【山内・扇谷】関東の上杉氏 2【犬懸・詫間・深谷】
鎌倉が、実は平氏の所領だったって事は大概の人は知らないだろうしなぁ。 >>105
そそ、
まあもともと鎌倉郡の中心だし、古代も、そこそこ拓けてたし 鎌倉が平氏の所領だったと書いたはいいが、実際問題として、鎌倉党とのいざこざは
なかったのだろうか。
まあ、鎌倉党の本拠は大庭(藤沢)で、頼義が最初に住居としたのは村岡だか堀越だか
だし、実際には沿岸よりもっと内陸に勢力をはっていたのかもしれないけど。
つか、鎌倉党の所領って、殆ど山の中だよなぁw 地理板かどこかで、横浜市内の相模国部分が鎌倉郡の領域だと言ったら
ヒステリー起こしてた馬鹿を思い出した。 あー、堀越じゃなくて腰越だね。
公方様じゃあるまいし。
>>108
その程度でヒステリー起こす人っているんだ。
つか、鎌倉郡じゃないのか?
そいや、この板でも多いけど、好きな武将は清廉潔白、正義だ!だから他の武
将は弱くて卑劣なんだ!っていう極論の人を見かけるが、少なくても歴史好き
なら、好きな武将は好きな武将、歴史は歴史として全体をみないといけないと
思うのだけどなぁ。 書き込んでから、荒れる素を書いてしまった気がする。
折角落ち着いたスレなのに申し訳ない。
>>110の「そいや」から後は無かった事に。 >つか、鎌倉郡じゃないのか?
瀬谷の町田との境界までしっかり鎌倉郡ですw つまり、境川だね
ただ、泉区の飯田付近のみ高座だったという説がある 飯田さんは渋谷系で、渋谷さんは高座だから、ありえる話かも。 朝比奈が相模国だったみたいに、必ずしも地形が境であったとは限らないんだな。
あるいは境川の流路が変わったとか? 昔の事だから、開拓場所は点々だったし、系統によって境が決まってたのかも
しれないね。
寒川の御用地もそんな感じじゃなかったっけ? 話を戻すようだけど、犬懸上杉の本拠って実際はどの辺だったんだろう。 そう言う事を言うから、誰も書き込まなくなったじゃないかw
>>120
ごめん、書き方が悪かった。
所領の話です。 >>122
どこだろう?
ルーツは四家ともわかるが、、、
テリトリーとなると、、 それなりの権勢を誇ったと言う事は、それなりの財がないと出来ない訳だから
それなりの基盤(所領)があったと思うのだけど、よくわからないんだよね。
ところで、上杉房房ってなんだろう? >>127
上総なのかな?
山内家と張り合ったわりには、よくわからない。
>>128
憲盛オタ乙 詫間の本拠地はどこだ?
武相国境近くの永谷だよな? 永谷に屋敷があったようだけど、所領もそうなのかな?
今でこそ環状二号線が通っていて賑わっているけど、当時はかなりの山地だった
はずだし、所領としては小さいよなぁ。
しかし、今の地名からすると、山内の隣が扇谷、反対側に犬懸の屋敷があった
ようだけど、一家だけ離れているね。
詫間の屋敷も鎌倉にあったのかな? >>134
詫間と犬懸ははす向かいだよ、屋敷はね。
四上杉の砦はほとんど小田原北条が、引き継いだね、綾部の本来の上杉藤原ブラッドは、深谷に継がれてるんだわな >>137
はす向かいって事は、今は住宅地になっているところかな?
深谷と言えば、戸塚区の深谷町とは何か縁があるのかな? 埼玉の深谷なのは知っているけど、ふと戸塚の深谷も何か関係あるのかな〜と
思ったわけですよ。
東京の渋谷が、高座郡渋谷氏の分地だったみたいに。 >>142
戸塚のほうは、鎌倉党の残党がいただろう >>143
俣野の五郎さんの所の事かな?
鎌倉幕府成立時、既に没落していて、残党とまで言えるかどうか・・・。
頼朝についた大庭の兄貴や、梶原の叔父きが口添えしていれば、少しは違っ
たのかな?
