懐メロ板は廃棄すべき【廃人の巣窟】
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懐メロというのは死語と言っても良いものである
既に数十年前の段階で
音楽業界はインフラや学術的研究の高度化により
歌詞やメロディよりも編曲が重要なレベルに達している
そのためメロディ=曲のような
偏った認識を生む言葉の使い方が不当である
また音楽の高度化により
懐かしいからという動機だけで聴くような曲も多くはなくなった
そんな現在でも懐メロという言葉が使われるとしたら
それは売る事ばかりを重視して
流行りに合わせて作っただけのレベルの低い曲が陳腐化し
懐かしさを味わいたくて聴くぐらいしか
価値の無くなったものを言うのである
そういうネガティブなニュアンスが強くなってしまった懐メロという言葉を
懐かしいかどうかに関係なく時代を超えて
日常的に聴く価値の有る高うクオリティの曲に使うのは
強い違和感が有る上に偉大な作曲家や編曲家に対する不敬・侮辱でもある
そういう曲については懐メロという言葉を使わず
本来は名曲、名作、クラシックのような表現を使うべきである
(ただクラシックについては歌詞の無い曲が多いため
歌詞が無い曲というイメージが強いので
別の呼称を検討すべきかも知れないが)
個々人で時折懐メロを楽しむ分には何の問題もなかろう
しかしネガティブで後ろ向きな話題のために
わざわざ板まで設けるのは間違ってると思う 平成の31年間というのは、短いようで実は長い。
平成元年のちょうど200年前の1789年は、寛政元年。
(寛政の前は天明で9年まである)
寛政13年(1801)に改元して享和元年。享和は4年。
享和4年(1804)に改元して文化元年。文化は15年。
文化15年(1818)に改元して文政元年。
これでもまだ平成31年よりも短い。
寛政元年から数えて31年目は文政2年(1819)。文政は13年間。
以下、天保15年、弘化5年、嘉永7年、安政7年、万延2年、文久4年、元治2年、慶応4年と続く。 寛政元年はフランス大革命の年だな。
日本でも松平定信が頑張っておったが。
松平定信の老中在任期間は、1787年から1793年の6年間。
第二次安倍内閣の8年間より短い。 天明4年(1784)の7年後は、寛政3年(1791年)。
天明9年(1789)1月25日に寛政に改元された。
嘉兵衛の村抜けは寛政2年(1790)の夏の話である。 【矯めつ眇めつ】
狙いをつける・じっと見るという意味の「たむ / 矯む」。
片目を細めて見る意味の「すがむ / 眇む」。
「たむ」と「すがむ」のそれぞれの連用形に、「〜したり」を表す完了の助動詞「つ」が付いたのが、「ためつすがめつ」である。
つまり、ためつすがめつは「じっと見たり片目を細めて見たりする」の意味。 Humble Pie『As Safe as Yesterday Is』(1969年)
歌えるやつが3人いるので、一曲を仲良く3人で分け合って歌う民主的なバンドです。 西宮市久保町は、海浜に近い縦長の町だった。
現在は民家の多い平凡な町にみえたが、ここに酒造に欠かせない「宮水発祥之地」の石碑があった。
https://nishi2.jp/wp/wp-content/uploads/2020/06/IMG_3439-scaled.jpg
この石碑の周辺には日本酒メーカーの宮水井戸がある。
白鷹、白鹿、大関、日本盛、菊正宗、沢の鶴などの宮水井戸である。 >>74
Ian McLaganの曲のカヴァー"Growing Closer"は楽しくていいですね。
Lyn Dobson の flute と sitar が大活躍するラーガロックを前半にもつフランプトンの"I'll Go Alone"も好きです。
