もし蒙古が九州ではなく蝦夷から日本に侵攻していたら
たとえ東北地方までモンゴルが攻めて来ても 箱崎インターで足止めを喰らう 樺太の蝦夷は結構強かったようで、元に従っていた現地の別の民族に助けを求められて
蝦夷と何度か戦ってるな。 もしモンゴルが北からの日本侵略に成功していたら今ごろ日本は『東モンゴル共和国』になっていたわけだな 毎朝会社に馬にのって通勤しなきゃいけないわけだな >>58
それは無いと思う。
ロシアやイランは西モンゴル共和国になってないし、中国も南モンゴル共和国になっていないから 【韓国】世界の弓、どういうものがあるのか 韓国の伝統弓は「角弓」で330メートル以上の射程距離を誇る★3[06/23]
http://takeshima.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1245789563/
弓は北東アジアで特に発達した。モンゴルの弓は射程距離150メートル程度に過ぎないものの耐久性が
抜群で、中国では満州族が使う弓が最も強力だった。一方、刀が発達した日本は、弓の性能で大きく
後れを取った。竹や杉など1種類の素材で作る日本の弓は、相手を威嚇するために長さが2メートルを
超える反面、射程距離は60−70メートルに過ぎない。 >>63
ファンタジーはわかるが ウリナラってなに?
奈良? 地名か? いや、奈良がそもそも韓国語のウリナラから来てるんだよ知らないのか?
やっぱりイルボンは歴史捏造してるな >>64
朝鮮忍者とかサワラビとか、捏造起源主張してるでしょ。
半島の歴史は最早ファンタジーの領域ってことで。
ウリナラはググッたら分かる。 >>67
その言い草はおかしい
半島にファンタジーな歴史を捏造する連中がいるだけで
半島の歴史自体がファンタジーなわけではない あたりまえじゃんw
だからこそもはやファンタジーっていうアイロニーが成立するわけで そういや、ラグナロク最近やってねーわアニメが大コケしたもんなー >>30
確か最初は江華島じゃなかったか?で、すぐ陥落して残党が済州島にこもって
数年粘る。 >>73
江華島に逃げたのは蒙古に攻められた際の高麗王
三別抄が最初に立てこもったのは珍島 元は凍結した間宮海峡を犬ソリで渡って樺太を攻めたのでは無いか? そういや朝鮮系には皮肉や比喩が伝わりにくいって聞いたことがある
>>77
私は日本人です
皮肉だろうが比喩だろうが
「韓国人が捏造した歴史」と「実際の朝鮮半島の歴史」を混同するような表現はよしたほうが良いと思います
それは歴史に対する冒涜であると思います もう めんどくさいから 俺が直接 蒙古に行って やっつけるぜ 檀君は熊から生まれました
韓国の歴史はすべて正しいので疑うことは許されません >>84
歴史じゃなくて神話の上に、間違ってますよw >>2 おしおきの結果、アイヌ人とモンゴル人の混血進んだと思います。いいなーモンゴリアンw 間違なく、樺太、千島、蝦夷地(北海道)陸奥、出羽(東北)辺りにモンゴル、ツングースから大陸馬が、モンゴル系、ツングース系と共に伝来し。
現地、ニブヒ、アイヌ、和人、と混血し、更にモンゴル馬で日本に本格的遊牧技術や騎兵隊が誕生する。
南部、伊達、北条、佐竹、上杉、長尾、武田、が本格的騎兵隊を編成に加えてしかもモンゴル馬で。 一時的に勝てても
どのみち正規の武士に出会うまでの話だな
モンゴルは本州上陸したとたんに敗走するだろう >>61
弘安の役を例にとろう
防塁は敵軍の内陸部への侵攻を止めるには効果的だが、
累上の武士を守る遮蔽としては効果がない。
つまり飛び道具には無力。
したがって本当に和弓より威力も射程も勝る弓を大量に投入できていたなら
防塁の上の武士を矢で射散らしてから上陸すればいい。
ところが実際の元軍は防塁の前になすすべなし、
結局防塁がない陸継島に上陸を試みている(結局今度は武士の白兵戦の能力の前にここからも敗走するが)
つまり元軍にも高麗軍にも
海上から、あるいは海岸線から有効な射撃ができるほどの弓はなかったことになる。 「その遠く戦うや弓を使う。
倭の弓は竹製、長さ八尺、足を持って其端を踏んで張り、立って発す。
矢は海竹を以って幹となし鏃は鉄製長さ二寸、燕尾の形を成す。
重さ二、三両。
発するに当たらざるなし。
当たれば則ち人たちどころに倒る」 俺が海水浴してたら そこで全滅だな
もしJALで攻めてきたら 成田がやばいな 実は侵攻してたらしいな
元は満州国があったところへんを抑えてる
満州国あたりは、金朝の根拠地なんで、金朝を征服したモンゴルの領土でもある
ここから樺太に侵攻して、樺太のアイヌ系民族を服属、
そして北海道の当時のアイヌ系民族「骨嵬」を服属。
これがえらい時間掛かったらしく、1308年まで掛かった。
(当時のアイヌどんだけ強いんだ)
日本側の当時の最北の支配者安東氏までは元朝に支配されなかった事は
俺らが学ぶ日本史では当然の史実だが、
どうもこの樺太、北海道アイヌ支配が安東氏に相当圧迫が掛かったようで
蝦夷大乱に繋がり、蝦夷の情勢は1328年まで不安定になる。
これが鎌倉幕府滅亡の直接の原因だという説もある wikiだから信用していいのか分からないが
元軍が樺太に派兵した人数は3000人だそうだ。
アイヌが強いっていうか、元軍がやる気なかったんじゃね? そもそもアイヌと敵対する部族に援軍送っただけだから。
国家プロジェクトとして侵攻した日本やベトナムとは違うよ。 蒙古は樺太までやってきて
「白主土城」って砦を樺太最南端に作った。
現在は土塁だけが残ってるそうだが、中国様式の建築らしい。
この城についてもっと詳しく知りたいが、検索しても情報が少ないのが悲しい。
数は少ないが、蒙古も北海道の目と鼻の先までは実際来てる。
97が言うように北海道のアイヌも服属されてたのかな。
安藤氏だけは結構危機感感じてたろうね。 モンゴル国の国際関係
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%96%A2%E4%BF%82
南に隣接する中国とは、伝統的に関係が悪い。「娘が中国人と結婚したら一家の恥」との通念が今でも通用しているし、国政選挙でも中国との関係改善の是非が争点になる。
モンゴルが漢字文化を一切受容しなかったのも、モンゴル人が中国人を嫌ったためである。
モンゴル人にとって「中国人のようだ」というのは最大の悪口となり、選挙でも「あの候補は家系に中国の血が入っている」というのは最大のスキャンダルとなる。
日本人を含めた東洋系外国人が、街頭で「中国人か?」と聞かれることはまずない。中国人は蔑称であり、喧嘩を売っていることになるからである。
通常であれば、「中国生まれのモンゴル人(または韓国人)か?」と聞かれる場合が多い。ただし、日本とはまだ縁遠いため、日本人かと聞かれることは少ない。
モンゴル人と中国人との衝突事件、あるいは中華料理店に対する襲撃事件は、ニュースにもならないほど日常的に起きている。
学校教育で、中国人に敵意を煽る教育は行なわれていないが、家庭教育で敵意を植え付けている場合が多い。
モンゴル人の子どもが語る「学校の怪談」でも、中国人による殺人事件が頻繁に登場する。
現在、中国人が嫌いなモンゴル人は9割、好きなモンゴル人は1割と言われる。
衣料品や、家庭電化製品は、中国製がほとんどであるが、モンゴル人は、「中国の商品は構わないが、中国人の思想が気に食わない」と語る。
モンゴルは親日らしい。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/MONGOLIA/kankei.html
>2004年11月に在モンゴル日本国大使館が実施した世論調査では、「日本に親しみを感じる」と答えた回答が7割を超えたほか、
>「最も親しくすべき国」として第1位になるなど、現在のモンゴル国はきわめて良好な対日感情を有する国となっている。
モンゴルは中国を嫌っているらしい。
モンゴルの極右勢力が過激な「反中」運動を展開―中国紙
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=0721&f=politics_0721_005.shtml
>歴史的に何度も中国からの侵攻を受けたモンゴル国は、中国に対する激しい敵対心を抱いており、
>中国人がモンゴルで襲われるほどである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E4%B8%AD
>歴史的に中国との関係は悪く、今でも一部の民衆には反中感情がある。
>例えば日本人観光客が中国人に間違えられるとトラブルに巻き込まれ、
>中国関連の施設に「看板等に使用している漢字を3日以内にモンゴル語に変えなければ、強制的に撤去するかペンキで塗り潰す」
>という過激な内容警告文を出され、さらに独立記念日に活動家に襲撃される事もあるくらいである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E5%9B%BD
>>106
2年前の書き込みの言葉遣いに突っ込む方がおかしくね? 将軍を協会から除名するよう同業者から嘆願書が出される、宗家の役(平成14年西暦2002年) 元寇は鎌倉武士の圧勝
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_02.html
住吉鳥居を通り過ぎて赤坂に向かう途中の小松が原で季長は菊池二郎武房の一行と出会う。
総勢百余騎。
武房はすでに敵と戦い、たくさんの首をぶら下げて引き上げてくる途中であった。 (てのものふんどりあまたなり)
それを見た季長はいっそう奮い立ち蒙古軍に向かって駆け出すのであった。
菊池武房に破れた敵の本隊は,麁原へ退却した。
別の一隊は別府の塚原へと退却。
塚原から鳥飼の干潟へ進み本隊と合流せんとする蒙古軍を討ち取ろうとした季長は馬が干潟に脚を取られ逃がしてしまった。
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_04.html
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/kotoba_03.html
敵軍は麁原に陣を構えて鐘を打ち鳴らしてひしめきあっていた。
季長の合戦は、麁原から鳥飼潟の塩屋の松原が舞台となった。
旗指が馬を射られて跳ね落とされたがそのままおきあがって走り出す。
季長以下3名も馬を失い痛手も被り、あわや一巻の終わりかとみえたところに、
肥前国御家人白石六郎通泰が後方より援軍を率いて攻め立てる。
たまらず敵は退却を始めた。
武士団に馬上から次々と矢を射かけられ逃げ惑う蒙古軍。
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_03.html
敵を追って攻め入る三井三郎資長と退却する蒙古軍。
※蒙古襲来絵詞…竹崎季長が、元寇時の御恩奉行であった安達泰盛への鎮魂と報謝のために作った絵詞。
恩賞貰うために作ったなどというウソを信じ込まされている人もいるかもしれんが、
この絵詞が作られた時にはとっくに恩賞は貰い終わっている。 確か元寇は蝦夷でも有ったんじゃなかったかな
撃退した上に逆に攻め上がって
元側から講和を引き出した稀有な例だと聞いたが 元時代、蒙古軍は九州に2度、北方地域(当時北海道・樺太・千島はアイヌの
領土だった)に3度来襲していますが、九州の件は台風で蒙古が戦わずして船が
沈没しておわりましたが、樺太の戦いは大規模なもので3度とも
アイヌの大勝利だったのですが
文永の役と弘安の役で元軍が戦わずに沈没して終わったと
本気で思ってるなら無知にも程がある。 >>116
だめよボクちゃん。また、そんな攻撃的な言い方しちゃ。
115ちゃんの言いたいことは、カイ(蝦夷)の活躍に力点おいてるの。
もうお兄ちゃんなんだから、わかって上げなくちゃ。
>>115
樺太の戦いは3度とも元軍の大勝利で、樺太は元に占領されてアイヌは降伏に追い込まれてるんだが 1266年
フビライ・ハーン「日本国王に国書を送れ」
:
:(国書届いた)
:
日本側役人「日本国王って誰のことだろう?
天皇?上皇?征夷大将軍?執権?北条家得宗?」 寒さはともかく大陸とくらべて積雪量はんぱないから無理だな
一ヶ月で鎌倉陥落だね。
大東亜戦争終盤のソ連軍侵攻も同様。やられてたね。 北海道を占領したとしても当時の北海道の人口程度しか人間を養えない
故にそこから本州を攻める人数は限られる
だから無理
沿海州〜樺太〜北海道の補給線をきっちりひいて青森に攻めるとか無理無駄
画期的な生産方法を発見して北海道の生産量を上げて人口ふやしてから攻めないと無理 北海道出身力士全盛期の昭和60年代にモンゴル人が上位にいたら >>128
当時、6m越える熊がゴロゴロしてたんだが・・・ 寒さは奴らの平原でもかなりのものだけど
日本の積雪量半端ないぞ でも、蒙古軍もバカだよね。
二度目のとき、わざわざ迎撃の準備万端の所を攻めたわけで…
(何とかの一つ覚え?)
日本海側も範囲が広いから攻めるポイントが沢山あるわけじゃん。
二回目は九州以外を攻めていれば、今の日本は無かったね。
俺が指揮官なら、佐渡島を攻めて軍事拠点とし、次に能登を攻めるね。 蝦夷よりも誰かも書いていたけど若狭からいきなり都へ攻め上るほうが脅威だと思う
例え天皇の身柄は確保できなくても都を押さえられれば当時の日本人は大ショックで必死で取り返そうと大戦さになり結果元軍は追い払われたとしても直後に鎌倉幕府は崩壊し、挙げ句の果てに室町時代をすっ飛ばして戦国時代が来てたかも知れない
ふとそんな気がした 室町時代嫌われてるな
そんなに貧乏人の出世が嫌か? デブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ね
デブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ね
デブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ね
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デブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ね
デブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ね >>137
逆に蒙古が軍を幾つかに分けて、九州と蝦夷と都と鎌倉に同時多発的に
出現していたら、鎌倉幕府はどう対処してたんだろ? 蝦夷は寒いから、日本兵のほうが強そう。大和魂なめんなや! 文久落書
九州 正に乱として殺気盛なり(`・д・´)
久留米 質朴にして武事盛んなり(`・д・´)
柳川 君臣よし(`・д・´)
薩摩 豪傑の士集る(`・д・´)
水府 文有て武無きものなし(`・д・´)
川越 君臣の間大に宜(`・д・´)
松代 武備盛のよし(`・д・´)
会津 文武とも盛也(`・д・´)
越前 文武とも全備す(`・д・´)
宇和島 君公大によし(`・д・´)
松山 君臣質朴也(`・д・´)
長州 君臣誠忠(`・д・´)
因州 君臣大に宜(`・д・´)
備前 因州の真似をする計(´・ω・`)
都 文国(´・ω・`)
彦根 当藩中文武ともなし(´・ω・`)
広島 怠惰ミ ⌒ 彡
(∩Д∩) シクシク
( )
し⌒ J 武士にあんだけやられてる所を見るとどこに攻めても同じだろw
蝦夷から入っても南下して同じ連中と戦う事になるんだし >>134
当時は、正確な海図どころか大まかな日本地図すら無く、無線通信もないし
適当に上陸しても、自軍や目標の場所も不明、味方と連絡も取れない
兵站補給には、当時の船で行き来し易い、まともな港も必要 >>136
若狭には対馬海流で軍を送り易い=帰路が逆流で大変だから海賊もあまり来ない
朝鮮→九州よりは若狭まで日数かかり、計画狂い易く、兵も疲れ、馬も持ち込み困難
さらに江南軍が遠い若狭まで、となると過酷過ぎる
若狭から京都への鯖街道などは大軍を一気に送り難いし、地理知らないなら尚更だ
日本側の戦力として
既に、当時の国際港である敦賀は、東山道・北陸道の兵が防衛していたとあるし
それを突破しても
畿内には万単位の幕府の予備戦力、さらに延暦寺など僧兵も防衛参加
元は九州に戦力集中しても勝てないのに、若狭に戦力分けても勝率下がるだけかと まず、元が北海道の地理を正確に認識してたか怪しいし
樺太アイヌと交戦 →北海道アイヌの各派制圧 →日本、で一々渡海など面倒過ぎる ちなみに福岡は豊臣秀吉の朝鮮出兵の時には、立花宗茂が明・朝鮮をぼこって、
やたらめったら恐れられて歴史がある。太平洋戦争中も福岡の確か18師団が
前方にいると聞いただけで、中国軍の動きが鈍くなったとかで、とにかく兵は
むちゃくちゃ強いっぽいな。蒙古も博多なんかに上陸したのが運のつきだったのかも? >「防人」廃止、とたんに外国勢から襲撃される九州…反応鈍い中央の「朝廷」、
>今にも通じる平和ボケ
新羅の入寇、刀伊の入寇など、防人廃止から武士政権までの力の空白期は劣勢だった >>148
熊本の部隊だと敵は逃げてしまって寄ってこない
関西の部隊に交代すると敵はウジャウジャ寄ってくる
(NHK戦争アーカイブス) 外国の海賊は九州・隠岐あたりは襲ってたが、海流の関係で敦賀まで往復は難しいようで
北海道に至っては存在知ってたかどうか、それだけ行き来し辛い、コストかかる場所ってこと 大国に囲まれたほぼ無勝、千敗の超〜賎な民は馬や船に乗って悪さしに来たヒャッハーなお兄
さん達にGo韓され続けたため、その末裔こそが周辺より気性の激しい△△魔となってしまった
のは無慈悲な地政学的宿命。リアル性器待つ覇者○○○○ハーンのYを継ぐ者が現在全世界で
1600万人もいるが貢献大。 恨の文化や歴史捏造癖は、ドラマと異なり惨めな歴史故だがお陰
で若干体格は良くなり一部のオバ様達をきゃー逞しいと言わしめましたとさ。あ〜キムい、キムい。 日本は北方も警戒していたし、国際港である敦賀も防衛していたが
元はアムール川以東の地域を詳しく知らなかったらしいぞ
>刀伊の入寇 - Wikipedia
>また、いわゆる元寇(文永・弘安の役)前後に
>日本側は北方からの蒙古の来襲を警戒していた事が知られているが、
>これに反して元朝側の資料で
>アムール川以東の地域の地理概念上に日本は含まれていなかったようである。
>この認識の差異も内陸のアムール水系への
>交易路のシフトが大きく原因していることが推測されている[9]。 地理に詳しくないし、樺太アイヌを攻めた件は、日本侵攻と別件でしょうね