おまいらが確信(妄想)してる歴史事実って何さ
ロマノフの皇女は兵士に輪姦された後アナスタシア以外全員銃殺された 山県有朋こそ国賊中の国賊。
しかしその上を行くのが岩倉具視。 >>55
国賊っていうか
近代日本の方向性を様々な方向から誤らした人 岩倉は公武合体派で和宮降嫁に尽力した挙句、薩長と意気投合、
元賭博屋の分際で維新後は右大臣に就任、嫡流の子孫は公爵に
なっただけでなく多数の分家が受爵、公私混同も甚だしい。 >>58
>>28じゃないが、謙信は女性説は結構前に聞いたことある
謙信は生涯独身で、女をまったく近付けなかったそうだ
他にもエピソードがあった気がするが忘れた
ただ、信憑性は薄いと思うが >>61
景勝は叔母と呼んでいる
婦人病で死んだという記録がある
「男勝り」と表現する民謡が残っている
このあたりか 坂本龍馬は現在で言われるほど重要人物ではない
戦後明治政府の手によってサクセスストーリーが作られた 知らなかったけど人力鉄道の歴史サイトがあった。
http://www.kk-net.com/~tabuchi/JINSHA.htm
妄想限り無く斜め上だが
上杉景勝の正室・菊姫の死因は、四辻氏の立場を少しでも良い方へ
向かわせるための自殺。
上杉景勝の側室・四辻氏の死因は、彼女の存在を心良く思わない
上杉家家中の者による暗殺。 坂本竜馬の構想で薩長同盟が成立したというのは妄想。
薩摩は長州と関係を回復するために使者(浪人)を2名遣わした。
一人は高杉晋作のもとに、もう一人は桂小五郎のもとに。
高杉は即座に拒絶し、桂は判断を保留し後に同意した。
桂のもとに遣わされたのが坂本、もう一人の使者は名も知れない。
坂本は顔が広い(長州藩士に知人がいる)ことで利用された。
もし、この二人の使者の行先が逆だったらと想像してみる。
坂本の名は歴史に残らなかったかもしれない。
もちろん使者の役目を果たした坂本の努力は評価すべきであろうが、
そういう意味で坂本は幸運だった。
百年後、彼の虚像を膨らませて若者の英雄像としてでっち上げてくれた小説家が
いたことも含めて。
親が子を、子が親を無下に殺める事件が頻発している。この世情を受けて日本の家族の
絆が失われつつあるという声も聞こえる。しかし、かつて我らが「美しい国」ニッポンでは
こうした家族内での醜い殺し合いは、日常茶飯事のことで、ニッポン固有の「美しい」伝統
文化とさえ言えるほどなのだ。
かつて日本の村落家庭では、飢餓・貧困からの防衛策として自分の子どもを殺して家計を
調整することがしばしば行われた。これは「間引き」と呼ばれていた。間引きの犠牲となった
のは多くは女児であったという。東北地方の伝統工芸として「こけし」という木製の人形が
伝わっている。このこけしの名は「子消し」に由来し、間引きによって殺められた子どもを供養
する目的で作られたのがはじまりだという。また東北のみならず日本各地に間引きの犠牲と
なった児童を供養する宗教施設が点在しているのだ。こうした事実は法治主義の浸透していない
時代の日本で、多くの子どもが密かに葬られていたことを如実に示している。
明治維新以降、政府は人口倍増計画の下、こうした間引きを固く禁じたが、やはり貧困ゆえの
間引きは細々と行われていた。かの文豪・芥川龍之介の下に、とある農夫が自分の小説を
みて欲しいと訪ねて来た。小説は、貧しさのために我が子を殺し、ドラム缶とともに密かに埋めて
しまうという内容だった。そして農夫は作品は己の実体験に基づいていると芥川に語ったという。
またあぶく銭目当てで、年頃の娘を娼館に売り払うことも日常的に行われたという。
こうした子殺しは卑属蔑視の儒教的思想に基づくとされてきた。しかし、その一方で日本では姥捨て・
棄老という労働力にならない老人を山に捨てて死なせる、親殺しも日常的に行われた。日本各地に
山姥・子泣き爺など老人の姿をした妖怪の伝説が伝わるのも、こうした棄老の犠牲となった老人達の
怨念への日本人の恐れが象徴化されたものに他ならない。
いうなれば昨今の子殺し・親殺し事件はニッポン民族の伝統回帰と言えるのである。いやはや、
美しき国・美しき民族の、とんだ美しき伝統である。 すぐ上にもあったけど、上杉謙信は可愛い女の子。
キャラで例えるとfateのセイバーみたいな感じ。 第二次世界大戦中アメリカとソ連は秘密協定を結んでいた
ソ連はドイツが開発していたロケット技術を引き継ぐ権利を、
アメリカは日本が開発していた細菌兵器の技術を引き継ぐ権利を得るというもの >>77
だがアメリカにとって旧日本軍の細菌兵器の技術は実用的でなく、役に立たなかったらしい 物部守屋と蘇我馬子は嫌悪99%友情1%の喧嘩友達だった 考古学に心得あるみなさんへ
近畿説とまったく対極の九州王朝説の最新仮説に新たな展開の模様です。
九州王朝が、7世紀なかば、副都:難波宮を建設し東遷を始めたという、
(九州王朝説そのものが仮説のところさらなる)仮説には難点があった。
