【裏切り】朽木元綱【名将】
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佐和山城攻撃に参加しているが、果たして軍功と言えるものかねぇ。 関ヶ原での足取りと追うと・・・
伏見城攻撃に参加
↓
大谷吉継の軍勢に加わる
↓
京極高次を西軍に誘うも失敗
↓
関ヶ原本戦にて東軍に寝返り、大谷吉継を攻撃
↓
佐和山城攻撃に参加
何かフラフラしてますなぁ・・・ 近江にあって東軍につくってのは判断は、まぁ無理だよな
だからそこ京極は家康に手厚く迎えられたわけだけど…… むしろ東軍についた京極の方が英断ですわな。
しかも、あまり籠城戦に適さない大津城で集中攻撃に耐えなければならない。
朽木が同じことをしたらサッサと蹂躙されて終わり。
西軍に加わったのはある意味、妥当な判断ですよ。
脇坂のように裏工作をしていれば、本領の2万石をそのまま安堵されていたのでしょうけど。 >>251
磯野の配下だった時期もあるしね。
俺は朽木プレイの時は京極さんは拾ってやるぞ、同族だしな。 群雄割拠の近畿にあって
明治の世まで残ったのは京極と朽木だけ。 朽木家の被官って殿原衆と呼ばれてたけど
殿原衆って禅を信仰する在地郷士も
そう呼ばれてたから
関係性あるのかい? 「百姓」というのは氏も出自もある立派な身分階層だぞ。
江戸期に農民が基本的に自営農家になるまでは、百姓と言えば、下人を使って自分の農園を経営する
農村の上流階層。「百姓様」と呼ばれていた。 先祖辿って小作人しかいないとか、それはそれで凄いことだと思うw そういや京都に京極って友達いたな
やっぱり関係あるのかな? いらっしゃるようです。
ttp://www.kisnet.ne.jp/~matikado/kutuki01.html
>朽木家研究のためにこのほど福知山市へ転居してきた朽木家直系子孫の
>朽木 彰さんから寄託を受けた新資料も一部展示した。 >>269
もう「○綱」ではなくなっているんだね。 ここまで続くとかぶりまくると
ひこにゃんの実家筋の分家さんも
困ってたなぁ
>>274
江戸時代の後半にもなると、結構変な字を当てた諱が増えてくるからね。 しかし、朽木家って分知を繰り返し、やたら枝分かれしてるのね・・・
http://homepage1.nifty.com/t-kubo/Japan/koutai/kukki.htm
元綱━━━┳━━━宣綱━━━┳━━智綱
近江高島. ┃.. 6,470石.. ┃ 4,770石
9,950石.. ┣━━━友綱. ┣━━高通
. ┃.. 3,010石. ┃ (峰山藩)
. ┗━━━稙綱. ┣━━良綱
... (福知山藩).┃ 1,000石
.. ┗━━元綱
700石 >>278
曾祖父、祖父と同じ名前を名乗ってるし・・・稙綱、元綱 >>278
高通って、通字の「綱」が無いね。
他家からの養子でも無さそうなのに不思議だな。 >>283
不明。
幼少の頃に京極家に入ったのかな?
秀忠の小姓になっているけど、当時であれば朽木家の庶子でも秀忠に
近侍できただろうし。 嫡流は分知を繰り返して知行を半減させていったものの、
宣綱弟の稙綱、宣綱次男の高通と明治維新まで続く大名家を
派生させただけでも、並の交代寄合とは一味違うな。 高通と稙綱はほぼ同年配なんだね。
朽木元綱 1549〜1632年
┃
┣━━ 宣綱 1582〜1662年 ※寛文地震により近江国朽木にて死去
┃ ┃
┃ ┣━━智綱
┃ ┣━━高通 1603〜1666年
┃ ┣━━良綱
┃ ┗━━元綱
┃
┣━━ 友綱 1599〜1662年
┃
┗━━ 稙綱 1605〜1661年 元綱56歳の時の子か>稙綱
随分とお盛んなこった。 >>288
「高」は京極家の通字なんだが、最初から養子入りすることでも決まってた? >>289
朽木家の嫡流は長子・智綱がいるし、それ以外の男子もいる。
分知するにしても宣綱自身、知行は6,470石しかない。
とすると、宣綱が妻の実家である京極家に働きかけ、京極一族として秀忠の小姓に
送り込んだのかも知れないね。
京極高知としても、秀忠治世下での厳しい大名統制を見るに、丹後一国の国持大名
の地位を保てるとは考えていなかったのでは?
