もし蒙古が九州ではなく蝦夷から日本に侵攻していたら
蒙古は樺太までやってきて
「白主土城」って砦を樺太最南端に作った。
現在は土塁だけが残ってるそうだが、中国様式の建築らしい。
この城についてもっと詳しく知りたいが、検索しても情報が少ないのが悲しい。
数は少ないが、蒙古も北海道の目と鼻の先までは実際来てる。
97が言うように北海道のアイヌも服属されてたのかな。
安藤氏だけは結構危機感感じてたろうね。 モンゴル国の国際関係
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%96%A2%E4%BF%82
南に隣接する中国とは、伝統的に関係が悪い。「娘が中国人と結婚したら一家の恥」との通念が今でも通用しているし、国政選挙でも中国との関係改善の是非が争点になる。
モンゴルが漢字文化を一切受容しなかったのも、モンゴル人が中国人を嫌ったためである。
モンゴル人にとって「中国人のようだ」というのは最大の悪口となり、選挙でも「あの候補は家系に中国の血が入っている」というのは最大のスキャンダルとなる。
日本人を含めた東洋系外国人が、街頭で「中国人か?」と聞かれることはまずない。中国人は蔑称であり、喧嘩を売っていることになるからである。
通常であれば、「中国生まれのモンゴル人(または韓国人)か?」と聞かれる場合が多い。ただし、日本とはまだ縁遠いため、日本人かと聞かれることは少ない。
モンゴル人と中国人との衝突事件、あるいは中華料理店に対する襲撃事件は、ニュースにもならないほど日常的に起きている。
学校教育で、中国人に敵意を煽る教育は行なわれていないが、家庭教育で敵意を植え付けている場合が多い。
モンゴル人の子どもが語る「学校の怪談」でも、中国人による殺人事件が頻繁に登場する。
現在、中国人が嫌いなモンゴル人は9割、好きなモンゴル人は1割と言われる。
衣料品や、家庭電化製品は、中国製がほとんどであるが、モンゴル人は、「中国の商品は構わないが、中国人の思想が気に食わない」と語る。
モンゴルは親日らしい。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/MONGOLIA/kankei.html
>2004年11月に在モンゴル日本国大使館が実施した世論調査では、「日本に親しみを感じる」と答えた回答が7割を超えたほか、
>「最も親しくすべき国」として第1位になるなど、現在のモンゴル国はきわめて良好な対日感情を有する国となっている。
モンゴルは中国を嫌っているらしい。
モンゴルの極右勢力が過激な「反中」運動を展開―中国紙
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=0721&f=politics_0721_005.shtml
>歴史的に何度も中国からの侵攻を受けたモンゴル国は、中国に対する激しい敵対心を抱いており、
>中国人がモンゴルで襲われるほどである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E4%B8%AD
>歴史的に中国との関係は悪く、今でも一部の民衆には反中感情がある。
>例えば日本人観光客が中国人に間違えられるとトラブルに巻き込まれ、
>中国関連の施設に「看板等に使用している漢字を3日以内にモンゴル語に変えなければ、強制的に撤去するかペンキで塗り潰す」
>という過激な内容警告文を出され、さらに独立記念日に活動家に襲撃される事もあるくらいである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E5%9B%BD
>>106
2年前の書き込みの言葉遣いに突っ込む方がおかしくね? 将軍を協会から除名するよう同業者から嘆願書が出される、宗家の役(平成14年西暦2002年) 元寇は鎌倉武士の圧勝
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_02.html
住吉鳥居を通り過ぎて赤坂に向かう途中の小松が原で季長は菊池二郎武房の一行と出会う。
総勢百余騎。
武房はすでに敵と戦い、たくさんの首をぶら下げて引き上げてくる途中であった。 (てのものふんどりあまたなり)
それを見た季長はいっそう奮い立ち蒙古軍に向かって駆け出すのであった。
菊池武房に破れた敵の本隊は,麁原へ退却した。
別の一隊は別府の塚原へと退却。
塚原から鳥飼の干潟へ進み本隊と合流せんとする蒙古軍を討ち取ろうとした季長は馬が干潟に脚を取られ逃がしてしまった。
