>黒幕は不明じゃん

黒幕は、佐幕派の巨頭、会津藩主松平容保って言うのが本当のところじゃね?

慶喜の大政奉還路線を潰そうとしていた強硬派幕臣(幕権派)がいました。
徳川宗家のトップは、大政奉還路線だが、人数から言ったら大政奉還に反対する勢力の方が多い。
徳川幕府のトップとその側近以外は皆大政奉還に反対だった、と言っても良い状態。

特に江戸では、大政奉還撤回の声が公然と言われており、この実現の為には、
裏からや非合法な方法ではなく旗本・御家人・譜代は大っぴらに慶喜に直談判して
大政奉還撤回を求めています。

大政奉還の直後10月17日に江戸城で有司総登城の命令が下り慶喜無き大評定が開かれ
老中や各種奉行がほとんど出席し、幕権派の巨頭小栗忠順も出席しており、当然ながら
大政奉還大反対の結論になった。その後京に陸軍奉行、海軍奉行、などを兼務する
在江戸老中が次々に上洛して慶喜に接見し大政奉還の取り消しを求めた。

慶喜のお膝元であるニ条城では、流石に公然と大政奉還撤回を求める幕閣は居なかったが、
逆に公然と大政奉還に賛成した幕閣も少なく、精々板倉、小笠原、永井ぐらいである。

江戸から来た老中達は大政奉還の撤回を求めただけではない、先の見通しが立たないなら、
慶喜は江戸に帰り、譜代や旗本を糾合して江戸城で体制を立て直すべきだ、とも考えていた。
だから10月下旬に上洛した江戸の老中達は、11月11日まで二条城に留まり、慶喜への説得を続けた。
しかし慶喜は、大政奉還後には朝廷での諸侯会議で新政府首班(元首)に選出されるか、二条摂政
の後任に慶喜が選出される様に工作している事を説明して江戸の老中を何とか帰してしまった。

だが、この事で畿内やその近くの佐幕派諸藩は、江戸の幕閣のほとんどが、大政奉還に反対である事を知る。

その為か11月に入ると大垣藩の藩士である井田五蔵が、老中に“討薩の戦略”を上申披露した。
京と大阪の薩摩藩邸を佐幕派諸藩と幕府陸軍で先制攻撃し、さらに明治天皇を拉致して大阪城に
連れ出してしまおう、という作戦である。このプランは大垣藩だけが考えたのではない。
大垣藩の後ろには畿内の佐幕派諸藩のリーダーである紀州藩が控えており、津藩、淀藩、小浜藩、丹後宮津藩、亀山藩や
その他に会津藩、桑名藩などがこの計画を後押ししていた、幕府陸軍と佐幕派諸藩は共同で佐幕派クーデターとも言える
プランを徳川慶喜に提出していたのである。

だが、慶喜はこの作戦には賛同せず、何とか実行しないように幕府や佐幕派諸藩を宥めるのに精一杯だった。

龍馬や中岡、伊東申子太郎の暗殺は、大垣藩士井田五蔵の“討薩の戦略”を上申の直後に発生しており、
慶喜の中止勧告はあったものの佐幕強硬派による大政奉還阻止のクーデター計画の一環として
実施された可能性が大きい。