戦国公家!近衛前久
東海道漫遊に自分も連れて行ってくれとねだり、かんしゃく起こした信長から呼び捨てにされ怒鳴られたというエピソードは史実なんですか? >>102
小朝忠熙は予告見る限りじゃ実際の忠熙公とは違ったパターン通りの公家として描かれそうでイヤン
実際は明治維新後も公家の筆頭は京都にいるべきとして明治天皇自らが説得に出るまで東京に行かなかったという
かなり骨太な性格の人。
一度揮毫を見たが大名の筆かと思われたくらい豪快。 >>100
住んだのは金閣寺じゃなくて銀閣寺じゃないの? >>103
公家らしいいやらしい感じ出してましたね。小朝師匠。 何か偏見丸出しの人が来ているようだが
小朝は嫌いではないが
柳生忠熙>>>>>>>>>>>>>>小朝忠熙 なのは明白
てか、公家に大坂の商人の言葉使わせて平気な辺り、脚本家が諸悪の根元かと思うが 近衛前久について書かれた小説ではない本を知りたいのですが
何かありますか? >>108
谷口研語『流浪の戦国貴族 近衛前久 天下一統に翻弄された生涯』(中公新書、1994年)
橋本政宣『近世公家社会の研究』(吉川弘文館、2002年) wikiで丹波の赤井直正が前久の妹を娶ってるってあるんだが信憑性の高い出典あるん?
赤井氏没落後その女性がどうなったかとかわかるのかな。
赤井直正って畿内で知られた武将だったてことか。甲陽軍鑑に名前出てきて逆にちょっと胡散臭く感じてたんだが。 >>100 確か金閣寺はもともと西園寺家の別荘要地であったのを、何故足利が買い取ったかは知らないが、前久公が住めなかったくらいに、足利家権威の象徴(菩提寺のように)になってしまった。足利家の管理が、いつから国宝(国の管理)になってしまったの? 戦国公家といえば一条教房もいるけど、前久とは立ち回りが大違い。
>>111
花の御所(室町幕府庁)は徳大寺家の邸宅を買ったものだよね。 崇光院の御所・・・焼失→菊亭邸…焼失→花の御所、じゃない? 摂家なら誰でも反対なんじゃないの?
豊臣家一家で世襲する予定なんだから。 内心どう思っていたかは別として、近衛さんは猶子にしてるから >>125
最初は近衛の猶子の「藤原氏」として関白職を受けたが、藤原のままだと関白職は
五摂家による持ち回りであるため秀吉の血族で独占できず、そこで「新摂家」としての豊臣氏を
創氏した。 >>110
確か朝倉かなんかの未亡人だったから、今で言うところのアウトレッドって奴だろう。
逆に石山本願寺から赤井のところに頼った理由を他に説明出来るんかいな? 近衛家って今でも顔パス
アポ無しで皇居入れんの?
宮家くらいじゃないと入れない? >>131
たしか次期当主の母親(現当主夫人)が三笠宮家だよ。 >>132じゃあ三笠の宮家にはアポなしで行けるね。 バカしかいなくなったな
ここは何板かくらいは理解しろ なんで近衛晴嗣から名を変えたの?
めうえの貴人から貰った名を簡単に変えてしまってもいいの?
二条晴良や二条昭実から比べると軽薄な人柄だね
武家の例だけど
羽柴秀吉から貰った徳川秀忠でさえ改名していなのに >>137
この時代の、特に京都あたりの人間は、人生の節目だったり、心気一転を考えたりするごとに
改名してる。 >>138
彼の他にも「足利義晴将軍」から貰った名を棄て去った人物はいるの?
「晴」字は改名しても使うべきだと思う。近衛晴久とか近衛晴前とかね。 >>138でも貴人から頂戴した方諱は普通変えない!!! >>141
俗名は上杉輝虎ちゃうの、変えてないんじゃないの?出家するまでは。
武田晴信もそやけど。
やはり近衛晴嗣が前久にしてしまったのは異常やな。
情も義理も薄いんとちゃう。 若い頃の近衛は熱しやすく醒めやすいね。
晩年は関ヶ原から逃げ延びた島津兵を匿ったりしていてカッコイイ。 >>143
だいたい島津は近衛の家来なんだから
島津の罪は近衛の責任
島津の手柄は近衛の手柄
島津の領地は近衛の領地 >>146
見殺しにした例が実際にあるの?
具体的に、どの時代に? >>146
なんで興奮するwww
近衛の粗探しして難癖つけたいのか? 流れをぶった切ってスマナイ、最初から読ませてもらった。
>>46
家康△じゃなくて○
松平から徳川へ改姓したとき朝廷への根回しをしたのが前久。
この縁で、本能寺の変後、※信孝が兵を送り捕らえようとしたのを逃れ家康のもとに行き、
信長の追善供養を行った。
(※光秀が二条御所を攻撃した時、隣接している前久の屋敷を使ったため、謀反に関わったのではないかとの疑惑から)
それから信長とは◎か☆
1575年信長は公家・門跡に対し一斉に知行を与えた。(最高で300石)
前久には破格の1500石。
この年、信長の意向を受けて九州へ、相良、島津の和睦斡旋目的。
コレが縁で家久上洛のおり光秀の手厚い歓迎を受ける。
信長と前久の気の会い方は、親友と言っていいレベルだね。 >>137>>139>>142いいつっこみだね
同じ気持ちだ
将軍家に媚びて生き延びてこられたのに
あっさり晴嗣の名を捨てるとは・・・
同じ摂関家でも二条家代々のほうが、よほど誠実味がある
最後まで近衛晴嗣で通すべきだ 五摂家は対当のはずだよ?
近衛が五摂家筆頭なんて誰が言い出したの?
近衛だけがダントツ1位の名門みたいな言われかたじゃん? 近衛が圧倒的に筆頭だよ。
皇室典範でも皇族の男系が途絶えた場合、近衛家から臨時で摂政を出すことが明記されてる。 >>158
第何条で、どんな条文ですか教えていただけませんか? 別人を装わなくてもいいから。
稚拙な釣りに引っかかる同レベルのバカは2匹もいないだろ。
戦国時代板で皇室典範ってマジで阿呆?
>>167
中国人の子孫といわれる島津家の始祖
惟宗 忠久と近衛家との繫がりからじゃない?。 >>168島津家って中国人の子孫なんだね。
日本の名門かと思っていたけど帰化した中国人の一族か。
まあ中国に一番近い県だから分かるような気がする。 惟宗がいまだに中国人呼ばわりされるんだったら純粋日本人なんて・・・ レイシストに何言っても無駄。
日本人は日本列島から沸いて出てきたとでも思ってるんだろ。 島津が中国系とかどっからそんな話が出てくんだよw
れっきとしたゲルマン系だよ。系図でもそうなってる。 >>170
家系図で中国人の子孫て自分から発表してるじゃん
黙ってたらわかりゃあしないのに 近代日本人の定義は、朝鮮併合以前か戦前で区切るべきだと思う。 島津は自他ともに認める中国人の子孫じゃん。
日本人の名門の近衛家が、よく家臣として使ったね。
中国に近い薩摩だから、中国人の子孫が適任と思ったのかなあ? >>181
日本語の読めないキミが日本人では無い事だけはわかった >>181そうじゃないかあ。
薩摩焼は朝鮮焼だから
薩摩は大陸の影響が強いから チンギスハーンもウリの一族ニダ!ウェーハッハッハッ!
ってか? 北は越後から南は薩摩までって、同時代にこれだけ移動した人いないよね
商人ぐらいか それをいったら西国の大名の大半は朝鮮半と(ry
加藤清正とか今のシベリア辺りまで(ry 伊達政宗なんかも、東北から九州朝鮮半島まで。
まあ、南北朝の頃とかもっとダイナミックに移動しているけどな、大名も将軍も。 >>193
南朝方の親王たちの流転ぶりもすごいからね。
赤松則繁なんて守護大名の一族から、倭寇になって朝鮮半島から東シナ海暴れまわっているなw 現職の関白で前久ほど長く京都にいなかったひともいないんだろうね。
左大臣か右大臣か忘れたが、ヨーロッパ視察はいたよね。 安祥城のある志貴荘は、近衛家(藤原北家)の荘園だったので、
安城松平家(徳川本家)とつながりがある。
家康は、それを利用した。 三河守叙任は三河支配の正当性を確立するためには、どうしたって必要だからな。
そりゃ利用もするわな。 利用された側のスレなんで、
どうして利用されたかを論じれば?
カネがらみなんだろうけど。 >>205
三河守護の間違いですか?。
国司って平安時代までだけ名実が伴っていたように思います。
まあ鎌倉時代の相模守・武蔵守も名実が伴っていますが。
戦国時代はそんなに意味ないと思います。まあ守護もですが。 >>208
幕府の権威がゼロの時代に守護なんて価値がないわけですが。
戦国期は守護も官位も超重要。
戦国大名といえども合法性の衣をまとわねば、のたれ死ぬ。 >>211
伊勢盛時くんって例外もいますがね。
子孫は相模守を世襲してますが。 >>212
盛時一代の立場は、幕府から事態の収拾のため派遣された官僚ですよ。合法的。
次の氏綱の時代から官位を求めたりして、別の方向の正当性を求め始める。 >>212
早雲は出発点が足利・今川の被官という扱いだからな。
将軍や管領・有力大名の被官が守護大名を名乗るのも変だろう。
一国人が勢力拡大して守護大名を名乗らないケースとはわけが違う。
息子が北条を称して独立宣言をしたもののそれでも不足があったから、
相模守を名乗って文書主義の体制を敷かなければならなかった。
結局は永遠に「他国の兇徒」を脱することが出来ず、
豊臣の小田原征伐で関東中に見放される複線を自ら残していたわけだよ。 その意味で日本中の大名から見離された豊臣氏は、まさに日本の兇徒ですね。 前久が諸国漫遊していたから、
二代後は親王を迎えるハメになったのだろうか?
前久は諸国奔走してお忙氏のわりには子供は4,5人いたんじゃなかったかな。
男子も後を嗣いだ信尹の他、上に興福寺一条院の門主となった長男がいたはず。
つまり信尹が頑張らなかったから・・・w 女系では今までつながってるけどね
前久の子孫で一番有名人なのは今の天皇ご一家
前久→前子→後水尾天皇−(以下略)−今上天皇 女系で子孫とか言い出したら
天皇の子孫は数限りなくいることになるな。 直接関係ないが、鷹司は後年閑院宮(その後九条家)から入ってるんだね ねえねえ教えて、摂家と宮家
どっちが格上なの?
官職と身分はどう違うの 摂関家の方が上に決まって居るぞゑ。
分かったナッ!!! >>224
官職(職務における序列)上では、摂関家>宮家。
身分(家の格による序列)上では、宮家>摂関家。
と思っていれば、当たらずとも遠からず。
玄人気取りで片手落ちの出鱈目を言ってんじゃないよ、
>>225ことナッちゃん。 皇別源氏と摂関家で見ると、>>226も正解ではないような。 ただの勘違い君だろコイツは
世襲のくせに自分が一流の政治家だと勘違いしてる
信長とかは内心では馬鹿にしてただろうなぁ >>228
それが確定したのは徳川家康の仲裁の筈
それを文書化したのが禁中並公家諸法度 じゃあ時代によって違うってこと?
皇族が摂政になったら最強ってことだね
摂家は皇族になれないから有得ないよね反対は 昭和天皇は摂政で皇太子だった。
今の皇太子も天皇陛下が体の御調子が御悪いので
内々に御相談されたが例のごとく「雅子が病気なのにやってられるか」
と断られたという噂がある。 >>3
いや、近衛前久は公家だけど狩りよくやり、腕よかったらしいよ。
家康は狩のコツを教えてくれ、といっているぐらい。
答えて前久は和歌に狩りのことを折りこんだものを百贈った。 お歯黒しておじゃるおじゃると馬に乗る関白って想像できないね。
>>235
馬術が好きだった関白というのもいたらしい。
二条良基が父・道平の乗馬好きについて書いている(「嵯峨野物語」)。 戦国大名と違って暇なんだから、そりゃあ狩りも存分にできるだろうね
初めて投稿します。
近衛家について研究しています。
お詳しい方おしえてくださ〜い。
桜御所・近衛邸(同大・新町校舎)は、いつごろまで近衛家の所有だったのでしょうか?
京都御苑北西部に本邸が移転した後も、近衛家の所有地だったのですか?
下屋敷などがあったのでしょうか? メールアドレスを書かなかっただけ2chってものを理解してるなw いや〜ん
いや〜んいや〜ん
結局だれも答えてはくれないのね? なんでこのネカマはそんな質問したがるのかね。
きもいから知ってても答えたくなくなるわ。 文麿や篤麿の伝記的なものでも読んだら。それとももっと昔か? いや〜ん
まだ誰も希恵子の質問に答えてくれてないし〜
いやらしい男子ばっかりなのね・・ >>210-211
毛利元就は陸奥守のようなどうでもいい官位を貰っているのに
地元の守護は貰っていない。
足利義輝は、武田に長尾との戦争をやめさせる代償として信濃守護をくれている。
信玄は守護職を口実に信濃国内での対長尾戦争を続行するわけだが
これは幕府自身が守護職を飾り物と思っていた証左。 毛利元就じゃなくて、隆元の代に貰ってるけどね。
元就の代は無理でしょ。大内がいるんだから。
朝廷の官位は具体的な陸奥守とかじゃなくて、官位を貰うということ自体が重要。
それに毛利元就の官位を語るなら左馬頭の方が重要でしょ。
信玄の例は、合戦を続行する口実になるわけだから、守護が重要なんじゃん。 > 毛利元就は陸奥守のようなどうでもいい官位を貰っているのに
陸奥守がどうでもいいって…、正気か? 諸大名が官位を欲しがっていたことは、官位にメリットが付随したことを意味しない。
現代ですら何のメリットも伴わない勲章を欲しがる偉い老人は少なくない。
まあ、全く何のメリットも無かったわけではないけど>>211は大袈裟。 >>254
そもそも武士とは何かを理解して無い。
官位の無い武士は武士ではない。野党の類に過ぎない。 >>254とは違って官位の重要性はもちろん認めるけど官位の無い武士が武士ではないとは言いすぎ。
鎌倉以降戦国に至るまで官位を名乗っていない騎乗武士は多い。
少なくとも武士の定義をきちんとしてからでないと言えない。
もちろん俺は諸大夫、侍の意味を知って言っている。 上総「守」とか僭称していた時代の信長は武士でないとw
江戸時代でも大半の侍は自官だがな。 官職があってもメリットはあまりないが、
なかったり、格の低い官職を名乗るとデメリットがある。
そういうもんだと解釈している。 >>257
親王任国は上総介じゃないの?
江戸時代の大名でも、領国と受領名が一致している国持大名は
やはりなにがしかの権威があったと思うなあ
中には常陸国主の徳川 常陸介 頼宣なんてのもある
他の大名もそうだけど、始祖の官職は国替えになっても世襲するんだね。
紀州徳川家は幕末の家茂までも常陸介だし。
官位を軽視する人間は、歴史の見方は粗雑過ぎるとしか言いようが無い。
本気で「戦国時代は実力社会」とか信じているんだろうな。
>>259
だから、信長が間違ってたんだよ。祖父江五郎右衛門への書状で信長は上総守の署名で手紙を出してる。
後の書状では上総介に直ってるから、誰かから注意を受けたものと考えられる。
信長公記内でも別人で何度も上総守と記述されている人がいる。
太田牛一も親王任国に関してよく知らなかったのかもしれない。 >>260
ゲームだと官位はパラメーターを補正するだけだもんな。
勲章とかそんなレベルにされているw >>261
ド田舎もんらしい間違いだね
斯波の家臣の家臣クラスじゃ知るよしもないかw >>264
有名人とはヤッてないんじゃないかね。ナッちゃん 調べれば調べるほど、唸らされる
前久は凄まじく能吏で教養に溢れ
一方で豪胆で行動力のあった男なんだな
余裕で大河の主人公になれるわ、後は優秀な原作か… 平気で足利家から貰った名を捨てるようなやつが?
二条家により朝廷を追われたやつが?
お調子者は大河の主人公はむりだよ。 前久が元服した足利義晴期は京都で将軍が少しは権威があった最後の時代だから
もっとも、義輝あたりになると武家では未だに「輝」の字をあり難がる奴がいたが、公家では日野輝資しか貰っていない筈。 >>271
そんなことはないよ。
他にもいるんだけどな・・・。 足利将軍家は武家の統領であると同時に、公家の統領でもあるからな。 持明院統の皇室にとって足利家は近臣中の近臣だったんじゃないだろうか
官位の昇進は清華っぽいが
摂家よりむしろ
家に対する天皇家の恩情を感じる
近衛の替えはあっても足利の替えはない
みたいな。 将軍家からの偏諱には領地の安堵・承認の意味があるから
貰った名を捨てるということは
非礼極まりないな 将軍の権威にあやからねばならないのにその将軍様の権威が地の底奈落まで失墜してるからそれこそ無意味
将軍の権威はそれこそギリギリまで存続している。特に京都では。 義維・義栄と、義晴・義輝・義昭の戦いって
応仁の乱の続きなんだな
最近知った。 義尚と義視から始まって、その跡目を名乗った従弟だの甥だのが頑張って
義政┬義視─義稙─義維─義栄
└義尚─義澄─義晴─義輝
こんな出鱈目な系図があってもある程度間違っていないという楽しさ。 >>281
応仁の乱とはまた別。義尚の急死からの流れだと考えたほうが。 義視と義尚の相続争いと、斯波家畠山家の相続争いが絡みあったのが応仁の乱じゃないの?
282さんの系図は義視以降は正しいと思うんだけど
義澄の父の名が違うね。
>>284
義視と義尚の相続争いってのは、応仁の乱が起こってから、顕在化してきたことだと
考えたほうが良いと思う。特に日野富子が義尚を将軍にしたくて山名と云々なんてのは、
アレは応仁記の創作だと考えるべきかと。 >>284
誰を挟んだら成立するか教えていただけると有難いんだが・・・ >>286
挟むんじゃなくて義尚の場所に義政。
義澄の父は、ふつうに義政じゃないの?。同じ立場だというのと系譜上の位置は違うものだと思う。 >>286
山野野衾レベルなら分かるが、素人が、コテつけて浅い知識語ってんじゃねーよ。不愉快だわ。 >>288
なるほど分からなくはない。
ただ仮にも公方の系図なので、先代が誰なのかをハッキリさせたかっただけだよ。
>>289
歴史についてちっとも触れない書き込みならラウンジにでもしてきたらどうだ。 勝手にNG登録でもしてろよ。本筋に関係ないところでごちゃごちゃ言うお前の方がウザイ。 近衛前久って足利義輝や足利義昭と仲が悪かったんだね。
義惟、義栄派だったんだろうな。
きっと 義昭はともかく、義輝とは別に仲悪くは無いわな。
前久が越後に行ったのも義輝の代理という側面がある。 親戚だし、個人的にも二人で一緒に酒飲んで騒いでるのに仲が悪いはずがないでしょ。 義輝とは従兄弟であり義理の兄弟だよな
>>294は夢遊病か? 義輝とは既に書かれてあるように緊密な関係だった。義兄弟であり、同志であり、友人だった。
義栄との関係は不明。
彼を将軍にするよう動いたのが関白殿下。
義昭とは険悪だった。
「兄の仇に従って義栄を擁立するとは何事だ!」と追放されている。 >>298
義栄を近衛前久は擁立したんだね。
織田派じゃなくて三好派だったんだね最初は。 そりゃあ織田が機内の勢力として定着できるなんて、当時誰も思ってないからな。 >>299
義栄擁立には関わっていないとの異説もあるけどね。 近衛秀吉の偏諱を棄てない徳川秀忠は偉いと思います。 >>303
そうか
藤原氏として関白になったんだから
まさしく近衛秀吉だったんだろうね
秀吉は皇統だったそうだから
近衛家を継いでも特に問題無いけどね
江戸時代には皇子が直接
近衛家ついでるし 武士が近衛家ついでもいいの?
それも足利家の家老が?
今は家柄とか家の格式とかどうでもいいんだね? >>311
事細かに思ってることを全部マジレスしたらええやん。 明応の政変で亡命した足利義材なんて、雲水の格好で越中から長門まで歩き回ったらしいな。 >>321
( ´д)ヒソ(´д`)ヒソ(д` ) 祖父の尚通も長命、親父もまあまあだが前久は喜寿だからね >>312
戦国時代の近衛家を細川京兆家の古い初期の分家が継ぐことは
ありえたのでしょうか? マジレスだが、戦国語るには、前久視点とか、義昭視点、と言う方が明確だと思う。
そういうのってあんまり、小説や造り話でもなかったんじゃないかな。
記録も明解に残ってるしね。 >>331関白太政大臣に将軍様か
当事者は公平に歴史を語れないんじゃない?
平公家の冷泉・山科くらいに語らせないと。 >>332
まぁ公平かどうかはともかく、事実とか記録しては価値があるだろうしね。
当時の日記でも、個人の肉声として貴重、と言う意見や、代々伝えられるもので人の目に触れる前提だった、とかいろんな言い方があるし。
だから、特定の武将に偏った研究というのよりは当時の記録がはっきりしてる身分のある人の視点で「この時点ではこうだった」
見たいなほうがかえって公平で明解じゃないかなってね。
特に前久なんてあの頃のオールスター全部にからんでるようなもんだし。 勸修寺晴豊なら岳宏一郎が長編を書いてる。「天正十年夏ノ記」だっけ。
淡々と熱い小説でおすすめ。
これを読んで、公家を狂言回しにより経済や文化を重視した戦国大河なら見たいなと思った。 やっと規制解除された…
>>340
近衛家縁の興福寺の座主が空席になり、摂関家筆頭を辞任する近衛家の当主としては
やむを得ずその当時唯一いた男子を僧侶にせざるを得なかった
『流浪の戦国貴族・近衛前久』(中公新書)にその辺の説明があったような記憶
ちなみに足利義昭もこの興福寺の座主だったが、形式的に近衛家の養子になっていたと思う
最も義昭の母は近衛家の出身なんですけどね
>>344
あったら見てみたいね。
想像ではでっぷりとした体躯の持ち主。 全国にげまわって苦労してるから甘えん坊の世渡り上手ってとこか。
でっぷりというイメージじゃないな。 謙信と組んで関東平定に関わったり、馬術や鷹狩りに秀でていたり、
個人的にはけっこう精悍なイメージがある 公家にしては武将みたいなことができた
って感じでちょっと無理してるイメージがあるんだよな。
あれだけ動き回ってるからヘタな武将以上に精悍だったかも
しれないが。 >>347
節操なくあっちこっちしているが、逃げ回ってはいないぞ。
鷹狩が好きだったから太っているとも思えない。 近衛前久って信長が好きだったの?嫌いだったの?
上スレで信長が亡くなってから随分年月が経っても追悼句会を催していた
と書いていたけど、信長が本能寺の変で亡くなってすぐ嫡男と共に公家達
と祝杯をあげたという記録が残っている。 えっ?
前久は本能寺の数日後には頭を丸めたはずだけど 出家は光秀が敗れた後じゃなかったっけ?
その後とんずらしてるし。 後醍醐天皇の乱交
後醍醐天皇は鎌倉幕府がダーーイ嫌い
何とかして幕府を潰してやろうと密かに計画
でもって、作戦会議をするんだけど、そのカ
モフラージュに乱交パーティをしまくった
「朝廷は遊んでばっかだよーん」というのを、
六波羅探題(幕府が統括している警察みたいなもん)
にアピールするためであります
その乱交パーティは飲めや歌えやのドンチャン騒ぎ
スケスケの着物を若い女の子に着させてサービス
でもって、ひそかーーに倒幕作戦会議をしていた
のであります
が!倒幕計画に参加した男性が、妻にペロっとしゃべっちゃった
でもって、その妻が六波羅探題にタレこんだため、残念ながら計画はパーになってしまったのでした。そして隠岐に流され、兵庫の福厳寺にまで逃げてきて、楠木正成に迎えられるのでした。
>>358
高いよ
図書館に頼んでも断られたんで、買ったけど >>徳川の天下が定まっても信長の命日に追悼句会を開き信長を慕っている彼の
信長への思い入れはかなりのものだったようですね。
上記スレで↑とあるけどこの追悼句会に参加したメンツが気になるなあ。
この時期に集まるなんてよっぽど信長への思いが強い人間だろうし。
こいつが全国を転々としたから、
男系が息子で途絶えた。 >>352
嫡孫と共に公家達と祝杯って記述はどこに書いてあったん? >>352
そんな記述があるんだったら、このスレの初っ端ででてきてもおかしくないがな 来年の大河ドラマは軍師黒田官兵衛。
備中高松城の水攻めを羽柴秀吉に献策したのは黒田官兵衛とのこと。
大河ドラマにちなんで備中高松城の水攻め復元模型を製作した。
http://mirai660.net/castle/ >>371-373
>>352は明らかにガセ
前久に嫡孫はいない 嫡男だろうが嫡孫だろうがソースが出なければ大した違いはないけどな この時代は摂関家出身ならそういうレールが敷かれてる
…が、血を血で洗う戦国時代。関白になっても何の実権も権威もないわけで
前久が地方ドサ回りも厭わずいろんな戦国大名と交流したのはそういう背景もあったんだろうな
前久本人も他の公家と違って内にこもってぐちぐち言ってるタイプでもなかったし 1月2日のテレ東ドラマ「信長燃ゆ」で、前久の出番が多い模様
寺尾聡では年を食い過ぎだが 孫の代から鎌足の男系の血統を維持できなくなったのは
各地を放浪していたためなのか? そもそも【近衛】は王朝で軍事を司る将軍のための称号
子孫がそれを姓にして文化人になるならおかしくなるのは必定 近衛の兵は天皇家を守る存在として徳川家康と対峙せねばならなかったがそれだけの兵(武士)がもういなかったのであろう 近衛の名字は官職じゃなくて京都の近衛大路から来た地名由来だぞ 上にある
流浪の戦国貴族近衛前久―天下一統に翻弄された生涯
は激動の時代に武家になろうとして挫折した公家の波瀾の生涯というカバーがあったな
>>397
ある
本郷奏多という若い俳優さんで その本、絶版だったのに今年3月に再版されたのは
大河ドラマ効果だね 大河ドラマでの扱いがひど過ぎる件
関白が街中をうろうろ徘徊 >>400
でもここまでライトアップされたことないし
近衛前久では歴代最高のカッコよさだと思う
とにかく一挙動ごとに公家らしい高貴さに満ちているし若い俳優がやってるのがでかい >>400
でも史実でも丹波まで行ってウロウロしていた。 REVELATION
資金源/コング
フロント/天下り/右翼思想
フィクサー/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入
汚職/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入/揉み消し
揉み消し加担