南原総長就任直後の1946年1月1日には、いわゆる「天皇の人間宣言」が
発布されました。
この詔書の最後には、天皇と国民の絆はあくまで「相互ノ信頼ト敬愛」に
よって結ばれるものであり、「単ナル神話ト伝説」より生じるものではない、
また天皇を「現御神(あきつみかみ)」とし、日本国民を「他ノ民族ニ
優越セル民族」とする「架空ナル観念」に基づくものでもない、という
一節があり、これが天皇の神格否定とされて「人間宣言」と通称される
ようになったわけです。

 南原繁はこの人間宣言を、これまで現人神(あらひとがみ)しての
天皇を君主として頂く「神の国」とされてきた日本を偏狭な独善性から
解放し、国民と文化を新たな「世界性」に向けて開くものとして高く
評価する一方、東大でおこなわれた戦後初の天長節式典(1946年4月29日)
では、今回の大戦において天皇に政治的・法律的責任がないことは明白で
あるけれども、道徳的・精神的責任は強く感じておられるはずなのだから、
いずれ自らの大義を明らかにされるべきである、
すなわち昭和天皇は時機を見て退位すべきである、という趣旨の
発言もしていました。
そのせいかどうか、昭和天皇は南原にたいして根強い不快感・不信感を
抱いていたと伝えられていますが、いずれにしても両者の関係は
微妙であったように思われます。

だって!