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_04.html
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/kotoba_03.html
敵軍は麁原に陣を構えて鐘を打ち鳴らしてひしめきあっていた。
季長の合戦は、麁原から鳥飼潟の塩屋の松原が舞台となった。
旗指が馬を射られて跳ね落とされたがそのままおきあがって走り出す。
季長以下3名も馬を失い痛手も被り、あわや一巻の終わりかとみえたところに、
肥前国御家人白石六郎通泰が後方より援軍を率いて攻め立てる。
たまらず敵は退却を始めた。
武士団に馬上から次々と矢を射かけられ逃げ惑う蒙古軍。
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_03.html
敵を追って攻め入る三井三郎資長と退却する蒙古軍。
※蒙古襲来絵詞…竹崎季長が、元寇時の御恩奉行であった安達泰盛への鎮魂と報謝のために作った絵詞。
恩賞貰うために作ったなどというウソを信じ込まされている人もいるかもしれんが、
この絵詞が作られた時にはとっくに恩賞は貰い終わっている。 確か元寇は蝦夷でも有ったんじゃなかったかな
撃退した上に逆に攻め上がって
元側から講和を引き出した稀有な例だと聞いたが 元時代、蒙古軍は九州に2度、北方地域(当時北海道・樺太・千島はアイヌの
領土だった)に3度来襲していますが、九州の件は台風で蒙古が戦わずして船が
沈没しておわりましたが、樺太の戦いは大規模なもので3度とも
アイヌの大勝利だったのですが
文永の役と弘安の役で元軍が戦わずに沈没して終わったと
本気で思ってるなら無知にも程がある。 >>116
だめよボクちゃん。また、そんな攻撃的な言い方しちゃ。
115ちゃんの言いたいことは、カイ(蝦夷)の活躍に力点おいてるの。
もうお兄ちゃんなんだから、わかって上げなくちゃ。
>>115
樺太の戦いは3度とも元軍の大勝利で、樺太は元に占領されてアイヌは降伏に追い込まれてるんだが 1266年
フビライ・ハーン「日本国王に国書を送れ」
:
:(国書届いた)
:
日本側役人「日本国王って誰のことだろう?
天皇?上皇?征夷大将軍?執権?北条家得宗?」 寒さはともかく大陸とくらべて積雪量はんぱないから無理だな
一ヶ月で鎌倉陥落だね。
大東亜戦争終盤のソ連軍侵攻も同様。やられてたね。 北海道を占領したとしても当時の北海道の人口程度しか人間を養えない
故にそこから本州を攻める人数は限られる
だから無理
沿海州〜樺太〜北海道の補給線をきっちりひいて青森に攻めるとか無理無駄
画期的な生産方法を発見して北海道の生産量を上げて人口ふやしてから攻めないと無理 北海道出身力士全盛期の昭和60年代にモンゴル人が上位にいたら >>128
当時、6m越える熊がゴロゴロしてたんだが・・・ 寒さは奴らの平原でもかなりのものだけど
日本の積雪量半端ないぞ でも、蒙古軍もバカだよね。
二度目のとき、わざわざ迎撃の準備万端の所を攻めたわけで…
(何とかの一つ覚え?)
日本海側も範囲が広いから攻めるポイントが沢山あるわけじゃん。
二回目は九州以外を攻めていれば、今の日本は無かったね。
俺が指揮官なら、佐渡島を攻めて軍事拠点とし、次に能登を攻めるね。 蝦夷よりも誰かも書いていたけど若狭からいきなり都へ攻め上るほうが脅威だと思う
例え天皇の身柄は確保できなくても都を押さえられれば当時の日本人は大ショックで必死で取り返そうと大戦さになり結果元軍は追い払われたとしても直後に鎌倉幕府は崩壊し、挙げ句の果てに室町時代をすっ飛ばして戦国時代が来てたかも知れない
ふとそんな気がした 室町時代嫌われてるな
そんなに貧乏人の出世が嫌か? デブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ね
デブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ね
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逆に蒙古が軍を幾つかに分けて、九州と蝦夷と都と鎌倉に同時多発的に
出現していたら、鎌倉幕府はどう対処してたんだろ? 蝦夷は寒いから、日本兵のほうが強そう。大和魂なめんなや! 文久落書
九州 正に乱として殺気盛なり(`・д・´)
久留米 質朴にして武事盛んなり(`・д・´)
柳川 君臣よし(`・д・´)
薩摩 豪傑の士集る(`・д・´)
