\●/常州旗頭【鬼】佐竹義重 其之弐
東義久といえば、陸奥高野郡周辺の勢力配置も複雑怪奇だな 佐竹桐って聞いたことないね。
五参の桐とどうちがうの? 関ヶ原後に義久が
家康から佐竹領安堵を受けたが急死して
白紙に戻されたって話の真偽はどうなの?
以前、義久が安堵を勝ち取った話はウソで、義宣に露見しそうになって自害したらしいって話を戦国板で読んだんだが
いろいろ見てみたがどっから出てきた話だかわからん。 >>108
義久が家康に「自分の存命中は国替えをしない」と約束を取り付けたと言うのは
江戸中期に小野寺道維が古老の話しを纏めたものが出典
秋田叢書に収録されている
これによると義久の独断で行ったらしい
書状などが残っているわけではないから真偽は不明
藩史類を見る限り義久はあまり家中での評判はよくなかったようだ
どこの藩でもそうだけど、あまり強大な力を持ちすぎると
嫉みも手伝って動向を疑われやすく色々と責任を押し付けられて奸臣のようにされてしまう事が多い
義久も伊達との内通や義重夫人との密通までにおわせるものがある >>109
おぉありがとう。
東義久はけっこう好きだから、評判が下がるのは個人的には(涙)なんだが、好きな梶原政景も一度は北条側へ寝返りしたりと一癖あるから仕方ないな。
それが忠実すぎたらアゴで奴隷のように使われるし、少し危ういくらいが待遇よくなるだろうし乱世の生きる術だし。 東義久って、北酒出か南酒出へ養子に出されてた
東家は義久の兄が継ぐが若死に
東家の養子に義重の次男喝食丸内定
「喝食丸」は東家嫡男の幼名とか…
その義重次男が白川結城家に入嗣
東家に義久復帰
義重に重用され、事実上の三家筆頭へ
って事でOK? >>111
義久は養子ではなく、恐らく義久の為に再び酒出家が創出された。
というのは北酒出家は承久の乱の時に美濃に所領を得て移り、
たぶん所領を横領されて幕府奉公衆になったあと、義篤の時に常陸へ戻ってきて、
佐竹基親が馬場家を創出し馬場篤親を名乗った。
南酒出家も同じく美濃へ移ったと思われ、北酒出と争って吸収されたか滅亡した。
つまり養子というか養父がいなかったので、創出だな。
そんで佐竹東家の幼名が喝食というのは正しい、
また東家を白川義広が継ぐかもしれなかったというのも恐らく正しい。
だが白川義広は結局東家を継いでないので、義久はずっと東家のまま。
義久は義広が成人する前から活躍しており、元亀年間からすでに佐竹一家筆頭。
酒出家は義久の兄の義忠が継ぎ、さらに後に馬場家の子孫で大山家の女婿で
大山を名乗っていた何某が継いだ。血脈としては本来の酒出に戻ったことになる。 >>113
よくわからんが、秀吉から貰ったんじゃねーの?
>>114
送らないのが佐竹のいいところ。 >>110
三楽や梶原さんは、中央政権とも独自に繋がろうとしたりしてるし、
中々したたかだよね。 彼らは基本的に自立した領主であり佐竹の家臣ではないからね
佐竹三家にしてもそうだ
義久は佐竹宗家とは別に秀吉に音物を送ったりしている
小田原着陣の際に献上したものを見ると東家は宇都宮や結城などと同じぐらいの量がある
いかに義久が力を持っていたか窺い知れる
そういや三家の通称は
南=三郎
東=源六郎
北=又七郎
でいいんだっけ? >>117
わしもいろいろ悩むところなんだが、
佐竹三家は「自立した領主ではない」訳ではないはず。
戦国時代は、権限が分掌された、宗家の意を受けて動く存在。
無論ある程度の自由はあったが、それは北条にとっての
氏照や氏邦の所領と同程度のもの。
「北条氏照は北条家臣ではない」とは普通言わないのと同じで、
「佐竹義久は佐竹家臣ではない」と言うことはないだろう。
豊臣政権時代は、豊臣から六万石を貰い一見独立した領主に見えるが、
これは「奏者領」とでも呼ぶべきもので、巨大な所領を持つ大名の多くが、
豊臣政権との交渉窓口として家臣に分割給与されたもの。
豊臣から見て外様の旧族大名、例えば毛利(安国寺)や、島津(伊集院)、
宇都宮(芳賀)なども同程度の所領を貰っている。
ついでに佐竹「家臣」の範囲だが、
実際問題は「家臣」の定義次第だが、佐竹の場合は洞中(≒分国)に属する
領主は佐竹「家臣」として見なしても問題ないと思う。
じゃあ例えば小田、大掾、太田、江戸、小野崎、真壁、船尾、大山、小場の
何処までが「家臣」で、何処までが「家臣」じゃないの?と問われると、
ぶっちゃけ厳しいものがあるからな。「全部家臣じゃねーよ」というなら、
他の大名だって「家臣」じゃなくなるのが当然出てくるわけで。
佐竹は彼らの軍勢指揮権は持っており、彼らの家臣に対して官途付与等の
人的関係を持つことまではあったが、独自の外交は許していたし、
その本領内部に立ち入ることもなかった(が、ある程度の監督、所領宛行はしていた)。
歴史的経緯を見れば、これらは豊臣政権によって最終的には
佐竹に帰属すると見なされたわけで、広義の佐竹家臣と見なして問題はないだろう。 秀吉から直江みたいに陪臣扱いされてたんだっけ義久?
毛利家臣から秀吉直臣になったのは小早川隆景くらいか。 >>116
太田や梶原は、言っても佐竹の居候みたいなもんだしね。 >>118
しかし彼らは
・軍事指揮権
・外交の権限
・婚姻の権限
・農民に対する兵役や年貢などの賦課権
・宗家旗本以外に対する知行の権限
・官途、受領や一字の付与権
・商人、職人に対する諸役賦課・免除権
・過書の発給権
・制札・禁制の発給権
など、大名が持ち得る権限を全て持っていたと言っていい
彼らはあくまで佐竹宗家とは別家であり
起請文でもって盟約を結んでいた点、江戸や真壁らと同じであったと言える
まだ佐竹宗家から分離して年月が浅い点、他よりは宗家に近い関係ではあったが
義久の代は上記のような権限を持つに至っていた
例えば真壁氏についてだが、その家譜に於いても天正18年に佐竹の配下となったと記している
つまり彼ら自身も佐竹の配下であったつもりはなかったのだろう
秀吉の名により佐竹の家臣に位置付けられた事によってお互い主従の契約を結ぶに至ったと見るべきではなかろうか まあ、秀吉の登場はひとつの契機にはなったろうね。それが最終的に
秋田転封後の、佐竹義宣とその側近層が主要な位置を占める体制に
なっていくわけだけれど >>121
だからその辺は「家臣」の定義次第なわけだよ。
「家臣」という言葉を乱用してしまうために、こういう齟齬が出てきてしまう。
(ただオイラは学問的な場でない限り、別にある程度の乱用はかまわないと思うけど)
戦国期の佐竹の家格制(あくまで格式)の中では、
・御一家 = 東北南、江戸、大塚、山能、大山、石塚、小場等々
(擬制的な血縁関係を元にした佐竹の「一門」。特に東北南と宗家から養子が入った家は
「御親類中」と呼ばれ、その他の一家より格が少し上だった)
・御諸家 = 千葉、小山、宇都宮、那須、小田、大掾、伊達、蘆名、岩城、小田原等々
(本来は佐竹と同格の家々。ただし大掾は1564頃以降、小田は1583頃以降、
佐竹の洞に含まれるようになる。つまり洞は格式でなく実力を元に構成された、
佐竹氏の諸勢力編成原理ということになる)
・諸家からお分かり候御傍 = 塩谷、武茂、松野、宍戸、太田、梶原等々
・近進 = 和田、小貫、伊藤新蔵人、井上信濃守等々
(その他恐らく別名「氏子(うちこ)」、あるいは「抱え」を宛がわれた人々もこの中に入る。
和田、小貫などの宿老は御一家と同格とされる。)
などに分かれており、近世的?に「家臣」などとは言わないわけだ。
>>121の定義だと、佐竹では、「家臣」=近進だけ、ということになってしまう。
さらにこの定義で見るならば>>118でも言ったとおり北条氏照も「北条家臣」ではない。
松山城の上田はどうなの?あるいは織田の柴田や明智、羽柴はどうなの?
ってことにもなりかねない。それほど「家臣」を厳密適用する必要はあるのかな?
むしろ厳密にするなら「家臣」ではなく、「近進」を使うべきじゃないか。
それに>>121の権限はあくまで宗家大名を後ろ盾として行使できるものであって、
佐竹東らが「自立」的に運用できるものではないはずだよ。
どれだけ自立的かどうかで「家臣」か否かを計るのは微妙じゃないかな。
あるいは中世的な諸勢力混在の在り方を、近世的、あるいは現代企業の社員的な
意味合いで「家臣」の定義付けを行うのがそもそも間違っているか。
あと一応文書での裏づけだと、上杉謙信は、北義廉、東義久、梶原政景、
岡本禅哲、小貫頼久を「義重家中衆」と認識しているみたいだよ(上杉家文書。私未見)。
もっとも家中と「家臣」をどこまで同じと見るかは謎。
>>123
出羽で世話をしようと思ってた相馬家は何になるんだろ? >>124
奥州相馬氏は戦国時代なら館、御諸家クラス。格式では伊達、岩城、蘆名と同じ。
豊臣政権では佐竹の「与力」になったとされる。
多分「特に命令がない場合は佐竹といっしょに行動すること」的な立場と思われる。 >>125さん。とても素晴らしい解説、頭が下がります。
>上杉謙信は、北義廉、東義久、梶原政景、
>岡本禅哲、小貫頼久を「義重家中衆」と認識しているみたいだよ(上杉家文書。私未見)。
彼らに加えて、河井堅忠もね!! (上杉家文書。私は見た)。
で、北条家(というか氏政)には、馬場篤親を使者として送っているよね?
馬場篤親はどの位置にいたのかな?
てどお氏、流石やのう。要所をビシッとついてくるわ。
馬場篤親=佐竹基親は勿論御一家。
ただあくまで格式なので、実際には馬場はほとんど近進(=直臣、旗本)と
同じ程度の実力しか持っていなかったと思われる。
これは山入や部垂に加担した宇留野や小田野も同じで、
大山や小場のように自立気味だった家々とは違うと思う。
馬場は半ば浪人的に常陸にやってきたし、宇留野は謀反人だからね。
で、馬場は元々室町幕府奉公衆的な家なので、同じ奉公衆の
備中伊勢庶流=北条にはそういう繋がりで派遣されたわけだぬ。
縁故で外交する中世だぬ。佐竹は、或いはこの頃の人々は、
北条の出自を早雲の父のところまで完全に知っていたわけだ。 >>127さんへ。
いえいえ、それほどでも…
そうゆうつながりだったんですね。説明ありがとう。
確か、馬場家は鎌倉〜南北朝時代に美濃に分家した子孫なんだよね?
奉公衆・美濃といえば遠山氏もそうだよね?
あなたのレスは、佐竹研究に大いに役立つので
あとこれからも不定期的にカキコしてください。頓首。
>>127
小場氏も宇留野氏同様に謀反人だよ
小場氏の地位が飛躍的に高まったのは後に義重の弟を当主に迎えた為
小田野氏は山入氏一族だが佐竹宗家側についた
最終的に山入氏を討ったのも小田野氏 佐竹と高倉家(藤原北家)の関係について詳しい方はいませんか?
大概の佐竹関連書籍では存在すらスルーされているけど
義重の娘は高倉権大納言永慶の正室となっていますよね
戦国時代に高倉家を介しての朝廷や中央政権との動きがあったのだろうか >>129
スマン。佐竹の近進とほとんど同じ扱いになったということね。
宇留野や天神林(多分小田野も山入から)などは元々は大山家などと同じで、
宗家の手が入らない所本領を分け与えられていたが、
謀叛のせいで没収されて、佐竹から「抱え」と言われる土地を
一代の間のみ預け置かれるか、数十貫程度の所領を宛がわれる給人的な感じになった。
それではあんまりだと思ったのか、家格だけは近進より高く設定された。
小場や山能は義昭に過去の謀叛のことで圧力をかけられて
本領を安堵される代わりに養子を受け入れざるを得なくなった可能性が大有り。
これは江戸も同じだったが、忠通は拒否したのか、義昭に攻められて降伏してるね。
これ以降やっと別家を立てないという政策に変化したらしく、
手綱の再庶の大縄義辰なんかは有能だったので
「抱え」ではなく所領を貰ったが、やっぱり近進と同じ扱い。
近進真崎重宗も兄義保の戦死で真崎家を継いだが、真崎家の本領は
重宗の「抱えの地」的な扱いを受けて、そのまま宗家に接収されるという形になった。 >>130
その義重の娘は江戸重通の長男に嫁ぎ、江戸氏滅亡時に救出された後に公卿高倉家に再嫁したんじゃなかったか…
高倉家に嫁いだ時期は、(推測ですが)豊臣政権が全国統一してからだと思う。 この前、近衛龍春著の「佐竹義重」とゆうのを読みました。
とても面白かったです。
これ原作で大河ドラマは、どれぐらい現実味があるでしょうか? 近衛の史料調査能力は一流だけれど、
それを消化して小説として完成させる能力は皆無だから、
永遠に大河作家にはなれないだろう。 近衛著の「佐竹義重」と「佐竹義宣」を更に加筆訂正して、NHK出版から出せば…或いは?
序章として義昭を取り上げ、転封後の家中騒動や大坂の陣を丁寧に描けば良いと思う… 無理だな。そもそも近衛は佐竹のことを何も分かってない。
史料の調査能力なんてものも全くありゃしない。
あれは国盗り大名ゲームをそのまま文章にしただけ。
「おのれ高増め!」「うおおー!」「そうかの」「されど」「左様か」
「おのれ昭為!」「仕寄るかの」「不憫よの」「氏政め、たばかったか」
こんなんばっか。
小説でも三文足らずなのに、ドラマになる可能性なんか微塵もないわい。
大河決定の何年か前に、原作がNHKから出版される、という政治的な話はどこかで聞いた事があります。
原作がどれだけクズだって、或いはどれだけ素晴らしくても
脚本と演出によって全然別物になりますから。 茨城では「桜田門外の変」映画化支援の会が発足して幕末フェアが開かれている
やはり茨城では幕末史があまりに強烈だから佐竹が省みられる事がない…
秋田の方で支援してもらわねば映像化はまず無理 佐竹は知名度無さ過ぎてムリだろ。
常陸の佐竹ゆかりの観光地自体がほとんどないから観光の誘致は難しいし。
佐竹寺くらいなのがもうちょっとあればなぁ。
秋田は関ヶ原後だからなー。
常陸太田市と宇都宮市で共同誘致とか県を越えた同盟誘致しかないだろ。
でもまぁ県を越えた誘致なら、より結び付きの強い群馬栃木両毛地区の由良足利兄弟に遅れを取るかも知れん。 >>138
政治的でもいいんだよな、立派な原作だったら。
ところが天地人ときたら!wwwwwwww >>140
義宣を主役にすればよいかと
義宣時代は歴代で最大の繁栄を誇ったし久保田藩初代藩主でもある
そうすれば茨城と秋田が繋がるし >>142
1 北条に圧迫され、北から伊達も圧力をかけてきて滅亡寸前
2 小田原の役で復活、常陸全土を領国化 全盛期
3 関ヶ原
4 減封され秋田へ
メリハリがあって良いのか?
・・・いやなんかストーリーのバランス良くないよな? 伊達と和平しろと惣無事令における天下人秀吉の恫喝で苦悩し葦名救援を躊躇する義宣
葦名家臣団からは佐竹が葦名支援から手を引き続けるなら伊達を頼るしかないと脅迫される。
しかし小田原参陣で常陸一国を安堵され選択が間違ってなかったことに家中の声望がたかまり、父の鬼義重も越えられたかと噂される。
会津征伐では隣国徳川を牽制し天下への野心を見せる。
しかし上杉と打ち合わせした白河口決戦シナリオと違い、徳川は上杉侵攻せず引き返す。
三成では家康には勝てない!ここに至って家臣分裂し義宣は無念に思う。
そして秋田での再出発では新たに経済通の家臣を使って新たな佐竹を作る! よし
そのストーリーで原作を書いて
NHKに提出するんだ!
>>145
とりあえず誰か原作小説を書かないと・・・ 来年の「龍馬伝」は、原作がないNHKのオリジナル作品という事らしい。
脚本家にすべてを委ねるみたいだ
やっぱり良い企画書と地元の政治力かな ともあれ、人取橋での義政の暗殺がすべてを変えた訳だよね
やっぱりくノ一役は長澤まさみかなw 天地人は関ケ原後の大減封でもリストラしなかったから取り上げられたんだよね? もちろん派遣社員(足軽、用兵)は能力のある奴以外は懐古しています。
懐古された派遣は大坂に入って景勝に退治されています。
つーかここ佐竹スレッドです。 佐竹の毛虫、かなり有名だったらしいね。源氏と後退を知らないことにかけたんだって。たしかにかなり格好いい。 秋田県知事
源姓佐竹出羽守敬久公
久保田城に入城し補修を開始!
源氏の旗を掲げて
引きこもりや無職の牢人を
全国から集めて
山形県へ進駐併合の上、
出羽独立と佐竹幕府樹立宣言キボンヌ!
>>156
おもしろそうだけど。
そんな治世はいやだな
鬼義重が希望せんだろ >>156
おもしろそうだけど。
そんな治世はいやだな
鬼義重が希望せんだろ NHK!竜馬は飽きた!佐竹を出せ!もう何回同じネタじゃ!
もう竜馬は観とうなかった! 竜馬役は…彼、ですか。まぁ西郷が大物に描かれれば良いけど。 wikiにどっかの馬鹿が義重と蘆名盛隆が男色の関係にあったらしいと書いたおかげで、
佐竹義重でググるとそのネタが結構出てくる。
ワシは佐竹を相当調べているが、義重と盛隆がそんな関係にあったなんてことは
一切見たことも聞いたこともない。
つーか、戦国時代の一大名同士が衆道関係だったなんてことはまず有り得ない。
そんで義重と盛隆が実際に会ったことなんて一度も無かった可能性が強い。
二人が同じいくさに出陣したという記録は無い。会合したという話も無い。
だが腐女子は取り付き始めているようだ。 腐女子じゃなくてリアルガチホモの仕業だと思うな、それは。
ナッちゃんみたいに社会的に抑圧されてる連中特有の世間への復讐心が感じられるし。 wikiは工作サイトだからね
明らかに悪意のあるものも多い
佐竹関連もだいぶやられてる >>165
>義重と蘆名盛隆が男色の関係
そりゃ『武功雑記』にあるネタだね。全く以てネタをネタと(ry 佐竹義重〜天龍源一郎
佐竹義宣〜ピエール瀧
これで2時間ドラマ 筑波の学園都市に行った時に
現地の年寄りがまったく理解不能な言語で会話しててびっくりした。
関東地域で会話が理解できない地は初めて。
ばっちり会話は理解できるが群馬と北埼玉のイントネーションが同じなのもワロタ そりゃ茨城人(若者)でも理解不能だからねw
文章に直して見ると古語だったりするんだけどイントネーションと早口で聞き取れない。
茨城弁は東北弁、関東弁、京弁(古語)が混ざっているから結構独特なようだ
逆に言うと茨城人は広範囲の方言を理解できる
まあ、茨城・栃木・福島・宮城と山形の一部は同じ系統らしいが。
茨城県南(土浦以南の常磐線沿い)は完全に標準語化していて他地域とは掛け離れている
やはり水戸藩領(佐竹領)と他藩の文化の違いが影響しているのだろう 偶然なのか必然か分からんが、
現在の(伝統的な)方言分布と戦国大名の行動範囲が奇妙に一致してるんだよなあ。
関東南西部を本拠とする北条の影響が、東北部の常陸・下野には最後まであまり及ばなかったし、
逆に佐竹の勢力圏が南奥州(福島県地方)に及んでるという事実。
こうなったのは地形もからんでるのかねえ? 正にその通りだと思う
勢力伸長は直線距離じゃなく交通の便によって進む
そして現代と戦国時代頃では地形も主要道路も差がある
例えば佐竹の勢力範囲は大まかに見て那珂川が境界になっている
下野でも那珂川内は佐竹の支配領域だ
そして上那須衆と佐竹が結び付いたのも、江戸時代までは
太田→大子(依上)→黒羽→白河のルートが西廻りの主要街道だったからだ
そして北廻りは太田→小里→東館→近津→赤館で
赤館からは白河、石川、鮫川(赤坂)の方面に伸びる事ができる
そして洞という広域の意味での支配地は、南は鬼怒川と霞ヶ浦系の内海で仕切られている
後は元々常陸は奥州支配の前線基地だったのが大きく影響しているのだと思う
かつて常陸国の成立以来北へ支配を広げ陸前(宮城県)付近まで常陸国であった
現在の方言圏と一致するのは偶然ではないだろう
南陸奥には常陸と同じ地名も多く移民も多かった
常陸にとって奥州は古代から身近な存在であり
常陸北部に割拠した佐竹が陸奥に支配を拡げていったのも必然と言えるかもしれない >>175
すごく面白いところに気づいている。つーかもうそれがほとんど答え。
何を言っているのかわからねーとと思うが、俺も頭がどうにかなりそうだ。
東国と奥羽の習俗は出雲近辺と一致する傾向がある。
しかし何故か北関東から南陸奥あたりは、出雲を含まない西国の習俗に近い。
例えば、「砂の器」のように、出雲の方言は東北の方言に似ている。
あるいは出産の習俗で、東国奥羽や出雲では子供の健康を願って胎盤を戸口に埋めるが、
西国と北関東南陸奥では出産の為に母屋から離れた場所に産室を設け、
出産後は胎盤を、血を嫌い、穢れを忌避して産室の床下深くに埋める。
東国奥羽=出雲、西国=北関東南陸奥が不思議に結ばれているのだ。
さらにオオクニヌシの息子のタケミナカタは天孫のタケミカヅチに敗れ、信濃の諏訪まで逃げたこと。
東国に出雲系の国造が多いという事実。南関東に氷川(斐川)神社が多く分布するという事実。
一方、天孫のタケミカヅチを祀る鹿島社とフツヌシを祀る香取社が、
言わば東国の出入り口となる常総の内海の南北両脇に鎮座しているということ。
そして西国政権に対して新皇将門の出現、鎌倉幕府の誕生。
民俗学だとかダビンチコードだとかそんなチャチなもんかも知れんが、
もっと恐ろしいものの片鱗かもうわなにふじこ >>176
>常陸国の成立以来北へ支配を広げ陸前(宮城県)付近まで常陸国であった
伊達厨が怒り狂うぞw >>178
いや、伊達とか全く関係ない
その頃は佐竹も伊達も存在してないし >>174
>茨城人は広範囲の方言を理解できる
>まあ、茨城・栃木・福島・宮城と山形の一部は同じ系統らしいが。
白河結城→芦名に養子に行った義広も、ことばのギャップは感じなかったのかな?w 義広の母親が誰か調べれば、言葉の問題などないだろうなと感じる。 ああそうだった。
小大納言は伊達晴宗の娘だったな。 小田原役が延期になってれば
上杉佐竹最上連合軍が伊達をフルボッコしてたのに残念だ。 「北城様」は
「ほくじょうさま」なのか
「きたしろさま」なのか
いまだに分からん >>185
音読み訓読みで分けると確かに「ほくじょうさま」「きたしろさま」のどちらかですね。
音訓交じりで読むと「きたじょうさま」
義昭が隠居して義重に家督を譲り常陸府中に在った時は何と呼称されてたのだろう?
もしかして「南城様」とかだったりして…?
>筑波の学園都市に行った時に
>現地の年寄りがまったく理解不能な言語で会話しててびっくりした。
あの辺りは旧小田氏や武蔵の太田氏や梶原氏の影響じゃないの?
もっと山の方の八郷や柿岡に行くと三楽という屋号の家が多数存在しますね。
いや実は伊達の娘の小納言は佐竹正室の侍女にされ辱められた ありえないし、それじゃ義重の正室は誰なんだ?となる 晴宗の娘はかなりの恐妻だったみたいだね
義重も義宣もかなり振り回されている
義久などは骨抜きにされていたし 私は個人的に義久は白河義親と談合し(騙し)義広を養子に出して佐竹三家の東家を乗っ取ったのではないか…と考えている
伊達の脅威をモロに受ける二階堂と違い、佐竹に嫁いだからか、実家愛がかなりあったみたいだしね。
義広が葦名を継ぐと余計に伊達と戦うなって義宣に言ってたらしいし。 形だけとはいえ和睦の証としての輿入れだからね。
実家と嫁ぎ先が戦わないようにするのは当然の役目だったろう。 実家の方がやる気まんまんなのに
止め立てしてくるんじゃ
獅子身中の虫みたいなもんだ 両家に「戦い、止めーい!」と呼びかけるんじゃなくて、
実家が優位になるように嫁ぎ先の裏でコッソリ工作…が
何となくいやらしい。 >>44
源姓はまれだよ。配下の小野崎一族のような藤原姓が多いな。 >>198
なんというツインテールw
これも前立てなのか?