奪われると
電光石火二城を奪い返した時に槍を片手に次々兵を突き倒し血祭りにあげる盛政を恐れて
敵から鬼玄蕃と畏敬をもって呼ばれるのだが
一方慶次は後世の小説などでの脚色が多く史実かどうか曖昧な部分が多い 信盛系佐久間氏と盛政系佐久間氏ってどっちが名門なん? >>405
はっきりどちらが正統であるかはっきり言えないが
佐久間家十二代目盛通には盛明、盛経、朝信、朝次の四子がいたが
名塚城主の次男盛経の嫡男が桶狭間で奮戦戦死した佐久間大学こと盛重
守山城主の三男朝信の嫡男が信盛
御器所西城主の朝次の嫡男が盛次(上洛戦で戦死)、盛政、安政、勝政、勝之四兄弟の父
盛通の長男盛明の系統はよくわからないが織田家には一番早く仕えたらしい
盛明の孫政実は信盛の二男正勝を養嗣子にもらっている
佐久間盛重が桶狭間で戦死してからは佐久間信盛が佐久間一族では棟梁的位置付けかも知れないね 秀吉は流通や商人の人脈と顔がきく
光秀は幕府や朝廷の人脈と顔がきく
一益は伊勢国衆と顔がきくから
信長から雇用され他国侵攻や掌握に有利に働いていたが
柴田や佐久間ら尾張人脈に顔がきくだけだから出世競争に最初から思いっきり不利だったよな。
荒木や松永だって結局はそれぞれ地域で顔がきくから信長から有能扱いされただけだし
まあ顔がきき地盤も掌握してるから信長に謀反し易いがな。 >>409
>秀吉は流通や商人の人脈と顔がきく
??? 柴田勝家と佐久間信盛が織田家の家老のツートップだったのかなあ そもそも信長の織田家に、重臣という発想はあっても、家中の経営を代行するという意味での
「家老」という発想があったのか? 信長公記でいう「おとな衆」てのがどういう存在だったのか不明だしな 平手と林の息子達が若いくせにおとなっぽいんだよなぁ
林は隠居してたのに息子の戦死で復帰したんじゃなかろうか? >>411
天正の初期までは、軍事面ではその二人がツートップだね
長島攻めや将軍義昭との闘争など、信長が五万以上の軍勢を動員するときは
軍勢は三つに分けられ、その司令官は信長、佐久間、柴田の三人が常だった 三方ヶ原に佐久間が平手・水野合わせても3000しか連れて行かなかったのは少ないような。 今日で足利義昭が挙兵してたからそっちの対応に追われてた
…にしても少ないか 佐久間軍自体はそれほど多くない
軍の規模は与力の次第。 佐久間信盛は
対本願寺の旗頭として尾張・近江・大和・河内・和泉と西三河、根来衆の寄騎がつけられた
本願寺との和睦で対本願寺軍の存在意義なくなりリストラ
信長が有望な家臣を出世させるには信盛の存在自体が邪魔だったし 信盛も用済みになったところへ持ってきて信栄がボンクラだからな
跡継ぎが優秀なら隠居ぐらいで済んだかも知れんが 岩松八弥の派遣元、
広瀬の佐久間というのも同族?
佐久間全孝 >>426
たぶん別。
遠江に、佐久間ダムで有名な佐久間という土地があるが、そこから出た
自称藤原系の佐久間というのがもう一つあるらしい。
ちなみに信盛・盛政らの佐久間は安房の佐久間(現鋸南町)の出。 誰かが下総高城氏と縁戚にあったけど、まんざら縁がないわけじゃなかったんだなあ 佐久間製菓の創業者は佐久間惣次郎氏だけど、先祖についてはよくわからん
ちなみに女優の佐久間良子さんは御器所佐久間氏系の出身らしい 信長の野望でもっとも過小評価されてる武将だな
統率71は適正だけど知略38、政治57はひどすぎる
どっちかというと策謀家なのに・・・ ただでさえ超初心者向けの織田は最強レベル家臣団なのに
さらに佐久間まで強化されたらゲームとしてバランス悪すぎ >>433
100/58/100の方がエロいと思うぞ 武田のNo.2=武田信繁
上杉のNo.2=長尾政景
豊臣のNo.2=豊臣秀長
徳川のNo.2=酒井忠次
織田のNo.2=佐久間信盛 >>434
> ただでさえ超初心者向けの織田は最強レベル家臣団なのに
だから
「我らほどの家来は、なかなかに持たれまじきと存じまする」
なんだな もし佐久間が追放されてなくて、織田家が江戸幕府のような幕府を開いていたと
すると、間違いなく佐久間家は大老を出すレベルの家格になるよな 信長の所領の広さは無視?