それに続くマリオットの"A Nifty Little Number Like You"と"What You Will"もいいなあ。 この当時のロックバンドは、リスナーを飽きさせないように色んなタイプの曲を一枚のアルバムに収めていたよな。
最近のは、テンポから何から同じような曲をことさらに詰め込む。
リスナーが君たちに求めているのは、こういうサウンドだといわんばかりに。
一曲ぐらいスローテンポの曲やアコースティックな曲をやればいいのにと思うが、一曲すらやらない。
だから飽きる。つまり買わない。 俺が洋楽を聴き始めた頃、『フランプトン・カムズ・アライブ』というライブ盤が大ヒットしていた。
先にフランク・ザッパがピーター・フランプトンをおちょくった歌を聴いてしまったので、
ピーター・フランプトンはラジオで流れる曲を聴く以外は、まったく接点がなかったなあ。 時刻の呼び方には、十二支と数が使われる。
数は九つから四つまで下がるとまた九つに戻る。
6時−明け六ツ(卯ノ刻)
8時−朝五ツ(辰ノ刻)
10時−昼四ツ(巳ノ刻)
11時−四ツ半
12時−昼九ツ(午ノ刻)
13時−九ツ半
14時−昼八ツ(未ノ刻)
16時−夕七ツ(申ノ刻)
18時−暮れ六ツ(酉ノ刻)
0時−夜九ツ(子ノ刻)
1時−九ツ半
2時−夜八ツ(丑ノ刻)
3時−八ツ半
4時−暁七ツ(寅ノ刻)
5時−七ツ半
20時−宵五ツ(戌ノ刻)
21時−五ツ半
22時−夜四ツ(亥ノ刻)
23時−四ツ半
0時−夜九ツ(子ノ刻)
1時−九ツ半
2時−夜八ツ(丑ノ刻)
3時−八ツ半
4時−暁七ツ(寅ノ刻)
5時−七ツ半 0時−夜九ツ(子ノ刻)
1時−九ツ半
2時−夜八ツ(丑ノ刻)
3時−八ツ半
4時−暁七ツ(寅ノ刻)
5時−七ツ半
6時−明け六ツ(卯ノ刻)
7時−六ツ半
8時−朝五ツ(辰ノ刻)
9時−五ツ半
10時−昼四ツ(巳ノ刻)
11時−四ツ半
12時−昼九ツ(午ノ刻)
13時−九ツ半
14時−昼八ツ(未ノ刻)
15時−八ツ半
16時−夕七ツ(申ノ刻)
17時−七ツ半
18時−暮れ六ツ(酉ノ刻)
19時−六ツ半
20時−宵五ツ(戌ノ刻)
21時−五ツ半
22時−夜四ツ(亥ノ刻)
23時−四ツ半 【御影石】
御影石は正式には花崗岩のことで、地球のマグマが地下深くでゆっくり冷却され、地中の高い圧力によって形成された石です。
「御影」とは兵庫県の産地名に由来したものです。
酒どころとしても有名な兵庫県の御影です(灘五郷の中郷)。
御影石と聞かれると墓石を連想される方が多いかと思います。
特徴として、硬度が高く比重もあり、風化に強く、吸収率も低いため耐久性に優れた石です。
https://www.mutenkahouse.co.jp/wp/wp-content/uploads/2019/04/96931011e4a3d16df82821b8b2453162_m-1.jpg
《参考》大理石
石灰岩(ライムストーン=貝や動物の遺骸等が海の底で積み重なって固まってできた石)が
地中でマグマの熱と圧力を受けて再結晶化して変質したもの
https://www.teakfurniture.jp/data/wp-content/uploads/2017/07/3e1de7c9749081e9c9d9db76f032c7f21ae8e800_l.jpg >>74
ボートラの"Natural Born Bugie"はビートルズのリボリューションから、
"I'll Go Alone"はツェッペリンのコミュニケーション・ブレイクダウンから、
ちょっとだけ……ちょっとだけね。 "What You Will"のコード進行も、どこかで聴いたことがあるよな。 "What You Will"の歌がはじまって僅かなところで、テープのたるみのように音がグニャとなるのは、原盤のままなのかね? >>82
いいんだよ。
マリオットはスモール・フェイシズ時代に、「ユー・ニード・ラヴィン」をツェッペリンにパクられているから。 【三和土(たたき)】
赤土・砂利などに消石灰とにがりを混ぜて練り、塗って敲き固めた素材。
三種類の材料を混ぜ合わせることから「三和土」と書く。
叩き漆喰とも呼ばれる。土間の床に使われる。
小生は幼時、三和土は田圃の土と同じものだと勘違いしていた。
https://kurasuyado.jp/wp/wp-content/uploads/2018/04/facility_05_pc.jpg 【相好を崩す】
「相好」とはもとは仏教用語で、仏の美しく立派な身体的特徴である「三十二相八十種好」を略した言葉だった。
それが後に顔つきや表情の意に転じたもの。
「相好を崩す」は、整った表情が笑うことによって崩れることを言い表したもの。 【五加木(うこぎ)】
『和名類聚抄』によれば、ウコギは中国原産と見られる外来種の五加(ウーチァ)であると記されている。
現在使用されるウコギの和名漢字「五加木」「五加皮(ごかひ)=生薬」はこれに由来している。
https://img.cpcdn.com/recipes/1455071/640x480c/a8dbec6c969ce7e9c4c55db34cb8d8cf.jpg
五加木(うこぎ)のくるみ味噌和え 洋楽が人々を沸き立たせている最も大きな要素は、
人間と異質文化という関係の中にあるかと思われる。 異質の文化が存在するから、異文化を纏った客人を迎える喜びがある。
異なる方言を話す地域に行くと、刺激がある。
何でもかんでも均一化するのは良くない。
子供に英語を学ばせるカネと暇があるなら、地域の方言を学ばせてもらいたいね。 世界中で商品の均一化が進むと、経済が死ぬと思うぞ。
儲け話が探せばころがっている世界じゃないと、経済は死ぬぞ。 【オランダ独立戦争】1568年〜1648年
北部7州がスペイン国王フェリペ2世の統治権を否認したのが1581年。
織田信長が本能寺で死ぬ前年である。
独立を承認させたのは、1648年の1648年のヴェストファーレン条約。 ドラッグで若死にした阿呆を神格化するのは、やめようや。 1988年、朝日新聞で女子中高生がブルマーに反対する投書が掲載された。
1993年11月22日付朝日新聞はシンガポール日本人学校中等部でのブルマー統一問題を報じている。
ほんと朝日新聞は糞だな。 密着型ブルマー衰退の旗頭は、朝日新聞だったのですね。
ほんとロクな事しませんね。 ブルマーは、19世紀中頃、コルセットで腹を締めるような当時の下着に反発した女性解放運動家エリザベス・スミス・ミラーによって、
自由度が高くゆとりのある下着として考案された。これは旧弊な拘束型衣服からの女性衣服の転換という革新的なものであった。 >>96
革新的なのは、ちょうちんブルマ―だ。
朝日新聞の狙いは、ちょうちんブルマ―の復権に違いない。 「このごろ鰯がすくのうなってな」
老漁師は、連年の不漁を語りつつも、そのくせ顔も声も陽気で、いかにも物を嘆くことの少ない土地柄らしく、
嘉兵衛にはそのことがむしろ面白い。
「呉爾羅じゃ」
「呉爾羅ですか」 洋楽を楽しむ上で、紀州藩の支藩について学習しておくことは重要である。
@ 紀伊新宮藩
新宮は戦国時代は豊臣家の家臣・堀内氏善が領していたが、慶長5年の関ヶ原の戦いで西軍に与したために没落する。
その後、紀伊国に封じられた浅野幸長のもとでは浅野忠長が領していたが、浅野本家が安芸広島藩へ移封されると忠長も随伴した。
その後、安藤家と共に徳川頼宣の附家老として入った水野重央が、新宮に3万5000石を領した。
水野家の入部をもって紀伊新宮藩の始まりとされるが、幕藩体制のもとでは、身分はあくまで紀州徳川家の家臣であり、大名としては扱われなかった。
水野家は代々家老として藩政に重きを成した。第9代・水野忠央は、後に紀州藩主から第14代将軍となった徳川家茂(慶福)を補佐し、
井伊直弼と協力して、家茂を第14代将軍にしようと奔走した。 A 紀州田辺藩:紀州徳川家の御付家老だった安藤家が治めた藩。代々紀州藩主を補佐し紀伊国に3万8千石の所領を与えられた。
B 田丸藩:現在の三重県度会郡玉城町田丸にあった。和歌山藩の御附家老・久野家の支藩。
C 葛野藩(かずらの):元禄10年(1697)、紀州藩2代藩主徳川光貞の四男・松平頼方(後の8代将軍徳川吉宗)は
14歳で5代将軍徳川綱吉に江戸城内にて御目見し、綱吉から越前国丹生郡3万石を与えられ大名に取り立てられた。これが葛野藩である。
D 高森藩:元禄10年(1697)、紀州藩2代藩主徳川光貞の三男・松平頼職が越前国丹生郡(現在の福井県越前市高森町)に3万石を分与されて立藩された。
E 西条藩:藩庁は伊予国新居郡西条(現在の愛媛県西条市)の西条陣屋。
江戸時代初期には外様大名の一柳家が治めたが、三代約30年で改易となった。
その後、徳川御三家の一つ紀州徳川家の御連枝が入り、その支藩として廃藩置県まで存続した。 紀州和歌山藩の御附家老は次の四家である。
紀伊田辺城主(37000石) 安藤家
紀伊新宮城主(35000石) 水野家
紀伊貴志城主(16300石) 三浦家
伊勢田丸城主(1万石) 久野家
三浦家も1万6千石を拝領している貴志城主であるから、支藩と認識されてもよさそうなものであるが、
「貴志藩」で検索してもヒットしない。なお、三浦家は戦国時代の安房里見氏に仕えた正木氏である。 知多半島
須佐(知多郡南知多町豊浜大字須佐ノ浦)
羽豆岬
答志島 神島 伊良湖岬 渥美半島
鳥羽
坂手島 菅島 洋楽を聴く者の基本として、ギブソンとフェンダーの音が聴き分けられるようになったら、
次に必要な教養として、マイワシ、ウルメイワシ、カタクチイワシを見分ける能力がある。
ウルメイワシ:目が潤んでいるように見える為その名がついた。
カタクチイワシ:下あごが小さく、片口に見えるからその呼び名が付いた。
https://img-cdn.jg.jugem.jp/8f4/1806457/20100906_289132.gif 沼津 熱海 鎌倉 横須賀 上総富津
伊豆半島 三浦半島
下田 浦賀 洋楽を聴く者なら、浦賀平根山の燈明堂(復元)くらい知っておけ。
https://stat.ameba.jp/user_images/20141106/23/yumikyon34/ba/81/j/t02200293_0300040013121508152.jpg
江戸時代、官設の燈明台は他に、鳥羽の菅島、三浦半島の城ケ崎(伊東市)にあった。
司馬さんは城ケ島とされているが、誤り。このふたつは焚火を用いた。 洋楽を聴く者なら、当然「海獺島」は知っているよな。
島という呼称であるが、久里浜沖にある小さな岩礁だ。
嘉兵衛は浦賀を出港した後にアシカ島の説明を文治にしているが、
位置からすれば、昨日通過した海域にアシカ島はある。
https://lighthouse-japan.com/kanagawa/ashikashima/image/ashikashima_03.jpg おまいらは、アザラシとオットセイとアシカとセイウチとトドの違いも説明できないくせに、
洋楽を聴いて蘊蓄をたれている。恥ずかしくないのか? 笠島は海獺島の東南東約360メートルにある暗礁。
暗礁とは常に海面下にある岩礁のことで、文治に見えないのも無理はない。
現在は笠島灯浮標が設置されている。
海獺島と笠島灯浮標の間は危険水域である。
https://pbs.twimg.com/media/CS8qB4oUcAcRGUp.jpg 洋楽を聴くほどの者なら誰でも知っている大内清右衛門(浜屋清右衛門)は、実在の人物だね。
1866年に銚子で没した浜屋八太夫という人物は、「那珂湊大内屋の沖船頭からのれん分け独立浜屋と称す。
田代を根拠地に蝦夷の海産物交易で蓄財函館に支店蔵米4人扶持名字帯刀」とあるが、同一人物であろうか? 「蔵米4人扶持」だから別人じゃない?
