【名将】 畠山義就を語るスレ 【戦闘オタ】
畠山家の内紛により応仁の乱の引き金をひき、その後、河内一国を
公的資格なしで軍事占拠し続け、戦いにつぐ戦いの中で一生を終え
た戦国時代幕開けを飾る武将。
稀代の名将か、はたまた単なる戦闘オタクか。評価の定まらぬ畠山
義就について語りませんか?
城下町形成の先駆だったとも言うね。
ただの戦闘馬鹿ではない。 戦闘オタクではないだろ
政長との関係上、戦い続けるしかなかっただけで
政長と義就の関係が室町時代の縮図なんだが
テキトーな処で手を打たなかった辺りが、義就の特異性というかなんというか
ぶっちゃけ「迷いを捨てた足利直冬」みたいな存在だけどw 武田信玄の「自分の死後3年その事を伏せよ」っていうのは、この義就の
実際のエピソードのパクリだよね。 国人に担がれている気がしてならない。だから戦争が強かったとも
政長方が神保、遊佐、筒井で
義就方が越智、古市、甲斐、誉田
つーか越智家栄が最高に胡散臭いw
コイツが黒幕かあるいは細川の手先だw
それよりコイツのタフネスぶりには絶句だ
山の上で長期間野宿をずっとし続けて
あの時代の人間はよほど強靭な体にできてるんだろうね キャー 義就ちゃんのスレできたのね。
あたし、この人の肖像画どこかで見て、一辺でファンになったわ。もう一度探してみるわ。 >>7
これでっか?
ttp://base1.nijl.ac.jp/~rekijin/20001383/index.html
顔、よく分からんが >>9
これかなー?
すごく存在感あるなー、って感じたんだけど。
ここにある歌、義就ちゃんの歌なの?
何て書いてあるの? >>10
歌は義就のもの。ただ、読めない字が多く、どんな歌かは分からないねー。
絵は江戸時代の画家が描いたものなんで、実際の義就に似てるかどうかは分か
らないよ。 戦国大名第一号は、北条早雲ではなく、畠山義就だ、って誰かが書いてたな。
誰か忘れたけど。 >>12
逆説の日本史で見たような気が
ただ、義就は元管領なんで、戦国大名じゃあないと思いますが 別に管領だろうと戦国大名になって構わないだろうが
そもそも戦国大名の定義があいまいなのでなんとも言えん
個人的には土着勢力を切り離して集権を行い近代化した大名を戦国大名と言いたいが
それだと細川政元が戦国大名で武田信玄は戦国大名じゃないということになる >>14
それも認識がゆがんでいるようなw
その定義なら信玄よりもっと遅れた体制だった織田信長なんてなんて呼べばいいんだw 戦国大名の定義って2ちゃんねるでは定説ないんですか?
普通に考えると、戦国時代の大名ね。
じゃあ戦国時代はいつから?
義就の頃は将軍の権威は地に落ちてたでしょうけど、未だかろうじて室町幕府のシステムは機能してたから、戦国時代じゃあないと思いますけど。最後の管令が亡くなったあたりかな? 定説というなら明応の政変による将軍家の分裂と奉公衆の解体だろ>戦国の始まり
個人的には細川政元の暗殺による京兆家の分裂の方が大きいと思うが。 管令ではなく管領。
細川氏綱は最初から最後まで三好長慶の操り人形なんで、室町幕府の機構とし
ての管領とは言えないね。
やはり氏綱以前の明応の政変で室町幕府はシステム崩壊、戦国時代の始まり
と思う。 畠山義就を現した言葉
「名大将」
「王法、仏法の敵」
以前、NHKの大河ドラマで義就ちゃん出てたわよね。誰がやってたかな? なぜか細川政元は義就と気があったらしい。父親の宿敵だったのに。
政略云々を別にしても不思議。 政長は戦はそこそこ強いし軍略も胴に入っているんだけど、京でも領地でも嫌われまくっている
印象があるな。 この二人の場合どこまでを「勝利」とか「敗北」とかに区切っていいかもわからん。 政長が管領を首になったとき、代わりになったんでは? 応仁の乱で出てくる武将で、名将と言えるのは誰々か?