佐久間の所領の大きさは認めるけど、本能寺が無ければかなり早い時期に戦国の世は終わりでしょ 信長は所領も国人地侍の中間搾取を認めた室町期と変わらん不安定な支配体制。
どのみち長持ちはしなかっただろう。 柴田が謙信の死と御館の乱のおかげで加賀を攻略できて首がつながり
滝川も武田攻略開始のあたって信長から
「俺が出陣するまで軽挙するな。砦普請に力を入れろ。
若い信忠をキチンと制御しろ、失敗したら2度と俺の前に参上を許さんから覚悟しとけよ!」と言われているのだった。
そして森を先陣に信忠が軽挙進撃を続けて、老人滝川は動揺していただろう。
結果的に武田征伐は成功したから良かったが
失敗してたら滝川も佐久間と同じように追放されていた。 光秀にもそーいうことを言ってるんだろうな。
さすがパワハラ会長独裁ブラック企業織田 ガチケチ利家は
利長に信長娘を貰って
安泰を計る計算高さを発揮。
あっでも信康の件があったな… 本能寺の変で
じつは信長生存してたら、
丹羽とか森とか毛利は追放だったな。
河尻みたいに討死してた方がマシだったかもな。
でも討死した塙(原田)の件みたいに一族追放されちまうか。 佐久間兄弟は柴田について秀吉と対立して賤ヶ岳を戦ったうえ
秀吉に従うのを拒んだために長男の盛政は死んだが、弟たちは
秀吉に従わずに抵抗し続けたおかげで家康の時代になって
優遇されて大名になれた。
戦国の世って何が幸いするかわからんもんだよね。 水野信元死刑。
林秀貞、安藤守就、丹羽氏勝も改易。 信忠はタダのアホ
森や団の血気に影響され
高遠城攻めで自ら鎧を着込んで最前線に出てきて
先へ先へと味方と武功を争って堀際へ取り付いて
柵を倒して塀の上に登ってんだから
大将にあるまじき振る舞いだわ。
これで流れ弾にでも当たった日には
川尻と滝川の首まで信長に切り落とされてるわ。
浅間山が噴火して
甲斐や北信濃が混乱して
高遠城の後詰めにきた
勝頼が本国に帰らなければ
猪武者信忠は死んでた。
信秀公がなくなり、ハタチそこそこの信長公が跡を継いだ直後は
佐久間あたりはかなりの発言力があったに違いない インターネット調べていますが 佐久間中部のあさかな(漢字は知りませんが)
廃集落について調べる方法ってありますか >>469
現地行けば?
というような話ではなくて? 現地の役所か図書館で県史、市史、町史の類を読む。
話はそこからだ。 小山評定後にアッサリ帰った真田
万石も無ければ、将軍にも媚びない喜連川氏
1万500石でも苗木城持ち遠山氏(金さんの親類)
家光側室の町人だった増山氏 米が取れない松前氏など
【陪臣・喜連川ほか】 「小大名」スレ 2 建てました
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1329412330/l10 信長から追放された時になんで佐久間は武力行使して信長に謀反しなかったの?
信長には兵力の余裕なかったんでしょ? 信盛を兵力から離しておいて折檻状→追放
信長もバカじゃねえよ 佐久間盛政は賤ヶ岳の中入り失敗ばかり指摘されて損な役回り 正確に言うと奇襲は失敗じゃなくてむしろ大成功。
この戦の中で最大の戦果を挙げている。
問題はその後の味方との連携で、それは盛政ひとりじゃ
どうにもできない面があるよね。 佐久間信盛って織田家の中で一番強くね?
○稲生の戦い
○観音寺城の戦い
○野洲河原の戦い
○姉川の戦い
▲志賀の陣
●三方ヶ原の戦い
○一乗谷城の戦い
○若江城の戦い
○高屋城の戦い
○長篠の戦い
○天王寺の戦い
○紀州征伐
○信貴山城の戦い
○石山合戦 信長公記を読めばわかるが、柴田と佐久間が織田家の軍事面の
ツートップなのは間違いない 柴田より全然上じゃないの?
姉川の布陣とか見た感じ、副将みたいな感じ。 とりあえず教頭を傷害罪で逮捕しておけ
それだけで収まる 佐久間軍記の序文にも書いてあるんだよな
佐久間家は織田家の中心として支えてきたのに、その功績は
ほとんど伝えられてない、ってさ 信長は直臣で固めて、外様や織田宿老は佐久間や林のように全て追放する気だったのだろう。
秀吉も信長の近くで添え状やったりしていたっぽいから
堀や蒲生らみたいな直臣出自だろうし。 突っ込み所はいっぱいだが側近とでもいいたかったんだろう えっ?利家とか佐々とか信長自らが採用した馬廻り出身は直臣だろ。
前田の本にも書いてあるぞ。
このメンバーは柴田の監視役の目付けとかになってるし。
柴田は越前を預けられたが、前田とか直臣層は加増だしな。
織田家代々の宿老の家柄とは違うだろ。
佐久間なんて信長にも直接に意見を言える立場なのは
信長に仕えたというより織田家に仕えていたと言えるのでは。
信長は宿老層を排除し、外様層は一代限りで死去したら息子らは追放。
そのあとを直臣層で固めようとしていたら外様の光秀に殺されたのでは。 >>501
塙直政なんかは、馬廻り出身だけど一族郎党は没落させられてるな。
それから「直臣」、「陪臣」、「譜代」、「外様」をそれぞれ辞書で調べよう。
のぶやぼ脳全開で共通言語を破壊されまくると、意思疎通がますます困難になる。 塙は本願寺に破れたから
信長の怒りを買い
一族は指名手配犯にされてるんだから
まったく比較対照にならんだろ。
そんなことすら知らないとか無知すぎてワロスw >>492
この戦国時代板ですら、佐久間信盛が織田家最強という事はすぐ否定される
一般の知名度は推して知るべし(泣)
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1331989369/579-587
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1331989369/614-631
630 :人間七七四年:2012/06/26(火) 06:34:55.04 ID:f9Lj7iB2
佐久間が最強で最大なんて聞いたことないな。
与力つけられてただけで佐久間当人の戦力なんてたかが知れてる
>>507
それは戦国無双とか信長の野望で戦国時代に興味持った歴女みたいな
浅い歴史ヲタが集まってるスレだろ
自力で一次史料に当たるほどのマニアはそっちにはいないと思うよ 三方ヶ原の戦いでは、滝川一益・平手汎秀・水野信元と共に3,000の兵を率い、徳川家康軍8,000の援軍に赴くも、信盛は27,000の武田信玄軍を目の当たりにし、ほとん
ど戦わずして退却。同じ援軍の将であった平手汎秀は徳川軍と共に戦い戦死している。 >>510
孫子の兵法を読んでみることをおすすめするよ
「戦う前に勝つ」が最良、負けると分かっていて一か八かで戦うのは最低最悪
と書いてあるよ
勝てる見込みがなければさっさと逃げるのが将として優秀で有能
無駄、無意味に兵の命を使うのは最低の指揮官 >>510
折檻状から読み取るに、実際は逃げずに戦っていると考える方が自然
一、信長の生涯の内、勝利を失ったのは先年三方ヶ原へ援軍を使わした
時で、勝ち負けの習いはあるのは仕方ない。しかし、家康のこともあり、
おくれをとったとしても兄弟・身内やしかるべき譜代衆が討死でもしてい
れば、信盛が運良く戦死を免れても、人々も不審には思わなかっただろうに、
一人も死者をだしていない。あまつさえ、もう一人の援軍の将・平手汎秀を
見殺しにして平然とした顔をしていることを以てしても、その思慮無きこと
紛れもない。
どう読んでも死人が出る前に逃げ帰ったとしかならんだろ。 >>513
佐久間信盛は、戦わずに逃げたとは言っていない
他の諸将も信盛が逃げた事を証言していない
信長が推測で逃げたと非難しているだけ そして敗因が家康にある事は信長自身が認めている
おそらく先鋒の家康が崩され、中段の平手が討死し、
本陣の信盛も退却するしかなかったのだろう どうでもいいけどたった3000の援軍しか出してないくせに
信玄相手に勝利を失ったとか、自信過剰というか楽観的すぎじゃない?
敗因の9割は信長の判断ミスだと思う。 >>511
中国では戦わずに勝つのが最良(孫武は少し古すぎるが)
日本では戦って勝つのが最良(室町時代くらいから)
勝ち目が無いから逃げるってのはどっちにも当てはまらない別の話 秀吉は柴田と丹羽の字を戴いて羽柴と名乗ったよね
柴田・丹羽と佐久間・林の派閥争いでもあったのかな? >>519
> 秀吉は柴田と丹羽の字を戴いて羽柴と名乗ったよね
それ俗説。そういう事があったと示す史料は一切存在しない。 >>518
勝ち目がないのに無謀な戦をすることは
その分、兵や民に無駄な負担を強いることになるわけで
為政者としても指揮官としても最低なんだよ
合戦のカッコイイところばかり見るのではなく、それを
支えた民の視点でちゃんと歴史を見るようにならないと
空想の歴史で終わっちゃうよ
勝てないとわかっていて戦う、なんていうヘンなヒロイズムは
戦時中のキチガイみたいな日本軍人だけのものだからね >521
仁科盛信、高橋紹運とか大阪の陣今山の戦い桶狭間吉田郡山城の戦いとかいくらでもあるけど
世界史でも勝ち目がなくてもやってる戦いなんかいくらでもある
負ければ逃げようが隠れようが住民の権利ごと殺されるのが当たり前だからな
生き延びるには勝つしかない、その為の兵書なのさ
今を生きてる人間は基本的に全員勝ち組の末裔なんだぜ
現実の歴史に>>521の様なゆとり世界は殆ど無い >>517
当時の佐久間信盛がたった3千の兵力の訳が無いじゃん
もっと多いに決まってる
徳川史観に犯されすぎw >>523
そんなことしたら一族皆追放される
負けて戦死する方がマシ
こっちの方が当時の感覚に近い >>524
じゃあ三千じゃ無いっていう具体的証拠を出して言え。
何でもかんでも徳川史観ってレッテル貼ればいいと思ってるんじゃねえぞ。
というか今時、徳川史観(笑)w
言葉の定義もせずにwww >>526
具体的証拠って、もしかして、史料の兵数の記述をそのまま信じる人じゃないよね? >>522
いくらでもある ≠ 考え方として正しいと考えられてきた
わかるかな?
