かつてバックパッカーだった人
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>>494
やってる事はグータラしてゴロゴロしてウロウロしてるだけなんですけどね。
今日やる事は、大使館にビザの申請をしに行くだけとかw 90年代はバックパッカー全盛期だったけど、当時は生活の意味合いが強かった
日本に居るより物価の安い国を放浪した方が安上がりだったから
2013年くらいからそうはいかなくなり、日本人パッカーは激減したね。
20年に入るとバーツ高でタイもパッカー天国ではなかった。
そしてコロナとウクライナ侵攻で海外放浪は、もはや位前のように自由に安く出来なくなった。
ニート君の明言「働いたら負け!」の本当の意味がわかった。
自分がもし就職して長期旅行出来ない運命だったら、とっくに自殺したか無差別通り魔事件でも起こしていただろう。 沢木耕太郎の深夜特急じゃなくて?
ワイはなんでも見てやろうの世代だがw 深夜特急は大沢たかお派
今でもYouTubeで見たりする
個人的にはパキスタンからイランのあたりが好きだな 沢木耕太郎はマカオのカジノで全部すってたら旅はそこで終わってたんだろ? そうなの?
フィクションは香港のマンションの一室での賭け事であって、実際は
マカオで大小をしたってことじゃないのかな? マカオのカジノであんなドラマの収録はさせて貰えないから、仕方なく香港のマンションの一室の設定にしたんだよ
原作(本人)はマカオのカジノに行ってる ドラマの深夜特急はどこで観たのか覚えていないけど一度だけ観た
崩れ去る前のバム遺跡でロケをしていたのは貴重な映像だ 90年代の香港やチョンキンマンションはあんな感じだったよな。
4年前に泊まったら、家族連れとかカップルとかいて雰囲気変わったなと思った。 本人曰く、もちろんマカオで大小はしたけどあそこまではっては無かったと
誇張して脚色したと
老夫婦の話もフィクションに近い誇張だったような 昔、重慶大厦で中国のビザ取った。
で中国のトイレは殺人的に臭く汚かった。名前は忘れたが昆明の〇〇飯店のトイレなんか、
前の奴のウ×コに自分のを盛る感じで、今でもトラウマになってる。
公衆トイレも汲み取りで酷い。むしろ新疆のトイレの方がマシだった。 同じ時代に中国行った仲間やな
大便を溝にするので仕切りがないとこなんて
前の奴のケツ見ながらうんこするわけでなかなか出ないよ
あと駅の便所なんかも扉がないから次の奴が前で見てて出ないよ
便所は飯店でしといて外出中はしないのを鉄則にしてたわ
新疆ええな
時間がなくて敦煌とか行きたかったが西寧(Xining)までで断念したわ 日本には今でも恐怖のボットン便所が残ってるから、中国は更に残ってるのでは?
画像検索しても出てきます
世界一トイレが汚い国は日本と中国だと思っていたし、一部は正しいんですよ
上海名物「馬桶」(マートン)も健在なようです。
新疆から入ったパキスタンでもボットン便所は体験しなかったから。 20年前に行ったときと5年前に行ったときでは物価3倍くらいになっててビビったわ中国
今はまた高くなってんだろうな 初海外の初トイレはウラジオストック駅だった。1993年だったかな?
薄暗いタイル張りの部屋、和式に似た便器が3つ並んでいて間には高さ50センチぐらいの隔て板のみ。
便器の中はうんこが山盛りでうろたえたけど、小便漏れそうだったので俺の小便で山を崩した。
すぐ後から入ってきたおじさんはズボンとパンツを下ろしてしゃがんで普通にうんちしてた。
その後、アジアや中東に行って、あの時の便器の形はアジア様式だったんだあと知った。 30年以上前に行った豊肥本線波野のトイレ
悪臭酷かった。外でしたけど。
今年行った備後落合もボットン便所だった。後ろに人が居たから写真撮るのやめた
これが日本の本来の姿 サラエボからベオグラードへのバスに乗った時の、山の中の休憩所の便所も凄かった。
道路脇の土手に1人用の木の小屋が立ってて床に穴が空いている。穴の下の方にはものすごい量の糞便。
横から見るとけっこう高い土手で、斜面にダンプ1台分ぐらいのうんこが雪崩れ落ちている。そこにまた新たなうんこがボタボタ落ちていく。
もう20年も前だけど今もあのままなんじゃないかな。
休憩所のハンバーガー屋台の近くに立っていたら、知らないおじさんが一個買ってくれた。 >>509
私が行った公衆便所は、溝ではなくて床に穴が開いた個室トイレの間仕切りがないバージョンでした。とにかく人が来る前に済ませてやろうとハイ・スピードでウンコした思い出があります。 その国際バス乗った。これ。
https://bhnovinari.ba/wp-content/uploads/2021/06/centrotrans.jpg
セルビア側に入るとミールストップがあり、有料トイレは汚いタイ式便器?だが水洗だった。
食事代ともボスニアKMで払えた
サラエボのバスターミナルのトイレもタイ式(
オスマン帝国の置土産ですね。 そういやクロアチアのトイレでで和式&ケツシャワーがあって驚いた
これの文化はせいぜいトルコ止まりだと思ってた クロアチアのバスチケットに書いてあるPERONとは発着番線の意味だけど、トルコ語なんだよね。
サラエボやスコピエと違い、ザクレブ含め和式は見なかったけど。 まあメジャーなところでは無くてザグレブからドブロヴニクへのバス休憩で見た程度なんだけどね まだユーゴスラビアだったころ行ったわ
スコピエ、サラエボ、ドブロヴニクくらいかな
ベオグラードはYHが全焼しててザグレブもホテルが高くて
列車乗り換えしたくらいか ウィーンからアテネまでの夜行列車に乗ってユーゴは通過したことがある。
興味はあっても初めての海外だったし共産国家だったしで立ち寄る勇気がなかった。 >>511
オーストラリアの方がもっと凄いぞ
80円のペットボトルが400円 中国の雨樋いトイレは先頭に座って、排水ボタンを押す権利を確保したら、見られる以外は問題なかったな
後ろの方だと先頭のやつがボタン押したら一気にケツの下を流れてくるから最悪 >>522
今となっては旧ユーゴ圏は細切れで出入国や異なる通貨を用意する手間がかかって周るのが面倒になってしまったな 90年代後半から2000年代前半をほぼ旅に費やしたけどほんまいい時期に旅できたと思ってる >>528
911までは本当に旅がしやすい世界だったなと思う >>529
その場合問題はB公演にあるとハッキリするから、対処しやすくなるだろ
雫も無理となると原因究明が難しくなる >>528
おれもほぼ同時期。
このスレ、知ってる人がいるんじゃないかなあと思うことがあるw
911のあとアメリカに行ったときは本当に面倒くさかったし、空港職員のギスギスした態度も酷かった。 ミレニアム年越しはどこにいた?
これ書くと確実にバレると思うから書けないけどw ウィーンからアテネまで列車??
バルカン諸国は鉄道網はダメなんだけど、どんなルートかな?
自分はアドリア海側にも居たから、旧ユーゴでは長距離列車に乗らなかった。 東欧の列車の旅は時間を遡ったような感覚になる。
古臭い列車や駅舎、特に暗くなってから到着する駅なんてもうそれだけで満足しちゃう。
でもバスはバスで普通の市街地も走るから列車では見られない風景が楽しめるし、結局どっちも捨てがたいのね。 サラエボ→ベオグラード
リュブリャナ→ザグレブ
ルセ→ブカレスト
はバスにしたけど、地元民のアドバイスが有ったから
コリントス→アテネは地元民のアドバイス無視してバスではなく電車で行ったけど
ホテルから駅までの徒歩行は辛かった。 >>536
真冬でものすごく寒くて、暖かいところに行きたいというのもあってウィーンから長距離列車に乗ってアテネへ。
2泊で37時間の乗車時間だったけど、椅子席コンパートメントでパンと水だけで過ごしていた。 >>535そもそもそういうスレだろ
若者にも日本にも元気がなくてコロナもあってバックパッカーは激減、5chの平均年齢はアラフィフ
現役パッカースレよりこっちのほうが盛り上がるよ エルヴィス・スズピーさん元気かな?
彼の情報ノートの出来はすごかったと思う >>541
一回会ったことある
パスポートに好き勝手にステッカーとか貼りまくってて、大丈夫なの?と思った >>539
おれは逆に12月にブダペストから北上したw
アウシュビッツの近くのビルケナウまで歩いたら途中で吹雪になって、収容所の過酷さが普段より数倍増しで味わえたと思う。
帰りの路線バスが2時間待ち、真っ暗で車も通らず遭難するかと思ったw
その後グダニスク〜ビリニュスと移動したが、早朝のビリニュス駅の気温計はマイナス30度だった。 スズピーさんに会ったことある人が登場w
彼のエリトリアとソマリランドの情報ノートのコピーが何故か引越の時に出てきたw
エルヴィスさんブログとかやってたら面白かったろうな エルヴィスさんは面白い人だったけど、個人的にはあんまり情報ノート含め、お世話になってないんだよね
それよりダメ人間友の会の人の方が印象深い 西野カナもおそらくユーゴらしい列車のビデオ出してたわ
西野カナが若いかってのもあるけど
ノスタルジー的なものに憧れるんだな
あの頃は良かったんだよ 人生楽しくて仕方ないわ この躁状態を止めるのは病気と怪我と親族のヘマだけだな 2ストバイクの匂いを嗅いだ瞬間、おれの周りは東南アジアになる。 >>541
彼のアフガンや中国の詳細な情報ノートを持ってたら、中国で荷物検査でバスから降ろされて尋問されたんですけどw 日本の繁華街みたいなところを歩いてると東南アジアを思い出させるニオイに出くわす時がある。 西野カナの動画は、ライブの『We Are Never Ever Getting Back Together』しか知らない
テイラー・スウィフトの曲もこれしか知らない。 旅行人ノートのシルクロード、クオリティ高かったな
現地で持って無かったらかなり苦労してたと思う。
2000年初頭はまだネットも弱かったし 端末を持ち歩いてグーグルアースを宿の部屋で見られるようになったのは大きい。
今はなくなっちゃったけど以前はパノラミオの投稿画像が見られたので、ストビュー無しでも面白そうな場所を探索できた。
趣きのある商店や映画館などどうってことないものなんだけど、観光地や博物館なんかよりも楽しみは増えたな。 クロアチアにユーロ導入か。
思えば2000年ごろってまだドイツマルクだのオーストリアシリングだの使ってたんだな。
米ドル強かったが、旧ユーゴだと米ドルより独マルクのほうが支払いやすかった記憶。 クロアチア、ハンガリーよりユーロ圏のスロバキアの方が物価安かった。
さて、今後どうなる? 東欧時代って国によって物価まちまちだったわ
ルーマニアが最悪で金があっても食いもんがなかった
トランジットで一泊で抜けたからなんとかなったが 重慶から武漢まで乗ったよ
佐田ヲタが聖地巡りで武漢までいってたらしい
そのころ情報なかったかららしいしかわからんけど 中国って飯が美味いイメージだけど実際どう?
おれは短期間しか行ったことがなく、屋台の肉まんや焼き鳥は普通に美味しかったが、中華街などよく行ってるので特に感動もなかった。
庶民のファミレス、屋台のラーメンなんか嘘みたいに不味かった。ファミレスはビュッフェ形式で他の人が取ってる料理を選んだのに。。 中国は美味いというか、日本人からしたら安定感がある
中華料理は日本人にとっては日常食みたいなもんだから、日本食食べたいとならない
これがアフリカや南米だと違いすぎてつらく、すぐに日本食がほしくなる 行った時代によってまちまちだが不味いもんばっかだったわ
それよりその食料の状況であれこれあった
大体○○湯とごはんにしとけば何んとか食えたが
よく親子がブツブツ言って横で座ってるから
たいてい残して店出ると親子が食ってたな
あと注文で並んでると女が外で呼ぶから
ついてくと女の家が闇食堂だったり
上海で多かったのが糧票で没有言うと
オレの分まで買ってくれたり
一食数十円だから奢ってくれなくていいんだけど
毎日そんなんばっか >>565
25年前、浦東新区の伊勢丹?そごう?えーっと、マークが神戸ポートピアみたいな百貨店(名前忘れた)のフードコートでラーメンを注文したら、麺を打つところから始まってビックリした!
北京で、外人さん達とテーブルが廻る普通のレストランで鯉の餡かけを食べたけど、すごく美味しかった。北京ダックも食べた。一番美味しかったのが、バックパッカーの目の前にあったボロい食堂で食べた、トマトと卵の炒めもの。卵の柔らかさとトマトの丁度イイ温まり具合が絶妙で、忘れられない美味しさだった。この繊細な味、どんなコックが作ってるのか食べ終わったら厨房を覗いてみようと思ったら、食べてる最中に小汚いオッサンがランニング肌シャツで暑い暑いって感じで汗拭きながら出てきたw。自分では再現出来そうにないので作ろうとは思わない。イイ思い出として残してます。 >>565
美味いっていうかハズレがないような気がする。 中国の古い思い出。
トイレ地獄、日本の植民地時代の製造みたいなボロい客車
カシュガル発のボロい国際バスはヒーターがなく、ひたすら寒さに耐えたこと
クンジュラブ峠の息を呑む絶景。
パキスタン側に入ると道が悪くなり、何度もバスを降ろされ歩かされた
桂林の景色や洞窟なんかは記憶にあるが、昆明、成都、景洪、トルファンで何を食べたか
全く覚えていない >>570
成都 麻婆豆腐
景洪 パイナップル使ったなんか
トルファン ハミ瓜
こんなもんじゃない? カラコルムハイウェーは夏に行ったからそこまでの寒さは無かったけど、空気は薄いのは感じたな。
パキスタン側はスストからはトラックのヒッチハイクとかで移動した記憶。20年前くらい
カリマバードはとてもいい景色だったな トルファンってウイグル自治区の中でも旅行者が1番多くいたんじゃないかと思う。
近郊の見どころもツアーがあったし。
クチャやコルラに行ったら全然旅行者いなくて焦ったw トルファン→カシュガルは鉄道が無い時代に行ったから、ボロバス途中下車の時ハミ瓜(スイカ)を食べた 成都って何もないのに旅行者は行く意味あったんかな
オレは鉄だから成昆線乗りに行ったけど
動物園行ったらパンダなんて誰も見てなくて猿が一番人気だったわ 成都の旅行者にとってのポジションは時代によって変わると思うけど、
20年前くらいはチベットへの準備の滞在、
5、6年前くらいはラルンガルに行くために滞在してるのが多い感じだったな 成都から烏魯木齊ゆきに乗ったんだった、硬臥が取れた。
早朝に哈密到着、そのままずっと砂漠の中を走り続け夕方吐魯番に到着した、
当時は鉄道無いからバスで市内へ入った。
服務員が箒で列車内掃除してゴミをデッキに集め、走行中ドアを開けてタクラマカン砂漠に捨てた。
だから砂漠はゴミだらけ、中国は悪臭汲み取り便所とか、衛生観念にまつわる思い出が強く残ってる。 カシュガルに向かう硬座の車内も床のゴミを窓に捨ててた。
床がキレイになったその反面砂漠の砂が車内に入って砂だらけになった記憶があ? 車内販売で瓶ビール売りに来て、それ飲んだあとはみんな窓から捨ててた その瓶が割れる音がよく聞こえた。
中国人の衛生観念や人権意識に問題があるんだよね
まあ文革の失敗から人民が不貞腐れてるのか?
とも感じた
砂漠化はやがて黄砂となって日本を襲うようになった 列車内の汚さ(衛生)は凄かったな
ひまわりの種やかぼちゃの種食って殻は吐き捨てるし
手鼻でその手はイスやら壁にこすりつけるし
駅の水道とかも、何も書いてないと頭洗ったり脚洗ったりしてたし
まあ日本も戦争直後はあんなんだったろうな 中国の食堂も、骨付きチキンの食べ残しの骨を、床に投げ捨てる文化。
路上は痰だらけ。バスの中でも痰を吐く。
中国 トイレ
で画像検索すると、ギョッとする写真がヒットする。 アメリカ行きの飛行機に乗って、中国人が床にゴミをぽいぽい捨てるのを見た時はびっくりしたなあ。
それが慣習だと知って気にならなくなったが。 海外旅行しまくってたけど、現実逃避してただけなんだろうか 田舎暮らしなので周囲にバックパッカーやってた人なんか皆無。話しが通じる人がいないのがつらい。 現実逃避で海外放浪出来たのは15年以上前まで
民主党政権が終わり円安が進むと、海外放浪のコストは上がり続けてる
しかし日本人の賃金は据え置きのまま 今は放浪なんてできんだろ
情報はテレビでも自然に入ってくるし
スマホなしで海外行けんし
君だって辛い思いして行ったんだろ
今となってはいい思い出やないか @
タイに行きたすぎて最近いろいろバーツ換算してるんだけど、松屋のチキンごろごろカレーが160バーツ、貧乏人の偽ビールことバーリアルが20バーツ、と換算してたら日本とタイの物価の差がもうほとんど無いことを思い知らされて、日本ってこんなに弱い国になっちゃったんだと涙が出ちゃうの 外資系は昔から高かったな
ただ他所で買った物も食っていいってのはタイらしかったな
今もそうかなw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています