【敦賀城主】大谷吉継 2【刑部少輔】
関ヶ原までは豊臣政権内部の親家康の代表格だった人。
あるいみ藤堂高虎より露骨に家康に従ってた。 >>458
ハンセン病は非常にゆっくり進行する病気だから、数ヶ月で一気に悪化することはないよ >>461
おそらく重篤化したのが文禄三年の秋以降で、慶長二〜三年くらいには回復してるのよな
秀吉が見舞いに行った後くらいにはちょこちょこ表に出てくるようになって
慶長四年には梵舜他数名と女能見物に行ってるからこの時にはかなり回復してたとみていいと思う
特効薬のなかった当時のハンセン病は重篤化したら回復しなかったから、この重篤化→回復の流れは別の病気を疑うな
そもそも当時の史料にハンセン病を特定するものもないしな 左翼化したNHKだから、こういう重病の武将を英雄化させる大河ドラマはできそうだな 吉継は三成とも家康とも親しかったから関ヶ原前に苦悩しただろうな 家康と親しかったという記録はあるが、三成と友情というほど親しかったという記録は存在しないんだなこれが>吉継 いつ頃から世間でそんな風に言われ始めたか興味あるな 世間でっていうか、一般向け歴史本でもフィクションでも当然のように書いてあるじゃん
作り話なら初出はどこ?って思っただけだよ 美濃までたどり着いた大谷軍が、そのまま会津攻めに参加していれば
歴史は大いに変わった どのドラマでも吉継自害のときに周囲に敵兵が全くいない 回し飲みで吉継の膿が滴り落ちた茶を
豪快に飲み干したという逸話も嘘くさいな 作り話なのは確定として江戸期なのか
三成もしくは秀吉の美談が江戸期に作られたってのも面白いな ありゃ吉継がメインなんじゃなくて秀吉の将器を語る話しだしな。
相手が三成に変わるのは幕末だし。 膿が落ちるほど顔が崩れていたという話も 江戸後期になってから 自分は伏見区在住だが吉継が伏見に構えた屋敷って敦賀城なのか大谷町なのか気になる
もしかしたらほかの地域かもしれんが距離的にも歩いて行けるんでふと気になって・・
>>478
京都伏見なら古地図が売ってるよ。伏見の人ならすぐ買いにいけるんじゃないかな?
それを見ると現在だと桃山町日向(水野日向守屋敷跡)よりちょい北東方面。 >>477
まあ眼病で視力が落ちた、程度がホントのところだろうな、吉継の病気って。
しかも秀吉の死後は完全ではないにせよ回復していたフシがある >>477
秀吉が吉継の膿が入った茶を飲んだというのも一緒に出来た創作だったのか 大谷が病気になる前は美男子だったというのは腐女子の妄想
三成と親友だったというのも三成との友情の為に西軍に付いたというのは歴史小説家の創作 まあ、三成の側から見れば大谷吉継は、宇喜多騒動で榊原康政といっしょに介入するほど、
ほぼ家康の配下として活動していた親家康派の筆頭と言っていい人物であって、
それを自分の陣営に寝返らすというのは、西軍の戦略上非常に重要なことなのは間違いない。
逆に吉継で成功しちゃったせいで、東軍の結束を舐めてしまった、と見えなくもないが。 ・宇喜多騒動鎮圧の失敗を家康から叱られた
・西軍のからより多くの恩賞を提示された
・秀吉と縁深かった母親による西軍参戦への説得
・重病ということもあり最後に死に花を咲かせたかった
藤堂と双璧をなすほどの親家康派だった吉継が家康に背き西軍に与したのは
この中のどれかが要因もしくは全てという見解が妥当だろうね
石田三成はまったく関係無いと思う 石田三成がまったく関係ないってのは言い過ぎなんじゃないの
そりゃ三成との友情でってのは創作の領域だけど
共に奉行を担当した回数などから言って距離の近さでは三成が調略担当者として最適、くらいではあると思う
あと吉継が親家康派の筆頭とか藤堂と双璧をなすくらいってのもさすがに言いすぎじゃないかなあ
宇喜多騒動はそもそも戸川派が吉継に調停を依頼して、吉継が榊原を仲介として筆頭大老家康に介入を要請したようなもんだし
ほぼ配下ってのはちょっと 家康派なのは間違いないけど
重箱の隅をつつくようでなぜ西軍についたかに関する議論にまでいってなくて申し訳ないが 俺、祖母が敦賀市民だからしょっちゅう敦賀行ってたけど大谷さんのこと全然知らなかった
もう少し知りたいので入門にいい本ってあります? >>490
ありがとうございます!!
