【岩松・由良】上野の戦国大名【長野・長尾】
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下野スレや長野父子スレでは仲間はずれにされがちなところを中心に語ろう
関連スレ等は多分>>2-5 軍記ものでもその書かれた内容によって、近年は資料としての再評価を受けるものも多いのにな。
甲陽軍鑑や、それこそ北条五代記もそういう再評価を今受けている。 >>98が北条にどんな感情を持ってようが構わんが、
横浜市民だから〜といったこだわりは読み取れなかった訳で…
その上で「他国の凶徒」発言を見たなら、やはりアンチなんだろうなと思っても仕方がないだろうなと。
神奈川県民だなとは思ったが。 そもそも神奈川県民にとっても伊勢氏を他国の凶徒呼ばわりしても問題ないと思うが?
>>99
w←これ使う人の方が幼稚だと思うが、北条厨にとっての味方は貶さないで、アンチ認定した者だけを貶すわけだ。
さすがガキの平等性ない恣意的発言は立派だよな。 現在首都圏に住んでいる大半の人間はルーツをたどればよそ者なのだから、
「神奈川県民にとっても他国の凶徒呼ばわりは問題ない」とか失笑ものなのだがなあ。 問題は無いかも知れないが一般的ではないよな。
その地域でマンセーされている人物=必ずしもその地域出身の人物や勢力ではない例なんて枚挙にいとまがないだろう。
その地域の出身であろうがなかろうが、地元民にとって地域の発展に一番寄与したと思えるものをマンセーするのが一般的かと思う。>>103の他スレでのカキコを取り上げてアンチ認定した奴にとっては相模といえば北条なんだろう。
それだけの話だ。
それに、同じ神奈川県であれど地域によって様々な思いがあるというのは>>103も書いてるじゃないか。
なのに「神奈川県民なら云々〜」と言うのは本末転倒だがね(笑) もう北条厨は基地害すぎるな。
苦しい擁護の言い訳も限界だと気づけよ。
読者の方からの情報で、この石垣は昭和に入ってから、失業者対策のために「崩落防止」の名目で作られた、
真っ赤なニセモノだったことが判明
ttp://www.asahi-net.or.jp/~ju8t-hnm/Shiro/Kantou/Gunma/Ota-Kanayama/index.htm >>106
で?
それのどこが石垣のなかった証拠になるの? 他家ではそんなことないのに、
由良の簒奪が悪い簒奪に見えるのはなぜか 金山城の八王子城すら凌駕する石垣量。
あれが北条によるものなのか?
山中城や松井田城や鉢形城や沼田城や厩橋や岩槻城や川越城を石垣要塞化するならまだしも、
北条氏康の兄弟や息子がいたわけでもない、あそこを北条があれだけ固める動機も理由もわからん。
そもそもあの石垣量はどこから運んできたんだ?
石垣が戦国期のものなら、戦国東日本最大の石垣城が金山城という不思議な話になってしまう。
金山城がオール石垣城とは実に怪しい話だ。
>>108
うーん…
・主家の家格
・主君殺し(享禄の変)
・両家とも存続していること
などが複合的に絡みあっているのかなと思いましたが…
また改めて考察をカキコしてみますね。
>>109
>そもそもあの石垣量はどこから運んできたんだ?
金山自体が岩山なんですよ。山を削れば石垣の素材を採取可能なんです。
=近場から持ってこれるので、労力が少なくて済みますね。
>北条氏康の兄弟や息子がいたわけでもない
確かに金山城は在城衆が置かれており、北条一門の当主は常駐していませんでした。
しかし小田原征伐時に書かれた「北条家人数付」には「同左衛門助(左) 新田の城」とあり、
北条氏忠の城として認識されていたのではないかと思われます。
それに、在城衆には氏直腹心の清水太郎左衛門が置かれていますし…
>あそこを北条があれだけ固める動機も理由もわからん。
北条氏は金山城(と館林城)を東上州の重要拠点と考えていたようです。
だからこそ、かつての金山城主であった由良氏(と館林城主の長尾氏)に城の借用を申し入れたのでしょう。
ちなみに、北条氏から借用を申し入れられた時、領地没収と勘違いした家臣たちが暴走して
各城に篭城、両城の城主は小田原に拘束されるという事件が起こっており
そのことが、「沼尻の合戦」(関東の小牧長久手?)の切欠にもなっています。
戦国後期の関東史においても重要な城であったのではないでしょうか。
氏忠が佐野氏へ入るまでは館林城とともに佐竹氏などの反北条連合の最前線に位置していたので
あのように堅固にする必要もあったのではないかと。
元々「中世(戦国期)においては関東に総石垣の山城はなかった」という概念がなかったのですが…
関東でも条件が揃えばこのようなこともありえるんだという証左になったわけです。
最後に太田市HPから少し抜粋しますと、
>金山城跡は文化財保護法によって指定された国の史跡であり、整備するに当たっては学術的に十分な裏付けが求められます。
>現時点で明確になっている歴史学・考古学・建築史学などの学問の成果に則り、整備されるものですが、
>発掘調査で礎石や柱穴が発見されても常に建物を復元できるとは限りません。学問的・資料的に十分な裏付けのないものを作ることは認められていません。
>国指定重要文化財の修理や国指定史跡内における建物復元にあたっては、文化庁の諮問機関である建物復元検討委員会で認められたもののみが許可されます。
つまり太田市教委の独断で整備・復原が進んでいるわけではないので、「太田市教委の捏造」というのは見当違いということになります。
あと
>調査でははっきり残っていなくとも、その周辺の状況、例えば、石垣裏込め石が確認された状況から、その高さまでは石が積まれていただろうとか、
>石垣がいくつか壇状になっている場合は1つ上の石垣の一番下の段までは石が積まれていただろう、などとある程度想定することができるのです。何の根拠もなく石垣を復元するということはありません。
だそうなので。
無論、推定の域に関しては今後の研究の発展によって改められる可能性があるとのことですが…。
というか何であの石垣が北条によるものって前提なの?
八王子城の石垣と共通する技術が使われた部分もあるんだが、
八王子城は北条最末期の築城なんだからむしろ金山城→八王子城で技術が使われたんだろう。
石垣は普通に岩松、由良期のものだろう。
>>110
>ちなみに、北条氏から借用を申し入れられた時、領地没収と勘違いした家臣たちが暴走して
これは足利長尾の旧臣の書置きを黒田基樹氏が北条びいきからかなり強引に解釈したもので、
普通にその史料を読んでもまずそういう解釈は難しいし、
そもそも兄弟の監禁から由良側の蜂起までは一ヶ月近くかかったと見るのが妥当。 簡単な話、兄弟を幽閉して、金山と足利を明け渡せと脅迫したんだろ。
たしか父が遺言か何かで、北条は信用できないから、決して兄弟で小田原へ行くなって言ってあったんだけど、
兄弟は双方とも知らずに小田原でバッタリ遭遇したんだっけ?
石垣が由良氏のオリジナルなら上野国の築城技術は東国一だってことかな? 上野は山内上杉零落移行半世紀にわたって、
北条・武田・上杉の係争地だった関係上、
この三者が自分の最新築城技術をバンバン投入しているわけで。
そういう地に居たから切磋琢磨して築城技術を自前で上げた一面もあるだろうが、
三者の築城技術を吸収した面もあるだろうから、
東国一とかランク付けに走るのはどうかと思う。 三者強豪の時代は唐沢山がもっとも発達した石垣を持っていたはずではないかな。 なんだ>>111が無知な振りをして釣ってただけか。
北条厨哀れww >>114
>>93
つかさ、金山城も小田原陣後に
いきなり廃城になったんでなくて
短期間だけ井伊直政が箕輪城にいた時の遺構で石垣が一部残ってるように
(井伊はすぐに和田城を大改造した高崎城へ移った)
小田原陣後に入封した人に金山城も石垣化改造された後に廃城になったんじゃないのかな?
岩松・由良・北条かハッキリわからない以上は隣接してる唐沢山城と似た経緯だとしても不思議じゃないような… >>114
>>116
唐沢山城の高石垣は西国のと同じだが
金山城の石垣は唐沢山とも、織豊系のものとも異質。
金山城には高石垣をつくる技術はなかった。
また、考古学的な調査の結果、何度も石垣は何度も改修されていることや
新旧二つの積み方があることもわかっているので
やはり岩松、由良時代に徐々に作られたんだろう。 すると箕輪城は長野氏時代の石垣遺構で
金山城が岩松時代の石垣とを考慮すると
関東管領山内上杉氏の築城技術なのでは?
上野国の関東管領の本拠地の平井城や守護代の白井城は石垣あるのかね?
たしか白井長尾景春が築城した武蔵鉢形城には崖の崩落を止める為のショボイ石垣があったような。
しかしあれは北条時代なのかねぇ。
太田の者です。戦国時代のことは浅学であまり知識はありませんが、岩松家純の
生き方や人間像に興味があります。家純が新田に復帰して築城された金山城を歴史
を振り返りながら時々散策しています。殊にこの城内において、家臣郎党らと執り
行った「一味神水の儀」を思うと感慨深いものがあります。金山はくまなく歩き
ますが、新田神社から東金井に通じる道は静寂としていて、昔の石垣などが散見され、
私の好きなコースとなっています。
>>119 安房守(氏邦)殿辺りが造らせたんですかね? いや長尾時代だな
技術なら中山道経由で入ってきたんだろ。
もしくは北陸道から越後上杉氏経由
東海道なんて使えねぇし。 情報発表時刻 2009年3月28日 1時29分
発生時刻 2009年3月28日 1時23分ごろ
震源地 群馬県南部
緯度 北緯36.4度
経度 東経139.3度
深さ 140km
規模 マグニチュード 4.0
金山城付近だな >>130
>元々大したことなかった気がしたんだが
そんな主観的な判断でよくレスする気になったと感心する
>>132
まず大したことがなかったことについて先に述べるのが筋だろ。
室町時代における新田氏の総領である岩松氏が大したことない?
ゲーム板から出てくるなよ。 新田の総領なんて名乗ったもん勝ち程度のもので
顔真っ赤にするなよw >>134
岩松氏の新田氏総領を名乗ったもん勝ち?
あははははははははははははw
いやー愉快愉快w
顔真っ赤にしてゴメンネ。ゴメンネw
猿のように顔を赤くして嘲笑わせていただきました、アリガd。 新田の惣領なんて現代の我々が思っている以上に軽い軽い
宗家からして時代の徒花を咲かせただけの弱小御家人だからな
案の定、積極的に新田流を名乗りたがっているのは
岩松・横瀬・里見・徳川といったキワモノ揃い
岩松でさえ自称であって血統的には足利流なのか新田流なのかすら分かってない
新田の嫡流だと認めてもらえるのは明治になってから 新田本宗の惣領なら、系譜的に見て日本でも有数の名家なわけだが。
頼朝に気に入られたか否かは問題ではないし、
始祖新田義重は源義国の長子であり、三子の足利義康とは母の出身から見ても
どちらかが嫡子とは判断できない。
明治政府が新田のお墨付きを出したのなら、ある程度信じてやってもいいんじゃないだろうか。 そういえば上野は鎌倉時代は国司領なんだよな。幕府のお膝もとの関東なのに
朝廷の支配地域。 血統だけで力なくても誇っていいじゃない。天皇を否定すんのかw 武家は仮にも「武士」なんだから、その血統以上に家職をまっとうすること、
すなわち戦い続けていく力を維持することで初めて誇れるんじゃないか? 難攻不落といわれる城ほど落ちてたりする。大坂とか小田原とか。 落とすための価値が有るから、落とされるし
落としたくないから改修する なんで長尾って武将がやたら居るの?長尾憲景、長尾顕長とか。
謙信の部下? 上杉氏の部下。
上杉氏は関東各地を同族が支配した。 関東管領上杉氏の家宰職が上野守護代長尾氏が代々継いでいた。
関東管領軍を率いて鎌倉公方→古河公方と戦い続けてたのが長尾景仲や長尾景信。
関東戦国史は応仁大乱よりずっと前から始まってた。 上杉は管領家の山内上杉を圧倒しようと狙う扇谷上杉と戦い始めるし
山内上杉に養子を出した越後上杉まで介入してくるし
さらに若い頃の足利義政はまだやる気があって
自分の弟を伊豆に派遣して堀越公方として古河公方を牽制したりして関東情勢に介入してた。
また古河公方はのちに親子が対立分裂。さらに兄弟も対立し小弓公方が成立。
関東管領も古河公方親子のそれぞれを支持して分裂。
もう関東はめちゃくちゃになった。 衆院選、民主勝利後の最悪シナリオ
民主が国政第一党になる
↓
公明「外国人参政権などの党としての本懐で民主党と一致した」
民主、公明の連立政権成立
↓
国政での外国人参政権が成立
国政選挙で民主、公明、社民更なる躍進
↓
人権擁護法が与党の賛成多数により成立
行政、在日朝鮮人、中国人、宗教法人を批判すると罰せられる様になる
↓
国籍法の更なる緩和
日本国籍と生活保護資格だけ持つ、日本人の血が一滴も入ってない中国人が急増
↓
在日朝鮮系、中国人系の国会議員も出現
親中国の自民議員が民主に寝返る
自民党完全無力化、または解散消滅
↓
日本乗っ取り完了
「民主党の正体」 で検索
将軍狙ったり 籤とはいえ将軍馬鹿にしたりがよくない。 自分が将軍になるものだと信じきっていたきらいがあるからな だいたい義持が後継者指名を拒否して死ぬのがねぇ。
持氏も俄然やる気になっちまった。 足利長尾氏最後の当主の長尾顕長には「関英宗鉄」という法名がついて
ますが、墓所はどこにあるかご存知の方いますか?
