ザ・浦上氏
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浦上則宗
浦上村宗
浦上宗景 村宗次男
浦上成宗
浦上政宗 村宗長男
浦上清宗
浦上誠宗
浦上直宗
浦上国秀 村宗三男とされる。
金光宗高 村宗四男とされる。
一番の中途半端な勢力・浦上氏について語り合おうぜ!
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E4%B8%8A%E6%B0%8F 江戸時代にも宗がつく藩主が結構いる、ある公方さまのおかげで 1531年の時点で政宗は坊やで兄弟の分裂は1551年が最近では有力みたいだな。
ということは国秀と金光宗高が政宗や宗景の弟ってのはどう考えてもあり得んよな? >>133
国秀が1531年の時点でもう兵が動員出来るんだから
実のところ「親戚のおじさん」ってところだろうな。 そろそろ信長の野望とかでも政宗や宗景の生年を直家よりちょっと
年上ぐらいまで引き下げて欲しいもんだ。 それどころか政宗は天下創世でオミットされたぐらいだから 宗景って実際の所、1550年代以前の事はよく分かってないらしいのにね、 >>139
うん。というか前半生に限れば信用出来る一次史料が政宗より圧倒的に少なくてさっぱり分からん。
「1531年に兄弟分裂」を推す史料の記述はまるで当てにならないし。 誰か浦上則景が1453年生まれっていうのの出典って分かる? よく考えたら輝いたのって一瞬だもんな
しかも戦国時代と言ってもあまり興味持たれない時期に最盛期を迎えちゃったし 則宗の輝きは戦国時代前が主だとして、
村宗だけじゃなく、(信長上洛までの)宗景も結構輝いてると思うんだがな だよね。
備前備中美作の3国を制圧してるし、宗景自体もたいしたもんだと思うんだけどなあ…
毛利や尼子を相手によく戦ってるし。
宇喜多直家に追放されちゃったのが評判下げてるんだろうけど、
あれはあれでチートキャラだからなあ。
ちょっと前までの今川義元みたいな感じだ。 直家を泳がせ過ぎたのが敗因だったかな。
一度目の反乱に失敗して以降、明石や長船と婚姻組んで再蜂起の機会を窺ってた
直家の動きに気付いてない訳じゃ無かったろうに 浦上宗景の没落は毛利の存在も大きいだろうな
むしろ三村や浦上といった東進の邪魔ものを毛利が排除してく過程で
宇喜多が浮かびあがってきた感じ 毛利はあんま関係無いっしょ。宗景自体は毛利とはついに一戦も交えなかったし。
そもそも浦上と宇喜多を主従で一括りにしていいのかという所から疑問なんだよね。
明禅寺の時だって浦上は全く動かないで宇喜多だけで事に当たってたし。
戦国初期の尼子と毛利ぐらいの関係だったんじゃなかろうか。 赤松を追い落とすチャンスはいくらでもあったのに一族同士の内紛ばかり。
則宗と村国
村宗と宗久
政宗と宗景
とにかく足並みが揃ってない 浦上元の「浦上氏の研究」読みたかったけど、
アマゾンで73500円なのな。
復刊して欲しい。
売れる見込みありゃ出さないこともないんだろうが。 浦上氏の研究ももうぶっちゃけ古いからなぁ。
備前の歴史研究はまだ現在進行形。 政宗、宗景の生年が大幅に見直されつつあるというのはここ最近では一番のニュースだけども・・・
どうにも史料が無くて「実際は〜の記述とはかもしれない」の域を出ない事だらけ。 追放後に起こした幸島での反直家運動がどれだけの規模だったか謎。
一説では天神山城を奪い取る所まで行ったらしいが・・・ 全国的にその当時の下剋上を比較した場合、宇喜多とはそれほど大きな存在なのだろうか。
最近になってとくに持ち上げられすぎているように感じる。 秀家時代の宇喜多の所領ってぶっちゃけ浦上宗景の時代より微増くらいなんだよな。
とりあえず50万石格の大名が下克上食らったというのはそれなりに珍しいんじゃないか? 直家は下剋上への過程とそれ以降の方が評価されてるんじゃない?
別に過剰評価されてるとは思わないが
まあここで言うのもなんだけど 俺は浦上宗景が過小評価されすぎてるように思うんだが 美濃の土岐さんあたりと同じぐらいの扱いかな。向こうは守護だが。 最近思うんだが宗景も下剋上でのし上がったと言えるんじゃないか?
最初は備前の一角で政宗に反乱を起こしただけの存在に過ぎなかったが最終的に宗家を完全に飲み込んだ。 エースなのでそう簡単には処断出来んわな。
毛利も攻めてくる気配だったしムダにもめてれば付け込まれて一気に捲くられる。 上手く使えればいいんだろうが 操縦が非常に難しい。 信長の三ヶ国太守の朱印状こそが浦上の命運を決めたと思う。
小寺を勝手に浦上の臣下扱いにした事で直家にひそかに政宗の孫を引き渡す動機となった。 あけおめ!
土着した太郎三郎成宗の傍流の子孫(らしい)オイラがきましたよ。
曾祖父の代(明治期)に東京に来て警官になった…と聞いてますが。 わざわざ浦上だと自称する奴は稀だと思うから何となく信じた。 浦上家は「播磨で赤松の家老」と「備前守護代」を分業でやってたみたいだな。
宗景は守護代じゃないけどまぁ備前統治任されてたってところではそう変りない。
播磨 備前
則宗 基景
↓ ↓
則景 則国
↓ ↓
則宗 則助
↓ ↓
村宗 宗久
↓ ↓
政宗 宗景
分裂気味になったのは則宗-宗助時代辺りからかな。 ああ、間違えた
播磨 備前
則宗 基景
↓ ↓
則景 則国
↓ ↓
則宗 宗助
↓ ↓
村宗 宗久
↓ ↓
政宗 宗景
宗景がいやにあっさり独立できたのも分業制の弊害というかなんというか 宗景の宇喜多の扱い方は何かに似てると思ったが今川と三河衆の関係が近いかも
いつも前線で擦り減るのは後者な関係 宗景はなかなかしぶとい男だったが追放後にパトロンに選んだのが荒木村重って所でいよいよ名運尽きた。 >>198
まさに名運尽きてるな。
何かに取りつかれたかのように家運が衰退してしまった。
無念でござる。 >>198
>>200
どう変換したら「名運」尽きたって出るんだろう┐(´-`)┌
初期の城を太鼓丸と言い、少し下がったところが天神山城。明石景親がいたという飛騨の丸跡のは野面積みの石垣がありました。
本丸跡には宇垣一成が書いたという浦上遠江守宗景の城址という石碑もありま
した。月山富田城も行ったことがありますが、天神山城のほうが、より戦国の山城っぽかったです。
ただし急峻なため普段は住めないでしょうね。麓の根小屋跡というところで
宗景は生活していたと考えられます。あんな急峻な山城なのに、桜の馬場を無理やり確保してたのも
印象的だった。 宇垣一成って松田の重臣だった宇垣氏の子孫なのかな
出身も備前だよな? <<204
岡山出身です。岡山出の4人の首相の一人です。 宇垣氏は宇喜多家でも一時期は三老と並ぶ人物だった。 >>205
首相じゃないでしょうw
軍部に潰されなきゃなってたかもしれんけど 組閣の大命を受けたけど、流れたのでしたね。
失礼しました。出身は明石景親の居城・保木城のすぐ近くです。 宇喜田直家を持ち出されて「だから岡山県人は信用ならん」と陸軍に反対されてお流れと聞いたw 村宗の死で傾いた浦上を立て直したのは間違いなく政宗だな。
尼子への対応は松田との婚姻関係が足かせになって恭順派にならざるを得なかったと思う。
備前市の閑谷学校に行く途中の山道脇に村宗の墓があります。
尼子晴久や毛利元就・隆元の墓に比べれば小さいですが
それでも、そこそこ立派なものです。
なにより、立派な墓がハッキリ残っているのがすごい 則宗時代のほうが何やってたかはっきり分かるんだよね、この一族。
蔭凉軒日録さまさま。 三人の二代目という堺屋 太一の歴史小説が新聞で連載されているがそこで毛利輝元が、
三村や浦上を滅ぼすのに我が毛利が決定的役割を果たしたというようなことを言っていたが
三村家は毛利が主導的に滅ぼしたけど、浦上家を主導的に滅ぼしたのは宇喜多 直家だよね。 うらかみ URAKAMI
うらがみ URAGAMI
どっちが本当なのだろうか。
子孫を名乗る人(真偽はともかく)の中でも
うらかみ の人と うらがみ の人がいるみたいだけど。 >>39
浦上宗景→特に何もない凡将。この代でお家断絶
次男なのに、兄よりも勢力拡大してるけど
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