>>37
一番の名将は畠山義就だと思うわ。
二番は…………誰かな? 早逝したけど義就の長男の名前は「修羅」
意図を色々考えさせられる名前だ 蠣崎慶広「いやホントにねぇ」
織田信忠「考えさせられる名前だよね」 >>42
奇妙はともかく天才丸に関しては、あの当時そんなにヘンな名前じゃないぞ。 政長は、細川勝元が死んでからはかなり増長して、管領として専横していたらしい。
そんなんで諸大名からかなり嫌われていたとか。
キャリアや年齢的にも細川勝元、山名宗全、斉藤妙椿が死んで以降は
政長と義就が一番上に来てしまい若年の政元(聡明丸)を無視していたかも。
政元と義就は、後に互いに河内や摂津の占領地を交換し和解している。
勝元時代は政長と組んでいた京兆家は、政元時代には義就と組むようになる。 義就は生まれてくるのがちょっと早かったかな
それこそ信玄や謙信、信長がいた時代にいたら面白かったと思うよ 戦国武将になくてはならない「幟旗」を発明したのが畠山政長だったそうな。 >>9
「よしなり」になっちょるなw
それと放送大学で見たんだけど政長の兄の弥三郎って諱は義富なんだね 弥三郎は政久だろ。
義富は系図上の不確かな諱のはず。 畠山義就は、優秀な武将だけど、母親が“売春婦”でさらに実家が皮屋であるせいか
家臣からは、「畠山家の血統を引いていないのでは?」と思われていたらしい。
そして義就の母は、義就のほか、小笠原長将との間に持長を、飛騨江馬氏との間にも子をもうけている
いわば典型的な足軽女w
流石にBで売春婦で足軽女の息子では、いくら優秀でも家臣は支持を躊躇するわな…
そんなこんなでこれらの事が政長擁立支持の背景となっている。
政長は持国の弟の持富の子だが、母親の方は、家筋的にはまだマシだったらしい。 部落解放同盟「顔の見えないインターネットを使った露骨で悪質な差別が見受けられる」
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/dqnplus/1283139593/
1 :ぽキール星人φ ★:2010/08/30(月) 12:39:53 0
部落解放同盟福岡県連合会の定期大会が福岡市で開かれ、「人権侵害救済法」の早期制定に
向けて取り組むなどとする大会宣言が採択されました。
福岡市早良区の早良市民センターで開かれた今年度の定期大会には、県内22の地区協議会の
代表などおよそ470人が参加しました。大会では、部落解放同盟中央本部の中央執行委員長も務める、
福岡県連合会の組坂繁之副委員長が、「最近では、顔の見えないインターネットを使った露骨で
悪質な差別が見受けられる。政権交代を果たした民主党を中心に、超党派で人権救済の法整備を
求めるとともに、わたしたちも人権の町作りに向けて頑張っていこう」と呼びかけました。
大会は最後に、人権を守るための独立した国の機関の設置などを盛り込んだ「人権侵害救済法」の
早期制定に向けて取り組むなどとする大会宣言を採択しました。
ソース:NHK北九州のニュース
http://www.nhk.or.jp/lnews/kitakyushu/5023629371.html 子孫はどこいったんだろうな
政長流⇒高家
能登⇒高家
二本松⇒水野家臣
関東⇒喜連川藩士
日向⇒薩摩藩士
なのに義就流は… >>41
修羅場って言葉は、いつ頃からあったんでしょうか? 阿修羅と帝釈天の争いが行われたとされる場所、ってんだから仏教伝来辺りか
らあるんじゃないか。
戦争、戦闘に限って能力をみた場合、義就はどの程度のランクなんだろうか?
まあ武器が違うから、各時代で戦い方は違うが。 義就なら帝国陸軍でも立派に一軍の将を務められたな
山県有朋なんかよりずっと将才あると思う 山形は将帥であってそのへんの一軍の将とは立場が違うからな >>12
応仁の乱終結による東西両軍の停戦や(足利義政による)西軍諸大名の領地の安堵と帰国には一切同調しなかった。
応仁の乱がまさに終わろうとしている時期に義就は、洛中から軍勢を河内に向けて進撃を開始させる、
河内のほぼ全域を占領、それを受けて義就系で元西軍側の大和国人である古市氏や越智氏が大和を制圧する。
これで畠山義就は、将軍足利義政の応仁の乱終結の施策を無視する形で河内と大和を占領し実効支配する事になってしまった。
つまり、畠山義就は、はじめて室町幕府を無視する形で河内と大和の支配を独力の軍事力で実現した大名となってしまった。
しかも支配した場所は、畿内の河内と大和である。
これが、畠山義就が、初めての戦国大名と言われる所以である。 >>60
そうだね、一体何処から城下町のアイデアを持って来たのか不思議。
義就は、1483年にも河内に攻めて来た畠山政長の軍勢を淀川の堤防を決壊させて壊滅させている。
大したアイデアマンである事は間違い無い。
義就よりはるかに若い細川政元は、丹波や摂津に散々城や館、砦を造ったが、ついに城下町は造らなかった。
被官で摂津国人の池田氏は城下町を造っていた様だが…
事実上の丹波・摂津両国の守護所は、古代からの大都市である洛中の細川管領邸であった為に
ワザワザ新たぶ城下町を造る必要性を感じなかったのかも知れないが。 >>61
城下町はどうも、大和の古市氏などが拠点への領域内の政治経済の集権という、城下町形成に近いことを始めているので、
大和あたりで国人が行い始めた政策っぽい。で、そのあたりと縁の深い義就が影響を受け河内で一国単位で
展開したのが誉田への集権、ということなのだろう。
しかし畿内は土地の権利関係が諸権門の間で錯綜しすぎていたのと、京都の存在感が余りにも大きかったので
なかなか城下町を形成しづらかったのも確かだろうね。
足利義尚の鈎の陣なんて、鈎をあのまま近江の城下町化しようとしていたんじゃないかと思うことがある。 >大和あたりで国人が行い始めた政策っぽい
古市澄胤やその父があたりが、始めたのを義就がパクッタのかな。
大和武士は、ほぼ全員興福寺の衆徒で
興福寺の二大名跡である一乗院とその傘下の筒井氏・越智氏、
大乗院とその傘下の十市氏・古市氏などがいる。
一乗院と大乗院は共に張り合っており、双方の門跡が自己の発言力の増大のために
国内の武士や名主などを御家人などと称して自己の衆徒に組み入れ、
自院の学侶に率いさせて寺内や奈良の町の検断などに従事させていた。
このノウハウが、城下町の形成に役立ったのだろうか? >>63
そのあたりなんだろうね。応仁の乱で幕府機構からは失脚した形になった義就は、
幕府に頼らない自己の権力確率のためならどんなことでもやってた感じがする。 >幕府に頼らない自己の権力確率←×確立←○のためならどんなことでもやってた
それらの施策の結果として畠山義就は、幕府から独立した戦国大名になってしまう。
義就は、幕府から独立した状態で死去し、息子の基家は、その体制を引継いで
幕府に頼らない独立した河内統治を継続する。
しかし1493年の明応の政変で、管領畠山政長が自害し息子の尚順が、紀伊に逃亡すると
畠山基家は、幕府に復帰する事になる。
そういう意味では、基家は一度は折角にも幕府に帰参したのに、
その後、しばらくしたら幕府には中央政府としての権威も力も無くなってしまう、と言える。 それは言い過ぎ。国際的な認識も含めて中央政権だったのは間違いない。 一旦追放した畠山義就を足利義政が不用意に入京を許したりするから畠山政長が怒り、応仁の乱の火種になりました >>67
将軍の親衛隊(五番衆≠奉公衆)が、明応の政変で解体されるんだぜ。
官僚組織(奉行衆)は、京兆家としても次の将軍も必要だから残したけど。
これでは、中央政権と言えるのかどうか…
しかも政元が、京で兵を挙げ畠山政長とそれに近い人物の邸宅や拠点を制圧。