晩年はやはり兄のいる牛久あたりにいたのでしょうか?
顕長の嫡男が古河藩土井家の重臣になったとの話もありますが事実ですか? >>163
「わしが後継者を指名しても、お前らが支持しなきゃ意味がないから指名しないし、
わしは死ぬんだから今後のことには興味がない。死後の自分のことで頭がいっぱいだから仏の道のことでやれることをやるだけ」
>>164
由良氏から入って臼井城攻略の責任者に任じられた時にまだ10才前後の小僧だった人だっけ? 渡良瀬繁詮関係の資料や小説ってありませんか?
豊臣に仕えた経緯とか秀次家来時代のポジションとか知りたいです
あと忍城の甲斐姫の母親についても知りたいです
兄弟ですよね 1575年の上野国
北部(厩橋以北):上杉家
西南部:武田家
東南部:北条家 山内家が一旦滅んでからは、文字通り三分されてしまった 山内上杉→武田→滝川→北条と属した倉賀野氏なんですが
滝川一益が関東へ進出した頃の当主は誰だったんでしょう?
当時の倉賀野城主の名前として
倉賀野「秀景」とするものと、倉賀野「家吉」とするものがあるんですが。
事績はほとんど一緒なんで同一人物でしょうか? 倉賀野尚通の系統は、そのまま上杉氏に属したそうですが 昔は、江戸川当りを、坂東太郎流れてたからね。。
どこも、結構たいへんじゃないかな。
江戸湾、使って、船で上陸するほうが良さそ。 神流川合戦の時、由良氏はやっぱり北条方だったのかな? >>179
だと思うよ。上杉の関東への影響力はもう死んでるどころか越後まで攻められてるし。 【岩松頼有こそ、田島経政?】
暦応2年から伊予国守護、その後備後国守護として活躍する岩松頼有その人を岩松・田島経政の出家した姿か、後継者である可能性が高いという。
新田義貞の鎌倉攻めにおいて、岩松経家と並ぶ岩松軍団の大将として、新田遠江(田島)又五郎経政がその人であろうという。
『新田町史』 「箕輪城と長野氏」戎光祥出版・中世武士選書
ISBN:9784864030311 2011年1月出版 2,415円
近藤義雄著 と言うのが出るようです。 由良氏の子孫ていまだに新田義貞の末裔とか言ってんのかな?
恥ずかしいね それシリーズ4冊目で
3冊目が「羽生城と木戸氏」
だけど1・2のタイトルがわからん。。。 >190
「武田信重」、「安芸武田氏」だったと思う。 在特会VS京都腐警&朝鮮総連
【腐食】京都府警による犯罪的取り調べの実態!【腐敗】
http://www.youtube.com/watch?v=21RxtRZ69aI&feature=related
京都府警の北原氏による恐怖のカミングアウト
「俺は腐ってる」「一部の警察官も腐ってる」その他意味不明な言動を繰り返し異様な取り調べを繰り広げています。
長時間になりますが全編ご覧ください。違法取調べの生々しい貴重な録音です。
警察と北朝鮮との癒着も疑われます。
↓
その後抗議に行くもカメラを執拗に拒否し姿を見せない北原氏!
http://www.youtube.com/watch?v=CcciZNxyzoI&feature=related
差別利権の町、京都と北朝鮮の闇を見逃すな! 神流川合戦って滝川の挑発で起こったと思うんだが、何を目的としてたんだ? >>196
滝川『本能寺がばれないうちに北条叩いておこう』
俗説と異なり滝川一益は実際は本能寺のことを関東諸侯にひた隠しに隠してる。 戦国時代の館林城って館レベルだったのかな?
沼沢地帯だったんだろうけど >>197
富岡みたいな明らかに北条方の国人の書状一枚を、
全ての上野国衆に当てはめて全部俗説扱いして良いのか?
一次史料では無いけれど、内藤、北条(きたじょう)、藤田の様々な
立場での史料が一益の情報開示を裏付けているのに。 同じく当時北条方の由良氏、足利長尾氏は、
神流川合戦で北条方に付いている。
どの史料か忘れたけれど。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています