>>125
皇統男系説は、謬説です。
「歴代天皇皇親の父親は、全て天皇皇親である」という要素については、二つの説が立てられています。
一つは皇統男系説。
もう一つは皇統双系説で、女帝の子の親王に姓が生じるのを封じるために、女帝と氏族の婚姻を禁止した場合。

古代の成文法である養老律令継嗣令を検証材料に両説を論理検証すると、第一条では「女帝の子も親王」と
され、第四条では皇親女子と氏族の婚姻が規制されているので、双系説と一致。
男系説では、第一条との矛盾解消のために、親王位王位の継承経路と皇位継承資格の継承経路を分離し、
「男系継承の不文法により、皇位継承資格は父から子へ受け継がれていた」という仮説を提示しました。
ところが第四条の婚姻規制の必要性を示すことはできず、そこで論理が破綻しています。
従って、正しいのは皇統双系説。

また近代法の「男系」「女系」という言葉が最初に使用された旧皇室典範の草案「皇室制規(女系容認案)」
では、女帝と皇位継承資格のない男系男子の間に生まれた皇子を、「女系」と定義していました。
つまり、皇統の「男系」「女系」は単なる血縁関係ではなくて、皇位継承資格の継承経路を指しています。
男系説では全ての天皇皇親が男系。
双系説では親王位王位が皇位継承資格なので、親王位王位を男子のみで受け継いでいれば男系、間に
一人でも女子がいれば女系。
そして、男系説は養老律令継嗣令第四条の婚姻規制の必要性を示すことができず、論理破綻。
正しいのは、双系説の定義です。

〈女系天皇女系皇親の実例〉
①和銅8年(715年)吉備内親王の子の膳夫王、葛木王、鉤取王(3世王、父は長屋王)を2世王とする。
②天応元年(781年)能登内親王の子の五百井女王、五百枝王(5世王、父は市原王)を2世王とする。
上記以外で女系天皇・女系皇親と考えられるのは、③孝徳天皇(=軽皇子、皇極天皇の弟、父は茅渟王)、
④漢皇子(皇極天皇の子、父は高向王)、⑤有馬皇子(孝徳天皇の子)。