水府 文有て武無きものなし(`・д・´)
川越 君臣の間大に宜(`・д・´)
松代 武備盛のよし(`・д・´)
会津 文武とも盛也(`・д・´)
越前 文武とも全備す(`・д・´)
宇和島 君公大によし(`・д・´)
松山 君臣質朴也(`・д・´)
長州 君臣誠忠(`・д・´)
因州 君臣大に宜(`・д・´)
備前 因州の真似をする計(´・ω・`)
都 文国(´・ω・`)
彦根 当藩中文武ともなし(´・ω・`)
広島 怠惰ミ ⌒ 彡
(∩Д∩) シクシク
( )
し⌒ J 武士にあんだけやられてる所を見るとどこに攻めても同じだろw
蝦夷から入っても南下して同じ連中と戦う事になるんだし >>134
当時は、正確な海図どころか大まかな日本地図すら無く、無線通信もないし
適当に上陸しても、自軍や目標の場所も不明、味方と連絡も取れない
兵站補給には、当時の船で行き来し易い、まともな港も必要 >>136
若狭には対馬海流で軍を送り易い=帰路が逆流で大変だから海賊もあまり来ない
朝鮮→九州よりは若狭まで日数かかり、計画狂い易く、兵も疲れ、馬も持ち込み困難
さらに江南軍が遠い若狭まで、となると過酷過ぎる
若狭から京都への鯖街道などは大軍を一気に送り難いし、地理知らないなら尚更だ
日本側の戦力として
既に、当時の国際港である敦賀は、東山道・北陸道の兵が防衛していたとあるし
それを突破しても
畿内には万単位の幕府の予備戦力、さらに延暦寺など僧兵も防衛参加
元は九州に戦力集中しても勝てないのに、若狭に戦力分けても勝率下がるだけかと まず、元が北海道の地理を正確に認識してたか怪しいし
樺太アイヌと交戦 →北海道アイヌの各派制圧 →日本、で一々渡海など面倒過ぎる ちなみに福岡は豊臣秀吉の朝鮮出兵の時には、立花宗茂が明・朝鮮をぼこって、
やたらめったら恐れられて歴史がある。太平洋戦争中も福岡の確か18師団が
前方にいると聞いただけで、中国軍の動きが鈍くなったとかで、とにかく兵は
むちゃくちゃ強いっぽいな。蒙古も博多なんかに上陸したのが運のつきだったのかも? >「防人」廃止、とたんに外国勢から襲撃される九州…反応鈍い中央の「朝廷」、
>今にも通じる平和ボケ
新羅の入寇、刀伊の入寇など、防人廃止から武士政権までの力の空白期は劣勢だった >>148
熊本の部隊だと敵は逃げてしまって寄ってこない
関西の部隊に交代すると敵はウジャウジャ寄ってくる
(NHK戦争アーカイブス) 外国の海賊は九州・隠岐あたりは襲ってたが、海流の関係で敦賀まで往復は難しいようで
北海道に至っては存在知ってたかどうか、それだけ行き来し辛い、コストかかる場所ってこと 大国に囲まれたほぼ無勝、千敗の超〜賎な民は馬や船に乗って悪さしに来たヒャッハーなお兄
さん達にGo韓され続けたため、その末裔こそが周辺より気性の激しい△△魔となってしまった
のは無慈悲な地政学的宿命。リアル性器待つ覇者○○○○ハーンのYを継ぐ者が現在全世界で
1600万人もいるが貢献大。 恨の文化や歴史捏造癖は、ドラマと異なり惨めな歴史故だがお陰
で若干体格は良くなり一部のオバ様達をきゃー逞しいと言わしめましたとさ。あ〜キムい、キムい。 日本は北方も警戒していたし、国際港である敦賀も防衛していたが
元はアムール川以東の地域を詳しく知らなかったらしいぞ
>刀伊の入寇 - Wikipedia
>また、いわゆる元寇(文永・弘安の役)前後に
>日本側は北方からの蒙古の来襲を警戒していた事が知られているが、
>これに反して元朝側の資料で
>アムール川以東の地域の地理概念上に日本は含まれていなかったようである。
>この認識の差異も内陸のアムール水系への
>交易路のシフトが大きく原因していることが推測されている[9]。 地理に詳しくないし、樺太アイヌを攻めた件は、日本侵攻と別件でしょうね ともかくも日本周辺の海流は無茶苦茶荒いからな。日本が他国に侵略されず、太平洋戦争
までこれた最大の理由はやっぱそれ。一方西欧人にとって海というのは、新大陸まで延々
続く一本の通路だからな。もし日本周辺の波がすべて地中海のように穏やかだったら歴史
は全く違っていた。 当時の航海技術では多々良浜辺が精一杯なのだよ
地理が充分に分かっていたのも、そこだけ。充分と言ってもアレだが
かりに若狭にたどりついたとしても、
日本側にとっても、九州までよりはるかに内線が充実した地域なので
迎撃戦力を集中しやすい。
元10余万以上の戦力を即座に並べられる。
それと馬の輸送は史実でもなかったはずで、物理的に不可能 まともな地図も海図もなく、航海技術も拙い時代に北海道回りは無謀 資格の市場価値が一目で分かる!
安定した仕事を得るには学歴よりも、価値ある資格を取ることが大切です。
また、日本経済が求めている人材も、これで明らか。
■資格の求人市場評価ランキング
http://jobinjapan.jp/license/ranking.html
■すべての資格の平均月給一覧
http://jobinjapan.jp/license/
全資格の平均最低月給197,800円
提供: http://jobinjapan.jp 実は、非常に奇異な点があるのだ。それは、区によって、「票があるところ」と「まったくゼロな区」があるのだ。三宅洋平の得票では、
豊島区ではなんとゼロ票
中央区ではゼロ票。
江東区ではゼロ票、
荒川区ではゼロ票
足立区ではゼロ票
通常、こんなことは考えられない。
慶応の学生です。大学の教授が今回の選挙についておかしい部分が多いとツイートしています。
500の束のバーコードを他者に振り替えていると考えられると言っています。
例として幸福実現党は都内に信者がある程度いるはずなのに、3区以外はすべて0票。犬丸氏も同じだったと言います。
また、娘さんが練馬区で三宅氏に投票、他知り合いが3人も入れたのに、0票。 池袋、渋谷で0票もおかしいと書いています。
明らかにム サシの機械での操作があった可能性が高いと書かれています。
2011年
3月18日 「致死量の放射能を放出しました」東電の小森常務は、こう発言したあと泣き崩れた。
事故に直接責任のある清水・勝俣に20億円を支払い、事故当時の経営陣は全員、全額退職金を税金から分捕って逃亡
2016年
6月25日 『悩みのない世界へようこそ』のスピリチュアルTV主催者テディ小泉(52、埼玉)さん、脳梗塞で倒れ、心筋梗塞で死去。
7月 2日 昨日、友人が脳梗塞で倒れ頭を打ち家でトイレの前で亡くなっていた。40歳だぜ!俺は放射能汚染が本気で憎い
7月 2日 ブロガーのサランさんが今日日本で心肺停止で亡くなったそうです。倒れる前日までブログが更新されてて
7月21日 ケニアに帰国したジョハナ・マイナ(25)選手が急逝。2012年に入社。仙台国際ハーフマラソンで3度優勝
8月 3日 写真家の宮本敬文(50)さん 脳出血で死去、SMAP写真集など手がける アイヌがニヴフ侵略を繰返して
そのケツ持ちの元朝が、アイヌに懲罰遠征した件は
アイヌの侵略目的は、ニヴフの鷹狩り職人の拉致
さらに猛禽の羽根の流通掌握、とも言われてる >>30 樺太、ベトナム、、そして鎌倉幕府には勝てなかった蒙古
そんな蒙古にアッサリ蹂躙された欧州 インドは敗色濃厚な中でなぜか蒙古が突然撤退
アイヌは蒙古に負けて従属、ベトナムもボロボロで辛勝の後は従属
はっきり蒙古に勝ったといえるのはマムルークと鎌倉幕府だけだよ 地理的なことよりも時代の方が鍵
鎌倉幕府全盛時に蒙古が攻めてきて日本はラッキーだった
強大な武力を持った中央政権が無かった
南北朝時代や戦国時代なら簡単に征服されていたかも
平安時代ですら危なかった 元寇は現地九州兵だけで圧勝だしなあ
戦国時代に同様に威圧的に来るなら、各大名が皇室など利用し連合軍作れる
むしろ平和慣れして
刀伊の入寇の略奪軍にすら苦戦してた平安時代に来られるとやばかった モンゴルはアイヌの侵略行為に対して小規模の懲罰して臣従させたよ 私は創価の会員でした。
すぐ隣に防衛省の背広組の官舎があるのですが、
自分の家の窓にUSB接続のwebカメラを貼り付けて、そこの動画を撮影し続け、
学会本部に送っていました。
別に大したものは写っていません。ゴミだしとか奥さんが子供を遊ばせている所とか。
官舎が老朽化して使われなくなってから、
今まで法人税(うちは自営業です)をほぼ払わなくても済んでいたのが、
もう守ってやれないのでこれからは満額申告するように言われました。
納得がいかないと言うと、君は自業自得で餓鬼地獄へ落ちるから、