大内清右衛門は水戸藩の石取り。 蛮社の獄に連座した後、御公儀への遠慮から、350石取りから減知されて「蔵米4人扶持」にされたとは考えられない? エディ・マネーが死んだのが、2019年9月13日。享年70。
これは悲しかったな。 >>115
宇竜は『出雲風土記』に宇礼保と書かれているから、竜をリュウという俗音で読まず、
リョウという漢音で読むのが正しいらしい(司馬遼太郎)。 カエルの画像まで貼られるようになってしまったか。
懐メロ板は廃棄すべきだな。 島根県隠岐郡西郷町
平成16年に布施村、五箇村、都万村と合併して隠岐の島町となった。
観光客にはわかりやすい町名であるが、地元住民とってはあほくさい町名である。
湊名や郵便局や橋名に「西郷」の名は残っている。
https://www.pref.shimane.lg.jp/infra/port/harbor/kouwan/shimanenokouwan/saigoukou.data/honkou.jpg 島前(どうぜん) 島後(どうご)
西ノ島 中ノ島
知夫里島(ちぶりじま) 伊予三津浜は松山の港。
これなぞは洋楽の基礎知識。
いちいち調べるようでは耄碌したといわざるを得ない。 江戸時代後期といってよい寛政の頃になっても、白砂糖は田舎では珍しい物で、
田舎の子供にとっては都会の象徴のような物であったらしい。 淡路の穀倉地帯である三原は、現在は兵庫県南あわじ市。
高校の名称等に三原の名が残っている。 尾去沢鉱山……秋田県鹿角市(かづの)。昭和53年に閉山。
足尾銅山……栃木県上都賀郡足尾町(現在の日光市足尾地区)。昭和48年に閉山。
別子銅山……愛媛県新居浜市。昭和48年に閉山。住友。 木蝋
生蝋(きろう)とも呼ばれ、ウルシ科のハゼノキ(櫨=Japan wax tree)やウルシの果実を蒸してから、
果肉や種子に含まれる融点の高い脂肪を圧搾するなどして抽出した広義の蝋。果実全体の約20%を占める。
生蝋をさらに蝋燭の仕上げ用などには、これを天日にさらすなどして漂白した白蝋(はくろう)を用いる。
かつては蝋燭だけでなく、びんつけ、艶出し剤、膏薬などの医薬品や化粧品の原料として幅広く使われていた。
このため商品作物として明治時代まで西日本各地で盛んに栽培されていた。
https://media-01.creema.net/user/2675654/exhibits/5759055/0_98ea7f4779348ff20e6272b183f1272b_500.jpg 【渤海国】
7世紀末、シベリア南部の日本海岸に靺鞨族の大祚栄が建国した。
唐王朝が中国を統一した7世紀ごろ、その東北の満州地方には、契丹(モンゴル系)と靺鞨(ツングース系)が台頭してきた。
靺鞨はで高句麗(ツングース系)と同系統の民族であった。
契丹(モンゴル系)は唐の太宗に服属し、その高句麗遠征に協力した。
一方の靺鞨は668年、高句麗が唐の攻勢を受けて滅亡した後、遼東地方で大祚栄が自立して、高句麗復興を唱えて、
698年に震国を建て、高王と称して即位した。唐では則天武后の時代だった。
大祚栄は713年、唐から渤海郡王に冊封されたが、一般に698年を渤海国の建国年としている。
ただし、正式に渤海国となったのは762年の第三代大欽茂の時である。
渤海という国名は、前漢時代におかれた渤海郡に由来する。
https://storage.bushoojapan.com/wp-content/uploads/2016/09/4d97449e5f541b214ca41ba203c6e8b9.jpeg 【大廈】
大きな建物。りっぱな構えの建物。
「廈」は屋根を葺いた建物、あるいは家や門のひさしを意味する。 米沢藩……上杉家15万石(置賜郡)
上山藩(かみのやま)……藤井松平家3万石(村山郡上山)
山形藩……秋元家6万石(村山郡山形)
天童藩……織田家2万石(村山郡天童)
新庄藩……戸沢家6万石(最上郡全域)
庄内藩……酒井家17万石(田川郡庄内) 【寒風山】
現代では音読みが一般なのだろう。でも「さぶかぜやま」と読む方が可愛らしい。
秋田県男鹿市にある成層火山。標高355 m。寛政の頃は、まだ噴煙が上っていたらしい。
寒風山は1810年に噴火したという江戸幕府に提出された文書が残っている。
しかし、この文書は、農作物の被害を水増し申告するための布石として、江戸の久保田藩邸において創作したものと考えられている。
とすると、噴煙は上っていなかったかもしれない。
https://www.yamakei-online.com/new_images/yamanavi/main_photo/189_raw.jpg 久保田藩は、やることが、おまいらと大して変わらないなwww 「冥利に尽きる」の語源
身分・立場などによって受ける恩恵があまりに多く、ありがたすぎてもったいない気がする。
「冥利」は「善行をしているうちに得られる思いがけない仏の恵み」を意味します。
つまり「冥利に尽きる」は「思いがけない仏の恵みが極限に達するまで得られる」ことで、
そこから派生して、職業や地位、立場によって得られる恩恵の意味になりなりました。 「たまげる」の語源
《「たまきえる」の音変化》
魂・消える →たまきえる →たまげる 【久保田藩】
秋田藩とも呼ばれる。久保田城を居城とし、藩主は佐竹氏。
佐竹氏は室町時代以来の常陸守護の家柄であったが、関ヶ原の戦いにおける挙動を咎められて出羽国(後の羽後国)秋田へ移封された。
表高は約20万石、実高は約40万石。
https://i.pinimg.com/originals/3c/c7/d3/3cc7d3a71ea9fec87eb4228382688250.jpg
明治維新に際しては、当初は奥羽越列藩同盟に参加していたが、
平田篤胤の思想をなぞる尊攘派が形成されていたこともあり、仙台藩の使者を斬ったうえ明治政府側に寝返った。 Sting『ブルー・タートルの夢 / The Dream of the Blue Turtles』(1985年)
楽曲も演奏も素晴らしいのであるが、音そのものの80年代的チープは隠しようがないね。
E.ギターやE.ヴァイオリンというのは基本アナログ楽器で、増幅に電気の力を借りているだけだから許せる。
音そのものを電子で作るもののチープな音というのは嫌だな。
誰でもレジ袋でおしゃれするよりも、高級鰐皮バックでおしゃれしたいでしょう。
80年代のチープな音は、基本今日まで続いているんだけど、若い人はこんなサウンドでよく辛抱できるね。
俺は大編成のストリングスやブラスの入ったゴージャスなサウンドが好きです。
このアルバムに関していえば、タイトル曲の"ブルー・タートルの夢 / The Dream of the Blue Turtles"は、
素晴らしいアコースティック・ジャズなのだけど、
他の曲のチープなサウンドが嫌になるような仕掛けとして収録されているとしか思えない。 吾輩もチャド・ワッカーマンがフランク・ザッパのバンドにいた頃、
比叡山に加持祈祷させて呪詛しようと思し召しであらしゃられた。
とくにベードラの音が生理的に受け付けない。 ラップのどこがいいのかね?