考古学遺物が難波宮から九州の考古遺物が見付かってなかった。
ところが有力な展開があったようです。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jfuruta.html
「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」(『九州考古学』第83号、2008年11月)
「前期難波宮の整地層から出土した須恵器甕について、タタキ・当て具痕の比較をもとに、
北部九州から運ばれたとする。」という『史学雑誌』2009年五月号の「回顧と展望」
〜このスレ理由:すでに二年存続した。
さらに二年後まで生きていたらこのスレの評価ができるだろう。 >>82
家康は大阪夏の陣で、真田幸村の奇襲部隊に殺された。 コロンブスより先に明の艦隊がアメリカ大陸に到達している 勝長の生母は濃姫。
信忠と武田松はできていて子供まで作っていた。 岩倉具視が孝明天皇を暗殺。
ついでに西郷と共謀して坂本竜馬も暗殺。 与那国島の海底古代遺跡はムー大陸にあった文明の名残
つうか与那国島はかつてあったムー大陸の一部 信長は本能寺の変で死なずにそのまま生き続けた
信長様 家重は実は女。別に障害者でも小便公坊でもなかった
女なので生理とかあったし
女なので声が高いから障害者のフリをして大岡忠光に全てまかしてた
つまり家重の息子ふたりは大岡忠光のコ 神功皇后に殺された山門の女酋が卑弥呼。
神功皇后と武内スクネは道中ガチ中出し三昧。
チュウ愛天皇カワイソス。 平清盛の姉の存在
じゃないと自分の一族の存在が終る オーパーツの存在が示すように現代文面に匹敵する、いやそれ以上に高度な文明が過去に地球上にいくつか存在した アマテラスがスサノオに呆れて岩戸に籠ったのは
卑弥呼が弟の政治に嫌気がさして占いやめたってこと >>86
>九州王朝が、7世紀なかば、副都:難波宮を建設し東遷を始めたという、
(九州王朝説そのものが仮説のところさらなる)仮説<
中大兄は、目の前に、九州王朝の副都:難波宮の見事な姿を見て、関西の豪族集団を率いて
九州王朝の中央政府へ参加することを決意し、首都:倭京(太宰府)へ引越した。
↑
これが、白雉4(653)年、孝徳天皇は難波に置き去られたと日本書紀に書いてある。 大黒屋光太夫はエカチェリーナ2世とやった(やらされた)。 >>109 は、日本書紀でもともとは意味不明の記事だった。上記の仮説で説明を試みた。
これより前のこと、
九州王朝は諸制度(とくに地方統治制度)の改革を企図し、全国各地の地方豪族の参加を求めた。
蘇我日向が、関西豪族集団の代表として、九州王朝中央・太宰府の高官となって赴任した。
↑
これが、日本書紀には大化5(649)年のことと書かれている。
通説の教科書では、この時期に天下立評:全国的に評(こほり)という地方統治単位が設定された
と書かれている(が、日本書紀の記述と違う)。
評制度は九州王朝が実施したので、のちに実権を握った関西豪族集団は、真実の歴史を抹殺した
日本書紀で、そのような評制度が「なかった!」という偽装の歴史書を残した。
お茶人は常にお湯を欠かさず、何時来客があっても困らないようにしていた。 サカモトは自分探しのニートだったということを
認識すること。話はそれからだ。
日清・日露戦争が日本の為、日本の野心だったとか大嘘w
西郷は確かに坂本竜馬を疎んじたが、征韓論を唱えた為に長州に始末された、
伊藤博文も邪魔だったんで始末されただけ、もうねえ明治期より日本はがっつり
侵略されちゃってる訳よw日本の首相なんか戦前から純日本人を探す方が難しい位w
だいたい東條なんか藩士の子孫ではなく元川原芸人、盛岡藩のお抱えの穢多芸人が
明治を過ぎたらいつの間にか元藩士を名乗ってただけ。
戦争なんか邪魔な自国民を始末する為にやる物なんだよたいがい。
後の自称歴史家とかが出鱈目に日本人に甘美でお涙頂戴に書かれると日本人が沢山騙されて
本を買って呉れるって言う悪循環www 下北沢暴力団員殺害事件の犯人は現在名古屋K潜伏して自分を売っているという事実 従軍慰安婦問題で「日本人はひどいニダ」系の事を言っているけど
その日本人て当時日本人として扱われてたチョンども。
その証拠に姦国の国技は今でも変わらない。 聖徳太子から中国の隋への有名な親書「日出ずる処の天子…」に猛烈に怒った隋の煬帝が
「いまいましい小国、日本討つべし」として出始めにそのルート上にあった高句麗を何度となく攻めたが失敗、結局その遠征の失敗が隋の崩壊を招いた
「唐入り」を目指した豊臣秀吉がそのルート上にあり従わなかった朝鮮を攻めて失敗し、結局豊臣家の崩壊を招く原因になったのと侵攻ルートは逆だが似ている 東京駅開業時にそれまでの上野駅は貨物駅に格下げされ、鶯谷駅が現上野駅となった。 松江〜若桜間にあった江若鉄道は路盤の一部が国鉄若桜線に流用された