朝夕に南無妙法蓮華経と三千回ずつ唱えて心をきれいにしなさいと言われ
馬鹿らしくなって脱会しました。
それ以来、どこへ行くにもぞろ目ナンバーの車につけまわされたり大変な日々です。
全部自分の出来心から起きたことで、どこに訴えるわけにもいかないのですが、
なんとかあの人たちと縁を切った上で、新しい始まりを迎える方法はないんだろうか。 >>168
エベンキ韓唐は戦争勝ったことねーぞ
日露は実質薩長 せっかく西日本人が作った大日本帝国を東日本人が一億玉砕だといって潰してしまった
日本の10倍の国力を持ったアメリカと開戦した時の首相かつ陸軍大臣、東条英機=東京出身
東条の後を継いだ首相、小磯國昭=栃木出身
真珠湾攻撃を行った連合艦隊長官、山本五十六=新潟出身
開戦時の海軍大臣、嶋田繁太郎=東京出身
日本を泥沼の戦争に引き込んだ石原莞爾=山形出身
東京一極集中が始まったきっかけは戦時体制時の1940年体制から。
東京府と東京市がなくなって東京都が誕生したのも戦時体制時の1943年。
それまで政治は東京、経済は大阪と分けてたのが政治、経済も東京が中心になった。
そして東京主体の軍国日本は惨めに敗戦し米国の隷属国と化すことになる。
更に戦後の東京一極集中政策により日本の国際競争力は急速に劣化、世界史でも稀な国家衰退事例。
正論だわ
大和民族様こそが日本
エベンキチョンコ蝦夷キチガイ会議とかw
はよ死ねや馬鹿チョンコエベンキ蝦夷 家族は発症の約1カ月前から、離乳食として蜂蜜を混ぜたジュースを一日2回ほど飲ませていた。蜂蜜は乳児ボツリヌス症の原因になる可能性があり、容器のラベルなどで1歳未満の乳児に摂取させないよう注意されていた食品だが、家族は「知らなかった」と話しているという。
この報道をうけ、料理レシピサイト「クックパッド」に非難の声が上がった。
「離乳食 蜂蜜」とGoogleで検索をすると、クックパッドが上位にあがる。サイト内で「離乳食 蜂蜜」のキーワードで検索すると、ヒットするレシピは147件(2017年4月8日時点)
人命軽視の人モドキエベンキ蝦夷らしいな 『室町幕府東国支配の研究』 江田郁夫 高志書院
東国大名の存在は、擾乱以降、不安定な状況が続いていた畿内の政治、軍事情勢を回復するうえでも重要な役割を果たした。
尊氏は文和2(1353)年に東国大名を率いて大挙上洛した。
このとき尊氏に従って活躍した「東国ノ諸大名并軍勢」として次のようなものがいた(『源威集』)。
佐竹右馬頭義篤、同刑部大輔師義、結城中務大輔直光、同大内刑部大輔重朝、常陸大椽入道浄永、那須備前守資藤、
小田讃岐守孝朝、小山左衛門佐氏政、武田陸奥守信武のほか、高坂氏重らの平一揆や白旗一揆である。
尊氏勢上洛のさいには、「関東ノ武威ヲ恐テ、洛中ノ敵従退散」、「其武勢ニ恐、山陰道南方ノ御敵、不戦洛中ヲ退散ス」という(『源威集』)。
上洛してくる東国勢の精強は、南朝方もよく知るところであった。
足利政権にとって東国大名の保持する軍事力は、まさに切り札的な存在だったといえる。
その点は、畿内での戦闘においてもいかんなく発揮され、南朝らは以降も何度か入京を果たすものの、結局は一時的なものにとどまっている。 井沢「神風は御用学者の捏造」
武士ががんばって撃退したことを認めたくない
朝廷の捏造だってさ。 本隊を温存したまま、現地九州兵だけで圧勝だったしな 九州男児の祖先
九州出身の防人たちはどうも役に立たなかったらしく、早くも七五九年に大宰府の官僚が
「東国の防人を罷めしより、辺戍日に荒散せり」と、防備体制がなっていないことを政府に訴えている。
七年後の七六六年にも大宰府は「筑前等六国」で徴兵された防人たちの不適さを指摘し
「人勇健に非ずは、防守済まし難し」という理由で、「東国の防人旧に依りて戍に配せむ」ことを願っている。
このとき朝廷は妥協策を講じ、任期を終えた防人にはそのまま筑紫に残っている人が多いはずなので、