山下清の吃音の方が、まだマシ。 洋楽のベスト・アルバムのジャケットは、悪趣味なものが多い。
日本の歌謡曲のベスト・アルバムというのは、顔のアップが多い。 われわれ年配者は、心の肥やしとして音楽を聴く。
最近の若い者は、ろくに仕事をしないので、仕事で疲れることがない。
自らを疲れさせるために音楽を聴く。 【伏木港】
古く万葉の頃から沿岸交易の要港として栄えてきた小矢部川の河口港であり、大正から昭和にかけて大改修が行われた。
伏木港事務所は富山県高岡市伏木湊町5-15に所在する。
https://www.pref.toyama.lg.jp/sections/1015/ecm/back/2012aug/tokushu/_img/2_img_1.jpg 最上徳内を持ち上げるために、上司の松平信濃守忠明と遠山景晋は凡庸な人物に堕とされてしまっている。
遠山景晋は「金さん」景元の父として有名であるが、彼自身も能吏でNHK「金曜時代劇」の主人公になったこともある。 アッケシ湾の右方の末広岬(まびろ)は、地図ではチンベノ鼻と書かれている。
というか「末広岬」で地図検索すると「チンベノ鼻」が出てくる。
「チンボノ鼻」ではない。 天明3年(1783)工藤平助「赤蝦夷風説考」を著わす。
天明5年(1785)田沼意次、全蝦夷地沿海への探索隊を派遣する。
天明6年(1786)最上徳内、千島探査。10代将軍徳川家治が死去。田沼意次、失脚。
寛政元年(1789)国後・目梨の蜂起(東蝦夷地で起きたアイヌの蜂起)
寛政4年(1792)ラクスマン、根室来航。大黒屋光太夫を送還。
寛政10年(1798)近藤重蔵、最上徳内と択捉島を探検、同地に「大日本恵土呂府」の木柱を立てる。
寛政11年(1799)幕府、東蝦夷地を松前藩から借り上げ。
寛政12年(1800)伊能忠敬、蝦夷地を測量。
文化元年(1804)レザノフ、長崎に来航。
文化4年(1807)幕府、西蝦夷地も天領とする。
文化5年(1808)間宮林蔵、間宮海峡の発見
文化8年(1811)ゴローニン事件
文化9年(1812)高田屋嘉兵衛、ディアナ号に拿捕される。 寛政と文化に挟まれて目立たないのが「享和」。
足掛け4年しかない。
寛政13年(1801)2月「享和」に改元。享和4年(1804)2月。 【山村久兵衛】
オリキャラのようだな。
司馬遼太郎をあれこれ語る 32巻目
https://peace.5ch.net/test/read.cgi/books/1336720073/
430 :無名草子さん:2012/06/13(水) 20:15:51.70
前章でも登場した蝦夷通詞には山村久兵衛という名前があったが、本章では
名無しになっている。そのくせ出身地が江差で前職が漁師である等、彼に
関する事柄が多く語られ、嘉兵衛との会話シーンも長い。しかし、名無しに
落とされている。 【対馬暖流】
嘉兵衛のいう「西蝦夷の汐」は、宗谷海峡を東へ抜けると、北海道の沿岸に沿って南東へ下り、
知床半島に至って潮路を東北に転じる。
千島列島の北岸を東北方向に上るが、その支潮が国後水道を南下する。 なお、津軽海峡を東に抜けた対馬暖流の一部は、そこでUターンして、三陸海岸から鹿島灘に至る。
親潮と併流するが、親潮よりも陸地に近い方を南下している。 つまり、対馬の厳原で海に向かって放尿すると、そのオシッコが銚子に至ることもある、という意味ですね? 安政元年(1855) 日露和親条約……日本とロシアとの国境は択捉島と得撫島との間に定められた。
明治8年(1875) 千島・樺太交換条約……樺太全島をロシア領とし、その代わりに得撫島以北の諸島を日本が領有する。
昭和27年(1952) サンフランシスコ講和条約で日本は北千島(得撫島以北の諸島)の領有権を放棄する。
しかしソ連はその条約に調印していないため、北方四島以外の千島列島の帰属は未確定である。 The Sweet『The Very Best Of Sweet』
何種類のベスト・アルバムがあるのだろうかと、調べる気力も起きないゲーノー界のバンドです。
本人たちは気骨があるのですが、デビュー後に発表した4枚のシングルがことごとくヒットしなかったので、
ゲーノー界に取り込まれてしまいました。
ボーカルをスージー・クアトロに差し替えれば、スージー・クアトロになってしまうようなサウンドです。
ただ、この時期にラジオを聴きまくっていた人達にとっては懐かしいサウンドです。
知っている楽曲も何曲もあります。
知らない曲でも、知っている曲じゃなかったかな?と思わせてしまうところがあります。
さすがゲーノー界です。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています