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江戸後期の神道学者薗田守良の『新釈令義解』では男子継承説を採り、継嗣令第一条の「女帝子亦同。」という一文に
ついて、脱文の可能性や「女も帝の子は亦た同じ」という読みを示していました。
また幕末の国学者栗原信充の『継嗣令講義』も、「女帝子亦同」は「女皇子(皇女)も亦同じ」の誤りであると指摘。
これらは、大宝令の法令解釈である『古記』(738年頃、『令集解』所収)の読みと食い違っています。
 古記云。女帝子亦同。謂。父雖諸王猶為親王。父為諸王。女帝兄弟。男帝兄弟一種。―「古記に云く、女帝の子も亦
 同じてへり。謂ふこころは、父、諸王と雖も猶ほ親王と為すがごとし。 父、諸王為りて、女帝の兄弟は、男帝の兄弟の
 一種とす。」
養老律令は、平安時代中頃まで格式(きゃくしき)と呼ばれる法改正が行われていましたが、平安時代後期に散逸し、それに
伴い皇統維持の方法も、成文法主義から前例主義へ移行。
皇統男系説や女帝不婚・摂位説は、古代の成文法時代の法令を、後世の前例主義の論理で解釈した為に生じた謬説です。
「前例が存在しない」という要素が法則化され、律令に記されていない、法文と矛盾するような規則が作られたのです。
不文法や「前例がないものは、認められない」といった論理展開の律令解釈は、全て誤りです。

それから、旧宮家の皇位継承資格の根拠となった、「永世皇族」の概念は伝統ではなく、明治政府が捏造したものです
養老律令では、皇親(皇位継承資格者)は天皇の4世孫までと定められていました
「永世皇族」によく似た制度としては、徳川御三家がありましたが、御三家の将軍職継承資格の根源は初代徳川家康
でしたので、徳川将軍の中で家康だけが「権現様」として神格化され、血統上の始祖として絶対化が行われていました
もし本当に「永世皇族」のような概念が存在したのなら、初代天皇神武の絶対化が行われていたはずですが、神武天皇祭
が創設されたのは幕末のことです
歴史的に皇位継承資格の根源とされたのは、皇祖神アマテラスでした
つまり皇位継承の正統性の根源を神代に置くことで、初代天皇の絶対化を封じていたのです
旧宮家の人たちは、明治政府の捏造がなければ、養子を禁止した時点で、皇統から除外されていたはずです