かれらを使って地元の防人の補強となすことを大宰府に命じている(『続日本紀』)。
(ブルースバートン『国境の誕生』大宰府から見た日本の原型、NHKブックス)
武神を祀り、これに仕える神人が古代の武術を伝えていた鹿島神宮は、奈良時代には、東北や関東方面の武人が九州へ防人として出発する際に、
必ず立ち寄って武運長久を祈り、神人達から武術を教って旅立ったので鹿島立ちという言葉が生まれ、そして、旅の道すがらや任地の九州で、
鹿島立ちと云えば、現在のニューヨーク、ロンドン、パリ、ミラノ等とはと云って珀(ネームバリュー)をつける様な事が出来たのであろう。
ともあれ、この防人達の喧伝によって、兵法は東国からと云われていたのである。
飯篠長威斎が創始した剣術兵法は、香取鹿島地方の優秀でしかも名人や達人となった門下達によって継承進化され新しい流儀が続々と派生していったのである。
特に塚原卜伝と上泉伊勢守は当時の都であった京への上洛を果し、卜伝は十二代将軍足利義晴に上泉伊勢守は十三代足利義輝にそれぞれの剣術を上覧して
天下一の名声を博した上、関東から北陸、東海、近畿地方に至るまで自らの流儀を指導広布した事によって、当時は香取鹿島と云う一地方民族の武術に過ぎなかった
剣術剣法が、全国に伝播する礎を築いたと云えるのである。
(『古流剣術』田中普門著)
島津貞久
1269年 相州鎌倉で生まれる
1274年 文永の役
1275年 九州防備のため、祖父久経(鎌倉出身)、父忠宗(鎌倉出身)らとともに薩摩へ下向
1281年 弘安の役、久経ら参戦
1333年 鎮西探題を襲撃、以降は主に足利方として活動
1363年 死去 >>1
守りの堅い大宰府をさけて、日本海を東へすすみ、
佐渡島の手前で上陸して京を落とせば余裕。
当時は正確な地図がなかっただけでしょう。 地図も海図も無いし、
そもそも当時、元はアムール川以東の地域を詳しく知らなかった>>154
さらに「太平記」より、当時の国際港であった敦賀は、武士で守り固めてた
> 此企兼てより吾朝に聞へしかば、其用意を致せとて、
> 四国・九州の兵は筑紫の博多に馳集り、
> 山陽・山陰の勢は帝都に馳参る。
> 東山道・北陸道の兵は、越前敦賀の津をぞ堅めける。
加えて、当時の操船技術で日本海を東に進んでも
地図も無いし、帰路(偏西風と海流に逆らう)が超困難な、片道切符のアホ作戦だ ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と生活保護
を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人全員に支給する、『ベーシックインカム』
の導入は必須です。月額約70000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。♪♪ ロクに地図もないし、補給とかも考えたら日本が戦わなくても自滅してくれる。全滅に近い形でね。 蝦夷の冬は当時相当厳しいけど、蒙古って寒冷に対してはどうなんだろう
あとヒグマ 地図もなく、海流の関係からいってもそんな能力は無い アイヌの侵略に対して、モンゴルは騎馬は使ったのかな 不凍港を使おうと、海流の関係で非現実的だ
もしくは、
アイヌ(加害者)の盗賊集団を元が征伐した際のように
間宮海峡が結氷する時期に、ソリや徒歩で樺太に渡って基地設営するか
どちらにしても北からのルートは壮大な無駄が過ぎる 冬は間宮海峡が結氷するがそこまでして攻める土地だろうかの日本 モンゴルは女真族に第三次日本遠征用の外洋船建造を命じてる。
日本遠征が中止になると、その艦隊はサハリン攻撃に転用された。
中止にならなかった場合、女真艦隊はどのルートから日本に侵攻したかだが。 >>35 それは逆
アイヌ(侵略者)側から樺太・大陸を侵略して、元から懲罰されて負けて服属した
まず北海道に、先住民(モヨロ・ウィルタ・擦文・ニヴフら)がいたところ
新たに
13世紀ごろアイヌ文化が成立(オホーツク系と交雑)し、先住民を征服して勢力拡大
その過程で、アイヌ(加害者)が樺太・大陸のニヴフ(被害者)を渡海侵略
〜アイヌに害された地元民が元に訴え
〜地元の訴えを聞き、元軍がアイヌ賊軍に防衛出動を重ねる⇒アイヌは負け元に服属
※以降アイヌは、歴代の中国王朝に朝貢 (アイヌのサンタン交易:古代中国への朝貢交易)
http://wpedia.mobile.goo.ne.jp/wiki/%83%82%83%93%83S%83%8B%82%CC%8A%92%91%BE%90N%8DU/5/
> 日本では鷲羽は、アイヌ交易の代表品として捉えられており[25]、
> アイヌは鷹羽・鷲羽流通の掌握を狙っていたと思われる[26]。
アイヌの侵略に対し、元軍が船・ソリ(犬・トナカイなど)で排除+懲罰を重ねると、アイヌは服従
https://www.city.asahikawa.hokkaido.jp/hakubutukan/education/d061522_d/fil/tatakai.pdf
★> アイヌはサハリンに侵入するだけでなく、
★> 大陸に渡って村々を襲い、略奪をおこなって. 元軍の手を焼かせていました 正直アイヌもチベットも、戦闘民族がイキって周辺弱小民族相手に暴れ回ってたら、
さらに強い戦闘民族(日本・満州)がやって来てボロ負けして被害者ぶってる様にしか見えない。 >>196
> 正直アイヌもチベットも、戦闘民族がイキって周辺弱小民族相手に暴れ回ってた
??? >>196-197
(アイヌは新参民族であり、オホーツク文化人と交雑して12〜13世紀に成立※ )
様々な北方先住民は、新参のアイヌに制圧・同化され
それは「オロンコ岩」伝承にも残る ※「オロッコ」:アイヌがウイルタを指すときに使う蔑称
(引用元)『北海道斜里町オロンコ岩チャシのドローン写真測量と3次元モデル作成の予備実験
2.オロンコ岩チャシの概略』
> アイヌに伝わる伝承が残されている。
> 昔この島の上にオロッコ族(トナカイ遊牧を生業とするサハリン北東部の先住民族5))が住んでおり,
> 下を船で通るアイヌ目がけて石や木を投げて邪魔をしたが,
> 急崖で囲まれた島の地形を利用して防ぎ,なかなか追い払うことができなかった。
> そこで
★> アイヌはオロッコ族をこの島から下りさせるように,
★> 海草や魚を鯨のように積み重ねておき,見に下りてきたオロッコ族を皆殺しにした6)。
※千島アイヌは成立が遅く、15世紀以後と考えられてる
(理由):千島列島に先住していたオホーツク文化人を、アイヌが漸次同化・征服して千島アイヌ成立 お前ら和歌山県出身の下村拓郎様(35歳、元自衛官)についてご存じか。この方は神のような素晴らしい人間性を有しているので覚えていた方がよいぞ アホか。クソ日本史が、西日本優遇して
ちゃんと教育しないから知らんと思うが、モンゴルは樺太に攻めに来てるからな。
アイヌなどの現地民が戦って防いだんだよ。
教育委員会は、ちゃんと教育しろよ。
あと、元寇も事実と併せて、元-朝鮮の乱としろよ。
朝鮮への忖度いらんだろ。 アイヌは日本から供給された武器でモンゴル軍と戦っていたんだよ。
今昔物語集には、中国の北の胡国の場所は蝦夷の地の対岸であると書いてある。
だから鎌倉幕府もモンゴルが蝦夷から攻めてくることを想定していた。
アイヌの戦いは日本の代理戦争ってこと。 >>60
内蒙古は後金に降伏した北元と
ジュンガル帝国に滅ぼされた後元
の亡命者(清の蒙古八旗)の子孫じゃないの 順序としては
アイヌ(侵略者)側から樺太・大陸のニヴフを侵略したところ
ニブフの訴えでケツモチの元軍が出てきて
元軍に懲罰されたアイヌは負けて服属>>194、以降アイヌは古代中国に朝貢
>★> アイヌはサハリンに侵入するだけでなく、
>★> 大陸に渡って村々を襲い、略奪をおこなって. 元軍の手を焼かせていました