その後上原と京兆家家宰の安富が率いる京兆家2万の軍勢が、河内に進撃すると
大名達は将軍義材と管領政長を見捨て続々と京兆家軍勢に合流、しかもその時に
一部の奉公衆も逃げ出した。
また、残存した奉公衆と政長勢8000が、正覚寺城に篭城するも、京兆家軍勢に包囲され、
援軍である根来寺衆徒勢と紀州国人衆の斉藤の軍勢1万が、赤松政則に撃退されると、
篭城を諦め政長は切腹、尚順は紀伊に逃亡、将軍義材は降伏する。
この時点で奉公衆は、事実上崩壊する。残りの奉公衆残存部隊が詰衆を結成するが、
将軍のボディーガードにもならない状態になる。
結局、畠山家の内訌は、応仁の乱を挟んで1448年〜1504年まで続いている。
ざっと56年間、三世代継続してやっていた訳だ。 根強いか?むしろ実子だったからああなったとしか思えないが。 最近、大阪の藤井寺ってとこに引っ越した。近所に誉田八幡宮がある。誉田っ
て畠山の家臣だよな。何か義就の文書でも残ってないかな? >>73
持国はかなりワンマン野郎だったらしいが
それでも家中がメチャクチャになるのは
予想がついたはずなのにな。
戦国時代の畿内の超カオスしっちゃかめっちゃかは
細川政元もだが、畠山にも大いに原因があるよな。 むしろ畠山が何かにつけてグッチャグチャにしてたのが、三好長慶までの畿内の騒乱の本質だわなw 応仁の乱前後の畿内政局は、基本的に京兆家 vs 畠山家の構図になっている。
京兆家が圧倒的に有利になるのは、畠山家の分裂がハッキリしてから。
反義就となった京兆家も応仁の乱やその後の騒乱では、軍事的には、義就を制圧し切れなかった。
明応の政変で、京兆家は、義就流と和解して今度は、政長流と敵対し始める。
摂津欠郡は、1482年に応仁の乱によって畠山義就に占領されているのを返還してもらった。
1478年に勃発した摂津国人一揆は、もともと京兆家近習だった上郡の国人衆が
応仁の乱の終結に伴い京兆家に復帰を申し出たが、京兆家評定衆に断られた為
河内の畠山義就を後援を受けて成立したもの。
当時の畠山義就は、河内を事実上軍事占領して実力で統治していたが、幕府の公認
(守護の任命等)は無く、応仁の乱終結後には畿内にも、いよいよ室町幕府から独立
した形での領国経営が出現していた。そして義就の河内統治の形態は、幕府の公認
が無い事もあり、寺社公家領の押領を積極的に進め、当時の中間搾取であったこれら
の勢力の土地支配権を排除する一円知行方式の領国経営方式を採用した。
その影響もあり、摂津国人一揆は、積極的に上郡での寺社公家領の押領行為を行い、
畠山義就が河内で行なった一円知行方式を摂津上郡でも真似て導入していた。
当然畠山義就が、欠郡を占領している事も影響しており、
政元に欠郡を返還する1482年までは、畠山義就は、摂津の知行に対する一定の発言権を維持していた。 幕府は義就に代わる、正規の河内守護を任命しなかったのか?
したけど無視されたのか? 一応、政長が河内の守護だけど、もう幕府の権力も低下していたからね。
だから義尚や義材が、引っ切り無しに将軍親征を繰り返していた訳だし。
近江への将軍親征で少し幕府の権威が盛り返せ始めたかなって程度。
それと畠山家は、京兆家と異なり、幕政にそれ程協力的ではなかった。
つまり畠山家分国では、荘園保護の姿勢を見せなかった。その為に応仁の乱
以前から畠山家やその家臣が、分国内での荘園押領を繰り返し、一円知行方式
の分国支配体制としていた。
足利義教から、目を付けられたのは、その所為でもある。
京兆家は、分国内では荘園保護の姿勢を見せ、どちらかと言うと街道からの
通行税や関税、商人から徴収した税収入を当てにした。あまり年貢収入は多くなかった。
京兆家で年貢収入が増え始めるのは、応仁の乱で、勝元が荘園押領をしまくってからの
可能性が大変大きい。応仁の乱でもっとも荘園押領を行ったのは、細川勝元と朝倉孝景
だったらしい。 >>50
それだけ魅力的な女性だったってことじゃないのかな。
源義経の母にしろ嫁にしろ、同程度の家柄なんじゃない?。
神が宿っていると思わせるほど美しい女性だったらしいよ義就の母も。 >>84
どっちも現代の価値観に捕らわれ過ぎじゃね?
そんなに、問題のある血筋の女なら小笠原を名乗る子供は産ませて貰えないだろ
源氏の名血には釣り合わない(中世的には)普通の家ってだけじゃね
そも、源氏の血統が価値が有りすぎるだけだし しかしその血統のおかげで、政長陣営から、
イメージを悪化させるプロパガンダがガンガン流されている訳で。
実際のところ、畠山家分裂の火種の一つにはなっている。親子関係を否定する風聞もある訳でさ。
実際、畠山家の分裂で、京兆家がオイシイ思いをするばかりになっている。
畠山家は、管領を出す家筋。
そんな大名家の当主にBを押すのかよ?って話し。将軍家や朝廷も嫌がるだろうが。
今だって蛆テレビの韓流押しにこれだけ反発があるのにさ。
>>85
イヤ、昔の方が、差別は酷かった。
終戦後、ブサヨとGHQが戦後レジームをばら撒いて、何とか今の程度。
しかしその所為でマスゴミ芸能界は、そいつらやチョソばかりに! お家騒動は当然、予想できたにも係らず、持国は義就と会ったとたんに後継者
とした。
よほど自分の面影があったとしか思えない。
義就の顔を見ていない家臣が反対派になったのではないか? >>87
義就が足利義政の近習としてお気に入りだったからじゃないの? 信長の野望を義就でやってみたくなった。こういうシナリオ、ないかな? 応仁の乱メインのゲームが出ないと中々……
トータルウォーみたいな感じで 畠山義統の妻は蔵春院
畠山義元の妻は上杉房定の娘
畠山慶致の妻は不明
畠山義総の妻は畠山尚順の娘
畠山義続の妻は本願寺蓮慶の娘 室町幕府をメインにしたサイト作ったんだけど
宣伝してもいい?
たぶん、義就好きの人なら喜んでもらえると思うのだけど。 >>91
畠山義総の妻は勧修寺政顕の娘だね
畠山尚順の娘は畠山修理室としか書いてない。
でも畠山尚順の娘が継室だった可能性はあるな。 『毛利輝元は児玉元良の娘を気に入り、たびたび元良の自宅を訪れるようになったが
そうした行動を快く思わなかった元良は娘を杉元宣に嫁がせた』とあったけど、輝元
と元良って仲悪かったの?普通に考えたら出世の大チャンスじゃん? >>92
全然構わないぞ、むしろ見てみたい
凄く魅力的な人生だからなぁ、義就は >>96
ありがとう! では僭越ながら
『戦国黎明記』 http://sengokureimeiki.com/
まだ全然未完成なんだけど(本当は「明応の政変」を語りたい)
でも、室町幕府の誤解を解きたくて徹底的に史料調べた。
義就登場までの前置きが長くてごめん。
暇つぶしにどうぞw ルイスフロイスによると、戦国時代のきっかけは、日本初の一揆、山城の一揆と言っている。
つまり
シタ ウエニ カツ
下克上らしいな。
下克上は、ルイスフロイスが作った言葉だよ。
一説に、農民が鉄を手に入れやすくなって、武力を持てるようになった。
だから、公卿達が、農民を抑えられなくなったんだって。
まあ、でも、畠山の後継問題から、応仁の乱が起こって、戦国時代に突入したわけだけど、
広島ヤクザの抗争がきっかけで、西日本に抗争が拡大して、結局、山口組が天下を獲ったのと似ているね。
おっと、山口組と家康と一緒にしちゃあいかんなww