ちなみに、地元の人なら解ると思うけど、深谷町の隣が俣野町(横浜側)で
土地的には、俣野さんの所は境川主流の両端、深谷町の方はその支流になる。 うーん、よく解らない人の為に、全体規制で書き込めないってのはどうにか
ならないものかな。
>>145
実際どこなんだろうね。
観音堂辺りだと川に近すぎるし、その後ろの薬科大がある山の中腹当たりか。
鎌倉党で、大庭一族だと考えると、藤沢側でもおかしくないんだよなぁ。 >>147
観音堂あたりは、今でも大雨が降るとヤバイとこ、古遊行寺が花応院あたり、となると西俣野の御嶽神社なのかなあ >>148
せめて、俣野と言う名前の家がいくつかあればその辺だとわかるのだろうけど・・・。
俣野の五郎さんの子孫は、俣野を名乗らなかったのだろうか。
>>149
あのあたりは石川姓が多い
俣野は北陸、、あっちのほうへ逃げたからな 高氏の母が上杉か、
そりゃ、上杉、力持つわ
長尾が上杉の最大の家来か、
そりゃ謙信力持つわ だから、規制はやめてほしい・・・。
>>152
普通は一人くらい残る者だと思うのだけど、一家総出で逃げたのかな?
まあ、その場合許されない限り、俣野性には戻れないか。
北陸には俣野性が残っているのか〜。
>>153
大方は間違ってはいないが、謙信の長尾家は分家さんなんだよね。
なので、どちらかというと、とーちゃんが実力で力を持ったイメージ。
畠山氏の家宰、遊佐氏に似ているかな。 上杉は直義がポシャってピンチになったが、基氏に取り入れたのが大きかった
しかし、何カ国も守護をしている家って、内紛している所が多いよね。
まともなのは大内家くらい?
上杉は、力を持ちすぎて生き残れなかったのだろうか。 >>160
晴賢?
大内にそんな名前の人いたっけか?
陶なら、一応家臣だし、上杉の内紛(山内と扇谷)とは違う様な。
>>162
所詮と言うのは、戦国期にはいってからじゃないかなぁ。
戦国期に入ってからだと微妙だけど、それなりに力を持っていなければ、だれ
も動かず、内紛をする事も出来ない。
上杉家の内紛は、戦国期前から続いているわけだから、守護家だったのは大い
に関わりあると思う。
その守護が応仁の乱を起こしているわけだし、守護の権威と力が衰退し始め
たから、戦国期になったのではないかと。
まあ、室町は初期から不安定だけど。 逆でじゃね?
上杉は管領でもしょせんは守護レベルであったと。。。
大内は義興→義隆の継承だけだ波乱のない唯一の事例で
後はお家騒動の連続 >>164
ああ、なるほど。そうかもしれないね。
>>165
ごめん、勘違いしちゃってるかも。
お家騒動の度合いの話で、上杉家や細川氏、畠山氏の様に、自家が大きく弱体
する程の大きな争いはなかったと言いたかったんだ。
実際、お家騒動がない家の方が珍しい。
書き方が悪くて申し訳ない。
と言うか、大内家の話は、ちょっとスレ違いになっちゃったかな。
>>36
>戦国期の橘樹郡は北条氏の誰が統治してたのか
太田康資とその寄子
吉良氏
行方氏
布施氏ほか
>>52
武家勢力がいても庶子家が分立しないと家名として残らないからね
平安〜鎌倉にかけて東海道沿いに河崎、品川、大井、潮田氏らが出ているんだから
土地的な魅力がないってことはない >>171
う〜ん、言っている意味はわかるが、問題にしている土地が少し違うかな。
品川、大井も河崎より北側だし、題材にしているのは、河崎(堀之内)より南側
で、平子氏(磯子)までの間なんだよね。
まあ、保土ヶ谷辺りから山が海に突き出している感じだったようだから、耕せる
耕地も少なさそうだし、魅力的だったとは言い難い気がする。
当時の深谷にしても、結構田舎な土地だったんだろうなぁ。
>>173
とてつもなく貧乏だったんじゃないかな。 潮田氏って、鶴見辺りだっけ?