たとえば殺人なんて昔から掃いて捨てるほどたくさんあるが、だからといって
殺人が倫理的・道徳的に許容されていたとは言えない
高松城水攻めのときの清水宗治のように、城主の切腹と引換に家臣や民の命を
保証させて降伏する、という例も少なからずある
例を挙げて反論するのなら、逆の例もちゃんと考えないと、我田引水の謗りを
免れないよ 近代に成立した「戦陣訓」なんかの影響を受けすぎなんだよね
「生きて虜囚の辱めを受けず」とかさ
佐久間盛政は、浅野長政に「なんで負けたのに切腹しないのか」と言われて
「源頼朝公だって石橋山で負けたときに穴に隠れて生き延びて後に大事を
成しただろうが」と反論した、と佐久間軍記に書かれている
>>527
普通軍記の兵数って「過大に」書くものなんだけどねw
そういう意味で兵数を信じていないといえばそのとおり
佐久間の軍勢は半分の1500くらいだっただろうねw >>532
織田は軍勢の過大発表大好きだからなあ。
平均すると3倍くらいに見積もってる感じだから。三千の発表なら、千くらいじゃないかな? >>533
佐久間1人で3千とは、どの織田の史料からでてきたの? >>533
水野や平手の軍勢は無視?
もしかして全員あわせて実数1000人とか思ってるの? 佐久間は織田のナンバー2だぜ
1万の軍勢を率いていてもおかしくない 武田の軍勢と戦わずに籠城するように信長は佐久間らにきつく申し伝えてから家康への援軍に派遣したはずなのに
なぜか信長の命令を守って戦わず
無意味な消耗を回避し兵力温存した佐久間に対して
なんで戦わなかったんだ!と逆切れする傍若無人ぶり。 傍若無人は傍に誰も居ないかの如き振る舞いのことだから適切でない。 >>537
1行目の方は後世の作り話だからね
1万の軍勢を率いて徹底的に戦えというのが信長の本当の指示じゃね? 信長
「三方ヶ原じゃおまえの一族誰も死んでねーだろ
誰も死んでないって何事だよ、お前いらねー」 死んだ平手を生き返らせろや。つか平手じゃなくて
信盛お前が死んでくれればよかったのに!
>>543
家康のためなんかに死にたくねーし とか? 信盛は普通に大軍を率いて戦って、普通に信玄にボロ負けしたんだよ
いい加減認めろw >>265>>268
信長がチャンスとかエゲレスの言葉を使うのか
斬新ではあるが・・・他に言い様があるだろうに 佐久間信盛は無能ではない
ただし有能でもない
数ある織田軍将兵の中の1人
つまり凡将 原文では
一、此の上は、いづかたの敵をたいらげ、会稽を雪ぎ、一度帰参致し
になっている。「いづかたの敵をたいらげ、会稽を雪ぎ」なんて明らかに手柄を立てて来いという話しだし、
あと言っておくが佐久間はその辺の新米家臣じゃない、信長が佐久間につけた家臣の他に
佐久間が自ら雇った家臣もいる。そいつらを率いるのは佐久間の自由なんだがw 「会稽を雪ぎ」はおそらく古代中国の越王勾践が呉王夫差に破れて会稽山で命乞いした後に、精進して夫差を破り
呉を滅ぼした故事の事だろう。これは臥薪嘗胆の故事として知られている話だ。 所領が無いから今までの家臣も雇い続けることができないのでは?
き‐さん 【帰参】
[名](スル)
1 帰ってくること。
2 一度ひまをとった主人のもとに再び仕えること。「―がかなう」「元の職場へ―する」
3 勘当されて家を出た者が、許されて親元へ帰ること。 佐久間の所領がなくなったのは佐久間父子が追放処分になった後
この時は折檻状受け取っただけだから、まあ佐久間についていた与力は信長の家臣だから
佐久間の下に付くことはないだろうが、佐久間が雇った家臣は使える段階にある
そもそも「敵をたいらげ」だから別に敵そのものを指定されているわけじゃない
それに佐久間は家臣にも見捨てられた、なんて表現をすることも多いが
一族側近は佐久間を見捨ててはいない。つまり徒手空拳というわけではない。
あとどうでもいいけど>>553は、ID見ればわかるとおりマルチコピペ >>557
ほんとへたれだな佐久間って
一万くらいの兵持ってたんだから適当にどっか攻めて
手柄あげればいいだけだったのになw
ずっと怠けてたからしょうがないか >>558
まああえて佐久間の擁護をするなら
さすがにお家の事を考えると敵をたいらげる前に討死するのは
耐えがたかったんだろう。佐久間自身はこの時老齢もいいとこであるが
やはり息子達のことを考えると「高野の栖を遂げ、連々を以て、赦免然るべき」
の方が安全策に思えたんだろうな
まあだからといって有能とは言い難く、凡将の選択と言えるけど まあ信盛があーなったから盛政の大活躍が可能になったんだけどな まあ信盛があーなったから光秀の大謀反が起こったんだけどな
畿内を任されていた佐久間の後釜が光秀だからな
光秀は佐久間と自分をダブらせていたはず >>559
おいおい
明智光秀や斎藤竜興がどれ程苦労したか知らないと見える
領地も無い流浪者が倒せる敵など、戦国末期に居るわけが無い
当時を知らなさ過ぎ >>562
敵の所定はされていないし
前田利家はそれで復帰できたからね >>563
前田利家がどれ程苦労したか知らないと見える
当時を知らなさ過ぎ まだ若輩者の時には必死で槍働きすることもできようが、それなりに出世した者が同じようには出来るものではないと思うがな。 >>557
>佐久間の所領がなくなったのは佐久間父子が追放処分になった後
この一行目でもう完全に頭がおかしいだろ
佐久間の所領には、尾張前田家 (与十郎家) や水野旧領があるが、
これらは信長の家臣なのだから、佐久間信盛の槍働きなんかについていかない 自領がなかったらあんな地位にまずつけないからな
もちろん与力の領地もあると言うのはその通りだが 信盛はどうすればよかったのか。
教如が石山から退去した直後に、しおらしく自害すればよかったのか。 郎党率いて陣借りして武功あ上げて帰参
1年ちょい後に死ぬ本人が既に健康を害してたとしても働き盛りの息子がやればいい
と言いたいところだけど息子がボンクラだからなぁ >>571
郎党をどうやって養うのか?
本人も息子も追放なのだから、領地も当然召し上げだろ
同時期の安藤や林も領地没収されてるぞ
その考えは、どうみても非現実的な妄想だと思われ どうやってくってる食ってるかは知らんがある程度残るみたいだぞ
仙石だの立花だの >>574
大根飯食わされて、おい白米食わせろと言いはなった強者だよな >>571
>郎党率いて陣借りして武功あ上げて帰参
どう考えても無理という結論がでましたね
ありがとうございました >>579
元家臣に一族郎党養ってもらって武功あげて帰参
ちょっと無理かと 元家臣にもそれぞれの生活があるんだよ
だから普通は見限られる
倒産した中小企業を想像してもらえるとわかりやすいと思う
立花みたいなのはレアケース 極端な例だと大坂の陣とか没落組が山ほど戦線復帰したがね
根拠もなく無理無理言っても恥かくだけだぞ
どうしてもそういう事にしたいみたいだけどw あの時は豊臣家が支度金を用意して牢人を集めたんだろう。 ちなみに長宗我部盛親はそれまで京で寺子屋の師匠をして食いつないでいたらしい。 そりゃ豊臣家みたいな巨大資金の持ち主が居れば、
大名クラスでも再興できるよ
それを戦国時代真っ只中の一武将に過ぎない佐久間信盛に
当てはめるというのはどうかなー 改易から暫くは高野山にて隠棲し、京都・大坂に滞在していた時期もあったという。
だが天正18年(1590年)に小田原征伐が始まると故郷である美濃国で浪人衆を集め、
また秀吉の盟友となっていた徳川家康からの推薦もあって陣借りという形式で豊臣軍
参加を許された。
おそらく家康あたりが援助してくれたんじゃないか。 前田利家 伊達成実 伊奈忠次 大野治長 平塚為広 佐橋甚五郎、他
ググッてみたら陣借りして帰参できたのって結構いっぱいいるね 働き盛りの息子がいるぞ。ただし本物のボンクラ
うん、無理ゲー 信長は次々と改易して直轄を増やしてたし、
家臣をかばって信長を諌められる佐久間ほどの実力者で
しかも本願寺追い詰めた抜群の武功まであげ、
報いるべき知行地のない信長に難癖つけられ狙われて当然。
韓信のようなもんだな。
佐久間が畿内軍を率いていたら光秀も謀反できなかったし
秀吉も乗っ取りできなかった。 ttp://hissi.org/read.php/sengoku/20130323/R3hic1JoaEQ.html
妄想ばかりするいつもの奴か
光秀が丹波に領地を得たのは別に佐久間が失脚したからではないし
そもそも本能寺当時の明智の地位は大して高くないな
筒井や細川に見限られている時点で論外 http://hissi.org/read.php/sengoku/20130323/R3hic1JoaEQ.html
妄想ばかりするいつもの奴か
光秀が丹波に領地を得たのは別に佐久間が失脚したからではないし
そもそも本能寺当時の明智の地位は大して高くないな
筒井や細川に見限られている時点で論外 そういや中川家に嫁いだ盛政の娘ってwikiだと次女ってことになってるけど、長女や男の子はいなかったの? >>264
谷口克広の「信長軍の司令官」の冒頭部分のパクリじゃないか 近畿管区で細川、筒井らの指揮権を保持し、京都御馬揃えを任された織田四天王の光秀の地位が大して高くあらへん(すっとぼけ)わら
二人の日和見野郎はあくまで織田臣下であって明智家臣じゃないからないから光秀評には絡んでこんわ
ちな、本能寺の変という謀反を起こした時点での意味なら、織田家での地位は抹消。それフェアじゃないで。わら 御器所(地下鉄御器所駅周辺ではなく鶴舞公園の方?)のあたりは佐久間氏の領土だと聞き、
桜山に住んでいるので親近感を覚えました。桜山あたりまで佐久間氏の領土だったのでしょうか? >>595
そうはおっしゃるが、我々ほどの臣下を持つことは、滅多にあるものではござるまい 佐久間信盛、柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、蜂屋頼隆、氏家ト全、稲葉良通、安藤守就、蒲生賢秀らは恐縮して詫びたが、信盛だけは涙を流して小面憎く理屈をのべたのである >>592
こら、菅沼遼太と言う名前がちゃんとあるんだから呼んであげなさい りんごうクブラレテナア宅備読流ラーメン
りんごうクブラレテナア宅備読流ラーメン
りんごうクブラレテナア宅備読流ラーメン
横浜駐車近代らーめん 筆頭家老ではあるが家臣を養う事をせず、
カネばかりを貯めこむ事に腐心したため、
近畿の戦局が芳しくなく、追放された。 佐久間信盛って七カ国から与力を与えられてたみたいだけど、
自身の所領とか居城ってどこだったんだろう?
あとその石高とかも気になる 佐久間信盛のような力のある家臣は面倒なんだよな
毛利元就も何名もの重臣を排除してる
武田信玄なら小山田かな 未だに光秀讒言説信じてる奴いるんだwww信長無能にしたいだけ?
追放か光秀秀吉のようにもっと成果出せと丁寧に選択肢を提示してあげてるだけなのに >>592
畿内方面司令官(支配領域240万石相当)で大した地位じゃないってw 信盛自身に隠棲するか、命を賭して功績を挙げ挽回するかどちらかを選ばせただけ
ちなみに隠遁後でも利家みたいに汚名を晴らして戻って来いと。ただの讒言だったら光秀が斬首されただろ >>611
板垣は信玄との力関係で生きてる間は無事だったが息子世代で粛清された
武田で粛清といえば飯富もだな
そのころは信玄の家中での力も強くなってて直接手を下せた 板垣信方の息子って佐久間信盛と似たような詰問状を受け取ってるんだな >>612
飯富は違うぞ。そこいまだに誤解がある
飯富兵部は義信が生まれた時からの守役だったから、今川に内通してお家騒動を起こした義信の責任を取って切腹しただけ
信玄が申告した昌景以外の飯富一族まで一切粛清してないのがその証拠
そもそもあの時の最盛期の武田にわざわざ謀反する価値なんか無い。しかも落ち目の今川なら尚更で、謀反なんかに加担する家臣はない
重臣の兵部はそれを誰より理解してて当然。だから兵部としても苦肉の決断だった