高広、高三に秀忠の小姓であった甥の高通を加えることで、丹後を三分割し、リスク
の回避に努めたのかも知れない。 丹後京極氏も宗家は改易されたしな。
後年、2,000石の旗本(高家)として再興してはいるが。 高知も強かだからなぁ。
義父・毛利秀頼の遺領(南信・飯田)の大半を相続しているし。
秀頼の嫡子・秀秋は1万石を相続したのみ。
おそらく姉・松の丸殿と義姉・常高院の働きかけがあったんだろうけど。 秀秋はその後、大坂の陣で豊臣方についてあぼ〜ん・・・ >>296
ttp://s3.amazonaws.com/cogolo_faces/%E6%9C%BD%E6%9C%A8%E5%85%83%E7%B6%B1/imgs/www.ikedaya.com/images2/nobukatsus/bakufu/kutsuki-mototuna.jpg >>286
>宣綱 1582〜1662年 ※寛文地震により近江国朽木にて死去
当時で81歳ってのもエラいご長寿だなぁ。
地震で死ななければどんだけ長生きしていたんだよ。 戦国から江戸時代生き残った武家は
長寿に恵まれた人物を輩出できたとこが
多いのよねん
血統値の高い保守派が居れば分裂しにくいし
上の代から認められた知行は貰った本人が生きてる間は取り上げにくいし
死んだら手をつけるかと思ってる方が先に死んじゃうからな >>300
逆に平和な世になると軟弱になっていく。 江戸期のブランド・朽木盆知って
高島の男性、全国から100枚収集
ttp://www.kyoto-np.co.jp/static/2009/03/17/P2009031700054.jpg
各地を回り10年がかりで集めた朽木盆と石田さん(高島市朽木市場)
江戸時代全国に名を知らしめた高島市朽木の特産品で漆絵盆の「朽木盆」を収集している男性が同市にいる。
県外の骨董(こっとう)業者が買い集め地元にはほとんど残っていなかったが、「里帰りさせたい」と10年ほど
前から金沢や岡山、京都などの骨董店からこつこつと買い求め約100枚になった。
「朽木でも朽木盆は知られていない。できるだけ公開していきたい」と話す。
高島市教委朽木村史編さん室編纂監の石田敏さん(62)=同市朽木市場。朽木盆は、江戸時代、大名から庶
民までが愛用し非常に人気があった。
黒漆地の丸盆に朱漆で十六弁菊や草花模様を描いた盆が代表的で、1675(延宝3)年には松尾芭蕉が「盃の
下ゆく菊や朽木盆」と詠んだほか、名物茶器収集家として知られた松江藩主・松平治郷が1枚1650両で購入し
たとの記録もあるなど、江戸時代前期には全国ブランドになっていたという。朽木の木地師は明治中期に廃業し
たといわれる。
石田さんが初めて朽木盆に出会ったのは1978年。朽木中の担任として家庭訪問したとき、使われていた。
「これが朽木盆か。地域で観賞できるように戻したいと思った」。
朽木にはすでになく、岐阜、神戸、大阪、県内などの骨董店で買い求めた。
集めたものは直径が9−36センチ。菊文菓子皿も多い。石田さんは「江戸時代、卓越した技と斬新な絵で垂ぜ
んの的だった。今は、骨董ブームで何でも朽木盆の名で売られている」と危惧しながら、地元の歴史遺産の保
存活動を続けている。
ttp://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2009031700054&genre=K1&area=S10 菩提寺に行けば何かあるかも知れませんね。
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興聖寺(高島市朽木岩瀬)
ttp://www.aiai-work.com/hitoaruki/shiga247/img247/247_1.jpg
曹洞宗高巌山興聖寺の旧秀隣寺庭園を訪れた。
国の名勝指定の池泉回遊式庭園で、1530年、朽木稙綱(たねつな)を頼って室町幕府12代将軍
の足利義晴が滞在した際、作庭したとされる。
「本当ならば、足利庭園というほうがぴったりくるのですが」と副住職の森泰孝さん(56)。
国道沿いの看板にも、足利庭園と表示されている。
作庭当時は付近に秀隣寺があったため、先々代が旧秀隣寺庭園と名付けたそうだ。
秀隣寺がやや北側の朽木野尻に移転した後、江戸時代に興聖寺がここに移転してきた。
同寺の開基は朽木家の祖である佐々木信綱で、代々朽木家の菩提寺となっている。
ttp://www.aiai-work.com/hitoaruki/shiga247/shiga247.html >>313
足利氏をかくまった家として有名なのだが。 小豪族が忠義だの義理だの立てていたら生き残れないですよ。
生き延びた側が正義になる。 Kyoto Shimbun 2009年5月29日(金)
湖北ゆかりの新収蔵品公開
あすから長浜城歴博
ttp://www.kyoto-np.co.jp/static/2009/05/29/P2009052900081.jpg
下間家伝来の火縄銃(上)と大身槍(中)と朽木元綱にあてた片桐且元の書状(下)
滋賀県長浜市公園町の長浜城歴史博物館の「新収館蔵品展」が30日に始まる。
東本願寺の坊官を務めた「下間家」伝来の大身槍(おおみやり)や火縄銃、湖北出身の戦国武将・
片桐且元の書状など、昨年度に購入、寄贈を受けた17件、21点を紹介する。
「大身槍」(室町時代後期)は刃長が約50センチあり、鞘(さや)に漆塗り、柄に螺鈿(らでん)を施し
た豪華な造り。稲富流の火縄銃とともに下間家から寄贈された。いずれも石山本願寺と織田信長と
の合戦で使われた可能性があるという。
片桐且元書状は、豊臣秀頼の家老だった且元が1610年5月、近江出身の大名朽木元綱にあてた。
駿府(静岡市)で徳川家康や秀忠と面会した様子などが記されており、且元が徳川方との協議の折
衝役を担っていたことを示す史料として興味深い。
大通寺の第9代住職能満院達位が描いた「牡丹(ぼたん)図」(江戸後期)や、国友鉄砲鍛冶の国友
戸十郎が鉄砲伝来の経緯を考察した書物など、長浜ゆかりの資料がある。6月22日まで。
入館料は高校生以上400円、小中学生200円。
ttp://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2009052900081&genre=I1&area=S20 >>269
福知山朽木家直系の人だね
血統的には慶喜の曾孫
しかも慶喜のクロスもある
本家子孫のことはなんかの本で読んだけど
題名とかわからない
朽木村近辺のゴルフ場勤めだとか >>325
本家の方は朽木家文書を所蔵されていたはず。
名前にも通字の「綱」がついている。 巧木と新庄の本能寺の変の時の行動が解らん
解る方いますか?
朽木谷のある高島郡が磯野員昌の出奔で津田信澄に移った時に
元綱も信澄の寄力になってたはず
近所に光秀の本拠地があるから本能寺の時は厳しそうですよね
よく知らんけど
その後潰されなかったのは信澄の仇討ちで信孝相手に張り切ったのかもしれんね >>331-332
四国攻めに参加予定で、信澄や信孝・丹羽と一緒にいたって事かな? >>334
助けたというより抵抗しなかっただけじゃないの? 朽木村の管理釣り場でニジマス釣って食ったことはあるけど
朽木元綱なんて知らんな。 >>337
あの時代に生き残れただけでも並ではないと思うのだが。 >>339
しかもポッと出の織豊大名というわけでもなく、室町将軍の奉公衆をつとめた佐々木氏流の
名門だもんね というか武将ってのは兵を束ねて率いて戦う存在なわけで
それを雑魚とか言うのはそれをゲームのキャラみたいにしか見れてない証 裏切りや謀反の裏で罪無き人々が見懲らしの磔
にされているのを忘れてはならない。
尋常な殺し方ではないぞー
長い時間をかけ恥辱に塗れた嬲り殺しじゃー 1石が150kgで10kg2000円とすると
1万石で3億円くらい4:6としても1.2億円
当時の米の取れ高が2000万石これにいろいろ加味して
だいたい10倍をGDPとすると2億石に現在のGDP500兆円当てはめると
1石あたり 25万 1万石で 25億 4:6で 10億円
1万石で200人くらいの動員数と考えて、
>>340
じゃ、佐々木氏の流れを汲む連中がどうなったかと言えば・・・ 六角義治の系譜は旗本だろ?
但し、佐々木に復姓してはいるが。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています