【名門】戦国今川氏を語る【花倉の乱】
関東に居た庶流連中が本家の没落とともに再び今川姓を名乗った、とかは? >>567
素性がはっきりしてるなら記録には残るはず。
今川橋の名の由来となった17世紀末の名主今川善右衛門も、
駿河今川氏との関わりについては不明だったような気がする。 今川嫡流が名主になるのは可能性が低すぎる。
おそらく出身地が同じ、または他の今川地域の出身か? >>570
当時の名主ぐらいしか経歴はわからんっぽい。
今川氏の陣屋や屋敷、領地があった場所から離れてるから、
駿河今川氏とはほぼ直接関係はないと思われる。
まさか家臣や一族に今川姓を下賜したとは思えないし、
「今川」を称する分家があったとしても、
名主(地位的には領主の下、旗本クラスの下)になるとは考えにくい。 三河で発祥して、代を経るにつれ 遠江→駿河と出てきたからね。
>>575 意味違った? 静岡の臨済寺に行きたいのですが
秋の特別参拝の日程がわかりません
どなたかご存知の方はいらっしゃいますか? >>577
マンガとして?物語として?それとも歴史描写として? >>578 10月15日だったんじゃ
ttp://www.at-s.com/bin/even/EVEN0030.asp?event_no_i=H962088283 ありがとうございます
もう終わってしまったんですね
残念 日本農業新聞で今連載してる時代小説が今川メインだな 今川記、今川家譜、駿国雑志。今川三大偽書。。。。。。。。
義元公の嫡男氏真は、武将としてはまったくダメな男であった。
次々に今川を離反する武将達から預っている人質達を、見懲ら
しの串刺し刑に処す事だけに血眼になっていた。
俺なら、同じ串刺しにするなら、敵の武将の城まで攻めて行き
その前で堂々と裏切った報いに人質どもを串刺しに架けてやる。
義元の弔い合戦を一つも行なわず、弱い女達ばかりを虐殺して
いては誰も付き従わないのは当たり前の事だ。アホな奴です。 駿府博物館だより
本年度の講座開催のお知らせ来た
早速仮申し込みしてきた 今川義忠の長男と娘は有名だけど、次男の心範は一切表舞台に出てこないな。
幼い時期に亡くなったのか? 結局おまいも串刺しにするんかいw
アホにアホ呼ばわりされて氏真公カワイソス(´・ω・`) 今日、静岡市文化財課主催のシンポジウム
『桶狭間の戦いから450年 今川再考』に行ってきた。
ようやく市も重い腰を上げて今川氏について動き始めた感じ。
色々な先生方がいたが、個人的には今川研究の第一人者 有光氏が
桶狭間の今川行軍についての新説を唱えておられたのが興味深かった。
氏親の六男(義元の弟)で尾張今川家に養子に出されていた氏豊が、
織田信秀によって那古野の地を追われ、駿河藤枝に隠棲していたのを
義元が再び旧領に戻すために行軍を起こしたのではないかと。
なるほど、そういう見方があるのか…
もはや上洛説に否定的な考えが大半であるが、
諸説にあれこれ思いを巡らすのも歴史の醍醐味でいいね。 >>596
聞きたかったな。申し込むと定員がいっぱいだからと断られてしまった。 眠かった
で友野氏とは何ぞやってとこがいまいちボケてるし
なんていうか素人相手に話すの慣れてないんだな院生たん 早川殿みてーな良妻がいる時点で氏真公は真の勝ち組。
そんな彼のテーマはハルヒの「God knows…」だとおもふ。
小野田嫁の講義が死ぬほどつまらなかった
誰だ今年の講師選定したのは 花倉の近く行ってきた
ていうか藤枝の博物館行ってそのあと温泉入って帰ってきた 歴史の教科書
信長に滅ぼされた大名に 朝倉 浅井 今川 武田 がいた
今川は武田と徳川じゃなかったっけ…? そうだね。でもまあ、桶狭間が本当にもう壊滅的な打撃だったんで
(従えていた国人の当主レベルもほとんど戦死)
事実上、織田が滅ぼしたようなもんだよ
その後、離反が続出しながら何とか数年も持ち堪えた氏真を評価してやらんと 桶狭間の戦い=永禄3年(1560年)5月19日
掛川城開城=永禄12年(1569年)5月17日
壊滅は武田の駿河侵攻のせいだろ
桶狭間は精々が弱体化 その弱体化が半端なかったんだけどね
率いていった有力国人層の当主レベルがほとんど討ち死にするわ
家康は独立するわで、家としては全壊に近い打撃だから。 どうしても信長のせいにしたいのかね信長厨は
家督も氏真に移譲済みだったのに 別に信長が滅ぼしたとも思ってないし
信長がすげえ、とも思ってないよ。
ただ、あの戦いは今川側からしたら、立ち直りが効かない程の大敗になってしまった、というだけの話。
何故それが信長スゲーって話になるのか理解に苦しむが。
戦国の世ですから、1回の大敗で屋台骨がグラつくようなことなんて日常茶飯事でしょ 戸次川の戦いの長宗我部のように次世代の人材が消えてしまったようなもの? >事実上、織田が滅ぼしたようなもんだよ
確かに信長とは書いてないね >>610
次世代というか、次世代を出す前の全盛期の当主が軒並み戦死した。
当然、氏真の求心力も弱まるし、統率力も無くなった。
みんな自分のとこを立て直すので手一杯だったから。
桶狭間は義元が死んだってだけじゃなく、支配下の国人層の当主クラスもバタバタ死んだっていう
戦国でもレアケースの大敗だから。 支配下の国人層の当主クラスもほとんどが生きのこったよね。
もともと打撃を受けたのは吉本の馬廻り連中くらいで、
今川は氏親以来、当主はほとんど実戦をしない。
つまり今川の馬廻り連中はほとんど非戦闘員みたいなもの。
一方代々今川軍の中核を担って戦慣れしていた朝比奈とか
岡部とかの有力豪族たちの多くは無事帰還した。 >>613
側近が軒並み戦死して国人領主層が生き残ったから統制が利かなくなったってこと? >>615
そもそも大名が従属下の国人を大動員して戦に挑むってのは
新しい領土を求めて戦に出るわけで、
それで領地を得ることなく被害だけ莫大に出したら
その大名家の求心力は一気に弱まるし、みんな独立性が高くなる。
ワンマン社長が全てのフランチャイズ支店長に
「この戦略で営業利益を上げるぞー!」って打ち出した企画が
大失敗して、各店舗に莫大な負債を与えたようなものだから 腹黒き胴体から首を引き落とせば、真の事を申すであろう。裏切り者はたれか? 今川氏親を匿った小川の法永長者って後世の火盗長谷川平蔵と関係ある? 義元や桶狭間関連の書籍は増えてきたが氏親関連が無いのは残念だな 微妙だからな>氏親。
嫁と息子と北条(伊勢)に相当持ってかれてる。 静岡の郷土漫画なら結構ページ貰ってるんだけどなあ>>氏親 今川氏豊が義元の子っていうのは、
どの程度信憑性があるの? 法永長者ー元長ー正長ー宣次ー宣元ー宣重ー宣就ー宣安ー宣尹ー宣雄ー平蔵 今川家の二大重臣といえば三浦と朝比奈らしいが三浦って良くわからんね
義元時代では誰が該当するんだろう?義鎮て実在で本当にそんなに有力家臣だったの?
朝比奈氏も又太郎は弥次郎泰能とは別人で系統も備中守系と肥後守系で違うとか言う話もあるし 三浦次郎左衛門範時かね
遠江や三河担当の朝比奈は織田や松平との絡みで有名だけど
相模方面担当の三浦は地味やね BSのTHEナンバー2って番組に、太原雪斎でたんだが
雪斎そんなに知名度低かったのか 寿桂尼は次男に調停か説得に行ったが、
失敗して抑留されたっての真相だろう。 庵原氏の家紋って何?
「舞鶴に巴、または三つ引両紋」って書いてる所あるけど典拠はどこなの? 今川義元は かなり剣の腕の立つ人であった様です。
その嫡男の今川氏真は 父親以上に運動神経が良く 剣の腕前は父以上であったよ様です。
この為 己の武勇に自信を持ち 武を以って支配しようとする傾向があり
その事を今川義元は 懸念していた様です。
氏真は 武勇においてはむしろ武田家の気風に近く 母方の気質を受け継いだのではないでしょうか。
今川氏真は凝り性で 蹴鞠等と共に剣術にも執着し それが高じて塚原卜伝に弟子入りしています。
今川義元も塚原卜伝と面識があり 剣術の心得について学んだ事がある様ですが 氏真程に没頭する事はありませんでした。
結局 氏真は武を以って配下の国人領主を押さえつけ様とした為 次々と離反し勢力を弱めていったのだと思います。
知恵や策略をも以って人心を掌握する今川義元程の政治手腕 万人を惹きつける今川義元程の魅力は持っていなかったよ様です。
戦国時代個人的な戦闘力 即ち武芸に優れ武芸に頼る人達は 信濃守護の小笠原氏をはじめとして
勢力を拡大する事が出来ず 没落していった様です。
>>640
でも、武田・徳川が侵攻したのは彼女が死んで半年後だし、一応、影響力はあったんじゃないかな。
>>639
うーん、今川親子だけではなく足利義輝、北畠具教、朝倉義景もそうだが、
そういう当時の剣術家にとって有名人に剣術を教えたというのは非常に宣伝になったんだよね。
だから、優先して剣術教えたり免許皆伝したりした。
現代でいう健康グッズとか健康食品の広告の「私も使ってます」とかいって
有名人のコメント載せるのと同じなんじゃないの?
もしも、彼ら有名人が地位も名誉もないただの男だったら、
塚原卜伝も剣術教えたり免許皆伝したりしたか疑問。 富樫倫太郎著 信玄の軍配者 謙信の軍配者を読んだが
義元が馬鹿殿扱いなのが気に入らない
ほんとにそうなら雪斎死亡後武田が黙っちゃいないと思うが
姫の戦国の後に読んだから余計にそう感じるのかも
>>641
姫の戦国では寿桂尼をはばかって
彼女の生前には手をださなかったということになっている 晩年は寿桂尼もボケちゃったのか、余計な粛清をして敵を増やしたイメージがある。 >>641
氏真は戦とか家臣の粛清で結構斬ってるから個人的には弱いイメージはないわ
>>642
宮城谷昌光の三河物語も義元を大名っていうより文化人の面を強調してた気が
戦争自体は雪斎がやってることも多かったから仕方ないかもしれないが
定着しちゃったイメージって簡単には払拭できないよね
その点で風林火山とか桶狭間戦記は新しい義元像が描かれて良かったと思う
勿論それが真実とは思わないが今までのイメージが悪すぎなのが多かったから
義元死後の寿桂尼の影響力って実際の所どれだけあったか資料がないからわかんないよね 先月の臨済寺の一般公開に行った人いない?
正恵院の位牌に別人の名前を書いた説明書き貼ってあったり
義元の位牌は隅に無造作に置かれていたと思うんだが・・・
俺の知識不足か、はたまた寺の勉強不足か? >>646
「太平記」-「灘太平記」-「勝田氏物語」-「掛川誌稿」-「静岡県史資料編」とか
相模→駿河→三河→尾張のラインで順に辿ってみると尾張今川氏自体は
名越流北条氏だろうけど竹王丸は今川氏からの養子じゃね?
小夜中山合戦で今川頼国が3万の軍勢を率いた敵軍大将の名越式部大輔高邦(名越高邦)を討つ
高邦は名越高家の長男で頼国の従兄弟でもあり頼国は、名越高邦の武勇を称えて手厚く葬る
「勝田氏物語」 (今でも掛川市にその高邦を葬った鎧塚がある)
その後、名越高家の次男で高邦の弟高範を名児耶(那古屋)氏に改姓させ
今川氏として引き取るも今川頼国も戦死。 「灘太平記」
名児耶高範の子、名児耶三郎は足利(斯波)尾張守家氏の正室が直系の名越朝時の娘で
斯波家と名越家は親しい間柄で名児耶三郎は那古野荘の守護を任され
将軍家奉公衆一番衆へ、名児耶氏から那古屋氏に改姓、尾張今川(那古屋)氏を名乗る。
那古屋三郎の後当主は今川下野入道、今川兵部大輔、今川大夫判官と記録がある。
「文安年中御番帳」「永享以来御番帳」「東山殿時代大名外様附」
その後今川義忠の家臣那古屋蔵人高信(名越高範の玄孫)が那古屋当主なり竹王丸(氏豊)を養子に迎える。
"織田信秀"に那古屋城乗っ取られ、氏豊は女系の親族を頼って京へ亡命。
城内に取り残された家臣達は蔵人の実子"那古屋隼人"の交渉の末
"那古屋蔵人"の娘を信秀の室に入れ、城を明け渡す事を条件に
古橋七郎右衛門重次・中村弥右衛門元親・大屋右京亮穐重・中野又左衛門重次、
大穐十郎左衛門・山田兵庫助信益・戸部新左衛門・城戸内蔵助 以下二番衆などの家臣が助命。
「塩尻」「尾張人物志略」
那古屋家は隼人の嫡男"那古屋因幡守敦順"が継ぎ、氏豊の家系も京で生き伸びて
氏豊の実孫"今川氏秋"は信長の小姓として本能寺の変で戦って亡くなった。 「塩尻」 江戸時代旗本になった岩佐氏(元名児耶氏)もこの当時の名越氏の縁戚
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E4%BD%90%E6%B0%8F
>かつての主君である高家今川氏家中にも名児耶氏がおり、これと通婚関係があった 今川貞世が足利氏や今川氏の記述内に
今川流那古野氏の記録残してくれてるから親子関係や家は辿れるらしいね
氏豊「女方の縁を便にし京へ上られける」って駿河じゃなくて京に
逃亡したのが今川氏親の子じゃない説の一つなってるんだっけ? 「氏親」という名前を見て思ったが今川氏って案外通字しっかりしてないな 「範」系 範国 範忠 範氏
「忠」系 義忠 範忠
「氏」系 国氏 基氏 範氏
おおまかにこんな感じけ? >>652
かなあ
義元は何故義氏とか義範と名乗らなかったのか 氏親の氏は、堀越公方足利政知が関東に入ってから名乗った「氏満」の氏だとか。
堀越府との強いつながりを表明したものだろう。
>>653
義元は義元の名乗りの前に「氏元」と名乗っていたという説がある。 上杉や武田もだな
境界の大名はどちらかと濃くなるの嫌がった?
義元輝虎晴信 那児谷今川氏は名越北条氏末裔なの?肥前今川氏系の?鎌倉期分家なの? 義元はただただただただただただただただただただただただ不運だっただけで能力は歴史上最高だったってことでいいの? 今は違う地域に住んでいるんですけど、俺ん家んの家系図の始まりが、今川義元家臣駿河
国出身、氏真「黄母衣衆」ってなっているんですけど、今川家の「黄母衣衆」
ってどんな感じなんですか? というと
黄色のホロをつけた伝令係
という以上のことが知りたいのですねもちろん
であれば
存じません 黄母衣衆といえば豊臣家のことだと思う。
ご先祖さんは青木一重のように、はじめ氏真に仕え、後に豊臣の家臣となって
黄母衣衆に選抜された。こんな感じだったんじゃないだろうか。 >>660
↑の方にあるのとたいして変わらんけど
那古野氏の初期を知りたいなら今川貞世の記録(灘太平記)がオススメ
中期を知りたいなら醍醐寺中興の祖で有名な満済の記録(法身院准后記)がオススメ
北条高家と今川国氏の娘の子から始まった家だから名越嫡流の流れを組む今川国氏の外孫の家
斯波の外戚だから今川家の尾張国領地拡大や斯波との兼ね合いに一役買ってる
久我畷の合戦で北条高家が戦死した後、中先代の乱で北条高家の長男
名越高邦が北条時行軍として従軍 今川頼国と対決した結果 名越高邦戦死
名越高邦の死を憐れんだ頼国が残された高邦の母(頼国の伯母)と弟高範(頼国の従弟)を引き取って
名越高範に起こさせたのが今川那古野氏と貞世の記録にある。
満済の記録なんか呼んでると駿河国と尾張国である程度距離が離れてるお陰かどうか判らないけど
歴代当主同士交流が盛んで仲が良いなぁって思うわ 今川義元は今川家9代当主なのか11代当主なのかどっち?
ウィキには両方とも書いてあるし本もバラバラだし何で?
今川家11代当主で、駿河今川家9代当主とかなの?