勝頼期に複数が失脚したのは、勝頼が武田直系の当主でなく信勝成人までの代理にも関わらず強硬政策した事と、跡部等の勝頼期の家臣を重用したのが合議制を続けてきた武田譜代家臣の反発を招いたから
佐久間とは全然状況が違う 勝頼の時代って、失脚というか信玄の重臣達が冷遇されていたって話だろ
山県にしろ馬場にしろ、献策も受け入れてくれなかったという説がある
勝頼を貶める風説の可能性もあるが、本当に関係が良好なら長篠出陣はしないし旧重臣が自殺みたいな真似もしないわな
武田嫌いは勝頼持ち上げたがるが、滅びる原因ってのは基本先代じゃなく当代の責任だわ
信玄期の武田を勝頼敗北の原因ってのは大概に甘えが過ぎる 自殺みたいな真似の実態は第6次川中島のようなことだったかも知れないじゃないか。 川中島は霧の中の遭遇戦だった説が有力だからね
長篠の戦いは見晴らしの良い日に加えて奇襲要素が無いから
そもそも川中島は被害あっても信濃の支配権は武田が守り抜いて、上杉側に利益は無かった
長篠は残りの重臣殆ど戦死で城をとられた挙げ句に国力が衰退してるから自業自得 追放された信盛が本能寺の変の後まで生きていたとして、織田家を盛り立てて秀吉、勝家、家康に睨みをきかせるような仮想戦記を教えてくらはい。 宮下秀樹のセンゴクの佐久間信盛が結構好きだな。
結構いい人として描かれているのが良い。 佐久間がいれば関東管領か四国攻めの総大将になれたはず
スピードは遅いかもしれないが卒なく任務はこなせたと思う 信盛はNo2としての権能がでかすぎて、将来確実に信忠政権の邪魔になるからな 佐久間家って昔は織田家の同盟者みたいな感じだったらしいよ
そこそこ気を使われる立場だったらしい それでつけあがっちゃったか 佐久間って実は無敗の名将なんだよな。
初期の織田軍団を根底で支えていたのが佐久間信盛の采配。 お家騒動時に信長についただけでも、一生物の功績だろ 『太閤記』
・成立は江戸時代初期。
著者は小瀬甫庵(前田家の家臣)
・秀吉と関係ない、前田家が活躍した北陸の合戦も詳細に記述。そのおかげで荒山合戦での盛政の活躍もしっかり描写されている。
・柴田勝豊が秀吉に降った理由は、『柴田合戦記』のそれに加えて、
柴田勝家が問題のある人物だったから。ただし降伏した柴田勝豊を厳しく批判もしている。
・奇襲作戦の経緯として、織田信孝を救援する手立てが必要となり、山路正国が奇襲作戦を盛政に提案。
盛政は賛成して柴田勝家に進言し、その際に柴田勝家から戦果を挙げたらすぐに引き揚げるよう命じられた。盛政は大岩山、岩崎山を奪取した後、勝家に催促されても引き上げなかった。
そうしている内に秀吉が近江へ帰還した。
・ただし撤退戦では奇襲部隊も柴田勝政の軍勢も奮戦したことが詳しく描写されている。
・茂山に前田利家が布陣していることを頼みにして、盛政は羽柴軍に決戦を挑もうとしたが、続々と集結する羽柴の大軍を見て北国勢の後方にいた部隊が逃げ出した。そこへ羽柴軍が総攻撃を行って勝利した。
・羽柴軍に囚われた盛政の発言「勝家様の指示通りに引き上げていれば、こんなことにはならなかった。戦果を敗北で失わず、上方勢を侮らなければ〜〜」
・盛政は処刑される際、顔色一つ変えず首を刎ねられた。
『太閤記』では盛政の慢心が敗北を招いたが、撤退戦での活躍や敵前逃亡した部隊のことも記されている。 >>633
佐久間信盛は古い付き合いの上に
失敗らしい失敗が無いまま功績を重ねて所領が極限まで大きくなったから、
信長は扱いに困ったんだと思う。 【311】 「致死量の放射能を放出しました」東電の小森常務は、こう発言したあと泣き崩れた。 【318】
2016年
6月25日 スピリチュアルTVテディ小泉(52、埼玉)さん、脳梗塞で死去。
7月21日 ケニアに帰国したジョハナ・マイナ(25)選手が急逝。2仙台国際ハーフマラソンで3度優勝
8月 3日 写真家の宮本敬文(50)さん 脳出血で死去、SMAP写真集など手がける
福島で続く鳥の大量死
2015/12/23 福島県でカラス75羽の死骸!鳥インフルは陰性反応! ネットでは放射能を指摘する声も・・・
2016/ 8/17 福島・鏡石でカラス48羽死ぬ 鳥インフルは陰性
2016/ 8/18 スズメ250羽死ぬ、鳥インフル陰性
マイト レーヤは原発の閉鎖を助言されます。
マイト レーヤによれば、放射能は自然界の要素を妨害し、飛行機など原子のパターンが妨害されると墜落します。
マイト レーヤの唇からますます厳しい警告と重みが発せられることを覚悟しなさい。彼はいかなる人間よりもその危険をよくご存じです。