再来週、敦賀に行く予定なので読んでみます >>490
敦賀行くなら博物館とみなとつるが山車会館に行くと良いよ
吉継の常設展示あるし、博物館で過去に出た吉継展の図録があるはず
「近世敦賀の幕開け〜吉継の治めた湊町〜」ってやつが十分良い内容 >>491
山車会館は小さい頃連れて行ってもらった記憶がありますが大谷さんのことにも触れていたのですね
もう一度行ってみようと思います
それと490は安価ミスです >>487
例の茶会の話やドラマでお馴染みの挙兵時のやり取りは創作だけど
宗湛日記には一時吉継が秀吉の機嫌損ねて謹慎させられてた時に
兼ねてから宗湛の茶道具を見たがってた吉継のために
三成がこっそり取り計らってあげたって記述がある。
宗湛日記自体に偽書説があるからこれも本当かわからんけど。 > 宗湛日記自体に偽書説があるからこれも本当かわからんけど。
どうも少なくとも江戸期に作られたっぽいんだよね。
史料として考えるには慎重になったほうがいいと思う。 戦国時代の出来事の中で我々が通説として知ってるものの多くは
江戸時代前期以降に書かれたバイアスがかかったものと
更にそれを本に編纂された云わば二次史料がソースだからな。
死人に口無しとはよく言ったものだ。 真田信繁の正妻が大谷吉継の娘ではない、と言う説があるらしいんだがどのくらい信頼出来るものなんだろうか? まずは1590年以降の宇喜多家に真田姓の家臣がいたかどうかの確認が必要ね
石畑匡基「秀吉死後の政局と大谷吉継の豊臣政権復帰」(『日本歴史』772号、2012年発行) 結局のところ吉継って相当謎に包まれてるんだよな。
関ヶ原で西軍についたのも友情云々というより、北政所の側近だった
母ちゃんから頼まれたからという説もあるし。 >>501
でも関ヶ原前は徳川派だったってのは確かだからなぁ。
なんだかんだいってかなり強い理由があったんだろう そもそも西軍首謀者の三成自身が別に家康とはそんなに険悪な関係でも無かったって言われてるしな。 まぁアレじゃない? 民主党の中での党首争いが全国選挙になったようなもんでしょ >>219
やっぱ皆 葵の刑部殿が一番人気なんだな。
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http://oniheru.fc2web.com/jinbutsu/sekigahara/hosokawa_yoshitsugu.JPG
細川俊之が演じる大谷吉継
「葵 徳川三代」
ttp://oniheru.fc2web.com/jinbutsu/sekigahara/ootani_yoshitsugu.htm >>507
自分はそうは思ってないな
吉継が仲裁を頼まれたのは秀家からではなく宇喜多の出奔組からだし
家康が出て来ざるをえなかったのも、秀家が全く折れなくて
大谷・榊原コンビではどうにもならなかったからだからなぁ
とすれば、出奔組に甘い裁定になったところで吉継が不満に思うこともない
母・妹・妻子・真田信繁に嫁に出した娘、みんな上方にいたわけで
(おそらくは主要な家臣の妻子も)
この辺を人質に取られて転んだってところが真相に近いんじゃないかね
実際、上方に戻って真っ先に真田の妻子の安全を確保してるしな それだといくらでも家康に内応するチャンスはあったと思うけどなあ。 >>509
戸田・平塚がガチガチの太閤シンパなのが気になるとこだね
ただ、要請があったというのに大垣入城しなかったのは不思議
あんだけ妙な動きしてた小早川をスルーして松尾山に入れちゃったし
実は内応の約束してたけど寝返る隙がないまま寝返り四将に討ち取られたとか妄想してみる
>>510
秀吉死後〜関ヶ原までは、親家康じゃなかった史料を探す方が難しいと思う
利家と家康が一触即発まで行った時も家康の方に駆けつけてるし
三成襲撃事件の時も家康方について調停してるし
前田利長の謀叛疑惑の時も家康方の立場で説得に行ってるし
宇喜多騒動は>>508の通りで、島津の庄内の乱の時にも家康の下から折衝役で出てる
実質石田・浅野の穴を埋める形で五奉行に準ずる立場にいたようで、それも家康の取り立てだからね
上杉との関係からして、まっすぐ会津征伐に向かえれば何らかの交渉窓口を任されていたと思う 上にも挙がってる光成さんの関ヶ原本記載の輝元書状を素直によむかぎりにおいては
大谷は石田毛利ラインにみえる。
その書状で策動してるメンバーがそのまま西軍の初期決起メンバーになったわけだし。 >>512
たぶん関ヶ原前夜の記述からだろうけど
その説はこないだ出た日本歴史での論文で疑問が呈された
自分もあれを石田毛利方に解釈はできなかったんで納得したよ 寝返ろうとしたのに戦死とか、ちと間抜けすぎなイカ? まぁ小川や赤座みたいな土壇場寝返りですら、寝返り行為自体は成功してるから
やる気だったならやれた気はするなw 石田三成と大谷吉継を歴代読売ジャイアンツの監督に例えてると誰に当てはまりますか? 誰だって私情0ってことはないけどあの身分なら主家、家族、家臣、兵士、領民
ここら全部考えてどっちに付くか選んだのは当たり前だしそうじゃなきゃ自分勝手で無責任
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http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1362525758/ 大谷が「武将で一番好き」で三成の友達だからとか言い出さない人っているの? >>520
俺だけど
というか三成はむしろ好きじゃない この武将の何がそんなにいいの?
今までの「友のために西軍について戦った」という
今までのテンプレというかステータスは史実だったとは言えないようだよね
実際に関ヶ原で采配を執っていたのかもわからんし 庇ってくれたりする家系が全く残らなかった。
地元にもなーーにも残ってない
そういう歴史上の人物が面白いんじゃないか 子孫に迷惑かけるわけでもなく好きに想像出来るのがいいんじゃないか。
武田の子孫なんて鬱陶しいことこの上ない 虚像は虚像でかっこいい
ちょっとずつ見えてくる実像は実像でワクワクする
で、もしかすると「友のために西軍について戦った」というのも史実「かもしれない」
たとえていうと遺跡を掘るみたいな楽しさがある
逆に言うと、そういう根気がなければおもしろみを感じない人物だと思うよ >>526
大谷みたいな雑魚武将には騒いでくれる子孫もいねーしな わしの呑んだ茶椀は誰もが嫌うた。
呑む真似をして口をつけぬのが、わしにもわかった。
病気だから致し方がない。
だがあの男は違った。
引き返す!引き返すのじゃ! 吉継って前田足止めして本戦で大活躍ってかっこいいね 逐次入る情報を分析して
部下に指示出してたんだっけ? 大谷吉継の3男の息子が福井藩士となって存続している
それを知った土井や他の老中たちが吉継の子孫が福井藩士と知れば
家康は喜んだだろうという逸話がある
少し感動する逸話のひとつ… 大谷が一番活躍する大河ドラマって何かな?
どれもチラッとしか出ないイメージだけど 最近では「葵徳川三代」石田側武将の中心として
故・細川俊之さんが演じている大谷刑部がカッコイイ 小禄だったからか大した家臣団いないよね
有名な大谷家臣っている? 大谷吉継の代に秀吉に使える事で立身出世したわけだから古くからの家臣団ってのは無いわな >>33
講談の誇張だろ
眼は悪かったろうが、ハンセンとかじゃないだろ
治療方法確立してないんだから妥当
今の東北への風評被害の方がよっぽど苦渋の歴史 >>84
キチガイB腐ゴキ豚死ねカス
おうむ返しうぜぇよゴミクズ死ねカス >>85
ゲームとしても限界ってもんがあるよな?
歴史好きの前にまっとうな人間ならわかるはずだが 大谷吉継について詳しく知りたいがやっぱり参考本は大谷刑部のすべてなのかな
今Amazonで売ってるかな 秀吉の小姓として仕えてその後 馬廻り衆となって秀吉譜代の家臣、武将と
して出世して軍を率いて武功を挙げ大名に取り立てられた
石田三成とは堺などの奉行を一緒にやったり、豊臣政権の中では実務を担当
しつつも秀吉より「1度でもいいから大軍を指揮させてみたい」と言わしめる
ほどの軍才を持ち、また策略で攻めてきた相手を戦わずして撤退させたりなど
智謀も優れた武将であった事は間違いない
若い頃は自らも槍を持ち武将を討つ功を挙げている事から武勇も秀でていた
関ヶ原 家康とも懇意にしていて三成の挙兵を最後まで反対し、戦えば負ける
と三成に何度も諫言するも今が好機と挙兵した三成に「親友」として従い
そして討ち死にした 大河ではないですが、TBSドラマの関ヶ原が面白かったです。
大谷刑部は高橋幸治 主役の石田は加藤剛 利家とまつで一話だけでもフィーチャーされてもよかったのに ポイズン(笑)
マッシュルーム(笑)
のりぴー(笑)
反町(笑)
まつ殿のお味噌汁(笑) 大谷氏って近江出身なの?
斯波氏と甲斐氏が越前で争った時に甲斐氏配下の敦賀の代官に大谷将監っているけどこれは無関係なの?
吉継が越前に領地を与えられのは縁があったからじゃないの? >>554
あのドラマはキャスト豪華だったな
茶会エピ良かった >>511
2年前のにレスするが、舜旧記に次のような記述があって読み様によっては「吉継が秀秋から離反した」ともとれるとか
美濃堺、於柏原、内府先勢、福田[嶋カ]・長岡越中・加藤左馬助、合戦之由、
□大□之勢、敗北大谷刑部打死、余吾殿(小早川秀秋)依叛逆也、巳刻也、掉山[佐和山]落城