全体的に見れば、北に寄っている気がするけど、確かに間と言えば間か。
それでも一家くらいか。
東海道も内陸に入るし、どうも魅力があったようには感じられないんだ
よねぇ。
まあ、いい加減スレ違いな話題だけど、上杉については特出する事もな
いのも事実w
川崎大師(川崎市川崎区)
行方氏(川崎市川崎区大師河原)
間宮氏(川崎市川崎区堀之内・横浜市鶴見区末吉)
諏訪氏(横浜市鶴見区寺尾)
多米氏(横浜市神奈川区青木)
ぐぐる
1352年
永野平太致秋申軍忠事
右自最前馳参御方去月十九日、自武州鶴見宿地参関戸、同廿三日三浦入御時令供奉、
同廿八日鎌倉合戦致軍忠候畢、其後至平塚宿令御炎上者賜御判、為備後証言上如件、
1377年
送進
鶴岡八幡宮干放生会料用途事
合拾二貫文者
右当社御領武蔵国鶴見郷分所送進之状如件
延久三年八月十四日
検納
鶴岡八幡宮寺御放生会御神事料足用途事
合拾二貫文者
右当社御領武蔵国鶴見郷〈号大山郷〉御年貢内且分所検納之状如件
永和三年八月十三日 栄判 う〜ん、やっぱ北よりだよねぇ。
内陸に入った東海道より南側はいないのかな。 権現山城とかは?
間宮氏は磯子方面に分家あったような? ( ´A`)そ、そうなのかな?
しかし、後北条家が勢力を伸ばして来た時に、もう少し真剣に対処をしていれ
ば、扇谷も生き残れたのかなぁ。
家臣の土地だったから、対処が遅れたのだろうか。
???神奈川区まできたら東海道は内陸を通るよね
てゆうか戦国以前から川崎大師があった時点で葦原云々は意味をなさないよね
関東が「葦原」だったというのは『古事記』の「葦原の中つ国」と同様
神君家康公が未開の地を開拓したという「神話」でしょ 海側の東海道を全部一緒くたに論じられるほど
東京や神奈川の地形は単純なものじゃない
古代の江戸から東は結構大変だったみたいだけどな 上杉憲将―山吉義盛妻―行盛―長尾頼景妻―重景―能景―為景―上杉輝虎 ところで吉良が扇谷系であることはあっちこっちに書かれているが
>>187みたいなちゃんとした系統図を見たことがない。
実際どうなんだろう? 上杉氏定―今川範政妻―範忠―義忠―氏親―義元
―氏真―吉良義定妻―義弥―義冬―義央―上杉綱憲 >>183
扇谷上杉は越後軍を率いて南下してきた長尾能景に無条件降伏した後、
さらに明応7年の大地震の津波で鎌倉大仏も被害を受けたほどの大災害で
鎌倉が完全に荒廃してしまい扇谷上杉が激しく衰退してしまった。
すでに再起は不可能レベル なんで大河ドラマ『関東管領』をやらないの?
もう戦国ばっかり飽きた >>190
この時期は東海大地震に関連する大規模なプレートずれからか長期に渡り前震や余震があったようで
1480年代あたりから東大寺のような大仏をお守りする鎌倉大仏殿が何回も崩壊しては造り直してるんだよね。
そんな中で道灌暗殺後に足利成氏と長尾景春が扇谷上杉を煽って山内上杉と争わせたりとその後も関東中央が激しい戦場になり消耗していった。
そういう災害と戦争により極度に混乱した世相の中で
漁夫の利を得るように早雲が中央戦場から遠く離れた背後の緩やかな横腹である伊豆や小田原や鎌倉や三浦半島を掠め盗んだ。
まぁ長尾為景が関東管領とそれを後援していた越後上杉の当主をブチ殺してしまったからなあ。
やべぇと気づいて山内上杉と扇谷上杉が今さら協力しても取り返しがつかないほど衰退しきってた。 >>194
だよな。関東管領上杉政虎なんて大河のレギュラー格 >>190
うーん、権現山の戦いもあるし、実際三浦氏救援に兵も出しているし、被害は後北条も
受けているだろうし、それを考慮しての話だったんだけど、それでも不可能なのかなぁ。
そう言えば、小田原城を乗っ取られた大森氏は、実は扇谷から山内に鞍替えして、当時
扇谷派だった後北条に攻められたという説もあるけど、どうなのだろう。 >>195
問題はどの段階の管領を主役にやるかだな
結城の合戦は外せないから、定正が主役だろ >>196
山内様自身が主人公てあまり無くないか
どちらかというと武田視点の方が 大河ドラマで主人公にするなら顕定がいいなぁ。
長年に渡り権力を握ってたわけだし、成氏・景春・道灌・早雲・為景と魅力的なライバルに事欠かないし。
本人が戦争弱すぎるのが欠点かな? >>189
んー、やっぱり今川義元経由になるのか。。。
わざわざありがとう。