日本の福島では多くの子どもたちが癌をもたらす量の放射能を内部被ばくしています。
健康上のリスクは福島に近づくほど、高まります。福島県民は発電所が閉鎖されれば1年か2年で戻って来られるでしょう。
日本の近海から採れた食料を食べることは、それほど安全ではありません。汚染されたかもしれない食料品は廃棄すべきです。
問題は、多くの人々が核の汚染の影響で死んでいるのに、日本政府が、原子力産業を終わらせるおそれのあることを何も認めようとしないことです。
注意欠陥障害(ADD)多動性障害(ADHD)、慢性疲労、あらゆる種類の癌の増大、呼吸そのものが脅かされています。
世界中で病気、主に皮膚、心臓、肺に関する病気の発生率が上昇し、ずっと昔に征服された病気が復活しはじめています。
汚染による死者の数は、他のいかなる原因よりも多いです。河川の汚染は社会に対する犯罪と見られなければなりません。
免疫システムの崩壊の結果がアレルギーです。人々は肺炎やインフルエンザやHIV/エイズなどに抵抗できなくなっています。
認知症の過程は放射能汚染によって加速します。増加するアルツハイマー病の原因となっており、より若い人々に起こっています。 父は佐久間信盛の従兄弟、母は柴田勝家の姉
佐久間盛政ってけっこうなサラブレッドだな >>643
確かにな。最近、盛政は戦国一の武将って持て囃されてるけど同意な感じ? >>644
それ本当にやめて欲しいわ
歴ゲースレとかにも厨が湧いてるし、盛政のイメージが悪くならんか心配 とりあえず、佐久間信盛のために弁護させてもらうと、石山本願寺は
包囲して干し殺すのが一番の策だった。下手に手を打つと、相手の
天才軍師、本多正信に何をされるか判らない。実際に原田直政を
討ち取ったり、荒木村重を謀反に追いやる工作されたりなど、結構
やられたい放題だった。 >>648
本多正信の石山軍師てソースなに?
藩翰譜には加賀一向一揆に参加てあるけど 佐久間盛政って話題毎にスレを立てる必要があるほど凄い武将なの? >>650
凄い武将でしょ。稀代の軍略家として、しかも信長の最大の功臣 >>651
じゃあなんで伸びないんだよ
お前一人がそう思ってるだけだろ
お前が死ねば適正評価通りにしか語られなくなるな >>652
え?何を言ってるの?盛政は稀代の軍略家やろ 安政、勝之が大名でスタートしても改易になってるし苦労してるなあ 最終的に幕末まで生き残ったのが追放された信盛の系統だと当時の誰が予測できたであろうか 佐久間虎
http://archive.today/2020.07.10-060154/http://c.5chan.jp/file/plane/b07R2pCdsx.png 中川史料集に載ってる佐久間盛政の娘虎姫の母親って奥山雅楽頭貞勝の娘ってなってるけど佐久間大学允盛重の娘だよな?大学の息子は奥山性で孫の通称は雅楽助だから佐久間盛重の別名が奥山貞勝っていう感じで盛重と貞勝が同一人物の可能性が高いよな? >>663
訂正
中川史料集に載ってる佐久間盛政の娘虎姫の母親って奥山雅楽頭貞勝の娘ってなってるけど佐久間大学允盛重の娘だよな?大学の息子は奥山姓で孫の通称は雅楽助だから佐久間盛重の別名が奥山貞勝っていう感じで盛重と貞勝が同一人物の可能性が高いよな? 金沢市は盛政の銅像の一つでも建てるべきだよね
裏切り者の銅像ばっか建ててないでさ >>665
その前に加賀一向一揆と尾山御堂の事も忘れないでください。 断家譜・佐久間家正統略系譜など
長男佐久間盛明(子に政実)、佐久間盛経(子孫は奥山氏)、三男信晴(子に信盛)、四男盛重(子に盛次)
佐久間勝利(盛重系)が幕府に提出した家譜のみ
長男盛重以下略
佐久間宗家は信晴
盛重は四男で庶家だから最初信行付きなんだろうね 佐久間盛明って長生きしてるのか、同名の別人なのかが気になる
1577年に永原城で松永の息子二人を預かっていた
1582年に安土城二の丸御番衆にも名前あり
佐久間家の長老的立場なのかな?
信盛父子が追放されてる間の鳴海城も預かってそう REVELATION
資金源/コング
フロント/天下り/右翼思想
フィクサー/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入
汚職/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入/揉み消し
揉み消し加担 中川セビョーエ清茂を討ち取った佐久間盛政の娘が中川秀成の正室になったそうだな