【悲報】つばきオリメンより人気急上昇中の「リトキャメ」の方が先に辞める可能性
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
河西 母亡くした秘密共有し盤石の絆構築。リーダー候補生
八木 劇団四季芸が痛々しくなって来たが弱男姫の居心地の良さから定年後も残りそう
福田 ことあるごとにつばき頑張りたいアピールワラビーよ
豫風 逆に最も読めないのがこの至宝。Kpopに憧れはないと思うが 薩摩藩と江戸幕府にとっては、琉球を通した朝貢貿易にこそうまみがありました。当時の明は、「柵封」(中国皇帝に対して形式上臣下となる)を受け入れた相手としか貿易をしない「海禁政策」をとっていました。秀吉の朝鮮出兵によって明との関係が断絶し、関係修復をもくろんでいた幕府としても、柵封までは受け入れられないと考えており、むしろ琉球王国を代理的に柵封体制に組み込ませ、朝貢貿易を続けさせることを望んだのです。
このため、薩摩侵攻以後は、琉球の対中国貿易のほとんどは日本の品の輸出に限られていきます。(代表的な輸出品は北海道産の昆布で、17世紀には輸出品の8割は昆布だったといいます)。首里城には薩摩藩の役人が常駐し、貿易も薩摩藩が管理しました。琉球王国には貿易の利益はほとんどなく、年に一度の進貢船を出すごとに赤字だったそうです。
しかし琉球王国としても、対外的に王国が存続していることをアピールするため、たとえ赤字であっても朝貢貿易を続けることは重要でした。
以上のような情勢から、薩摩藩としては、清に「琉球が日本化した」と見られるのは、朝貢貿易を存続させる上では好ましくないことでした。このため、琉球人に対しては、日本風の名乗りの禁止や、琉球衣装(琉装)の強制など分離政策を推し進めることになります。また、薩摩侵攻後に薩摩藩に割譲させた奄美列島についても、琉球王国の役所を置かせ、琉球王国の外観はそのまま存続させました。内政にはまったく干渉せず、王国による自主政策が江戸時代を通して続きます。
また、20~30年に一度、清の柵封使がやってくるときには、ちょんまげ姿の薩摩藩士は姿を隠したそうです。清としては、琉球の情勢について、少なくとも同じ柵封国の朝鮮ほどの関心はもっていなかったようです。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています