浅井長政総合スレ
織田との縁を切り、朝倉義景の救援に駆けつけるも、
朝倉からも軽く見られ、信長包囲網を断られ、
孤立無援となってしなった名将・浅井長政を語りましょう!!
長政以外の浅井家、妻・お市、長政の関連した事象、何でもおkです! 人物叢書「浅井氏三代」を買った。
長政が信長から離反した理由について、朝倉との関係を
否定してた。
むしろ過去に朝倉に攻められたことがあったとか。 >>202
それでは>離反した理由
をその本ではどういうふうに書いてあったか 出来ましたら教えてください。 織田領に囲まれて近江半国の主で終わるのを善しとしなかったんだろうな
あの時点で朝倉が壊滅したら浅井は存在意義が薄くなる…
と先を読んだのじゃないか?
織田、徳川を一挙にたたけるチャンスが目の前に転がってたわけだし
そう言う意味では明智の本能寺と同じなのかも 金ヶ崎に長政がどこまで関わってたかはいまいちわからんが、
あそこで信長と家康を討ち取っていればなぁ >>205金ヶ崎の信長は護衛役の佐々を途中で朝倉追撃隊への備えとして残す程余裕がある
討ち取れた可能性あったのは秀吉だけかな
しかし当の長政はどこにいたのか 信長や家康を討ちとれたとしたらその後の歴史はどうなってただろうか 武田か上杉は明らかに天下を狙っていたから、そのどちらかが天下を取るだろう。 >>209
嫁ぎ先が滅亡して再婚するのは当時としては普通。
ドラマでやるような湿っぽい別れではなく、結構ドライだったと思われ。 念願の小谷城に行って来た。
山麓の駐車場に誤って駐車した為に長距離歩く羽目に・・・。
とても暑かった。
山城は夏に行くもんじゃないな。
冬に行けば熊が出るそうだけど・・・。
赤尾屋敷跡で長政は自害したらしいが、草むらになっていて近づけなかった。
スズメバチも飛んでいたし。
役場のガイドから聞いたけど、小谷城から焼跡は発見されていないそうだ。
ガイドの話では、「個人的意見だが小谷城は戦わずに降伏したと考えられる」と言っていた。
長政は一番好きな武将だが、腰抜けだったのか?
>>221
自分も登ったよー。番所後から山王丸までだけど。赤穂屋敷後も行ったけど、何処よりもうっそうとして怖かった。拝んで早々に立ち去った 赤尾屋敷て草ボーボーになってるのか。自分が何回か行ったときにはきちんと整備
されてたけど。なぜか賽銭箱もあったよーな(wなにやってんだ、城保勝会。
自分が登城したことのあるルートとして、
金吾丸付近の駐車場から山王丸、清水谷から大獄砦、麓の神社の鳥居潜って山崎丸から大嶽があるけど
地図には大手の反対側、山の裏手からも獣道程度の山道があるんだよね。途中に月所丸がある道なんだけど。
一回探してみたけど見つからなかった。
暇が出来たらまた一回探しに行ってみよう。ついでに秀吉軍が登ったとされる
京極丸下の堀切群も残ってたら探してみようか。
>>226
新人物往来社は昔出した本に修正をほとんど加えずに何食わぬ顔で新刊を出すからなあ。
小和田哲男編とあるが、著者欄の小和田さんの写真は若いときのやつだし・・・ >>221
>長政は一番好きな武将だが、腰抜けだったのか?
光栄とかのゲームでは義を重んじる名将扱いになってるが
史実の長政はイマイチだよ
活躍らしい活躍もないしね。
長政を戦国一の過大武将とする人も結構いる。
浅井井頼が長政の子と伝わっているのは、当時からの間違い? 長政は別に過大評価でもないだろ。
無双とかでアイドル的に扱われてるから反感が大きくなってるだけで。 >>231
忌み名でだけで見れば、どう考えても井伴や井演に近い系統のはずなのにね >>232
イヤ過大だよ
三女がいなかったら多分名前すら覚えてもらえないレベルだと思う
もしも過大じゃないと言うなら
何をして評価されているのか教えて欲しいわw 織田政権下でこれから
というときに致命的な判断ミス
だと思う 信長なんてどうせ長持ちしねーだろ
って方が普通なんじゃないかな どうせ歴史話なんて仮定の話になるが
長政があそこで裏切らなかったら、近畿の軍団長が明智じゃなくて
長政になってた可能性も0とはいえない
そうしたらその時点でも裏切ったかどうか、
みたいな話にもなる
ならなかったら織田幕府か そう言えば、今日だったと思うが
NHKの「その時歴史が動いた」で
浅井長政をやるな。
たしか信長包囲網に焦点をあてた内容だったと思う。 浅井が超大物になっててワロタw
贔屓の引き倒しだろ、これじゃ 民に愛された浅井家は武力に頼る信長により粉砕された!
浅井の死は信長の天下統一を揺るぎないものとしたのだった…!!
信長が降伏するなら厚遇するとか最後の三度の出陣とか入れて盛り上げろよ
久政の自害についてはスルーだったよー
あと、小野殿の処刑もスルーだったよー 娘が権力者に嫁いだから史料の記録をよくしてもらえただけで
実際はたいしたことなんて何もしていないのにね そんな事言ったら権力者の史料は全部過大に書かれてるって事にならないか?
それに権力側からすれば裏切り者側だろどっちかというと。 >>250
権力者は仕方ないじゃん
実際権力握るようなことをしたんだからね。
だが長政の場合は「何もしてない」からね、
権力者でもなければ何かを成し遂げたわけでもない。
ただ娘が徳川家に嫁いだだけ。 >>251は何もしてない奴の娘が突然徳川家に嫁ぐとでも思ってるんだろうか。 信長の姪で秀吉のお気に入りの姉妹
コレだけで充分だろ。初婚が徳川じゃねぇし
次女が京極に嫁ぐのは浅井との関係からするとなんら問題ないし じゃあ何もしてない奴のとこに突然信長の妹が嫁ぐのだろうか >>254
長政と言うより、当時の浅野家の重要性、ってものがあると思うよ? >>254
信長が上洛する途上の重要拠点にたまたまいたから政略結婚しただけで
特に長政個人の力量とは別問題だろ 重要拠点ってか斎藤・六角・朝倉等を抑えれる所に居たのがポイント
上洛してしまえばあの位置にいられたら確かに邪魔 重要拠点ではなくて重要拠点への通り道なw
それから長政の力で支配したわけでもない
担がれただけだし。 自刃する直前、浅井長政はまさか自分の子孫から摂政と将軍さらには天皇まで輩出するとは思わなかっただろうね
浅井家は戦国時代一番の勝ち組なのかもしれない >>261
んなこと言ったら信長も秀吉も家康も信玄も謙信もみんな担がれただけだぞ。 市ー江ー和子(将軍家光の同母妹)ー明正天皇(女帝)
まさに戦国時代のミトコンドリア・イブ >>265
その5人は担いできた連中を利用して何かを成し遂げた人間
長政はそのレベルには到達していない 夫を父兄に謀殺されたことに刀抜いて怒り狂った女性もいるし
夫のあとを追った女性もいるし、その人の性格によるだろうね
ドライと言うより、辛くても人に見せずに耐えてた女性も多かったんじゃないかな
時代的に嘆き悲しんでもどうしようもないもの、戦国の女性は気丈じゃないと生きていけないよ >>272
もともと信長は尾張の弾正忠家推戴一揆の頭に過ぎん。
秀吉はその弾正忠家一揆を乗っ取ったと言っていい。 >>1
信長は結局、近江(安土)に本拠地を構えたわけだよな。
やっぱり、長政が邪魔だったんじゃないの? 浅井家はかつての主君である守護、さらには摂政、将軍、天皇に至るまで子孫を輩出したんだからあの石高の土豪としては最強 >>276
情けねー滅び方したからそこに栄光をもとめるしかないんだな >>276
信長を裏切らずに我慢していれば天下を取る可能性だってゼロではなかったのだから
そんなことは自慢にも何にもならない
ただ長政程度の力量では天下どころか大大名も難しかっただろうし力量を考えたらさっさと散っておいて良かったのかもね >>279
そんなの分からんよ。家康だって信長時代はそんなにパッとしなかったが最後は天下を取った あの時代に生きてて全国の情勢をみれてたとしたら
あの時点で徳川が天下を取るなんて絶対に誰も思ってなかったね
家康本人も考えてなかったはず それでも家康はあの時点で、自力で三河と遠江もぎとって、日本有数の大名の一人になっているわけだが。 六角領と寺領がでかすぎるよなぁ。20万石が精々じゃないか? 官位で見れば、家康は1556年の時点で正式に三河守を叙任し、左京太夫にも任官している。
対して浅井長政は受領名の備前守のみ。
少なくとも世間的な認識には、それなりに差があったと考えていいだろうね。 家康と浅井を対等に較べるのは時系列的にどうかと思うが。 小谷城行ってきた涙でそうだった。。。
でも、すげー場所だったよ 京に近いと言うだけで難度も立場も上なのがあの時代。
徳川とはさして変わらん位置ではあろう。 > 京に近いと言うだけで難度も立場も上なのがあの時代。
あほか 京に近くてそれなりに勢力があったとしても上とはとても言い切れないよ。かえって滅ぼされやすかったり、田舎ほど勢力を伸ばしにくかったり。
じゃあメリットがまったくないかと言うと、そういうわけではないが、やはりデメリットも多い。
少なくとも、難度や立場は上とか下とか言える類のものではないだろう。 戦国時代の人間がみんな天下目指してたとか思ってるやつがいて、それを前提にして京に近いから有利とかぬかす馬鹿がいるだけ。
もっと言うと、京にやや遠い・遠い有名大名の狂信者達の擁護手段のひとつ。京に遠いから実力は一番なのに天下とれなかったとかの無茶論法、ね。誰のこととは言わんが。
あ、もちろん普通にその大名のファンとかって人の悪口を言ってるわけではないからね。あくまで難度とか持ち出す人に対してのみ >>294
はげしく同意する
実際には天下目指してたヤツなんて信長くらいじゃないのかね?
今で言うと世界征服するぜ!っていうぐらい
当時ではありえないことだったと思う。 >>295
今のところ戦国大名の中で、間違いなく天下を目指していたのは、織田信長のほかは
武田信玄と上杉謙信だけらしい。書状の内容などを研究するとそうなるんだって。 「天下に号令」と「天下統一」は別物だからなぁ。
信玄も謙信も天下に号令したいという思いはあったかもしれんが、天下統一は無いと思う。
謙信は中央より寧ろ関東に御執心だし、信玄はとりあえず取れるところを取って領地を拡大していった感じ。
美濃制圧以後の信長の様に、常に天下統一を意識した動きをしていたとは言いがたい。
もちろん、それを以って信長>謙信・信玄だとか馬鹿なことを言うつもりは毛頭無いが。 信長も天下統一なんぞ考えてなかったよ。結果的に出来そうだったからそっちに移行しただけ。
信長の「天下布武」の天下は、日本全体の事ではなく、畿内の将軍支配地域の事。
その証拠に三好や六角追っ払った段階で既に「天下静謐」を宣言している。 同じ天下狙いでも、信玄と謙信は気、信長がうまくいきそうなのを見て追随&とってかわろうとした、という天下狙い。信長は兵力の領土も少ない頃から目指してた。
その信長も、京でごたごたして失敗してる三好を反面教師にしてる部分はある。
>>298
そこらへんは単なる言葉遊びだろ。
普通、都をおさえて最高権力者をおさえるとなれば天下で最も権力のある人間、とは言える。もし畿内支配が完全にうまくいくのならこれで十分。
にも関わらず、信長は明らかに他国、朝倉などに喧嘩ふっかけてる。しかも早い時期に。そして絶対必要という場所でもないのに。
三好など対抗勢力が近隣にいっぱいいるなかで、普通これはありえない。もし信長が畿内支配を当初最終目標としていたのなら、ここでこんなに早く無理する必要がない。
京に上ってから考えた、という動きではない。明らかに領土の拡張と支配を以前から望んでいたと考えるべき。
畿内支配は通過点だと考えていたのは間違いないだろう。 小谷城が築城される前に湖北町あたりには
どんな城があったの?